ヤンヤン 夏の想い出

a one & a two
2000年,台湾=日本,173分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:ヤン・ウェイハン
音楽:ベン・カイリー
出演:ウー・ニエンジェン、エレン・ジン、イッセー尾形、ケリー・リー、ジョナサン・チャン

 今日はヤンヤンの叔父さんの結婚式。しかし、小学生のヤンヤンはいつものように女の子にいじめられ、結婚式の前には叔父さんの元恋人が殴りこんできたりと大変。そんな中ようやく結婚式を終えて帰ってみると、具合が悪いといって一人家に帰ったおばあさんが病院に運ばれたと近所に人に言われる。
 エドワード・ヤンらしい群像劇だが、台湾の裕福な一家族のそれぞれが抱える問題をクロスオーバーさせながらじっくりと味わい深く描いた非常に丁寧さが感じられる作品。
 出てくる役者たちがみんないい。日本人プログラマーを演じるイッセー尾形もかなりいい。

 本当に丁寧な仕事をする。役者の選定も相当大変だったらしいが、それが感じられるいい配役。ヤンヤンはすごくいい表情を持った子供だし、なんといってもお父さんのNJは素晴らしい。なんだかすごく普通で、しかしうまい。
 フレーミングも非常に丁寧で、これ、と決めたフレームでカメラを固定してしっかりと撮る。同じフレームがくりかえしでてくるから、説明がなくても徐々にそれに馴れていく。映った瞬間にどの場所かわかるようになってくるし、オフフレームの部分との位置関係もわかりやすい。居間で窓に向かっているときに左側から声が聞こえたら… とかね。そしてもちろんそのフレームの一つ一つは周到に計算されていて、鏡の置き方とか、壁に貼ってある写真とか、微妙なアンバランス加減がとてもいい。印象的だったのは母親のミンミンが泣いている場面で、ミンミンは画面の右半分を占めていて、背後に鏡があり、聞き手のNJは位置的にはカメラの右隣にいて映っていない。それでその鏡の左端にヤンヤンとティンティンの写真が貼ってある。それは何てことない画なんだけれど、その人物と空間のバランスがすごくいい。同じようなバランスがあったのは、台北のカラオケやでNJが一人カウンターに座って舞台側(カメラ側)を向いている場面。NJは画面の右半分にいて、左側にはカウンターにポツリとイッセー尾形が飲んでいたグラスが置いてある、その間には山盛りのピスタチオ。そんなバランス。
 全体的にはエドワード・ヤンもすっかり落ち着いたという感じですが、バランスがよくて、繰り返しになりますが丁寧な映画。これまでの作品の流れから言って落ち着くところに落ち着いたというか、完成された反面、驚きは減ってしまったというか、微妙なところですね。でも、やはりいろいろなプロットを重ねていくストーリーテリングと画面へのこだわりはさすがだなという作品でしたね。

プラットホーム

站台
Platform
2000年,香港=日本=フランス,194分
監督:ジャ・ジャンクー(賈樟柯)
脚本:ジャ・ジャンクー(賈樟柯)
撮影:ユー・リクウァイ(余力為)
音楽:半野善弘
出演:ワン・ホンウェイ(王宏偉)、チャオ・タオ(趙濤)、リャン・チントン(梁景東)、ヤン・ティェンイー(楊天乙)

 1979年、山東省の小さな町フェンヤン、そこの文化劇団に所属する人々を4人の若者を中心に描いてゆく。70年代、文化大革命の影響で盛んだった文化活動も80年代には陰りを見せ、文化劇団の立場も不安定になってゆく。そんな80年代の中国の移り変わりとそこで暮らす人々の変化をじっくりと描いた秀作。
 3時間以上の長尺だけに、映画全体のペースに余裕があり、物語もじっくりと進んでいく。しかし、決して単調になることなく、物語、音楽、撮り方などで変化をつけ、それほど苦痛ではなく見終わることが出来た。

