ハムナプトラ/失われた砂漠の都

The Mummy
1999年,アメリカ,124分
監督:スティーヴン・ソマーズ
脚本:スティーヴン・ソマーズ
撮影:エイドリアン・ビドル
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:ブレンダン・フレイザー、レイチェル・ワイズ、アーノルド・ヴォスルー、ジョン・ハナー

 紀元前13世紀、国王の愛妾アナクスナムンと恋に落ちた高層イムホテップは国王を殺してしまう。自殺したアナクスナムンをよみがえらせようとしたイムホテップだったが、その儀式が終わる前に捉えられ、死者の都ハムナプトラで行きながらミイラにさせられる刑に処された。
 約3000年後、考古学者のエヴァリンは兄が見つけた地図からハムナプトラの場所を知り、その持ち主だったリックという男を訪ねるが…
 続編も作られた話題の冒険活劇です。

 特撮が売りということですが、すごいのかすごくないのかよくわからない。すごいような気もするけれど、なんとなく安っぽさが漂う。安っぽさといって悪ければ作り物っぽさね。そもそも、ありそうもないものをSFXで作り出すわけだから、いくら緻密に作ってみたところで、現実感が出るわけではない。しかし、それでも緻密に緻密に作るあたりにILMのプライドを感じます。
 基本的の物語がばかげてるわけですよ。ありそうな話というのではなくて、ほぼ確実になさそうな話なわけですよ。それがこの映画のミソだと思いますね。中途半端に科学的根拠とかを並べ立てて、「ありそうな話だろ」といってしまう話より、はなっから「ありえねーよ」と開き直ってしまった話のほうが思い切りがよくっていいということ。そんな「ありえなさ」がすみまでいきわたっているのがこの映画のいいところです。ピラミッドの地下でゴルフの練習をするとか(絶対しねー)、飛行機のはねに人をくくりつけて飛ぶとか(飛べんのか?)、そんなところも素敵。二挺拳銃も素敵。
 なぜそんなことになったかと考えてみると、アクション映画にしてはスリルがない。スピード感がない。しかも映画に隙がたくさんある。つまり、突っ込みどころがたくさんある。集中してみなくても映画についていけるから、どんどん突っ込める。こういう映画は家で、突っ込みを入れながら友達と見るのがいいでしょう。こういう突っ込み用映画の代表はなんと言っても「シベリア超特急」です。この映画は「シベ超」ほど突っ込めないものの、普通の映画としての面白さは「シベ超」より上なので、映画突っ込み初級者に向いていると思います。さあ、あなたも何回突っ込めるか挑戦してみよう!
 今回はちょっとふざけすぎましたでしょうか? でも、こんな映画の見方をするのも面白いもの。一度お試しあれ。

私の殺した男

Broken Lullaby
1932年,アメリカ,77分
監督:エルンスト・ルビッチ
原作:モーリス・ロスタン
脚本:サムソン・ラファエルソン、エルネスト・ヴァイダ
撮影:ヴィクター・ミルナー
音楽:W・フランク・ハーリング
出演:フィリップ・ホームズ、ライオネル・バリモア、ナンシー・キャロル、ルシアン・リトルフィールド

 第一次大戦終戦から一年後のパリ。その式典に参加した青年ポールは戦争中に殺したドイツ兵のことがどうしても頭から離れず、協会で神父に告白する。「任務を果たした」といって神父になだめられたポールは逆に悩みを増し、そのドイツ兵ウォルターの故郷を訪ねることにした…
 脂の乗り切ったルビッチが映画を量産した20年代から30年代前半の時期の作品のひとつ。多くのフィルモグラフィーの中に埋もれているとはいえ、そこはルビッチ、堅実にいい作品を作る。

