アイアン・ジャイアント

The Iron Giant
1999年,アメリカ,86分
監督:ブラッド・バード
原作:テッド・ヒューズ
脚本:ティム・マッキャンリーズ
音楽:マイケル・ケイメン
出演:ジェニファー・アニストン、ハリー・コニック・Jr、ヴィン・ディーゼル

 1956年アメリカ、海に落ちた飛行物体、しけの海でひとりの漁師が巨大なロボットを目撃した。近所に住む少年ホーガースはその話を聞いた夜、妙な物音がして、テレビが映らなくなってしまったのをみて、何か巨大なものが通ったあとを追って森へ行った。彼はそこで巨大な鉄人に出会う。
 ワーナー作のアニメーション、ディズニーともドリームワークスともちょっと違う雰囲気があり、温かみが伝わってくる作品。

 なんとなく単純なアメリカンアニメーションとは違うものを感じる。ディズニーのうそっぽさや、ドリームワークスの技術への過度の傾倒とは無縁の温かみのあるアニメーションといっていいのか。なんとなく日本のアニメの要素も取り入れつつという感じ。一番それを感じたのは、ジャイアントが変身(?)をするあたりの描写なんかがそう。細部の描写の緻密さがとてもいい。
 あとは、映像の作り方がすごく映画っぽい。特に目に付くのはパン移動。アニメーションなので、画面のサイズを変えるのは簡単なはずなのに、忠実にカメラを横や縦に振った感じの映像を作り出しているところに映画人としてのこだわりのようなものを感じた。
 ただ、惜しむらくは結局のところプロットの細部は子供だましで終わってしまっているところ。「そんなはずはない」と思ってしまうプロットや描写の細部が気になってしまう。たとえばあれだけどしどしと音を立てて歩いていたら、いくら実際に見なくてもいることには大概気づくはずだとか、いろいろ。最後クライマックスのあたりで特にその荒さが目に付いてしまったのが残念(ネタがばれるので詳細は自粛)。やはり、アメリカのアニメはいまだ子供向けなのか、という感想になってしまいます。
 もっとしっかり大人でも見れるアニメーションが作られない限り、アニメ市場の日本の天下は揺るがないでしょう。「メトロポリス」でも見に行こう。

ツイン・フォールズ・アイダホ

Twin Falls Idaho
1999年,アメリカ,110分
監督:マイケル・ポーリッシュ
脚本:マイク・ポーリッシュ、マイケル・ポーリッシュ
撮影:M・デヴィッド・ミューレン
音楽:スチュアート・マシューマン
出演:マイク・ポーリッシュ、マイケル・ポーリッシュ、ミシェール・ヒックス

 お金がないことに腹を立てながらアイダホ通りの安ホテルの部屋へと向かった娼婦のベニー。部屋でであったのはシャム双生児の兄弟だった。一度は逃げ出したベニーだったがかばんを忘れ、部屋にとりに戻り、そのまま寝入ってしまう…
 孤独なシャム双生児と娼婦の間で展開される淡いラブストーリー。双子の2人が脚本・監督・主演を果たした異色作。

 物語り方は非常にうまい。ゆったりとしているようで実はすばやいテンポで物語が展開してゆく。ゆったりしていると感じさせるのはおそらく双子の動きと、くすんだ色調。テンポを作り出すのは多くを語らず、不要な部分を切り捨てていく周到なカッティング。おそらくシャム双生児を扱うという珍しさに目が行ってしまいがちだけれど、それがむしろあだになったかもしれないと思わせるくらい見事な物語り方だった。
 例えば、2人がギターを弾くシーンで、二人がベットの方に歩き、視線を横にやるカットのあと、ギターのカットが1・2秒あって、すぐに2人はベットでギターを爪弾いている。このギターが映る一瞬でわれわれは2人の荷物がギターケースに入っていたことを思い出し、次のカットにすっと入れる。ここに2人の囁きあいやフラッシュバックが入ってしまうと、効果的なようで物語を遅延させるだけの無駄なカットになってしまうように思う。
 こういった無駄なカットを省いていくことで、非常にスリムないい作品に仕上がっていると思う。ただ最終的には詰めが甘い。終盤はほぼ予想がついている展開にもかかわらず語りすぎてしまったと思う。せっかくそこまでいいペースで来たのにもったいないような気がした。
 しかし、まあ全体としてはとてもいい雰囲気の映画ですね。語りすぎないことというのは映画にとって非常に重要なことだと思います。

