女は女である

Une Femme est Une Femme
1961年,フランス=イタリア,84分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原案:ジュネヴィエーヴ・クリュニ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、マリー・デュボワ

 ストリッパーのアンジェラは子供が欲しい。しかし、同性相手のアルフレッドはあまり乗り気ではない。そこで彼女は、いつも言い寄ってくる友だちのエミールを使って彼の気を変えさせようとするのだが…若き日のゴダールが取った、喜劇になりきれなかったシュールな喜劇。劇中で喜劇なのか悲劇なのかと繰り返し問われるように、喜劇のような顔をしていながらその実一体難なのかはわからない不思議な作品。個人的にはこのシュールな笑いのセンスはありです。

 冒頭のシーンのアンナカリーナの持つ赤い傘。くすんだ色調の画面にパッと映える赤い傘はまぎれもないゴダールの色調である。だからこの映画もゴダールらしい文字やサウンドを多用した天才的な構造物であるのかと予想するが、始まってみるとコメディ色を前面に打ち出したオペラ風というかミュージカル風の作品。オペラ調は後半に行くに連れ薄れていくものの、全体にコメディ映画であると主張するようなシュールなギャグがちりばめられる。このセンスのシュールさがやはりゴダールなのか。このセンスは個人的にはすごく好き。目玉焼きなんかは最高にヒットしたのでした(俺はおかしい?)。
 ゴダールの映画はどれもシンプルなのだけれど、この映画はことさらにシンプル。多くのゴダールの映画はシンプルでありながら、ひとつひとつはシンプルである要素を重ね合わせて複雑にはしないけれど理解を難しくする。シンプルなのだけれどそこに盛り込まれた要素が多すぎていっぺんにすべてを理解することは難しくなる。しかしシンプルであるがために、頭を抱えることにはならず、凡人の理解力では追いつけない映画的なものの奔流に身を任せることが心地よい。いわば、単色のレイヤーを重ね合わせることで、一つの芸術的な絵を作り上げているような感じ。
 しかし、この映画の場合は、そのレイヤーの数が抑えられているので、理解することができる。時折、不可解な場面に遭遇するものの大部分は理解することができる。これは一方ではちょっと物足りなさを感じるけれど、何かゴダールの映画作りのエッセンスを垣間見たような気にもなれる。ようは、こんな映画を3本くらいくっつけて、しかし長さは同じ90分で作ったのがいつもの映画なんじゃないかと乱暴な言い方をしてしまえば思える。面白いんだけどよくわからないゴダールがちょっと分かった気になれる一本という感じでした。

パンと植木鉢

Un Instant d’Innocence
1996年,フランス=イラン,78分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:マームード・カラリ
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ミルハディ・タイエビ、アリ・バクシ、アマル・タフティ、マリヤム・モハマッド・アミニィ

 マフマルバフ監督のもとを訪れたごつい男は、20年前に政治少年だった監督が銃を奪おうと襲った元警官だった。その当時の話を映画に撮ろうと考えた監督は少年役のオーディションを行う。元警官の男も自分の少年役の少年を選ぶのだが、監督と意見が衝突してしまう。
 静かで美しい、しかし緊迫感のある作品。いわゆる映画の映画だが、そこに仕掛けられた様々な仕掛けは並みの映画とは違う。

 この監督の作品はいつも不思議ですが、この作品もかなり不思議な作品。過去と現在が、映画と現実が交錯する。その交錯する瞬間を捉えようとする映画をとる人たちをとる映画。そこに現れる緊迫感の波もすごい。「どうなってしまうのか」という緊迫感がひしひしと伝わる場面がある一方で、全くほのぼのとする場面がある。緊迫する場面の最たるものはラストシーンで、こんな設定でものすごくドキドキしてしまうのが不思議。一方、ほのぼのとするシーンはなんとなく微笑がほほに浮かんでしまう。その中で一番すきなのは、元警官とそれを演じる少年が行進の練習をしながら雪の道を歩いていくところ。それは本当に美しく、ほほえましく、感動的だ。
 なんといえばいいのか、美しい映画は見るものから言葉を奪ってしまうけれど、これもそんな映画。とにかく不思議で、美しく、面白い。「サイクリスト」を見ていると不思議さというのはイランという馴染みのない文化のせいなのかと思うところもあったが、この映画を見るとそんなことは全く関係ないのだと思う。ただ美しい映画を撮るために、理解させるという方法論を放棄してしまった映画。そんな感じすらする。しかしそれはいわゆるアート系の難解さとは正反対のシンプルなもの。なんとなく分かるんだけれど、考えてみるとなんだかわからない。そんな不思議さが映画に浸る気持ちよさを演出していると思う。

