ルドandクルシ
バナナ園で現場監督をするベトとそこで働きながら歌手を夢見る弟のタト、草サッカーでゴールキーパーとストライカーとして活躍する二人はたまたま近くで自動車がパンクして試合を見に来たスカウトのバトゥータの目に留まる。PK対決で勝ったほうがプロチームに紹介されることになり、ベトはタトに右に蹴るように言うが…
メキシコ出身の3人の監督が設立した製作会社の第1回作品。ガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナが『天国の口、終りの楽園。』以来久しぶりの共演。
バナナ園で現場監督をするベトとそこで働きながら歌手を夢見る弟のタト、草サッカーでゴールキーパーとストライカーとして活躍する二人はたまたま近くで自動車がパンクして試合を見に来たスカウトのバトゥータの目に留まる。PK対決で勝ったほうがプロチームに紹介されることになり、ベトはタトに右に蹴るように言うが…
メキシコ出身の3人の監督が設立した製作会社の第1回作品。ガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナが『天国の口、終りの楽園。』以来久しぶりの共演。
女の不思議な魅力が“愛”について考えさせるブラジル映画の佳作
Eu Tu Eles
2000年,ブラジル,102分
監督:アンドルーチャ・ワディントン
脚本:エレナ・ソアレス
撮影:ブルノ・シウヴェイラ
音楽:ジルベルト・ジル
出演:ヘジーナ・カセー、リマ・ドゥアルチ、ステニオ・ガルシア、ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス、ニウダ・スペンサー
ブラジルの農村地帯、ダルレーニは花嫁衣裳を着て村を出るが、数年後小さな息子を連れて帰ってくる。ちょうどその日、祖母をなくしたダルレーニは声をかけてきた中年男オジアスと結婚することに。彼は新居を建てたばかりだったが、ダルレーニに働かせてラジオを聴いてばかりいた…
ブラジルの田舎を舞台におおらかにたくましく生きる女を描いたドラマ。
ひとりの女が息子を連れて田舎に帰ってくる。そこで新居を建てたばかりという中年男と結婚する。しかし男は働きもせず、その女ダルレーニがサトウキビの収穫の仕事をし、料理をし、水汲みをし、洗濯をする。そして親切な男と浮気をし、子供が生まれる。それでも生活に変化はないが、今度は男の従兄弟が家を追い出され転がり込んでくる。その従兄弟ゼジーニョはダルレーニに親切で今度はそのゼジーニョの子供が生まれる。そしてさらに…
というなんだかニンフのような話だが、実のところこのダルレーニは美人というわけではなく、自分自身が働いているわけだから何人もの男を作って悠々と生きているというわけでもない。彼女はおそらくただ純粋にそれぞれの男を愛している。だから自ら働き、子供を生み、子供を育てる。男たちは自分が裏切られていると知っていてもダルレーニから離れることができない。それはダルレーニの魅力によるものだが、それ必ずしも彼女の女としての魅力だけではなく、彼女の人間としての魅力や彼女が注いでくれる愛に引き寄せられてしまうのだ。
変な話ではあるけれど、ひとつの愛の形を示していることは確かだ。一夫一妻制という道徳によって成立した愛の形とは異なるある意味では始原的な愛、それを素直に表現しているのがダルレーニなのかもしれない。人は愛する相手を独占したいものだけれど、複数の相手から愛されたいというわがまま欲望も持っている。そして複数の相手を同時に愛することも場合によってはできる。
こんなどろどろとした話では普通なら嫉妬が渦巻き、「こいついやな奴だなぁ」なんて思う人物が登場してくるものだけれど、この映画にはそれがない。誰もが少しずつ我慢しながらある程度自分の欲望を満たし、自分なりの妥協点を見出している。
このような関係が理想的ということは絶対無いけれど、なんだかちょっと魅力的ではある。人間と人間の関係というのは本当に不思議なものだ。
結局のところいったい何が言いたいのかということはこの映画からは見えてこないけれど、それでいいのだろう。人間のありようには本当にさまざまな形があるものだ。
