三姉妹日記

2002年,日本,39分
監督:清水信貴
脚本:清水信貴
撮影:森田敬二、西浜梓珠子、福本明日香
出演:植村奈緒美、日高真弓、三国由奈、小林正志、若林裕太

川でおぼれていたところを助けられた智子は三姉妹で暮らす家にその命の恩人中山を住まわせる。次女の久美子はそんな智子に納得がいかないが、ちょっと頭の弱い中学生の三女の結子は中山に恋心を抱く。ある日、結子が中学生の三人組にちょっかいを出されているところを見かけた中山は結子を助けようと三人組に詰め寄るが…

映画美学校の卒業制作として作られた作品の一本。不思議なテンポで笑いを織り交ぜながら展開していくシュールなコメディ。映画としてまとまっている一方でコメディにしては遊びに欠ける。

月のある場所』と比べると、こちらは映画としての安定感がある。もちろん映像もそうだが、話の展開もわかりやすく、スムーズに流れていく。映画には必ずリズムというものがある。リズムが整っていればいい映画というわけではないが、この映画には一貫したリズムがあり、それが映画の見やすさにつながっていると思う。

しかし、この映画の性質からすると、そんなにすんなり見られてしまっていいのかという感じがしてしまう。ブラックな笑いをちりばめながら、それすらもスーっと流れてしまうような感じ。せっかくのネタも強調されることなく、「笑える人は笑えばいいよ」とでもいいたげな間がそこにある。

あとは、全体的になんだかセンスが古い、90年代前半か、下手すると80年代くらいのセンス。狙いなのかもしれないけれど、その違和感は最後までぬぐえず、今ひとつ映画に溶け込むことができなかった。

そして、その雰囲気に全体が絡め撮られてしまって、なかなか面白い三姉妹のキャラクターも80年代のぼけたアイドルに見えてきてしまうのももったいないような気がした。

面白かったところといえば、中山が始終同じ格好をしている点か。全体的にはリアリズムとは無縁な、あるいは逆にリアリズムを無視した物になっているのに、そこだけは妙なリアリズムが感じられて面白い。ずっときれいだから、洗濯はしてるんだろうなぁ

月のある場所

2002年,日本,43分
監督:杉田協士
脚本:杉田協士
撮影:松田岳大、川越真樹、西浜梓珠子
音楽:松川光弘
出演:田子真奈美、中村小麦、塩見三省、天光真弓、青木富夫

母親の見舞いに訪れた真奈美は隣のベットで寝ていた少女と枕に置かれていた鈴に目を奪われる。真奈美の声に反応したように見えた少女だったが、少女の叔母の話では反応はするけれど植物状態なのだという。そんな少女の元を何度も訪れるようになった真奈美だったが、ある日枕もとの鈴を持っていってしまい、次に訪ねていったときには少女はすでにいなくなったあとだった…

映画美学校の卒業制作として作られた作品の一本。映画の展開にひねりがあり、物語に引き込まれるが、少々わかりにくいという面もある。映像もみずみずしさを感じさせる部分も多いが、映像が先走った感もある。

ちょっと展開を追うのが難しいというか、話がどう展開しているのか理解するのにちょっと考えないといけないというのはありますが、私は結構そういう映画は好きなのでその点はそれほど苦にはなりませんでした。逆に、その展開の飛び方が非常に映画的というか、観客を映画の側に引き込む効果として面白いという感じ。役者も真奈美と小麦のふたりはなんともいい雰囲気があっていいです。

問題はといえば、なんといってもカメラが語りすぎるところでしょう。この映画は結構パン撮影が多いわけで、それ自体が悪いということではないし、カメラもそれほどぶれたりするというわけでもない。問題は役者が動いたり話したりする前に、繰り返しますが前にカメラが動いてしまう。役者が何かアクションを起こす前に、「そこに何かある」とカメラが語ってしまう。そこがどうも問題です。

やはり映画とはドラマであり、ドラマとは映画の中で演じられるべきものである。それははなから否定することも可能ではありますが、この映画はそれを否定しようとしているわけではない。となると、映画の中でドラマは進行しなければならない。にもかかわらず、観客にとっては映画の「外」であるべきカメラがドラマをおし進める役目を果たしてしまっている。これはやはり映画として大きな問題だと思います。

映像的にはドキュメンタリー風の映画の悪い見本と言わざるを得ないでしょう。光の使い方もなんだか揺らぎがあった気がします。

とはいえ、けなしてばかりもいられない。私がこの映画を評価する点は映画が立ち現れる箇所があったということですね。それを一番感じたのは、微妙に色の違う鈴がぐっとクロースアップになったところ。その画面はこの映画が捉えることのできた何か非常に「いいもの」が映っていました。

