スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

Star Wars : Episode 1 – The Phantom Menace
1999年,アメリカ,133分
監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:リーアム・ニーソン、ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、ジェイク・ロイド、テレンス・スタンプ、サミュエル・L・ジャクソン

 「スター・ウォーズ」の時代からさかのぼること30年。共和国から通商連合の調査のためにナブーへと派遣された二人のジェダイの騎士はその裏に惑星ナブーを占領しようという陰謀があるを知る。それを共和国政府に伝えるため、女王を救い出したのだが…
 後にダース・ベイダーとなるアナキン・スカイウォーカーの少年時代、帝国が出現する以前の時代を描いた。CGを駆使して戦闘シーンからキャラクターまで非常に精密な映像を作り出した。

 やはり、ILMの特撮技術はすごく、どこからがCGなのかなかなか判断がつきにくいくらいではある。特にポッドレースのシーンがなんといっても秀逸。それに、なかなか地味なところではシールドというのがあって、CGというのは半透明なものを表現するのがすごく難しいらしく、その技術が開発されたのがようやく数年前だったらしい(映画でいうと、たしか「アンツ」だったか「バグズ・ライフ」が本格的にCGの半透明表現を取り入れたものだったはず)ので、これだけきれいにそれを表現するのは想像を絶する難しさだったはずです。
 しかし、映画としてはやはりシリーズの第一作という感じで、全体がプロローグっぽく作られているのが不満。これからどうなるかに期待をもたせるには十分だけれど、1つの物語としてはちょっとね。
 だがしかし、面白いことは面白い。それもすべては映像のおかげというしかないけれど、特撮の辺りは置いておいても、色彩の使い方や画面構成はやはり秀逸。美術班が優秀なのでしょうこの映画は。そこは絶対にはずさないところが「スター・ウォーズ」のすごいところなわけです。

NYPD15分署

The Corruptor
1999年,アメリカ,111分
監督:ジェームズ・フォーリー
脚本:ロバート・プッチ
撮影:ファン・ルイス=アンシア
音楽:カーター・バーウェル
出演:チョウ・ユンファ、マーク・ウォールバーグ、リック・ヤン、ポール・ベン=ヴィクター

 チャイナ・タウンを管轄に持つニューヨーク市警の15分署。そこのやり手の刑事チェンの部署に若い白人の刑事が配属された。娼婦の連続殺人事件にマフィアの抗争と血なまぐさい事件が続発するチャイナタウンで白人の青二才がやっていけるとは思いもしないチェンだったが…
 ハリウッドで売れっ子になりつつあるチョウ・ユンファ渾身のアクション。やはり香港スターはアクション出て何ぼやね。

 これは意外な掘り出し物。まったく期待しないで見た割には結構楽しめた。とはいってもプロットがすごくこっていたとか、アクションがド迫力だったというわけではない。プロットもそこそこ、アクションもまあまあというところ。
 まずこの映画でよかったのは音楽。プロットとは余り関係なく挿入される様々な種類の音楽が非常に印象的。アクション一点張りで単調になるのを防ぎ、映画にリズムを与えている。などと思っていたら、なんと音楽はカーター・バーウェル。コーエン組の音楽監督として有名です。ちょっと前に紹介した「ミラーズ・クロッシング」の音楽もよかったー、というカーター・バーウェル。なるほどね。 もう一つよかったのは、これはかなり個人的ですが、アメリカの警察ものファンにはたまらない設定であること。アメリカの警察組織っていうのは複雑らしく、まあ市警だFBIだの何だのとなっていますが、ハリウッド映画とかアメリカのドラマなんかを見ているうちになんとなく分かってきてしまうもの。そしてその複雑さが映画にもいい複雑さを与えるというもの。警察ものファンならきっとうなる「あ、なるほど、ウォレスが…、あれね」(ネタばれ防止)。
 という少々マニアめな楽しみ方をしてみました。こういう映画もアリかな。意外とどんな人でもそこそこ楽しめるいい映画ではないかと思います。

