ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ

Breakfast of Champions
1999年,アメリカ,109分
監督:アラン・ルドルフ
原作:カート・ヴォネガット・ジュニア
脚本:アラン・ルドルフ
撮影:エリオット・デイヴィス
音楽:マーク・アイシャム
出演:ブルース・ウィリス、アルバート・フィニー、ニック・ノルティ、バーバラ・ハーシー、オマー・エプス

 CMでも有名な中古車販売会社の社長ドゥエイン・フーバーはその人柄で町じゅうの人から愛されていた。しかし、自殺願望に取り付かれた妻や愛人のフランシーに振り回されてイライラが募る毎日だった。そんなある日、たまたま聞いた無名のポルノ作家キルゴア・トラウトの名前がなぜか頭から離れなくなる。
 アラン・ルドルフは「愛を殺さないで」などいろいろなジャンルを手がけている監督。この作品はコメディといいながら、果たしてどの辺がコメディなのかわからない不思議な映画。

 ここまでわけのわからない映画は久しぶりに見ました。コメディとしては笑えない。ファンタジーとしては夢がない。サスペンスにしては謎がない。そのくせ先が全く読めない。特におもしろくもないのに、結末が気になって最後まで見てしまう。そんな感じです。
 コメディとして気に入ったのは、オマー・エプス演じるウェイン・フーブラーかな。わけのわからない映画に登場するわけのわからないキャラクター。それを野放しにしてしまう映画。そもそも一体どれがギャグなのかわからない。いつの間に車で生活しているのか?
 それに対して、ニック・ノルティの役は個人的にはあまり。女装で笑わせるという発想はもう古いという感じがしてしまいます。それならそれで、あれでドラッグ・クイーンとして舞台に立っていて… とか思い切った展開にして欲しかったところです。
 それにしてもわけがわからなかった。この映画を理解した人がいたら教えて下さい。ただの笑えないギャグ映画なのか? それとも狂人たちの言葉の裏に込められた何らかの哲学をメッセージとして伝える映画なのか… ポルノ作家といわれるキルゴア・トラウトの存在もまた謎。実は彼の存在は野卑な三文文学を芸術にしてしまういまどきの社会に対する皮肉なのか? などと深読みをしてみたりもします。

メメント

Memento
2000年,アメリカ,113分
監督:クリストファー・ノーラン
原案:ジョナサン・ノーラン
脚本:クリストファー・ノーラン
撮影:ウォーリー・フィスター
音楽:デヴィッド・ジュリアン
出演:ガイ・ピアース、キャリー・アン・モス、ジョー・パントリアーノ、ジョージャ・フォックス

 殺された男とそのポラロイド写真。そこから時間は巻き戻り、ポラロイドを持っている男が殺したことが分かる。その男レナードは前向性健忘で10分以上前の記憶が残らない。そして最後の記憶は妻が殺された場面であり、その殺した男を見つけ出し、復讐するためにポラロイドとメモと体の刺青を記憶代わりにしていた。
 時間を逆行してゆくスタイルが新しく、アメリカではリピーターが続出。ロングランヒットとなった作品。確かに見る側も頭を使わざるをえず、2時間はあっと言う間にすぎる。

