5時から7時までのクレオ

Cleo de 5 a 7
1961年,フランス,90分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ジャン・ラビエ
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:コリンヌ・マルシャン、アントワーヌ・ブルセイエ、ジャン=クロード・ブリアリ、アンナ・カリーナ、ジャン=リュック・ゴダール

 癌の恐れがあるクレオは7時に出る検査結果を待って、5時に占い師にタロットで占ってもらう。しかし、その結果は恐ろしいものだった。その結果に恐怖を増しながらも、歌手であるクレオはレッスンを受けたりして時間をすごす。
 パリの街を徘徊する5時から7時までのクレオをただただ追った作品。ヴァルダはこれが長編2作目。劇中劇である短編映画にゴダールとアンナ・カリーナが出演しているのにも注目。

 冒頭のタロット占い(カラー)が結構長く続いて、その終盤で、ぱっとクレオを映す。そこはモノクロで正面から画面いっぱいに捉えられたクレオの目からは一粒の涙がこぼれている。このシーンだけでやられてしまう。どうして冒頭にこんな美しいシーンを持ってこれるのかと思ってしまう。
 映画のほうはというと、全体にかなりおしゃれな感じ。アート系の女の子映画の古典とでも言うべき趣を持つ。そもそもヴァルダはヌーベル・ヴァーグの中でも女性的なものを大きく前面に押し出していた監督で、ヴァルダの発想は現代のアート系女の子映画にももちろん影響を与えている。この映画でもクレオの部屋の感じなんかのあたりにアート系の女の子映画の雰囲気がある。もちんそれでいいんです。全体にも結末にも満足しています。
 ヴァルダの映像はなんとなくものの捕らえ方が大きい気がします。ロングで撮るよりもアップで、画面から対象がはみ出すくらいの大きさで撮る。そんな画面が多い気がします。これはあくまで印象で、具体的にこことこことここというふうには言えないんですが、人物が切れていたりすることが多かったなぁと思ったりします。もっとほかの作品も見てみれば、そのあたりもわかってくるでしょう。そしてどの作品もファーストシーンがいいのかということも。この作品のと「カンフー・マスター!」を見る限りでは、ファーストシーンの魔術師と名づけたくなるくらいです。やはりファーストシーンは重要なのだと実感しました。

月曜日のユカ

1964年,日本,94分
監督:中平康
原作:安川実
脚本:斉藤耕一、倉本聡
撮影:山崎泰弘
音楽:黛敏郎
出演:加賀まりこ、中尾彬、加藤武、北林谷栄

 キャバレー勤めのユカは男の人を喜ばせることを女の生きる目的と考え、ボーイフレンドに加えて“パパ”とも付き合っていた。しかし、ある日ボーイフレンドと歩いているときに家族と買い物をするパパの姿を見かける。その顔が今までに見たことがないほど嬉しそうだったことにユカはショックを受ける…
 加賀まりこ初の主演映画は日活の看板監督中平康によるもの。加賀まりこがとにかくかわいい。

 かなり不思議な映画です。冒頭から外国語と字幕。途中でも静止画に声が入ったり、ストップモーションがあったりと普通ではない効果が多用されています。しかし、だからといって前衛的というわけではなく、オーソドックスなものの中に一つのスパイスとして入っている感じ。だから鼻につくわけでもなく、しかし逆にそれほど印象にも残らないというものです。あるいはむしろそのような効果はひとつの笑い(ギャグ)として存在しているのかもしれない。または、ひとつの転調として。時々止まったり早くなったりすることで、単調になるのを避けるという効果。
 加賀まりこが正面を向いて、棒読みで語る場面。こういうアクセントがあるのはとてもいいと思います。この場面もそうですが、この映画はシネスコの画面の真ん中を使うということが多い。真ん中に物を置いて、左右を空白にするというのはかなり大胆だと思います。
 面白い作り方だとは思いますが、私としてはあまり好みではないかもしれません。なんとなく飄々とうまく立ち回っている感じの映画で、正面からずばっと切り取ることをしないという感じ。抽象的でわかりにくいとは思いますが、そんな感じなのです。人物の描き方も映像の組み立て方もそんな感じです。こういう題材を扱うならば、もっと人間の内面に土足で踏み込んでいくような大胆さがほしかったと思います。そうでなければ全体をもっと軽妙なものにするか、そのどちらかのほうが好みには合うのでした。
 こういう映画のセンスのよさというのも理解できるんですけどね。あくまで好みの問題でした。

