ユマニテ

L’Humanite
1999年,フランス,148分
監督:ブリュット・デュモン
脚本:ブリュット・デュモン
撮影:イヴ・ケープ
音楽:リシャール・キュヴィリエ
出演:エマニュエル・ショッテ、セヴリーヌ・カネル、フィリップ・テゥリエ

 思いつめた様子で地面に突っ伏す男。40歳も近い刑事のファラオンは母親と二人暮し、近所に住むドミノに親しげに話し掛けるが彼女には恋人がいる。そんな彼が11歳の少女が強姦され殺された事件の捜査を受け持つことになる。現場を見た彼は非常なショックを受けるが…
 前作から引き続き淡々とした物語を撮るデュモン監督だが、主人公の心情の描き方や画面の細部の構成で進歩が伺える作品。

 ファラオンにはなんとなくユーモアがあり、謎めいた雰囲気がある。それが物語全体を支え、興味深いものにしている。この作品も「ジーザスの日々」と同じく、限られた登場人物で限られた場所で展開され、場所の反復が行われ、多くの風景カットが挿入され、舞台装置が観客に吸収される。そこまでは同じ。途中で一度海に出かけるのも同じ。違うのは、ただただ沈うつなフレディと謎めいたファラオンの違い。
 !!この辺りからネタばれ気味!!
 ファラオンの思いつめたような表情と時折見せる微笑。これは一瞬彼が犯人なのかと疑ってしまうくらい謎。その思いつめた表情は彼が妻子を失ったということが物語り半ばで分かることで大体理解できるのだけれど、それにしても重い。そして突然宙に浮く。この宙に浮くシーンはよくわからないけれど、個人的にはかなりお気に入り。ボケた背景にじわじわ頭がフレームインしてきて、バックショットに変わった瞬間は爆笑しそうになったけれど、周りの人が眉間にしわを寄せてみていたので我慢しました。あれはシュールな笑いなのか、それとも深い考えがあったのか、その辺りは分かりませんが、あのシーンがあるとないとでは映画全体のバランスが大きく変わってしまうような気がしました。物語には関係してこないのだけれど、いいシーンでした。
 あと気になったのはファラオンの家の黄色いコーヒーメーカー。ドミノが泣き崩れるシーンでも画面の端っこにしっかりと移りこむ。あの黄色があることであのシーンの構図が締まるような気がします。画面がシネスコだけに、そういった構図への配慮はとても重要。「ジーザスの日々」ではほとんどの場面が普通のバランスのよい画面構成だったのに対して、この映画では黄色いコーヒーメーカーのようなアクセントによってアンバランスにすることで構図を支える場面がいくつかあったのでよかった。
 しかし、個人的には全体として重すぎ、平板すぎ、そして長すぎ。眠い。この展開なら長さはこんなもんという気がしますが、この展開で2時間半はやっぱりつらいかも。

ジーザスの日々

La Vie de Jesus
1997年,フランス,96分
監督:ブリュット・デュモン
脚本:ブリュット・デュモン
撮影:フィリップ・ヴァン・ルーエ
音楽:リシャール・キュヴィリエ
出演:ダヴィッド・ドゥーシュ、マーショリー・コットレール、ジュヌヴィエーヴ・コットレール

 何もせずに仲間とバイクを乗り回す青年フレディ。母と二人暮しだが、仕事を探すこともせず仲間と遊び、恋人のマリーとセックスにふけるばかり。しかしそんなフレディにはてんかんもちであるということや、小鳥を育て、コンクールに出すような一面もあるのだが…
 フランスの田舎町を舞台に、そんなフレディと仲間達の日常を淡々と描いたブリュット・デュモンの長編デビュー作。