 かなり慎重に、ネタばれを避けながら行きます。この映画の眼目はもちろん謎解きにあります。「記憶喪失の疑似体験」というキャッチコピーのとおり、失われた記憶を取り戻す旅。謎というのはもちろん「妻を殺しなのは誰か」ということ。しかし、その答えは映画の冒頭で「テディ」が殺されたことによって明らかになっているようである。となると、観客が知りたいのは「なぜテディが犯人だとわかったのか?」ということになります。そして、問題となるのはレナードが前向性健忘であること。つまり覚えていられないこと、になるはずです。しかし、本当に問題になるのは別のこと。それはレナードが前向性健忘であること。そしてそうなる前のことを覚えていること、なのです。レナードは映画の途中で「記憶は記録よりあてにならない」といいます。もうこれ以上はいえませんが、見た人には分かるでしょう。
 この映画はその途中のどこかで論理と問題点のすりかえがある。それがまた見る側の混迷のどを深めることになるのだと私は思います。具体的に言えば、「なぜテディが犯人だとわかったのか?」という問題から「なぜテディは殺されたのか?」という問題へ。この問題のすりかえを見失わず、注意深く見ればとりあえずこの映画の時間のスパンではちゃんとおさまるところにおさまるのだと思います。
 しかし、
!!!!!!!!!!!!!
!!以下ネタばれていく!! 見てない人は絶対読まないでね。
!!!!!!!!!!!!!
 まとまっているのはテディの話、つまり「テディはなぜ殺されたのか」という話だけで、根本的な疑問は解決しない。それは「妻を殺したのは誰か」という問題。これには全く解決の道が開けない。むしろ話は混迷のどを深めるだけ。ここがこの映画が「わからない」となる最大の原因なのだと思ういます。
 ここからは私の勝手な解釈になりますが、この問題が解決しないのは、この話が本当はもっともっと長いからではないか? 映画が終わるまえに殺されたジ**(伏字)については原因どころか背景も全く説明されない、そしてそれに関わってナ***(伏字)についてもわからない。そして終わり近くのレナードの回想シーンも説明がつかない。これらの説明がつかないことどもはもっと長い物語の先で解決されることではないか、と思います。なので映画としては続編ができる。2作目はジ**(伏字)についての話で、タイトルも決まっています。「メメント-1(マイナス1)」。俺が監督だったら絶対作る。そして、最終的には12時間くらいの完全版を作って観客に勝負を挑んで欲しい。
 かなり勝手な想像が膨らみましたが、そういう勝手な想像をだれもがしてしまう映画でしょう。だからヒットする。面白いからいいんです。今日は映画としてどうこうという話はしません。

最終絶叫計画

Scary Movie
2000年,アメリカ,88分
監督:キーネン・アイヴォリー・ウェイアンズ
脚本:ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズ、バディ・ジョンソン、フィル・ボーマン、ジェイソン・フリードバーグ、アーロン・セルツァー
撮影:フランシス・ケニー
音楽:デヴィッド・キタイ
出演:ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズ、アンナ・ファリス、チャリ・オテリ

 コープス高校でひとりの生徒が殺される。そして、それは連続殺人事件へと発展していく…
 「スクリーム」をパロディ化し、そこに様々な映画のパロディを加えたいかにもアメリカ的なパロディ映画。このジャンルの作品の中ではかなり面白い方だとは思いますが、いかんせん日本ではパロディ自体の受けが悪いのでこの作品もいまひとつ人気は出なかった。
 個人的にはそんなに悪くないと思います。

 本当に単純なネタの集積で映画を作る。ホントにほんとーに単純なネタ。これは要するに下手な鉄砲も数うちゃあたる方式で、どれかがヒットしてくれればいい。見ている人のそれぞれがどこかで笑ってくれればいい。そんなやり方。映画のパロディはもとの映画を見ていないと笑えない。だから、映画のパロディをやるときはこういう下手な鉄砲も…方式にするのは間違っていない。しかし、この方式で多くの映画が失敗し、わずかな映画が成功してきた。それでも作られつづけるのはアメリカ人が映画が好きでパロディが好きだから。この映画の鉄砲はそれほど下手でもなかったらしい。
 日本の映画環境の中で見ると、ちょっと分かりずらいところも多い。最大の見せ場と思われる「マトリックス」のところがいまいち。笑えるといえばそのショボサくらい。ショボサで笑いをとるのはパロディとしてはいまひとつな気がする。それに対して「ブレアウィッチ」のところはかなり好き。入りの部分もさりげなくていいし、鼻水だらだらも相当すごい。個人的にはここが一番のヒット。左膝貫通くらい(どのくらい?)のヒットでした。あとはらりってるところくらいかな。
 まあ、あとはぼちぼちね。オチはいまいちでしたが、一応あったので安心。私は落ちのないコメディはなんだか気に入らなくて、いつもオチを気にしてしまう。やはりコメディは笑って終わりたいというのもあるし、一番面白いネタを最後にもってくるもんだろうという期待もある。このオチはインパクトはまあまああるけれど、映画をまとめるものではない、突発的なもの。だから印象は弱いし、笑いも弱い。新作もなかなか見ようとは思えない。

ロミオ・マスト・ダイ

Romeo Must Die
2000年,アメリカ,115分
監督:アンジェイ・バートコウィアク
原案:ミッチェル・カプナー
脚本:エリック・バーント、ジョン・ジャレル
撮影:グレン・マクファーソン
音楽:スタンリー・クラーク、ティンバランド
出演:ジェット・リー、アリーヤ、イザイヤ・ワシントン、ラッセル・ウォン、DMX