欲望

Blow-up
1966年,イタリア,111分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原作:フリオ・コルタサル
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン

 大勢の若者が白塗りの顔で車に乗って騒いでいる、簡易宿泊所(?)から無言で人々が帰ってゆく。そんな映像とハービー・ハンコックの音楽で始まるこの映画の主人公はカメラマンのトーマス。売れっ子カメラマンらしくわがまま放題に行動するトーマスはまた撮影の途中でスタジオを抜け出す。公園へとやってきた彼は、カップルのいる風景を写真に撮るが…
 アントニオーニの後期の代表作のひとつ。カンヌではパルムドールを受賞。

かなり理解しがたい物語であるが、それは登場人物たちの関係性やトーマスの行動原理がまったく見えてこないことにある。スタジオの程近くの家に住む美女はいったい誰なのか? なぜ料理を注文しておいて車で去ってしまうのか?
 この映画の原作者のフリオ・コルタサルはラテンアメリカの多くの作家と同様に幻想的な作品を多く書いている作家である。
 そんなことも考えながら映画を反芻していると、なんとなくいろいろなことがわかってくる。現実と非現実を区別するならば、誰が現実の存在で誰が非現実の存在なのかということ。トーマスがエージェントらしい男に見せる老人たちの写真。映画に写真として現れるのは、この老人たちの写真と公園の写真だけである。映画の冒頭で簡易宿泊所(?)から出てきたトーマスがおそらくそこで撮ったのであろう写真。トーマスの行動は若者が夢想する典型的な自由であるように思える。
 すべてが幻想であり、虚構であると考えることは容易だ。しかしこの映画がそんな単純な「夢」物語なのだとしたら、ちっとも面白くないと思う。何でもありうる「夢」の世界で起こる事々を単純な仕組みで描いただけであるならば、ありがちな映画に過ぎない。この映画の優れている点はこれが「夢」物語であるとしても、少なくともある程度は「夢」物語ではあるわけだが、誰の「夢」であるのかがはっきりとしないことだ。いくつもの解釈の可能性があり、どれが正解であるとは決まらない。単純な「夢」の物語と考えず、その現実とのつながり方を考え、いくつもの可能性を考えたほうが面白い。
 少なくとも一部は「夢」であると考えられるのにこの映画は「リアル」である。トーマスが一人になる場面がいくつかあるが、そこで彼は完全に無言である。不要な独り言やモノローグは存在しない。大仰な身振りも存在しない。トーマスを見つめるカメラの目が彼の行動を解釈しているに過ぎない。

冒険者たち

Les Aventuriers
1967年,フランス,110分
監督:ロベール・アンリコ
原作:ジョゼ・ジョヴァンニ
脚本:ロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョヴァンニ、ピエール・ペリグリ
撮影:ジャン・ボフェティ
音楽:フランソワ・ド・ルーべ
出演:アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカス

 飛行機乗りのマヌーとレーシングカーに熱中するローラン。2人は大の親友で、いつもローランの家のガレージに入り浸る。マヌーは頼まれた仕事で凱旋門を飛行機でくぐるという計画を立てていたが、失敗し免許停止に。ローランも開発していた車が爆発し無一文になってしまった。そんな2人にコンゴの近海に宝が沈んでいるという話が転がり込んで…
 2人の男とひとりの女。そんなフランス映画にありがちな設定ながら、とても繊細で爽やかなドラマ。とてもソフトないい雰囲気を持つ映画。