 このころルビッチはおよそ年2本のペースで映画を作っていた。代表作とされる作品(「天使」や「ニノチカ」や「生きるべきか死ぬべきか」)が撮られるのはもう少し後のことだが、この時期にも「モンテ・カルロ」や「極楽特急」といった名作も生まれている。
 というまわりくどい説明で言いたいことは、確かに面白い堅実な作品を作ってはいるけれど、完成度から言えばもう一歩という作品も混じってしまっているということ。この作品はドラマとしては非常に面白いし、画面が持っている緊張感もすばらしい。たとえば、ポールが始めてウォルターの家に行き、ウォルターの遺族3人に囲まれる場面、パンしながら3人の顔を一人ずつ映していくカメラの動きは、ポールの緊張感を如実に伝える。それ以外にも、さまざまなところに張り詰めた緊張感を漂わせる「間」がある。
 そういったすばらしいところがたくさんあり、ラストまでその緊張感を保つのはとてもいいのだけれど、ルビッチであるからあえて言わせてもらえば、稚拙さも目に付く。特に目に付くのはトラヴェリングの多用で、冒頭からかなりの頻度でトラヴェリング(つまり移動撮影)、特にトラック・アップ(つまりカメラを被写体に近づけていくこと)が多用される。的確なところで使われれば劇的な効果を生むはずのものだが、繰り返し使われるとなんとなく作り物じみて、物語世界から遠のいてしまう感じがする。
 とはいえ、やっぱり見所もたくさんあります。町の人たちが窓からポールとエルザを覗くシーンのスピード感とか、さりげないところに味がある。やっぱり見てよかったなとは思います。

ミッション:インポッシブル

Mission: Impossible
1996年,アメリカ,110分
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:デヴィッド・コープ、ロバート・タウン、スティーヴン・ザイリアン
撮影:スティーブ・H・ブラム
音楽:ダニー・エルフマン
出演:トム・クルーズ、ジョン・ヴォイド、エマニュエル・ベアール、ジャン・レノ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ

 CIAの工作員イーサン・ハントの参加した作戦が情報漏れのため失敗に終わり、彼以外のチーム全員が死んでしまう。上層部に呼び出された彼は、自分に裏切りの疑いがかかっていることに気づいてその場を逃れ、新たな仲間とともに真実を暴こうとするが…
 1960年代のアメリカの人気テレビシリーズ「スパイ大作戦」をトム・クルーズがプロデュース・主演でリメイク。チームの仲間が冒頭に死んでしまうことで完全に新しい展開を作り出しているが、それが果たしてよかったのか…

 「おはようフェルプス君」でおなじみのジム・フェルプスがいきなり死んでしまうので、テレビシリーズを見ていた人には「えっ?」という展開。それぞれに特徴のあるキャラクターのチームプレーが見所だった「スパイ大作戦」とはまったく別物なのだと気づかざるを得ない。ドラマのイメージを引きずると、このトム・クルーズのワンマンプレーにはどうにもなじめない。
 ということでテレビシリーズのことは忘れてみてみます。
 冷戦後のスパイものとしてはキューバか北朝鮮か国とは関係ない組織を相手にするしかないわけですが、そんな中で「裏切り」をポイントにおくというのはなかなかいい考えかもしれない。「裏切り者は誰だ」という謎解きの作り方はなかなか面白い。個々の場面のスリルの作り方もさすがになかなかのものではある。宙吊りのあたりは最大の見せ場だけに面白いけれど、ねずみはちょっとありがち過ぎたかもしれません。CGもそれほどすごいわけでもなく、最後のヘリのあたりの稚拙さはちょっとね。
 結局トム・クルーズのワンマンショーに終始する映画だったと思います。

SEX アナベル・チョンのこと

SEX : The Annabel Chong Story
1999年,アメリカ=カナダ,86分
監督:ガフ・リュイス
音楽:ピーター・ムンディンガー
出演:アナベル・チョン

 10時間で251人とSEXし、世界記録(当時)を樹立したポルノスターのアナベル・チョン。南カリフォルニア大学で写真と性科学を学ぶフェミニストでもある彼女の記録への挑戦を描いたドキュメンタリー。取り上げられている題材の割には映像自体は過激ではなく、彼女の生き方や考え方を描こうとしている姿勢が感じれらる真摯な作品。
 このようなセクシャリティ系の映画はかなりストレートにメッセージが伝わってきていいですね。「女性には自らの性を商品化する権利がある」