 あまりに淡々としている。その裏にある若者の律動というか、やり場のない怒りというかそのようなものは感じられるが、それ自体は決して新しいものではなく、むしろ露骨な性描写などがわざとらしく感じられる。最近のイギリス映画によくあるような感じというか、それをフランス風にした感じというか、イギリスのたがの外れた明るさのようなものをのぞいてしまった重苦しい雰囲気。その雰囲気自体は悪くないけれど、ちょっと展開がなさ過ぎて退屈する感は否めない。
 しかし、この監督のいい点は細部の緻密さで、それが単純に飽きてしまう展開を救う。限られた登場人物と限られた場所で展開されるドラマなので、同じ場所を繰り返し移すことができ、しかも意図的にそうすること(風景のカットをたくさん入れること)によって、観衆にそれを記憶させる。たとえばフレディの家が町並みのどこに位置するのか見ている人がなんとなく分かる。だから、フレディのバイクがいつ横転するのか予測できる。そうすることで映画との距離を縮めることについては非常に巧妙だと思った。
 そして、それを少し変えることで、語らずして変化をつけることができる。たとえば5人がいたずらした女の子の親に呼ばれる場面、見ている側はそれがフレディの家だとすぐ分かる。そして、普段とは違うただならぬ雰囲気がすべての状況を物語ってしまう。

ビートルジュース

Beetlejuice
1988年,アメリカ,92分
監督:ティム・バートン
脚本:マイケル・マクダウェル、ウォーレス・スカーレン
撮影:トーマス・エーカーマン
音楽:ダニー・エルフマン
出演:マイケル・キートン、アレック・ボールドウィン、ジーナ・デイヴィス、ウィノナ・ライダー

 田舎の一軒家に仲良く暮らす若夫婦、夫は模型作りが趣味だった。しかしある日、車ごと川に落ちて二人は死んでしまう。ゴーストとなってその家に残ることになった新しい住人を追い出そうとするが、うまく行かない。その時、「バイオ・エクソシスト」なるビートルジュースの広告を目にするのだが…
 奇才ティム・バートンが一気にメジャーになったヒット・ホラー・コメディ。毒々しいながらもユーモアにあふれた不思議な世界。ウィノナ・ライダーもかわいい。

 これぞティム・バートン!という感じ。「猿の惑星」とか「バットマン」の大掛かりな感じも悪くはないけれど、ティム・バートンにはなんとなくB級な味わいを残して欲しい。この作品は実質的なデビュー作と言えるだけにまさにB級テイスト満載。ユーモアの作り方がとてもいい。独特のキャラクターの作り方も、もとアニメーター(しかもディズニーの!)だけあってとてもうまい。この映画の脇役のキャラクター達は一本の映画の脇役にしておくにはもったいないくらいいいキャラクターがそろっているとは思いませんか? ビートルジュース自身はそれほどとっぴというわけではないけれど、脇に脇に行くほどティム・バートンのオタクぶりがうかがえる凝りようになる。その当たりの細部に対する配慮が映画にとって生命線になっているような気がする。それはティム・バートン映画のすべてに通じて言えることでもあるような気はします。
 この作品が決して一般受けしないのはなぜだろうと考えてみる。わけがわからない。ナンセンス。安っぽい。しかし、ティム・バートンというのはお金をかけてわざわざ安っぽいものを作っているような気がする。アレック・ボールドウィンが顔を変形させるところだってクレイアニメだから相当手間も金もかかっているはず。しかしパッとみ異常に安っぽい。この当たりが受け入れられるかどうかが境界というところでしょうか。でも俺は好き。この作品と「シザー・ハンズ」は何度見ても飽きない。2つの作品はウィノナ・ライダー出ているということ以外はかなり違う映画ですが、どちらもとてもいい。あわせてみれば「猿の惑星」が何ぼのもんじゃい! と思うと思う。多分。

不思議惑星キン・ザ・ザ

Kin-dza-dza
1983年,ソ連,134分
監督:ゲオルギー・ダネリア
脚本:レヴァス・カブリア、ゼゲオルギー・ダネリア
撮影:ハーヴェル・レーベシェフ
音楽:ギア・カンチュリ
出演:スタニスラフ・リュブシン、エフゲニー・レオーノフ