スパイシー・ラブスープ

愛情麻辣湯
Spicey Love Soup
1998年,中国,109分
監督:チャン・ヤン
脚本:チャン・ヤン
撮影:チャン・ジァン
音楽:ジャ・ミンシュ
出演:チャオ・ミアオ、カオ・ユアンユアン、シュイ・ファン

 火鍋と呼ばれる激辛鍋を食べるカップル。二人は結婚を考え、翌日彼女の両親と食事をすることに。彼氏の方はその夜おなかをこわしたが、彼女の両親との食事もまた火鍋だった…
 というプロローグで始まる中国の様々な恋愛模様を描いた群像劇、火鍋のカップルを含めれば5つのエピソードで構成される。すごいところもあれば平凡なところもある。中国の新しい映画。

 まとめてしまうと、突き抜けそうな勢いがあるところもかなりあるけれど、基本的に「くさい」ので、全体としては微妙なところ。おそらく、総括してみれば平凡な映画なのかもしれない。でも、考えてみれば異常なほどのまとまりのなさ。愛に様々なバリエーションがあるというのなら分かるけれど、この映画のそれぞれのエピソードはあまりに共通点がなさ過ぎる。
 最初の話はすでにあまり覚えていませんが、いわゆる中国映画らしいオーソドックスな感じ、2話目も最初はそうかと思いきや、がたがたと崩れていき、人形劇の辺りでは壁を乗り越えて突き抜けた感じがした。しかし、それもつかの間またオーソドックスにもどり、3話目はなんだか説教くさい普通の話。4話目はできそこないのウォン・カーウァイかと思わせておいて、「何じゃその落ちは」と突っ込まざるを得ない終わり方。2話目と4話目に私のハートはわしづかみされましたが、他の部分が全体的に説教くささも含めてくさく、トレンディードラマかよと突っ込みたくなる場面も多い。それでもそこここにセンスを感じさせるシーンや画面がちりばめられているので、見ながら映画に対する評価も激しく上下していくという感じです。
 と、かなり微妙な映画ですが、もう一つ突き抜ければすごい監督なのかもしれない監督の可能性は見えた気がします。

ザ・ハリケーン

The Hurricane
1999年,アメリカ,145分
監督:ノーマン・ジュイソン
脚本:アーミアン・バーンスタイン、ダン・ゴードン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:クリストファー・ヤング
出演:デンゼル・ワシントン、ダン・ヘダヤ、ヴィセラス・レオン・シャノン、クランシー・ブラウン

 1960年代、ミドル級の世界チャンピオンになったルービン・ハリケーン・カーター。殺人罪で終身刑を宣告され、獄中で回想記を書く彼は冤罪を訴えていた。しかし、再審請求も却下され社会から忘れ去られた彼の本を古本位置で偶然手に入れた少年レズラはその本に強く心打たれ、ハリケーンに手紙を書く。
 人種偏見に基づく実際の冤罪事件を元にした映画。モハメド・アリやボブ・ディランも当時の映像で登場する。

 ありがちな題材といっては失礼かもしれないが、人種偏見による冤罪という、60年代アメリカらしい題材。しかし、黒人と白人の対決という面を一方的に押し出すことはせずに、静かに描く。淡々と、しかし虐げられた黒人たちの怒りと憎しみははっきりと表す。このあたりはなかなかうまい。
 しかし、逆にそのせいで映画全体が平板なものになってしまっているのかもしれない。いまひとつ山場がないので、エンターテイメント性にはかけるというところ。そしてメッセージもいまひとつ強調されない。
 私は扇動的な映画よりはこういった淡々とした映画のほうが的確にメッセージが伝わっていいと思いますが、その割にこの映画はメッセージが弱いのかもしれません。差別に反対していることは分かるけれど、結局のところ、いまのアメリカは差別もなくなっていい国になったよみたいな結論で終わってしまっている。それが事実であるかどうかは別にしても、そのあたりのメッセージ性の弱さがこの映画を平凡なものにしてしまっている要因なのかもしれません。
 でも、2時間半も長さがあるわりには飽きさせず、すっと映画に入り込めるなかなかの作品。やはりデンゼル・ワシントンに尽きるのか。人相まで変わってしまうくらい役作りに徹底しているところがすごい。せっかくだからもっとハリケーンの内面を掘り下げてほしかったところです。
 要するに、いいところはたくさんあるけれど、どれをとってもあと一歩の踏み込みが足りないというところでしょうか? 踏み込んで描くにはちょっと近過去過ぎたのかもしれません。