 最初の数シーン、固定カメラの長回しが連続する。舞台のシーン、バスのシーン、家でのシーン、それぞれヒトの動きがあり、セリフも多く、これをしっかりこなすのは相当大変だったろうと苦労が忍ばれるが、その苦労の甲斐はあって、冒頭から(そういうマニアックな意味で)引き込まれていく。  そこからいろいろな登場人物が出てきて、人物関係が明らかになってゆく展開はオーソドックスだが、なかなかまとまっていて、今度は物語へと人を引き込んでいく。
 そこから先様々な工夫が凝らされていて、かなりすごい。まず、カメラについて言えば、いつのまにかカメラは平気でパン移動をするようになっていて、それが非常に自然。そして最後の最後には手持ちカメラでの移動撮影までが使われる。この辺の画面の変化もなかなか巧妙。それから、時間の経過の表し方。ミンリャンがロックバンドになっていて、チャンチェンの髪の毛がすっかり伸びているところはかなり笑ったが、もうひとつ重要なのは、どこから流れているかわからない、犯罪者のアナウンス。最初は江青で、この人は毛沢東の第3夫人で文化大革命期には4人組と呼ばれる指導者の一人として暗躍、しかし1977年に党を追放され、81年に死刑判決を受けたというひと。なので、このアナウンスがされる時期はおそらく70年代末。次にアナウンスが出てくるのはだいぶ後、名前は覚えていませんが天安門事件の指導者が二人。名前がわからなくても時期的なものと、フランス語が堪能などの特徴を加味すれば大体判るという感じになっている。天安門事件は89年なので、それで大体の時期がわかる。
 江青については詳しいことは今調べてわかったんですが、映画を見るにも一般常識って必要なのね、と実感してしまった次第です。

静かな生活

Still Life
1975年,イラン,89分
監督:ソフラブ・シャヒド=サレス
脚本:ソフラブ・シャヒド=サレス
撮影:フシャング・バハルル
出演:サーラ・ヤズダニ、ハビブ・サファリアン

 イランの片田舎の踏み切り。踏み切りの上げ下げをする一人の老人。老人は家で絨毯を織る妻と二人、ひっそりと暮らしていた。しかし、ある日3人の男が現れ、老人に年と勤続年数を聞いて帰っていった。そして、そのしばらく後、老人のところに退職勧告の手紙が舞い込む。
 モフセン・マフマルバフが「ワンス・アポン・ア・タイム・シネマ」(日本未公開)の中でこの映画のシーンを引用しオマージュをささげた、イラン映画史上に残る名作。本当に静かな老人たちの生活を淡々と描くが、しかし非常に味わい深い。

 列車、踏み切り、家、食事。毎日のすべての出来事が同じことの繰り返しである日常。パンを運んでくる列車。見ていると、老人の一日の生活パターンがあっという間にわかる。タバコの吸い方、紅茶の飲み方、ランプを持っていく時間… まず、それを説明せずにわからせてしまうところがすごい。一切説明はなく、セリフも必要最小限。しかし、見ている側は、老人が踏み切りの開け閉めをして、その合間に小屋で居眠りし、夕方にはパンを受け取って、それを家に戻って入れ物に入れ、紅茶を飲み、紙巻タバコをパイプで吸い、ランプに火をつけ、それをもってまた踏み切りのところに行き、帰って夕飯を食べる。そんな生活をまるまるわかってしまう。
 しかも、この監督がすごいと思うのは、このまったく同じことの繰り返しをまったく同じには撮らず、少しずつ違う形で撮っていく。踏み切りの開け閉めをしているところでも、微妙にカメラの位置が違っていて、老人の大きさや通り過ぎる列車の見え方が違う。パンを受け取るところでも、最初は老人が列車に隠れる形で撮って、受け取る瞬間は写さないが、次の時には逆からとってそのものを映してみたりする。そうやっていろいろな角度から同じ行動を見ていると、それがちょっと変わったときに思わず気づいてしまう。わかりやすいのは、退職通知を受け取って老人が家に戻ったとき、パンを持ったまま椅子に座る。見ている人は「いつもはあそこに…」とつい思ってしまう。
 それが本当にゆっくりとしたテンポで展開され、あまりに心地よく、ついつい寝入ってしまいそうな、「あー、でもここで眠ったらもったいないよ、こんないい映画なのにー」という葛藤がこの映画の質を表しているのではないでしょうか。
 最近思うのは、寝られる映画ってすごいということ。それだけ見ている側を心地よくさせるということですから。これもそんな映画です。しかし、寝てしまって見逃すのはもったいない。あーーーー