 フランス映画はかくありなむ。ちょっとまえまでフランス映画といえばこんな感じでした。美男美女に海に水着に… そしてこの映画はそんなフランス映画らしいフランス映画としての完成度は高い。2人の男とひとりの女の関係を描くという、ある意味古典的な題材をプロットの中心には据えずにさらりと描く。本当はそれこそが映画の最大のテーマであるかもしれないけれど、あくまで控えめにという姿勢がいい。その抑えた感じがハリウッドと比較したときのフランス映画のイメージなのかもしれません。
 それにしても、映画にフランスらしさがあるというのは不思議なこと、同じように日本映画らしさとかハリウッド映画らしさとかイラン映画らしさとかがある。そのことは前々から疑問でした。この監督だって「よし!フランス映画らしい映画を撮るぞ!」と決めて映画を撮っているわけではないはず。意識しなくてもそういう映画になってしまう。逆にフランスでハリウッド映画っぽい映画を撮ろうとしたら「ハリウッド映画っぽく撮るぞ!」と決めないと撮れないような気がする。この映画の「国民性」というのはすごく不思議です。憶測では各国の映画製作のシステムが影響を与えているのでしょう。インディペンデントで作られた映画のレベルでは製作国による違いはそれほど明確ではない気がします。あるいはインディーズ系と呼ばれる監督達はそのレベルを超えようとしています。アキ・カウリスマキの映画は「日本映画」のジャンルに入ると誰かがどこかで言っていましたが、そういうようなこと。ジム・ジャームッシュだってアメリカ映画ではないと思う。しかし、そうして「国民性」のレベルを超えようとしているということは逆にまだ超えるべき境界が存在することを意味し、どこからそんなものが生まれるのかという疑問は解明されないのです。
 今日もまた話がすっかりそれてしまいましたが、これはなかなか興味深い問題だと思いませんか?
 さて、映画に話を戻しますがこの映画「冒険者たち」という題名のわりには、映画に起伏が少ない。比較的淡々と物語りは進み、いくつかの山場はあってもたたみかけるような勢いはない。といってもそれが悪いといっているわけではなくて、うららかな午後のひと時に何人かで紅茶でも飲みながら見たりするのには適していると思います。しかし、それは絶対にこの映画でなければいけないというのではなくて、そんなシチュエーションに適した一本でしかない。その「弱さ」が気になります。しかし、しかし、そういう映画も必要で、そういう映画をストックしておけば、たとえば気分に適したCDをかけるように、気分に合わせて映画を見るということができたりします。頭の中に入れておいて、友達がきたときにレンタルビデオ屋で借りてきたりするといいでしょう。

 それが「映画を日常に」ということ。かな。

ぼんち

1960年,日本,105分
監督:市川崑
原作:山崎豊子
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:宮川一夫
音楽:芥川也寸志
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、草笛光子、山田五十鈴、船越英二、京マチ子

 隠居暮らしの喜久治は腹違いの息子達のことを客に聞かれ、思い出話をはじめる。話の始まりは昭和の初め、喜久治が大阪は船場の足袋問屋のボンボンだった頃に遡る。当時はいいように放蕩を続けていた喜久治だったが、家の中で発言力を持つ母と祖母の勧めに従って結婚することにした。しかし、しきたりや世間体ばかりにこだわる母と祖母はそう簡単に嫁の弘子を受け入れはせず…
 市川崑に宮川一夫、市川雷蔵と当時脂の乗り切っていた人材が集まって作られた、ちょっと時代がかった題材をモダンな感じで撮った秀作。

 宮川一夫がカメラを持つと、どんな映画でもいい映画になってしまうのだろうか? 宮川一夫らしさというものが特段何かあるわけではないけれど、「いいな」と思ってスタッフを見ると、宮川一夫の名前があることが50年代、60年代の映画には多い。この映画でも映像の素晴らしさには感心するしかなく、昔の話が始まった冒頭の数シーンを見るだけで、それが自然で滑らかでありながらどの瞬間を切り取っても美しいことに気付く。その映像にどんな特徴があるとかいうことを説明できないのがつらいのですが、なんとなくのイメージとしては上からの視線が多く、色彩が鮮やかで、動きのある画面が多い。という感じでしょうか。あとは意外な視線から物を眺めることも多いかもしれません。この映画の冒頭で記憶に残っているのは、母と祖母の2人が足早に廊下を歩く足袋のアップと舟がフレームを横切るところを真上から撮ったところ。ともに日常的ではない視点で撮られているということがあるので、そう考えると、意外な視点というのも特徴のひとつなのかもしれません。
 まあしかし、宮川一夫が名カメラマンであるということはすでに定説となっているようなので私がことさらに言うまでもないかもしれません。そういうすごいカメラマンがいたんだよ。ということです。見たことない方はぜひ一度見てみてくださいな。
 映像の話が長くなってしまいましたが、ほかにこの映画で気に入ったところといえば、喜久治の人間性でしょうか。「ぼんち」という言葉の意味はいまひとつ分かりませんが、確かにボンボンではあるけど、ただの穀つぶしの放蕩息子ではないということでしょうか。とにかく、この喜久治という人のやさしさと自然に出てくる改革精神(というと大げさですが)は素晴らしいですね。こういう人になりたい、というと御幣があるかもしれませんが、こういう心のもちようで暮らしたい、と思った次第であります。