議事堂を梱包する

Dem Deutschen Volke
1996年,フランス,98分
監督:ヴォルフラム・ヒッセン、ヨルク・ダニエル・ヒッセン
撮影:ミッシェル・アモン、アルベール・メイスル、エリック・ターパン、ボルグ・ウィドマー
出演:クリスト・ヤヴェシェフ、ジャンヌ=クロード・デ・ギュボン

 ドイツの旧国会議事堂を巨大な布で梱包しようというプロジェクトを立てたアーティストのクリストとジャンヌ=クロード。まだベルリンの壁が存在し、街が二つに分断されていた頃に企画したこの企画が政治の駆け引きによる紆余曲折を経てついに実現するまでの日々を追ったドキュメンタリー。
 様々な巨大インスタレーションで世界的に有名なアーティストクリスト&ジャンヌ=クロードのライフワークであるだけに、そのすごさは映像からでも伝わってくる。

 「なんだかわからないけれど感動的なもの」、そういうものが世の中にはある。この梱包された議事堂もそのようなものの一つである。映画自体は実現するまでの苦労話というような構成になっているが、われわれは彼らが苦労したことに対して感動するわけではない。梱包された議事堂そのものに分けもなく感動をする。それまでのエピソードは感動を引き伸ばすための時間稼ぎでしかないといっても過言ではない。準備段階を見ることによって完済する作品に対して想像を、期待を膨らませる、そのための時間。そしてその想像を期待を上回る美しさの完成作品を目にした瞬間!
 これが素直な感想ということですが、「映画」のほうに目をやると、映画側がやろうとしたことはかなり社会的なこと。芸術と社会/政治の関係性というものでしょう。映画的なクライマックスは議会でこの問題が話し合われるシーン。「意味がない」、「無駄だ」という意見を声高に叫ぶ議員達こそがこの映画が提示しようとしたもの。社会/政治が芸術に対してとる(ふるい)態度。もちろんこの映画はそんな態度に対して批判的なわけですが、必ずしもそれを否定するのではなく、一つの意見として取り上げることに意味がある。肯定的な態度と否定的な態度の両方が存在しているということこそが重要なのです。
 したがって、アーティストの側としてはいかに社会にコミットしていくか、社会に受け入れられるかという問題が常に存在しているということが見えてきます。「バトル・ロワイヤル」ではないけれど、もっと社会に対して悪影響を与える可能性がある(と思う政治家がいる)芸術の場合にはもっと難しい問題になってくるということ。
 それは、梱包された議事堂に「それぞれのドイツを見る」というジャンヌ=クロードの最後のセリフが含意する複雑な意味にもつながってくるのでしょう。

ノストラダムス

Nostradamus
1994年,アメリカ=イギリス=ドイツ,118分
監督:ロジャー・クリスチャン
脚本:ナット・ボーサー
撮影:デニス・クロッサン
音楽:バーリントン・フェロング
出演:チャッキー・カリョ、アマンダ・プラマー、ジュリア・オーモンド、ルドガー・ハウアー

 大地が口をあけ、巨大都市を飲み込む。少年ミシェル・ド・ノストラダムスが見た夢は果たして単なる悪夢だったのか… 成長し医師として頭角をあらわすミシェル。ペストがとどまることなく流行していた時代、それは狂信的な異端弾圧の時代でもあった。
 という、ノストラダムスの生涯を伝記映画化した作品。

