フローレス

Flawless
1999年,アメリカ,111分
監督:ジョエル・シューマカー
脚本:ジョエル・シューマカー
撮影:デクラン・クイン
音楽:ブルース・ロバーツ
出演:ロバート・デ・ニーロ、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ミラー、クリス・バウアー

 もと警官のウォルトの住む安ホテルで銃声が聞こえた。現場に駆けつけようと拳銃を手にして部屋を出たウォルトだったが途中の階段で倒れてしまう。意を取り戻した彼を待っていたのは、脳卒中で半身不随という診断だった。リハビリに歌うことを勧められた彼は上の階に住むドラァグ・クウィーンのラスティにレッスンを頼むことを思いつく。
 ちょっととらえどころのない風変わりなドラマ。コメディなのか、アクションなのか、ヒューマンドラマなのか…

 この映画はたぶんヒットしていない。それはこの映画があまりに普通すぎるから。ギャングとかいった設定も月並みだし、ドラァグ・クウィーンが出てくるというのも珍しくはないという映画的な普通さに加え、登場人物たちがあまりに人間的過ぎるという日常的な普通さ。
 普通、ハリウッド映画というのは人物をステレオタイプに押し込み、設定をわかりやすくした上でドラマを展開していく。この映画もぱっと見では、マッチョなもと警官が障害を負うことで、弱い人たち(主に女性的な人たち)のことが見えてくるという設定であるように見える。そのような反マッチョの象徴的な存在であるドラァグ・クウィーンと徐々に打ち解けていくこと、それに対して元同僚の警官たちとは徐々に反目していくということ。そのような展開になりそうだ。
 しかし実際は必ずしもそうではなく、元同僚たちとドラァグ・クウィーンが一緒にパーティをしていたりする。彼らは完全にステレオタイプな人間たちではないのだ。もちろん日常的にはステレオタイプではない人間のほうが普通であるのだけれど。
 しかも最終的に彼を救うのはドラァグ・クウィーンではなく「本物の」女性だ。そのあたりのわかりにくさというのがとても不思議だ。撃たれて負傷するのではなくて、現場に向かう途中に脳卒中で倒れるという設定も不思議だ。
 つまりハリウッド映画の文法に乗るのか乗らないのかはっきりしないところがどうもわかりにくい理由だろう。

パリのランデヴー

Les Rendez-vous de Paris
1994年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:パスカル・リビエ
出演:クララ・ベラール、アントワーヌ・バズラー、ベネディクト・ロワイアン

 エリック・ロメールがパリを舞台に3つの恋を描いたオムニバス作品。
 第1話は「7時のランデヴー」。恋人に浮気の疑いを抱いた大学生を描いた作品。第2話は「パリのベンチ」。恋人と一緒に暮らしながら違うタイプの男とデートを重ねる女性の姿を描く。第3話は「母と子 1970年」。ピカソの「母と子」が恋物語を展開させる。
 どの話もパリの風景がふんだんに出てきて、ちょっとした旅行気分が味わえる小品たち。

 どのエピソードも何か言っているようで何もいっていないような感じ。2番目のエピソードがちょっと毛色が違うような気がするけれど、どれも結局のところ漠然と「恋」というものを描く。一つの映画でひとつの恋を描くのではなく、3つの恋を完全に独立したエピソードで描くことで浮かび上がってくることもある。
 単純にひとつの恋を描く映画、これはつまり「恋」をモチーフとしたひとつの単純なドラマを描いているということ。それは単純なひとつのケースとして描きたいことが描けるし、そこから何か恋の全体像が浮かび上がってくる必要はない。
 複数の恋をひとつの物語で描く映画、これはおよそ人間関係が複雑であったりして物語として面白くなる。ここではとりあえず「恋」というものに絞って考えるなら、このような複数の恋をひとつの物語で描く映画では概してそれぞれの恋の差異が浮かび上がってくる。それは登場人物が複数の鯉の中からひとつを選んだり、選ばなかったりということがおきるからで、そこで生じる比較が「恋」についての差異を浮かび上がらせてゆく。
 複数の恋を複数の物語で描く映画。これはこの『パリのランデヴー』のような映画のことだけれど。この場合、それぞれの恋の関係性は特にないので、あまり比較にはならない。共通点や違いがあったとしても、それが差異として浮かび上がってくるというよりはそれも含めて「恋」の全体像が浮かび上がってくるという感じ。
 と、唐突に「恋」に関する映画を分析してしまいましたが、このようなことがいえるのは何も「恋」に限ったことではなく、映画にテーマを読み取るとするならば、そのテーマについて描く描き方一般に言えることだと想います。
 だからどうしたというわけでもないですが、パリといえば「恋の街」ということで、そんなことを考えてみた次第であります。

