真夜中のカウボーイ

Midnight Cowboy
1969年,アメリカ,113分
監督:ジョン・シュレシンジャー
脚本:ウォルド・ソルト
撮影:アダム・ホレンダー
音楽:ジョン・バリー
出演:ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト、ブレンダ・ヴァッカロ、シルヴィア・マイルズ

 故郷テキサスを後にし、ニューヨークへと向かうジョー。彼はカウボーイスタイルで金持ちの女を引っ掛けて金を稼ごうと考えていた。しかし冷たい群衆の街ニューヨークで彼の計画は思うように進まなかった。そんな彼はある日、バーで足の不自由な小男ラッツォと知り合う。
 60 年代後半の生のアメリカ、二人の名演技、耳に残るテーマ曲、斬新な映像、どれをとっても当時のアメリカ映画の最先端を行っていただろうと思わせるアメリカン・ニュー・シネマの傑作。

 69年という時代、ヨーロッパではヌーベルヴァーグがもてはやされ、アメリカではインディペンデント映画が興隆した時代。ハリウッド映画の斜陽が囁かれはじめた時代。アメリカ社会はこの映画で描かれているような閉塞感に苛まれ、都市の人々の孤独かが進み… などという社会批評が頭をよぎる。リースマンが宣言していた群集の孤独化は間違いなく進んでいたのだろう。
 その「都市の孤独」がこの映画では(意図的に)強調されている。ジョーは故郷でも必ずしもいい思い出ばかりがあるわけではないけれど(過去をはっきりとさせないところもこの映画の秀逸な点の一つであるがこれは余談)、彼が夢を抱えてやってきた都会でであったのはより深い絶望であった。それは顔のない群集であり、行き倒れている人に見向きもしない孤独な人々である。「信用」というものが存在しない社会、そこで見出したラッツォとの友情(と呼んでいいかどうかは微妙)が彼にとってどのような意味を持ったのか? ラッツォのために初老の男を殴るとき、彼の頭によぎったものは何だったのか? そして息絶えてしまったラッツォの頭越しに眺めるフロリダの(街の)風景はどのような印象を彼に与えたのか?
 そこに浮かんでくるのは再び「孤独」。一瞬のかりそめの友情に孤独を忘れた彼が再び直面する孤独。それをどう受け取るかは映画「後」のわれわれの営為だけれど、わたしには永劫回帰する閉塞的な孤独しか浮かんでこなかった。しかし、この映画はそれでよくて、逆に希望にあふれた終わり方をしてしまったら私にとってはなんとも後味の悪い映画になってしまったことだろう。

愛の奇跡

A Child is Waiting
1963年,アメリカ,102分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:アビー・マン
撮影:ジョー・ラシェル
音楽:アーネスト・ゴールド
出演:バート・ランカスター、ジュディ・ガーランド、ジーナ・ローランズ、スティーヴン・ヒル

 知恵遅れのための施設に連れてこられた一人の少年ルーベン。その施設はクラーク博士のもと新しい試みを行っていた。そこに新任の音楽教師ジーン・ハンセンがやってくる。ジーンはルーベンには2年間面会が来たことがないと聞き、徐々に彼に愛情を注ぐようになるが…
 「手錠のまゝの脱獄」などで知られるスタンリー・クレイマーのプロデュースによって、カサヴェテスが監督した作品。前作の「アメリカの影」とはうって変わって非常にオーソドックスなつくりになっているのは、カサヴェテスの思い通りには撮れなかったことを意味しているのだろう。

 時代もあるのだろうけれど、差別意識というか、精神病者や知恵遅れに対する意識の違いというものを感じる。だからというわけではないですが、映画そのものにあまり入り込めない。こういうなんだか行き先のはっきりしているストーリーだとカサヴェテスのよさが消されてしまうというか、カサヴェテスの荒っぽさが逆にあらに見えてしまって、ただ退屈になってしまう。時折カサヴェテスらしいカットがあったりするのだけれど、なんとなく退屈な感じです。
 なかなか表現するのは難しいですが、カサヴェテスの緊迫感が全体的に緩められてしかも単調になったという感じ。

女の勲章

1961年,日本,110分
監督:吉村公三郎
脚本:新藤兼人
撮影:小原譲治
音楽:池野成
出演:京マチ子、若尾文子、中村玉緒、叶順子、田宮二郎、船越英二

 新設の洋裁学校に入り込んだ胡散臭い実業家銀四郎は実務では手腕を発揮して、学校をどんどん拡大していく。胡散臭いと思いながらも銀四郎のペースに巻き込まれていってしまう院長と一番弟子たちを描いた、濃い目のドラマ。
 昨年11月にこの世を去った吉村監督の作品の中でも、比較的マイナーな作品だが、出演者陣は豪華。ドラマが濃密で、いやむしろ濃密過ぎて110分という時間がかなり長く感じられる、充実した作品。

