「女の小箱」より 夫が見た

1964年,日本,92分
監督:増村保造
原作:黒岩重吾
脚本:高岩肇、野上竜雄
撮影:秋野友宏
音楽:山内正
出演:若尾文子、田宮二郎、川崎敬三、岸田今日子、江波杏子

 製薬会社の株式課長川代はナイトクラブの経営者石塚による会社乗っ取りを防ぐため忙しく働いていたが、川代の妻那美子はいつも夫の帰りが遅いのに不満だった。そんなある日、友人の女医に誘われナイトクラブに足を運んだ那美子はそこで石塚に出会う。
 「愛」というものを徹底的に前面に押し出し、「愛」を巡って渦巻く男女の愛憎を描いた濃密な作品。

 この作品は、増村×若尾コンビが絶頂期を迎えていた頃の作品。『妻は告白する』『卍』『赤い天使』などと同時期に撮られた作品だが、作品のトーンはかなりメロドラマ色が強い。「私への愛とあなたの夢のどっちを取るの」と執拗に聞く那美子の激しさはすごい。しかし、那美子は石塚の前以外では鉄面皮に表情を変えず、淡々と語る。そのギャップを演じきれるところが若尾文子のすごいところなのだろう。特に石塚を待つ間に夫と兄がやってきたラスト近くの場面、若尾文子は眉一つ動かさず淡々と話す。その表情にしびれる。
 あとはやはりいつもどおりの増村節。今回は特に、画面の半分か3分の1を壁とか扉とかいったもので殺してしまう画面が多く用いられた。石塚と那美子がレストランで語る場面、石塚が話すときは左3分の1に柱、那美子が話すときには右3分の1に柱、この二つを切り返しで使う。これは見るとけっこう驚く。話している人に注目していると、次のカットでそこにいきなり柱が映るんだから。人物を画面の中央に配しての切り返しとは明らかに画面の印象が異なってくる。この感じが増村的なわけだ。
 というわけで、この映画は増村的メロドラマの典型のひとつということが出来るだろう。画面もストーリーも主人公のキャラクターも増村的な、ひとつの典型である。

濡れた二人

1968年,日本,82分
監督:増村保造
原作:笹沢左保
脚本:山田信夫、重松孝子
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:若尾文子、北大路欣也、高橋悦史、渚まゆみ、小山内淳

 32歳人妻の万里子は仕事仕事でまったくかまってくれない夫にまたも旅行を断られ、一人旅にでることにした。行き先はいず、昔女中をしていた勝江のところに厄介になることにした。そしてそこで漁師をする情熱的な25歳の若者繁男に出会い…
 円熟味を増した若尾文子の妖艶な演技と増村保造の粘っこい演出がなんともいえない激しく濃厚なドラマを作っている。

 いまなら昼ドラな感じのこの作品。若い男と旅先で不倫。しかし、その奥には増村らしい激しいドラマが… なんと言っても、最後まで若尾綾子が表情を崩さないのがすごい。喜びや絶望を表情に湛えはするのだけれど、最後までどこか余裕を感じさせる表情で押し切るその強さがやはり、増村保造的女性像を一身に受けた感じがして素晴らしかった。
 というのも、増村×若尾コンビはこの作品の次「千羽鶴」で最後となったのである。合計20本もの作品を作ったコンビでなければ出来ないいわゆる「あうん」の呼吸がこの作品には感じられる。増村が思い描く女性像を若尾文子がためらいもなく演じて見せるその刹那、北大路欣也が演じる繁男は間違いなく若造で滑稽で子供だ。最期一人悲惨な境遇に陥ったように見える若尾文子演じる万里子こそが実は真の自由と真の自分自身を手に入れた勝利者であるのだろう。そしてその自由を感受できるだけの強さを見につけるためにこの苦難が彼女に必要だったのだろう。
 私がここから勝手に読み取るのは、「女は強くあれ、しかし女は弱いものだ」という考え方。なんとなく明快ではないけれど、そんなことを増村×若尾コンビの映画は語りかけてくるように思える。

積木の箱

1968年,日本,84分
監督:増村保造
原作:三浦綾子
脚本:池田一朗、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:若尾文子、緒方拳、松尾嘉代、梓英子、内田喜郎