愛しのタチアナ

Pida Huivista Kiinni, Tatjana
1994年,フィンランド,62分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:サッケ・ジャルヴァンバ、アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ヴェイッコ・トゥオミ
出演:カティ・オウティネン、マティ・ペロンパー、マト・ヴァルトネン、キルシ・テュッキュライネン

 ヴァルトは母親のところでミシンを踏んでいるが、コーヒーが切れたといって家を出る。その足で車を修理に出していたレイノの所に向かう。車の修理は終わっていて、2人で試運転に出かけるが、その途中でよったバーでバスが故障して立ち往生していた二人の女性を港まで乗せていくことになった。
 カウリスマキはいつでもカウリスマキだ。本当に不思議な空間を彼は作る。フィンランドがそうなのか、それともカウリスマキが変なのか…

 コーヒーとウォッカはほとんどしゃべらず始終ブスリとしているけれど、2人の間には何か通じるものがあるらしい。それにしてもあまりにしゃべらない。この映画はおそらく台詞の量では世界で指折りの少なさを誇る映画だろう。ひとつの台詞から次の台詞までの間は果てしなく長い。その間に文脈というものはなくなる。ただひとつ文脈のある台詞はロシア人の女の「あなたたちって本当に話好きね」という台詞だけだ。
 この台詞と台詞の長い間は物語の断絶も意味する。ロシア人の女が宿屋の女主人に「イヤリングありがとう」というけれど、そのイヤリングは映画には登場しない。そのように物語りはばっさりと断たれ、夜から昼、昼から夜と時間ばかりが流れていく。その時間の流れの中で台詞を使わずに、登場人物たちの心理を着実に描いていくのがカウリスマキの真骨頂。この映画でもそれは健在。
 カウリスマキ映画のもうひとつの特徴(?)といえば、主人公たちがさえないこと。それは冒頭2つ目のカットでバイクに乗る4人を見た時点で明らかになる。このカット、物語と何の関係があるのか最初はよくわかりませんが全部見終わって振り返ると、なるほどね、というカットです。

!!ここからややネタばれ目!!

 この2番目のカットに現れた4人は誰だったろうか? どうにも思い出せないが、旅に出た4人と同じだった気がする。それならば、すべての謎は明らかに。みながらずっと思っていたのは「お母さんは!?」という疑問。こんな何日も閉じ込めて置いたら死んじまうよ。このまま旅を続けて帰ってみたらお母さん餓死っていうオチだったらそれはそれですごい映画だと思いながら見ていましたが、こういうオチなら、それはそれでなるほどねという感じ。「夢」のこういう使い方もあるというか、こういう使い方が本当はいいんだと思います。
 『シックス・センス』以来、何本も同じような映画が作られている中、『ビューティフル・マインド』なんて映画も現れましたが、そんな映画作る前にこの映画を見ろ!! といいたい。人間すべてがアメリカ人みたいに単純だと思ったら大間違いだぞ!! といいたい。この映画のラストシーンの淡白さをロン・ハワードに見習ってもらいたいですね。

マップ・オブ・ザ・ワールド

A Map of the World
1999年,アメリカ,126分
監督:スコット・エリオット
原作:ジェーン・ハミルトン
脚本:ピーター・ヘッジズ、ポリー・プラット
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
音楽:パット・メセニー
出演:シガーニー・ウィーヴァー、ジュリアン・ムーア、デヴィッド・ストラザーン、クロエ・セヴィニー

 アメリカのごく普通の田舎町で牧場を営むハワードのところに嫁に来たアリス。地域の学校で保険の教師をやりながら夫と二人の娘とごく普通の生活を送っていた。夏休みに入り、それまで迷惑をかけっぱなしだった親友のテレサの二人の子を預かったアリスだったが、ちょっと目を話した隙に下の子リジーがいなくなってしまった…
 誰にでも起こりうるような出来事を描いてベストセラーとなった小説の映画化。監督のエリオットはこれが初監督作品。

