Hole


1998年,台湾=フランス,93分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン
撮影:リャオ・ペンロン
出演:ヤン・クイメイ、リー・カンション

 2000年まであと7日と迫った台湾。あるマンションで謎のウィルスが蔓延し、隔離する措置がとられていた。そこに住む若い男は地下の市場で乾物屋を営む。その男のところに下の階で漏水しているので調べさせてくれと水道屋がやってくる。下の階には女性が住み、異常なほどの水漏れで家はビチョビチョだった。
 近未来を舞台に、ミュージカル的な要素も織り交ぜた異色作。かなり不可思議な空間だが、何故か心地よい。

 まっとうな映画を見ている人のまっとうな反応はおそらく「なんじゃ、コリャ」というもの。全くわけがわからない。ストーリーもわからなければ、途中で挿入される妙に長い歌のシーンもわけがわからないということになる。小難しく映画を見ている人は、何のかのと解釈をつける。世紀末とか、懐古主義とか、閉鎖空間とかそういった感じで、多分精神分析的に見たりすることもできる。
 しかし、わたしはこの映画はなんとなく見るべきだと思う。目に飛び込んでくるもの、耳に流れ込んでくるものをただただ受け入れる。そこに間があって、何かを思考できる時間があっても、そんなことはやめて映画がパズルのように頭の中に納まっていくのを待つ。答えを得ようとするのではなく、そこに何かひとつの空間が立ち上がってくるのを受け入れる。そのような見方をしたい。
 と、言いながら、それを解釈してしまうのですが…
 そのようにしてみると、この映画に存在するのはひとつのカフカ的な空間であり、しかしそれは決して悲劇的ではない。階上の男は孤独という迷宮に、階下の女は水という迷宮にとらわれているわけだが、その独立して存在するはずの2つのカフカ的迷宮がひとつの穴によってつながったらどうなるのか、全体としてはそのような映画なのだと思う。
 そこに挿入される歌はいったいなんなのか? この解釈はおそらく自由、投げ出されたものとして存在しているでしょう。映画とは直接関係のなさそうな歌詞と映像。映画のために作られたのではなく、もともとあった音楽なので、それは当たり前なのですが。おそらくこの映画は音楽のほうから作られている。ひとつの高層があり、そこにあう音楽を探したのではなく、まず音楽があって、そこから映画ができた。グレース・チャンという一人の昔の(50年代ころらしいですが)スターがいて、その音楽がつむぎだす時代と世界というものがある。それに対して現代(あるいは近未来)というものがある。そこのすりあわせで生まれてきた世界がこの映画であるということなのだと思います。
 「Hole」は2つの部屋(カフカ的迷宮)をつなぐ空間的な穴であると同時に、過去と現在をつなぐ時空間的な穴でもあるのかもしれません。
 このレビューを読んでさらにわからなくなった人。あなたは正しい。

戦争の記憶

Kippur : War Memories
1994年,イスラエル,104分
監督:アモス・ギタイ
撮影:エマヌエル・アルデマ、オフェル・コーエン
音楽:ジーモン・シュトックハウゼン、マルクス・シュトックハウゼン
出演:アモス・ギタイ

 アモス・ギタイはヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)に参加した際、8ミリカメラを持参し、兵士の救援へと向かうヘリコプターから撮影を行った。その撮影されたフィルムと、当時ともにヘリコプターに乗っていた仲間との戦場への旅、戦死してしまった当時の副操縦士の家族へのインタビューなどを通して、当時を振り返る。
 2000年に制作された劇映画『キプールの記憶』のもとになった作品。