Carandiru
2003年,ブラジル,145分
監督:ヘクトール・バベンコ
原作:ドラウジオ・バレーリャ
脚本:ヘクトール・バベンコ、フェルナンド・ボナッシ、ビクトル・ナバス
撮影:ウォルター・カルバーリョ
音楽:アンドレ・アブジャムラ
出演:ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス、ミウトン・ゴンサウヴェス、アイルトン・グラーサ、ロドリゴ・サントロ
ブラジル最大の刑務所の一つであるカランジル刑務所、80年代にそこに医師として派遣された“先生”は劣悪な環境におかれた囚人たちとの間に絆を結び、信用されるようになっていた。しかし、そこはやはり囚人たちの世界、思いもかけないことが次々とおこる。
実話をもとにした原作を『蜘蛛女のキス』のヘクトール・バベンコが映画化。信じがたい現実の迫力がある。
定員以上に詰め込まれたカランジル刑務所に新たに派遣された医師、彼は人にあふれた刑務所の劣悪な環境を目にする。観客は同時にその刑務所の囚人たちに許された自由に驚く。そもそも囚人たちを仕切るのも囚人で、彼らは房の中で煮炊きをし、金属を加工した刃物までもっている。タバコはもちろん、マリファナ、クラックなどさまざまなドラッグが蔓延している。
医師はそのドラッグや性交によって刑務所内に広がっているエイズの予防を主な仕事としているがもちろんさまざまな怪我や病を抱える囚人もやってくる。そして彼らが語る刑務所に入れられるまでの人生が小さなエピソードとして一つ一つ語られる。ふたりの女を愛しどちらとも別れられない男、姉に対する暴行の復讐で人を殺してしまった青年など。
ここで驚くのはその話も含めて驚くべきことがすべて当たり前のことのように受け取られてしまっていることだ。この刑務所で起こっていることや彼らが語ることは私たち日本人の想像を越えてしまう。この医師は囚人の一人がクラックをやりながら別の囚人の傷を縫合しているのを見ても驚かず、縫合が正確なのを見ると何もいわない。
場所は刑務所で、環境は劣悪ではあるけれど、そこには自由があり、刑務所の厳しさよりは楽園のようなのどかさが感じられるのだ。
この作品の監督ヘクトール・バベンコといえばウィリアム・ハートが主演した『蜘蛛女のキス』で日本でも知られている。この作品はアルゼンチンの作家マヌエル・プイグの原作で、ラテンアメリカ文学の特徴であるマジック・レアリズムの要素を感じさせる作品だ。そして今回の『カランジル』に登場する“レディ”は『蜘蛛女のキス』でウィリアム・ハートが演じたモリーナを髣髴とさせる。
そしてそれはこの『カランジル』にもどこかマジック・レアリズム的雰囲気を漂わせるのに一役買っている。この作品が描いているのは紛れもない現実だ。劣悪な環境の刑務所、そして物語の終盤に起きる暴動、これらは厳然たる現実である。しかし刑務所内の彼らの生活や彼らが語る暴動の推移はどこか現実離れした雰囲気も持つ。
マジック・レアリズムとは現実ではありえないことを現実のように感じさせるものだが、この作品から感じられるのはラテンアメリカの(ここではブラジルの)現実というのは私たちにとってはまるで魔術的なもののように見えるということだ。果たして本当にこんなことが起こりうるのか。まったく信じがたいけれどこれは本当に実際に起こったことなのだ。
Casa Grande & Senzala
2001年,ブラジル,228分
監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
撮影:ホセ・ゲラ
音楽:エイトール・ビジャ=ロボス
ジウベルト・フレイレが1933年に著した『主人の館と奴隷小屋』という書物はブラジルという国がどういうものであるかを記したものだった。この映画はその著作を検証しながら、ブラジルという国について解説していく。
映画は四部構成で、フレイレの著作にだいたいそって進む。教授という男が1軒の”Casa Grande”をアシスタントとともに訪れて解説をする。そこではその著作をモチーフにした映画をとっているという設定で、若い役者たちがいて、彼らへのインタビューも交えられる。
