スキゾポリス

Schizopolis
1996年,アメリカ,93分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
脚本:スティーヴン・ソダーバーグ
撮影:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:スティーヴン・ソダーバーグ、ベッツィ・ブラントリー、デヴィッド・ジェンセン

 マンソンは「イヴェンチャリズム」という自己啓発本の著者シュイターズという人物のオフィスで働く。そのオフィスでは、スパイ疑惑などというものが持ち上がっていた。それに、マンソンと同じ顔をした歯科医コルチェック(二人ともスダーバーグ自身が演じる)、害虫駆除を仕事としているらしいエルモという人物がからみ、話は展開していく。
 「セックスと嘘とビデオテープ」以後なかず飛ばずで、資金も底をつき、ハリウッドから見放されたソダーバーグがインディペンデントで撮った一作。あまりにわけがわからず、観客が入らなかったらしい。ということは逆に映画ファンを自認するなら必見。

 監督が、映画の最初で宣言したとおり本当にわけがわからない変な映画だけれど、これまた監督が宣言したとおり映画史に残る作品になるかもしれない。われわれに見える「セックスと嘘とビデオテープ」から「アウト・オブ・サイト」へのソダーバーグのジャンプのその最後がこの作品で、となるとその間の変化を探るということになりますが、この作品はむしろそれ以後の作品よりも革新的で、実験的なものであり、これこそが終着点であるという気もします。
 つまり、「セックス~」から「スキゾポリス」へ至る道をソダーバーグは「アウト・オブ・サイト」から再び(分かりやすい形で)歩み始めているのかもしれないということ。「アウト・オブ・サイト」の分かりやすさから「トラフィック」の斬新さへと進んだその道が、今後さらに進んでいくとするならば、それは再び「スキゾポリス」へと至るのだろうということです。
 確かに、映像の作り方や編集の仕方では現在のソダーバーグ作品に通じるところもあるが、これがいまの「完成された」ソダーバーグへの一つの段階であると考えるのは間違っていると私は思う。いまのソダーバーグ作品は監督が前面には出てこず、前衛性の中で生き返らされた役者達がその存在を輝かせている。本当にソダーバーグがソダーバーグらしくいられる作品が撮れるのはまだまだ先のことになりそうな気がする。
 異なった形で、資金も潤沢に、キャストも豪華に「スキゾポリス」的なものを作る。そして作りつづける。それがゴダールを敬愛してやまないソダーバーグの本当の終着点なのかもしれない。と思います。
 それにしてもわけのわからないこの映画。日本語を解してしまう私たちは幸せなのか不幸せなのか英語だけを理解してこれを見る観客が感じるものと日本語やイタリア語やフランス語を理解してしまう観客が感じるものはきっと違っている。そのような受け手によってあまりに見え方が違ってくる要素をふんだんに盛り込んだ作品なので、冒頭にソダーバーグ自身が言っているように何度も見なくてはわからないのかもしれない。それはあまりにわからなすぎて途中うたた寝してしまうという事も含めて…

ターミネーター2 特別編

Terminator 2: Judgement Day
1991年,アメリカ,153分
監督:ジェームズ・キャメロン
脚本:ジェームズ・キャメロン、ウィリアム・ウィッシャー
撮影:アダム・グリーンバーグ
音楽:ブラッド・フィーデル
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、リンダ・ハミルトン、エドワード・ファーロング、ロバート・エリック、ジョー・モートン

 あのターミネーターが再び現代に現れた。前作でターミネーターと対決したリンダの息子ジョンは里親に預けられ、リンダ自身は精神病院に収容されていた。ジョンを探し出そうとするターミネーターに対し、もう1人未来からやってきた男がいた…
 世界的ヒットとなった「ターミネーター2」の特別編で、1分ほど長いバージョン。いわゆるディレクターズカットで、オリジナルのアクション重視に対して物語的に重要と思われる場面が追加されている。

 何度見たか知れない映画ですが、久しぶりに見ると、この映画の面白さは「笑い」の部分にあるのだと感じます。ターミネーターのおかしさを笑う。その人間として未熟なサイボーグという描き方は、あくまで人間にとってロボットというのは自分より低い位置にあるものでしかないということをいみし、大量殺人を行うことができるターミネーターであっても、自分に従うものであればペットの一種でしかないということになるのでしょう。そこから生じる笑いは子供や動物を使った笑いと同種のもので、それを見た目のごついターミネーターがやるところが面白いということでしょう。
 ほかにもアクションとか書けることは多いはずですが、いまさらというきもするので、話を飛躍しましょう。

