黒の超特急

1964年,日本,94分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:増村保造、白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、藤由紀子、船越英二、加東大介

 岡山で細々と不動産業を営む桔梗のところに東京の観光開発会社の社長と名乗る男が儲け話を持ってきた。その男・中江によれば、桔梗の住む町に大きな工場が誘致されるらしい。大金をつかみたい桔梗はその男の話に乗り、地主達を説得するのだが…
 増村としては三作目の「黒」シリーズだが、シリーズとしては11作目(なんと2年ちょっとで)にして最後の作品。金と正義とが複雑に絡み合う社会派サスペンスで、なんといっても田宮二郎の熱演が光る。

 冒頭(タイトルの前)、激しいフレーミングで驚かされる。すごくローアングルだったり、腰の高さだけを切り取ったりという感じ。タイトルが出た後は少々落ち着くので安心。増村らしい構図は健在だが、それほど目に付かず、それよりも(黄金期の)ハリウッド映画を思わせるディープ・フォーカスのパースペクティヴが使われているのが印象的だった。それとローアングルが多い。この二つはおそらくサスペンスドラマとしての劇的効果を狙ってのことだと思う。
 しかし、映画としてはサスペンスというよりはメロドラマという感じで、硬派なドラマさよりは増村らしいウェットな雰囲気を感じる。それは増村ファンとしてはうれしい限りだが、サスペンスとしてはどうなのか? あるいは、完全に増村的ではない(例えば、主人公のキャラクターが他の作品と比べると徹底されていない)ところはどうなのか? などと、増村的なるものといわゆるサスペンスなるものの間で揺れ動いてしまった。

 この「黒」シリーズは基本的にメロドラマ的な要素が強く、サスペンスといいながら、ヒロインとのウェットな関係がいつも物語のスパイスというか、サブプロットというか、主人公のキャラクター作りの一つとして使われている。最終作になっても、増村は自分が作り上げたそのスタイルを守り、シリーズに一貫性を持たせている。そして、この2年間で11作というモーレツな勢いで作られてシリーズは、時代のモーレツさを象徴しているものかも知れなず、シリーズの最後はまさに時代を象徴するものとしての“新幹線”がテーマとなっているのだ。
 60年代は田宮二郎の時代と私は(勝手に)主張するが、その60年代の前半の時代的なものをすべて盛り込んだシリーズがこの「黒」シリーズであったのだと思う。そこには60年代という時代が描きやすい単純な時代の空気を持っていたということも大きく、今となっては時代を象徴するようなシリーズなんてものはどうあがいても作れないだろう。だから私がこの「黒」シリーズを賞賛するのは、自分が生まれていない時代へのノスタルジーでしかないということも言える。
 でも、時代なんてそんなものだとも思うし、ノスタルジーだって悪い面ばかりじゃないんだよといいたい。ハリウッド映画の未来への幻想と、日本映画のノスタルジーと、まったく違うもののようで、行き着くところは夢の世界に浸れる時間という同じものなのかもしれないと、ずいぶん大規模なことを考えてみたりもした。

好色一代男

1961年,日本,92分
監督:増村保造
原作:井原西鶴
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、船越英二、水谷良重

 京都の豪商のボンボン世之助は女が何よりも好き。女を喜ばせるためなら財産も命も捨てるそんな男だった。そんな男だからもちろん倹約、倹約で財産を築いてきた父親とはそりが合わなかった…
 市川雷蔵が念願だった世之助の役をやるために当時まだ若手だった増村保造と白坂依志夫のコンビに依頼、増村としては初の時代劇、初の京都撮影所作品となった。時代劇でも変わらぬスピード感が増村らしい快作。