ポーラX

Pola X
1999年,フランス=ドイツ=スイス=日本,134分
監督:レオス・カラックス
原作:ハーマン・メルヴィル
脚本:レオス・カラックス、ジャン・ポル・ファルゴー、ローランド・セドフスキー
撮影:エリック・ゴーティエ
音楽:スコット・ウォーカー
出演:ギョーム・ド・パルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ、カテリーナ・ゴルベワ、デルフィーヌ・シュイヨー

 フランス・ノルマンディ、古城で暮らす小説家のピエール。正体を明かさぬまま小説を出版し、成功した彼は婚約者のリュシーとも仲良く付き合っていた。しかし、母マリーのところには無言電話がかかり、ピエールの周りには謎の黒髪の女がうろついていた。
 レオス・カラックスがハーマン・メルヴィルの『ピエール』を映画化。2つの天才と狂気がであったこの作品は全編にわたってすさまじい緊張感が漂う。「ポンヌフの恋人」とは違うカラックスらしさがぐいぐいと迫ってくる作品。

 陽光にあふれた昼と、街灯の明かりすらまばらな夜。この昼と夜、明と暗の対比がこの映画の全てを語る。最初は多かった明の部分が物語が進むに連れて陰っていく。リュシーのブロンドとイザベルの黒髪までも明と暗を比喩的に表しているのではないかという思いが頭をかすめる。暗闇から現れたイザベルに、暗闇で語られたことによって、ピエールはぐんぐん闇へと引きずり込まれる。ここで暗闇は狂気と隣り合わせの空間で、明の象徴であったはずのリュシーまでも暗部へと引きずり込む。
 映っているものすらはっきりしないほど暗い画面は見ている側に緊張を強いる。そして、カットとカットの繋ぎの違和感が焦燥感をあおる。エレキギターとパーカッションで奏でられる交響曲もわれわれの神経を休めはしない。ただいらいらしながら、結局何も解決しないであろう結末を予想しつつも、ことの成り行きをみつめる。
 「汚れた血」は厳しすぎ、「ポンヌフの恋人」はゆるすぎたと感じる私はこの「ポーラX」がぐっときた。どれもカラックスの世界であり、同じ描き方をしているのだけれど、狂気と正気のバランスというか、物語と映像のバランスというか、その偏りがちょうどいい感じ。
 カラックスの映画はカットとカットの間がスムーズにつながらないところが多々あって、この違和感というのは相当に見ている側にストレスになると思う。それがカラックスの映画の緊張感の秘密だと私は思います。この映画でいえば、一番はっきりと気づいたのはピエールとティボーがカフェで会っている場面。ティボーがカウンターに行って、ティボーの視点でピエールを(正面から)映すカットがあって、次のカットで画面全体をバスが横切り、その次のカットではピエールを後ろから映す。これは後ろからのぞいているイザベルの視点であることが直後にわかるのだけれど、この瞬間には「え?」という戸惑いが残る。こんな風に見ている側をふっと立ち止まらせ、映画に入り込むことを拒否するような姿勢が緊張感を生み、カラックスらしさとなっているのではないでしょうか。

鬼教師ミセス・ティングル

Teaching Mrs.Tingle
1999年,アメリカ,96分
監督:ケヴィン・ウィリアムソン
脚本:ケヴィン・ウィリアムソン
撮影:イエジー・ジェリンスキー
音楽:ジョン・フリッセル
出演:ケイティ・ホームズ、ヘレン・ミレン、バリー・ワトソン、マリサ・コグラン

 優等生のリー・アンは卒業生壮大になって奨学金をもらわなければ大学へ行き、小説家になるという母親との夢がかなわない。そこに立ちはだかるのは歴史の鬼教師ミセス・ティングル。リー・アンは自信作の課題を持って歴史の授業に臨むのだが…
 「スクリーム」の脚本家ケヴィン・ウィリアムソンがはじめて監督した風変わりな青春スリラー。ホラー畑の人なので映画の作りはホラーだが、内容はちょっと違うなかなか風変わりなバカ映画。

