ロクスベリー・ナイト・フィーバー

A Night at the Roxbury
1998年,アメリカ,82分
監督:ジョン・フォーテンベリー
脚本:スティーヴ・コーレン、クリス・カッテン、ウィル・フェレル
撮影:フランシス・ケニー
音楽:デヴィッド・キティ
出演:ウィル・フェレル、クリス・カッテン、ダン・ヘダヤ、リチャード・グリエコ、マイケル・クラーク・ダンカン

 造花屋のさえないダグとスティーヴの2人の息子は父親の店を手伝いながら夜はクラブ通い。しかし、とにかくさえないしお金もないので、有名なクラブには入ることすら出来ない。彼らの憧れはロクスベリーという有名クラブ。将来そんなクラブのマネージャーになるのが夢だった。
 ウィル・フェレルとクリス・カッテンの2人が脚本と主演をした青春コメディ。この2人はどうもサタデー・ナイト・ライブ(SNL)系のコメディアンらしい。ウィル・フェレルは「オースティン・パワーズ・デラックス」にも出てました。

 若いコメディアンが映画を作る。これはよくある話。特にSNL系の人は古くは「ブルース・ブラザーズ」、最近では「ウェインズ・ワールド」に「オースティン・パワーズ」もある意味ではそう。しかし、この試みはなかなか成功しない。特に日本人のセンスではなかなか受け入れがたいものが多い。この作品もそんな感じ。時代とのギャップとナンセンスさを使って笑いを作り出すというやり方、しかも時代のはやり物をネタとして使っているので、日本人には非常に分かりにくい。
 そもそも、スターとして登場したリチャード・グリエコも決してメジャーではない。この人は大ヒットドラマ「21ジャンプ・ストリート」でジョニー・デップとともに人気者だったらしい。このドラマはこのメルマガでは「ロックド・アウト」というビデオ化されたもので紹介しましたが、覚えている人はほとんどいないでしょう。このビデオでは、ブラッド・ピットがゲスト出演していました。でもリチャード・グリエコのことはまったく覚えていない。
 というとてもマイナーな感じの映画。でも、決してみていていらいらするとかむかつくとかいうつまらなさはなく、たいして面白くもないけど、つまらなくもないという程度。おそらくこの2人はコンビでSNLではそれなりの人気があって、コーナー持ってて…、なのでしょう。きっとそっちのほうが面白いんだろうな。
 あとは、ロクスベリーの入り口の人は「グリーン・マイル」の人だった。オーナーは「アナライズ・ミー」の人だった。など、見たことある人多数出演という感じ。
 こう書いてみると、結構B級の楽しさ満載の映画なのかもしれない。

ピースメーカー

The Peacemaker
1997年,アメリカ,124分
監督:ミミ・レダー
脚本:マイケル・シファー
撮影:ディートリッヒ・ローマン
音楽:ハンス・ジマー
出演:ジョージ・クルーニー、ニコール・キッドマン、マーセル・ユーレス

 ロシアから解体処理の控えた核弾頭が盗まれた。その調査に当たるのは大統領付きの核兵器密輸対策チームのジュリア・ケリー博士。彼女はロシアの事情に通じた陸軍大佐トーマス・デヴォーとコンビを組むことになったが…
 ERのミミ・レダーがこれまたERのジョージ・クルーニーを使ってドリームワークス製作で撮ったアクション映画。設定にはかなり無理があるが、アクション・シーンなどは躍動感があって悪くない。

 しかし、この設定はかなり無理がある。いくら領空侵犯したからって、ロシアがアメリカのヘリをあんな簡単に撃つか? などという疑問が無数に浮かぶことは確か。まあ、しかしこの映画はかなり展開にスピード感があるので、そんな理不尽さに拘泥しないように見れば、意外と流せてしまうような気もした。
 この映画の一番いい点は、視点の転換だろう。ぽんぽんとカットが飛び、視点がどんどん変わっていく。もちろんそのクライマックスは爆弾を持った犯人を追い詰めていくシーン。車・ヘリ・スナイパー・レーダー・一般人・犯人とめまぐるしく視点が飛ぶ。ただ単に切り替わるのではなく、「飛ぶ」感覚を演出しているところがいい。

グリーン・マイル

The Green Mile
1999年,アメリカ,188分
監督:フランク・ダラボン
原作:スティーヴン・キング
脚本:フランク・ダラボン
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:トーマス・ニューマン
出演:トム・ハンクス、デヴィッド・モース、ボニー・ハント、マイケル・クラーク・ダンカン、ハリー・ディーン・スタントン、ゲイリー・シニーズ