私が女になった日

Roozi Khe Zan Shodam
2000年,イラン,78分
監督:マルジエ・メシキニ
脚本:モフセン・マフマルバフ、マルジエ・メシキニ
撮影:モハマド・アフマディ、エブラヒム・ガフォリ
音楽:アフマド・レザ・ダルヴィシ
出演:ファテメフ・チェラグ・アフール、シャブナム・トロウイ、アジゼ・セディギ

 9歳の誕生日を迎えた少女ハブア。彼女は友達のハッサンと遊びたいが、9歳になったらもう男の子とは遊べない。彼女はおばあちゃんに頼んで、生まれた時間の正午までハッサンと遊ぶことを許してもらう。
 このハブアの物語に加え、自転車レースに参加する人妻アフー、ひたすら買い物をする老女フーアを主人公にした3本のオムニバス。これまで描かれることの少なかったイランの女性を描いたメシキニの監督デビュー作。
 マルジエ・メシキニはモフセン・マフマルバフの二人目の妻で、死別した一人目の妻の妹。したがって、サミラの叔母にあたる。モフセンが娘のために作った施設の映画学校でサミラとともに映画作りを学んだマルジエにとって一種の卒業制作的作品。ベネチア映画祭に出品され高い評価をえた。

 ペルシャ湾に浮かぶキシュ島は、一種の自由市で、イランの各地から観光客がおとずれる。そのキシュ等の美しい自然を背景に、素直に映画を作ったという感じ。サミラと比べると、やはり静かな大人の映画を撮るという印象だ。そして、女性というものに対する洞察が深い。
 この映画は要するに、女性の一生を描いたもの。3つの世代を描くことで、女性たちがたどってきた歴史を表現したもの。それはすっかり映画が語っています。少女の時点で社会による束縛を味わい、成長し自立したと思ったら家族という束縛に縛られ、ようやく自由になった老年にはその自由の使い道がない。要約してしまえばそういうこと。
 こう簡単に要約出来てしまうところがこの映画の欠点といえば欠点でしょうか。しかし、メッセージをストレートに伝えるということも時には重要なことですから、必ずしも欠点とはいえないでしょう。
 この映画、かなり構図と色合いにこっているようですが、なんとなくまとまりがない。それぞれの映像はすごく美しいのだけれど、なんとなくそれぞれの映像が思いつき、というか、その場の美しさにとらわれているというか、あくまでなんとなく何ですが、全体としての「映像」像見たいな物が見えてこない。これもまた欠点といえば欠点ですが、その場の最良の瞬間を切り取るというのも映画にとっては重要なことなので、必ずしも欠点とはいえないのです。
 なんだかわからなくなってきましたが、まとめると、ここの瞬間は美しさにあふれ、メッセージもよく伝わるが、完成度にやや難アリというところですかね。

ブラックボード~背負う人

Takhte siah
2000年,イラン,84分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルヴィシ
出演:バフマン・ゴバディ、サイード・モハマディ、ベフナズ・ジャファリ

 黒板を背負って山道を歩く歩く男たちの一団。彼らは、学校がなくなって職を失った教師らしい。時はイラン・イラク戦争の真っ最中、彼らは食べるため、各地の村々を回って子供たちに読み書きや算数を教えて歩いていた。その一団の中の二人の教師サイードとレブアル、それぞれ生徒をさがし、サイードはイラクとの国境に向かう老人の一団を見つけ、レブアルは大きな荷物を運ぶ子供たちの一団を見つけた。
 『りんご』で世界の中目を集めた若干20歳のサミラ・マフマルバフの監督第2作は『りんご』と同じように、ある種ルポ的な色彩を取り入れつつも映像にこだわって映画らしい映画に仕上げた。