 ヘリコプターの操縦士が当時を振り返って、「あの記憶は一種のトラウマになっている」と言う。心理学的な意味のトラウマとは少し違うかもしれないが、その意味が消化できない記憶であることは確かだろう。その記憶は他に類を見ないくらい強烈な記憶であるにもかかわらず、その記憶は自分の頭の中で収まるべきところを見つけられない。他の記憶と折り合いがつかないそのような記憶として頭の中にある。アモス・ギタイ自身も他の戦友たちもそのことを明言することはないけれど、それが強烈な記憶であり、忘れたくても忘れられないものであることは明らかだ。
 この映画は2部構成になっているが、前半部では、その記憶の整理が行われる。その細部がそれぞれに異なっている記憶をすり合わせていく。別にひとつの正当な見解を合意として打ち出していくわけではないが、他の人の異なった記憶を聞いているうちに、その記憶が、おそらく映像とともに蘇り(挿入されるギタイの撮影した白黒の8ミリフィルムはその記憶のフラッシュバックを象徴しているような気がする)、ばらばらな悲惨な記憶としてではなく、ひとつの記憶のブロックとして認識できるようになる。これはその記憶を自分の頭の中で消化し、収まりをつけるための第一歩になるのだろう。副操縦士の遺族に会うということも、その記憶が決して現在と断絶したものではなく、今につながるひとつの現実であうということを再認識させる。これもまた記憶の消化の一助となるだろう。
 後半部ではともに戦場へと赴き、戦場でもともに行動した親友ウッズィとの語らいになる。『キプールの記憶』によれば、二人は近所に住んでおり、もともと下士官であり、戦争が始まると聞くや否や焦燥感に駆られて車を飛ばして部隊に向かったが、本来の部隊にたどり着くことができず、ちょうど作戦行動を行おうとしていた救援部隊に参加することになったと言うものであった。この映画の話の断片から判断するとその流れはほとんど事実であると言っていいのだろう。そのような親友との語らいはギタイが実際に自らのトラウマを溶かしていく場だ。親友の話を聞くという設定でありながら、ギタイ自らが被写体となり、徐々にギタイの語りが中心になっていく。これは偶発的な出来事と言うよりはギタイ流の映画的作為という気がするが、それが作為であろうと偶発的な出来事であろうと、そのアモスの語りがアモス自身の記憶の再構成の過程であることに変わりはない。
 個人的なトラウマとして戦争を忘れたいと言うウッズィに対し、アモスはカメラを使うことで個人的な観点を超えた形で戦争を考えたいと語る。「なぜ自分たちは生き残ったのか」そんな重い疑問をアモスは投げかける。個人的な痛みと、映画監督を選択したことによる使命、その両方を自覚しながらアモス・ギタイは揺れ動き、親友との対話を終える。そこに答えはなく、親友に「しっかり映画を撮ってくれ」と励まされるのだった。その親友の励ましへの答えとしてアモス・ギタイは『キプールの記憶』を撮ったのだろう。そして、この作品は「戦争3部作」の第1作として構想されている。今後2作を通してパレスティナ紛争の全貌を整理して提示するのだろう。それは個人的な記憶の消化の作業でもある。

エルサレムの家

A House in Jerusalem
1998年,フランス=イスラエル,89分
監督:アモス・ギタイ
撮影:ヌリット・アヴィヴ

 1980年、”Bayit”(『家』)という作品で取材した東エルサレムにある家に再びやってきたギタイはその家とその家があるドルドルヴェドルシェヴ通りに今住むイスラエル人の人たちや、本来の所有者であったが追い出され、別の場所に住んでいるアラブ系の人たちへの取材を通して双方の関係を描き出す。
 ドキュメンタリーといいながら、どこか作りものじみた印象がある映画。もちろん「ドキュメンタリーだ」と宣言しているわけではないし、ドキュメンタリーであっても、作り物であってもかまわないのですが…