 この作品はかなり速い。時代劇でしかも人情劇なんだから、もっとゆっくりとやってもよさそうなものだが、増村は情緒の部分をばっさりと切り捨ててひたすらスピード感にあふれる時代劇を撮って見せた。
 そのスピード感はストーリー展開にあるのだが、なんといっても一人の女性にかける時間がとにかく短い。それでいて主人公の冷淡さを感じさせることもない。そんな主人公に否応なく惹かれてしまうのは、世之助が自分をストレートに表現するいかにも増村的な人物だからだろう。日本の社会の封建的な部分が強調される江戸という時代にこれだけ自分の感情を直接的に表す人物を描くことはすごく異様なことであるはずだ。そのように理性では考えるのだけれど、そこからは推し量れない人間的な魅力というものをさらっと描き出してしまう増村はやはりすごい。
 そして、この映画のもう一つすごいところは中村玉緒演じるお町が棺桶の中でにやりと笑うシーンに集約されている。そしてそれがすらりと過ぎ去ってしまうところに端的に現れる。このシーンが何を意味するのかを考える時間は観客には与えられない。そんなことはなかったかのように次のシーンへと飛んでいく(なんと、地図をはさんだ次のシーンは新潟から熊本までと距離的にも離れている)ので、われわれはすっかりそのことを忘れてしまう。しかし、見終わってふと考えると、「あれはいったいなんだったんだ?」と思う。いろいろと答えらしきものは思いつくけれど、それが何であるかが重要なのではなくて、見終わった後までも楽しみを継続させてくれるところがにくい。
 あるいは、世之助に心底入り込んでしまった我々は若尾文子演じる夕霧の美しさに息を呑む。心のそこから彼女を喜ばせたいと思う。その若尾文子の出番は本当に短く、ほんの一瞬にすら感じられるのだけれど、その余韻はいつまでも続く。
 こんなに終わって欲しくないと思った映画は久しぶりに見た。面白い映画というのは結構あるけれど、それは見終わって「ああ、面白かった」と満足して思う。しかしこの映画は面白くて、見ている間も「終わるな、終わるな」と心で叫び、終わった後は「終わっちゃった」と残念な気持ちを残す。「この映画が永遠に続いてくれたら幸せなのに」と。

陸軍中野学校

1966年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:星川清司
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:市川雷蔵、小川真由美、加東大介、早川雄三、E・H・エリック

 会田次郎は陸軍士官学校を卒業し、婚約者に送られた軍服を着て晴れて中尉として入隊を果たした。しかし会田が配属された連帯の草薙中佐におかしな質問を受け、いく日か経ったある日出張を命じられた。しかし、行ってみるとそこには士官候補生ばかりが18人集められ、スパイになるための教育を受けることを命じられたのだった。そして彼らはスパイになるため名も捨て、家族も捨て、将来も捨てた。
 勢いがあってクレイジーなストーリーがなんといってもすごい。人気シリーズとなりその後何本か続編が作られたが、増村保造は監督はしていない。

 本当にものすごい話。本当の話かどうかはわからないが、映画を見る限りでは戦争当時語られた話を基に作られたようだ。とにかく圧倒されてしまったが、とにかくクレイジー。それも挙国一致の軍国主義的なクレイジーさではないところがすごい。そしてその徹底振りがすごい。まったく人間性の入り込む隙間がないという感じであるのに、じつは中心にいる草薙中佐はひどく人情深い人間であるということ。決して人を人とも思わない非情さではない非情さであるところがすごい。
 む、このレビューはまとまらない予感がします。なので、とにかく思いついたことを羅列。
 草薙中佐の話し方が早い。初期の作品を思い出させるような早い台詞回し。それもまたクレイジーさあるいはストイックさを強調する。
 増村の映画には時折非常に無表情な登場人物が出てくるが、この映画の市川雷蔵もそのひとり。もちろんスパイという役柄だからだろうが、とにかくまったく表情がない。あるとすればかすかに眉間にしわが寄るくらい。しかしそこには常に緊迫感が漂い、迫力がある。
 草薙中佐のコンセプトがすごい。しかし、よく考えてみると、陸軍そのものをひっくり返すとか、植民地を解放するとか、今から考えればすごい説得力のあることだけれど、当時はひどく突飛というか、ある種、反逆的な発想だったんじゃないかと思う。それなのに生徒たちがついてきてしまうというのは、物語としておかしいの?でも、見ている時点ではまったくそんな疑問は浮かばなかった。

美貌に罪あり

1959年,日本,87分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:田中澄江
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:杉村春子、山本富士子、若尾文子、川口浩、野添ひとみ、川崎敬三、勝新太郎

 東京近郊で花の栽培をしている吉野家に東京で踊りをやっている長女菊枝が踊りの師匠を連れてたずねてくるところから映画は始まる。物語は次女敬子、使用人の忠夫と周作、忠夫の妹かおる、などなど山ほどの登場人物が出きて、さまざまな恋愛模様を展開する。
 増村には珍しい群像劇でヒューマンドラマ。あまり増村的ではなく、大映的でもないように見えるのは杉村春子の存在感か。しかし、増村をはじめてみるという人には気軽に見れる一作かもしれない。

