ビバ!マリア

Viva Maria!
1965年,フランス,122分
監督:ルイ・マル
脚本:ルイ・マル、ジャン=クロード・カリエール
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ブリジット・バルドー、ジャンヌ・モロー、ジョージ・ハミルトン

 アイルランドのために爆破を繰り返す父親を手伝って育ってきたマリーだったがその父が警察に捕まり、涙ながらに警察もろとも爆破した。そして逃亡中に紛れ込んだ旅芸人の一座で踊り異なる。相棒のマリアとともにストリップまがいの踊りで人気を博したが、「マリアとマリア」という名で講演旅行中にサン・ミゲルで事件に巻き込まれる…
 ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローというフランスの大女優二人が共演、監督はルイ・マルという作品だが、作品のほうはB級テイストにあふれた楽しいもの。BBの魅力全開という感じだが、物語もなかなか痛快で見ごたえがある。

 いろいろと理不尽なところはあるわけですよ。しかし、それはこの映画が基本的にハチャメチャな映画で(そもそもブリジット・バルドーが革命家という設定からして相当無理がある)、監督はそのことをがっちりつかんで、多少の脱線や理不尽は映画が消化してしまうということを理解している。だから、普通に映画を撮るとしたら何とか調整をつけようとすること、たとえばサン・ミゲルの人たちに映画の演説の意味が通じるとか、そういうことを全く放置して、映画をどんどん進めてしまう。これが映画に勢いをつけて、物語を魅力的にする。そのあたりのストーリーテリングの妙というか、映画の組み立て方が絶妙という気がしました。
 しかも、その辺のB級映画とは違って、それぞれのネタがただのバカネタではない。いろいろ元ネタとか含蓄があるような気がする(具体的に何なのかはわかりませんが)。最後のオチも、単純に笑わせようというネタではなく、神父が…(ネタばれ防止)というところに意味があるわけです。20世紀初頭という設定もただブリジット・バルドーにコスチューム・プレイをさせたいという理由だけではなく(もちろん、それも理由の一つではある)、メキシコの革命という時代設定にあわせてあるのです。そのあたりをしっかり考えている感じがとてもよいです。
 というわけで私はとてもいいと思ったわけですが、一般的に言うと、ルイ・マル映画としては主流を外れ、ブリジット・バルドーものとしてもお色気満点というわけではなく(30代に差し掛かっているし)、コメディというわけでもないので、ターゲットとする観客がはっきりしないのがなかなか難しいところなのかもしれません。でも、やはり、なんか、いいですよ。「古い映画はちょっと」とか、「ブリジット・バルドーって動物愛護の人でしょ」とか思っている人も、この映画ならなかなか楽しめるはず。

カレードマン大胆不敵

Kaleidoscope
1966年,アメリカ,102分
監督:ジャック・スマイト
原作:マイケル・アバロン
脚本:ロバート・キャリントン、ジェーン=ハワード・カリントン
撮影:クリストファー・チャリス
音楽:スタンリー・マイヤーズ
出演:ウォーレン・ビーティ、スザンナ・ヨーク、エリック・ポーター、クライヴ・レヴィル、ジェーン・バーキン

 赤いオープンカーに乗ったバーニーは町で見かけた通りすがりの娘エンジェルに一目ぼれ。一夜のデートを楽しんで、彼女を送っていく。バーニーはしばらく出かけるが、帰ったら連絡をするといって去っていった。その用事というのは実はジュネーブにあるカレイドスコープ社のトランプの原版に細工をしてカジノで大もうけしようという計画だった…
 60年代の雰囲気満載の、サスペンス・コメディ。ウォーレン・ビーティが若い。凝ったつくりというか、全体的に不思議な雰囲気がある。

