ザ・ロード

Yol
2001年,カザフスタン=日本=フランス,85分
監督:ダルジャン・オミルバエフ
出演:ジャムシェド・ウスマノフ、サウレ・トクチバーエヴァ

 カザフスタンのアルマイトにすむ映画監督のアランは妻とひとり息子ときれいなアパートで暮らす。アランと妻の関係はなんとなく空々しいが、そこに母が亡くなったという電報が届く。アランは車を走らせ、実家へと向かうが、その道々昔のことを思い出したり、幻想といっていいようなことを考える。
 映画監督を描く映画でロードムービー、といってしまうと、なんとなくありきたりという気がするが、はっきり言ってこの映画はいわゆる ロードムービー ではない。かなり不思議な雰囲気の映画。

 現実と幻覚や思い出のつながり方はとてもいい。境目がよくわからなくて、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか。そして、どれが実際にあったことで、どれが想像なのか、それが明確にされていないのが面白い。
 「道」というのはこの映画にとっては媒介に過ぎない。「ザ・ロード」というくらいだから、 ロードムービーが意識されているのだろうが、この映画が ロードムービーだとするならばそれは実在する道に沿ったたびではなくて、主人公の心の旅を描いたものなのだろう。実際の道とその風景と事件をきっかけにして頭の中で展開される様々な出来事が本当の旅である。というのも、 ロードムービーというのは基本的に未知の場所を旅することから生まれるドラマであって、この映画の実際の旅は自宅から両親の家という既知の道を旅するものなので、そこに ロードムービーというドラマは生まれにくいように思う。
 しかし、個々のヴィジョン(現実と非現実を分かたないものとしての「見たもの」という意味)はかなり面白い。「罪と罰」的な衝動、水没する道、空手映画などなど。この映画も『グレーマンズ・ジャーニー』と同じく散漫な映画になってしまってはいるけれど、それはそれでなかなか面白いと思います。

グレーマンズ・ジャーニー

Journey of the Gray Men
2001年,イラン=日本,110分
監督:アミル・シャハブ・ラザヴィアン
出演:レザ・シャイクアームドカムセ、アーマド・ビグデリ、アリ・シャサワン

 かつて人形劇の一座を組んでいた三人の男達。老境に達した彼らが再開し、再び人形劇をしながら旅をすることに決める。当時使っていたぼろ車を引っ張り出し、旅に出るのだが…
 ドキュメンタリー風でありながら、決してドキュメンタリーではない不思議な雰囲気をかもし出すロードムーヴィー。

 なんといっても不思議なのはこの映画の性格。ドキュメンタリー風の映像で作ったフィクション映画がはやっている昨今、しかしこの映画はどういったドキュメンタリー風のフィクションでもない。むしろそんなドキュメンタリー風フィクションをパロディ化したような作品。それもいかにもイランらしいやり方で。コンセプトとしては監督の父親の体験を素人の役者を使って再現したというものだが、なぜかそこに映画クルーが時々入り込んでくる。たとえば、老人がトラックの上で何かに熱狂している若者達とけんかになるシーン。すえつけられたカメラにフレームインしてきて、正面で止まり、そこでけんかになるのだが、それを止めにクルーが入っていく。このあまりに作り物じみた茶番劇。これがパロディではなくてなんなのか?
 そして最後まで何が映画の中心なのかが見えないプロット。もちろん映画に中心なんてなくていいのだけれど、ここまで散漫なのも気になる。結局のところ監督自身の収拾のつかない心をそのまま表現してしまったという感じに見えるけれど、ここまで作り物じみていると逆にそのように見えるように作りこんだのではないかと深読みしてしまう。最後に登場するエピソードの真実性までも疑いたくなってくる。
 その素直ではない感じがイラン映画のイメージとは相反してとても興味深い点となってもいるのですが。