 いつものように帰宅したウラジミールは妻にマカロニを買ってくるように頼まれ、街へ。街で見知らぬ青年と「宇宙人だといっている」という裸足の男に声をかける。男が「瞬間転移装置」だと主張する小さな機械のボタンを押すと2人は見知らぬ砂漠の真ん中にいた…
 幻のソ連製カルトSF映画。とにかく不思議な設定とわけのわからない展開、そして「クーッ」が頭にこびりつく。一度見たら決して忘れることのできない映画。

 こんな不思議な映画は見たことがない。とにかく発想がユニークすぎてどうしてそんなことになるのかちっともわからない。予想がつく展開もあるけれど、ほとんどの部分はあまりに展開が唐突でわけがわからん。だからといってつまらないのかというと決してそんなことはなく、ちょっと長いせいで疲れはするものの面白すぎて鼻血が出そう(なんのこっちゃ)。まあ、面白いかどうかは人それぞれかとは思いますが、少なくとも一度見たら決して忘れることができないであろうことは確か。とりあえず、わけのわからないユニークなユーモアにあふれたカルトSF映画として一見の価値があるのです。
 このわけのわからなさは、まずは用語の利用法にある。わけのわからない言葉(固有名詞を含む)をいきなり何の説明もなしに登場させることが多い。それから、結局のところみんな何をしているの一向にわからない。まとめてしまえば物事のほとんどについて理由づけがない。あるいは明らかにされない。だから、なんとなく因果律に従って映画を見るのになれている人(普通の人はみんなそう)にはわけのわからないのでした。
 ソ連映画(ペレストロイカ前)ということで、検閲の問題とからめて、資本主義の風刺と見る見方もきっとできると思いますが(ウラジミールは最初に二人組と会ったとき、「資本主義の国だ!」と叫ぶ)、そんなことは必要ないし、きっとどうでもいいことで、ただただ世の中には理解のできないものがあると感心すればいいような鬼がしました。
 ああ、悔しいけど俺のまけ。いつかどこかでゲオルギー・ダネリアさんにあったらすぐに「クーッ」する。

アイドル・ハンズ ぼくの右手は殺人鬼!?

Idle Hands
1999年,アメリカ,92分
監督:ロッドマン・フレンダー
脚本:テリー・ヒューズ、ロン・ミルバウアー
撮影:クリストファー・バッファ
音楽:グレーム・レヴェル
出演:デヴォン・サワセス・グリーン、エルデン・ラトリフ、ジェシカ・アルバ

 マリファナを吸いながら怠惰な生活を送る高校生のアントンの家で、両親が惨殺される。実は街では連続殺人事件が起こっていた。しかしアントンはそのことも知らず、両親が殺されたことにも気づかず、友達の家に遊びに行ってしまう。そして帰ってきて両親が殺されていることに気づいて…
 アメリカではヒットを飛ばし、デヴォン・サワを一躍若手人気俳優へと押し上げたB級ホラーコメディ。確かに安っぽいけど面白い。

 序盤はあくまでB級で、安さ満開。オープニングの妙におどろおどろしいイメージビデオみたいのから、両親の惨殺シーン辺りは普通にホラー映画なのかと思わせつつ、それをすっかりひっくり返してしまうところがいい。ホラーのグロテスクさとB級コメディのばかばかしさの混ぜ具合がちょうどいいというところ。とくにアントンの友だち2人が異常にいい。まさにグロさとバカさのバランスをとる存在として、映画の要になっています。あとは、右手。CGなんかを使った特撮の右手ではなくて、デヴォン・サワ自身がやっているアナログな特撮?の右手。これだけで演技がうまいということはできないけれど、それはそれで特殊な演技力だと思う。
 日本の配給会社が二の足を踏んだのは、きっと全く有名な人がいない(本当にひとりもいない)のと、日本ではヒットしにくいB級コメディだということだったのでしょうが、これは公開してもよかったかも、と思う。夏休みの夜にはぴったりなどーでもいい感じです。B級入門にもいいかもしれない。これがダメな人はきっとB級映画は全部ダメな人だと思います。