 北海道の富豪佐々林家の長男一郎は姉であると思っていた奈美恵と父豪一との情事を偶然覗き見て奈美恵が実は父の妾であったことを知る。一郎は父への反発心から家で食事することを止め、学校の近くのパン屋で毎日パンを買ううちに一人でそのパン屋を切り盛りする久代にあこがれるようになっていく。
 思春期の少年が大人の世界を垣間見たことから起きる煩悶を描いた。増村いわく「少年のヰタ・セクスアリス」。

 まず少年が主人公というのが見慣れない。そしてその少年のあまりのかたくなさにいらだつことしきり。いくら若尾文子と緒方拳が爽やかでも、少年が放つ停滞感を薄めることは出来ず、全体のトーンはかなり重い。しかし、その最大の要因であるはずの奈美恵のキャラクターが非常に増村的で逆にちょっと安心してしまう。普通の増村だったら奈美恵を主人公にして描くところを今回は逆の視点で描いてみたというところだろうか。
 ということで、全体的には少しバランスが悪いかなという感じがしなくもない。緒方拳も「セックスチェック」の強烈なキャラクターと比べるとなんだか弱い感じがしてしまうし、若尾文子も地味な人。
 そんな中、光っていたのは奈美恵を演じる松尾嘉代とみどりを演じる梓英子。その二人の火花散る戦いの物語にしてしまったらもっと増村的でもっと面白い映画になったんじゃないかと思ってしまうのは、私だけだろうか?

赤い天使

残酷な戦場で繰り広げられる壮絶な愛のドラマ、増村の傑作!

1966年,日本,95分
監督:増村保造
原作:有馬頼義
脚本:笠原良三
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:若尾文子、芦田伸介、川津裕介、千波丈太郎

 従軍看護婦の西さくらは中国大陸の野戦病院に配属された。前線の病院では手足切断などあたりまえ、バタバタと人が死んでいく異常な状況の中でさくらは女性としての信念を貫き行き通そうとしていた…
 増村×若尾コンビ15作目のこの作品は、いつものように激しく愛に生きる女の生き様を描き、さらに戦争を舞台に選ぶことでその壮絶さを増し、描写に深みが増している。増村保造の傑作のひとつ。

 この映画は始まりから強烈だ。映画が始まるのは看護婦の西さくらが天津に赴任するところから。そして、その最初のよる、さくらは早速強姦されてしまう。その痛々しい描写と妙に冷めている兵隊たちの対照的な態度が強烈な印象を与える。そして、映画が始まって物の数分もしないうちに、さくらは更なる前線へと送られる。そこでは気が狂うほどのけが人が運び込まれ、昼夜を徹して腕や足を切り続ける。増村はその描写に手を抜くことなく、足を切断する瞬間を捉え、切り落とされた腕や足であふれんばかりのバケツを映す。この映画が白黒でよかった。これがカラーで描写がリアルだったら、このシーンにはとても耐えられないと思う。その意味では、この映画はあえて白黒なのかもしれないとも思う。過酷なテーマと陰惨な情景、それをカラーでリアルに表現して観客に衝撃を与えるよりも、白黒にすることで観客の頭の中で映像を組み立てさせ、強い印象を残す。そのような戦略であるのではないか。

 まあ、ともかく、この映画の衝撃的な始まり方は見事にこの映画のテーマを浮き彫りにする。それは「性」と「死」である。戦場でいつ死ぬかわからないという切迫した状況に立たされている兵士たちの性、それがこの映画の最大のテーマとなっているのだ。

 戦争という極限状態の中では、男女の間にはセックスという関係しか成立しえないのだろうか? そのような疑問がこの映画からは感じられる。強姦、慰安婦、などなど。そんな中で西さくらは岡部軍医を愛するようになる。しかしそのときの「愛する」ということの意味はいったい何なのだろうか。

 基本的にこの映画の中で人を愛しているのは西さくらだけだ。他の人たちはあきらめているか、絶望しているか、感覚を押し殺しているかである。

 たとえば、看護婦や軍医はそれほど死が切迫していないがゆえに「兵隊は人ではなくて物だ」などということを言う。彼らは兵士を人として見てしまうことによって押し寄せてくる怖さや悲しみを自ら遠ざけ、感情を押し殺し、実は自分の身近にも迫っているはずの死を遠ざけようとする。戦場という場に漂う死の空気に感染しないためにその空気の源泉である兵士を遠ざけ、自分は安全な場所に避難しようとする。もちろん安全な場所など存在しないし、そのことはわかっているのだけれど、そのようにして自分が安全であるという錯覚にすがらなければ生きていけない、そのためには感覚の切断によって自己保存を図らなければいられないのだ。もちろん岡部軍医が使うモルヒネというのがその感覚の切断をもっとも端的に表しているものだ。鎮痛剤であるモルヒネはまさに感覚の切断を意味している。