 ちょっと眠くて、あまり覚えていないんですが、画面が変わるときに、なんだか不思議な幾何学模様が使われていたりするのが不思議。ついでにそこで流れる音楽はインド風、ガムランってやつですかね。映画の展開もなかなか不思議。半分過ぎるくらいまで映画の要点が見えてこない。
 「カレイドスコープ」といえば、多分万華鏡という意味だった気がするんですが、なぜそれがトランプ会社の名前でしかも映画のタイトル(原題)になってしまっているのか、という疑問もある。しかも、イギリスのケイジ風情にわかってしまうような仕掛けがカジノの人たちにわからないのか、という疑問も浮かぶ。 まあ、そんなこんなを考えながらみていたら、ようするにこの映画は完全におふざけというか、サスペンスという形はとっているけれど、わたしにとってはコミカルな部分とか、60年代風の雰囲気というもののほうが興味を引かれる。
 ちょっとネタばれ気味になってしまいますが、後半に出てくる敵のボス(という表現がいいかどうかはわからないけれど)のキャラもなかなかいい。ナポレオンを信奉しているということで、髪形なんかがナポレオン風で変わっているのもいいけれど、背を低い人をキャスティングするその細かさがなかなかいい。
 この監督はかなり地味ですが、いい作品をとっているのかもしれないという気がします。たぶんコメディ向き。

とべない沈黙

1966年,日本,100分
監督:黒木和雄
脚本:松川八州夫、岩佐壽弥、黒木和雄
撮影:鈴木達夫
音楽:松村禎三
出演:加賀まり子、平中実、小沢昭一、長門裕之、山茶花究

 北海道の小学生が夏休み、チョウをとっている。チョウ好きの少年は見かけたチョウがデパートで見かけたナガサキアゲハであることに気付いて、必死で追う。ついに捕まえた少年は誇らしげに学校に持っていくが、先生は北海道にいるはずがないといって少年を信じない。少年がチョウを捕まえたところにいくと、不思議な女がいた。
 黒木和雄の劇映画第一作、非常に幻想的な物語の中で社会的なテーマも失わない。全体的に不条理で理解しがたいが、いまや名カメラマン鈴木達夫のカメラの流麗さが全体に統一感を与える。

 冒頭の、少年がチョウを撮るシーン、ここの映像は本当にいい。少年の視線、チョウの視線、外からの視点、それらの視点を織り交ぜながらカメラはあくまでも自由に飛び回り、少年の緊張感や躍動感を伝える。これだけのシークエンスを作るには才能と努力が必要に違いない。ドキュメンタリーっぽいといえば、そんな感じもするが、ドキュメンタリーで培われた被写体に密着するとり方というか、執拗に被写体を追い、その視線を捉えようとするとり方がこのような映像を可能にしたということはいえるだろう。
 そのような冒頭部に対して、本編のほうは映像よりもむしろテーマ性が先にたつ。もちろん映画のどこまで行ってもカメラの流麗さは失われず、はっとするようなカットがあるのだけれど、映画としてはそのチョウの旅路自体よりもその場所場所で描かれる、現代日本の病のようなもののほうに主眼を置く。長崎での描写は亀井文夫の『生きていてよかった』を思い出させずにはいない。おそらく、積極的に映画の材料として取り入れているのだろう。
 戦争に限らず、現代の(当時の)日本が抱える問題、あるいは監督が日本に対して感じる不安を映像として提示したという感じだろう。

 それにしても、物語というかはなしのプロットがなかなかわかりずらく、物語に入っていくのが難しい。全編に共通する登場人物は加賀まり子だけで、しかもセリフもあまりしゃべらない。このとらえどころのない物語はフィクションやドキュメンタリーという区別を超えたところにあるのかもしれない。確実にフィクションではあるが、フィクションというにはあまりに断片的である。
 論争的にしようという監督の目論見はおそらく外れ、加賀まり子のかわいさとカメラの(映像の)素晴らしさだけが引き立ったそんな作品になってしまった。いっそドキュメンタリーにしてしまったほうがいいものが取れたんじゃないかとも思ってしまう。

女は二度生まれる

1961年,日本,99分
監督:川島雄三
原作:富田常雄
脚本:井手俊郎、川島雄三
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:若尾文子、山村聡、フランキー堺、藤巻潤、山茶花究

 九段で「ミズテン芸者」をやっているこえんは芸者といいながら、芸はなく、お客と寝てお金をもらう。そんな彼女は芸者屋の近くでしょちゅうすれ違う学生やお得意さんに連れてこられた板前の文夫なんかにも気を遣る。
 そんな女の行き方を川島雄三流にハイテンポに描く。若尾文子が主演した川島雄三の作品はどれも出来がいい(他に『雁の寺』『しとやかな獣』)。この作品も単純なドラマのようでいて、非常に不思議な出来上がり。細部の描写が面白いのはいつものことながら、この映画は若尾文子演じるこえんのキャラクターの微妙さがいい。