 女性も攻撃的なセクシャリティを持つことができるという彼女の考え方もよくわかるし、それを権威的でない形で実行するという態度にも共感できる。それが300人とセックスをしようという形に結びつくというのもその発想を追っていけば理解できないことではない。
 しかし、やはり偏見や既成概念にとらわれているわれわれは彼女の主張を受けとめられない。彼女のように振舞うことは容易ではない。もちろんそれは251人とセックスをしろということではなく、自由であれという意味でだけれど。ただ自由であろうとするだけでも難しい。特に性的に自由であることは、自由から生じる不安感に加えて世間からの(あるいは自分の内にある仮想的な世間からの)圧力も同時に存在する。アナベル・チョンでさえ自分の両親には告げることができなかったのはそれだけ既成概念が強固であるということだろう。
 女性が抑圧されていると主張する人たちの目がセックスへと向くのは、女性の抑圧の根本的な原因がセックスにあるからである。そして、ポルノというのは女性への性的な抑圧を端的に示すものである。だからフェミニストたちはポルノを糾弾し非難し、規制しようとする。それに対してアナベル・チョンはその内部に入り込み、それを見えなくするのではなく変えてゆく。ポルノという領域で女性が自分を解放できるのだということを証明しようとする。
 映画の中でマイケル・J・コックス(この名前は傑作だけど)はアナベル・チョンのことを「業界の面汚し」と呼んだ。251人とのセックスと聞いて最初に返ってくる反応の多くは「衛生面」や「エイズ」という反応だった。このような反発や意味のすり替えを見ると、アナベルの主張の正しさを感じる。しかし、実際に問題なのは誰が正しいのかということではない。
 話がまったくまとまらない!
 彼女のすばらしさのすべては行動が伴っているということにあると思う。セクシャリティにおいて本当に自由である。それが自然であるようにうまく描いているというのもあるけれど、当たり前のように元恋人という女性が出てくるし、セクシャリティの線引きから逃れるような親友アランもいる。
 主張するならば、行動しなさい。といわれている気がするけれど、それはなかなか難しい。

ジョー、満月の島へ行く

Joe Versus the Volcano
1990年,アメリカ,107分
監督:ジョン・パトリック・シャンレー
脚本:ジョン・パトリック・シャンレー
撮影:ステファン・ゴールドブラット
音楽:ジョルジュ・ドゥルール、ピーター・ゴードン
出演:トム・ハンクス、メグ・ライアン、ロイド・ブリッジス、ダン・ヘダヤ

 なんとなく体の調子が悪く、医者に言ったジョーは医者から不治の病であると告げられる。余命半年と診断された彼は、人生に開き直り、勤めていた会社を辞める。その夜、元同僚とうまくいきかけるが、彼の余命を聞いて彼女は去ってしまう…
 トム・ハンクスとメグ・ライアンの初の共演作、メグ・ライアンは1人で3役を演じる。スティーヴン・スピルバーグが製作総指揮に名を連ねるドリーム・ワークスの作品で、特撮も「スター・ウォーズ」などでおなじみILMが担当しているが、この映画のどこにそんな特撮が…