他には、縁側に座った真奈美をふっと(ぐっととかふっととかよくわかりませんが)ロングで捉えたところなんかもよかったと思います。

夜を賭けて

2002年,日本=韓国,133分
監督:金守珍
原作:梁石日
脚本:丸山昇一
撮影:チェ・ジョンウ
音楽:朴保
出演:山本太郎、ユー・ヒョンギョン、山田純大、李麗仙、六平直政、不破万作、風吹ジュン

 1958年、大阪城近くの大阪砲兵工廠跡地の近くには在日朝鮮人のバラック街があった。そこにすむばあさんが工廠跡地から拾ってきた鉄くずが高く売れたことからバラック街の男たちが総出で立ち入り禁止の工廠跡地に夜忍び込んで鉄くずを掘り起こすことになった。鉄くずは次々と出てきて、見る見る金が儲かっていったが、警察の取り締まりも日に日に厳しくなっていった。
 在日の作家・梁石日の代表作を劇団新宿梁山泊の座長・金守珍が映画初監督作品として送り出した。韓国に大規模なロケセットを作り、韓国のスタッフも参加して作られた日韓同時公開の日韓合作映画。

 原作が手に汗握る面白さだけに、「映画も…」と期待する反面だいたい原作に映画が及ばないのが通例だという気持ちもぬぐえない。この映画は後者で、やはり原作には及ばずという感じ。同じ原作の「月はどっちに出ている」は映画も十分面白く、原作とそれほど見劣りしなかったのは、原作と映画では作風が違ったからだろう。この映画は原作を忠実に映像化しようという姿勢がある反面、映画的な見せ場としてなのか、韓国へのサービスなのか、ラブストーリーを織り交ぜたり、ちょっとばたばたしてまとまりがなくなってしまった。
 あとは、出てくる人が叫びすぎ、喧嘩しすぎ。喧嘩のほうは多分事実に近いのだろうけれど、私はあまりこういうやたらに暴力的な映画というのはどうもなじめないので、今ひとつという感じでした。
 それから、まったく何の説明もなくチェジュド(済州島)の「四三事件」なんかが出てくるのはちょっとわかりにくいのではという気もします。このあたりは日本版と韓国版で編集を変えるなどして日本人にもわかりやすいように作ってほしかったと思います。チェジュドといえば、『シュリ』でも出てきた朝鮮半島の南にある島ですね。

 それでも、躍動感やわくわくとする感じはあって、悪くないなという気はする。それはやはり原作のアイデアというか、こういう事実を掘り起こして物語にしたというところに最大の面白さがあるのだと思う。
 それから、バラック街はなかなかのもので、これがロケセットというのはそんな大規模な映画を撮れる環境にある韓国をうらやむ気持ちが生まれてきます。大規模なロケセットといえば、なんと言っても黒澤ですが、黒澤までの作りこみは望むらくもないとしても、なかなかよくできたセットなんじゃないでしょうか。贅沢言うなら、もう少しぼろっちくしてほしかった。ちょっと道が平らすぎる気がするし、家がちょっとしっかり立ちすぎている気がします。あれが本当なら結構立派なバラックだったということになってしまいますが、そうだったんだろうか?

西鶴一代女

1952年,日本,148分
監督:溝口健二
原作:井原西鶴
脚本:依田義賢
撮影:平野好美
音楽:斎藤一郎
出演:田中絹代、三船敏郎、菅井一郎、宇野重吉、山根寿子、大泉滉、加東大介、沢村貞子

 若作りの化粧をして男の袖を引く50女のお春、遊女仲間と焚き火にあたる。そして、羅漢のひとつに昔の男の面影を見て、数奇な一生を思い出す。もとは裕福な家の出で、御所に上がるほどだったが、身分の違う男と密会しているところを見つかり、洛外追放となってしまったのだった…
 一人の女の数奇な運命を描いた「西鶴一代女」を女性映画の巨匠溝口が見事に映像化。10代から50代まで演じ分ける田中絹代の熱演も見所。三船敏郎や加東大介などの名優が少しずつ登場するところも見もの。