 淡々としているようで、驚くほど展開が速い。スピード感があるというのではなく、時間のジャンプが大きい。そのあいだあいだを省略する展開の早さが川島雄三らしさとも言える。このテンポによって描かれるのは主人公こえんの心理の変化である。心理の変化といっても、その内面を描こうとするのではなく、外面的な描写からそれを描こうとする。つまり実際に映画に描かれるのは、主人公の心理に与える影響が大きいエピソードだけで、その出来事と出来事の間は時には1日、時には1年離れているという感じ。
 いろいろな「男」が登場しますが、一番気になったのはフランキー堺の板前ですね。必ずしも彼が一番好きだったというシナリオではないと思いますが、わたしはそのように見ました。藤巻潤の学生さんはそれほどではないように思えるのは、やはり一度(ではないけれど)肌を合わせたかどうかの違いなのでしょうか。こえんのこのキャラクターならば、そのことが意外に大きな要素になるような気もします。その辺りが川島雄三というか、この時代の日本の(というより大映の)映画らしいところということもできるかもしれません。
 フランキー堺の板前といえば、この映画で一番好きだったシーンが、こえんが二の酉の日に一人ですし屋を尋ねていく場面。シーンが切れてすし屋が映ると、何故かベートーベンの『運命』がかかる。それがラジオかレコードか何かだということはすぐわかるんだけれど、すし屋このBGMというミスマッチが気をひく。そして、風邪気味だといった文夫にこえんが「熱があるの?」ときくと「いいえ」とそっけなく言う。それはその前のシーンのこえんと全く同じセリフで、その辺りが非常に詩的。

 プロットの展開の仕方は川島雄三「らしい」ものといえるけれど、このあたりの描写は川島雄三「独特」のもの。この細部の描写を描く感性は川島雄三しか持っておらず、彼の映画でしか見ることができない独自性だと思う。もちろんそれが絶対的にいいというわけではないけれど、この日本映画の黄金時代に独特のキャラクターを持つことができた川島雄三の偉大さを今でも認識できるのは、この独特さにある。
 山村聡のキャラクターが他の映画とちょっと違うのもステキ。べらんめい調で話しながら、ちっちゃいエプロンをしてすき焼きの用意なんかをしているところを見ると、これも一種のミスマッチで、しかしそれが面白みを出しているそんな場面。
 ミスマッチと奇妙な符合。それがこの映画のキーになっていて、物語は奇妙な符合で展開され、映画の細部はミスマッチで彩られる。その辺りがなんだか微妙でいい感じ。最初はそうでもないけれど、見ているうちになんだかだんだん気持ちよくなっていく、そんな映画でした。

法と秩序

Law and Order
1969年,アメリカ,81分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 カンザスシティの警察官の様子。もちろん犯罪者を逮捕する。それだけではなく、街を見回りさまざまな出来事に応対する。ひったくられたバックの捜索などもする。ワイズマンがカメラを回したのは、アフリカ系の住人が多く、貧しい住民が多い地域である。
 映画は警察の活動を肯定的とも否定的とも取れる形で捉えていく。しかしそれは客観的という価値観によるものではなく、まさに現実を切り取ろうという意欲の結果である。
 現実はそのようなものであるとして、その『法と秩序』が意味しているものはなんなのか? ワイズマンはいつものように観客に問いかける。

 警察を追うドキュメントというのは見慣れた感じがする。日本でも「警視庁密着24時」なんてのもあるし、アメリカの番組も入ってきていたりする。だからといって、必ずしもこの映画と比較する必要もなく、この映画が30年以上前に作られたことも考え合わせると、単純な比較をすることがそもそも間違っているような気がする。ので、とりあえず比較はおいておいて、素直にこの映画を見てみたいと思う。
 この映画を見てまず思うのは、警察官とはいったいなんなのか? ということだ。それはあまりに素朴な感想だが、ワイズマンの描き方は、まさしく警察官のとらえどころのない活動の総体を捉える描き方だ。時には市民に優しく接する人々であり、時には犯罪者と見まごうばかりに暴力的にもなる。それはつまり生活に密着した存在であると同時に、権威を象徴する存在でもある。そのような存在である警察官を公的に表すのが「法と秩序」という言葉だ。警察官とは「法と秩序」の万人であるという言われ方をする。
 しかし、この映画に突然ニクソンの演説が挟まれると、話は簡単ではなくなっていく。ニクソンが「法と秩序」について語り、治安の維持こそが大切だと叫び、人心の刷新こそが必要だと訴えかけるとき、慣習の歓声がそこに捉えられているにもかかわらず、そこに説得力はない。それまでずっと警察官の活動を見せられてきたわれわれは、警察官の活動が上からの変革の影響を早々受けるものではないということにうすうす気付いている。だからニクソンの演説は訴えかけてくる以前に滑稽ですらある。
 これはある意味では、国家と生活との乖離を示す一つの例なのかもしれない。国家とはつまり権力である。警察とは国家と生活をつなぐ一面を持っているかもしれないが、その背景にあるのは権力である。だからいくら生活に近づこうとしても、そこに行き着くことはできない。その生活に密着しているようで、近づききれていない警察の微妙な立場がフィルムに込められているからこそ、この映画を見て「警察官とはいったいなんなんだ」と考える。