 オークランドの湾岸地帯で派遣を争う黒人マフィアと中国系マフィア。中国系マフィアのボスの息子が黒人系のカジノに行った夜、何者かに殺された。ホンコンではボスのもう一人の息子が刑務所で服役していたが、弟が殺されたという知らせを受け、脱獄し、渡米する。
 カメラマンとして長いキャリアを持つバートコウィアクの初監督作品。ジェット・リーもハリウッドでの初主演作となった。やはりジェット・リーのアクション満載の作品。

 まあ、こんなもんといっては失礼ですが、予想の範囲を越えないというところ。やっぱりジェット・リーのアクションはかっこよく、キャラクターも好みだけれど、話の展開は早々に8割方読めてしまったし、レントゲン写真みたいなのもよくわからないし、ちょっとCGバレバレのところもあったし、ね。
 まあ、でもジェット・リーはやっぱりいいな。この映画で唯一「こいつはっ」と思ったのはジェット・リーがアリーヤを使ってアクションをするところ(結構最初の方)。なるほど、設定も面白いし、アクションとしてもなかなかのもの。アリーヤの壁走りもなかなかでした。結局ジェット・リーが出ると、ジェット・リーの映画になってしまうのか? この映画でアクションを担当しているのは、コーリイ・ユエン。最近このメルマガに3度目の登場、「キス・オブ・ザ・ドラゴン」でもジェット・リーとコンビを組み、ブルース・リーの娘シャノン・リー主演の「エンター・ザ・イーグル」の監督です。香港時代にも何度かジェット・リーと組んだことがあるようなので、それをパッケージでハリウッドにもってきたという感じなんでしょう。ジェット・リーの新作“The One”でも、アクションを担当しているようです。
 というジェット・リー映画でした。

新生人 Mr.アンドロイド

Making Mr.Right
1987年,アメリカ,94分
監督:スーザン・シーデルマン
脚本:フロイド・バイヤーズ、ローリー・フランク
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:チャズ・ジャンケル
出演:ジョン・マルコヴィッチ、アン・マグナソン、ベン・マスターズ

 広告会社のフランキーは恋人でクライアントのスティーヴと喧嘩をし、彼の選挙キャンペーンの仕事をおりてしまった。次に彼女に入ってきた仕事は宇宙飛行用に開発されたアンドロイドのユリシーズの広告。知名度を上げて政府からの補助金を確保するという仕事だった。彼女はユリシーズに礼儀作法が足りないといい、自らそのコーチをすることになったが…
 ジョン・マルコヴィッチが芸達者らしく二役を演じる、オーソドックスなコメディ。音楽もファッションも80年代らしい時代性が出ていていい。

 この当時、ロボットやアンドロイドの技術がどれだけ進んでいたのかは分からないので、この映画の発想が新しいものだったのかどうなのかは分かりませんが、いま見れば特に目新しさもなく、ありがちな話という気がしてしまう。ロボットに代表される「もの」が人間に恋をする。それは大体、生命となってはじめて出会った異性に恋をしてしまうという話が多いですね。おそらく同じ頃の映画だったと思いますが、「マネキン」とか「スプラッシュ」とか(スプラッシュは生きものだけど)そんなお話。
 と考えると、こういう話には何らかの原物語のようなものがあるのではないかと考えてしまいます。それはひとつの明確な物語ではなくて、イメージのようなものでもいい。「恋」というものに対する神話じみた物語。そんなものが存在しているような気がします。一目惚れの神秘というかそんなもの。しかも、いまあげた2つも含めて3つの話すべてがコメディというのもまた示唆的なような気もします。そのような神話じみた物語が存在しながら、現代はそれをシニカルに見ているという解釈。そんな解釈ができるかもしれない。
 どうも映画がオーソドックスで面白さも並という映画になると、こういうことを書いてしまうようです。こんな解釈の仕方はあくまで見る側の勝手で、作り手の意識には上っていないのでしょう。そういう無意識に従ってしまうパターンのようなもの、だからこそ「神話じみた」ということになる。そのパターンをいかに崩していくのかが面白さのポイントになるのかもしれない。見る側にも存在する無意識のパターンを以下に裏切るか、ということですね。
 それで、結局何がいいたいのかといえば、この映画はありがちなパターンの物語を普通に撮ってしまったので、普通の映画になっているということです。面白くないわけじゃないけれど、特にどこが面白いというわけでもない。
 オチも読めたしね。