秋日和

1960年,日本,128分
監督:小津安二郎
原作:里見弴
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順
出演:原節子、司葉子、岡田茉莉子、佐分利信、笠智衆

 旧友三輪の7回忌に集まった3人の友人と残された三輪の妻子は寺を後にし、料理屋で語る。その席で三輪の娘百合子のお婿さんを世話しようと話になるが、話はなかなかうまく進まず…
 小津は60年代に入っても親子の物語を撮る。原節子が娘役から母親役に回り、全体にモダンな感じになってはいるものの、本質的な小津らしさは変わらず、その混ざり加減がとても心地よい感じ。

 60年代、オフィス街、銀座、BG(ビジネス・ガール)とくると、どうしても増村保造の世界を思い浮かべてしまいますが、これは小津。なので、物語の展開もやはり小津。増村ならば、秋子を巡ってドロドロとしたり、いろいろあると思うのですが、小津なので最終的に母娘の物語になります。そして相変わらずカメラ目線で正面を向き、独特の節回しで「ねぇ~」と言う。
 小津の「ねぇ~」が好き。小津映画の女性たちは「そうよ」と「ねぇ~」だけでいろいろなことを語る。大体は女性同士が視線を交わしあいながら、なんだか企み気に「そうよ」… 間 …「ねぇ~」という。ついつい微笑んでしまうその光景が好き。小津映画を巨匠巨匠と構えて見るよりも、「ねぇ~」といいながら微笑んで見たい。この映画はそんな見方に最適です。
 この映画を見ながら60年代に暮らしたいと思いました。まあ無理ですが。増村を見ていてもそうですが、モーレツな生活の中に何か味わいのようなものがあるとは思いませんか? 何かかが新しくなっていく時期というか、古いものと新しいものが混在している時期という感じ。そして娯楽の中心は映画で毎週毎週こんな映画が封切られる。少々不便でもそんな生活って素敵だと思いますね。
 だんだん映画の感想ではなくなってきていますが、気にしない。私は普段歩くのが好きで、ふらふらと東京の町をさまよっているのですが、大通りを歩くのは楽しくない。それよりも細い道をふらふら歩く。それでも東京はどの道もしっかりと舗装され、つまらない。60年代の映像を見ていると、銀座ですらまだ舗装されていないところがあったりする。そんな道を歩くのは快適ではないかもしれないけれど楽しいことのような気がします。これは生きたことがない時代へのノスタルジー。現実は違うと思うけれどノスタルジックに見ることがとても楽しいのでいいのです。
 そうなったら、このメルマガもガリ版で作るしかないかしら。それもいいかもね。

黒の報告書

1963年,日本,94分
監督:増村保造
原作:佐賀潜
脚本:石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:宇津井健、叶順子、神山繁、殿山泰司、小沢栄太郎

 社長が自宅で殺されるという殺人事件。この担当になった城戸検事は凶器も判明し、指紋も出て、簡単な事件だと考えた。思い通り簡単に容疑者を捕まえ、尋問を開始するがなかなか自白をしない。そしてそこに現れたのは腕利きとして知られる弁護士山室だった。
 「黒」シリーズ、宇津井健シリーズの最初の作品。増村得意の法廷もので、重厚なドラマ。