 吉村公三郎は光の作家であるとこの映画を見て思った。冒頭のシーンからずっと後姿だった銀四郎が振り返っても、彼の顔に光は当たらず、逆行の中去ってゆく。
 しかし、最初のうちはそんな光加減よりも、セリフの多さに圧倒され、物語についていくのに必死である。しばらく経ってそれが落ち着くと見えてくるのは光。特に逆行を使って顔を影にする効果(どことなくヒッチコックを思わせる)はこの映画の最も特徴的機名部分といえるだろう。
 その他にも光を意識させる部分が多くでてくる。たとえば灯りの着いた部屋を暗い廊下側から眺める場面など、壁の部分が完全に黒く、明るい部屋との対比をなしている。この「壁」は増村もよく使う方法だが、増村の場合光を利用するというより、例えば画面の右半分を壁でふさいでしまうなどして構図に工夫をするために使う。吉村の場合は大概部屋は画面の真中にあり、光と影の対比が強調されている。
 もう一つ印象的な光の使い方は、暗い部屋や廊下に差し込む光が顔を照らすというもの。ある意味では陳腐な方法だが、スポットのように照らされた顔に浮かぶ表情はやはり非常に印象的である。他にも夜には窓の外に必ずネオンサインがあったり、「光」を使った演出が非常に多く、しかも巧みである。

フェイシズ

Faces
1968年,アメリカ,128分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:アル・ルーバン
音楽:ジャック・アッカーマン
出演:ジョン・マーレイ、ジーナ・ローランズ、シーモア・カッセル、リン・カーリン

 ある会社のオフィス、社長が幾人かの客を出迎えて、映画を見せる。その映画が「FACES」。映画はこの劇中劇として進むが、映画を見せる社長自身が主人公リチャードである。
 リチャードは友人と娼婦ジェニーの三人でのんだくれ、楽しい一夜を過ごす。その日は何もせずに帰ったリチャードだったが、ジェニーに惚れ込み、次の日には妻につい「離婚しよう」と言ってしまう…
 カサヴェテスが家を抵当に入れ、俳優業で稼いだ資金をすべてつぎ込み、ボランティアのスタッフに頼り、完全独立資本で作成したインディペンデント・フィルム。この映画を見ると、映画というものが一回性のものでもう二度と同じ物は撮れないのだということを実感させられる。

 「フェイシズ」という題名の通り、執拗に映し出されるのは顔・顔・顔、しかも周到に用意された空虚な笑い、その笑いがクロースアップで繰り返し々映し出される様はいらだたしい。しかし、そのいらだたしさは、快感へ向けた茨の道。「アメリカの影」でも述べたように、カサヴェテスのフィルムの魅力の一つは前半の苛立ち・焦燥感にあると私は思う。だからその焦燥感が映画の3分の2、下手すると4分の3にわたっても決して苦痛ではない。
 そして、ようやく快感がやってきたのはリチャードがジェニーと二人っきりになれた場面。そして、納得がいったのはその次の朝、リチャードが「普段の君を見せてくれ」と言い、「真面目なんだ」とそれこそ真面目な顔でつぶやくシーン。その瞬間私の頭の中ではそれまでのシーンが一気にフラッシュバックされ、あらゆる笑い顔の奥の真の意味に気づく。「フェイシズ」の複数は、いろいろな人々の顔ではなく一人の人間の複数の顔を意味している。彼らの笑い顔のあけすけな空虚さはこのときのために周到にしつこいまでに繰り返されたのだということ。
 つづく妻のエピソードはそんな考えを強化する。妻のマリアだけが複数の顔を持たない。夫にもチェットにも同じ顔で接する。そしてチェットは複数の顔を持つ男。このシーモア・カッセルはかなりいい。顔を歪ませるような笑顔がなんともいえない。

アルジェの戦い

La Bataille d’Alger
1966年,イタリア=アルジェリア,122分
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
脚本:フランコ・ソリナス
撮影:マルチェロ・ガッティ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ

 少年の頃から犯罪を繰り返してきたアリは街角でもぐりの賭博をして、またつかまった。しかし彼は刑務所でひとりの囚人が処刑されるのを眼にする。釈放後独立運動に加わった彼はその無謀とも言える勇敢さでリーダーとなっていく。
 1950年代後半から1960年代にかけてアルジェリアでは独立運動が展開され、独立戦争と言える規模に発展した。その初期に解放戦線のリーダーのひとりであったアリ・ラ・ポワンテを中心に解放戦線の活動を描いた作品。