ドキュメンタリー映画というよりはテレビの教養番組という感じで、ただただ淡々と教授という人とアシスタントがフレイレの著作について話をするということが映画の筋になっている。この話自体はブラジルという国と社会を解説しているだけなので、特に面白くもないが、ブラジルでこのようにブラジルという国を解説するテレビ番組をやらなければならないというところに、ブラジルという国の国家的アイデンティティの希薄さを感じる。それは、インタビューを受けている青年の一人がアメリカ(合衆国)の大学に行ったとき、「ブラジルという国を知らなかったことに気付いた」と言った言葉に象徴されている。国家的アイデンティティのよしあしは別にして、国家としてはそのようなアイデンティティが国民の間で形成されることを求めており、この映画はそのような国家の欲求を実現しようというものになっている。
というまさに教養番組という映画ですが、ドス・サントスはそこに微妙な「ずらし」を加える。まず、映画の舞台となる”Casa Grande”で映画が作られているという設定だが、その映画が本当に作られようとしているののかどうかはわからない。おそらくこの映画のために作っているフリをしているだけで、だとすると、役者として登場する人たちも実際のところはこの映画のために集められた人々で、なんだかさらにうそ臭くなってしまうが、まあそれはいいとして、この劇中劇となる映画が妙にエロティックだったりする。そんなエロティックなシーンを取り上げる必要があるのかといえば、ことさらそういうわけでもなく、教養番組としての意図とは別のものがありそうな気がしてしまう。
さらには、教授と一緒に”Casa Grande”を訪ねるアシスタントが4話で毎回違うのですが、人種構成が違うので、最初はブラジルという国の多様性を強調するためなのか、と最初は思ったわけなのですが、第四部あたりになるとどうもおかしくて、そのアシスタントがやたらとクローズアップで取られ、カメラ目線で話してきたりする。さらには昼から夜になるにつれ、服装はどんどん薄着になり、夜のシーンでは教授と立ち話をする彼女の背後に思わせぶりにベットがのぞいていたりする。
これは、そのような余分なものを徹底的に排除しようとする日本の教養番組と違うというだけのことかもしれませんが、それにしてもなんだかおかしい。そもそもこれのどこがドキュメンタリーなんだ、という疑問に駆られます。なんだか変な映画だったなぁ…
Amores Perros
1999年,メキシコ,153分
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ・ホルダン
撮影:ロドリゴ・ブリエト
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:エミリオ・エチェバリア、ガエル・ガルシア・ベルナル、ゴヤ・トレド、バネッサ・バウチェ
メキシコのスラムで母と兄と兄嫁と暮らすオクタビオは兄の兄嫁に対する暴力に腹を立てていた。そんなオクタビオの犬コフィが闘犬で稼ぐチンピラ・ハロチョの犬を噛み殺してしまった。それに重なるように挿入される犬を連れた老人による殺人は後に続く断章へのプロローグ。
重なり合う3つの断章からなる作品。血と暴力にあふれているが、そこにあるのはメキシコシティという都市に住む人々のなまの人生であるのだろう。
最初の断章がすごくいい。何者かに追われ、怪我をした犬を連れてくるまで逃げ回るという1つの場面から始まり、そこに至るまでを過去の時点から描きなおすという技法事態は新しいものではないが、観客の興味をひきつけるひとつの方法としては非常に効果的である。
そして、そのシーンの映像がエネルギッシュであればなおさらである。手持ちカメラのクローズアップで展開されるスピード感が観客の期待をあおる。そしてその期待は、殺された男から流れた血が鉄板で煮えたぎり、血に飢えた闘犬が相手の犬の血を口から滴らせるのにあおられる。
そんなシーンの連続に興奮させられたわれわれは闘犬のよう血を求め、血なまぐさいシーンが続くのを期待する。あるいは目をそむける。最初の断章はあくまでも暴力的で血なまぐさく進む。