 結局のところ、焦点が定まっていないというか、なんというか… 中立の立場をとって人間としてのノストラダムスを描こうという意図はわかるのだけれど、その割には人間ドラマにしてしまうのでもない。そのあたりの中途半端さがどうも納得いかず。
 映画のつくりとしては、ノストラダムスが最初に身を寄せる家が妙に不自然だったことをのぞけば、非常にオーソドックスな中世映画という趣で、文句はないけれど、特に誉めるべきところもない。無理からいうとしたら文句のほうで、ちょっと安っぽいかなという感じ。どこのシーンでもショットのアングルが限られていて、映像に変化が乏しい。予算の関係上セットにお金がかけられないのかもしれませんが、こうなるとなんかテレビドラマじみていて、ちゃちい印象になってしまうことは避けられないのです。
 それに反して、役者達はなかなかいい演技を見せていて、フランスが舞台なのに全員が英語を話すというハリウッド映画っぽい問題点をのぞいては、自然でいい。

ラヴァ-ズ

overs
1999年,フランス,101分
監督:ジャン=マルク・バール
脚本:パスカル・アーノルド、ジャン=マルク・バール
撮影:ジャン=マルク・バール
音楽:ヴァレリ・アルベール
出演:エロディー・ブーシェ、セルゲイ・トリヒュノヴィッチ、ジュヌヴィエーヴ・パージュ

 美術書専門の書店で働くジャンヌのところにある日、たどたどしいフランス語を話す青年ドラガンが訪ねてきた。不安げなドラガンをジャンヌはデートに誘い、彼がユーゴスラヴィア人であることを知る。そして2人はそのままジャンヌのアパートで一夜を過ごした…
 パリジェンヌとユーゴスラヴィアから来た貧乏画家が繰り広げるラヴ・ストーリー。「グラン・ブルー」でジャック・マイヨールを演じたジャン=マルク・バールの初監督作品。

 最近よく見るいわゆる「ドキュメンタリー・タッチ」の作品。しかも監督がカメラも持ち、ほとんどが手持ち撮影。こんな形式の作品は最近結構多い。「トラフィック」も形式としてはかなり近いものがあるし、マイケル・ウィンターボトムの「ひかりのまち」などもその部類。
 この映画はフランスで「ドグマ」というシリーズの第5作目ということらしいですが、そのシリーズがどのようなものなのかは分かりません。
 映画としては、ドラガンがなかなかいい味。冒頭からのなんともオドオドした感じがいいし、しかもあとから見ればなるほど納得というのもいい。しかし、全体を見ると前半で相当盛り上がっていくだけに、後半部分はなんとなく物語りの焦点がぼやけてしまった感があり、残念ではある。見方を変えると、当たり前ではない状況を当たり前に過ごす人々をごく自然に描いたという意味ではいいものであるとも言える。
 でも、個人的に普通の人の生活をドキュメンタリー風に作った映画というのはどうも最近食傷気味なので、いまひとつしっくり来ず。
 ただ、最後の最後にやってくる長回しはなかなかいいのではないかと思います。

パリの確率

Peut – etre
1999年,フランス,109分
監督:セドリック・クラピッシュ
脚本:サンチャゴ・アミゴレーナ、アレクシス・ガーモ、セドリック・クラピッシュ
撮影:フィリップ・ルソード
音楽:ロイッチ・デューリー
出演:ロマン・デュリス、ジャン=ポール・ベルモンド、ジュラルディン・ペラス

 1999年の大晦日、アーサーは友人のマチューとともにSF仮装パーティーに出かける。アーサーの恋人リューシーも友達2人とそのパーティーへ。リューシーはその夜子供を作ると決めていた。リューシーの計画どおりトイレとしけこんだ2人だったが、アーサーは子供を作ることに躊躇する。なんとなく気まずいムードの中、アーサーはトイレの天井に別の部屋への入り口があることを発見する。そして建物の外へと出てみると、そこは砂に覆われた見たこともない世界だった。
 『猫が行方不明』のセドリック・クラピッシュ監督が『ガッジョ・ディーロ』のロマン・デュリス主演で撮ったおかしなSF作品。全体に漂うばかばかしさがたまらなくいい。