 話としてはよくわかるのだけれど、脚本というかプロットの組み立て方がなんとなく違和感がある。それは確実なひとつの物語があるにもかかわらず、それを組み立てるそれそれのエピソードがどうも散漫だから。エピソード自体を見せるような映画ならば散漫でも一向に構わないのだけれど、この映画のようにすっと筋が通ったメッセージ色の強い映画の場合、散漫な印象派物語全体をぼやかしてしまう恐れがある。
 それぞれのエピソードが散漫な印象になるのは、それが全体のプロットの中でどのような役割を果たすものなのかが判然としないからだろう。たとえば刑務所でのけんかのエピソードなどは、いったいなんでこんなものが挿入されたのかよくわからない。
 しかもそれぞれのエピソードが同じようなバランスで描かれていて、重点が見えてこないというのもある。一つ一つの舞台の話が同じくらいの分量であるので、どれが重要なのかわからなくなってしまう。
 考えてみると、これはベストセラーを原作に持つ映画にありがちなことであるような気もする。ベストセラーを映画化するとなると、あまり原作から離れすぎてもいけない。しかし、忠実に再現するには映画の2時間という時間は短かすぎる。そこで多くの場合、重要なあるいは面白いエピソードだけをピックアップして、それをつなげることで、全体のトーンは原作のままを維持しながらコンパクトにまとめるという方法が取られる。この映画はそんなやり方が今ひとつうまくいかなかった例だろう。
 メッセージとか、問題意識とかは今のアメリカの社会ではとても重要なことで、しかも世間の風潮に流されずに強く生きるという点で啓蒙的ではあるけれど、それと映画の面白さは別ということですかね。やはり。

ヴァージン・スーサイズ

The Virgin Sucides
1999年,アメリカ,98分
監督:ソフィア・コッポラ
原作:ジェフリー・ユージェニデス
脚本:ソフィア・コッポラ
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:エア
出演:キルステン・ダンスト、ジェームズ・ウッズ、キャスリン・ターナー、ジョナサン・タッカー、ジョシュ・ハーネット、マイケル・パレ

 70年代、アメリカ。美女ばかりがそろったリスボン家の5人姉妹。その姉妹に異変が起きたのは末娘のセシリアの自殺未遂からだった。かみそりで腕を切ったシシリアは一命を取り留めるが、リスボン家には不穏な空気が流れる。もともとしつけに厳しかった両親は、娘たちをあまり外に出さなくなり、秘密めいた雰囲気が流れた。
 フランシス・フォード・コッポラの娘ソフィア・コッポラの監督デビュー作。役者としてはいまいちだったソフィアも、監督としてはなかなか。コッポラファミリーは生まれながらに映画に対する感性を持っているのかもしれない。

 なんとなくいい。未熟な断片が折り重なって、そこに秘められたメッセージも、見え隠れするプロットも、思わせぶりなだけで何かそこに確実なものがあるわけではないとわかっていながら、そこに何かある気がしてしまう。
 たとえば、ユニコーン。ほんの1カット、1秒あるかないかのカットに映ったユニコーンが抱えるメッセージは何なのか? そこでユニコーンが映ることによって生まれる解釈はそれが現実ではない夢物語であるということ。
 姉妹と時をすごしたかつての少年が回想する姉妹の物語、同じときを過ごした当時から空想を重ねた少年の記憶は、主観性を失う。ひとりの少年の視点から一貫して語られるのではなく、さまざまな視点が混在するのはおかしい。
 現実と空想が、正気と狂気が入り混じる空間で語られたことは何一つとして確実ではない。だからこの映画にはとらえどころがなく、しかし空想や狂気の世界とは、甘美そのものであるから、この映画は甘美である。
 テレビ・レポーターという現実世界の陳腐な表象。この陳腐さはそれが現実ではないことを立証しているかのようである。唐突に現れ、繰り返し現れるというのもなんだか現実感がない。
 振り返ってみるとこの映画のすべてが現実感を持っていない。
 死とは甘美なものかもしれない。
 この映画の映像の断片やひとつの台詞や一片の音楽が心に引っかかってくるのはその一つ一つが甘美なものだからだろう。一人一人の人間が持つ甘美な空想世界。その空想世界と重なり合う世界がこの映画の中に断片として含まれている。だからその断片に出会ったとき、その甘美さが心に引っかかる。
 13歳の女の子ではなくっても、13歳の女の子と甘美さの一片を共有することはできる。それがこの映画が成功した秘密だと思う。そしてソフィア・コッポラにはそのように断片を積み重ねることができるセンスがあるということ。