突然始まる単発コーナー
 日々是映画の「映画は科学する」第1回 タイムマシーンは戻れない

 ターミネーターの謎は、タイムトラベルというところにある。ターミネーターを生むことになるサイバーネットが存在するのはターミネーターが存在していたからだという「卵が先か鶏が先か」的な議論は絶対的に解明することはできない。それは、ターミネーターが存在しなければターミネーターは存在しないという循環論理を含むからである。
 では、なぜこういうことがおきるのか考えてみた。その鍵は「未来は変化する」という考え方の問題にあるだろう。未来が変化するというのは世界を4次元に切り取った場合に、時間軸上の1点を変化させることで、その時間軸上の先の点が変化するという意味である。つまり、現在(点p)から未来(点q)へと進むはずだったものが、別の未来(点q’)へと進むということである。問題となるのは、このとき点qと点q’は根本的に異なる点であって、qがq’に変化したわけではないということである。4次元空間では1つの時点について点は1点しか存在しないためそれは変化し得ない。それは2次元上の1点が変質できないのと同様である。 したがって、同一時点で何らかの変化が生じる場合は5次元空間を想定する必要が出てくるだろう。それはイメージ化するならば、1つの瞬間(3次元空間)をひとつの点と考え、それに対して時間軸と事象平面を想定するというものである。この事象平面というのは(私の勝手な造語ですが)ある時点においてありうべき事象をプロットした平面である。このような5次元空間を想定するとしたならば、われわれが「時間」と考えているものは、過去の1点から現在の1点、さらに未来の1点を結ぶ直線であると考えられる。
 このときわれわれが「未来」と呼ぶものは過去から現在を結んだ直線をそのベクトルにしたがって延長したものであり、その時点での必然的な未来であるわけだ。しかし、現在に対して何らかの力によって別方向のベクトル力が加えられると、未来に向けたベクトルが変化する。そのような変化が起こると過去から未来へと至る直線は現在で折れ曲がり、別の未来へと向かう新たな直線が現れるのである。
 これをターミネーターに当てはめてみると、ダイソンを説得して、サイバーネットの開発をやめさせたということはひとつのベクトル力であり、それによってそれまで必然的な未来であったターミネーターがやってきた未来にはたどり着かないということになる。
 もし、タイムマシーンが直線的な(4次元的な)時間移動しかできないとしたならば、過去へとやってきたタイムマシーンはそれだけで一種のベクトル力となり、その現在が向かう未来はそのタイムマシーンがやってきた未来とは異なる未来となってしまう。したがって、そのタイムマシーンがやってきた時点へと戻ったとしても、そこに現れるのはそれまでいた未来とは異なる未来でなければならない。
 だから、「タイムマシーンは戻れない」。タイムマシーンが戻るためならば、時間軸と同時に事象平面でも移動できる(5次元的な)時間移動ができなければならない。
 話が長くなってしまいましたが、「ターミネーター」でポイントとなっているひとつの言葉「未来は自分で決めるもだ」というのは100%真実であるということがいえるのである。

タブウ

Tabu
1931年,アメリカ,81分
監督:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
原作:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ヒューゴ・リーゼンフェルド
出演:マタヒレリ

 ポリネシアに浮かぶボラボラ島。そこで人々は平和に暮らしていた。島の若者同士の恋物語がある日やってきた大きな帆船によって破られる。
 ドイツの巨匠ムルナウがハリウッドに渡り、ドキュメンタリーの巨匠フラハティの協力で、ポリネシアの現地人を起用して撮った作品。セミ・ドキュメンタリー的な手法も画期的であり、ムルナウらしさも生きているかなりの秀作。