 主役といえるアラブ人の親子。下もとその「家」の所有者で、その父親がギタイの『家』に出ていたというアラブ人親子は英語で話し、カナダ国籍をとったという。彼らはイスラエルのアラブ人で、それは国籍がないということを意味する。彼らはカナダ国籍をとれたことはラッキーだったと語る。そんな父親は病院を経営しているらしい。この父娘の話は見ているものの心にすっと入ってくる。彼らはその土地に愛着を持ち、ユダヤ人を敵視してなどはいない。ともに生きられればいいのにと望みながら、その選択を誤ったアラブ人の過去を非難したりする。
 それに対して、ドルドルヴェドルシェヴ通りに住むイスラエル人たちはスイス出身であったり、ベルギー出身であったりする。しかも、彼らはイスラエルを住みよい国だという。しかし、ヘブライ語は話さず、自分自身の言語は捨てない。ギタイがたずねる「ドルドルヴェドルシェヴ通りの意味」についても、人から聞いたあやふやな話をするだけで、明確な答えは提示できない。
 発掘作業場が出てくる。そこにはアメリカから来たというユダヤ人の若い女性と、アラブ人の労働者がいる。ユダヤ人の女性はそこで働いているのではなく、祭礼浴をしていた。彼女は「ユダヤ人もアラブ人も土地を奪われた犠牲者だ」というようなことを言う。
 このようなことでわたしの心に浮かぶのは、ユダヤ人に対する反発だ。それは多くのユダヤ人が自らの立場に意識的ではなく、あるいは無知であるということだ。自らの加害者性を意識することなく安穏と生きているように見える。そこに憤りを覚えずにはいられない。
 イスラエル人であるギタイはここで何を語ろうとしているのか。彼は明確なメッセージを語ろうとはしない。暴力化するイスラエルを危惧する場面はある。おそらく彼はイスラエルが抱える二重性に注目しているのだろう。本来住むべきである家を奪われたアラブ人と現在そこに住んでいるイスラエル人との対比によって、娘が西エルサレムでアラビア語で話すことの怖さによって、エルサレムという都市とイスラエルという国家の二重性を明らかにするのだろう。

ネゴシエーター

Metro
1997年,アメリカ,117分
監督:トーマス・カーター
脚本:ランディ・フェルドマン
撮影:フレッド・マーフィー
音楽:スティーヴ・ポーカロー
出演:エディ・マーフィー、マイケル・ラパポート、マイケル・ウィンコット、キム・ミヨリ

 犯人と交渉することを専門的に担当する刑事ネゴシエーターのスコットは、人質を守るためなら犯人を撃ち殺すこともためらわない。一匹狼的に仕事こなすスコットに署長は元SWAT新人マコールを教育するように命ずる。新人教育といっても、それは常に現場で行われる…
 今ひとつ役に立たない、あるいは愛称の悪い相棒を持つのはエディ・マーフィーのひとつのパターン、しかも喋りが仕事のネゴシエーターということで、はまり役であることは間違いなく、全体にまっとうなアクションになっている。

 『48時間』『ビバリーヒルズ・コップ』という刑事ものをしっかりと踏襲して、普通に作られたアクション。それはつまり面白くはあるけれど、今までのものほどは面白くないということ。デビュー作といえる『48時間』の衝撃、『ビバリーヒルズ・コップ』の展開の新しさは望むべくもないが、それぞれの続編となら比べられるくらいの出来。エディー・マーフィーといえば、コメディアンなので、どうしても笑いの要素を求めてしまいがちだが、この映画は笑いをかなり抑え目にしている。しかも、スーパーマン的なキャラクターではなく、どこか間が抜けたような、人間らしい設定になっている。エディ・マーフィーというと喋りを中心にして周囲の人を圧倒するというキャラクターが多いのに、ここではそうではない。それで特別面白くなっているというわけではないけれど。
 やはり、エディ・マーフィーは昔のほうが面白かった。上の2つ以外でも『大逆転』『星の王子』なんかは面白い。しかし、はずれも多く、『ゴールデン・チャイルド』『ハーレム・ナイト』『ブーメラン』あたりは目も当てられない。などといいつつ、これだけの作品を見ているので、わたしはエディ・マーフィーが好きらしい。最近は『ナッティ・プロフェッサー』と『ドリトル』といったファミリー向けコメディに力を入れているのはきっと子供がかわいいのでしょう。
 エディ・マーフィーを見るならやっぱり『ビバリーヒルズ・コップ』。この映画はそれを思い出させてくれる映画でした。

ギター弾きの恋

Sweet and Lowdown
1999年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:フェイ・チャオ
音楽:ディック・ハイマン
出演:ショーン・ペン、サマンサ・モートン、ユマ・サーマン、ウディ・アレン