ニコラ

La Classe de Neige
1998年,フランス,96分
監督:クロード・ミレール
原作:エマニュエル・カレール
脚本:エマニュエル・カレール、クロード・ミレール
撮影:ギョーム・シュフマン
音楽:アンリ・テシエ
出演:クレモン・ヴァン・デン・ベルグ、フランソワ・ロイ、ロックマン・ナルカカン

 寝てもさめても悪夢ばかりを見る小学生のニコラはスキー教室に参加することになった。しかし、両親が数日前におこったバス事故を気にして、ニコラはバスではなく父親の車で合宿場所まで行くことにした。みんなから少し送れて合宿場所に着いたニコラは父親が帰ってしまった後荷物を車に積んだまま忘れてしまったことに気づく…
 不思議なモチーフでスリラーの雰囲気を持つドラマだが、基本的には少年ニコラの内的世界を描いたものなのか。

 ニコラの悪夢や想像と現実との境目をあいまいなものにするやり方はなかなかうまいと思う。これはニコラの主観からすべてを描いた映画であるといえ、だからこそ現実とそれ以外との境界がないということだろう。今見ているものが現実なのか、悪夢なのか、想像なのかということはそれを見ている時点で判断できるものではなく、あくまで時間が経過してから始めて判断できるものである。しかし、それはあくまで相対的なもので、あるひとつのつながりを現実と判断することでそれ以外は現実ではないと判断するしかないわけだ。
 この映画は基本的には現実とそれ以外というものを分けて描く。それは最初の父兄への説明会の場面と最後のホドゥカン一人の場面というニコラの主観ではない場面の存在によって固定されている。しかし、それ以外の場面が(多分)すべてニコラの視点から描かれていることを考えると、これら場面もニコラの見ている場面であると考えることもできる。それはつまりこの映画の文脈からいうとニコラの想像ということになる。両方があるいは少なくともどちらか一方が。
 そう考えると、どんどんわけがわからなくなっていく。合宿場所へと向かうニコラが車の中で寝入ってしまったことを考えると、それ以降は全部現実ではないのかもしれないと思えたりする。
 どれが現実で、どれが想像か。さらりと見ただけだと、一つの当たり前の解釈が成り立つようだけれど、果たして本当にそれでいいのかということはわからない。「もしかしたら」と考える可能性。それがこの映画のいいところだと思います。

愛情萬歳

愛情萬歳
1994年,台湾,118分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・ビ・リン、ツァイ・イチャン
撮影:リャオ・ベンジュン
出演:ヤン・クイメイ、リー・カンション、チェン・チャオロン

 セールスマンのシャオカンはある日、高級アパートで扉に刺さったままになっている鍵を見つけ、それを抜き取って持っていく。その夜、そのアパートに行ってみると、そこは空き家のようだった。夜の街で何度かすれ違う男と女が言葉を交わさぬまま、そのアパートにやってくる…
 台湾ニューウェーヴの旗手の一人ツァイ・ミンリャンを一躍世界の舞台へと引き上げた作品。せりふもあまり交わされず、まったく音楽を使わないというところも印象的な作品。