 結局ここで比較の話にいってしまいますが、いわゆる警察ドキュメントとこの映画との違いは、その辺りにあるのではないか。いわゆる警察ドキュメントが追っているのはあくまで警察の活動である。それぞれの活動の「意味」を求めることはあっても、基本的にそれが求めるのは警察の<活動>である。
 それに対して、この映画はまず警察の「意味」を求める。求めるというよりはそれを問題のまな板に載せる。ここの活動の「意味」も、活動それ自体もあくまで警察というものの存在の「意味」を考えるための材料である。
 もちろん、映画とは個々の映像(と音声)から成り立っているものであるので、そのように言ってみても、それは単なるひとつの解釈に過ぎないということになる。映像だけを捉えるなら、この映画もいわゆる警察ドキュメントもあまり変わりはない。
 あえて、繰り返しふたつの間の違いを言うならば、それは見ているものを考えるように仕向けるか否かという違いである。同じ材料を映像化しながら、それを一種のエンターテインメントとして見せるか、それとも思索の材料として見せるか、優劣以前の問題としてそのような違いがあるような気がする。

高校

High School
1968年,アメリカ,75分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:リチャード・ライターマン

 今回ワイズマンが入っているのは、ノースイースト高校。白人中産階級向けの典型的な高校のひとつで、かなり優秀な生徒が集まっているようだ。そんな中でも問題を起こす生徒はおり、生活指導の教師が生徒たちに厳しい言葉を投げかける。あるいは父兄が呼ばれ、成績や進路について話し合う。そんなどこの高校でもありうる風景を連ねた作品。
 ワイズマンには珍しく時代性を強調し、映画の始まりも当時のヒット曲をBGMとして使っている。ワイズマンが切り込むのは、生徒よりはむしろ教師と学校という機構の側である。

 なんともいらだたしい学校だ。表面上は性教育が盛んであったり、現代的な教材(たとえば、サイモン&ガーファンクル)を取り入れたりして、進歩的な教育を行っているように見える。しかし、その実は旧態然とした権威主義と差別主義がすべてを支配する学校だ。教師のどの言葉をとっても、そこに権威主義と/か差別主義が透けて見える。
 生活指導を行う教師はあからさまに権威を振りかざす。そこには理屈はない。生徒が何をしゃべろうとその言い分は何一つ聞かず、あらかじめ用意した自分の考えを生徒に押し付けるだけだ。言葉の上では硬軟使い分けるが、結局言おうとすることはひとつで、反抗する生徒には容赦をしない。ここで思うのは教師たち(一部の生徒もそうだが)の「決め付け」の激しさである。すべては自分の先入観をもとに判断される。これで教育などできるはずがない。
 「家」について話す教師は女系家族を尊重するような口ぶりをするが、旧約聖書にはほとんど女性が登場しないなどという話を持ち出して、結局は女性の地位を貶める(生徒は男子学生のみである。この授業にかかわらず、この学校では男女別の授業が数多くあるようだ)。