 ギタリストのエメットはジャンゴ・ラインハルトを除けば、世界で1番うまいと自認し、実際聞くものみなをひきつける腕の持ち主。しかし、酒でステージをすっぽかすことも多く、趣味はねずみを拳銃で撃つことと汽車を眺めることというかなりの変人。そんな変人の生涯をインタビューと再現ドラマで語ろうというドキュメンタリー風伝記。
 感動的なお話で、ショーン・ペンの演技はなかなか。ギターの音もとてもいい。しかし、ウッディ・アレン自身が冒頭に登場し、作りものじみたつくりになっているところがあまり…

 要するにこれは、ドキュメンタリー風ドラマを装った完全なドラマなわけで、映画の構造もウディ・アレンの遊びなわけです。おそらく、ジャズ好きのウディ・アレンが古きよき時代の雰囲気を引っ張り出すために作り出したキャラクター。最初は本当にいたのかと思わせるけれど、徐々にフィクショナルな人物であることがわかるという感じ。
 最後の2人の関係は『カイロの紫のバラ』ににて、なかなかいい。おそらくハティは結婚なんてしていなくて、でもエメットにはそういってしまった。その後の結末がちゃんとついているところは『カイロ…』と違うように思えるけれど、消息不明というところで、いろいろな可能性が考えられる。たとえば、やっぱりハティのところに戻り、ハティと一緒になったとか。
 というラストあたりの感情の機微以外は特に見るものはなく、後は音楽がなかなかいいというくらいのもの。さすがにギター弾きの映画だけあって、ギターの音色には気を使っていて、響き方でエメットのものだとわかるような音の使い方をしていたのが印象的。
 やはり最初からウディ・アレン自身が出てきてしまったのがよくなかったのでしょうか。こんな変なドキュメンタリー風ドラマにしないで、ひとつの架空の人物のドラマとして描けばこんなつまらないことにならなかった気もします。ストーリーテラーとしては一流だけれど、映画作家としてはやはりどうなのかというのが感想になってしまいました。どうも映画に対するスタンスが中途半端で、『カイロ…』の映画に対する哲学的な姿勢はたまたまなのかと思ってしまう。それとも真摯に映画に取り組むことに対するテレがあるのか…

我が人生最悪の時

1994年,日本,92分
監督:林海象
脚本:林海象、天願大介
撮影:長田勇市
音楽:めいなCo.
出演:永瀬正敏、南原清隆、楊海平、宍戸錠

 黄金町の名画座・横浜日劇の2階に事務所を構える私立探偵の濱マイク(本名)やってくる以来は人探しばかりだが、人探しのスペシャリストとして仕事はしっかりこなしていた。そんなある日、仲間と雀荘でマージャンを打っていたところ、やくざ風の男が、日本語のたどたどしい店員のヤンにいちゃもんをつけたことがきっかけで、喧嘩に巻き込まれてしまう。
 林海象×永瀬正敏の「濱マイク」シリーズの1作目。コミカルさも併せ持つスタイリッシュな1作。

 鈴木清順が掘り起こされたのは90年代、アメリカでタランティーノが『レザボア・ドックス』を撮ったころ。この作品も鈴木清順に敬意を払い、エースの錠を復活させて、鈴木清順の流麗なカメラをまねる。拳銃を持ってにらみ合う二人を切り返しではなく、移動カメラで捉える。その捉え方に清順の影を見る。
 日本映画にはありえないようなスタイリッシュな格好よさも清順ゆずりか、あるいは、ともに清順を消化したアメリカのインディーズ映画の影響か。懐から武器を取り出そうとするヤンをほんのわずかな動作で止める濱マイクの格好よさは日本映画にはなかなかない。ともあれ、全体を通じるスタイリッシュな感じというのは、清順であり、タランティーノであるとわたしは思います。
 ところで、その武器を取り出そうとしたところですでにヤンの素性にある程度感ずいていたはずのマイクを最後まであくまでヤンの味方に、ヤンを信じさせるように仕向けるものはなんなのか? マイクがそこまでヤンに肩入れする理由はなんなのか? 映画の中でも問いが投げかけられるがそれに対する答えはない。そして映画の中からそれが伝わってくることもない。そのあたりを緻密に描ければ、スタイリッシュであると同時にロマンティックな映画となれたのだと思う。そのロマンティックさの欠如がラストへの盛り上がりと観客の感情移入を妨げる。
 ロマンティックさを排除するならば、あのようなウェットな終盤は不必要で、あくまでクールにばっさりと終わってしまったほうがよかった。あの終盤を描きたいのなら、もっとマイクの視点に観客を引き込むべきだった。そのどちらにも徹しきれなかったところがこの映画の残念なところだと思います。