 現地の素人の人たちを出演者として使うという手法はキアロスタミを初めとして、今では数多く見られる方法だが、この時代にそのような方法が試みられたというのはやはりドキュメンタリー映画の父フラハティならではの発想なのだろうか。おそらくこの映画に出演しているポリネシアの人々は映画のことなど何も知らなかっただろう。もしかしたら映画というものを見たことも聞いたこともなかったかもしれない。そのような状況の中で映画を撮ること。それはある意味では現地の人たちの生の表情を撮ることができるということかもしれない。
 サイレント映画というのは自然な演技をしていたのでは自然には写らない。再現できない音を映像によって表現することが必要である。それを非常に巧みに扱うのがドイツ表現主義の作家達であり、それを代表する作家がムルナウである。だから、フラハティとムルナウが組んでこのような作品を撮るというのは理想的な組合せであり、また必然的な出来事であったのかもしれないと思う。この映画が製作されてから70年が経ち、はるか遠い位置からみつめるとそのようなことを考える。しかし、作品の質は現在でも十分に通じるもので、そのドラマは多少、陳腐な語り尽くされたものであるという感は否めないものの、十分魅力的だし、映像の力も強い。ほら貝や波や腰蓑が立てる音が画面から聞こえてくるように思える。
 ムルナウはこの作品の完成直後交通事故で帰らぬ人となってしまった。当時まだ43歳。わずか12本の作品しか残さずに死んでしまった天才を惜しまずにいられない。

シックス・センス

The Sixth Sense
1999年,アメリカ,107分
監督:M・ナイト・シャラマン
脚本:M・ナイト・シャラマン
撮影:タク・フジモト
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ブルース・ウィリス、ヘイリー・ジョエル・オズメント、トニー・コレット、オリヴィア・ウィリアムズ

 優秀な児童心理学者のマルコムは市長から賞状をもらい、妻とそれを祝っていた。二人がワインを片手にベッド・ルームへと行くと、そこには侵入者の気配が。その侵入者はマルコムが依然見た患者の1人だった。その男はマルコムを「救えなかった」と責めた挙句に、マルコムに銃を発射した。
 少しホラータッチのヒューマンドラマ。M・ナイト・シャラマンとオズメント君がブレイクした作品。

 M・ナイト・シャラマンという監督も、オズメント君もいまひとつ気に入らなくて、こんな映画面白いはずがないと思いながら、なんとなく見ないで来てしまったこの映画ですが、見ればなるほど面白い。しかし、重要なのはこの映画の面白さは監督術にあるのでもなく、役者の演技にあるのでもなく、脚本にあるのだということ。結局のところ、私のシャラマンとオズメント君への偏見は変わらず残ったのでした。
 ということで、脚本が素晴らしいということをいっておいて、ネタばれ防止の意味も含め、内容には触れずに過ごしましょう。でも、細かく見ていくとかなり不具合があります。つながらない矛盾したところが。それを驚きとか感動とかいった要素で覆い隠している。これもひとつの手法であって、うまく隠してしまっているので、よしということなのでしょう。
 で、ストーリーを別にすると、映画の中で非常に印象的なのは赤の色彩。教会、学校、オズモント君の隠れ家?などなど。この「赤」に何らかの意味があるのだろうと思いながら映画を見ていたのですが、終わってみて考えてみても、特段意味は見つかりません。赤という色彩はパッと目を引くので、カットの代わりばなの画面に赤いものが含まれていると(他のトーンが地味ならば)そこに目が行きます。だから画面に赤を配置することそれ自体で効果的ではあるのですが、それが繰り返されると、そこに何らかの意味付けがあるのだろうと推測してしまうのが人間。ということは、そういう方法をとる以上、何らかの意味付けか、意味付けがないことの正当な理由がなければいけないと思います。単なる構図上の美しさとかその程度のことでもいいのですが、何らかの統一性がそこにないと、落ち着かないわけです。落ち着かない…
 この映画の赤は時に画面のアクセントであって、時に画面を支配する色であって、それでそれぞれの赤いものが持つ意味合いも違っていて、赤が支配する画面の意味もばらばらで、いたずらに流れを混乱させるだけの存在になってしまっています。あなたはいくつ赤いものを思い出せますか? オスメント君のセーターとか。

ハリウッド・ミューズ

The Muse
1999年,アメリカ,97分
監督:アルバート・ブルックス
脚本:アルバート・ブルックス
撮影:トーマス・アッカーマン
音楽:エルトン・ジョン
出演:シャロン・ストーン、アルバート・ブルックス、アンディ・マクダウェル、ジェフ・ブリッジス、ロブ・ライナー

 脚本家のスティーブンはスランプに陥り、全くシナリオが書けなくなってしまった。そんなスティーヴンに親友のジャックが紹介したのは芸術と想像の女神ミューズ。彼女は脚本家にインスピレーションを与えるという。スティーヴンはそんなことはありえないと信じようとしないが…
 シャロン・ストーンのコメディ初主演作。長年コメディのライターをやっているアルバート・ブルックスの作品だけに説得力がある?