貸間あり

1959年,日本,112分
監督:川島雄三
原作:井伏鱒二
脚本:川島雄三、藤本義一
撮影:岡崎宏三
音楽:真鍋理一郎
出演:フランキー堺、淡島千景、乙羽信子、桂小金治、浪花千栄子、小沢昭一

 大阪の高台の上にあるアパート屋敷。蜂を飼う男やエロ写真を売る男など個性的な人たちが住む。そこに住む与田五郎はよろず引き受け屋。そこに陶芸家のユミ子、浪人生のミノルがやってくる。ともにアパート屋敷の空家に住まおうとするが、結局ユミ子が住むことになった。住人が増えても、アパート屋敷は相変わらずドタバタの毎日。
 混沌と軽妙。捉えどころのない川島雄三の作品群の中で、特徴といっていいこれらの要素がストレートに盛り込まれた作品。川島作品の典型、というよりは平均といっていい作品かもしれない。

 すべてが混沌としている。アパートそのもの、アパートの住人達の関係、物語。ただその中で構図だけがしっかりとしている。軽い語り口と混沌の作り出すわけのわからなさが映画を圧倒してしまうけれど、ひとつひとつの画面を切り取っていくと、それは周到に計算された(あるいは天才的な)構図が存在し、それがこの混沌をなんとなくまとまらせている。とくに、アパートの食堂というか、皆が食事をする場所での構図は、人がたくさんいることもあってか気を使っているのが分かる。
 しかし、結局のところ「軽さ」こそが映画の命。プロットのすべての要素は物語を軽く軽くする方向に進んでいく。深刻そうな出来事にもすべて落ちがあり、「げてもの」であることに悩んでいても、果たしてそれが治ったのか、そんなことは問題にしない。「さよならだけが人生だ」といいながら、軽々と世の中を乗り切っていくそんな人たちだけがいる映画。川島雄三自身もそんな軽がるとして人生を送ったのかもしれない。放蕩三昧を尽くし若死にした彼が自己を投影したように見えるこの作品は果たして本当の彼の姿なのか、それとも人に見せようとする自分の姿なのか。それがどちらであるにしろ、敗戦後の混乱から立ち直りつつありながらもいまだ物事を深刻に考えてしまう日本の中にあって、「軽さ」を主張する稀有な存在であったことは確かだろう。この軽妙さがもたらしたのは日本の「モダニズム」であり、新たな日本映画であったのだろう。
 ここには日本映画に稀有なキャラクター川島雄三の「らしさ」があるのです。多分ね。

ボーイズ・ドント・クライ

Boy’s Don’t Cry
1999年,アメリカ,119分
監督:キンバリー・ピアース
脚本:キンバリー・ピアース、アンディ・ビーネン
撮影:ジム・デノールト
音楽:ネイサン・ラーソン
出演:ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガード

 ネブラスカ州リンカーン、1993年。性同一性障害を持つブランドンはゲイの従兄ロニーのところに居候していたが、「レズ、変態」とののしる男達に家を襲われたことでロニーに追い出された。沈んだ気分でバーで飲んでいたブランドンは隣に座ったキャンディスに声をかけられ、友だちのジョンと共に出かけることにした。
 実際にアメリカであった事件を元に作られた衝撃的な映画。同性愛者に対する偏見、性同一性障害に対する無理解がいまだ蔓延していることを強烈に主張する。