 いまから見ると本当に「増村らしからぬ」と見えてしまう。お涙頂戴のヒューマンドラマ、誰が主人公ともわからない群像劇、ゆったりとしたテンポの物語、そしてハッピーエンド。
 しかし、面白くないかといえばそんなことはない。これだけいい役者がそろって、とてもいい話。映像も自然で映画の世界にすっと入り込める。
 しかししかし、増村を見に行った私には物足りない。もっとすごいもの、もっとすさまじいものを期待して来ているのだから。だからあえて言えば、これは増村にとって初期から中期への過渡期の作品なのだと。初期の「超ハイテンポ日常活劇」から、中期の「男を狂わす女の映画」への。そう思わせるところはいくつかある。
 ひとつはこの映画の主人公ともいえる3人の女性のキャラクター、山本富士子・若尾文子・野添ひとみ、だれもが自分の信念は曲げない強さを持ち、最後には男を自分のものにする女性。しかし、男に頼らずに入られない弱さも併せ持つ女性。それは中期の「男を狂わす女たち」へつながら女性像。
 もうひとつは、フレーミング。川口浩と若尾文子が盆踊りを見ているシーン、川口浩がほぼ真中にいて、画面の右端に若尾文子、川口浩は後ろ向きで立ち、若尾文子はこっち向きでしゃがんでいる。そして主にしゃべっているのは若尾文子このしゃべり手が画面の端にいるというフレーミングはこの頃から以後の増村保造に特徴的なフレーミングである。
 そんなこんなで、(大映時代の)初期から中期への過渡期の作品と勝手に位置付けてみました。

しびれくらげ

1970年,日本,92分
監督:増村保造
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:渥美マリ、田村亮、川津祐介、玉川良一

 モデルのみどりは、ウェイトレスだったのを繊維会社の宣伝部員山崎に拾われグラビアに出るくらいのモデルになれたのだった。その山崎は恋人であるみどりに取引のためアンダーソンという米国人と寝てくれと頼む。一方みどりにはストリップ小屋の楽屋番をしているのんだくれの親父がいた。果たしてみどりは…
 一応「でんきくらげ」の続編という形だが、人物設定はまったく関係なく、物語もまったく違うもの。物語の質もそうとう異なっていて、この映画のほうが増村としてはオーソドックスに男と女の関係を描いていると思う。

 「でんきくらげ」は「女の生き様」という要素が前面に押し出されていた気がするが、こっちは「男と女の関係」というオーソドックスなテーマが一番大きな要素になっている。見る前は「でんきくらげ」と同じく、女が体ひとつでのし上がってくみたいな映画を期待していたのだけれど、その予想は裏切られた。まあ、でも、主人公の渥美マリが一本筋がとおっていて強いのだけれど、情にはもろいキャラクターである設定は同じ感じだったので、二つの作品がまったく異なるというわけではない。
 むしろこの作品は「遊び」に設定が似ている。ヤクザが女を手篭めにして体を売らせるという設定に何か思い入れがあったのかわからないけれど、ほとんど同じシチュエーションを使っている。しかも連れ込み宿の女将(雇われ女将)が同じ人(でも宿の名前は違った)。増村は女が買われたり騙されたりして売春婦になるという設定が好きらしい。そういえば「大地の子守歌」もそうだった…
 さて、作品に話を戻すと、この作品は最初のシーンからかなりひきつける。普通に寝室っぽいところで渥美マリはネグリジェ(と映画で言っていた)を脱いでいくのだけれど、その脱ぎ方が妙に大げさで、「何なんだ?」と思ってみていると、それがファッションショーだとわかる(ぱっと見ストリップにしか見えないけれど)。そのちょっと後のシーン、みどりと山崎が波止場に行ったシーンで、波止場に車(確か軽トラ)が整然とものすごい台数止まっている。これは圧巻。 「高度経済成長!」という感じです。やはりビデオの小さい画面で見ると構図なんかに目が行きにくいのですが、そのあたりはけっこう「おおっ」と思わせるところでした。