 今日は多分当たり前のことしか書けません。それはこの映画が当たり前な映画だから。つまらなくはないけれど特別面白くもない映画。変わっているといえば、シャロン・ストーンくらい。しかし、シャロン・ストーンはやはりあまりコメディには向いていないと思う… いくらコメディエンヌらしく振舞ってもどうにも冷たい印象がぬぐえないのは、これまで演じてきた役柄のせいだろうか、それともあの目? 必ずしも整った顔をしている人がコメディエンヌに向いていないというわけではなく、むしろ整った顔で真面目に面白いことを言うほうがいかにもコメディエンヌという人がおどけていうよりも面白いことはある。でも、シャロン・ストーンはね… だから、今までコメディに出なかったんでしょう。「クイック・アンド・デッド」はある意味コメディでしたが…
 なんだか、シャロン・ストーンがいかにだめかを説明することになってしまいましたが、怒らないでねシャロン・ストーンファンの人がいても。

夜になるまえに

Before Night Falls
2000年,アメリカ,133分
監督:ジュリアン・シュナーベル
原作:レイナルド・アレナス
脚本:カニンガム・オキーフ、ラサロ・ゴメス・カリレス、ジュリアン・シュナーベル
撮影:ハヴィエル・ペレス・グロベット、ギレルモ・ロサス
音楽:カーター・バーウェル
出演:ハヴィエル・バルデム、オリエヴィエ・マルティネス、アンドレア・ディ・ステファノ、ジョニー・デップ、ジョーン・ペン

 キューバの作家レイナルド・アレナスはキューバの田舎の小さな村に生まれた。自分の同性愛的性向と作家の才能に早くから気づいた彼の人生は少年の頃に起きたキューバ革命によって大きく変化した。
 同性愛が迫害されるキューバにあって、生きつづけ、書きつづけた作家レイナルド・アレナスの自伝を「バスキア」のジュリアン・シュナーベルが映画化。

 原作との比較は常に頭にあるのですが、あくまで映画について語るためにそれはなるべく置いておいて(多分後に進むに連れ比較せずに入られなくなると思いますが…)、映画の話をしましょう。
 映画としてこのプロットは非常に平板で、単調な気もします。クライマックスがなくて、1人の男が生まれて死んでいくまでを淡々と語った感じ。このアンチクライマックスの語りが吉と出るか凶と出るかということでしょう。劇場であたりを見回したところ寝ている人もポツポツいたりしたので、単調ではあったのでしょう。それから物語の背景となるキューバに関することがらが余りに語られなさすぎるので、多少の知識がないと物語が理解できないという恐れもあります。
 ということで、ここは私がちょっと詳しい程度のキューバの知識を持って原作を知らずに映画を見たと仮定して映画を振り返って見ましょう。長くなりそうだ。
 モノローグの映画なのにモノローグを使わない。映画全体が自伝であり、モノローグとして機能しているのに、主人公自身の言葉でモノローグがなされるのは3度だけ。どれも長めのモノローグで、歌のように響く。その言葉自体の意味はわからないけれど、その言葉は軽やかに韻を踏み、詩であるかのように聞こえるし、実際一つの散文詩であるのだろう。その効果的なモノローグに挟まれる形である2つの断章。一つ目のほうが極端に長く、その激しい物語展開とは裏腹に非常に淡々と語られる。イメージの氾濫。言葉ではなく映像で語ろうとする映画という言説。少年が兵士であふれたトラックに乗ることの意味や、教壇に立つロシア語をしゃべる赤い本を持った男の意味や、焼き払われるさとうきび畑の意味がイメージとして語られる。
 この文章もだんだんイメージに引っ張られて断片化してきました。
 結局原作と比べることになりますが、原作が伝える恐怖感が欠如している。どうしようもない焦燥感と恐怖感、それが伝わっていないのが非常に残念だとおもいました。原作は100倍面白い。書店で見かけたらぜひ買って下さい。
 全編一気に映画にしてしまうのではなく、いくつかの断章を拾い集めて再構築したほうが面白い映画になったような気もします。