 老人ホームで暮らす老人が、一本の映画から60年前1935年の出来事を思い出す。その頃老人は死刑囚監房の看守を勤めていた。そしてある日そこに二人の少女をレイプして殺した巨体の黒人コーフィーが入ってくる。その血なまぐさい犯罪と外見とは裏腹にコーフィーは非常におとなしい男だった。そして彼にはある不思議な力が…
 フランク・タラボンが「ショーシャンクの空に」に続いてスティーヴン・キング作品を映画化。今回は3時間超という長尺。とくに真新しい点はないが、物語としては3時間という時間を感じさせないだけの力はある。

 結局のところ、誰が監督してもこの作品はこの程度の面白さには出来ただろう。この監督のいい点は役者の選択と、あくまで原作を尊重するところだろう。といっても、原作は1巻しか読んでないんですがね… とにかく、スティーヴン・キングの語り口を忠実に再現したという印象。それ以外では、特にメッセージも感じられないし、特筆すべき工夫もない。物語としてもことさら何か意外性があるわけではない。映画としては「ショーシャンク」と比べると格段落ちる。
 この物語はもちろんキリストの原罪と贖罪の物語であって、だからこそコーフィーは死ななきゃならなかったわけだけれど、それならばパーシーを廃人にしてしまったり、ビリーを殺してしまったりしてはいけないような気もする。そのような人たちの罪を背負ってこそキリストなのでは? 私のキリスト理解が間違っているのだろうか? それともこの映画はキリストの物語ではない?などという疑問も生じてしまいます。ポールの長生きすることの解釈もちょっと分かりにくいし、そのあたりの引っかかりがどうしても感動出来なかった理由でしょう。
 やはり、個人的にはスティーヴン・キングは「シャイニング」とか「ミザリー」とか「IT」みたいなおどろおどろしいほうが好き。下手に感動物にしてしまうとなんか落ち着きが悪いですね。ストーリーテラーとして一流ということは分かるけれど、何らかの「ショック」があってこそのスティーヴン・キングであるような気がするので。そういう意味ではこの映画は「ショック」を欠いているのではないかと思うわけです。

2回目の感想

 今回もやはり、キリスト教的善悪二元論というイメージは払拭できませんでした。2人の悪人がいて、他は罪も犯すけど根本的には善人で、その対決という話。しかし、ジョン・コーフィはキリストではないと今回は感じました。奇跡を行う神の使いではあるけれど、小物というか、すべてを背負えるだけの力はないのだという気がしました。それでも映画を見る場面で映写機がの光が後光のように輝くのを見ると、いやでも「神」を意識せずに入られないわけです。死を重要視している点も宗教的なものが感じられるし。

ブルワース

Bulworth
1998年,アメリカ,106分
監督:ウォーレン・ビーティ
脚本:ウォーレン・ビーティ、ジェレミー・ピクサー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ウォーレン・ビーティ、ハリー・ベリー、ドン・チードル、オリヴァー・プラット

 上院議員の再選挙を間近に控えたブルワース上院議員は選挙活動そっちのけで毎日テレビばかり見て、何も食べず、眠りもせずにすごしていた。そんな彼が考えたのは自分の暗殺依頼だった。怖いものがなくなった彼は腹の中の本音をぶちまけ始める。
 ウォーレン・ビーティが監督・脚本・主演したコメディ・ドラマ。振り返ってみるとたいした映画ではないけれど、なんとなく見ているぶんには十分楽しい。パート2とかあってもいいくらいの軽妙さです。

 何も考えずに見られるので、なかなかいいです。政治を舞台にして、人種問題なんかを持ち出してはいるものの結局のところサスペンス・コメディなわけで、それ以上の何かではない。ウォーレン・ビーティーのへたくそなラップが少しずつうまくなっていくのはなかなか面白かった。事件全体のからくりもうまく笑いの要素でこねてあって面白かった。
 ちょっと真面目なことを考えると、政治がらみのコメディが黒人を使うことが多いというのは(「ホワイトハウス狂奏曲」とか)、やはり現在は政治の世界がWASPにある程度支配されているということの反映であるような気がする。だから笑いを作り出すには黒人(しかもWASP階級にどうかしていない黒人)をその世界二歩織り込むことが一番わかりやすいということになる。この映画はそれを裏返してWASPの議員が黒人に「なる」という方法を取ったところが少々新しいのでしょう。
 ということで、なかなか目の付け所のよかったコメディ。ウォーレン・ビーティも捨てたもんじゃない。