この血なまぐささは2つ目の断章でやわらげられるが、これは絡み合う断章のひとつというよりは、1つめから3つめに続く物語から派生したひとつの余話であるだろう。しかしもちろん共通する要素もある。ひとつは題名からも分かる犬であり、愛である。そして、この断章が加わることによって見えてくることもある。それはメキシコあるいはメキシコシティの全体像である。この3つの断章が存在することによってメキシコシティという町の多様性が見えてくる。そして、違う世界に住んでいる人であってもどこかで関わりあわざるを得ないとうことが。
この映画で描かれるメキシコシティは「男」だと思う。それはラテン・アメリカに付き纏うイメージである「マチョ」でもある。最初の2つの断章に登場する男達は皆怒りっぽく、攻撃的だ。やさしそうに見えたオクタビオもダニエルも最後にはその攻撃的な正確をあらわにする。それに対してスサナとバレリアの2人が閉じ込められた存在であるというのは象徴的だ。女を支配しようとする男、そんな構図があからさまに浮かび上がってくる。そんな中ひとり異なった相貌を見せるエル・チーボ。私は彼をそのマチスモをひとつ乗り越えた存在と見る。女性を支配しようということをやめ、それよりも自分を支配することを目指す。かれもまた攻撃的な正確をあらわにするが、その攻撃は男にしか向けられない。マチスモを発揮して革命へ身を投じた彼がそこから戻ってきてマチスモを乗り越えた。そのように見える。しかし彼の娘への過剰な愛はまた別のマチスモを象徴しているのではないかという気もしないでもない。
Lista de Espera
2000年,キューバ=スペイン=フランス,106分
監督:ファン・カルロス・タビオ
原作:アルトゥーロ・アランゴ
脚本:ファン・カルロス・タビオ、アルトゥーロ・アランゴ、セネル・パス
撮影:ハンス・バーマン
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ウラジミール・クルス、タイミ・アリバリーニョ、ホルヘ・ベルゴリア、アリーナ・ロドリゲス
キューバの田舎にあるバス停留所。そこにやってきたエミリオはやってきたバスに群がる人々を目にする。しかしバスはひとりの少女を乗せただけで走り去ってしまい、待っていた乗客たちはバスに悪態をつくのだった。待ちくたびれた乗客たちは修理中のバスに望みをかけるのだったが…
「苺とチョコレート」のスタッフ・キャストが再び集まって作られたコメディタッチのやさしいキューバ映画。日本にはあまり入ってこないキューバ映画でもいい映画はあるものです。
バス停に長くいたら、バス停に愛着が湧くものなのか? そもそもバス停に長くいることがないので想像しにくいですが、普通に考えたらありえそうもないことなので、彼らがバス停をまるで家のように考えるようになるに連れ、どんどん笑えて来ます。それはなんだかやさしい笑い。「いいように考えるんだ」とエミリオも所長も映画の中で言っていましたが、まさにそのきわみという彼らの姿勢はどんな状況でも救われてしまうような勢いを生む。明るさを生む。そして見ている側にまで、その明るさとやさしさを分け与える。そう感じました。
だから、一度オチた後の展開も最後の結末も、納得し微笑み、大きな心で受け入れて笑って終わることができる。バスを待っている時点でも、一度オチたあとでもその物語が現実であると実感をもって理解することはできないのだけれど、それが現実であって欲しいと望んだり、現実としてありうるかもしれないと思ったりする、それくらいの現実感を生み出す力がこの映画にはある。