遊び

1971年,日本,90分
監督:増村保造
原作:野坂昭如
脚本:今子正義、伊藤昌洋
撮影:小林節雄
音楽:渡辺岳夫
出演:関根恵子、大門正明、蟹江敬三、松坂慶子

 工場で働く少女は郷里に病気の姉と母がいる。度々金を無心にくる母に嫌気がさした少女はホステスをしようとホステスになった元同僚に電話をかけようとする。公衆電話でその電話番号を探しているところへチンピラの少年がやってきた。少年は彼女をお茶に誘う。しかし2人には無邪気とはいえない運命が待っていた…
 大人の世界に翻弄される少年と少女を描いた恋愛ドラマ。若い女優を主人子に据えてとるというのも増村の常套手段のひとつ。この作品を最後に増村は大映を去った。

 増村にしては素直な映画で、ことがこうあって欲しいという方向に順調に進んでいく。なんとなく驚きが少なく感じてしまう。映像はいつも通りさえているのだけれど、それほどすごい! と圧倒されるほどの構図はなかったと思う。なんだか、増村保造は結局ロリコンで、若い女優を使って甘っちょろいロマンスを撮りたかっただけなのか?
 という疑問が浮かんでしまうのは、「でんきくらげ」や「大地の子守歌」のほうが断然面白かったからだろうか。  この映画で白眉は松坂慶子。ちょい役だけど「かわいい!この子誰?」と思わせる。松坂慶子主演でやったらもっと面白かったかも?

闇を横切れ

1959年,日本,103分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三、増村保造
撮影:村井博
出演:川口浩、山村聡、叶順子、高松英郎

 市長選挙に打って出た革新党の候補者落合がストリッパーの死体とともに発見された。西部新聞の記者石塚は現場に居合わせた巡査片山が現場から立ち去った怪しい男のことを警察の生田課長に告げる場に居合わせた。しかしその男のことは闇に葬られ落合が犯人と断定された。石塚は不信に思い取材をはじめるのだが…
 増村初の社会派サスペンスドラマ。しかしアップテンポなところは恋愛映画と変わらず、すごいスピードで事件が二転三転していくのが見所。ある意味ではヒーロー映画なので、川口浩ファン(いまどきいないか)は必見です。

 100分を越える作品なので、増村としては長いほう。そしてさらに話の展開が異常に早くて、人はバタバタ死に、敵味方がころころ変わり、話はどんどん進んでいく。のに、よく考えてみると1週間に満たない出来事を栄がいた映画。恐ろしい… フツーの人間はあんなに生き急がないぞ。
 しかし、その辺が増村的なところで、非現実的なほどのスピード感がなんといっても初期の増村の魅力。そして速さのせいか必然的にドライな感じになるけれど、この映画はかなりロマンティックなヒーロー映画。川口浩は正義の味方って感じで、編集局長とともになぜだか新聞に命を懸ける。後々振り返ってみると腑に落ちないことがたくさんあるのですが、見ているときには圧倒されてまったく気づかない。ということはこの映画は成功ね。2時間見ている人をだませれば映画としては素晴らしい。「世の中所詮偶然に支配されているのよ」とでも思って納得しましょう。

1963年,日本,93分
監督:増村保造、吉村公三郎、衣笠貞之助
脚本:白坂依志夫、笠原良三、新藤兼人
撮影:石田博、小原譲治、渡辺公夫
音楽:芥川也寸志
出演:滝瑛子、ジェリー藤尾、江波杏子、叶順子、川崎敬三、益田喜頓、乙羽信子、森光子、船越英二

 増村・吉村・衣笠という人気監督を集めて撮られた三話オムニバスの映画。
 第一話:プレーガール
 何人ものボーイフレンドを掛け持ちする短大生の万里子だが、本命の菊村には美恵というガールフレンドがいて…
 第二話:社用2号
 スポンサーの社長のコネでドラマに出演している新子は自分がドラマを降ろされたことを知って愛人である社長に訴えるが…
 第三話:三女体
 田代幾馬が愛人の道代にピストルで殺される。彼の死をめぐって警察と道代と本妻の安子が繰り広げる騒動の顛末は…