リトル・ヴォイス

Little Voice
1998年,イギリス,99分
監督:マーク・ハーマン
原作:ジム・カートライト
脚本:マーク・ハーマン、ジム・カートライト
撮影:アンディ・コリンズ
音楽:ジョン・アルトマン
出演:ジェーン・ホロックス、ユアン・マクレガー、ブレンダ・ブレシン、マイケル・ケイン

  伝書鳩を飼う無口な青年は仕事で行ったとある家で、これまた無口な少女LVに出会う。LVの母親は対照的に派手な性格で、ある日田舎のショーパブでマネージャーをしているレイを家に連れてくる。そしてひょんなことからLVの歌声を聞いたレイがその歌声に驚嘆し彼女を舞台に立たせようと奔走する。
 大ヒットミュージカルを『ブラス!』のマーク・ハーマンが映画化。舞台、役者などなどかなり『ブラス!』と似通っているので、『ブラス!』が気に入った人なら、きっと気に入るはず。

 LVを演じるジェーン・ホロックスはミュージカル版で主役を演じた女優さんで、この映画でもすべての歌を自分で歌っているらしい。そのあたりがかなりすごい。舞台での豹変ぶりなんかが笑い所なわけですから。
 しかし、ストーリーとしてはなんとなく物足りないかなという気もする。それぞれの登場人物はキャラクターがしっかりしていていいのだけれど、関係性のレベルでいまひとつ深さがないというか、LVを動かすための駒に過ぎないような気がしてしまって少々不満。
 結局、すごくイギリス映画らしい映画で、味のあるヒューマンコメディなのでしょう。

トニー・ヒル作品集

1984~93年,イギリス,44分
監督:トニー・ヒル
撮影:トニー・ヒル
出演:キース・アレン、ジェームズ・モーガン、ボニー・ヒル

 イギリスの映像作家トニー・ヒルの短編を集めたオムニバス。
 作品は「車輪の歴史」「ヴュアーを持つ」「時報映像」「ウォーター・ワーク」「拡張映画」「ダウンサイド・アップ」の6本。
 この作品群の特徴は人間と重力の関係の安定性を奪うカメラワーク。カメラを固定する点が重力とはまったく無関係に設定されるので、不思議な空間感覚を味わうことが出来る。

 最初の「車輪の歴史」で車輪に固定されたカメラが出てきてこれがかなり面白い。いってしまえば風景がぐるぐると回るだけだが、そのまったく変化させられて視線というのはなんとなく楽しく新鮮だ。それは他の作品でも継続していくが、より明らかになっていくのは「重力」に対する反抗心。「ウォーター・ワーク」の中で壁を蹴って歩く人なんかは完全に重力(ここでは浮力も)を敵にまわしてがんばっている。
 見て、感じて、それがすべてという感じ。大画面で見ればよりいっそうのトリップ感が得られたと思う。

17歳のカルテ

Girl, Interrupted
1999年,アメリカ,127分
監督:ジェームズ・マンゴールド
原作:スザンナ・ケイセン
脚本:ジェームズ・マンゴールド、リサ・ルーマー、アンナ・ハミルトン=フェラン
撮影:ジャック・グリーン
音楽:マイケル・ダナ
出演:ウィノナ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー、クレア・デュヴァル、ウーピー・ゴールドバーグ

 ハイスクールを卒業したばかりの少女スザンナは自殺未遂を図り、両親の勧めで精神療養施設クレイモーアに入院することになった。その病棟には若い女性を中心に様々な種類の患者が入院している。スザンナもその患者達と打ち解けたり反目したりしながら、自らの悩みと対面していく。
 実体験を元にスザンナ・ケイセンが書いた原作の映画化に際してウィノナ・ライダーが製作・主演を買って出た作品。女性版「カッコーの巣の上で」と言われてしまうのはいたし方がないところだが、この作品でアカデミー賞を受賞したアンジェリーナ・ジョリーの演技は確かに見応えあり。