 このばかばかしさはすごく好き。ちょっと考えると「そんなわけね-よ」ということをさらりとやってしまう。タイム・パラドックスとかいうことを深く考えたりもしない。面白ければいいんだという分かりやすい姿勢が素晴らしい。
 映像も、特に斬新ということもないんだけれど、さらりといい映像という感じ。やはり砂漠というのは絵になるもので、何もない砂漠の上に人がいるというだけで映像としては十分成立する。砂漠の場面で一番印象に残っているのはけんかをしたアコとアーサーが座り込む場面。画面の端と端に座り、右端のアーサーがアコの方へと歩いていくのをカメラが追う。ただそれだけ。だけどいい。
 それに本筋とは関係ない部分もなかなか面白い。女三人組で一番きれい(だと思う)ジュリエット(だったと思う)が最後一人寂しく帰る場面をしっかり撮ってみたりするのも、「わびさび」ではないけれど、気が利いているし、ユリース(ひ孫)が結局どうなったのかまったく触れないところもいい。(何がいいのかと聞かれると困りますが、こういう投げっぱなしのエピソードがあるという未完成っぽさが好き)
 などなど、取るに足らないことばかりですが、その積み重ねでいい映画になったという作品だということ。

 まあ、この映画は基本的にはSFなわけで、普通に考えればありえない話しなわけですが、それがありえそうに描けてしまうのがクラピッシュらしさにつながるのかもしれません。未来を描く場合、普通は(ハリウッドはと言い換えてもいい)いまよりもテクノロジー的に進んだ社会を描く。それがわれわれにいい社会なのか悪い社会なのかは別にして、とにかくテクノロジー的には「進歩」した社会を描く。それはまさしく近代的な発展的歴史観というか、社会というのは日々進歩していくのだという素朴な考えの表れであるような気がする。SFというのは映画に限らず小説でもいまより科学技術が進んでどんどんすごいことができるようになったらどうなるんだろうという、夢の世界を描くものだった。しかし、果たして科学技術がどんどん進んでいくことが本当にわれわれ(人類のとは言わない)のためになるのかどうかということも、原子力の例を上げるまでもなく疑問に付されてきているし、その中で技術の発展が不幸を呼ぶようなものも数々作られているわけだけれど、この映画のようにある意味で退歩した未来を描くというのはあまりない。
 そんな意味でもこの映画は面白い。基本的には退歩しているけれど、しかしその未来に対して最後にはアーサーが期待というか希望を持つというのも示唆的なのかもしれない。
 クラピッシュの作品をいろいろ見て、この人の現代に対する感覚というのがすごくよくわかる気がした。それは心地よいというわけではないのだけれど、私がいまという時代に対して感じる感覚と何か近しいものを感じる。
 クラピッシュは映画というものに対して何か行き詰まりのようなものを感じていて、しかしそれを斬新さで突き破ろうとするのではなく、もっと自分自身の身近なところに引き戻すことで新しい生々しさを生み出そうとしているような気がする。未来の描き方も『マトリックス』のような圧倒的な世界ではなくて、身の丈にあった自分に関わるミクロの未来だけを描く。
 それはとてもとても大切なことなんじゃないかと思う。

SAFE

Safe
1995年,アメリカ,119分
監督:トッド・ヘインズ
脚本:トッド・ヘインズ
撮影:アレックス・ネポンニアシー
音楽:エド・トムニー
出演:ジュリアン・ムーア、ザンダー・バークレイ、ピーター・フリードマン

 新興住宅地のメイドのいる大きな家に住み、不自由なく生活しているように見えるキャロルだったが、体調不良と疲労感に苛まれていた。夫も心配し医者に行くように勧めるが、医者でも異常なしといわれる。しかし、キャロルの症状は徐々に悪化していく。果たして何が原因なのか…
 現代人が抱える精神や周囲の環境といった問題を取りあげた映画。淡々とした内容ではあるが、映像や演出にはかなり細かい神経が行き届いている作品。