 おしなべて平均点のコメディという感じ。トム・ハンクスとメグ・ライアンといういまやゴールデンコンビの2人が出てくると、それだけで恋の予感を感じますが、その予想を裏切りつつ進んでいくというのもうまいです。しかし、展開がよめよめであることも確か。こういう先の展開がすぐに分かってしまう映画を「子供の絵本」ものと私は読んでいます。子供が何度も同じ絵本を読んでもらうのと同じように、私たちは同じ物語を描いた異なる映画を何度も見てしまう。結末も展開も8割方分かっているのに見てしまう。これは多分、裏切られる恐れがなくて安心できるからでしょう。予想を裏切られる展開の映画を見るにはエネルギーが要るのに対して、こういう容易に予想がつく映画はエネルギーが要らない。例え途中でうたた寝してしまっても、画面に戻れば話についていけてしまう。そういう安心感のある映画を見たいこともあります。
 だから、この映画はそういったのどかな気分のときに見なければなりません。「どんな映画だろう?」と胸を躍らせてみる映画ではない。なんだか映画というとどこかにどんでん返しがあって、ハラハラドキドキみたいなイメージが多く、前もってストーリーを言っちゃいけないという不文律が存在していますが、こういった映画に関してはストーリーを全部ばらしてしまっても本当は問題ないはず。でもばらしません。ばらすと笑えなくなってしまうネタが何個かあるから。
 休日の午後、うたた寝を挟みつつ、でも巻き戻しは、せずにごゆっくりご覧ください。

A.I.

A.I. Artificial Intelligence
2001年,アメリカ,146分
監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:ブライアン・オールディス
原案:スタンリー・キューブリック
脚本:イアン・ワトソン、スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、フランシス・オコナー、ジュード・ロウ、ウィリアム・ハート

 地球温暖化でニューヨークが海の底に沈んだ未来世界、人口抑制のため妊娠は認可性になった。サイバートロニック社はそんな親たちのために代用ロボットを開発。ホビー博士はそこに「愛」をインプットする研究を進めた。息子を不治の病で低温睡眠に置いているサイバートロニック社の社員ヘンリーとモニカの下にその1号機「デヴィッド」がやってくる。
 スピルバーグが故キューブリックのアイデアを映像化。最も有名な子役オズメント君を使ってロボットと愛というテーマを描く。

 物語のテーマから考えていくとあまりに甘っちょろすぎるという感じ。結末はいえませんが、その終わり方はどうなんだ? スピルバーグ平和ボケか? と思ってしまう。同じ「ロボットと愛」ものなら「メトロポリス」(アニメのね)のほうが数倍面白いし、考えさせられるところも多い。ということで、あまり(というか全く)物語には共感できませんでした。
 映画としては全体としてテーマパークっぽいというか、とりあえずアトラクションを詰め込んだという感じなのはなかなかいいですね。「フレッシュ・フェア」とか「ルージュ・シティ」とかそういった部分部分は面白くないわけではない。そしてジュード・ロウ。この映画を見て誰もがいうのは「ジュード・ロウはよかった」。全くその通りで、ジュード・ロウはいい。オズメント君もやはり演技はうまくて、ロボット感が出てはいたんですが、そもそも役がロボットらしくないロボットなので、そのロボット感がまたどうなのかな。とも思ってしまいます。結局デヴィッドは人間になりきれていないできの悪いロボットでしかなく、それこそが悲劇の源なんだと思ってしまいます。話がそれてしまいましたが、ジュード・ロウはそのロボット感がなかなかいい。人間くささもあるけれど結局はロボットという感じをうまく出していましたね。
 さて、個人的には一番気に入ったのはドクター・ノウ。このしゃべりまわしどこかで聞いたことがある! と思ったら、声はロビン・ウィリアムスでした。
 あとは、ジャンク置き場からフレッシュフェアのあたりはよかったですね。人間として扱われない人間のようなもの。これは一種の「差別」の構造なわけですから、それが暴力に結びつくことを描くというのは考えさせられるものがあります。果たしてロボットが人間に近づいたときわれわれはどのように反応すればよいのか? 現実感がないままそんなロボット世界がやってきてしまうと、フレッシュフェアの人たちのように反応してしまうこともありえるような気がします。それでもデヴィッドの救われ方には疑問が残りますが…
 結論としては「メトロポリス」(アニメのね)を見よう! でした。

ハズバンズ

Husbands
1970年,アメリカ,131分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:ヴィクター・J・ケンパー
音楽:ジャック・アッカーマン、スタンレー・ウィルソン
出演:ベン・ギャザラ、ピーター・フォーク、ジョン・カサヴェテス

 中年に差し掛かった4人の仲間、そのうちの1人が死ぬ。その葬式に駆けつけた3人の仲間たち。複雑な思いを抱えたまま葬儀場を後にした3人はのんだくれ、あてもなく彷徨い始める…
 ジョン・カサヴェテスがはじめて自分の監督作品に出演、いつもの出演者陣と息のあった演技を見せる。タイトルに「コメディ」とあるが、果たしてこれはコメディなのかどうなのか?