イン&アウト

In & Out
1997年,アメリカ,90分
監督:フランク・オズ
脚本:ポール・ラドニック
撮影:ロブ・ハーン
音楽:マーク・シェイマン
出演:ケヴィン・クライン、ジョーン・キューザック、マット・ディロン、トム・セレック、デビー・レイノルズ

 教え子にアカデミー賞授賞式で「ゲイだ」といわれてしまった高校教師ブラケット。結婚まで決まっている彼は事態の収拾に乗り出すが…
 いわゆるゲイ・コメディだが、純粋にコメディとしてみても面白い。アカデミー授賞式のノミネート作品とか、「男らしさ」講座のテープとか。プロットもよくよく見ると意外と凝っていて最後まで楽しめる。

 脚本家のポール・ラドニック自身がカミングアウトしたゲイであるので、ゲイを馬鹿にして笑い飛ばすという姿勢はとらないが、ゲイであることを隠そうとする人を利用することでゲイを毛嫌いする人々(ホモフォビア)を笑い飛ばす。アメリカはゲイに対する偏見が少ないというけれど、それはあくまで都市部の話で、田舎のほうでは同性愛者に対する意識なんてこの低だのものだろう。記者のラドニックは都市の洗練されたゲイとして田舎のホモフォビアたちのバカらしさを明らかにする。 という物語なわけですが、結局自分がゲイであることを認めないようとするブラケットの振る舞いがいかにゲイ的であるかということが笑いの焦点なわけで、そこを笑えないとつらいかもしれません。
 そういえば、この映画はどこかの映画賞で「ベストキス賞」という賞をとったそうです。なるほどね。

プリティ・ブライド

Runnaway Bride
1999年,アメリカ,115分
監督:ゲイリー・マーシャル
脚本:サラ・パリオット、ジョーサン・マクギボン
撮影:スチュアート・ドライバーグ
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア、ジョーン・キューザック、ヘクター・エリゾンド

 USAトゥデイのコラムニストであるアイクはネタにこまってよった行きつけのカフェで1人の男から何度も婚約を繰り返しては結婚式の途中で逃げ出す花嫁の話を聞いた。その話をコラムにし、得意満面のアイクだったが、とうの「ランナウェイ・ブライド」マギーから編集部に抗議の手紙が届き、アイクはクビになってしまう。
 「プリティ・ウーマン」のジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア、ゲイリーマーシャルが2匹目のドジョウを狙ったが、もちろんドジョウはいなかった。あまりにすべてが予想通りで笑えるという意味では面白いかも。

 期待通りというか、全くの予想通り。面白くないというのではなく、面白みがない。犯人のわかっている推理小説を読んでいるようなもので、どのように結末にもっていくのかを観察するというだけのものです。犯人のわかっている話でも「刑事コロンボ」が面白いのは、謎解きの部分がわからないのと、コロンボ自身が面白いから。この映画は謎解きもほとんどの部分が予想通りで、コロンボもいない。「シカゴ・ホープ」でおなじみヘクター・エリゾンドがなかなかいいキャラクターだったので、ちょっと期待したのですが、あまり出てこず残念な限り。 こういう映画を見ると破壊の欲求に駆られます。それは別に物に当たってしまうほどつまらなかったとか言うことではなくて、映画をどうこわしたら面白くなるんだろうかということを考えるということ。この映画をみながら思ったのは、リチャード・ギアとジュリア・ロバーツがはじめてキスをするシーンから、二人の結婚式のキスまで一気に飛んじまえば面白かったのにということ。それから先はあとは野となれ山となれ。振られた婚約者のエベレスト登山でも映して尺を埋めるとかしてください。あとは、ジュリア・ロバーツが殺されて、刑事コロンボが登場するとかね。そうだったら面白いなー。コロンボが出てきたらすごいなー。 うーん、3作目は「プリティ・マーダラー」っていうのにして、ジュリア・ロバーツが誰か殺す。それでリチャード・ギアが共犯者でそれをコロンボが解決するっていうのはどうかしら。
 と思ったら、この監督の「プリティ・プリンセス」という映画が公開されるようです。原題はもちろん全然違う。ヘクター・エリゾンドがまた出てる… あ!!ヘクター・エリゾンドって「プリティ・ウーマン」にも出ていた気がする! うーん、ホテルの人だった、多分…