 性同一性障害というのは、つまり本来の性(セックス)とは異なる肉体的な性をもってしまった障害(つまり病気)とされているが、その本来の性は脳が認識している性であり、脳もまた肉体であるのだからその「肉体的な」という表現は誤っていると思う。むしろそれは外面的な性に過ぎないということ。だからブランドンは表面的な部分以外は完全に男性であって、それが彼が「自分は同性愛者ではない」と主張する理由になっている。
 そんなことを考えると、この映画の取り上げる事件の原因となったのは単なる同性愛憎悪ではなく、むしろ同性愛恐怖(ホモフォビア)であると思う。ジョンは同性愛者が憎いのではなく、同性愛者が怖い。自分のマチスモ(男らしさ)が損なわれてしまうことに対する恐怖。自分の彼女が女に寝取られてしまうことに対する恐怖。それを振り払うためにブランドンに対してああいった行動に出てしまう。その本当の原因は同性愛に対する偏見ではなくて、根深い男性主義にあるのだろうと私は思いました。「あいつはいい奴だが、腰抜けだ」とジョンは言いました。そういう意味では、ブランドンもまた男性主義に染まっていて、男性であること=強くなくてはならない。という強迫観念がある。そのことで彼は自分をよりいっそう生きにくくしてしまっている。その辺りが本当の問題であると思います。レナはそれを何らかの形で和らげることができそうな存在だったということなのですが。
 この映画はどうしても映画の話より、その中身へと話がいってしまいますが、なるべく映画のほうに話をもっていきましょう。この映画はかなり人物のいない風景(それも長時間撮影したものをはや送りしたもの)が挿入されますが、この風景による間がかなり効果的。それは考える時間を生じさせるという意味で非常にいい間を作り出しています。しかも、それが単なる固定カメラではなくてパン移動したりもする。これは見たことがないやり方。やはりカメラをすごくゆっくり動かしていくのか、それとも他に方法があるのか分かりませんが、相当大変なことは確かでしょう。そんなこともあってこの風景のところはかなりいい。
 深く、深く、考えましょう。

猿の惑星

Planet of the Apes
1968年,アメリカ,113分
監督:フランクリン・J・シャフナー
原作:ピエール・ブール
脚本:ロッド・サーリング、マイケル・ウィルソン
撮影:レオン・シャムロイ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:チャールトン・ヘストン、キム・ハンター、ロディ・マクドウォール、リンダ・ハリソン

 高速で宇宙探索を続ける宇宙船。半年が経ち、船長のテイラーも長期睡眠に入ることになった。半年といっても地球では数百年に当たるときが立っていた。その睡眠がけたたましい非常ベルと共に醒める。不時着した惑星を探索して行くと、その惑星は去るが人間を支配している惑星であることが分かった。
 斬新な発想で、SFの古典となった作品。猿の特殊メイクも当時の技術力の粋を集めたもので相当なもの。リメイク版と比べても見劣りしません。

 体外の人は物語を知っているだろうということでネタばれは恐れずに書いていきます。で、結末を知った上で見てみると、ちょっとこの物語は冗長すぎる。つまり、転がっていって欲しい物語がなかなか転がらず、先の展開へ時が行くものとしてはじれったさを感じる。基本的にはかなり社会に対する批判的な姿勢が明確に打ち出されており、その要素がプロットの遅滞を生み出しているということ。その批判的な要素がプロットの遅滞を補って余りあるほど魅力的であれば、そのようなじれったさは感じないのだろうけれど、この映画の場合は補いはするけれど余りはない、という程度。なので、2時間弱の作品を2時間弱に感じさせてしまう。わたしは映画は90分がちょうどいいと思っているのですが、その90分というのは物理的な(地球の)時間ではなくて、体感的な時間なわけです。だからこの映画はちょっと長い。その点では、ティム・バートン版のほうが勝っているでしょう。スピード感という点では。
 しかし、特殊メイクを見てみると、ほとんど遜色がない。というよりむしろ、古い方が自然に感じる。それはおそらく、この「猿の惑星」のころに始まったILMの特撮にわれわれが慣らされているからなのでしょう。よく考えれば全く作り物なのだけれど、いまILMがCG技術などなどを使って作ったティム・バートン版のよりもリアルに感じるのはなぜ? みんなはそうは感じないのだろうか?
 しかも、この映画は60年代の作品。「2001年」とほぼ同じ時期に製作されたもの。そう考えるとすごいのかもしれない。純粋娯楽作品としてこれだけしっかりとSFを作っているというのは。きっと文句をいわれながらも見られつづける作品だと思います、これは。