彼女を見ればわかること

Things You Can Tell Just By Looking At Her
1999年,アメリカ,110分
監督:ロドリゴ・ガルシア
脚本:ロドリゴ・ガルシア
撮影:エマニュエル・ルベッキ
出演:グレン・クローズ、ホリー・ハンター、キャシー・ベイカー、カリスタ・フロックハート、キャメロン・ディアス

 年老いた母親を介護しながら仕事をする医師のキーン、15歳になる一人息子と二人で暮らすローズ、独身を貫きながら不倫相手の子供ができしまった銀行の支店長、瀕死の恋人と暮らすレズビアンの占い師、盲目の妹と二人で暮らす女刑事。
 孤独に生活する5人の女たちを描いたオムニバス。監督のロゴリゴ・ガルシアはノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの息子で、これまでカメラマン/批評家として活躍してきた。これが初の脚本・監督作品。

 孤独である度合い、それは人との物理的な距離ではなくて、心理的な距離で測るしかない。いくら近くに恋人がいても、その気持ちが近くになければ、孤独が癒されることはない。孤独であることが常に負の力を持っているわけではなく、この映画の主人公達はその孤独を嫌がっているわけではない。むしろ自分から選んだという面ももっている。しかし、その孤独な状態はふとした機会に負のパワーを送ってくる。この映画はそのような瞬間を捉え、その孤独感が宿る瞬間の表情をつかまえる。
 この映画は非常に巧妙に構成されている。オムニバスのそれぞれが絡み合ってひとつの話としてまとまる、あるいはなんとなくつながった話になるという方法。それ自体は珍しいものではないけれど、この映画のつなぎ方はうまいと思う。それぞれの主要な登場人物が他のエピソードにも登場するというのはよくある方法だが、ポイントはそれぞれのエピソードをつなぐ一人の人物を登場させるということ。監督のロゴリゴ・ガルシアは「フォー・ルームス」の1編のカメラマンをやっているので、そこからヒントを得たのかもしれない。この映画ですべてのエピソードをつなぐのは、ネイティヴ系(あるいはラテン・アメリカ系)の一人の女性。どのエピソードでも、沈鬱な表情に孤独を湛えて、1カットくらいに登場する(最後は別)。どうしても気付かざるを得ないこの女性の存在が映画をうまくまとめ、全体の「孤独」というテーマを浮かび上がらせる。その使い方はとてもうまい。
 その孤独感を浮き上がらせるためかどうかわからないけれど、多用されるクロース・アップはちょっと辟易。いつも映画館は前のほうに座るせいかもしれないけれど、クロース・アップの多い映画はあまり好きではない。クロース・アップのような強い画面はたまに出てくるからこそインパクトがあり、効果的なのであって、何度もでてきてしまうとあまり意味がないと思ってしまう。
 細かいところにも配慮が行き届いていい。小さく引っかかるところがたくさんあると、映画は楽しくなります。(盲目の)キャメロン・ディアスが腕時計をしているだけで、その背景にあるいろいろなことを想像できる。そんな小さな引っ掛かりもあって、なかなかよい映画でした。

オー・ブラザー!

O Brother, Where are Thou ?
2000年,アメリカ,108分
監督:ジョエル・コーエン
原作:ホメロス
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:T=ボーン・バーネット
出演:ジョージ・クルーニー、ジョン・タートゥーロ、ティム・ブレイク・ネルソン、ジョン・グッドマン、ホリー・ハンター

 1930年代アメリカ、屋外での労働中に脱獄した囚人の3人組が、その一人エヴェレッとが隠したが、まもなくダムができて水没してしまうらしいという宝を手に入れるべく旅をする。
 ホメロスの「オデュッセイア」を原作とした映画で、全体的に寓話じみた雰囲気を持つ。コーエン兄弟らしい細かい演出は健在。