 それぞれ簡単に感想を。
 第一話は増村的世界であるようで、まだ入っていないというイメージ。主人公の万里子は増村が好むキャラクターだが、いかんせん30分という時間は短すぎたか、これから物語が始まるぞという感じがしてしまう。もっと主人公のキャラクターを膨らませて、プロットを複雑にすれば増村作品一本出来上がりという作品かな。
 第二話はかなりいい。吉村公三郎の作品はあまり見たことがないけれどこの作品はコメディタッチでありながら、女の生き様をしっかりと捉えている感じがする。そのあたりなんとなく増村と似ている。あるいは増村が吉村の影響を受けているのかもしれない。「女経」でもいっしょにやっているし、「暖流」など吉村作品を増村がリメイクしている(あるいは同じ原作を映画化している)作品もいくつかある
。  第三話は前二つとだいぶ趣が違う。衣笠というと時代劇という印象があって、こういう現代劇はあまりイメージがない。この作品は役者はかなりよくて、乙羽信子の演技なんかはすごいのだけれど、ほとんど全部の場面を語りにしてしまったので、いくら回想シーンが入るとはいえ動きが少ない印象になってしまった。

爛(ただれ)

1962年,日本,88分
監督:増村保造
原作:徳田秋声
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:若尾文子、田宮二郎、水谷良重、丹阿弥谷津子、船越英二

 増子は恋人の浅井に妻がいることを知った。浅井は妻と別れて増子と結婚するというが、増子は「奥さんに悪い」とか「寝覚めが悪い」といってあまり賛成していなかった。しかし結局妻と別れることを浅井は決意した。そんな時、増子の姪の栄子が浅井と増子の家に転がり込んできた。
 女同士の骨肉の争いという増村のもっとも得意とするジャンルを一種の群像劇として撮った作品。増村×若尾の10本目。ともに脂の乗り切った時期の作品。

 女同士の骨肉の争いを撮らせたら増村は世界一の監督だと思う。狂い死ぬ前妻、増子も狂気の一歩手前かあるいは一歩踏み込んだところまで追い込まれる。皆がふてぶてしく生き、生命を賭して戦っている感じ。この感じを出すのはすごい。
 この映画で特にそれが気になったのは音。ラーメンをすすったり、お茶をすすったりする音、病室で聞こえるカラスの声、それらは不自然に大きく強調され、見ている側の神経を逆なでする。それは劇中の人たちの気持ちの苛立ちをも表しているのだろう。
 構図は相変わらず。奥の人物にピントを合わせて前景をぼかしたり(しかもボケている部分が、画面の3分の2くらいを占める)、画面の中で要素を偏らせたりする構成にしびれる。

兵隊やくざ

1965年,日本,102分
監督:増村保造
原作:有馬頼義
脚本:菊島隆三
撮影:小林節雄
音楽:山本直純
出演:勝新太郎、田村高廣、淡路恵子、早川雄三、成田三樹夫

 軍隊嫌いで昇格もせず、一年後の除隊を楽しみにだらだらと上等兵をしている有田に一年兵の世話をしろという命令が下る。その一年兵大宮貴三郎は上官にはむかう問題児だった。しかし、有田は大宮を気に入り、大宮も有田を慕うようになっていった。そんな中、戦況は徐々に悪化して行く…
 増村がはじめて本格的に勝新太郎と組んだ作品であり、はじめての戦争映画でもある。しかし増村はこの作品を「青春映画」であると語った。

 舞台を軍隊に移しても増村は増村だということがまずある。それは主人公として描く人間の人間性であり、映画のとり方である。主人公が兵隊に代わっても増村の描く主人公は自分の意志を決して曲げない強い人間であり、しかし決して冷酷ではない人間だ。
 そして撮り方も変わらない。この時期多くの作品でカメラを勤める小林節雄がこの作品でもカメラを回し、変わらぬ質の映像を提供する。いつも言っている登場人物が片側による構図も相変わらず使われており、安心して見られる。
 この映画で面白いのはとにかく喧嘩のシーンがやたらと多いことと全体が意外にコメディタッチでまとめられているのだろうか。これまでの増村映画の印象からするとあまりアクションシーンというか殴り合いのシーンなんかはなかったような気がする。男が女を張り倒したり、女が男に馬乗りになったり、女が男を刺したりというシーンはあっても、それは一瞬のことであり、いわゆる喧嘩というシーンは印象に残っていない。だからどうということでもないのだけれど、この喧嘩のシーンで印象的なのは、決して蹴ったり殴ったりするときにアップに寄らないということだ。今普通に考えると、アクションの迫力を増すためには殴る瞬間をアップのスローで映したりするものだが、この映画では喧嘩のシーンはとにかく引きで撮る。寄っても全身映るくらい。これもひとつの増村美学なのだろうかなどということを考えてしまった。