 「西鶴一代女」は「好色一代男」と対照を成すような物語。「好色一代男」は次から次へと女を渡り歩く男の物語、「西鶴一代女」は次々と男を失ってしまう女の物語である。『西鶴一代女』を溝口が監督したのに対して、『好色一代男』(1961)を増村が監督したのはいかにもという感じで面白い。「男」のほうは能動的に次から次へと女を渡り歩いてはいるけれど、それも抗えない運命に翻弄されているという点では「女」と同じなわけで、それを二人の監督がどう描き分けているのかというのに注目するのも面白い。
 この『西鶴一代女』を中心に話しを進めると、さすがに溝口という感じで、映画に落ち着きがある。30年くらいの歳月を追っていくというよりは、一つ一つのエピソードをどっしりと構え、間の経過を描くことはしない。カットが変わったら10年たっているなんてことも多い。したがって、一つ一つのエピソードのなかでは物語りはゆっくりと進む。それを端的にあらわすのは、人物がフレームから出て行ったあとの空舞台を映すカット。この余韻が溝口らしいところといえる。その空舞台は寂しさをわかりやすく表現しているとともに、観客に考える余裕を与えるのだろう。『好色一代男』の場合、その余韻は作られず、とにかくものすごいスピードでエピソードが語られていく。
 さて、この映画で一番好きな部分であり、「男」との対比にもなると私が思うのはお春が遊女となって越後の金持ちを迎えるというシーン、その男が金をばら撒いても振り向かないお春は『好色一代男』の夕霧(若尾文子)とパラレルである。しかし、もちろん視点は「女」がお春の側にあるのに対し、「男」では世之助(市川雷蔵)の側にある。しかも観客はそのお春と世之助の視点に引き込まれるように操作されているから、ほぼ同じエピソードを見ていてもその見え方はかなり違う。溝口の助監督でもあった増村はこの『西鶴一代女』を意識して『好色一代男』を撮っただろうから、このシーンなどはかなり対照性を明確にしようとして作ったのではないだろうか。

 私がこのシーンでもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。
 ということで、宮崎ファンの人は溝口を見て、溝口ファンの人は宮崎を見て、共通点が見つかったら教えてくださいね。

人情紙風船

1937年,日本,86分
監督:山中貞雄
原作:河竹黙阿弥
脚本:三村伸太郎
撮影:三村明
音楽:太田忠
出演:中村翫右衛門[3代目]、河原崎長十郎[4代目]、助高屋助蔵、市川笑太郎、市川莚司(加東大介)

 とある長屋で首くくりがあった。長屋の人たちは大騒ぎするが、向かいに住む髪結いの新三は気づかず寝ていた。奉行所で取調べを受けたあと、新三は大家にみんなで通夜をしてやろうと提案し、けちな大家から5升の酒を出させる。皆が酒を飲みながら大騒ぎする中、新三の隣に住む浪人ものの海野だけは内職で紙風船を作る奥さんと二人で過ごしていた…
 28歳で夭逝し、監督作品はわずか3本しか現存していない天才監督山中貞雄の監督作品のひとつで、この作品は遺作に当たる。実際は20本以上の作品を監督したといわれ、その20本の映画は日本映画界が失った最も貴重な財産のひとつであるといえる。

 この監督の演出のさりげなさをみると、小津安二郎が魅了されたというのもうなずける。映像はよどみなく流れ、人物像もシンプル、この映画では髪結いの新三というのがとてもいいキャラクターで男でもほれそうな感じ。だからといって新三がひとり主人公として立っているわけではなく、新三と海野のふたりがともに主人公となる。そのもうひとりの主人公である海野はたたずまいがとてもいい。映画が作り出したキャラクターというよりは、この河原崎長十郎という人のキャラクターがいいのでしょう。この人は川口松太郎が脚色し、溝口が演出した『宮本武蔵』(1944)で武蔵をやっているそうなので、このキャラクターで武蔵をどうやったのか興味を惹かれます。
 山中貞雄の話に戻りますが、画面の印象としてはロングめの映像が多い感じがしました。長屋でも事件が起こるのは長屋の一番奥にある部屋で、それを長屋の手前から撮っている。そのようにして奥行きをつくるということを意識的に行っている気がします。このやり方が面白いのは、人の興味を奥にひきつけておいて、手前でいろいろなことをできるということでしょう。人がフレームインしてきたり、フレームアウトしたり、それを見るとうまいなぁと感心してしまいます。
 『丹下左膳余話』のときも思ったのですが、この監督の作品はどうも文字で表現しにくいようです。文字で表現してしまうとちっとも面白さが伝わらない。「さりげなさ」とか「粋」とかいう言葉を使って表現するしかない。
 とにかく登場人物が魅力的で、さりげなく粋な画面を作っている。ということです。物語のほうも甘くなりすぎず、しかし人情味にあふれていて、現実的でありながら、突き放す感じではない。というところです。
 見る機会があったらぜひ見てほしい一作であることは確かです。ビデオやDVD化も待たれますが、やはりこの画は大きい画面で見たほうが堪能できるような気がします。