 好きですよ私は、こういうバカ映画。映画としては忠実にホラー映画の作法に従っておきながら、内容としてはなんて事のない青春映画。
 しかし全てのよさはあくまでもホラー映画の作法に従ったというところ。キャラクター設定しかり、撮り方しかり。
!!注意!!
 ちょっとネタばれ目になっていくので、これから見ようという人は読まないでね。
!!!!!!
 やはり悪者は一貫して悪者であるのがホラー映画の作法。途中から改心していい人になってしまっては成り立たない。そんなヒューマンドラマはいらない。 悪者に襲われるヒロインの視界を中心にあらゆるところを映して恐怖心をあおるのがホラー映画の作法。前から後ろから横から物陰まですっかり映して緊張感を高めていく。
 最後の屋敷での心理戦は完全にホラー映画として描ききった。そのあたりの徹底したところがこの映画のバカさ加減を助長していい。ここでいうバカさ加減というのはもちろん誉め言葉ですが、これだけばかばかしいことを真面目に撮るというのは非常にいい。
 個人的には「スクリーム」は中途半端で気に入らないけれど、こっちの映画は徹底していて好きなのです。狙いすましたB級映画という感じです。ぜひ、ミセス・ティングルには他の学校に転勤してもらって、次なる生徒をいじめて欲しい。今回の教訓を生かしてね。

狂っちゃいないぜ

Pushing Tin
1999年,アメリカ,124分
監督:マイク・ニューウェル
脚本:グレン・チャールズ、レス・チャールズ
撮影:ゲイル・タッターサル
音楽:アン・ダッドリー
出演:ジョン・キューザック、ビリー・ボブ・ソーントン、ケイト・ブランシェット、アンジェリーナ・ジョリー

 ニューヨークの航空管制官ニックは、自他共に認めるナンバー1の管制官。過度のストレスがかかり、セラピストにかかる同僚も多い職場だが、そんなこともなんのそのいつも仲間と楽しくやり、妻と最中睦まじく暮らしていた。しかし、ある日その職場にやってきたラッセルは変人だが腕は凄いという評判の男だった…
 航空管制官というなかなか目に付かないところをクローズアップして描いたドラマ。特に可もなく不可もなくという感じ。

 航空管制官というのはいいところに目をつけたのかもしれない。航空管制官を描いた映画は以前に何か一本見たことがあって、題名は忘れてしまい、この映画を見ながら、内容がごっちゃになってしまったけれど、とにかくあまり頻繁に映画に取り上げられるようなものではないわけで、そういう意味では未知のものに対する好奇心というのがある程度映画に対する興味をもひきつける要因にはなる。
 しかし、この映画は結局のところ管制官の心理を掘り下げていくわけではなく、夫婦関係と仕事というものに還元していってしまうので、逆に物語が進むに連れて興味をそがれてしまう。果たしてニューヨークにこんな古きよきアメリカ的な職場が存在するのか、という疑問も感じるし、一人一人に人物に深さがない。
 掘り下げようと思えば掘り下げるところは結構ありそうなのに、それをするりと逃してしまい、通り一辺倒の物語にしてしまったところが最大の問題なのではないでしょうか。
 全てが惜しい作品ですが、ただ一つよかったのは飛行機が行き交うところ。冒頭のクレジットが出るところからかなり飛行機が飛び交い、かなり気持ちいい。これは映画全体にいえて、空中を飛行機が何台も飛んでいるというシーンは他では見たことがないくらいリアルで、緊張感があった。それは結構見る価値のある映像かも。

ザ・カップ 夢のアンテナ

Phorpa
1999年,ブータン=オーストラリア,93分
監督:ケンツェ・ノルブ
脚本:ケンツェ・ノルブ
撮影:ポール・ウォーレン
音楽:ダグラス・ミルズ
出演:ジャムヤン・ロドゥ、ネテン・チョックリン、ウゲン・トップゲン

 インド、ヒマラヤ山麓の僧院。チベットから亡命してきた院長はまた新たにチベットから逃れて来る2人の少年を待ちわびていた。そんな僧院の若い修行僧ウゲンはサッカーのワールドカップに夢中。部屋にはサッカーの写真を張り、僧衣の下にはロナウドのシャツを着ていた。そして夜中にこっそりとサッカーを見るために僧院を抜け出す。
 チベット仏教の高僧が脚本・監督をし、出演者も本当の僧たちというかなり異色な映画。ブータン映画はこれが日本初公開作品となった。