 これだけドラマがない映画はなかなか難しい。映画のプロットにドラマチックさがかけていると、どうしても映画自体が単調になってしまい、飽きがきて、眠気を誘う。
 しかし、この映画は意外と飽きない。特に前半部分はなんとなく不安と好奇心を抱かせる。それは表面に出てくる物語の問題ではなくて、映画自体の作り方から来るのだろう。この映画の前半部分の映像の作り方はかなり変わっている。普通にドラマチックさを表現する場合のつくりからすると不自然なつくりになっている。
 具体的には、クロースアップの使われ方がおかしい。普通クロースアップは重要な部分を拡大することによって劇的な効果を生むものだが、この映画ではパーマをかけている頭がクロースアップされたりする。にもかかわらず、映画として重要そうな夫婦の会話などの場面は引きで固定カメラで撮られてしまったりする。このあたりの齟齬感が見ている側の好奇心をそそる。このあたりの映画のつくりがかなりうまいということ。
 これらはもちろん化学物質過敏症という原因が明らかになってゆくにつれ謎が解き明かされてゆくので後になってみれば納得がいくのだが、それを知らずに見た時点ではかなり不思議。
 というように、前半から中盤にかけてはかなり面白く、映画に引き込まれていくが、終盤になると映画の単調さが少々飽きにつながってくるのが難。結末も決して悪くないので、そのあたりをちょっと絞ってあればかなり面白い映画になったと思います。

ツバル

Tuvalu
1999年,ドイツ,92分
監督:ファイト・ヘルマー
脚本:ファイト・ヘルマー、ミヒャエラ・べック
撮影:エミール・クリストフ
音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ、ユルゲン・クナイパー
出演:ドニ・ラヴァン、チュルバン・ハマートヴァ、テレンス・ギレスピー

 ある見捨てられた港町にある一戸建てプールに年老いた父と住むアントンはその建物からでたことがない。そんなある日、プールにやってきた娘エヴァにアントンは一目ぼれする。
 セリフはほとんどなく、そのセリフも一つの既存の言語ではないので、字幕は付されないという異色の作品。実験的な短編作品で有名なヘルマー監督がカラックス作品でお馴染みのドニ・ラヴァンを主演に撮った作品。ヒロイン役のチュルバン・ハマートヴァは「ルナ・パパ」の少女(製作はこっちの作品のほうが先)。

 「セリフ」というものに非常に意識が行きがちで、監督としてもうやはりそれは相当に意識していることなのだろうけれど、この映画は言語を廃したというよりは言語をより単純なほかのものに置き換えたものというイメージ。したがってそれほど斬新さは感じない。様々な言語で共通しそうな言葉(たとえばノー)を使ったり、身振りで表現したりすることはサイレント映画のちょっとした応用という気もしてしまい、新鮮味にはかける。
 それよりもこの映画でいいと思ったのは色調。全体にモノクロの映像なのだけれど、それぞれのシーンでその色調が違う。最初の場面はブルーで、「最近はやりのブルーフィルターか」と思ったらそうでもなく、決してカラーにはならない。ブルーのモノクロ、グリーンのモノクロ、ブラウンのモノクロなどなど様々な色のモノクロが現れ、モノクロだけでもこれだけのバリエーションがあるということを気づかせてくれる。ここがこの映画で一番よかったところ。
 あとは、不思議さ満載の細部は個人的には好み。最初に出て来た明らかに作り物の鳥なんかはかなりツボ。そういったB級的な要素とアート的な要素がうまく融合している、といいたいところだけれど、実際はあと一歩というところ。両方の要素が入ってはいるけれど、融合というにはちょと足りない。老人達が屋根の上でかさをさしているシーンなんかはかなりその融合が達成されているのかな、という感じはします。

ミラーズ・クロッシング

Miller’s Crossing
1990年,アメリカ,115分
監督:ジョエル・コーエン
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
撮影:バリー・ソネンフェルド
音楽:カーター・バーウェル
出演:ガブリエル・バーン、アルバート・フィニー、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ジョン・タトゥーロ、スティーヴ・ブシェミ