阿賀に生きる

1992年,日本,115分
監督:佐藤真
撮影:小林茂
音楽:経麻朗
出演:阿賀野川沿いに住む人々

 新潟県を流れる阿賀野川。沿岸に住む人は愛情を込めて「阿賀」と呼ぶ。佐藤真はスタッフとともにこの阿賀沿いに3年間にわたってキャンプを張り、そこに生きる人たちを撮影した。昭和電工の垂れ流す有機水銀によって引き起こされた新潟水俣病の問題もひとつの焦点となる。
 ドキュメンタリーとはかくありなん。というストレートなドキュメンタリーだが、完成度はかなりのもの。

 ドキュメンタリーを撮るというと、常に問題になってくるのは相手との距離感。それを克服するひとつの方法は時間だ。佐藤真とスタッフは3年間という時間によって阿賀の人たちとの距離感をつめていった。住み着いた初期のエピソードは語られはするもののおそらくあまり使われてはいないだろう。それよりも阿賀の人たちが彼らに慣れ、カメラに慣れて初めて使える映像が撮れるということなのだろう。
 この映画は新潟水俣病の未認定患者という問題はもちろん、他にも主に過疎がもたらすこの地方の問題を提示する。しかし、それを眉間にしわを寄せてみるようなシリアスなものに仕上げるのではなく、生活のほうからその生活に含まれるものとしてあらゆる問題を描く。このあたりがジャーナリズム的な問題の捉え方とは違うところだろう。それを可能にしたのもやはり「時間」だ。
 そして映画としても、しっかりと計算されている。最初のほう、つつが虫除けのお祈りをするシーンで、最初カートを押すおばあさんが映り、右のほうからなにやら祈る音が聞こえる。おばあさんから右にスーッとパンしていくと祈っている光景が映り、字幕で「つつが虫除けのお祈り」と入る。そこからもう一度、左にゆっくりパンするとおばあさんがちょうどついたところで、その祈りの輪に入る。この1カットの描写がとてもいい。他にも風景も非常に美しく捉えられ、ひとつの魅力となる。
 もちろん、被写体となる阿賀の人たちの魅力こそがこの映画の最大の魅力であることは確かだ。船大工の遠藤さんの舟を見つめる目や、長谷川さんが鈎流しをやる時の目は実にさまざまなことを物語る。いくらナレーションしても足りない言葉をその目は語りかけてくる。
 3年間の映像を120分にまとめる。ドキュメンタリーとはそんなものだといってしまえばそれまでだが、この映画を見ていると、その血のにじむような作業で落とされていったフィルムの存在も感じられる。それだけ研ぎ澄まされた、無駄のない編集。「ドキュメンタリー映画の監督っていったい何をするんだ?」と思ってしまうものですが、編集をはじめとしてこの映画はかなり監督の力量が反映されているのではないかと思いました。

スペシャリスト・自覚なき殺戮者

Un Specialiste
1999年,フランス=ドイツ=ベルギー=オーストリア=イスラエル,128分
監督:エイアル・シヴァン
脚本:エイアル・シヴァン、ロニー・ブローマン
撮影:レオ・ハーウィッツ
音楽:ニコラス・ベッカー、オードリー・モーリオン
出演:アドルフ・アイヒマン

 何百万人ものユダヤ人を絶滅収容所へと送り込む列車の運行を管理した男アドルフ・アイヒマン。戦後海外に逃れた彼をイスラエル政府が捉え、裁判の場に引き出した。ここまでは映画以前の物語。映画はただひたすらアイヒマンの裁判の場面を映し出す。40年近くほったらかしになっていたフィルムの掘り起こし。その裁判から見えてくるのはアイヒマンの殺戮者としての側面か、それともただの一人の人間としての側面か。