スタンド・バイ・ミー

Stand By Me
1986年,アメリカ,89分
監督:ロブ・ライナー
原作:スティーヴン・キング
脚本:レイナルド・ギデオン、ブルース・A・エヴァンス
撮影:トーマス・デル・ルース
音楽:ジャック・ニッチェ
出演:ウィル・ウィートン、リヴァー・フェニックス、コリー・フェルドマン、キファー・サザーランド、ジョン・キューザック、リチャード・ドレイファス

 小学校を卒業し、最後の夏休みを過ごす少年4人組。いつもどおり遊んでいるところにそのひとりバーンが息を切らしてやってきた。バーンが言うには行方不明になった少年の死体が少し離れた森にあるということらしい。4人は明くる朝、死体を見るために冒険に出かける。
 ホラーの巨匠スティーヴン・キングのホラーではない作品。秀逸な脚本と映像にぴたりとくる音楽、若かりしリヴァー・フェニックスの存在感。十数年前はじめてみた時の衝撃を思い起し、思い入れもこめての☆4つ。

 たいした話ではないですね。でも、アメリカ映画ではよくある古きよき少年時代回想映画の中では群を抜くできでしょう。それは、この映画が公開された頃、ちょうど映画の少年達と同じ年頃で、なんだかとても衝撃だったということに対する思い入れが大きな要素となっているのだとは思いますが、映画ってそんな個人的なものなんだということを実感したりもしました。
 けれど、10年以上経ち、何回となくみて、久しぶりに見返してみても、やはりいい映画だったということです。映像がとかどうとかいうことではなくて、どう考えても脚本がいいのでしょうね。原作ももちろんいいのでしょうが、私が読んだ限りでは、この原作からこの映画を作るにはかなりの脚色が必要で、その脚色はかなり見事。
 あとは音楽とリヴァー・フェニックスということですが、特に言うこともございません。何度みても、見たあとには10数年前に買ったサントラ(もちろんアナログ)をかけてしまいます。
 すぐれた脚本には変な工夫を凝らさず、シンプルに作ればいいといういい見本だと思います。橋とか森とか汽車とかヒルとか映像的にもとても洗練されているのだけれど、それをなるべく自然なものにしようという意図が感じられました。死体までもが自然に見えるほどです。
 そうえいば、お兄さんはジョン・キューザックでしたね。今回はじめて気づきました。

インビジブル・マン

The Invisible Man
2000年,アメリカ,120分
監督:ブレック・アイズナー、グレッグ・ヤイタネス
原作:H・G・ウェルズ
脚本:マット・グリーンバーグ
撮影:ジョン・J・コナー
音楽:ダニエル・コールマン
出演:ヴィンセント・ヴェントレス、カポール・ベン=ヴィクター、デヴィッド・バーク、シャノン・ケニー

 泥棒稼業をしているダリエンはある夜、老人の家にはいって金庫破りをしていたところをその家の老人に見つかってしまう。老人は爆発音に驚いて心臓発作。彼を生き返らせようと心臓マッサージをしていたところを警備員につかまってしまった。判決は死刑、刑務所で絶望しているところに兄のケヴィンがやってくる。
 コメディタッチのアメリカのTVムービー。同年に公開された「インビジブル」とは違い、B級な味わいがいい。

 面白くなくはない。だけれど、すべての狙いがあからさますぎて、ちょっとね。コメディタッチというか、笑わせようという意図はわかるし、面白い部分もあるんだけれど、映画の安っぽい部分をそれで補おうとしすぎているというか、笑いに逃げているという感じがしてしまう。続編を作ろうと思っているのなら(きっと思っているんだろうけれど)もっと話自体をしっかりしないとね。
 まあTVムービーなので、こんなものでしょうという気もします。前半は特にユーモアとアイデアがうまく絡み合って魅力的な仕上がりなので、ここで視聴者を引き込めば大成功ということなのでしょう。などといらぬ憶測などもしてしまいますが、そういう映画ということですね。
 しかし、むしろ映画の「インビジブル」よりは面白かった気がします。あちらの方はCGにお金をかけて、リアルさを求めていましたが、いまひとつプロットがよくなかった。それに比べるとプロットとしては面白くできていたのではと思います。だから、ビデオ屋で2本並んでいたらこちらを借りましょう。マイナーもまたよし。ということで。