 これはもちろん一つの革命映画である。しかし、ある程度完了した革命を記憶するためものとして作られている。プロパガンダとしてではなく、記録として。この映画がそういったものとして評価されるときにおかれる力点は「客観性」ということだろうと思う。解放戦線の側に肩入れしていることは確かだが、必ずしも解放戦線を無条件に賛美しているわけではない。無差別テロの場面を描けば、一般のフランス人を殺す彼らに反感を覚えもする。
 しかし、この映画の革新的なところはアルジェリア人の側(被植民者の側)にその視点を持ってきたということである。それまでは確実に「西洋」のものでありつづけた映画を自分たちのものにしたこと(それがイタリア人の監督の手を借りたものであれ)には大いに意味があるだろう。
 ただ、今見るとその「客観性」がまどろっこしい。アルジェリア人の視点に立つならばアリを徹底的にヒーローとして描くほうが分かりやすかっただろうに。なぜか…、と考えると、観衆としての西洋の人たちが浮かんでくる。この映画はイタリア映画で観衆の中心はヨーロッパの人たちだろう。その人たちに映画を受け入れさせる(ひいては映画の背景にある革命の精神を受け入れさせる)ためには、フランス人を完全な「悪」の側にまわすわけには行かないというところだろうか。視点をはじめからアルジェリア人の側に固定するのではなく、視点のゆらぎを利用しながら徐々にアルジェリア側への同一化作用を狙う。それがこの映画の戦略なのではないかと思う。

陸軍中野学校

1966年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:星川清司
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:市川雷蔵、小川真由美、加東大介、早川雄三、E・H・エリック

 会田次郎は陸軍士官学校を卒業し、婚約者に送られた軍服を着て晴れて中尉として入隊を果たした。しかし会田が配属された連帯の草薙中佐におかしな質問を受け、いく日か経ったある日出張を命じられた。しかし、行ってみるとそこには士官候補生ばかりが18人集められ、スパイになるための教育を受けることを命じられたのだった。そして彼らはスパイになるため名も捨て、家族も捨て、将来も捨てた。
 勢いがあってクレイジーなストーリーがなんといってもすごい。人気シリーズとなりその後何本か続編が作られたが、増村保造は監督はしていない。

 本当にものすごい話。本当の話かどうかはわからないが、映画を見る限りでは戦争当時語られた話を基に作られたようだ。とにかく圧倒されてしまったが、とにかくクレイジー。それも挙国一致の軍国主義的なクレイジーさではないところがすごい。そしてその徹底振りがすごい。まったく人間性の入り込む隙間がないという感じであるのに、じつは中心にいる草薙中佐はひどく人情深い人間であるということ。決して人を人とも思わない非情さではない非情さであるところがすごい。
 む、このレビューはまとまらない予感がします。なので、とにかく思いついたことを羅列。
 草薙中佐の話し方が早い。初期の作品を思い出させるような早い台詞回し。それもまたクレイジーさあるいはストイックさを強調する。
 増村の映画には時折非常に無表情な登場人物が出てくるが、この映画の市川雷蔵もそのひとり。もちろんスパイという役柄だからだろうが、とにかくまったく表情がない。あるとすればかすかに眉間にしわが寄るくらい。しかしそこには常に緊迫感が漂い、迫力がある。
 草薙中佐のコンセプトがすごい。しかし、よく考えてみると、陸軍そのものをひっくり返すとか、植民地を解放するとか、今から考えればすごい説得力のあることだけれど、当時はひどく突飛というか、ある種、反逆的な発想だったんじゃないかと思う。それなのに生徒たちがついてきてしまうというのは、物語としておかしいの?でも、見ている時点ではまったくそんな疑問は浮かばなかった。

クルーゾー警部

Inspector Clouseau
1968年,アメリカ,92分
監督:バッド・ヨーキン
原作:ブレイク・エドワーズ、モーリス・リッチリン
脚本:トム・ウォルドマン、フランク・ウォルドマン
撮影:アーサー・イベットソン
音楽:ケン・ソーン
出演:アラン・アーキン、フランク・フィンレイ、デリア・ボッカルド

 列車強盗事件の一味が新たな犯罪計画を立てていることを突き止めたスコットランド・ヤードはフランスから名警部クルーゾーを呼び、事件を任せることにした。署長は署内にもスパイがいるといい、クルーゾーに警戒するようにいうのだが…
 「ピンクの豹」でおなじみとなったクルーゾー警部が活躍するアクション・コメディ。今回はアラン・アーキンがクルーゾー警部を演じる。おそらく、ピンク・パンサーをアメリカ版として作ったのだろう。イギリス独特の妙な笑いの間がなくなり、すっと入っては来るのだが、なんだか物足りない気もする作品。