 もしかしたら岡部軍医がやたらめったら手足を切るのも、そのような切断の象徴なのかもしれない。彼は自分の感覚を切断するように手足を切断する。そのことで兵士を死から遠ざけると同時に、自分自身も死から遠ざかろうとする。

 しかし、西はそのような幻想にしがみつくことを拒否し、兵士とともに死に直面することを選ぶ。そして彼らに愛を振りまく。強姦されても、乱暴されても、自分が「殺した」ことになるしを受け入れるよりも、彼らを愛そうとするのだ。それがゆえに、彼らが物であるとか、他人であるとかと言って常に逃げようとする軍医や婦長に反発する。

 しかし、死に囚われている兵士たちもまた彼女を受け入れはしない。兵士たちの多くもまた感覚を切断することで死の恐怖から逃れようとしているのだ。だから彼らは愛されることを望まない。愛されてしまえば、死ぬことが怖くなるからだ。彼らは自分が求めているのは愛ではなくセックスだと自分に言い聞かせることで感覚を切断して行くのだ。

 あるいは、絶望からそれが反転する場合もある。映画の途中に登場する川津祐介演じる折原一等兵は、岡部軍医に腕を切断され、病院にずっといる。そのような悲惨な傷病者を帰すことは戦意の減退につながるということで内地に帰ることも出来ず、永遠にそこにとどまることになるとあきらめているのだ。彼は絶望しており、死を恐れていないから、感覚を切断することもなく、西が振りまく愛を受け入れる。西はその愛を岡部軍医に対する愛の延長であるかのように捉えるけれど、このことから明らかになるのは、岡部軍医に対する愛というものこそが西が振りまく無私の愛の延長にあるものだということだ。彼女が岡部軍医に好きな理由を「父に似ているから」というとき、重要なのは本当に父に似ているかどうかとか、近親相姦的欲望を抱えているかどうかということではなく、「父」という名前に象徴される崇高なものへの愛の具現化であるということだ。

 「西は人形ではなく、女になりたいんです」

 西のこの印象的な台詞の意味は「愛して欲しい」ということだ。それは自分が捧げる愛を返して欲しいということだと西はとっているが、これはむしろ岡部軍医に自分を通じて崇高なものへの愛を取り戻して欲しいという意味だと考えたほうがふさわしいのではないか。感覚を切断し、愛し合いされることを拒否し、最終的には絶望するのではなく、崇高なものに愛を捧げることによって生きようと努力すること、それこそが重要だと言っているのだ。

 この「崇高なもの」とはもちろん天皇ではないし、キリスト教的な神というわけでもない。もっと曖昧模糊とした価値あるもの、それが内地に残してきた子供という形をとったっていいし、もちろん宗教的な神という形をとったっていいわけだが、それらに化体される「父」なるものを西は愛するのだ。

 だから、西は岡部軍医よりもはるかに強い。そして、その強さというのは西のみならず戦時の女性全般が持っていた強さなのかもしれないのだ。戦後強くなったのは女と靴下といわれるように、戦後女は強くなったのだが、実は恩が強くなったのは戦後ではなく戦中なのではないか。男たちが「自分たちは戦っている」という大義名分の陰に隠れる一方で、生身で戦争に立ち向かわなければならなかった女たちは強くなった。西はそのような女たちの代表であるのだ。強くなるということは男になることではなく、より強く「女」であることである。「女」という記号が象徴するのは「母」つまり「愛するもの」である。女たちは「女」であることによって男よりも強くなり、自分を守っていたのだ。

 そのような「女」西さくらを演じるこの映画の若尾文子は本当にすばらしい素晴らしい。若尾文子のフィルモグラフィーの中でも1、2を争う出来、「女」らしいキャラクターとしては一番かもしれない(それと対照的なキャラクターを演じたすばらしい作品としては川島雄三監督の『しとやかな獣』などがある)。