キューバ映画があまり日本に入ってこないことの理由のひとつに検閲の問題がある。現在でも社会主義国家であるキューバの映画は国家によって検閲を受ける。その検閲を通らなければ、映画を上映することはできないし、おそらく相当な苦労をしなければ海外に持ち出すこともできず、その映画は埋もれていく。だから、日本であるいは世界で見られるキューバ映画のほとんどはキューバ政府の検閲を通ったものである。この検閲というのは基本的には不自由を意味し、完全にマイナスなことであると理解される。もちろん自由に映画を作れないことは映画界全体にとってはマイナスだし、意欲的な作家はキューバを出てもっと自由に映画を撮りたいと思うだろう。しかし、この検閲という体制の下でもいい映画は生まれる。検閲とは映画にとっての制限のひとつに過ぎない。映画には他にも資金や期間、あるいはそもそもフレームという制限がある。その制限の中でいかに表現するかが作家の力量であり、それが芸術というものだと思う。だから必ずしも検閲があるから面白い映画は生まれないというわけではないだろう。いまや映画大国となっているイランにも検閲は存在するし、日本の映倫も自主規制とはいえ検閲の一種であるだろう。
話がまとまらなくなってしまいましたが、要するにもっといっぱいキューバ映画を輸入して! ということですかね。埋もれた名作がきっとたくさんあるはず。
Profundo carmes
1996年,メキシコ=フランス=スペイン,114分
監督:アルトゥッーロ・リプスタイン
脚本:バス・アリシア・ガルシアディエゴ
撮影:ギリェルモ・グラニリョ
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
出演:レヒナ・オロスコ、ダニエル・ヒメネス・カチョ、マリサ・パレデス
コラルは二人の子供を抱え、看護婦で何とか生計を立てていたが、ひとり身であることから欲求不満がたまる。太ってしまったことを気にしながら、雑誌の恋人募集欄で見つけたニコラスという男性に手紙を書く。ニコラスは鬘をかぶり、手紙を送ってきた女性を騙す詐欺しまがいの男だったが、コラルはニコラスに恋をしてしまう。しかし、その恋はコラルの運命を変えてしまった…
実話をもとにメキシコの巨匠リプスタインが映画化した作品。画面もリズムも物語りもどこか不思議な違和感を感じさせるところがとてもいい。
冒頭のシーン、鏡に映りこんだポートレイトから始まり、同じく鏡に映りこんだベットに横たわり雑誌を読むコラルが映る。そのあと一度鏡を離れ、再び今度は違う鏡にうつる。そしてさらにベットに横たわるコラルを今度は直に。このカメラの動きにいきなりうなる。技術論うんぬんという話はしたくないですが、鏡を使うのが難しいということだけ入っておきたい。カメラを動かしても不必要なものが鏡に映りこまないようにものを配置することへのこだわり。これは難しいからすごいということではなく、そのような面倒くさいことをやろうというこだわりがすごいということ。さすが巨匠といわれるリプスタインだなという感じです。
このシーンでさっと身構えたわけですが、この映画はかなりすごい。まったくもってマイナーな作品だと(多分)思いますが、まさに掘り出し物。そのすごさは映画の完成度にあるのではなく、その煩雑さにある。まずもって画面が煩雑、様々な色彩が画面に混在し、ものがごちゃごちゃとしていて落ち着かない。それはすっきりとした画面を作るより難しいこと。主人公2人のキャラクターも秀逸。パッと見、全く魅力的でなく、画面栄えしない2人だが、その姿が煩雑な画面にマッチし、なんともいえないリアルさをかもし出す。さらにコラルは物語が進むにつれて魅力的に見えてくるから不思議、そしてニコラスの鬘に対する恐ろしいまでの執着、2人の異常性へのさりげない言及などなど、細かな配慮がすべてにおいて効いている。
プロットの面でも、ひとつひとつのエピソードを追っていかないところの違和感がいい。「このあとどうなるんだ?」という疑問を浮かべさせるようなエピソードの終わり方をしていながら、その後を追うことはしない。疑問符がついたまま次の展開へと移ってしまう。その投げ出し方の違和感がいい。だから結末の投げ出し方がもつ違和感にもかかわらず、見終わって感動すら感じてしまうのかもしれない。
なかなかこういう違和感というのは表現しにくいものですが、これはつまりいわゆる一般的な映画とは違うという意味での違和感。完璧な舞台装置のまえで演じられるひとつの劇としての映画との齟齬感。しかもそれが偶然によるのではなく、作り出されたものであるということがひとつ重要である。それはつまり映画を否定しようという試み、いわゆる映画とは異なった映画を作り出そうという試み。そのような試みが顕れてくるような映画を私は愛したいのです。この映画もひとつそんな否定の可能性を孕むものとして面白いということ。これを不出来なメロドラマとしてみるのではなく、ひとつの挑戦であると見ることに快感があるのです。