 いい映画ではあるけれど、どうしても心のそこから同感は出来ない。特にスザンナには。むしろリサのほうに気持ちが行く。それはアンジェリーナ・ジョリーの演技が素晴らしいからだけではなく、そもそものキャラクター設定の問題なのだろう。入院を一つの経験として(嘘にまみれた)実社会に復帰していくスザンナは結局、それだけなのだ。それに対してリサはといえば、その(病院にまで及んでいる)嘘と無関心に対して徹底的に対抗しようとしている。「精神病もまた個性だ」とまではいわないけれど、精神病を病気として徹底的に押さえつけようとする60年代の精神治療に対して批判的態度を示さないと言うのがどうも引っかかった。
 まあしかし、『カッコーの巣の上で』を考えてみると、ジャック・ニコルソンに当たるのはここではリサなわけで、となるとこの映画もむしろリサ中心に見ていったほうがいいのかもしれないし、そうすれば映画全体がすっきりとしてくる。というような見方をすればかなりいい映画という感じです。
 ということなので、原作に忠実にスザンナを主人公にして描いてしまったところが最大の問題なのかもしれない。
 ウィノナ・ライダーも案外いい演技をしているに、結局のところ主役なのに逆にアンジェリーナ・ジョリーの引き立て役になってしまった。その役割を逆にしてみれば二人とも光を放ったのではないかと思う。

キャラバン

Himalaya – l’enfance d’un chef
1999年,フランス=ネパール=スイス=イギリス,108分
監督:エリック・ヴァリ
脚本:ナタリー・アズーレ、オリヴィエ・デイザ、ルイ・ガルデル、ジャン=クロード・ギルボー
撮影:エリック・ギシャール、ジャン=ポール・ムリス
音楽:ブリュノ・クーレ
出演:ツェリン・ロンドゥップ、カルマ・ワンギャル、グルゴン・キヤップ

 ネパールのある村、黄金色に輝く麦畑、そこに村のキャラバンが帰ってきた。しかし、先頭のヤクの上には一つの死体が、それは今の頭領で主人公の少年ツェリンの父であった。次の頭領は最も有能な若者カルマにすんなり決まるかと思われたが、長老でツェリンの祖父であるティンレが一人反対する。彼はカルマを息子の仇と見ていたのだった。
 壮大な自然の風景をオールヒマラヤロケで映像化したアドヴェンチャー・ドラマ。本当に映像は美しく、圧倒的な自然の力が迫ってくるようだが、ドラマとしては普通の出来かもしれない。

 結局のところ、舞台がヒマラヤになったというだけで、権力争いのドラマをそのまま移植しただけという気がしてしまう。占いだとか、僧院だとかという要素が出てきて、それが実際のネパールでは非常に重要な要素であるということはわかるのだが、ここではある種オリエンタリズム的なエキゾチックな要素として取り上げられてしまっているような気がして気に入らない。そこにどうにも胡散臭さを感じてしまう。
 実際のネパールの状態はわからないが、あれだけ厳しい自然と対立している世界で一人の人間があれほど大きな権力を握るというのはありえないような気がする。もっと民主的な指導体制があると考えるほうが自然なような気がする。そのあたりがかなり疑問。
 しかし、映像はすごいですね。最初のヤクを下から撮った映像からかなりすごいし、続く麦の黄金色の輝きとか、美しいの一言に尽きるという感じ。空も、湖も青く、ヤクが湖に落ちていくところとかもすごくいいのです。なんとなく空気の透明感が伝わってくるような感覚。それだけ、といっては失礼ですが、最大の見所が映像であることは間違いない。

オール・アバウト・マイ・マザー

Todo sobre mi Madore
1998年,スペイン,101分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アフォンソ・ベアト
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:セシリア・ロス、アントニア・サン・ファン、マリア・パレデス、ペネロペ・クルス

 マドリードで最愛の息子エステバンと2人で暮らすマヌエルは息子の17歳の誕生日に、芝居を見に行く。エステバンは大好きな女優ウマ・ロッホのサインを貰おうと土砂降りの中楽屋口で待っていた。そんな息子に、秘密にしていた父親の秘密を話そうとしたとき、楽屋口からウマが出てきて、タクシーに乗る、そのタクシーを追ったエステバンの後ろから一台の車が…
 カルト映画の巨匠として活躍してきたアルモドバルがついに放ったメガヒット。決して商業主義に走ったわけではなく、一皮向けたアルモドバルの映画がそこにはある。基本的には感動物語という感じだが、それだけではとどまらない深みをもった映画。