JSA

JSA: Joint Security Area
2000年,韓国,110分
監督:パク・チャヌク
原作:パク・サンヨン
脚本:キム・ヒョンソク、チョン・ソンサン、イ・ムヨン、パク・チャヌク
撮影:キム・ソンボク
音楽:キム・グァンソク
出演:ソン・ガンホ、イ・ビョンホン、イ・ヨシエ、キム・テウ、シム・ハギュン

 1999年10月28日、38度線上、板門店の共同警備区域(JSA)の北側の監視小屋で起こった銃撃事件。この事件で二人の北朝鮮兵が死亡した。この事件の解明のため中立国監督委員会は韓国系スイス人将校ソフィーを捜査官として派遣した。彼女がたどり着いた真実は予想もしないものだった…
 韓国で「シュリ」の記録を塗り替える大ヒットとなったサスペンスドラマ。日本人から見ても「韓国らしい」映画に見えます。

 結局のところ朝鮮半島の関係というものが分かっていないものとしては、感心してしまいます。これはつまり韓国人の願望。こんな風になってそれこそ「民族統一」がなされればいいなぁという願望が作らせた映画ということでしょう。なので、中立国監督委員会というのもソフィーさんもほんのおまけにすぎず、おそらく1人美女が欲しかったというだけのことのような気がします。
 映画的な工夫という面では特段書くべきこともないので、ドラマに関することに終始したいと思います。
 さて、今韓国人の願望と書いたとおり、これは韓国人の願望でしかなく、北朝鮮人の願望ではない。北朝鮮の兵は南の文化に憧れを抱くけれど、南の兵士が来たの文化に憧れを描くことはない。結局「南」のほうがいいということを言っているに過ぎない気がします。おそらく北朝鮮で同じような映画を作ったとしたら、逆に「南」の兵士が「北」の文化やものにあこがれる様を描くでしょう。そのあたりがこの映画が「願望」にすぎないことを示しています。「願望」を超えて、統一の礎になることはありえないということ。つまり娯楽作品に過ぎないということ。
 で、娯楽作品として描くなら、ソフィーさんは要らなかったかもしれない、と思います。最初の銃弾がドアを貫通し、中の明かりが見えるシーンはなかなかよく、それだけでこの事件が何だったのかを解明する映画なのだろうと予想はつきます。それだったら、捜査などというまどろっこしい手続きをとらず、事件の全貌が明らかにならないまま時間を遡って、展開していって欲しかったななどとも思います。その方が緊迫感がますような気がします。

花火降る夏

去年煙火特別多 
The Longest Summer
1998年,香港,128分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、ケネス・ビー
出演:トニー・ホー、サム・リー、チャン・サン、ジョー・クーク

 1997年、香港返還をまえに香港の英国軍部隊が解散した。そのひとりであったガーインも仕事を失い、仲間とぶらぶらするしかなかった。ガーインの両親はヤクザの子分をしている弟のシュンに仕事を世話してもらえという。最初は抵抗していたガーインだったが結局はヤクザのボスの運転手をすることにした。
 香港返還をまえにして香港の人々がどう生きていたのかを描くフルーツ・チャンの香港返還三部作の2作目。

 映画の最初の方から映像がとてもいい。いきなり、口に穴があいている少年が登場するというのもとてもいいし、そのあとガーインが登場してからも独特の構成美というか、不思議な感じの映像がいい。なんというか、非日常的な空間というか、普段はなかなか見れないものや視点を使うことはそれだけで映画を興味深いものにする。映画にはそういう魔術的な視線(マジカル・ビュー)を提供する一面があり、それが特撮やCGという工夫を生んできたと思います。この映画の場合は、(顔に穴は別にして)特別特殊な方法をとっているわけではないものの、路面電車の架線など、普段は注目しないような視点でものが語られている。そういう、日常生活では見慣れない視点が取り入れられているというのは映画を面白くひとつの要素なのだと実感しました。
 と、言ってもただそういう映像を流しているだけで言い訳もなく、それを効果的に、プロットに対する興味をかきたてるように配置されていることが重要で、「口に穴」はそんな典型的な例である。こういう効果的な映像が冒頭にあるだけで、映画にぐっと引き込まれる。
 そのプロットはというと、それほど格別にスリリングというわけではないが、人と人との関係性が興味深く、展開力がある。加えてガーインの「心」の展開がとても気になる。無表情で何を考えているのかわからないガーインがどのような心を抱えて行動しているのか? それは物語の終盤で一気にわかってくる。それを明かすことはしないけれど、その無表情な彼の抱える心の重みはそこに至る映画の全般に顕れている。その骨太な感じは映画を見ている時点でかなりよかったのだけれど、最後たたみかけるようにガーインの心の中が明らかになるとそれは圧倒的な力を持って迫ってきた。どんなふうにかは言いませんがね。
 もちろんガーイン単独ではなくて、他の“マッチ棒”たちとの関係性も興味深いものがあります。すれ違ったり、出会ったりしたときの一瞬の表情に表れる心のかけらがとてもうまく表現されていると思いました。
 フルーツ・チャンを見るならまずこれだ! と声高に言いましょう。