Fresa y Chocolate
1993年,キューバ=メキシコ=スペイン,110分
監督:トマス・グティエレス・アレア、ホアン・カルロス・タビオ
原作:セネル・パス
脚本:セネル・パス
撮影:マリオ・ガルシア・ホヤ
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ホルヘ・ペルゴリア、ウラディミール・クルス、ミルタ・イバラ、フランシスコ・ガットルノ、ヨエル・アンヘリノ
同性愛者が反革命分子として迫害されていたキューバ。結婚するつもりだった彼女が別の男と結婚したことに心を痛めていたダビドは、ある日カフェテリアでチョコレート・アイスクリームを食べていた。すると、彼の前にゲイで芸術家のディエゴがストロベリー・アイスクリームを食べながら現れた。
当時のキューバの状況を考え、この映画がキューバ政府の検閲を通り抜けてきたということを考えると、いろいろな見え方がしてくると思う。
何年か前にはじめてみたときは、素直にキューバのゲイというものの現状を表しているようで面白くもあり、映画としても独特の質感があって面白いと思いました。冷蔵庫のロッカもとても印象的。人工的なライティングではない自然光のもつ色合いを初めとした「自然さ」がその質感を作り出しているんだと今回見て思いました。そして面白かったという最初の感想は裏切られることなく、とてもいい作品でした。ちょっとソープドラマくさいところもありましたが…
しかし、こういう書き方をすると言うことは含みがあるわけで、キューバのゲイの現状という意味ではどうなのかという疑問も浮かんでくるわけです。プレビューにも書いたとおり、当時のキューバは映画に対する検閲を行っており、そもそも政府お墨付きの監督の映画しかキューバから堂々と出ることはできなかったわけです。この映画がキューバ映画として外国で配給されたということはつまり、この映画の監督が政府に認められており、またこの映画は検閲をとおったということです。
ということを考えると、つまりこの映画に描かれるキューバは外国人がみるキューバの見方として政府が公認したものであるということです。ちょっと前にお届けしたドキュメンタリー「猥褻行為」や今度公開される「夜になる前に」もキューバにおけるゲイへの迫害を描いているわけで(「夜になる前に」はまだ映画は見ていないので、原作の話になりますが)、それと比較することが可能です。この映画でもゲイが迫害されていることは描かれています。そしてその迫害を非難するような態度を見せています。しかし、この映画で問題となるのはその迫害に対する非難がゲイ全体への迫害への非難ではなく、ディエゴ個人への迫害の非難なのです。そして、ディエゴは自らも主張するように決定的に反革命的であるわけではない。むしろ国を愛し、国にとどまりたいと考えている。この点は「夜になる前に」の作者であるレイナルド・アレナスも同様です。彼はキューバが嫌いなのではなく、キューバにいることが不可能であるから亡命する。
この「国や革命を批判するわけではないが、自分にとってはいづらい環境である」という考え方がそこにはあるわけです。このように集団ではなく個人を扱うことによって問題は曖昧になります。だからこの映画は検閲を通ったのでしょう。
だからこの映画が本当に何を主張しようとしているのかを探るのは相当難しいことだと思います。私は個人的にはこの映画自体は体制を批判するつもりは毛頭なく、むしろ外国にキューバの寛容さをアピールするものだと思いますが。
Maelstrom
2000年,カナダ,86分
監督:デニ・ヴィルヌーヴ
脚本:デニ・ヴィルヌーヴ
撮影:アンドレ・ターピン
音楽:ピエール・デロシュール
出演:マリ=ジョゼ・クローズ、ジャン=ニコラス・ヴェロー、ステファニー・モーゲン・スターン
