グーグーだって猫である
2008年,日本,116分
監督:犬童一心
原作:大島弓子
脚本:犬童一心
撮影:蔦井孝洋
音楽:細野晴臣
出演:小泉今日子、上野樹里、加瀬亮、大島美幸、村上知子、黒沢かずこ、楳図かずお、マーティン・フリードマン
人気漫画家の小林麻子はアシスタント4人とともに久しぶりの読み切りを書き上げる。しかしその間に愛猫のサバが死んでしまっていたことを知る。15歳という大往生だったが、サバを失った麻子は仕事も手につかなくなってしまう。しかししばらく後ペットショップで子猫を見かけた麻子はその子猫を買って“グーグー”と名づける。
大島弓子の同名漫画を犬童一心が映画化。吉祥寺を舞台に暖かい人間ドラマが展開される。
締め切りを間近にした人気漫画家とアシスタント達。そのアシスタントが森三中であってもその雰囲気には緊張感があり、その間に静かに別れを告げる猫のサバの存在もあって、この最初のシーンは魅力的である。だから、語り手の上野樹里演じるナオミも主人公の麻子もすんなりと受け入れられ、その世界にすっと入ることができる。
だから、その後の猫を失った哀しみというか虚しさや、その中で出版記念パーティーに出るということのわずらわしさ、ペットショップの前で躊躇する感覚、それらもよくわかる。しかし、ここで入り込んでくる楳図かずおとマーティン・フリードマンはどうにも邪魔だ。マーティン・フリードマンは吉祥寺という街を紹介するからまだいいが、楳図かずおのほうは吉祥寺で漫画家といえば…というだけで出ているだけで、本編には一切関係がない。彼が悪いわけではないが、その存在が作品の雰囲気を壊してしまっているといわざるを得ないだろう。
それを除けば決して悪い映画ではない。ただ、原作者のファンだという犬童一心監督の思い入れが強すぎたのか、多分に映画的とはいえない語り口になっているのは気になる。物語の語り手は麻子のアシスタントのナオミなわけだが、その麻子への思い入れがそのまま作品に反映され、漫画そのもの(大島弓子の作品)がたびたび登場し、その中の言葉が文脈とあまり関係なく引用される。その語り方が今ひとつテンポを生まないのだ。
それはこの物語の前半が麻子が猫を失い、新しい猫を飼い、一人の男性に出会うということに終始してしまっているかもしれない。それに比べて物語の核となる最後の30分ほどは内容も濃く、プロットの構築も秀逸で非常に見ごたえがある。
それだけに大部分を占める中盤部分の緊張感のなさがどうにも気になる。冒頭でぐっと引き込まれたものが1時間ほどのゆるい時間の中でほどけてしまい、せっかくの内容の濃い最後にも乗り切れなくなってしまう。もっと中盤部分を圧縮して、麻子の再生を描いたとある意味ではいえる終盤に時間を割くことでこの作品のコンセプトがはっきりし、メリハリもついたのではないかと想像する。そうすれば『グーグーだって猫である』という題名が持つメッセージの重みももっとはっきりしたのではないか。
それでも小泉今日子と上野樹里で映画としては成立する。特に小泉今日子は本当にうまいと感じさせる。彼女ももはや中年に入ったわけだが、中年に差し掛かった雰囲気を体中から発しているようだ。加瀬亮も悪くないのだが、小泉今日子の前ではかすんでしまい個性を出そうともがいているのが少しこっけいにも見えてしまう。上野樹里は小泉今日子とは対照的な存在感があるので2人が打ち消しあうことはなく、非常にいいコンビだと思った。
猫と女優を見るためならばなかなかいい作品かもしれない。