 もちろん、増村保造監督の下で、若尾文子はさまざまな女を演じてきた。そして、この作品の若尾文子はそのさまざまな女の集大成を演じているようなのだ。フィルモグラフィー的にはこの後も『妻二人』『華岡青洲の妻『積木の箱』『濡れた二人』『千羽鶴』と増村作品に出演しているが、実質的にはこの『赤い天使』とその前の『刺青』が増村保造と若尾文子が組んだ作品の頂点に当たるのではないだろうか。

 ただ、興をそぐようではあるが、若尾文子は決してヌードを撮らせなかったことで有名な女優でもあり、この映画でもきわどい場面はほとんどがボディ・ダブルだと思う。注意深く見ていると、体をきわどく写すカットでは顔が映っていない。しかし、それも含めて、それが彼女の女優魂であるのだとも思う。別に裸で客を引っ張り込む必要はない。弱い男たちに彼女は愛を捧げ、男たちは自分が強くなったような気がして満足して帰って行くのだ。

 そういえば、この作品では西と岡部軍医がいるシーンで、画面に遮蔽物が映っていたり、画面の半分が暗くなっていることが多いような気がする。このようなシーンはおそらく観客に覗き見しているかのような感覚を与えることになるだろう。覗き見しているということは、つまり見ている側は安全な場所にいることを意味しているから、このような画面の作り方までもが男どもを励ましているかのように思えてきてしまうのだ。

暖流

1957年,日本,94分
監督:増村保造
原作:岸田国士
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:根上淳、左幸子、野添ひとみ、船越英二、丸山明弘

 志摩病院の屋上で一人の看護婦が自殺した。その同じ日、志摩病院の院長の娘啓子が怪我の治療で病院を訪れていた。その志摩病院は財政難で、癌で余命わずかの院長は亡き親友の息子日疋を病院の主事に迎え、病院の立て直しを図ることにした。そんな日疋は彼に思いを寄せる看護婦石渡に病院内をスパイさせる。
 たくさんの人が出てきて、いろいろな話が盛り込まれていて、しかし90分で終わるという初期の増村らしい一作。恋愛映画であり、サスペンス映画であり、笑いもあり、ミュージカル映画でもあるかもしれない… 3本目の監督作品。

 この主演の左幸子という女優さん、増村作品ではあまり馴染みがないですが、「女経 第一話 耳を噛みたがる女」「曽根崎心中」にも出演しているらしいです。当時は撮影所の時代で、役者さんもみな映画会社の社員だったので、大映の監督である増村の作品には基本的に大映の役者さん出演するもので、野添ひとみも若尾文子も船越英二も川口浩も大映の役者さんなのです。しかし、この左幸子は当時日活の役者さんだったようで、この作品には客員で出演しているのです。この何年かあとに大映に移籍したようです。だからあまり増村作品には出てこないということです。
 それにしても、この映画みんなやたらと歌を歌い、音楽もかなり多用されている。音楽は火曜サスペンスのようだけれど、全体としてどうもオペレッタ風なのか?と思ってしまう不思議なつくり。その不思議さは全体を通じていえることで、音楽に限らず、船越英二のキャラクターも不思議だし、時折不思議な撮り方をしている。
 面白いと思った撮り方は、最初の啓子が病院から帰るシーンで、階段を下りて出口のところでとどまるときに、妙に上のほうから撮っていて、不思議な映像。もうひとつは、どの場面かは忘れましたが、野添ひとみが部屋で上を見上げると、そこからカメラが撮っていて、かなりアップ、画面の中心、左右のスペースに船越英二とママがいるその大きさの対比がなんだか妙で面白い。そんなところでしょうか。
 増村映画としては並みの作品かな。

妻は告白する

1961年,日本,91分
監督:増村保造
原作:円山雅也
脚本:井出雅人
撮影:小林節雄
音楽:真鍋理一郎
出演:若尾文子、川口浩、馬淵晴子、根上敦、高松英郎

 裁判所でマスコミに囲まれる女。彼女は夫殺しの容疑をかけられた妻。山登り中、事故で宙吊りになり、下になった夫のザイルを切ったという。そしてその山登りには愛人と目される男も同行していた。果たして事故か殺人か?
 増村的な「女」を演じることで、若尾文子にとって、転機となった作品。この前までは比較的爽やかなアイドル的な役が多かったが、この作品以後男を迷わす妖艶な「女」を演じるようになる。