 とても眠い。それは映画がひたすら裁判所を映し、劇的な変化もなく、編集上の工夫はあるにしても淡々と進むからだ。これは元の映像が裁判の記録であるから仕方がないことだけれど、とにかく淡々と進んでいく。
 まず驚くのは防弾ガラスに守られたアイヒマンの姿。それほどまでに彼がイスラエルで憎悪の対象になっているということだ。
 映画は今までのホロコースト映画と同様にユダヤ人の受難を描くのかと思いきや、そうではないらしい。アイヒマンは無表情で淡々と「自分には権限がなかった」と繰り返す、これに対して検事は感情的に糾弾する。そして数多くの証人に証言を求める。
 問題なのはこの証人たちで、次々と登場するもののアイヒマンの罪状とはあまり関係ない人々ばかりだ。裁判の焦点は検事も言うとおりアイヒマンが虐殺に関与したか否かであるはずなのに、登場する証人たちはその結果の虐殺を生き延びた人々ばかりである。彼らはその悲惨さを語りアイヒマンの非道さを語るけれど、それがアイヒマンの責任の証立てにはならない。
 前半にアイヒマンと会い、交渉したというユダヤ人側の代表が証人台に立つ。彼の語るアイヒマンは単純に有能な官僚であり、ある程度ユダヤ人に理解を示す人物である。
 後半にもそのような人物が証言台に立つ。しかしそのとき傍聴席から「そいつはわれわれを犠牲にして家族を救った」という怒号があがり、裁判長は閉廷を宣言する。
 これらの記録によって何が明らかになったのか。ここから明らかになったのはこの裁判の無意味さ。これはアイヒマンの裁判ではなくイスラエルの裁判だったということ。全く反対尋問をしない弁護士(案件と関係ないのだから反対尋問の仕様がない)、それに対して感情をあらわにまくし立てる検事。彼が求めるのはアイヒマンの罪状を明かすことではなくイスラエルの正当性を明かすことだ。
 どうも話がまとまりませんが、結局のところアイヒマンというのはそれほど重要な人物ではなく、大きな悪を行った装置の部品の一つであるということは明らかで、本当に追求すべきなのはそのような人は果たして有罪でありえるのかということであるはずだ。「悪の凡庸さ」とは誰が言った言葉か忘れてしまいましたが、その凡庸な悪を裁きうるのかどうかということを追求するべきであった。しかしこの裁判が明かそうとしているのはアイヒマンは凡庸ではなかったということであり、凡庸であるアイヒマンを凡庸でないとして断罪してしまった。
 ということはこの映画はあくまで問題を提起しているだけであって、結論ではない。ということ。

イン&アウト・オブ・ファッション

In & Out of Fashion
1993年,フランス,85分
監督:ウィリアム・クライン
撮影:ウィリアム・クライン
音楽:セルジュ・ゲンズブール
出演:イヴ・サンローラン、ジャン=ポール・ゴルティエ

 写真家・映画作家として知られるウィリアム・クライン。彼が自らの写真・映像両方の作品をダイジェストにし、一種の自伝として語った映画。写真よりも映画に重点が置かれ、過去の映画のダイジェストに多くの部分が割かれる。
 全体的なセンスはさすがウィリアム・クラインという雰囲気で、物語ではなくていろいろな断片をコラージュした映像という感じに仕上がっている。

 ウィリアム・クラインの自己紹介映画というところでしょうか。ウィリアム・クラインを知らない人が見るとなんとなくわかる。そして映画が見たくなる。そのような映画です。これまでに撮られた断片が多いので、それぞれへのコメントは控えるとして、全体的にどうかというと、ウィリアム・クラインは常に時代を先取り、自身もそれを自覚し、むしろ自慢にしているということでしょう。自らの67年の作品『ミスター・フリーダム』を評して「10年早かった」というクラインの言葉は紛れもない事実(あるいは、30年くらい早かったのかも)であり、それを自ら言ってしまうところがクラインらしさなのだろうと感じさせます。
 そのような映画なので、わたしはクラインのすごさに納得したのでいいのですが、スノッブで鼻につくという見方ができるのも確か。
 さて、そんな映画で、わたしが引っかかったのは、クレジットの出し方。クレジットの出し方にまでこだわるところがクラインらしく、これまたスノッブな感じでもあり、面白くもある。特にエンドクレジットなどは、多くの映画はただただ字を流して音楽をかぶせるだけ。たまにエピローグ風のものが入る映画があったり、『市民ケーン』のように、ここの人物の映像に文字をかぶせたりすることはあるもののまず監督がやるようなものではないはず。しかしこの映画はエンドロールもあくまでスタイリッシュに、情報を伝えるよりもひとつの映像として表現するという姿勢が明確に出ています。
 エンドロールで面白いといえば、香港映画ではNGシーンがよく使われますが、個人的に一番印象に残っているのは『プリシラ』。ヴァネッサ・ウィリアムスのヒット曲(タイトルは失念)にあわせて、ドラァグ・クイーンがしっとり口パク。このエンドロールは必見です。
 話がすっかり飛んでしまいましたが、今日の映画はウィリアム・クラインでした。

