プリティ・ブライド

Runnaway Bride
1999年,アメリカ,115分
監督:ゲイリー・マーシャル
脚本:サラ・パリオット、ジョーサン・マクギボン
撮影:スチュアート・ドライバーグ
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア、ジョーン・キューザック、ヘクター・エリゾンド

 USAトゥデイのコラムニストであるアイクはネタにこまってよった行きつけのカフェで1人の男から何度も婚約を繰り返しては結婚式の途中で逃げ出す花嫁の話を聞いた。その話をコラムにし、得意満面のアイクだったが、とうの「ランナウェイ・ブライド」マギーから編集部に抗議の手紙が届き、アイクはクビになってしまう。
 「プリティ・ウーマン」のジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア、ゲイリーマーシャルが2匹目のドジョウを狙ったが、もちろんドジョウはいなかった。あまりにすべてが予想通りで笑えるという意味では面白いかも。

 期待通りというか、全くの予想通り。面白くないというのではなく、面白みがない。犯人のわかっている推理小説を読んでいるようなもので、どのように結末にもっていくのかを観察するというだけのものです。犯人のわかっている話でも「刑事コロンボ」が面白いのは、謎解きの部分がわからないのと、コロンボ自身が面白いから。この映画は謎解きもほとんどの部分が予想通りで、コロンボもいない。「シカゴ・ホープ」でおなじみヘクター・エリゾンドがなかなかいいキャラクターだったので、ちょっと期待したのですが、あまり出てこず残念な限り。 こういう映画を見ると破壊の欲求に駆られます。それは別に物に当たってしまうほどつまらなかったとか言うことではなくて、映画をどうこわしたら面白くなるんだろうかということを考えるということ。この映画をみながら思ったのは、リチャード・ギアとジュリア・ロバーツがはじめてキスをするシーンから、二人の結婚式のキスまで一気に飛んじまえば面白かったのにということ。それから先はあとは野となれ山となれ。振られた婚約者のエベレスト登山でも映して尺を埋めるとかしてください。あとは、ジュリア・ロバーツが殺されて、刑事コロンボが登場するとかね。そうだったら面白いなー。コロンボが出てきたらすごいなー。 うーん、3作目は「プリティ・マーダラー」っていうのにして、ジュリア・ロバーツが誰か殺す。それでリチャード・ギアが共犯者でそれをコロンボが解決するっていうのはどうかしら。
 と思ったら、この監督の「プリティ・プリンセス」という映画が公開されるようです。原題はもちろん全然違う。ヘクター・エリゾンドがまた出てる… あ!!ヘクター・エリゾンドって「プリティ・ウーマン」にも出ていた気がする! うーん、ホテルの人だった、多分…

スタンド・バイ・ミー

Stand By Me
1986年,アメリカ,89分
監督:ロブ・ライナー
原作:スティーヴン・キング
脚本:レイナルド・ギデオン、ブルース・A・エヴァンス
撮影:トーマス・デル・ルース
音楽:ジャック・ニッチェ
出演:ウィル・ウィートン、リヴァー・フェニックス、コリー・フェルドマン、キファー・サザーランド、ジョン・キューザック、リチャード・ドレイファス

 小学校を卒業し、最後の夏休みを過ごす少年4人組。いつもどおり遊んでいるところにそのひとりバーンが息を切らしてやってきた。バーンが言うには行方不明になった少年の死体が少し離れた森にあるということらしい。4人は明くる朝、死体を見るために冒険に出かける。
 ホラーの巨匠スティーヴン・キングのホラーではない作品。秀逸な脚本と映像にぴたりとくる音楽、若かりしリヴァー・フェニックスの存在感。十数年前はじめてみた時の衝撃を思い起し、思い入れもこめての☆4つ。