 この映画は時代性を意識して作られている。最初のシーンで流れる音楽は当時のヒット今日であるし、ベトナム戦争が話題のなるのも一種の時代性だ。生徒たちのファッションや髪型にも頻繁にカメラが向く。ワイズマンの作品は一般的に言って、時代とか場所とかを超越したような作品が多い。それは一種の普遍性である。この映画もそのような普遍性を目指している点では変わりがない。この時代性が意味するのは、教育と時代との密接な関係性だろう。
 その時代性を象徴するトピックのひとつが最後にやってくるベトナムに行った卒業生からの手紙だが、もちろんワイズマンは観客を感動させようとしてこのエピソードを入れたわけではないし、反戦のメッセージでもない。かといって、超然とそのような生徒=兵士を生産する学校という制度に疑問を投げかけているわけでもない。
 ワイズマンの関心は兵士の生産装置として描かれている学校というものがアメリカという大きな機構のひとつの部品でしかないということであるだろう。その意味は、国と学校を含めた生活とが密接にかかわっているということではなく、その逆である。
 一つ一つの現実は一人一人の人間の生活そのものであり、それは真剣に見つめなければならない問題である。ここで現実とは高校のことであり、それは主に生徒にとっての高校という意味だ。しかし、他方で国という大きな機構があり、それはあらゆる現実と関わり、それを制御しようとする。この国と現実との関係性はあまりに薄い。国は現実とは乖離してしまい、何もすることができない。

チチカット・フォーリーズ

Titicut Follies
1967年,アメリカ,84分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・マーシャル

 ウォーターブリッジ矯正院では、収監者たちによる学芸会が行われている。踊り、唄を歌う彼らの表情はうつろだ。
 ワイズマンは矯正院の中で彼らをとる。収監者たちと看守たち。食事を取ることを拒否し、チューブで鼻から栄養を入れられるもの、自分は精神病ではないと強固に主張するもの、誰からかまわず演説をぶつもの、彼らを映しながら、ワイズマンは誰の見方でもない。
 ワイズマンの長編デビュー作は、ワイズマンにしてはカメラを意識させるような撮り方だが、基本的なスタンスはすでに出来上がっている。この映画は収監者のプライバシー保護という理由で上映禁止とされ、24年後、最後に断り書きを入れるという条件付で上映禁止が解かれた作品。

 ワイズマンらしくないというのか、まだ固まっていないというような点が2点ある。
 1点はカメラの存在。ワイズマンの映画は極限までカメラの存在感を消し、そのことによって観客と映画を接近させる。われわれはスクリーンの中に透明人間のように存在し、観客の特権性という意味では劇映画と変わらないように映画の中に存在することができる。
 ところがこの映画では、時折被写体となる習慣者たちがカメラを凝視する。つまり、観客であるわれわれが凝視される。看守同士が監房の扉を開けるときの会話のシーンでもわれわれは看守仲間の一人であるように視線を注がれ、言葉をかけられる(実際に言葉を投げかけられるわけではないが)。そのとき、われわれは透明人間ではなくなり、視線の特権性を奪われてしまう。
 それ自体に問題はないはずだ。ワイズマンだってそのような映画を撮っていいはずだ。問題なのは、にもかかわらずカメラは特権的であるかのように振舞うということだ。見られているのに透明人間であるような不利をする。そこには他のワイズマンの映画にはない居心地の悪さがある。

 2点目は映画全体の構造である。この映画は矯正院の学芸会(と勝手に呼ぶ)とともに始まる。これ自体は問題はない。それは矯正院の行事の一つであり、院の活動、あるいは実態を描く上で効果的なものであるといえる。そこに参加する収監者たちと看守たち(特に院長と思われる人)の表情の違いは、何か言葉にならぬメッセージをわれわれに発する。
 しかし、この映画がその学芸会の閉幕とともに終わるというのはどうだろうか。このことによってこの映画は学芸会と等価のものとなってしまう、というと言いすぎかもしれないが、少なくとも、この映画がひとつの見世物であるという印象を残してしまう。施設の内部に入り込んだ冷静なレポートではなく、施設のひとつのスピーチになってしまう。
 この映画は学芸会と同じく、矯正院のひとつのプレゼンテーションに過ぎないということになりはしないだろうか? 観客は見ていたのではなく見せられていたということになりはしないだろうか?
 今、この作品を見るわれわれはワイズマンのスタンスを理解し、ワイズマンがそのようなスポークスマンとして映画を作っているわけではないことを知っているから、そのように思いはしないが、当時一人の新人ドキュメンタリストの作品に過ぎないものを見た当時の観客たちにこそ、強く感じられたはずではなかろうか? 