 「ピンクの豹」のリメイクというわけではない。かといって続編でもなさそう。やっぱりアメリカ版なのでしょう。ピンク・パンサー・シリーズは「ピンクの豹」に始まり、何本も作られているけれど、この作品は「ピンクの豹」と「ピンク・パンサー2」の間に作られている。監督もオリジナルのブレイク・エドワーズではない。主演もピーター・セラーズではない。つまり、おそらくピンク・パンサー・ファンはこれを認めない。私もあまり認めたくない。ピンク・パンサー・ファンでは決してないけれど。
 しかし、あくの強いピンク・パンサーと比べるとこの映画はすっきりとしている。イギリスの笑いに独特な妙に粘っこい間がないので、すっと入っては来る。でも、この映画はちっとも笑えない。面白くないわけではないけれど、笑わせようとしているところがすっかりわかってしまい、素直に笑えない。予測が出来てしまっては、この手のネタでは笑えない。したがって、ただのサスペンス映画になってしまう。
 ということで、なんだか中途半端な感じがしてしまう作品。

1963年,日本,93分
監督:増村保造、吉村公三郎、衣笠貞之助
脚本:白坂依志夫、笠原良三、新藤兼人
撮影:石田博、小原譲治、渡辺公夫
音楽:芥川也寸志
出演:滝瑛子、ジェリー藤尾、江波杏子、叶順子、川崎敬三、益田喜頓、乙羽信子、森光子、船越英二

 増村・吉村・衣笠という人気監督を集めて撮られた三話オムニバスの映画。
 第一話:プレーガール
 何人ものボーイフレンドを掛け持ちする短大生の万里子だが、本命の菊村には美恵というガールフレンドがいて…
 第二話:社用2号
 スポンサーの社長のコネでドラマに出演している新子は自分がドラマを降ろされたことを知って愛人である社長に訴えるが…
 第三話:三女体
 田代幾馬が愛人の道代にピストルで殺される。彼の死をめぐって警察と道代と本妻の安子が繰り広げる騒動の顛末は…

 それぞれ簡単に感想を。
 第一話は増村的世界であるようで、まだ入っていないというイメージ。主人公の万里子は増村が好むキャラクターだが、いかんせん30分という時間は短すぎたか、これから物語が始まるぞという感じがしてしまう。もっと主人公のキャラクターを膨らませて、プロットを複雑にすれば増村作品一本出来上がりという作品かな。
 第二話はかなりいい。吉村公三郎の作品はあまり見たことがないけれどこの作品はコメディタッチでありながら、女の生き様をしっかりと捉えている感じがする。そのあたりなんとなく増村と似ている。あるいは増村が吉村の影響を受けているのかもしれない。「女経」でもいっしょにやっているし、「暖流」など吉村作品を増村がリメイクしている(あるいは同じ原作を映画化している)作品もいくつかある
。  第三話は前二つとだいぶ趣が違う。衣笠というと時代劇という印象があって、こういう現代劇はあまりイメージがない。この作品は役者はかなりよくて、乙羽信子の演技なんかはすごいのだけれど、ほとんど全部の場面を語りにしてしまったので、いくら回想シーンが入るとはいえ動きが少ない印象になってしまった。

爛(ただれ)

1962年,日本,88分
監督:増村保造
原作:徳田秋声
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:若尾文子、田宮二郎、水谷良重、丹阿弥谷津子、船越英二

 増子は恋人の浅井に妻がいることを知った。浅井は妻と別れて増子と結婚するというが、増子は「奥さんに悪い」とか「寝覚めが悪い」といってあまり賛成していなかった。しかし結局妻と別れることを浅井は決意した。そんな時、増子の姪の栄子が浅井と増子の家に転がり込んできた。
 女同士の骨肉の争いという増村のもっとも得意とするジャンルを一種の群像劇として撮った作品。増村×若尾の10本目。ともに脂の乗り切った時期の作品。

 女同士の骨肉の争いを撮らせたら増村は世界一の監督だと思う。狂い死ぬ前妻、増子も狂気の一歩手前かあるいは一歩踏み込んだところまで追い込まれる。皆がふてぶてしく生き、生命を賭して戦っている感じ。この感じを出すのはすごい。
 この映画で特にそれが気になったのは音。ラーメンをすすったり、お茶をすすったりする音、病室で聞こえるカラスの声、それらは不自然に大きく強調され、見ている側の神経を逆なでする。それは劇中の人たちの気持ちの苛立ちをも表しているのだろう。
 構図は相変わらず。奥の人物にピントを合わせて前景をぼかしたり(しかもボケている部分が、画面の3分の2くらいを占める)、画面の中で要素を偏らせたりする構成にしびれる。