 たいした話ではないですね。でも、アメリカ映画ではよくある古きよき少年時代回想映画の中では群を抜くできでしょう。それは、この映画が公開された頃、ちょうど映画の少年達と同じ年頃で、なんだかとても衝撃だったということに対する思い入れが大きな要素となっているのだとは思いますが、映画ってそんな個人的なものなんだということを実感したりもしました。
 けれど、10年以上経ち、何回となくみて、久しぶりに見返してみても、やはりいい映画だったということです。映像がとかどうとかいうことではなくて、どう考えても脚本がいいのでしょうね。原作ももちろんいいのでしょうが、私が読んだ限りでは、この原作からこの映画を作るにはかなりの脚色が必要で、その脚色はかなり見事。
 あとは音楽とリヴァー・フェニックスということですが、特に言うこともございません。何度みても、見たあとには10数年前に買ったサントラ(もちろんアナログ)をかけてしまいます。
 すぐれた脚本には変な工夫を凝らさず、シンプルに作ればいいといういい見本だと思います。橋とか森とか汽車とかヒルとか映像的にもとても洗練されているのだけれど、それをなるべく自然なものにしようという意図が感じられました。死体までもが自然に見えるほどです。
 そうえいば、お兄さんはジョン・キューザックでしたね。今回はじめて気づきました。

インビジブル・マン

The Invisible Man
2000年,アメリカ,120分
監督:ブレック・アイズナー、グレッグ・ヤイタネス
原作:H・G・ウェルズ
脚本:マット・グリーンバーグ
撮影:ジョン・J・コナー
音楽:ダニエル・コールマン
出演:ヴィンセント・ヴェントレス、カポール・ベン=ヴィクター、デヴィッド・バーク、シャノン・ケニー

 泥棒稼業をしているダリエンはある夜、老人の家にはいって金庫破りをしていたところをその家の老人に見つかってしまう。老人は爆発音に驚いて心臓発作。彼を生き返らせようと心臓マッサージをしていたところを警備員につかまってしまった。判決は死刑、刑務所で絶望しているところに兄のケヴィンがやってくる。
 コメディタッチのアメリカのTVムービー。同年に公開された「インビジブル」とは違い、B級な味わいがいい。

 面白くなくはない。だけれど、すべての狙いがあからさますぎて、ちょっとね。コメディタッチというか、笑わせようという意図はわかるし、面白い部分もあるんだけれど、映画の安っぽい部分をそれで補おうとしすぎているというか、笑いに逃げているという感じがしてしまう。続編を作ろうと思っているのなら(きっと思っているんだろうけれど)もっと話自体をしっかりしないとね。
 まあTVムービーなので、こんなものでしょうという気もします。前半は特にユーモアとアイデアがうまく絡み合って魅力的な仕上がりなので、ここで視聴者を引き込めば大成功ということなのでしょう。などといらぬ憶測などもしてしまいますが、そういう映画ということですね。
 しかし、むしろ映画の「インビジブル」よりは面白かった気がします。あちらの方はCGにお金をかけて、リアルさを求めていましたが、いまひとつプロットがよくなかった。それに比べるとプロットとしては面白くできていたのではと思います。だから、ビデオ屋で2本並んでいたらこちらを借りましょう。マイナーもまたよし。ということで。

キシュ島の物語

Ghesse Haye Kish
1999年,イラン,77分
監督:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
脚本:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
撮影:アジム・ジャヴァンルー、マスード・カラニ、アハマド・アハマディ
出演:ホセイン・パナヒ、ハフェズ・パクデル、モハマド・A・バブハン

 ペルシャ湾に浮かぶ小さな島キシュ島、リゾートとしても知られるこの島を舞台として3人のイラン人監督が撮った短編集。
 1話目「ギリシャ船」は新鋭監督ナセール・タグヴァイが海に浮かぶ錆付いた難破船に流れ着いた大量の段ボールをきっかけにおきた事件を描いた作品。
 2話目「指輪」は日本でも知られているジャリリ監督が、仕事を求めて島へやってきた青年が海辺の小屋でひとり働く姿を淡々と描いた作品。
 3話目「ドア」は巨匠マフマルバフが砂漠をドアを担いで歩く老人を撮った作品。
 どの作品も美しい風景をより美しく見せるような幻想的な物語。音楽というかサウンドも耳に残る印象的なもの。