 とりあえず、黒板を背負って歩くという発想が面白い。監督いわく、もともとのアイデアは父親のモフセンの発想から得たらしいが、それをうまい具合に映画世界にはめ込んだところがうまい。
 この映画はやはりかなり社会的なメッセージ性の強い映画で、最近の出来事であるイラン・イラク戦争をいまだに問題として残っているクルド人難民の問題と関わらせつつ描き、かつ戦争に対する人々の姿勢を生々しく描こうという野心が感じられる。しかも、子供、老人という二つの世代を対象とし、そこにストーリーテラーとしてのいわゆる大人が入っている構造から行って、全体像を描こうという構想なのだろう。
 したがって、物語そのものは収斂するのではなくむしろ散逸してゆく方向ですすみ、結末もはっきりとしたメッセージを打ち出すわけではない。漠然とした反戦のメッセージ。あるいは「生きる」ということに対する漠とした渇望。
 全体には非常に出来のよい映画ですが、ちょっと手持ちカメラの多用が気になりましたかね。主観ショットのときに手持ちを使うのはとても効果的でいいのですが、主観ではないと思われるところでも手持ちのぶれた画像が使われていたので、その効果が薄れてしまった感じがするし、あまりに手持ちの映像が多い映画は酔うのでちょっと厳しいです。山道の移動撮影で、ぶれない画像を撮るのも難しかろうとは思いますが、それを感じさせないように作るのが映画。映画の世界の外の状況を考えさせてしまってはだめなのです。そこらあたりが減点。

 今回見てみると、いろいろと味わい深い部分があります。メッセージ性などは置いておいて、映っている人々の生き生きとした感じというか、非常に厳しく、本当に生きていくのがやっとという生活(といえるかどうかも怪しい移動の日々)のなかでもいくばくかの喜びがある。あるいはただ苦しみが和らぐだけであってもそれを喜びと感じる。それがこの映画の非常によい味わいであると思います。故郷へと向う一団の中で「黒板さん」と結婚することになる女性。彼女は精神的に参ってしまっているのだけれど、周囲はそれをどうとも思わない。それは一つの不幸ではあるけれど、皆が抱えている不幸と質的に差があるわけではない。そしてその父親は膀胱炎でおしっこが出ない。しかし出さなければならない。おしっこが出た瞬間、彼が感じた幸せはどれほどのものだったか。ズボンへと伝う暖かいおしっこの感触が幸せであるというちょっと笑ってしまうようなこと。それが幸せであるということ。少年レブアルが自分の名前を黒板に書くことができたとき、彼の表情は真剣でありながら喜びに溢れていた。その文字はたどたどしいものであっても彼にとっては無上の喜びを与えてくれるものだった。それを書き上げた瞬間に待ち受ける運命がどのようなものであっても。
 そのような生きる喜び。クルド人の一団が「黒板さん」に導かれてついに故郷にたどり着いたことをしる歌が鳴り響いたとき、彼らの喜びはいかほどのものだっただろうか。故郷に帰っても彼らの運命は悲惨で未来など霞のようなものだということは見ているわれわれにも、旅する彼ら自身にもわかってはいるに違いないのだが、故郷に着いたということの喜びは他には変えがたいほどのものなのだ。そのような悲惨な中にある喜びを無常のものとして描きあげたこの映画はどこを切っても味わい深い。

桜桃の味

Ta’m e Guliass
1997年,イラン,98分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホマユン・パイヴァール
出演:ホマユン・エルシャディ、アブドル・ホセイン・バゲリ、アフシン・バクタリ