殺しの烙印

1967年,日本,91分
監督:鈴木清順
脚本:具流八郎
撮影:長塚一栄
音楽:山本直純
出演:宍戸錠、真理アンヌ、小川万里子、南原宏治

 羽田空港に降り立つ男・花田五郎は組織ナンバー3の殺し屋。それを迎えにきた男も以前は殺し屋だったが、いまは酒に手を出しランク外に落ちているという。飯の炊ける匂いをこよなく愛する五郎はその男に持ちかけられた仕事に乗り、ひとりの男を護送する。
 というストーリーですが、この映画のストーリーは日活社長が激怒したくらいわけのわからないものなので、気にしてはいけません。この映画に予備知識は要らない。これを見ればきっと「鈴木清順ってなんだろう?」と思うこと請け合い。

 この映画は製作当時、あまりにわけがわからず日活社長が激怒し、清順はクビにされたという話や、ジャームッシュやカーウァイらの映画で引用されているという話で有名になっていますが、実際映画を見てみると不思議な感じ。「スタイリッシュ」という言葉で表現されるのはむしろおかしいと思うくらい摩訶不思議な世界。これは決してスタイリッシュではなく、一種の遊びの世界であり、日活の社長がクビにしたのも企業人としてはあたりまえかなという気もします。全く映画で遊んでいるとしか思えないから。しかし、これが数十年後には一種のスタンダード(あくまで一種の、一部のですが)になるとは考えつかなかったでしょう。
 映画自体はというと、まず殺し屋の世界にランキングがあるということ自体わけがわからない。そして真理アンヌの存在の位置もよくわからない。もしかしたら本当はそんな女いないんじゃないかと私は思いました。きっとあの女は飯の精、炊き立てのご飯の妖精に違いないと思う。と言い切ってしまうのは、この映画がどんな勝手な解釈も許容するような映画であるから。とにかくやってみたいことをいろいろやって、うまい具合につなげてみて、あとはみんなの解釈に任せるよといういい意味で投げやりな姿勢なわけです。ああまとまらない。
 この映画は今年、清順自身によってリメーク(いや、むしろリ・イマージュ)されて公開されます。話によると全然違う映画のそうなので、楽しみ。

ユージュアル・サスペクツ

The Usual Susupects
1995年,アメリカ,105分
監督:ブライアン・シンガー
脚本:クリストファー・マッカリー
撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル
音楽:ジョン・オットマン
出演:スティーヴン・ボールドウィン、ガブリエル・バーン、チャズ・パルミンテリ、ケヴィン・スペイシー、ベニチオ・デル・トロ、ジャンカルロ・エスポジート、ダン・ヘダヤ

 カリフォルニアのサン・ペドロ港に停泊していた船で殺される男、彼は向かい合った男を見て「カイザー」とつぶやいた。それをさかのぼる6週間前、銃強奪事件の容疑者として5人の曲者が集められた。そのうちのひとりヴァーバルが語り手となってそこに至る物語が語られていく。
 アカデミー脚本賞も受賞したクリストファー・マッカリーの一筋縄では行かない脚本が秀逸。マフィア映画でおなじみな人たちにスティーヴン・ボールドウィンとケヴィン・スペイシーが加わったという感じの配役も見応えあり。

 サスペンスの基本はが隠すことであるのは確かで、この映画も「隠すこと」によって物語が成り立っているわけだが、最初のうちは一体なにが隠されているのかわからないというのが面白い。(ネタばれ防止のため多くは語りませんが)後半になると「隠されているもの」が何なのかが明らかになり、その謎解きに収斂するわけだが、その謎解きというサスペンスの本質的な部分よりも、その前のなにが謎なのかわからない状態の方が面白い。
 後半の謎解き部分がつまらないというわけではないけれど、前半の曖昧模糊と部分の方が真実じみていて、どこに向かっていくのかは一行にわからないけれどリアルな感じがするのでした(終わってみて考えるとそれはかなりすごいことなわけですが…)。
 個人的には、出てくる人のほとんどが悪人顔のところがとてもいい。チャズ・パルミンテリなんてどう見てもマフィア顔なのに捜査官。ダン・ヘダヤもそう。ジャンカルロ・エスポジトだけがまっとうそうな人。この物語だけでは終わらない物語がきっとある。そう感じさせる配役。
 まあ、多くは語らない方がいいでしょう。うんうんうなりながら見るよりは、全く無心で予備知識なく見たほうが絶対に面白い。
 ところで、このブライアン・シンガーとクリストファー・マッカリーは「Xメン」で再びコンビを組んでいます。なるほどね。わかるようなわからないような…