 やはり、マフマルバフの作品が一番いいかなと思いますが、ジャリリのも捨てがたい。1作目のタグヴァイ監督の作品は日本人が抱くイランというイメージに比較的近いものではないかと思います。貧困、イスラム教、エキゾチズム、ある意味でオリエンタリズム的な中東に対するイメージ、そのイメージに合致するようなイメージで描かれているのが逆に平凡で面白みにかけると思ってしまいます。ただ、海に浮かぶ難破船のイメージは絵的にすごくいいのですが。
 2話目の「指輪」は物語としては一番好きです。ジャリリ監督は基本的に起伏の少ないドラマをとりますが、この作品もその一つ。しかし、淡々と働く青年の姿は辛そうではなくどこか楽しそうで、そこに共感をもてます。しかし、最後までトラックに入れているものが何なのかは分からなかった。イラン人にはすぐ分かるんでしょうね。ただの海水なんだろうかあれ?
 3話目マフマルバフはさすがに発想の勝利。この監督の発想の素晴らしさには舌を巻くしかありません。冒頭の砂漠だけの画面に手前からドアが登場し、それが画面の奥にゆっくり去っていくところをずーと映しているシーン、これだけで、マフマルバフの勝ち。砂漠とドア、どうしてこんなイメージが頭に浮かんでくるのかは全くの謎です。そして、郵便配達が、そのドアをノックした瞬間に本当にマフマルバフはすごいと思ってしまう。奇妙なようでありながら、絶対にこれは現実だと思わせるような何かがそこにあるのです。みんな本気であのドアをドアとして扱っているひとりもからかい半分に扱っている人はいない。そう信じさせることが重要であり、それを成功させているわけです。ただ1人(1匹ね)ヤギだけが…
 やはりマフマルバフ強し。しかし、全体的にはなんとなくキシュ島観光キャンペーンという気もしてしまいました。たしかに「いいとこだな」とは思いましたが、なんか宣伝じみていて、ヴェンダースの「リスボン物語」を少し思い出しました。

ミリオン・ダラーホテル

The Million Doller Hotel
2000年,アメリカ,122分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原案:ボノ
脚本:ニコラス・クライン
撮影:フェドン・パパマイケル
音楽:ボノジョン・ハッセル、ダニエル・ライワ、ブライアン・イーノ
出演:ジェレミー・デイヴィス、ミラ・ジョヴォヴィッチ、メル・ギブソン、ピーター・ストーメア、アマンダ・プラマー

 ロサンゼルスのダウンタウンに立つおんぼろホテル「ミリオンダラー・ホテル」。その屋上から飛び降りるトムトムは振り返る。2週間前、エロイーズに恋をしたことから人生は変わったと。そのホテルは奇妙な人ばかりが暮らすただの安ホテルだった。しかし、2週間前、トムトムの親友イジーが屋根から飛び降りたことでFBI捜査官がやってきて、住人たちはその事件に巻き込まれていった。
U2のボノがプロデュースし、ヴェンダースが監督。ロードムーヴィの巨匠からさまざまな方向性を試みたヴェンダースが1件のホテルの中のみに舞台を限定して描いた不思議なドラマ。