 現在から振り返ってみると、いかにも増村保造×若尾文子のコンビらしい作品だが、それまでの若尾文子の主演作(「最高殊勲夫人」など)とは大きく違う役回りを演じ、この作品以降はそれが定着したという感じである。
 映画全体としてもいわゆる「増村的」といわれるものである。人物の撮り方、カメラの動かし方、小道具の使い方などなど… 例えば、会話している人物を正面から撮るときに、その相手の後姿(多くは後頭部のアップ)を手前に、しかも画面の真中に持ってきて、その奥に話し手を配置するやり方(ピントは話しているほうにあっている)。このとり方はいかにも増村的で、この画を見ると「ああ、増村」と思うような画なのだけれど、そんなシーンもちりばめられていた。しかも、このとり方は後期の増村がより多用する撮り方なので、やはり、このあたりから増村の作品は前期と後期に分けられるのかな、と無意味な分析をしてみたくなってしまうわけです。
 一人の監督の映画史を時期に分けて論ずることにどれくらいの意味があるのかはわからないけれど、映画を見る側としては、このころの増村はこうでこのころの増村こうという情報があれば、映画を選ぶときの参考にはなるという感じなので、そんな区分けをしてみたかったのです。個人的には前期の「早すぎた天才」という感のあるすさまじい作品のほうが好きですが、後期の作品のほうが、同時代的には評価されただろうし、今見ても見ごたえのある作品という感じでよい。さらに時代を下ると、増村は勝新の主演作品を多く撮るようになり、同時に若い女優を使った作品を撮る。という感じなのです。

セックスチェック 第二の性

1968年,日本,89分
監督:増村保造
原作:寺内大吉
脚本:池田一朗
撮影:喜多崎晃
音楽:山内正
出演:安田道代、緒方拳、小川真由美、滝田裕介

 もと天才スプリンターの宮路はホステスのひもになって落ちぶれた生活を送っていたが、選手時代のライバル峰重に電気会社のコーチの仕事を進められる。しかし、その選手たちを見て宮路はそれを断った。しかし、その帰りバスケット部の練習で見かけた南雲ひろ子に宮路は類まれな素質を見る。そしてひろ子のコーチをはじめた宮路だったが、ひろ子はセックスチェックで半陰陽と診断され、女子選手としての資格が否定されてしまった…
 相変わらずすさまじいテンポで進む増村映画。さらにこの映画は半陰陽というなかなか難しいテーマを使って混乱は増すばかり。増村作品の中では少し典型から外れるかなという気もしますが、それは時代のスタンダードに近いということではなく、逆にさらにいっそう離れているということ。

 かなりすごい。「えー、そうなのー?」という感想がまずわいてくる。そしてやはり人が一人狂ってしまう。果たして、実際擬半陰陽といえるような外性器をもって生まれてくる人はいるだろうし、それを医者が半陰陽と誤診することもあるだろうし、その擬半陰陽の人が初潮が遅いということもあるのだろうという気はするけれど、果たしてそれが毎日セックスすることで早まるのかといわれるとかなり?????という感じ。
 増村は映画的にはかなり先へ先へといっているすごい作家だけれど、思想的な面では、時代より少し先をいっているに過ぎないのかもしれないと思った。この映画から出てくるのは結局は男と女の二分法であって、半陰陽である人の生き様ではない。半陰陽であることを嫌がり、結局女になれた(正確には女であることがわかったということだが、その区別はここでは重要ではない。ひろ子の主観としては、「女になれた」ということであるだろうから)人間の物語でしかない。ここでは半陰陽というものが扱われていながら、いわゆるトランスジェンダーやインターセクシュアルということは問題にならず、単純に「男」と「女」の愛の物語に終始してしまっているわけだ。そのあたりが現在のこの時点から見ると甘いというか、その時代の発想にとらわれているのだと言わざるをえない。
 まあ、それは仕方のないことなのでしょう。ジェンダーなんて思想が日本にやってきたのはたかだか20年位前。この映画が撮られたのは30年前。それを求めるほうが無理というもの。それよりもこの映画の映画的な美点を誉めるべきでしょう。でも、それは、ほかの増村映画の解説の繰り返しになってしまうのでやめておきます。ただひとつ言いたいのは、安田道代の眼差しがすごいということ。増村映画のヒロインは若尾文子も野添ひとみも原田美枝子もみんな眼差しがすごいのだけれど、この映画の安田道代は本当にすごい。見られた人間を後ずさりさせるような鋭さ。小川真由美も狂ってしまうほどの鋭さ。峰重の奥さんが狂ってしまったのは宮路に振られたことよりも、その事実を突きつけたのがひろ子であったから何じゃないかと思ってしまうくらい、重い眼差しをしていたのが非常に印象的でした。