シャンドライの恋

Besieged
1998年,イタリア,94分
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
原作:ジェームズ・ラスタン
脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、クレア・ペプロー
撮影:ファビオ・チャンケッティ
音楽:アレッシオ・ヴラド
出演:デヴィッド・シューリス、タンディ・ニュートン、クラウディオ・サンタマリア

 ローマの古びた邸宅で家政婦をしながら医学生として暮らすシャンドライ。彼女はアフリカのとある国で夫が政治犯として逮捕され、イタリアにやってきた。彼女の暮らす邸宅にはピアニストのキンスキーがひとりで暮らしていた。キンスキーはやがてシャンドライに思いを寄せるようになるが…
 大作で知られる巨匠ベルトルッチが撮った小品。ベルトリッチらしい緊迫感がありながらシンプルで美しいラヴ・ストーリーに仕上がっている。ベルトリッチが苦手という人でもきっとすんなり受け入れられるはず。

 言葉すくなになります。ベルトルッチの映画はいつも言いようのない刺すような緊迫感が画面から漂う。彼の映画のほとんどは緊迫した場面で構成される映画だから、それは非常にいい。しかし、他方で彼の映画は強すぎ、見るものをなかなか受け入れようとしない。「1900年」の5時間にわたる緊張感を乗り切るのは非常につらい。
 この映画は同じ緊迫感を漂わせながら、何に対する緊迫感であるのかがはっきりしない。シャンドライがクローゼットを開けるとき、彼女はなにを恐れるのか?このシンプルなドラマに対する過剰な緊迫感。そのアンバランスさはともすれば映画全体を崩しそうだが、ベルトリッチはそれを食い止め、セリフに頼ることなく物語ることを可能にした。
 ほとんど語り合うことなしに、コミュニケーションを続けるシャンドライとキンスキーの間の緊迫感は2人の感覚を研ぎ澄まさせ、その研ぎ澄まされた感覚が感知した雰囲気をわれわれに伝える。それを可能にしたのがベルトリッチならではの緊迫感というわけ。たとえば、シャンドライの視点で語られる(言葉で語られるわけではないけれど)場面で、画面にシャンドライ自身の影がすっと入ってくるとき、われわれはその黒い影にはっとする。それはつまり画面に対する感覚が鋭敏になっていることを意味する。ベルトルッチの映像が美しいと感じるのはただ単に彼の画面作りがきれいだからというだけではなく、そのような緊張感の下に置かれたわれわれの感覚が平常より深くそれを感じ取ることができるからでもあるだろう。
 わたしはいままでベルトリルッチの作品を見ながらその強さに太刀打ちできなかったが、この作品を見てその理由が少しわかった気がする。彼の作り出す緊迫感は見る側の感覚を研ぎ澄ませるためにあるのだと。果たしてそれを長時間維持できるのかはまた別の話…
 90分くらいなら持つけど、5時間はやっぱり無理かもね…

親不孝通り

1958年,日本,80分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:須崎勝弥
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:川口浩、野添ひとみ、桂木洋子、船越英二、小林勝彦

 飲み屋のおやじがアメリカ人の乗っている車とぶつかったところに行き会った勝也はその外人とボーリングの勝負をしようといい、車でボーリング場に行ってしまう。勝也は就職難に悩む学生だが、親不孝通りと呼ばれる横丁で毎夜遊び、賭けボーリングをしては資金をひねり出していた。
 ドロドロとしたドラマはお手の物。基本的には勝也とその姉のあき江を中心とした愛憎劇だが、なんとなくユーモラスなところもある。