 やはりヴェンダースはすごいと思う。ロード・ムーヴィーを捨て、世間の酷評にもまけず、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」で復活を遂げたヴェンダース。しかし、「ブエナ・ビスタ」はヴェンダースファンにはとても満足のいく作品ではなかったはずだ。そこにはヴェンダースらしさは存在せず、ライ・クーダーの作品を職人的にこなす姿しかなかった。私が望んでいたのは、「夢のはてまでも」のような煮え切らないヴェンダースらしさであって、あんな爽やかな語り部としてのヴェンダースではなかった。
 ヴェンダースがすごいのは、そんな「ブエナ・ビスタ」のヒットから一転、再びらしさを取り戻し、煮え切らない空間をそこにつむぎだしたこと。ボノのプロデュースという話を聞いて、「ブエナ・ビスタ」の二の舞かと心配したが、逆にヴェンダースはすべてのヴェンダース像を覆すような作品を作り出した。ロードムーヴィーとも違う、ドキュメンタリーとも違う、「ベルリン天使の詩」とも違う、そんな作品。これこそが私が望んでいたヴェンダースらしさなのだ。見ているものすべての期待を裏切り、映画であることを拒否するような姿勢。その姿勢こそがヴェンダースらしさだと私は思う。
 この映画は観客を拒否し続ける。そもそもの主人公たちがもれなくわれわれの理解の範囲を超えた存在である。トムトム、エロイーズ、捜査官さえもいったい何をしようとしているのか、何をしてきたのかわからない。そしてその一部(あるいは大部分)は明らかにされることがないまま終わる。しかし彼らは間違いなく「普通」とされる人々より魅力的で人間的である。
 どうも感想がうまく言葉にできないのですが、おそらく世の人々には受け入れられないであろうこの映画が実は歴史に残る名作かもしれないと言いたい。ヴェンダースはわれわれがまったく想像もしないものを作り出した。われわれの想像もしないことを作り出す、意表をつく、期待を裏切るということこそがヴェンダース映画の本質であり、この映画はそれを凝縮したようなものであると。「さすらい」の中で一番私の印象に残ったのは冒頭の、車が川に転落するシーンだった。
ロードムーヴィーとして有名な作品にもかかわらず、道行の途中のイヴェントではなく、旅に出る前の単純なひとつの意表をつく出来事が一番印象に残っている。これがヴェンダースだと私は思う。だから観客の意表をつきつづけるこの作品こそこの映画はまさにヴェンダースらしい作品であり、われわれの想像を超えたすごい作品だといいたいのです。

マレーナ

Malena
2000年,イタリア=アメリカ,95分
監督:ジョゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジョゼッペ・トルナトーレ
撮影:ラホス・コルタイ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:モニカ・ベルッチ、ジョゼッペ・スルファーロ、ルチアーノ・フェデリコ、マティルデ・ピアナ

 第二次大戦中のシチリア、レナート少年は父親に自転車を買ってもらい、年上の少年たちの仲間にいれてもらう。「半ズボン」といって馬鹿にされる彼だったが、何とか仲間に入れてもらい、彼らについてゆく。彼らが向かった先には街の男の視線を一身に集める妖艶な美女マレーナがいた。レナートは一目で彼女に恋し、一途に彼女を思うようになるが…
 少年の淡い恋に戦争を絡めて描いたトルナトーレ監督得意のノスタルジックな作品。古い街並みとエンニオ・モリコーネの音楽は絶品。

 映画に美しさを求めるならば、この映画はまれに見る優れもの。フィルムに刻まれた街並みと、マレーナの美しさ。モリコーネの音楽、美しいものがはかなく崩れ落ちてゆくときのさらなる美しさ。
 しかし、ドラマとしてみると、私には展開が単調でロマンティックすぎるように思える。物語のすべてが明らかで謎がなく、唯一のどんでん返しも物語の展開から推測できてしまう。しかも明確なメッセージがこめられていて、そのメッセージのために物語が単純化されすぎている。男と女、少年、大衆、夫と妻などなど舞台を大戦中にしたことで現代では偏見として切り捨てられてしまうようなことをあたりまえの事として描いてしまえるわけだが、それを当たり前に描いてしまうところにこの映画の限界がある。ノスタルジーとロマンティシティ。ただこれだけが作品から滲み出してくる。現代でもこの映画に描かれるような「愛」の形は感動的なものとしてみられるのかもしれないけれど、私には過去に対する感傷としか思えませんでした。
 と、物語には否定的ですが、モニカ・ベルッチの美しさには抗うことはできず、男たるものの悲哀を感じもしたのでした。それともう一つ美しかったのは、街が爆撃されるシーンで、高い建物のうえで爆発が起きるところ。なんとなく古い町並みと爆発という一種のミスマッチが美しかったのでした。