 1929年、アメリカ。街のボス・レオは腹心のトムに全幅の信頼を置いていた。トムは孤高の男で、賭けの借金がかさんでもレオに頼ろうとはしなかった。一方、街では最近イタリア系のギャング・キャスパーが勢力を伸ばしつつあった。そんなある日、レオの情婦ヴァーナが夜中トムのもとを訪れる。
 そこらのギャング映画とはまったく違うコーエン兄弟独特の雰囲気がすべてを染める。ストーリー、フレーミング、音楽、カメラの動き、どれをとっても一級品のコーエン兄弟渾身のフィルム・ノワール。

 やはり、この演出力とカメラの動かし方、音楽の使い方と何をとっても圧倒的な力を持つ作品。それが最も現れているシーンは、レオが機関銃を持った殺し屋に襲われるシーン。蓄音機から流れるオペラに乗って、ものすごい撃ち合いが、想像だにしない形で映像化される。
 この作品で一番目を引くのは被写体の大きさの急激な変化。アップでとらえていた人を急にひきの画で撮ったり、もちろんその逆があったり、ズームアップやトラックアップも変化をつけて使っている。最近非常によく使われるコマ送りのようなズームアップ(分かるかな?これで)が、しっかりと使われていることもいま見るとかなり目をひく。
 他にもたくさん書くことはありそうですが、例えば、小さな繰り返しの使い方。一番大きいのは帽子、それからミラーズ・クロッシング(十字路)の遠景。だけれど、クラブの表札、トムの部屋の電話などなど、最初は何の説明もなくポンとでてくるものが繰り返されるうちに、終盤にはぱっと画面に登場しただけで、それが何であるかが分かるような演出。そのあたりもかなり周到な計算が感じられる。
 あとは、微妙に語られるホモセクシュアルのことなんかもいいですね。ホモセクシュアルな三人の関係性は実はトムとレオとヴァーナの関係性と完全に対照のものとして物語に大きな役割を負っているにもかかわらず、それをこの20年代という時代にあわせて、隠してしまう。これもまたかなり微妙でうまい脚本といいたいところ。

ビッグ・ムービー

Bowfinger
1999年,アメリカ,97分
監督:フランク・オズ
脚本:スティーヴ・マーティン
撮影:ウエリ・スタイガー
音楽:デヴィッド・ニューマン
出演:スティーヴ・マーティン、エディ・マーフィ、ヘザー・グレアム、テレンス・スタンプ、ロバート・ダウニー・Jr

 貧乏プロダクションを経営するボウフィンガーは会計係のアフリムの脚本に感動し、映画化しようと決意する。しかし金もコネもないプロダクション。あの手この手でプロデューサーに脚本を見せ、大スターのキットの出演を条件に製作が許可された。ボウフィンガーはさらに強引な手で映画を作り始める…
 スティーヴ・マーティン脚本によるコメディ。全体の筋はともあれ、かなり笑えるネタがちょいちょいちりばめられていて、十分楽しめる。コメディファンなら必見、普通の映画ファンなら暇な時にどうぞ。豪華キャストだしね。

 こういう微妙なコメディ映画は難しいと実感。全編にわたって大爆笑というわけではなく、ストーリーは特に面白いわけでもない。やはり日本人ではストーリーが面白い映画がヒットする(と私は思っている)ので、こういう映画は難しいのかも。しかしコメディ映画ってものは、スポットスポットで面白ければいい(と私は思っている)わけで、その意味では十分ではある。
 特にお気に入りのネタは「KKK」と「フリーウェイ」のところかな。あとはメキシコ人がコッポラから電話を受けるところ。
 一つ不満があるとすれば、オチがオチきっていない。やはりコメディはオチ命、途中のネタの3倍くらいオチは大事(と私は思う)なので、このなんともだるだるのアメリカ的オチはどうもね。ということです。