 コーエン兄弟の作品には何か共通した世界観があり、それはなんだかやわらかさというかやさしさというか、とがっていないところ。「ミラーズ・クロッシング」のようなフィルム・ノワール的な作品でもそれがある。そのコーエン兄弟がアメリカ南部、古きよき時代をしかも「オデュッセイア」で描くとなると、そのやわらかさがさらに強まることは見るまえから予感できる。しかも甘いマスクのジョージ・クルーニー。
 そして、予想通りのやさしい映画。コーエン兄弟の作品は全体なやさしさの中にどこか刺があるのがもうひとつ特徴といえるのですが、この映画ではその刺が欠けている。ジョージ・ネルソンはかなりコーエン兄弟らしいキャラクターですが、やはりスティーヴ・ブシェミがいないのが問題なのか…
 うーん、すべてが微妙です。「オデュッセイア」が原作というのも、収まりどころがわかるというのと、ここの登場人物がどこにはまるのか考えてしまうという点で映画自体への注意が散漫になるという問題もある。
 しかし、やはりコーエン兄弟の細かい作りこみは健在で、一番それを実感したのは、ジョン・グッドマンが熱弁を振るう場面で、彼の眼帯が徐々に汗で染まっていくところ。あとは、ジョージ・クルーニーのひげがきちんと着実に伸びていくところ。その辺の気配りはさすがというところ、しかもハリウッド資本で資金も潤沢にあったのでしょうか。
 という微妙な映画でしたね。失敗作ではないけれど、あまりらしさが感じられない。ジョージ・クルーニーはなかなかいい味を出していたけれど、コーエンワールドの住人にはなりきれていない。

アメリカン・サイコ

American Psycho
2000年,アメリカ,102分
監督:メアリー・ハロン
原作:ブレット・イーストン・エリス
脚本:メアリー・ハロン
撮影:アンジェイ・セクラ
音楽:ジョン・ケイル
出演:クリスチャン・ベイル、ウィレム・デフォー、ジャレッド・レトー、ジョシュ・ルーカス

 80年代のNY、親の証券会社で副社長を務めるパトリック・ベイトマンは、ろくに仕事もせずエステやクラブに忙しく、見栄を張ることばかりに一生懸命だった。しかし、そんな彼が暗い道端のホームレスを突然刺し殺してしまう。
 深刻な殺人の衝動に駆られた男をえがく、サスペンスドラマ。

 これはコメディなのか。細かい笑いがちりばめられるが、果たしてそれがメインなのか。しかし、原作の話はシリアルなものらしい。監督として原作を壊してコメディに仕上げてしまったのだとすれば、それは大胆不敵なことではある。しかしコメディなのかどうなのか判然としない。いっそ徹底的にコメディにしてしまったほうが気持ちがよかった。サスペンスとしても中途半端、コメディとしても中途半端な居心地の悪さ。コメディ的なものを意図していることは明らかだから、原作者に対して気を使ってしまったことからくる失敗なのか。
 現代社会に住む人々の孤独というか、自己の存在確認の難しさという問題はあると思いますが、80年代という過去を描いたわりにはその答えが出ていない。わざわざ80年代というかこの時代を描くのなら、その時点でのひとつの答えを用意してもいいのではないかと思う。結局自己を確認することのできないパトリックは単なる狂人だったのか、それとも80年代を競争に由来する孤独の中で過ごしてきた人々は多かれ少なかれそんな経験をしてきたということなのか、それはパトリックが特殊化されるのか一般化されるのかという問題で、この映画の終わり方からすると、どちらとも取れる。その宙ぶらりんなところもいまひとつ落ち着かない。
 名刺とか、ビデオとか笑えるところもあるけれど、こういうシニカルな笑いはあまり好きではないです。多分こんなパロディの仕方がつぼにはまる人もいるでしょう。

U-571

U-571
2000年,アメリカ,116分
監督:ジョナサン・モストウ
原案:ジョナサン・モストウ
脚本:ジョナサン・モストウ、サム・モンゴメリー、デヴィッド・エアー
撮影:オリヴァー・ウッド
音楽:リチャード・マーヴィン
出演:マシュー・マコノヒー、ビル・バクストン、ハーヴェイ・カイテル、ジョン・ボン・ジョヴィ

 第2次大戦中、北大西洋を航行中のドイツの潜水艦U-571はエンジンの故障で立ち往生せざるを得なくなり、補給船の到着を待っていた。そのUボートの存在を知ったアメリカ海軍は、U-571がつんでいる暗号機「エニグマ」を奪取するべく、友軍を装ってU-571をのっとる計画を立てた。
 傑作が多いといわれる潜水艦ものだけに、なかなか見応えのある映画。単純なアクション映画として面白い。