最高殊勲夫人

1959年,日本,95分
監督:増村保造
原作:源氏鶏太
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:若尾文子、川口浩、船越英二、丹阿弥谷津子、宮口清二

 結婚式の披露宴、新郎新婦は三原家の次男二郎と野々宮家の次女梨子。兄一郎と姉桃子も結婚しているため、みなは三男三郎と三女杏子も予想していた。そしてその通り事を運ぼうとたくらむ長女の桃子。桃子は三原商事社長の一郎をすっかり押さえ込み、自分の思うように事を運んでいた。
 増村らしいハイテンポの恋愛ドラマ。比較的初期(8作目)の作品だけあって、後期のどろどろとした感じよりも、爽やかなコメディタッチの作品に仕上がっている。

 若尾文子主演はこれが二作目で前作は「青空娘」。実はこの「最高主君夫人」と「青空娘」は原作者も同じ源氏鶏太ということで、かなり似た感じの作品になっている。しかし、この作品は川口浩、船越英二といった増村作品おなじみの顔ぶれがずらりと顔を並べ、増村的世界がより完成されている。しかし、ハイテンポは相変わらずで、セリフも早いし、セリフの継ぎ目はないし、プロポーズしてから結果を告げるまでもあっという間だし、振られてあきらめるのも早いというわけ。とにかく展開の早さにはついていくのが大変。一番おかしかったのは、杏子に野内がプロポーズしたと知って、桃子が「転勤させてしまいなさいよ」というところ。そりゃねーよ、いくらなんでも、話が手っ取り早すぎりゃぁ、と口調も江戸っ子になっちまうくらい。
 そんな感じですので、こちらも展開を早く。とにかく気になったことをずらずら羅列。
 杏子と三郎の二人が映っているシーンの構図が素敵。二度目に二人でバーで会った場面、三郎の背中・杏子の横顔・バーテンの立ち姿が微妙な配置で美しい。ロカビリーのところ、少しはなれてカウンターに座っている二人の位置取りが美しい。一郎の家で、一郎と桃子をはさんで、画面の両端に三郎と杏子がいるシーン、むしろ端にいる二人が中心なんじゃないかと思わせる素晴らしさ。
 なんといっても面白いのはわけのわからぬうちに進んでしまう展開だけれど、たとえば、杏子が岩崎と宇野をくっつけてしまうところなんかは、なんのこっちゃといううちに、すっかり話がまとまってビール6本飲まされて、結婚がまとまって、みんなめでたそうな顔をしている。いいのかそんなテキトーで?と思うけれど、そのテキトーさがむしろ正しくて、自然なものなのかもしれないと思えてくる。内面の葛藤がー、とか、三角関係のギクシャクとか、そんなことは笑い飛ばせよ、そんなことしてる暇はねーよといわれている気がして、なんとなくスカッとしました。別に内面の葛藤があるわけではないですけどね。

でんきくらげ

1970年,日本,92分
監督:増村保造
原作:遠山雅之
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:渥美マリ、川津祐介、永井智雄、玉川良一、西村晃

 水商売で暮らす母と母の男とともに暮らしながら洋裁学校に通う由美だったが、ある日母の男に強姦される。それを母に告げると、母は男を刺し殺してしまった。刑務所に入った母のためにも水商売の世界に入った由美はその美貌と体を生かしてのし上がっていく。
 瞬く間にスターダムにのし上がり、まもなく消えていった渥美マリの代表作。その魅力で男をとりこにする女という増村が好むテーマ。しかし、この映画の場合、男をもてあぞぶ悪女というイメージでは必ずしもない。