ボディ・ドロップ・アスファルト

2000年,日本,96分
監督:和田淳子
脚本:和田淳子
撮影:白尾一博、宮下昇
音楽:コモエスタ八重樫
出演:小山田サユリ、尾木真琴、田中要次、岸野雄一

 どこにでもいるような女の子・真中エリ。仕事もなく恋人もない彼女が自分の妄想・頭のざわざを言葉にする。それは理想の自分を書くことだった。そんな彼女の書いた小説が思いがけずベストセラーに。新進小説家となったエリは思い描いていた理想の生活を手に入れたはずだったが…
 アヴァンギャルドな短編映画を撮ってきた和田淳子監督の初の長編作品。映画の概念から外れかねないくらいまで映画を脱構築したこの作品は、アヴァンギャルドでありながらユーモアにとんだ分かりやすい作品に仕上がっている。

 かなりすごい。冒頭のシークエンスからすでにこの映画の要素が濃縮されて収めれられています。それはアヴァンギャルドさであり、映像の突飛さであり、一種の安っぽさである。足ばかりを執拗に映すという試みと、ホームビデオのようなドットの粗い字幕、その実験性とチープさに期待感をあおられる。そして、続くモノローグのシークエンスはそれ自体アートであるところの映像作品として作られており、それでいながらどこかで転調するに違いないという予想を抱かせる。その予想は一種の驚きと共に実現され、そこからはなだれ込むように魅惑の世界が広がっていく。
 などと感想もまたどこかアートっぽくなってしまう感じですが、実際のところこの映画はかなり笑いにあふれ、非常に分かりやすく、面白い。小難しく見ることと素直に楽しく見ることが同時にできるようなそんな映画。私が一番気に入ったのはやはり「初台の吉野家」。見た人にしかわからないのですが、見た人は絶対うなずく。あの部分のネタとそれを紡ぐ映像はまさに絶品。そんな笑える部分にこそこの映画の魅力があると私は思います。
 しかし、笑いにも様々な種類があって、単純にネタとして面白いものもあれば映画であるからこそ面白いものもある。映画として面白い笑いというものは概していわゆる映画からそれることで笑いを作り出すものであり、それは映画を壊すことから始まっている。それはある種の(映画としての)突飛さであり、この突飛さこそがこの映画の全編に共通する特徴であるということ。
 映画をこわし、脱構築することはいま面白い映画を撮る一つの方法であり、この映画の突飛さも一種の映画の破壊であるという点では、その方法論に乗っている。しかし、脱構築に成功している映画というのはすべてが全く違う方法論にのっとったものであり、一つの方法論というものは存在しない。新たな破壊の方法を見つけなければ映画をこわすことは不可能なのだ。だからすべてが全く違う映画であり、全く違う面白さがある。しかしその脱構築と言うものはなかなか成功しないものである。
 と、小難しく書いてみましたが、要するにいわゆる映画というものをこわすことから映画は始まるのです。それは実はすべての映画に当てはまることであって、これまでの映画の何かをこわした映画だけが本当に面白い映画なのだと言うこともできるのです。
 この映画は映画をこわし、それは笑いへと昇華させ、しかも映画として完成させている。それはものすごいことで、この映画の感想はと聞かれたら、開口一番「すごい!!!」とエクスクラメーションマーク×3で答えるしかないほどすごいのです。
Database参照

あの子を探して

一個都不能少
Not One Less
1999年,中国,106分
監督:チャン・イーモウ
脚本:シー・シャンシェン
撮影:ホウ・ヨン
音楽:サン・バオ
出演:ウェイ・ミンジ、チャン・ホエクー、チャン・ジェンダ

 山奥の村のカオ先生が1ヶ月間休むということで、代用教員として連れてこられたのは近くの村に住む13才の少女ミンジ。小学校を出たばかりの彼女にカオ先生は不安を募らせるが、「生徒を減らさずにやれたら、10元あげよう」と約束して去っていった。果たしてミンジは無事に1ヶ月過ごすことができるのか…
 プロの役者ではない素人たちを使って生の感じを非常にうまく作り上げた力作。