 いきなり、音楽+スチルの連続という破天荒な始まり方をするが、この表現は導入とて絶妙。そのスチルを見ているだけで、次につながる葬式がマッチョ気味のハゲ気味の男のものであることがすんなりと伝わってくる。そこに言葉による説明は要らない。わざとらしいフェードアウトやセピアの映像もいらない。淡々と続くスチルだけでそれを十分に語っている。そのあたりがまずカサヴェテスの型破りなところでしょう。そしてその後もフレーミングやピンとの合わせ方などカサヴェテスらしさ満載なわけです。
 そんな映像と物語があいまってこの映画は非常にイライラさせられます。身をかきむしりたくなるようなイライラ感。「一体こいつらは何がしたいんだ?一体こいつらは何がおかしくて笑っているんだ?」と始終思わずに入られない。彼らとともに笑うことはどうしてもできない。そんな笑えないコメディにこめられているのはもちろん彼ら自身のイライラ感。どうしようもないという感覚。何かが失われ、それによって生じる歪みをどうすることもできないという感覚。そのようなものなのでしょう。だから見ていて決して心地よくはなく、楽しくもないのです。しかし見ている者の何らかの感情を呼び起こせるということはその映画に一種の「面白さ」があることを意味するでしょう。私たちは大概「面白い」映画を見たいと思います。しかし、その「面白い」とは「楽しい」ということとはイコールではなく、悲しかったり怖かったり痛かったりするはずです。そんな「痛さ」=「面白さ」がこの映画にはあると思います。

ルール

Urban Legend
1998年,アメリカ,99分
監督:ジェイミー・ブランクス
脚本:シルヴィオ・ホータ
撮影:ジェームズ・クレッサンティス
音楽:クリストファー・ヤング
出演:ジャレッド・レト、アリシア・ウィット、レベッカ・ゲイハート、ジョシュア・ジャクソン

 夜中にドライブ中のミッシェルはガス欠になり、あやしげなスタンドに立ち寄る。そこで怪しげな店員に襲われるがうまく逃げ出したが、実は車の後部座席に人が忍び込んでいたのだった。
 「スクリーム」「ラストサマー」といった流行のティーン・ホラーのひとつ。犯人が誰だかわからないというつくりも同じ。

 なんというか、この手のティーン・ホラーというのはいわゆるアイドル映画なわけで、とりあえずお気に入りの役者さんが出ていれば、劇場に足を運び、それで映画としても面白ければなおよしというものなんだと思います。だからそもそも映画としての評価がどうこうということもいう必要があるのかな。と思います。
 しかし、これは「スクリーム」や「ラスト・サマー」より後発の作品なので、ただの真似という評判をぬぐうためには何か工夫が必要だったはず。それが多分「都市伝説」で、アメリカの若者なら誰でも知っているであろう伝説を使うことで身近にもありえそうな話にするという工夫なわけですね。他には特にないか… でも、犯人はかなり分かりにくいですね。犯人がわかりにくいということは、裏返せばあとから見るとちょっと無理があるということになりがちというのもあります。この映画もそうですね…
 続編も製作され、ちょうど今公開されていると思います。

スコア

The Score
2001年,アメリカ,125分
監督:フランク・オズ
原案:ダニエル・E・テイラー、カリオ・セイラム
脚本:カリオ・セイラム、レム・ドブス、スコット・マーシャル・スミス
撮影:ロブ・ハーン
音楽:ハワード・ショア
出演:ロバート・デ・ニーロ、エドワード・ノートン、マーロン・ブランド