 映画全体にわたって、何かが起こりそうという期待感を抱かせながら、何も起こらないというパターンの繰り返し。その「何かが起こりそう」という期待感は映像の構成の仕方にある。たとえばメイがベットに横たわる場面。画面の左側が大きく開き、メイの視線はその空白の向こう側に注がれている。この画面をぱっと見ると、その視線の先に何かありそうな気がする。そこで何かが起きそうな気がする。しかし、メイの視線はうつろになり、そのまま何も起こらずにシーンが切り替わる。同じように、シャオカンがベットに横たわるシーン。シャオカンのクロースアップから仰向けになったところを正面から写すショットに変わる。そのとき、シャオカンの顔や視線は映らない。このように近いショットから、いわば他者の視線へと移ると、そこには具体的にその画面を見つめる誰かがいるのでは?という気持ちにさせられる。しかし、それは具体的な誰かのショットではなく、誰もおらず、言葉にならないシャオカンの一人語りが続くだけだ。
 このような裏切りというか肩透かしは、われわれが映画による感情の操作に慣らされているせいでおきるのだと気づく。映画を見るということを繰り返すうちに、そこにあるひとつのパターンに染まり、ひとつの典型的な映像の作り方が出てくると、その後起こるべきことを勝手に想像する。もちろんそれは常にあたるわけではないけれど、あたることが多いからこそ一つのパターンとして無意識のうちに認識されるようになるのだ。
 そのようなパターンを裏切ることが映画に驚きを加え、映画を面白くするということもわかる。だから、そのようなパターンはたびたび裏切られる。しかしそれはあくまで驚きを「加える」ためだ。この映画はすべての場面でその期待を裏切る。それは最初のうちは生じていた驚きを最後には拭い去ってしまう。裏切られることを当然として映画を見るようになる。
 最後の一連のシーン。ただただ歩くメイを映すカット、長い長いパン移動のカットこれらはその後に何かが起こることを期待させるカットであるはずだ。しかし、2時間この映画に浸ってしまうと、普通にこのシーンを見た場合とはなんだか感触が変わってしまっている気がする。それはこの映画が執拗に浮き出させようとする「孤独」というものとも関連があるかもしれないが、今日のところは画面に映ったものだけにこだわって考えてみた。

エクセス・バゲッジ

Excess Baggage
1997年,アメリカ,101分
監督:マルコ・ブランビヤ
脚本:マックス・D・アダムス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ジョン・ルーリー
出演:アリシア・シルヴァーストーン、ベニチオ・デル・トロ、クリストファー・ウォーケン、ハリー・コニック・Jr

 父親の気を引こうと狂言誘拐を企てた大富豪の娘エミリー。計画は順調に進んでみ、解放される段取りになり、自らをガムテープで縛り上げ、トランクに入ったが、そこに車泥棒のビンセントが現れ、その車を盗んでいってしまう。

 物語はとても普通で、もっと突き抜ければ面白いB級映画になったのに… と思ってしまう程度。そして、アリシア・シルヴァーストーンがひどすぎる。いつも決してうまいとはいえないけれど、このまったくとらえどころのないキャラクターは何なのか? 自分が作った製作会社の作品ということでちょっとやる気が空回りという感じでしょうか? アリシア・シルヴァーストーンといえば小悪魔的な魅力が売りですが、この映画のキャラクターは小悪魔を超えてただの気まぐれ、わがまま、自分勝手。それはつまりキャラクターとしての一貫性がないということ。これでは人をひきつける魅力は作り出せません。
 この映画を救うのは、ベニチオ・デル・トロ、クリストファー・ウォーケン・ハリー・コニック・Jrたち。3人ともなんだかさえない役回りで、輝いてはいないけれど、その情けなさがなかなかよろしい。たぶん本当はわがままお嬢様に振り回されるという役回りで描かれるべきなのだけれど、お嬢様は一人で暴れまわっているだけで、別に誰も振り回さない。だから周りの人たちもよくわからないまま情けない役回りをさせられているという感じになってしまう。
 まとめるならば、なんとなく全体的に間が抜けている感じ。それぞれの部分部分がばらばらで、それがいつかはまっていくんだろうと思わせながら、きっちりとはまることはなく、なんとなくうやむやにされてしまう感じ。
 と、文句ばかり言っていますが、決して悪くはないんです。最後まで見るに耐えるくらいは面白いんです。でも、それ以上ではない。ベニチオ・デル・トロはなんだか不思議な役者で、見ていると飽きないんですね。何かしそうな気がするというか、よくわからない期待感を抱かせるんですねこれが。不思議な役者さんだなぁ。

シーズ・オール・ザット

She’s All That
1999年,アメリカ,96分
監督:ロバート・イスコヴ
脚本:R・リー・フレミング・Jr
撮影:フランシス・ケニー
音楽:アマンダ・シアー=デミ
出演:フレディ・プリンゼ・Jr、レイチェル・リー・クック、ジョディ・リン・オキーフ、マシュー・リラード

 生徒会長のザックは春休み明け、ガールフレンドのテイラーに振られてしまう。成績優秀、スポーツ万能、全女子生徒の憧れの彼が振られてしまったのにつけこみ、友人のディーンは学校一ダサいというレイニーをプロムクイーンに仕立て上げられるか賭けをしようとザックに持ちかける。
 とてもよくある学園もののティーン・ムーヴィー。学園者のティーン・ムーヴィーといえば、やっぱりクライマックスはプロム。どうしてアメリカ人はこんなにプロムが好きなのか?