 初期の増村の作品はやはり、こういった愛憎劇よりもアップテンポな喜劇のほうが面白い。増村自身が成熟してゆくに連れ、こうした太いドラマでも増村らしさを十全に発揮することができているのだけれど、この頃の作品はまだ増村らしさは埋没している。撮影所システムの中で一人の職人監督として与えられた脚本に真摯に取り込んでいるという印象がある。だからドラマとしては面白いけれど、増村映画としてはどうかなということになる。それは「不敵な男」でも同じことだが、こちらの方がドラマが軽妙な分、増村らしさは発揮されているような気がする。しかし、総合的に見ると、新藤兼人の秀逸な脚本がある分「不敵な男」の方が上かなという感じ。
 このドラマでひとつ気にかかったのはあまりに偶然に支配されているというところ。怒りを覚えた川口浩が姉を捨てた男の後をつけ、妹を突き止めたまではよかったけれど、そこからの展開がかなり偶然に支配されている。むしろ独力で妹に近寄っていった方がドロドロさが増して行き、ドラマが太くなっていったような気もする。
 そういえば、山小屋に車で向かうシーンがあるんですが、その車には9人もの人が乗っている。しかし、みんなの顔がちゃんと映る。あの狭いスペースに全員の顔が見えるように配置するのはきっと相当大変なはず。そんな何気ない部分の技量の方にちょっと目が行ったりもしました。

不敵な男

1958年,日本,85分
監督:増村保造
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、永井智雄、岸田今日子、船越英二

 チンピラの立野三郎は仲間と主に、一人の男を事故に見せかけて殺す。その仕事はうまく行き、親分に褒美をもらった立野だったが、田舎から出てきた秀子を騙して部屋に連れ込み強姦したところを刑事井川に見つかってしまった。
 川口浩と野添ひとみという増村初期のゴールデンコンビで作ったフィルムノワール。新藤兼人の骨太のシナリオの中にありながら、初期増村らしいユーモアが際立つ隠れた名作。

 ドラマ自体はいかにも新藤兼人という骨太なドラマで、しっかりと組み立てられていて隙がない。それはそれで素晴らしいのだけれど、それはある意味では増村の自由さを殺してしまいかねない。それはまだ新人に毛の生えた程度の監督とすでに重鎮となっている脚本家の関係性からは仕方のないことだ。つまり、この映画は作られた時点ではあくまでも売れっ子脚本家とすでにスターとなっていた川口浩と野添ひとみの映画。それを増村保造という監督が撮ったというだけのものだっただろう。しかしいま、増村保造という監督を意識してみるわれわれは、そこに垣間見える「増村らしさ」を探してしまう。川口浩と野添ひとみがななめの関係になる構図、刑務所の場面のスピード感とユーモア、などなど。
 素直に映画を見ると、おそらくそんな細部よりも、ドラマトゥルギーに心奪われ、野添ひとみの不均衡な魅力に魅了されるのだろうけれど、作家主義という一面的な映画の見方に毒されてしまうと、そこがなかなか見えてこない。しかし、作家主義は素直な子供のような見方を隠蔽する一方で、映画を分析的に見ることができるという利点もある。わたしがいつも思うのは、そういったさまざまな見方が同時にできれば一番いいとことである。しかし、それはなかなか難しい。この映画を見ながら野添ひとみのクロースアップに魅了された私は、果たしてその場面の構図がどうなっていたのかなんて覚えていない。他に何がうつっていたのかもわからない。そういったものの配置にも気をつけて、監督の特性をとらえるのが作家主義なのだとしたら、わたしは作家主義的見方でこの映画を捉えるということには失敗していることになる。しかし、子供のように無心に映画を見ていたわけでもない。
 なぜ、こんなことを長々と書くかといえば、この映画を見ながら最も強く感じたことが「もう一回見たらずいぶん違う映画に見えるんだろうな」ということであったからだ。増村の映画は大概そうだが、この映画は特にそう思った。それはおそらく増村保造の存在が多少隠されたものとして存在するからだろう。もう一回見ることで、無心に見ることのできる場面、分析的に見ることのできる場面が変わってくるだろう。
 つまり、わたしは今1回見た時点でこの映画を見たと言い切ることはできない。だからないように関して責任あるレビューを書くことはできない。だから内容とは直接的には関係ないことを長々と書く。本当はどの映画のときもそうで、自分を騙し騙し書いているのだけれど、切実にそういうことを意識させられると、なかなか筆が(キーが?)進まないもので、こういうことになりました。