お熱いのがお好き

Some Like it Hot
1959年,アメリカ,121分
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド
撮影:チャールズ・ラング・Jr
音楽:アドルフ・ドイッチ
出演:ジャック・レモン、トニー・カーチス、マリリン・モンロー、ジョージ・ラフト

 禁酒法時代のシカゴ。ギャング同士の抗争は虐殺ともいえる大きな事件になってしまう。それを目撃してしまった二人のバンドマン、ジョーとジェリーはギャングに追われることになり、二人は女だけの楽団にもぐりこむことを思いつく。
 ワイルダー、ジャック・レモン、モンローの豪華な顔ぶれで映画史に名を残すコメディの名作。30年代のフィルム・ノワールをパロディ化し、ワイルダーお得意の展開に持っていった。

 ビリー・ワイルダーの作品ははずれはないけど、傑作!というものも見当たらないという気がする。この作品はワイルダーの作品の中では有名でもあり、面白くもあり、代表作のひとつではあるのだけれど、やはり傑作といえるほどすごい出来ではない。別に傑作を生み出す監督ばかりが名監督ではなく、ワイルダーのように質のよい作品を並べる監督の方が本当の名監督と言えるのかもしれないけれど、名監督といわれるとどんな傑作があるのかと思ってしまうこともまた事実。
 だから、ワイルダーの代表作といわれる作品にも過度の期待をしてしまいがちで、それが逆にいまひとつワイルダーを認めることができないなってしまっているのかもしれない。と自己分析してみました。
 いま見てみると、ネタの大半は予想が尽くというのがコメディ映画としてはどうしても気になってしまう。もちろんマリリン・モンローはものすごい魅力を振り撒いているし、登場するキャラクター達はみんないいキャラ出してるし、細かいネタも面白い。だから、ある意味でコメディ映画の原風景であり、それなりに見る価値もあるとは思いますが、ワイルダーの師匠ルビッチと比べると、やはりルビッチの方が何倍もすごかったのではないかと思ってしまったりもします。ワイルダーの方がすぐれていると思うのは、ルビッチよりもふざけ方が精密なところ。たとえば、フロリダに向かう列車の車輪を繰り返し映しますが、たまにその回転が異常に速かったりする。その辺りのふざけ方は面白いと思いましたが。
 なんだか、誉めてるんだかけなしているんだか分かりませんが、可もなく不可もなく、それがワイルダーに対する私の評価なのです。

草の上の仕事

1993年,日本,42分
監督:篠原哲雄
脚本:篠原哲雄
撮影:上野影吾
音楽:村上浩之
出演:後藤直樹、太田光

 トラックに乗って、とある草っ原に着いた2人の男。2人は草刈の仕事をする。なれた手つきで草を刈る体育会系の男と草刈機の使い方すら知らないらしい猫背の男。
この二人が働くさまをただただ淡々と映しただけの映画。完全に2人しか登場しない2人芝居だが、その2人の間に存在する空気の伝え方が非常にうまい作品。いまや売れっ子篠原哲雄の監督デビュー作。爆笑問題の太田光もはまり役。

「前置き」
 あまり先入観なく、二人の関係性というものを見ていくのがこの映画の正しい見方だと思います。だから、これからこの映画を見ようと思っている人はレビューを読まないほうがいいかもしれない。読んでしまうときっと、その考えが刷り込まれてしまいますからね。しかし、見る人によって感じ方がかなり違うと思われるので、読んでから見て「全然違うじゃねーか」と思う可能性も高いのです。
 まあ、そんな感じ