 映画を見る前から映画のプロットのすべてが予想できるというのもすごい話。学園イチダサいといわれるレイニーが変身前からどう見てもかわいいのが納得がいかない。もうちょっとダサさが出ていれば物語に納得がいきそうなものだけれど、これじゃあねという感じです。
 しかし、レイチェル・リー・クックはひどくかわいい。対抗馬としてキャスティングされているジョディ・リン・オキーフがいまいちぱっとしないというのもありますがね。繰り返しますが、変身前から明らかにかわいいんじゃないかと思ってしまう。
 若い役者たちが売りとなるしかないティーン・ムーヴィーにしてはこのレイチェル・リー・クック以外のキャストがぱっとしない。
 のですが、逆にプロットは意外と面白かった。確かに筋としてはすべてが読めてしまうものだけれど、友情とか個性とか将来とか高校生あたりにはとても魅力的であろう話題がうまくちりばめられていていい。
 そういえば、サラ・ミシェル・ゲラーがちょい役で出てましたね。もうすでに『バフィー』で人気が出ているはずなので、ティーンズ・ムーヴィー常連さんとしての友情出演という感じでしょうか。おそらく、そんな感じでアメリカのTVで人気の役者さんがたくさん出ているはずです。私には見分けがつきませんでしたが… わかりやすいところでは、ザックの妹はアンナ・パキン、レイニーをいじめる美術部の子は『17才のカルテ』の子(クレア・デュバル)という感じですね。
 後は音楽。シックス・ペンス・ナン・ザ・リッチャーのヒット曲はもちろんですが、劇中のラップなんかもなかなか素敵。こう考えると、まさにエンターテイメント。絵に書いたような現代アメリカ映画。

恋の秋

Conte d’Automne
1998年,フランス,112分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
出演:マリー・リヴィエール、ベアトリス・ロマン、アラン・リボル、ディディエ・サンドル、ステファン・ダルモン

 マガリは夫と死に別れ、二人の子供も独立し、一人で親から引き継いだブドウ畑でワインを造っていた。親友のイザベルがある日マガリをたずねると、マガリは息子レオの恋人のロジーヌと一緒にいた。そのロジーヌは哲学の先生のエティエンヌと分かれてレオと付き合い始めたばかりだった。孤独に暮らすマガリに男の人を世話しようとイザベルとロジーヌはそれぞれ考えを持っていて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の最後の作品。主人公の年齢が高いのは人生の「秋」という意味なのだろうか。

 最初のシーンで遠くのほうに移る工場の煙突。田舎の風景の中でなんとなく浮いているその煙突は物語が進んでから人々の話題にのぼる。映画というのは、そういう細かい部分の「気づき」が結構重要だと思う。もちろん映画自体のプロットとか、登場人物のキャラクターとか、メインとなるものはもちろん重要なのだけれど、それだけではただの物語としての面白さ、ドラマとしての面白さになってしまう。それは、映画としての面白さと完全に一致するものではないような気がする。本当に面白い映画とは、一度見ただけではすべてを見切れない映画であるような気がする。1時間半や2時間という時間で捉えきれないほどの情報をそこに詰め込む。
 この映画はそれほど情報量が多いわけではないけれど、その煙突のようなものがメインとなるドラマの周りに点々とある。その点は映画的な魅力となりうるものだと思う。たとえば、イザベルとジェラルドが初めて会ったとき、出されたワインのラベルが画面にしっかりと映る。こういうのを見ると「ん?後々なんか関係してくるのかしら?」と思う。具体的にいえば、「マガリの作ったワインかしら?」などと思う。実際、このラベルは後々の話とはまったく関係なかったけれど、そういう周囲のものにも注意を向けさせる撮り方というのは映画にとって重要なんじゃないかと思ったりする。
 さて、これは「四季の物語」最後の作品で、4本撮るのに10年もかかってしまったのですが、全部見てみると、結局のところどれも恋の話で、結局いくつになっても恋は恋。ジェラルドが言った「18歳のときのように怖い」というセリフがこのシリーズをまとめているかと思われます。最後の作品で少し年齢層が高めの物語を持ってきたというのは、ロメールなりのそういったメッセージの送り方なんじゃないかと思ったりもしました。