 映画の全編(特に前半)にわたって、妙な「間」がある。そして噴出すような感情の奔流がある。そのざらざらした感じがなんとも「生」っぽくていい。最初ミンジが戸惑ってぶっきらぼうに生徒と接するところも、生徒たちが自由に遊んでいるようでいながら常に先生を意識していると感じさせるところも、ミンジが街の少女やテレビ局の受付のおばさんと衝突するところもそんな「生」な感じが非常によく出ている。
 そんなざらざらとしていらだたしいような展開からゆっくりと雰囲気が変わっていくことで、この物語は非常に感動的なものになっている。最初から感動させようという意図が見え透く感動ものより(この映画も設定から見ると、感動ものなんだろうと予想できるのだけれど、前半の展開がそれを裏切っている)こういった展開の変化があるほうが深い感動があるような気がしてしまう。
 結局最後まで妙な間とざらざら感がなくなることはないのだけれど、その普通の映画とは違う、一種典型的な映画というものを拒否しているような雰囲気がこの映画の魅力なんだろう。言葉ではうまく表現できないけれど、すごく違和感を感じ、その違和感がどこかですっと感動とすりかわるという感じ。そういう違和感のある映画に出会うと映画の可能性を感じる。いわゆる映画とは違う何かがあるということはその映画がすばらしいものであるということだと私は思う。この映画にもその「何か」がわずかだけれどあったような気がする。だからひねくれた心には素直な「初恋の来た道」よりむしろ感動的だったのだろう。

初恋の来た道

我的父親母親
The Road Home
1999年,アメリカ=中国,89分
監督:チャン・イーモウ
脚本:パオ・シー
撮影:ホウ・ヨン
音楽:バオ・サン
出演:チャン・ツィイー、チョン・ハオ、スン・ホンレイ、チャオ・ユエリン

 中国の寒村、三合屯。父が死んだという知らせを聞いてやってきたチャンユーは母が父が勤め続けた学校の前から動かないと聞き、連れ戻しにいく。家に戻り、両親の新婚のころの写真を見て、二人の結婚が村で語り草になるほど劇的なものだったことを思い出す。
 中国の田舎を舞台にしたシンプルなラブ・ストーリー。中国の田舎に風景には何かノスタルジーを感じさせるものがある。チャン・イーモウはそのあたりをうまく描く。

 「感動するぞ」と構えていけば、きっとすっと心に入ってくる。この映画のシンプルさは簡単に人を感動させることができる。シンプルであり、わかりやすいことはひとつの「美」であるといえる。天候を中心とした色彩に主人公の気持ちを反映させたりすることで、言葉はそれほど用いずに、わかりやすく物語を語っていく。それに多くの人が感動の涙を誘われるのはわかる。
 しかし、どうにも気になるのはオーバーラップの連発とエピローグの冗長さ。プロローグの部分は白黒からカラーへの転調の見事さも含めてなかなかうまいと思わせるものがあるが、エピローグはいかんせん長いと思う。最後の展開が読めるだけにうだうだと御託を並べず、すっと終わったほうがさらに感動を誘うこと請け合い。と、感動しながらも冷静さを失わずに思ったりするのでした。
 それにしてもオーバーラップの多さはどうしても気になる。オーバーラップ自体が悪いというわけではないけれど、これだけ連発されるとどうしても食傷してしまうし、感動させようという意図が見え透いてしまうようでいやだ。これも一種のわかりやすさなのかもしれないけれど、わかりやすすぎるのもどうかなという感じ。

季節の中で

Three Seasons
1999年,アメリカ,108分
監督:トニー・ブイ
脚本:トニー・ブイ
撮影:リサ・リンズラー
音楽:リチャード・ホロウィッツ
出演:グエン・ゴック・ヒエップ、チャン・マイン・クオン、ドン・ズオン、ハーヴェイ・カイテル

 蓮沼で蓮を摘む仕事に雇われた少女、1冊の本を愛するシクロの運転手、毎日ホテルの前に一日中座っているアメリカ人、たばことガムを売って暮らすストリートチャイルド。現代のベトナムを舞台にの四人の同じ数日間を並行して描いたノスタルジックな一作。
 トニー・ブイはベトナム出身のアメリカ人監督で、この作品が長編デビュー作となった。サンダンス映画祭でグランプリと観客賞をダブル受賞。