 被疑者がいて、いかにも悪徳っぽい弁護士がいてという設定で、どう考えても城戸検事に肩入れせざるを得ない設定の作り方なので、このドラマはとてもいい。映画に対してはなれた視線で見ると、こういうドラマチックなドラマは醒めてしまうし、特に斬新なものがあるわけでもないので耐えがたくなってしまうが、映画の中に簡単に入り込めると、眉間にしわを寄せながら次の展開へと心はあせる。 ということなので、映画の冷静な分析など望むべくもなく、叶順子はきれいだなとか、宇津井健は眉毛つながって見えるなとか、そんな感想しかなく、これが最初からシリーズ化される予定だったとしたならば、「これからどうなるんだ城戸検事」と思わせる終わり方は見事だなということぐらいしか言いようがない。
 ひとつ思ったのは、殿山泰司のすごさ。最近「三文役者」という映画をやっていて、殿山泰司を竹中直人が演じていました。すっかり見逃してしまいましたが、もともと殿山泰司は知っていたもののそれほど思い入れがなかったというのもあります。しかし、この作品の殿山泰司はすごい。映画の中でひとり浮くぐらい味がある。水をいっぱい飲むだけで、「何かある」と思わせる演技をしています。これが名脇役といわれる所以かとはじめて実感したわけです。ほかに増村に出ていたので思い出すのは、「清作の妻」くらいでしょうか。とにかく、ようやく殿山泰司再発見でした。

女の一生

1962年,日本,94分
監督:増村保造
原作:森本薫
脚本:八住利雄
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:京マチ子、田宮二郎、東山千栄子、小沢栄太郎、叶順子

 明治、日露戦争中の東京で町外れのぼろ屋に住むけいは両親をなくし、叔父の家で暮らしていた。しかしそこでけいはこき使われ、ついには家を追い出されてしまった。途方にくれ、座り込んでしまったけいの前の大きな家では、にぎやかな誕生祝が催されていた。
 激動の時代を生きた「女の一生」。増村にしては無難なドラマというところ。

 1時間半の映画で一生を語るというのはなかなか難しいことであるわけで、その焦点をどこに置くのかというのが問題になってくる。「女の」一生と名付けられたこの作品はもちろん、女としての生き方に焦点が当てられるわけだけれど、時の経過とけいの「女」としての生き方の変化を描ききるのは増村でも難しかったのかもしれない。新聞を使ってイメージで時代性を表すのは非常にうまい方法で、その分物語に集中できはした。
 だから、前半、人生がめまぐるしく展開していく部分では非常にスピード感が生まれいいのだけれど、逆に後半の穏やかな流れの中の心理の機微のような部分を描くにはそのスピード感があだになったかもしれない。ひとつの時代、ひとつの単元のその生き方の感触を味わいきる前に次に行ってしまう。そんな印象が残った。しかし、あまりにスピード遅く、深く考える余地を与えてしまうとそれはそれで映画としての勢いがなくなってしまうので面白くない。そのあたりのスピード感の調整というものが難しかったのかもしれない。
 増村の映画は短い時間に膨大な量の情報を詰め込み、観客に考える暇を与えない映画が多い。振り返ってみると、あんなこともこんなこともあったと思うのだけれど、見ている時点ではただ圧倒され、映画が流れ込んでくるに任せるしかない。特に初期の映画にはそういう傾向が強くそれが面白い。これが後期の映画になるとむしろ情報を削って画面に緊張感をもたせるような方法で観客をひきつける映画が出てくる。これは削られた情報のどれもが逃してはいけない情報であるように見せることで、観客に緊張を強いることで考える暇を与えない。
 この2つの方法の狭間にあるのがこの映画なのかもしれない。この2つの方法をひとつの映画の中でうまくスイッチできれば、ものすごい映画になったのかもしれないけれど、まだ熟しきれていない緊張感が映画の後半の印象を弱めてしまったということなのだと思う。

うるさい妹たち

1961年,日本,98分
監督:増村保造
原作:五味康祐
脚本:白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:真鍋理一郎
出演:川口浩、仲宗根美樹、江波杏子、岩崎加根子、永井智雄

 大会社の副社長である山村は夜中1人車を走らせていた。するとそこに1人の少女が。乗せてくれと迫る少女に山村は思わず首を縦に振ってしまう。すると暗がりから何人もの若者が現れた。これをきっかけに、その少女達と山村に加え、山村の娘と秘書が絡み合う物語が始まる。
 60年代当時「六本木族」と呼ばれた若者達を描いたスピード感のある作品。都市の若者を描いたという意味で同時代のヌーヴェルバーグと対比されることの多い作品でもある。