 荒涼としたイランの大地を走る車。運転している中年男は道行く人に声をかけ、仕事をしないかと誘いをかける。果たして男の言う仕事とは何なのか? イランの荒涼とした土地を車で走る男のまなざしが印象的。
 「ジグザグ三部作」で一躍世界的な監督の仲間入りをしたイランの巨匠キアロスタミがそれらに続いて撮った長編作品。少年を主人公としてきたこれまでの作品とは一転、重厚な大人のドラマに仕上げている。

 キアロスタミの作品は数あれど、どうしても3部作の印象がぬぐいきれないのですが、この作品はそういう意味では半ば観衆を裏切る作品ではある。少年を主人公としたどこかほほえましい作品を取ってきたキアロスタミが「死」をテーマとしたということ。「死」ということ自体はこれまでの作品にも見え隠れしてきてはいたが、それを正面きってテーマとしたところがキアロスタミの挑戦なのだろうか。男の真摯なまなざしとはぐらかすような話し方が神経を逆撫で、たびたび出てくる砂利工場の音がそれに拍車をかける。
 男が死に場所に選んだ一本の木、そして穴。
 相変わらず同じことが反復されているに過ぎないようなストーリー。彼は結局死ぬことは出来ないのだろう。それは明らかだ。最後の最後、長時間完全に黒い画面がスクリーンに映っている間、いろいろなことを考える。考えさせる。でもきっと彼は死なない。自分に土をかけてくれる人を探すという過程の中で彼の中にどんな変化がおきたのか? それを知る由はないけれど、きっと彼は死なない。

サイレンス

Le Silence
1998年,イラン=フランス=タジキスタン,76分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
音楽:マジッド・エンテザミ
出演:タハミネー・ノルマトワ、ナデレー・アブデラーイェワ、ゴルビビ・ジアドラーイェワ

 ノックの音、スカーフ、3つ編みの後姿、目を閉じた少年の横顔、この最初のイメージだけで、完全に引き込まれてしまう映像マジック。
 目の見えない少年コルシッドは興味を引く音が聞こえるとついついそっちについていってしまう癖があった。そのため、楽器の調律の仕事にもいつも遅刻して ばかり。果たして少年はどうなるのか…
 ストーリーはそれほど重要ではなくて、氾濫するイメージと不思議な世界観が この映画の中心。「目が見えない」ということがテーマのようで、それほど重きを置かれていないような気もする、まったく不思議な映画。

 マフマルバフの映画はどれも不思議だが、この映画の不思議さはかなりすごい。難解というのではないんだけれど、なんだかよくわからない。コルシッドが「目が見えない」ことはすごく重要なんだけど、映画の中で格別問題にされるわけではない。周りの人も「目が見えない」ということを普通に受け入れ、しかしそれは障害者を大事にとか、そういった視点ではなくて、「彼は目が見えないんだって」「へー、そう」みたいな感じで捉えている。
 とにかく言葉にするのは難しい。マフマルバフの映画を見ていつも思うのは、「言葉に出来ないことを映像にする」という映像の本質を常に実現しているということ。だから、言葉にするのは難しい。表現しようとすると、断片的なことか、抽象的なことしかいえなくなってしまう。
 断片的にいえば、この映画にあるのはある種の反復「運命」がきっかけとなる反復の構造。マフマルバフはこの反復あるいは円還の構造をよく使う。音で言えば、はちの羽音、水の音、耳をふさぐと水の音、そして「雨みたいな音を出す楽士」をコルシッドは探す。クローズアップのときに背景が完全にぼやけているというのも、マフマルバフがよく使う手法。この映画では、市場のシーンで、目をつぶったコルシッドと、親方のところ女の子が歩くシーンで使われていたのが印象的、ここでは、画面の半分がアップの顔、進行方向に半分が空白で、ぼやけた背景の色合いだけが見える。
 抽象的にいえば、この映画の本質は「迷う」こと。しかも、目的があってそれを見失ったというよりはむしろ、目的がない、方向がない迷い方。自分がどこにいてどこに行くのか、それがまったくわからない迷い方。「それが人生」とはいわないけれど、迷ってばかりだ。