フラワー・アイランド

Flower Island
2001年,韓国,126分
監督:ソン・イルゴン
脚本:ソン・イルゴン
撮影:キム・ミョンジョン
音楽:ノ・ヨンシム
出演:ソ・ジュヒ、イム・ユジン、キム・ヘナ

 映画は女性のモノローグから始まる。マチュピチュで神秘の力によって美しい声を得たという話をする。彼女を含めた心にキズを抱えた3人の女性達。その3人の女性達が偶然に出会い、「花島」という南の島に向かって旅をする。
 とにかく不思議な雰囲気を持つ映画。映像も、物語も、個々のエピソードもなんだか不思議。監督はこれが長編デビュー作となるソン・イルゴン。何でもカンヌ映画祭の短編コンペで賞をとっているらしい。

 不思議不思議。映画は不思議なくらいが面白いのでいいのですが、それにしても不思議。一番不思議なのは多用されるピントをずらした画面。ピントがボケたフレームに人が入ってきてピントがあったり、画面内でピントを送ったり(つまりひとつのものから別のものにピントを動かす)することは他の映画でもよく見るし、この映画でも最終的には何かにピントが合うのだけれど、ピントが合うまでの時間が異常に長い。最初はそのピンぼけ画面に疲れるけれど、人間なんでもなれるもので、その内気にならなくなってくるから不思議。確かにしっかりピントがあってはっきり見えるより、ピントがずれてぼんやりしていた方が美しく見える場合もあり、この映画でもそれを感じさせられはするけれど、ここまでこだわる理由はなんなのかとても不思議。
 映像の不思議さはそんなところとしても、物語も不思議。個人的には不思議な話は好きなのですが、残念なのはなんとなくファンタジックな方向に行ってしまったこと。不思議なものを不思議なものとして描くのではなくて、普通に描いているんだけど「よく考えてみると不思議だよね」みたいなものが好き。マジックリアリズムとでも言うようなもの。オクナムが「天使のともだち」といったとき、「天使のともだち?」と思ったけれど、それは特に不思議なことではなく当たり前のことのように流れていく。そんな感じ。そんな感じがもっと続いていればとてもよかったと思います。
 しかし、全体を通してみてみれば、なんとなくわけがわかったような気もしてくる。あるいは解釈を立ててみることはできる。ネタばれになってしまうので全部は言いませんが、途中で出てきた時点では理解できなかったシーンたちの始末がついたとき、何かがわかった気がしたのです。その分かってしまった気になってしまうのもあまり居心地がよくない。わけのわからない映画はわけのわからないまま、不思議さを残したままとどまっていてくれた方が気持ちよい。もっと不思議なままで終わってしまうことがたくさんあってもよかった。バスの運転手のようにわけのわからないまま物語から去っていってしまう人ばかりがたくさんいてもよかった。そう思います。

少年と砂漠のカフェ

Delbaran
2001年,イラン=日本,96分監督アボルファズル・ジャリリ脚本アボルファズル・ジャリリレサ・サベリ撮影モハマド・アフマディ出演キャイン・アリザデラハマトラー・エブラヒミホセイン・ハセミアン