 映画は物語ではない。映画は何かをかたるものでは必ずしもない。それはヌーヴェルバーグのメッセージであり、新しい映画が出発する原点となったものだろう。映画を見て「結局何なんだ」と問うてはならない。いや違う。問うのは自由だけれど、答えを作り手に求めてはいけない。解釈は見る側がするべきものであって、あらかじめ答えは用意されていない。
 そんな映画の意味合いがこの映画の観後感(読後感みたいなものね)にはある。「だから何なんだ」と問いたいけれど、問うてはいけないといわれているような感じ。それはこの映画が新しくはあるけれど圧倒的ではないからだろう。ゴダールやトリュフォーの秀作や、増村の「青空娘」や「最高殊勲夫人」を見て、「だから何なんだ」と問おうとは思わない。それはこれらの映画が何かを語ってはいないにもかかわらず、見るものを圧倒する何かがあるからだ。
 それに対してこの映画はなにも語らず、観客を圧倒もしない。なんといっても白黒に限る江波杏子の居ずまいや当時の若者の者の捉え方(とその描き方)は観客を魅了しはするけれど、圧倒しはしない。理解を越えはしない。
 そう思うのは増村に対して高望みをしてしまうからだろう。しかし、この映画にはそんな解釈を促させる何かがあるのかもしれない。それは映画のどの要素も平均的に合格点という感じの映画だからかもしれない。心地よいスピード感、適度に絡み合ったプロット、うまく練られた映像。そのそれぞれを取れば十分に見事な作品なのだけれど、私が増村の映画に求めるひとつの突出した個性がない。それは一人の役者でも、映像でも、音楽でも、演出でも何でもいいのだけれど、何かひとつ目をひきつけて離さないものがあるといい。
 この映画を見ながら、他の小林節雄や他の川口浩と比べてしまう。すると、「卍」や「闇を横切れ」が頭に浮かんでしまう。でも、江波杏子はこれが一番かもしれないと思った。

女体

1969年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:池田一朗、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:浅丘ルリ子、岡田英次、岸田今日子、梓英子、川津祐介

 大学の理事長のところに1人の派手な女が訪れる。その女・浜ミチは理事長の秘書で娘婿の石堂に理事長の息子に強姦されたといい、200万円の金を要求した。理事長と石堂、その妻晶江の間の話し合いで、金で解決することに決まり、石堂がその金を渡しに行くのだが…
 増村得意の男を狂わす魔性の女もの。その中でもかなり強烈な一作。浅丘ルリ子はまさにはまり役。

 いきなり紺地にオレンジの水玉のワンピースというカットで始まるこの映画は非常に鮮やかな色彩の映画で、色彩という面ではそれほど冒険してこなかった増村にとってひとつの挑戦だっただろう。しかし色彩といっても、この色彩の多彩さはただただ浅丘ルリ子の衣装に収斂する。風景や車はいつもの増村らしい地味なトーンで統一され、その中で浜ミチの纏う洋服だけが鮮やかに映る。
 この浜ミチの色彩的な突出は映画における(あるいは社会における)そのキャラクターの突出とリンクしているのかもしれない。周囲の風景に溶け込まない彼女の被服は、社会に溶け込まない彼女の性質を示し、その不整合は苛立ちを生む。全くひとつの画面として溶け合おうとしない強烈に対立しあう図と地の関係は、全く根本的にコミュニケーションが成り立たない浜ミチと周囲との関係に似ている。このディスコミュニケーションが彼女を見ているわれわれのうちに生じる苛立ちの原因だろう。
 浜ミチと周囲の人々は話し合っているようで全くコミュニケーションはできていない。それはもちろん浜ミチが聞く耳を持たないからだが、それはそもそも彼女にはコミュニケーションをしようという意思がないからで、コミュニケーションをとろうと思っている周囲の人たちとかみ合うわけはないのだ。
 しかし、われわれは会話とはコミュニケーションであり、互いに相手の言うことを聞いていると思いながら映画を見る。したがって浜ミチよりはその周りの人たちのほうに同一化しやすいだろいう。その同一化の中で見つめる浜道は非常にいらだたしく、厄介な存在だ。「魅力的である」という価値観を共有できない限り、全くもってただただいらだたしいだけの存在だ。
 しかし、誰に同一化するかは見る人によって、あるいは見るたびに変化するものだから、この映画が端的に「いらだたしい」映画だと断言することはできない。同じ魔性の女もの「でんきくらげ」を見たときは、すっかり渥美マリの側に自分を置いてしまったので苛立ちはむしろ周りの人のほうに感じた。この違いは何なのか? 映画の側の違いなのか、それとも私の中の何かの問題なのか?