 特にすごいところはないけれど、全体的にすっきりしていて悪くない。役者からカメラまですべてが素人っぽいのだけれど、拙いということではなくて素直な感じ。しかし、2回くらい「クローネンバーグか?」と思わせるシュールな映像もあったりして、なかなか。全体としてはヒマラヤらしいすんだ風景と密教僧特有の僧衣や装飾のきらびやかさが対照的で実に鮮やかな映像となっている。
 などという大部分は自然な映像で、密教僧とワールドカップという面白い組合せを存分に生かし、お話としてはとてもよい。コメディというわけではないけれど、主人公のウゲンはなかなかコミカルで、ほのぼのとした笑いを誘う。サッカー雑誌がどこからやってくるのかが謎だったけれど、そういうことはあまり気にしない。
 2002年のワールドカップでも続編が作られたりするんだろうか… それか、日本サッカー協会推薦らしいので、僧達を招待したりして。で、それを映画にしてみたり。多分大森一樹あたりが(特に理由はないけど、なんとなく撮りそうな気がして…)。それもなかなか面白そう。

ぼくの国、パパの国

East is East
1999年,イギリス,96分
監督:ダミアン・オドネル
原作:アユブ・ハーン=ディン
脚本:アユブ・ハーン=ディン
撮影:ブライアン・テュファーノ
音楽:デボラ・モリソン
出演:オム・プリ、リンダ・バセット、ジョーダン・ルートリッジ、イアン・アスピナル

 1971年、イギリスの小さな町に住むジョージはパキスタンからやってきた移民。イギリス人を妻にして6人の息子と1人の娘に恵まれた。長男ナシムの結婚式の日、父親の決めた結婚に納得のいかないナシムは式場を飛び出し、そのまま姿を消してしまう。父親と残された6人の子供達の戦いは続く…
 移民・人種という問題を意識させつつ、衝突する家族の物語を撮ってみたという感じ。

 なんだか惜しい。面白くなりそうな要素はたくさんあるのに、なんとなくそれが通り過ぎていってしまう感じ。「フード」だってあそこまで固執しておきながらなんとなく描き切れていいない気がする。隣にすんでる壊れためがねをかけた子なんかも、かなりいい味を出しているのにね。
 やはり人種や移民という問題を持ってきて、それを中心に据えてしまったために、父親とパキスタン人コミュニティの関係性とか、その父親の意図と子供達の考え方の違いなんかがどうしても大きな割合を占めてしまうようになる。キャラクターが少し紋切り型過ぎたのか、という気がする。むしろこの映画が終わった時点から、親父が気持ち丸くなった(でも芯の所ではちっとも変わっていない)時点からの話の方が映画としては面白くなりそう。
 映画の中でも親父側のエピソードより子供側のエピソードの方が面白い。隣の女の子とその親友とか、かなりナイスなキャラが盛りだくさん。テレビドラマ化できるくらいかもしれない。「サンフランシスコの空の下」よりは面白いかもしれない。

天使の涙

Fallen Angels
1995年,香港,96分
監督:ウォン・カーウァイ
脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:フランキー・チャン
出演:レオン・ライ、ミシェル・リー、金城武、チャーリー・ヤン、カレン・モク

 本来は「恋する惑星」の第3話として予定されていた作品。殺し屋とエージェント、金髪の女、口の聞けない青年モウ。四人が繰り広げる恋愛話。
 「恋する惑星」と共通点が多く、姉妹編といった感じ。クリストファー・ドイルのカメラは相変わらずさえを見せ、使われている音楽も非常に効果的で印象的。映像と音楽がうまくマッチングしたシーンがいつまでも頭を離れない。
 一作一作成長を続けるカーウァイとドイルのコンビがたどり着いたあるひとつの到達点なのかもしれないと感じさせる作品。

 いつも、カーウァイの映画は書くことがないのですが、今回はもう一度クリストファー・ドイルのカメラに注目してみました。なんといってもドイルのカメラはあまりに自由。人物の動きとシンクロせずにカメラが動いていくのが非常に不思議。この映画で一番印象的なのは、殺し屋の部屋を外から映すフレームだと思いますが、これも外から部屋の中を取るというなかなか大胆なことをやっている。けれど、本当に自由なのは、カメラが登場人物とすれ違ったりすること。
 ですね。
 面白いのは金城武。賞味期限切れのパイナップルの缶詰の食べて口がきけなくなってしまったというのもおかしい。もちろん「恋する惑星」とのからみですね。そして、突然金髪になり、「ロシア人かもしれない」というところ。これは撮影中いきなり金城武が金髪で現れ、それを見てカーウァイがその場で脚本を書き換えて出来たというのは有名な話。
 最後バイクで疾走するときに流れる印象的な歌は、フライング・ピケッツの「オンリー・ユー」です。はやりました。CD買いました…