 パーティー中の屋敷に忍び込み見事にダイヤモンドを盗み出したニック。表の顔はモントリオールのジャズクラブのオーナー。モントリオールに帰った彼は25年来の相棒であるマックスから400万ドルという大きなヤマ(スコア)を持ちかけられる。しかし、危険を冒さない、住んでいる街では仕事をしないということをモットーとするニックはそのヤマに二の足を踏んでいた。
 「イン&アウト」などコメディ作品で知られるフランク・オズ初の本格サスペンス。味のある役者をそろえ、決して面白くないわけではないが、ひねりがないのがサスペンスとしては残念。

 大きなヤマの話があって、初めての奴と組む。となるとこの先の展開は… と予想してしまうのが人の常。それがどうなるのかは言わないとしても、このひとつのヤマで2時間撮ってしまうというのはちょっとつらかったかも。もうひとつのエピソードとしてデ・ニーロの恋話があるけれど、それも映画の中でそれほど大きな割合は占めない。もっと切り詰めていけば30分くらいは削れたんじゃないかと思ってしまう。その上でもうひと話盛り込めば、濃密で面白い2時間になったのではないかという気がする。やはり畑違いというハンディを克服し切れなかったというところでしょうか。最初の盗みのところはテンポもあってとてもよかったんだけどなぁ…
 さて、それにしてもマーロン・ブランドもデ・ニーロもすっかり太ってしまいましたね。マーロン・ブランドはいいとしても、デ・ニーロの盗みのシーンは重そうでなんだかねという感じでした。すで太ってしまったのか、あるいは引退寸前の泥棒という役作りなのかは分かりませんが、なんだか悲しいわ。

ウォーターボーイ

The Waterboy
1998年,アメリカ,89分
監督:フランク・コラチ
脚本:ティム・ハーリヒー、アダム・サンドラー
撮影:スティーヴン・バーンスタイン
音楽:アラン・バスクァ
出演:アダム・サンドラー、キャシー・ベイツ、ヘンリー・ウィンクラー、フェアルーザ・バーク

 少々とろい31歳のボビーはママと2人ルイジアナ州の山奥に住んでいた。そんなボビーはみんなにいじめられながらもフットボールチームの給水係を懸命に努めていたが、コーチの怒りに触れてついにクビ。給水係を愛する彼は新しいチームを探してまわり、おんぼろチームに入り込むが…
 人気コメディアンのアダム・サンドラーが脚本に製作総指揮まで勤めた脳天気コメディ。ラジー賞常連のサンドラーはこの映画でも見事ワースト主演男優賞にノミネート。

 笑える人と笑えない人がいるでしょう。アダム・サンドラーの笑いはいつもそう。でも私は好きですこういうの。今回は共演にキャシー・ベイツを向かえてパワーアップ。親子のからみが最高でしょう。プロットもよめよめ、つくりも安っぽく、映画としてはガタガタですが、笑えればすべてよし。そしてうかうかしていると感動すらしてしまうかもしれない。
 これはドリフト同じ、新喜劇と同じ、子供の読む絵本と同じ、結末が分かり、筋がわかり、その安心感があるから安心してみることができる。そこにたまに入れ込まれた意外性が笑いのつぼにはいります。
 ナンバー1ギャグをあげるなら、キャシー・ベイツが1人で卓球のラケットで遊んでいたところかな。あとは、わけのわからない言葉をしゃべるコーチ。ナンバー1じゃなくなっちまった。まあいいや。
 多分アメリカなんかだと差別的表現なんかの問題で、PG12くらいになるんだろうけれど、これくらいの差別的表現はむしろ教育的なんじゃないかと真面目なことも考えたりします。むしろ差別を逆手にとって笑いにすることで、差別する側を笑うみたいな意味にも取れるんじゃないかしら。アダム・サンドラーがどう考えているかはわからないけど。これを見て笑えないような偏狭な大人にはなるな! と言いたいです。