「本題」
 篠原哲雄と太田光ということ以外、何の予備知識もなく映画を見始め、ただ草むらにいる二人を移す映像を見て、そこになんとなくセクシャルな雰囲気を私は感じました。「何が」というわけではないですが、なんとなく。そのなんとなくなセクシャルな雰囲気が二人の関係性に緊張感をもたせ、二人の物理的な距離の変化に非常に敏感になってしまうのでした。
 その「なんとなく」を誰もが感じるのかはわからないですが、そのセクシャルな雰囲気は具体的にセクシャルな話題が出る直前に最高潮に達します。この辺りは相当あからさまに描かれていると私は思いますが、果たしてそれがテーマなのかといわれるとそれはなんともいえない。そもそも映画にテーマなんてないと思いますが、この映画がホモセクシャルな関係性というものを軸に展開しているのかどうかもわからない。そのあからさまにセクシャルな場面の後、その雰囲気は急速に減退し、また二人の男に戻ってしまう。はたしてあの盛り上がりは何だったのか?
 しかし、実際のところこの映画が描こうとしているのは日常的にある曖昧な関係性なのだろうとは思います。それがセクシャルなものだろうと何だろうと二人の人間が二人だけでいれば、そこに微妙な関係が生じざるを得ない。その関係性を描いてみたよ。てな感じではなかろうかと。

パルプ・フィクション

Pulp Fiction
1994年,アメリカ,154分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:アンジェイ・セクラ
出演:ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ユマ・サーマン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、クリストファー・ウォーケン、ブルース・ウィリス、クエンティン・タランティーノ、スティーヴ・ブシェミ

 レストランで強盗の相談をするカップルのエピソードに始まり、次にメインとなる2人組みのマフィアのエピソードが始まる。2人組みのマフィア、ヴィンセントとジュールスはアパートの一室にブツを取り返しに行くが、そのエピソードから、今度は八百長を持ちかけられるボクサーのエピソードへと飛ぶ。複数のエピソードがモザイク状に配せられた物語。確かに物語としても面白いけれど、むしろもっと面白いのは枝葉末節の部分。様々な脇役がいい味を出して、物語を通過していく。そのさまが格別によい。

 こういう風に、複数のエピソードを重ねられてしまうと、プロットの構成に頭を奪われがちだが、この映画の場合、どのエピソードもたいした内容ではない。それぞれのプロットは絡み合っているけれど、決してスリリングなサスペンスや複雑な謎解きがあるわけではない。なんとなく謎を残しながらエピソードの間を滑っていく。そんな感覚。その感覚がタランティーノの革新的なところで、この映画の後しばらく多くの映画が「パルプ・フィクションっぽく」なってしまうくらいのインパクトをもてたところだろう。
 そのすべるような感覚というのは、この映画のほとんどの部分は余剰の部分で、実際はどうでもいいようなことばかりだというところからきていると思う。たとえば、5ドルのシェイクがうまかろうとまずかろうとそんなことはどうでもいい。これをトラボルタとユマ・サーマンの間の心理の機微を映す鏡と解釈してもいいけれど、私はむしろシェイクの方がメインで、それが何かを語っているように思わせるのは単なるモーションだと思う。そんな思わせぶりなシーンばかりを積み重ねながら、何も語らずに物語りは進行していくわけだ。最初マーセルスが後姿(首のバンソウコウ)しか映らないことから、このボスは謎めいた存在なのかと思いきや、中盤であっさり顔が出てしまうのも、なんとなく思わせぶりながら、あっさり裏切ってしまう一つの例である。
 この「思わせぶり」という要素は、オフ画面を多用するという画面の使い方にも現れている。オフ画面というのは、フレームの外のもので作り出す効果のことを言うが、これは単純に隠されているということから「思わせぶり」な効果を生む。画面の外から聞こえる声・音、フレームの外に出て行ってしまう人。それによってシネスコの画面も有効に使うことができたのだろうと思います。特に、それを感じたのは、ユマ・サーマンが家に帰って(オープンリールの)テープにあわせて踊るところ。柱を挟んで右へ左へと移動するところかしら。
 この映画は「クールだ」とか「バイオレンスだ」とか何とか言われることが多いですが、こんなもんクールでもバイオレンスでもなんでもない暇つぶし映画ですら(語尾がおかしい)。映画という2時間の暇な時間をどう埋めるのか、なんとなく面白そうなことを詰め込んでいってあとはうまくつなげればいい。そういうことなんじゃないかしら。