 「Uボート」に代表される潜水艦ものは、密室や海中という事実からくる緊張感が映画全体をピシッとしめ、物語や人間ドラマに重厚さを生むという印象があった。そんな密室や海中という要素が潜水艦もの=傑作が多いといういわれの背景にあるのでしょう。
 しかし、この映画は故障していたUボートがなぜかすぐに直ったり、爆雷があたっても、水漏れがしても結局はちゃんと航行できたりと、あまりその緊迫感がない。ほんのちょっとのミスや衝撃で乗員全員の命が失われてしまうというような緊張感がない。
 でも、決して面白くないわけではないのは、単純なアクション映画として。潜水艦同士での魚雷の撃ちあいや潜水艦の中での銃撃戦など、「ありえない」とは思うものの、迫力があっていい。
 昨日も言ったように「ありえなさ」というのがいまのアクション映画にとっては重要だと私は思うのですが、この映画は必ずしもその図式に当てはまるわけではない。魚雷の打ち合いなんかは受け入れられる過剰さであり、アクションシーンとして現代的だと思いますが、潜水艦内での銃撃戦というのはちょっとお粗末な感じ。スペースが限られているということで銃撃戦としては面白くなっているけれど、艦に穴があいたらどうするんだ! などというまっとうな疑問が浮かんでしまうので、ちょっとやりすぎかなと。手榴弾まで使うのはどうかなと思ってしまうのです。
 なかなかこの「過剰さ」というのも難しいもので、本当にやりすぎてしまうと、リアルさからかけ離れてしまう。「うそ~ん」と思ってしまうハイパーリアルな感じだけれど、もしかしたらありえるのかもというくらいの感じがベストなのでしょう。

DENGEKI 電撃

Exit Wounds
2001年,アメリカ,101分
監督:アンジェイ・バートコウィアク
原作:ジョン・ウェスターマン
脚本:エド・ホロウィッツ、リチャード・ドヴィディオ
撮影:グレン・マクファーソン
音楽:トレヴァー・ラビン、ジェフ・ローナ
出演:スティーヴン・セガール、DMX、イザイア・ワシントン、マイケル・ジェイ・ホワイト

 ニューヨーク市警に勤めるボイドは、銃撲滅を訴える副大統領の演説に遅れて参列。その会場を後にした副大統領が襲われたところを孤軍奮闘して救ったが、そのスタンドプレーが上層部の不評を買い、無法地帯として知られる15分署に転属されてしまった…
 スティーヴン・セガールが久々にセガールらしいアクション映画を撮ってくれたという感じ。

 セガールはセガール。とてもヒーローには見えない胡散臭さと、それとは裏腹な正義感ぶりというのがキャラクターにぴったりとくる。だから、この映画のプロットはまさにセガール向き。セガール最高傑作とは言わないまでも、「沈黙の戦艦」に次ぐぐらいの面白さだと思います。
 しかし、セガール映画はいつもそんなにアクションがすごいわけではない。特に最近は。それはもちろんセガールがおっさんで、動きに切れがないからです。昨日のジェット・リーと比べるとかなり見劣りします。しかし、共演のDMXのアクションはかなりのもの。やはりラッパーたるもの立ち回りくらいできなきゃいけないのか。そして顔もかなりの男前。ウィル・スミスよりも俳優として見込みがありそうな気がしますね。
 という感じですが、この映画もまた「マトリックス」が影を落とします。この映画の製作者の一人は「マトリックス」の製作者の1人でもあるジョエル・シルヴァー。もちろんジョエル・シルヴァーはアクション映画のプロデューサーとして知られているので、必ずしも「マトリックス」ばかりがクローズ・アップされる理由もないのですが、この映画がマトリックス後であるのは、その過剰さ。マトリックス以前の(ハリウッドの)アクション映画は特撮などを駆使していかにリアルに見せるかということに精を込めていたように見える。しかし、マトリックス後のアクション映画はその過剰さを売りにする。それはリアルを超えた「ありえねーだろ」といいたくなるような過剰さ。その過剰さを作り出すことがアクション映画に不可欠になっているといえる。
 この映画でも武器の威力も、アクションの立ち回りも現実ではありえないような物が出てくる。冒頭のシーンでセガールが持つ拳銃は機能としては明らかにマシンガンと同じ。果たしてハンドマシンガンはそこまで小型化されたのか?あんな小さいマガジンにどうしてあんなに弾が入るんだ? という疑問がすっかり生じますが、その「リアルでなさ」がマトリックス後のアクション映画の過剰さというものでしょう。