日本の夜と霧

1960年,日本,107分
監督:大島渚
脚本:大島渚、石堂淑朗
撮影:川又昴
音楽:真鍋理一郎
出演:桑野みゆき、津川雅彦、渡辺文雄

 1960年、安保闘争で出会った二人が結婚披露宴を執り行うところで、当時の同士、さらには1950年、破防法反対運動時代の同士たちが演説をぶち始める。披露宴の時間から抜け出ることはせず、追想による再現映像で物語を語っていくリアルタイムの学生運動映画。
 人材刷新のため登用された大島渚だったが、会社の逆鱗に触れ、4日で公開中止になったといういわくつきの作品。

 始まってしばらくは、独特の演説調の台詞まわしと、時折セリフがつまり、言い直すという斬新といっていいのかなんといっていいのか、そんな破天荒な語り方に魅了され、じっと映画を見ることができる。
 しかし、物語が進み、それがあまり変化しないことがわかると、その演出というか語り方の大胆さだけでは補えない退屈さが顔を覗かせる。おそらく、リアルタイムで同じような体験をしていた若者たちには、突き刺さるものあるいは共感できるものとして、没頭できるものがあったのだろう。しかし40年後の今、この映画を見るとき、その思想的な面が今も考えるべきものがあるとはいえ、心に突き刺さってはこない。
 演説調のセリフたちが、本当に演説でコミュニケーションとして成り立っていないのもいらだたしい。果たして大島渚が彼らのディスコミュニケーションを、アジテーションの投げかけあいでしかない現状を嘆き、描いたのか。最後までアジテーションで終始し、しかもそれが完結しないところを見ると、そのような意図を持って描かれた作品なのだろう。
 しかし、そのような批判によって何を描こうとしたのかは判然としない。おそらく、これは一種のドキュメンタリーであり、何かを描こうという意図はなかった。果てしないアジテーションを捉えることで、そこから浮き上がってくる何かを画面に定着させる。そのために、つっかえたり言い直したりしてもそのままとにかく続けて撮る。それは一回性を是とするドキュメンタリーの手法に通じる。そんななか、津川雅彦だけは流暢にセリフをしゃべる。しかし、これまた演出ではないだろう。
 なんだか結局よくわからない。すごいのかすごくないのかもわからない。いろいろな文脈でいろいろなことがいえるような気もするけれど、素朴に見るとなんだかわからないまま終わってしまう。何が問題なのか、何が解決したのか、何が解決していないのか。それがわからない。

去年マリエンバートで

L’Annee Derniere a Marienbad
1960年,フランス,94分
監督:アラン・レネ
脚本:アラン・ロブ=グリエ
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
音楽:フランシス・セイリグ
出演:デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタッツィ、サッシャ・ピエトフ

 不思議な庭を持つ豪華なホテル、あるいは邸宅でである男と女。女には夫があり、男は去年女とマリエンバートで会ったと主張する。
 物語を語っても全く無意味な、空間と空想が、あるいは夢が人々を捕らえた様を描く映画。果たしてこの映画で物語られることのひとかけらでも現実でありえるのか。それは夢と呼ぶにはあまりに儚な過ぎ、記憶と呼ぶにはあまりに…
 ノスタルジックであるような、近未来的であるような、カフカ的迷宮であるような、とにかく理解という言葉が無意味に感じられる作品。

 果たして自分は映画を見ているのかということが不安になる。映画が何かを伝えようとするものならば、果たしてこの映画から何が伝わってくるのか。映画を見ながら眠ることが悪いことだとはわたしは思わない。この映画もおそらく、目をらんらんと輝かせ、集中してみても、果たしてどれがどの時間に属し、どれが想像で、どれが空想で、どれが現実で、どれが記憶であるのかははっきりしないだろう。そのことはこの映画のどの瞬間を切り取っても明らかだ。
 たとえば、女がベットに倒れこむ瞬間を4度くらい繰り返すシーンがある。その倒れこみ方はそのそれぞれで異なっている。このそれぞれの所作はいったいなんなのか? 似て非なる瞬間を4つ連続で見せる。着ているものも同じでベットも同じ、異なるのは倒れこむ角度だけ。そのことが伝えるのはやはり記憶や現実や夢や空想のそれぞれのはかなさでしかない。