枯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

A Brighter Summer Day
1992年,台湾,237分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン、ヤン・ホンカー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン
撮影:チャン・ホイゴン
出演:チャン・チェン、リサ・ヤン、チャン・クォチュー、エレン・チン、リン・ルーピン

 1961年の台湾、戦後の混乱の中、台北の町では不良少年たちが組を作って抗争を繰り広げていた。上海から移住してきたばかりの一家の息子で夜間中学に通うスーを中心に物語は展開してゆく。中学生らしい淡い恋や少年らしい生活と、そんな安穏とした生活を許さない周囲の環境の間でスーは混乱し、成長してゆく。
 スーと少年たちの物語とスーの家族の物語とが複雑に入り組み、かなりストーリーをおっていくのは大変だが、4時間という長さを押し切ってしまうだけの力はある作品。体調と時間に余裕があるときにご覧ください。

 これはすごい映画かもしれない。時代性というか、この時代の台湾の空気感が伝わってくるような映画。革命によって成立した中華人民共和国と、台湾に逃れた国民政府。スーの一家もまた台湾に逃れた。しかし彼らはそこでは新参者でしかなく、スーの父は危うい立場にある。
 様々な場面や様々なことが頭に残ってはいるのだけれど、それを総体化することができない。4時間の映画の中に4時間分、とまではいわないにしても3時間分くらいはしっかりと中身が詰め込まれ、それらをひとつの映画として受け入れるにはかなりの覚悟がいるのだろう。
 たとえば懐中電灯の持つ象徴性。ミンという人物の持つ意味。マーの孤独。バスケットボール。
 そのような事々が未消化の塊のまま頭の中に鎮座している。それを解きほぐし、丸のまま受け止めることができた時、この映画の本当のよさを感じ取れるのだろう。体調なんかによっても印象が変わってしまうのが映画というもの。誰かが言っていたが「映画というのは生もの」なので、この作品はいつかどこかでもう一度(できれば劇場で)見てみたい。

エドワード・ヤンの恋愛時代

Duli Shidai
1994年,台湾,127分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:アーサー・ウォン、ズァン・ズァン、リー・ロンユー、ホン・ウクシュー
音楽:アントニオ・リー
出演:チェン・シャン、チニー・シュー、チュンワン・ウェイミン、リチー・リー、ダニー・デン、リン・ルービン

 広告製作会社の社長モーリー、学生時代からの親友で会社でも片腕のチチ、モーリーの婚約者でお坊ちゃまのアキン、アキンとモーリーのもので働くラリー、チチの恋人ミン、など台北で暮らす若者たちの2日間を描いた群像劇。彼らにとって激動の2日間の心の葛藤を見事に描いた秀作。
 なんと言っても脚本が素晴らしいこの作品は、エドワード・ヤンの哲学をフィルムに刻み付けたというイメージ。2時間の中にすさまじいほどたくさんのセリフが詰め込まれ、ぐんぐん頭の中に打ち込まれてくる感動的な作品。

 普通、これだけ語る部分が多い映画というのは疲れるものなのだけれど、この映画は疲れない。見終わった後も爽やかな感動が心に残るだけで疲労感は感じなかった。むしろもう一回見てもいいかなと思ってしまうくらい。
 やはり本が素晴らしいと言うしかないが、もちろん映像がその助けをしていることも確かだ。しかしそれは際立った映像美というわけではなく、あくまでセリフが言わんということを引き立たせるため邪魔しない映像技術ということ。この映画で目立った効果といえば、完全に黒い画面で語られるセリフと、シーンとシーンの間に挟み込まれるキャプションくらい。特に暗い画面は完全に黒い画面以外にもかなりあった。やはり画面を暗くすると、人の意識は耳に行き(あるいは字幕に行き)、それだけセリフに集中できるということなのだろう。かなり哲学的ともいえる(決して小難しいわけではないが)セリフをあれだけのスピードでしゃべらせてそれを観衆の頭に詰め込むのはかなり大変なはず。しかしそれがすんなりと入ってくるのは、その映像的工夫があってこそだろう。シーンとシーンの間のキャプションというのも、字幕で見るわれわれにはわからないが、北京語を理解する人たちならば、目と耳から同時に言語情報が入ってくるわけで、それなりの効果を生むのだろう。
 ここで登場人物たちの心理が変化してゆく様子を解説するのは止めよう。この映画の素晴らしさはそれぞれの登場人物がそれぞれ「勝手に」考え方を変化させていくことである。といってみたところでこの映画の魅力はちっとも伝わらないし、逆にまとまりのない散逸な映画であるようなイメージを湧かせるだけだから。しかしひとつ言っておきたいのは、この映画を見ると、いわゆるラブロマンスの「相手の考えていることがわかる」なんていう演出は安っぽい作り物にしか見えなくなってしまうということ。決して結末に向かって物語が収束していくわけではないところがこの映画の最大の魅力なのだ。