カナダでブティックを経営するビビアンは大女優を母に持ち、マスコミにも注目されていた。しかしブティックの経営状態はよくなく、オーナーである兄に店を閉めるように勧告されていた。そんな状態の中で彼女は中絶手術を受ける。自暴自棄になって酒を飲んでかえる途中、男性をはねてしまう…
カナダの新鋭デニ・ヴィルヌーヴ監督のデビュー作。いわゆるアート系の雰囲気だがシュールな雰囲気と異様な映像美が才能を感じさせる作品。
毒々しい魚が出てきて語りをはじめる辺り、同じカナダだからと言うわけではないけれど、どことなくクローネンバーグを思い起こさせる。物語の展開も一筋縄では行かない不思議な展開。
この不思議さは物語のみならず映像・音楽すべてに通じているもので、なかなか分析することは難しい。途中で挿入される字幕もまた一般的な映画の文法を破るという意味では不思議な点かもしれない。
なんといっても一番異様なのは徹底的なクロースアップ。印象では映画の半分以上がクロースアップでできてたんじゃないかってくらい徹底したクロースアップの連続。これは技術的にもすごいけれど、やってしまう度胸はもっとすごい。何なんでしょう。おそらくここまでアップを続けてしつこくならないのはブルーに統一された色調のせいでしょう。とことんまでに白い肌とブルーの背景という効果が可能にしたクロースアップ。
果たして問題はそんなすごい映像を作り上げてなにが生まれたのかと言うこと。すごいなーと思いながら見れはするけれど、実際何かが伝わってくるのかというとなかなか難しいところ。解釈の余地はあるけれど、ぐんぐん迫ってくる何かがあると言うわけではない。単なるアート系の映像芸術は越えていると思うけれど、物語である映画としてはどうなのか。映像と物語とは互いが支えあってこそ意味があるのであって、映像だけが遊離してしまったり物語を伝えるだけになってしまってはそれは映画ではない。この映画は映画にはなっているけれど、物語の部分がどうしても弱い。それはいわゆる「アート系」の映画一般にいえることだけれど、この監督はおそらくそんな括弧つきのアート系を乗り越えられるだけの力があると思うので、そんな不満も口をつく。
でも、楽しみな監督が出てきましたね。と思う。
Cien Nin~os Esperando un Tren
1988年,チリ,58分
監督:イグナシオ・アゲーロ
撮影:ハイメ・レイエス、ホルヘ・ロート
出演:チリの子供達
チリのとある村。教会の映画部門の担当者が子供たちのための映画教室を開く。最初の授業、子供達に映画を見たことがあるかと聞くと、ほとんどの子供はないと答えた。そんな子供たちに映画をその成り立ちから楽しく授業する様を描いたドキュメンタリーの秀作。
チリという国がどうとか言うよりは、子供たちと一緒に映画を純粋に楽しむことができる楽しい作品。
この映画は楽しい。映画というものがどのように成立し、映画史がどのように発展してきたのかを知らない人はもちろん、それを知らない人もそれを体験するということは楽しい。子供たちが純粋に驚きを表したように単純に驚く。
この映画はスタイルとしては非常にオーソドックス。最初教室を上から撮ってバッハが流れるところなどは、「おお、いかにもドキュメンタリー」という感じ。しかし、内容としてはインタビューがある以外はあくまでも被写体に介入することなくただみつめているだけというところは好感を持てる。ドキュメンタリーで最悪なのは、中途半端に被写体に介入し、味方であるような顔をしながらプライヴァシーを踏みにじるもの。生活すべて浸りきるほどの覚悟がないのなら被写体にはまった干渉しない方がいい。
そんな意味で、この映画の距離感は好感をもてる。インタビューの仕方もうまくて、両親と一緒に子供がインタビューを受ける場面などは子供の自尊心をくすぐりながら効果的に教室の意味のようなものを引き出している。
本当はチリという国、あるいはラテンアメリカ全体の映画事情に対するアンチテーゼともなっている映画なのですが、そのことを語らずとも十分にいい映画なのです。
1つ言っておくならば、最初の子供たちのアンケートで数少ない映画を見たことがある子供が答えた「ランボー」や「ロッキー」というタイトルが、ラテンアメリカにおけるハリウッド巨大映画資本の支配の象徴であるということです。