 現実の不条理さを表す空間を「カフカ的迷宮」と呼ぶことがある。この映画の空間は果たしてカフカ的迷宮なのだろうか? ある意味ではそうだろう。この邸宅にいる人々はおそらくここから抜け出すことはできない。いったんは出て行ったとしても必ずここに戻ってきてしまう。男と女は来年再びここで再会し、同じことを繰り返すのだろう。そのような意味でこの映画も「カフカ的迷宮」であるけれど、その言葉で語ることができるのはこの映画の一部分でしかない。
 そもそもこの映画は「語り」として整合性をもって理解することができない。たとえば序盤でパーティーのように人々が集うシーンがある。カメラは滑らかに移動し、人々を映すが、人々は時折静止し、不意に動き出す。それは画面が静止するのではなく、人間がマネキンのように静止するのだ。果たしてこの「語り」が意味するものはなんなのか。そのような細部(というほど細部ではないが)にまで考えを及ぼしていくと、これは果たして映画であるのか、あるいは映画とはなんなのか、までがわからなくなっていく。
 果たして映画とはなんなのか。

サイコ

Psycho
1960年,アメリカ,109分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ロバート・ブロック
脚本:ジョセフ・ステファノ
撮影:ジョン・L・ラッセル
音楽:バーナード・ハーマン
出演:アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー、ジョン・ギャビン、ヴェラ・マイルズ

 フェニックスの不動産会社に勤めるマリアンは、たまに出張で町にやってくるサムと昼休みに逢い引きをし、会社に戻る。そして、売り上げの4万ドルを銀行に預けにいくように言われるが、マリアンは頭痛を口実に、帰りに銀行によるといってその4万ドルを持って会社をあとにした。
 ヒッチコックの代表作のひとつであると同時に、映画史上でも古典的ハリウッド映画からアメリカン・ニューシネマへの移行に際する重要な作品と位置づけられるという作品。
 ヒッチコック自身が上映館に「観客の途中入場を禁ずる」というお達しを出したほどなので、見たことない人は、なるべくこれ以上の予備知識を入れないようにしてとりあえず映画を見ましょう。

 この映画はさすがに、何度も見ていて話も覚えているので、何も知らないつもりで見ることはできませんが、わたしの気分としては、初めて見る場合の事にも触れたい。
 この映画を初めて見ると、おそらくあの衝撃シーンにまさしく衝撃を受けるだろう。それは、シーン自体の主人公であったはずのヒロインが死んでしまうということから来る衝撃だ。当時の古典的ハリウッド映画(乱暴に言ってしまえば、観客の視点を主人公と一致させ、最初から最後まで主人公の視点から物語を語る映画)しか見てこなかった観客と比べると、その事実を受け入れることは容易だけれど、その場面を「え?」という一種の驚きを持ってみることは確かだろう。それこそが映画史的に言って非常に重要なことなのだけれど、映画史のことは別にどうでもいいので、今見た場合を語りましょう。今見ると、結局のところ、後半こそが映画の主題で(だからこそ『サイコ』という題名がついている)前半は後半の謎解きへと観客をいざなうための導入であるような気がする。だから、衝撃的であるはずの殺人シーンがイメージとして流布していても、映画の本質的な部分は失われないということだ。
 ということなので、現在では内容を知っていようと知っていまいと、『サイコ』という作品の見え方にそれほど違いはないということになるだろう。そのように考えた上で、この作品のどこがすごいのか? と考えると、それはどうしても歴史的な意味によってしまう。それは『サイコ』以後、サイコのような作品がたくさん作られ、初めて見るにしろ、何度目かに見るにしろ、サイコ的な要素をほかの映画ですでに見たことがあるからだ。音の使い方。それはまさにサイコがサイコであるゆえん。観客の恐怖心をあおるための音の使い方。それはサスペンス映画あるいはホラー映画の基本。むしろそのサイコ的なオーソドックスな使い方を避けることによって映画が成立する。精神分析的な謎解き、あるいは恐怖の演出、それはまさしく「サイコ・スリラー」というもの。
 つまり、『サイコ』を見ると、映画史を意識せずには入られないということ。それはそれより前のいわゆる古典を見るときよりも、である。まあ、見るときはそんなことを意識せず見て、楽しめばいいのですが、見終わってちょっと振り返ってみると、そんな歴史が頭に上ってしまいます。
 マア、細部に入れば、いろいろとマニアックなコメントもあるのですが、そのあたりはまた次の機会に。