 男をとりこにし、破滅させるというのは『刺青』や『痴人の愛』に通じるテーマだが、この3つの作品はそれぞれかなり異なっている。『刺青』は男を破滅させ、最後に自分も破滅してしまう。『痴人の愛』は一度は二人とも破滅するが、最終的にはある種のハッピーエンド。『でんきくらげ』は最初のうちは他の2作より男が優遇されているが、最後に破滅するのは男だけである。だからこそ電気くらげなのだろうが、終わってみれば一番たちが悪いのがこの由美だったりする。
 しかし、見ている我々は悪いのは由美ではなく男なんだと思う。そこが増村のすごいところ。この人はフェミニストなんじゃないかと思ってしまうくらい、女が勝つことが多い。まあ、勝ち負けの問題ではないのだけれど、概して女が強く男は弱い。その典型的な映画がこの『でんきくらげ』なのかもしれない。
 この映画を見てひとつ思ったのは、由美が野沢とともに母親に面会に行ったとき、由美が母親と話しているカットで、奥にいる野沢が妙に無表情なこと。脇にいる人が無表情というのは『卍』なんかでも思い当たる節があるんですが、かなり不思議な感じです。
 それから、この映画はワイドスクリーンなんだけれど、画面の焦点が中心にない。大概、話している人物が画面のどちらかによっている。これまたかなり不思議な映像で、巧妙なというか奇妙なフレーム使いでかなり気になりました。どういうことかといえば、普通ワイドスクリーンの場合、画面の中心に焦点を当てる人物がいて横の広いスペースに均等に小物を置く。しかしこの映画は、話している人が右側にいたら左側の画面が大きく開いている。しかもそこに何かがあるわけでもない(ことが多い)。普通こういうことをすると画面がさびしくなるものなのだけれど、この映画はまったくそういうことがない。なぜなんだろう? そのなぞは解けません。
 これは余談ですが、『グループ魂のでんきまむし』の「でんきまむし」はこの映画からとられたそうです(監督談)。どんな意味がこめられているのかはいまいちわかりませんが、人々をしびれさせる(笑いで)ということでしょうかね。

大地の子守歌

1976年,日本,111分
監督:増村保造
原作:素九鬼子
脚本:白坂依志夫、増村保造
撮影:中川芳久
音楽:竹村次郎
出演:原田美枝子、佐藤祐介、岡田英次、梶芽衣子、田中絹代

 山奥の山村で「ババ」と暮らす13歳の少女りん。いつものように猟から帰ってくるとババが冷たくなっていた。りんはババの死を隠そうとするが村人にばれ、しばらくしてやってきた人買いにだまされ瀬戸内海の島の女郎家に売られてしまう。そんなりんのこれまでの生をお遍路参りをするりんの姿を挟みながら展開させる。
 やはり焦点を当てられるのは女性。といっても少女。増村と少女、男を惑わす妖艶な女性とは違った女性像を増村が描く。

 なんといっても原田美枝子が素晴らしい。暴れまわるシーンにスカッとしたり、ヌードのシーンにドキッとしたり、いかにりんを魅力的に描くかというのがこの映画の最大の焦点なのだろう。自由奔放で純粋、勝気で芯が強い。しかし不安定で、わがままで弱い。そんなりんに感情移入せずに入られない。
 物語として完全にりんに焦点を絞っているのもいい。りんの周りの人々はりんと関わるところ意外はばっさりと切ってしまっている。りんがはじめて恋をする漁師の息子なんかはもう少し引っ張りたくなるのが心情というものだけれど、あっさりと映画から立ち去る。そういう意味では人買い(名前忘れた)が死ぬエピソードが挿入されたのはちょっと納得が行かなかった。それもバサリと関係ないものとして、切り捨ててほしかったというのが正直なところ。
 りんのキャラクターに比べて映画全体のトーンはそれほど荒々しいものではなく、映像的にも落ち着いている。最後の最後で幻想的なシーンが出てくる以外は、意外と普通に撮っている。なぜ?と考えると、画面の中でりんが動き回っているわりにはカメラはどっしり構えている、あるいはりんが動き回るからカメラは動かす必要がない。からでしょう。思い返してみれば、移動カメラを使ったシーンというのはひとつもなかった気がする(多分あると思うけど)。それくらいどっしりとカメラが構え、りんがフレームアウトするとカメラを切り替えるという場面構成になっていたような気がする。やはりこういう強弱が映画には重要。人も動けばカメラも動くじゃ、メリハリがなくっていけねえ。
 頭に残るのは音楽。映画全体を通して流れるテーマ曲が耳に残り、エンドロールで少しだけ歌詞つきのが流れるのにはつい笑ってしまった。ギターの音なのに妙に和風。不思議。