 この映画の切り口はたくさんありそうだ、一番よく言われるのは「女性」ということ。もちろんアルモドバルは映画の最後ですべての女性たちに献辞を捧げたのだから、これが「女性」の映画であることは確かである。しかしそれは必ず「女性」(カッコつきの女性)でなくてはならない、あるいは「本物の女性」でなくてはならない。アグラーダが舞台の上で言った「本物の女性」。そんな「本物の女性」のための映画なのだ。私がその「本物の女性」のイメージにぴたりとくるのは、この映画の中のマリサ・パレデス、そして献辞が捧げられていたひとりであるジーナ・ローランズ。
 おっと、あまり書くつもりじゃなかった「女性」の話にいってしまいましたが、要は同性愛者だとか何だとかそんな意識は捨てちまえということです(飛躍しすぎ)。その同性愛という部分(それはあからさまにはでてこないのだけれど、この映画の登場人物たちはみんながみんな少なからぬ同性愛的セクシャリティを抱えている)が非常に自然に映画の中に取り込まれているのもすごいところです。アルモドバル自身、ホモセクシュアルだという話ですが、だから描けるということはいえないわけで、同性愛に関する何らかのメッセージをあからさまにこめようとすると監督たち(ホモでもヘテロでも)とは明らかに違う力があります。
 さて、この映画は物語だけでなく、映像的にもかなりいいですね。音楽もいいし。映像的に言うと、接写が多い。クロースアップというよりは接写。これはかなり大画面を想定した設定だと思いますが、不思議なものをクロースアップしてみたりする。よくわからないものとかね。あとは構図ですね。特に人の配置が面白い、立っている人と寝ている人とか、立っている人と座っている人といった対比的な配置の仕方をしたり、鏡を使ったりすることで、構図に立体感が出というか、縦横斜めにいろいろな流れが出来る。たとえば、ウマがマヌエルの部屋にやってきた場面で、マヌエルとロサがソファーにいて、ロサがねっころがっている。そうすると、ロサの上には必然的に空白の空間が出来てくるわけで、その人と空白のバランスがとてもいいのですよ。そう、そういうこと。

クッキー・フォーチュン

Cookie’s Fortune
1999年,アメリカ,118分
監督:ロバート・アルトマン
脚本:アン・ラップ
撮影:栗田豊通
音楽:デヴィッド・A・スチュワート
出演:グレン・クローズ、チャールズ・S・ダットン、リヴ・タイラー、ジュリアン・ムーア、クリス・オドネル

 小さな田舎町、もういい年のウィリスは今日も酒場で酒を飲み、小ビンを一本失敬して、窓から家に侵入。戸棚から銃を取り出し… しかし、そこは大の仲良しクッキーの家。クッキーに銃の手入れをすると約束していたのだった。
 そんなのどかな町に一つの事件が…
 アルトマン流サスペンスコメディ。  アルトマンの作品はいつでもどこでも安心してみることが出来る。わかりやすい筋、適度なスピード、好ましいキャラクター設定、どこをとっても平均以上。アルトマンの作品の中でも平均以上。でも、傑作には…

 どうしてこんなに安心してみていられるのか? 最初からのんびりとしたペースで始まり、しかしそれなりに複雑な筋立てが出来ていき、ちょっと緊迫したりするけれど、結局のところそれがちっとも深刻ではない。グレン・クローズはひとり悪役を引き受けることで、全体はすっとまとまり、なんとなく顔に浮かんでくる微笑に満足しながら最後までそっと見守る。そんな映画。
 やはり、チャールズ・S・ダットンとリヴ・タイラーのコンビがいいのでしょうね。もちろんブルースハープとギターの音も効果的だし、カット割とかも巧妙に計算されているし、光の使い方がすごくきれいだし、それはそれでいいのだけれど、結局この2人の存在感とほのぼの感を後押しするものでしかないような気がする。
 しかし、意外とこの映画は好みに左右されるのかもしれない。このアルトマンのペースがまどろっこしいと思う人も多いかもしれない、本筋と関係ない芝居の話や、芝居のせりふが執拗に挿入されるのにもなじめないかもしれない。しかし、その余分なところがアルトマンの映画には重要で、その余白(では必ずしもないのだけれど)が作り出す転調がアルトマン映画の命。
 ところで、カメラマンの栗田豊通さん、私は知らなかったんですが、ハリウッドで何本かカメラを持ち、昨年は御法度のカメラをやったらしい。それほど際立って美しいとか面白い映像を撮っているわけではないですが、映像が澄んでいる感じで、なかなかいいんじゃないでしょうかねぇ?