カップルズ

Mah-Jong
1996年,台湾,121分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:リ・イジュ、リ・ロンユー
音楽:ドウ・ドゥチー
出演:ヴィルジニー・ルドワイヤン、タン・ツォンシェン、チャン・チェン、ワン・チーザン、クー・ユールン

 台北のアパートの一室で一緒に暮らす4人の少年たち、レッドフィッシュ、ドゥースペイスト(リトルブッダ)、ホンコン、ルンルン。彼らは大人をだまし、金をもうけ、青春を謳歌していた。そんな中、レッドフィッシュの父が膨大な借金を残して蒸発したり、フランス人の少女マルトが舞い込んできたり、という事件がおき、彼らの関係も微妙に変化してゆく。
 エドワード・ヤン得意の群像劇だが、少年4人のキャラクターがしっかりとしており、見ごたえがある。

 エドワード・ヤンの映画を見ていつも思うのは「オーソドックス」ということ。同時期にもてはやされたホンコンのウォン・カーウァイと比べられると、さらにそのオーソドックスさが目に付く。しかし、エドワード・ヤンの映画はしっかりと作られている。この映画も、目新しいといえば、登場人物の国籍がばらばらで、しかもそれが当然のこととして捉えられていることぐらい。
 もうひとつカーウァイと比較して面白いのは、エドワード・ヤンの映像は俯瞰ショットが多いこと。カーウァイがことさらに手持ちカメラで主観ショットを撮るのとは対照的に、ヤンは登場人物たちから距離を撮る。登場人物たちをどこかから覗いているような視点。この視点が特徴的なのだ。だから、同じ群像劇をとっても、一定の視点で撮りつづけることができる。その安定感が「オーソドックス」という感覚を生むのだろうか。
 それだけ安定して静かな映画なのに、漂う緊迫感。それは登場人物たちのいらだちや焦りが伝わってくるからだろう。筆力のある小説家のように登場人物たちの心理を描く力強さがエドワード・ヤンの魅力だ。派手ではないけど味がある。ストレートな表現ではないのだけれど、ビシビシと伝わってくる心情がある。

 この映画が抱えるメッセージは複雑だ。イギリス人であるマーカスにとっては未来を持つ輝ける国に見える。しかし、台湾人たち自身には閉塞感が付きまとう。ルンルンの家には星条旗やNBAのポスターがかかり、アメリカ(=欧米)への憧れが強いこともわかる。しかし、そのアメリカ型の(資本主義)社会が人々を蝕み、人間性を奪ってしまっていること、そしてそれが若者に更なる閉塞感を生んでいることもまた表現されている。
 さまざまな国籍の人が登場することは、その台湾という国の閉塞感の原因を表現するとともに、解決の可能性がそこにあるかもしれないということも表現しているように思える。物語のはじめからルンルンとマルトの物語は見えていて、それはひとつの物語として面白くはあるのだけれど、それだけでその閉塞感を解決すると考えるのはロマンティックすぎるから、異なった方向へと進む4人の仲間によってそれを表現する。そのしたたかな展開の仕方がこの映画に緊迫感と面白みを与えていると思う。