スケッチ・オブ・Peking

民警故事
1995年,中国,102分
監督:ニン・イン
脚本:ニン・イン
撮影:チー・レイウー・ホンウェイ
音楽:コン・スー
出演:リー・チャン、ホーワン・リエンクイ、リー・リー

 新しく地区警察に配属された新米警官を指導する国力(クーリー)は警官としては熱意あふれて、すばらしいが、家では奥さんに小言ばかり言われている。いわゆる事件から夫婦喧嘩まであらゆることに対処する北京の地区警官。そんな国力の担当区域で人が犬にかまれるという事件が続発する。
 『北京好日』で国際的な評価を得たニン・インの監督作品。プロの役者ではなく実際の警察官を出演者とし、新たな中国映画の形を模索する。

 素人を使う。という手法といえば、キアロスタミやジャリリといったイランの監督たちを思い出す。この映画も同じアジアで作られた映画ということもあり、同じような傾向を持つのかと思えば、ぜんぜん違う。この映画に登場する人物たちはプロの役者顔負けの演技をする。イラン映画の出演者たちが素人っぽさを残し(監督がそれをあえて残し)たのとは逆に、言われなければ素人であると気づかないかもしれないほどの演技を見せる。
 これはどういうことかと考える。素人を使うということの意味を素直に考えると、それはリアリズムの追求だろう。役者として演じることなく、自分のままで映画に出演すること。そのことによって生じるリアリズム。フィクションとドキュメンタリーのはざまに存在することのできる映画。そのような映画を作りたいから素人を役者として使うのだろう。この映画の場合、出演者たちが実際の警官であり、確かに映画全体にリアルな感じはある。しかし、それがドキュメンタリー的なリアルさなのかというと、そうではない。そこにあるのはフィクションであると納得した上でのリアルさである。
 つまり、この映画が素人を使う目的は「リアルさ」というものを求めるレベルにとどまっているということだ。つまり、イラン映画と並列に論じることはできないということだ。まあ、素人を使うのはイラン映画の専売特許ではなく、ヨーロッパなどでも古くから使われてきた手法なので、ことさらにイラン映画イラン映画ということもないんですが、今は素人を使うといえばイラン映画、見たいな図式が出来上がっているので、一応比較してみました。
 そんなことは置いておいてこの映画をみると、映画自体もいまひとつ踏み込みが足りない。まさに邦題の「スケッチ」というにふさわしい軽いタッチ。警官たちを描くことで何が言いたいのかが今ひとつ浮き上がってこない。おそらくこの地区警官と住民委員会とアパートの林立(都市化)は北京において問題になっていることなのだろう。その問題のひとつとして飼い犬の問題があることはわかる。しかし、この映画が語るのはそこまでで、そこから先は個人の物語にすりかわってしまう。そのあたりにどうも不満が残る。果たして中国の映画状況がどのようなものなのかはわからないけれど、そこに自らの判断をぐっと織り込むことができないような環境なのだろうか?
 ここまでは文句ばかりですが、決して悪い映画ではない。映画自体は非常にエネルギッシュで熱気が伝わってきてよい。登場する人々も非常に魅力的。素直な目で見れば、中国のいろいろな状況もなんとなく伝わってきて、「ほー、へー」と納得しながら見ることができる映画だと思うのです。いろいろなことを考え出すと、ちょっといろいろ考えてしまうということ。