 悪くはないと言っておきますが、決してよくはない。一言で言ってしまえば「いまだオリエンタリズムに凝り固まったアメリカ人の稚拙なアジア描写」と言うところでしょうか。確かに映像などはかなり計算されていてまとまっているけれど、結局のところハーヴェイ・カイテルが具現するアメリカ人たちは平和になったヴェトナムに変わらぬオリエントを求めているに過ぎず、続々建設される高級ホテルはあくまで「本当の」ヴェトナム人とは別世界のもので、「本当の」ヴェトナム人はシクロを運転したり、蓮の花を売ったりする。しかも寡黙で悪態をついたりはしない。例え娼婦やストリートチャイルドだったとしても、素朴でアジア人らしく控えめに生きている。そんなヴェトナムしか見ようとしない。  そんなオリエンタリズムに凝り固まった目ではこんな風にしか見えてこないのだろうといういい見本なのです。ああやっぱりアメリカって…
 さて、そんな映画と大いに関係ある憤りはさておき、もう一つ不満な点は4つのエピソードの絡まなさ。完全に並行させる形で描いているんだからもう少し複雑な絡み方をしてもよさそうなのに、結局のところ同じ時間を描いているだけで、たまにすれ違うだけで、プロットに影響を与えるようなからみ方はしない。うがった見方をすれば、1エピソードだけで2時間撮れそうにないから、4つもってきたというように見えてしまう(あくまで穿った見方ですが)。そこも不満。 いい点をあげるならば、まずは映像と言うことになります。別段こっているというわけではないものの、コカコーラの壁面を使って色合いに変化を出したり、蓮池と建物でコントラストを強調したり、細かい配慮がなされています。あくまで「オリエンタリズム」的映像美ですが…(しつこい)
 細かい配慮と言えば、この映画で私が一番気に入ったのは「汗」。とくに女性の登場人物たちの首筋ににじむ汗。この汗はかなりいい。もちろん意図的につけなければできないものだし、しつこくない程度に出てくるところもいい。風景だけではなかなか伝わらない蒸し暑さをうまく伝えるにくい演出。これはぐっと来ました。

PLANET OF THE APES/猿の惑星

Planet of the Apes
2001年,アメリカ,119分
監督:ティム・バートン
原作:ピエール・ブール
脚本:ウィリアムズ・ブロイルズ・Jr、ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール
撮影:フィリップ・ルースロ
音楽:ダニー・エルフマン
出演:マーク・ウォールバーグ、ティム・ロス、ヘレナ・ボナム・カーター、マイケル・クラーク・ダンカン

 2029年、スペースステーション・オベロン号はチンパンジーを宇宙飛行士として教育し、宇宙探査を行っていた。壮絶な磁気嵐に遭遇したオベロン号はチンパンジーのペリクリーズを探査船で送り込むがペリクリーズは消息を絶ってしまったそれを見た宇宙飛行士のレオは独断でポッドを発進させ、ぺリグリーズを追った。
 1968年の名作SFをティム・バートンがリイマージュした意欲作。前作とはまったく異なる物語展開を見せ、ILMの技術を駆使した猿もすごい。

 一言で言えば期待通りのティム・バートン・ワールド。とにかく面白ければいいんだという監督の姿勢がとてもいい。そのためには原作のストーリーなんて曲げてしまえばいいし、使える技術は使えばいい。それだけばさっと割り切った作品なので、前作のような明確なメッセージがないのがむしろいい。
 猿のリアルさは相当なものだけれど、やはり不自然さは否めない。ティム・ロスはまったくもってすごいけれど、ヘレナ・ボナム・カーターの顔は今ひとつ。全般的にいってメスの猿の造作があと一歩というところ。ゴリラ系の猿たちはかなりいい。
 ネタばれは避けなくてはならない映画なので、短めにとめておきます。とりあえず娯楽映画としてはよいと思います。