 アフガン人の少年キャインは戦争が続くアフガニスタンを逃れ、イランの国境にきた。そこからカフェを営む老夫婦の下へと流れ着いた彼はそこで店の手伝いなどをしながら平和に過ごしていた。しかし、イランではアフガンからの不法入国者が問題となっており、そのカフェにも度々警察が出入りしていた…
 砂漠と少年というイラン映画のひとつの典型的なモチーフの中に、アフガニスタンという問題を編みこんだ作品。他にもいろいろと考えさせられることでしょう。

 荒野と少年、まさにジャリリらしく、イラン映画らしい始まり方。セリフも少なく、効果音もなく、淡々としている。構図はシンプルにして美しく、決して斬新ではないけれど、よく考えられている。人やものの配置の仕方、パッと挿入される静止画のような映像。それらの映像美はイラン映画にしかできない独特の美学だと思う。
 しかしそんなことばかり言っていてはイラン映画は皆同じということになってしまうので、この映画の何が独特かを考える。映像の面で気付いたことといえば、被写体がフレームアウトしない。この映画ではカメラが捕らえる中心的な被写体がフレームアウトすることはない。カットの切り替わりは被写体がまだ画面に残っている間に行われる。前を車が通過したりすることはあっても、中心的な被写体はフレームアウトしない。唯一といっていい例外は軍用トラックが何台か通り過ぎる場面で、3台か4台のトラックが画面の右から左へと消えてゆく。だからどうということもないですが、ちょっと小津が「画面を横切るなんてそんな下品なことできない」といっていたのを思い出しました。
 さて、この映画はかなり強いメッセージを持つ映画だと思いますが、アフガンを取り上げているからといって反戦ということではなくて、漠然とした愛のようなもの。それを敷衍させていけば反戦にもつながるというもの。
**注意**
 こういう結論じみた事を書いてしまうのはあまり好きではないのですが、これを書かずにこの作品を語ることはできんと思うので書いてしまいます。映画を先入観を持って見たくないという(まったくもっともな)意見の人はここから先は読まないでね。
**注意終わり**
 このセリフの少なさにもかかわらず、キャインと老夫婦の間の愛情というのが滲み出してくる。もちろん警察での場面などそれが明確に出てくる部分もあるけれど、ただおばあさんが窓から外を眺めているだけで、そこに何か愛情の視線のようなものを感じるのは不思議だ。そしてそのセリフの少なさは穏やかで、言葉なしでも通じ合う心というようなものを表現しているのだろう。その愛情はキャインと老夫婦に限らず通りすがりの人までも及ぶ。この映画の登場人物たちはちょっとしたけんかをしても次のシーンではすでに仲直りしている。
 この映画はこの愛情の由来をおそらく宗教に持ってきている。イランの人たちは宗教熱心な人が多く、この映画でも宗教的なシーンがでてくる(特に顕著なのは礼拝のシーンと結婚式のシーン)。同じ神を愛する者達が本当に仲違いなどできるわけはないと、監督は言いたいのではなかろうか。
 さらに、映画中の宗教儀式を行うのが主にアフガン人であることから、あえて深読みすれば、戦争によってムスリム同士が敵対することの無益さを主張していると読めなくもない。

メイド・イン・ホンコン

香港製造
1997年,香港,108分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:オー・シンプイ、ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン
出演:サム・リー、ネイキー・イム、ウェンバース・リー、エミィ・タン

 1997年、返還目前の香港の下町に母と2人で住む少年チャウ、学校にも行かず、悪がき仲間とバスケをし、少し頭のトロイ子分ロンと借金取り立ての手伝いをしている。ある日、借金を取り立てに行った家出であった娘ペンはなぜかチャウに好意をもち、次第に3人出会うようになった…
 香港を代表する若手監督の一人フルーツ・チャンの長編デビュー作。そのスタイリッシュな映像から第二のウォン・カーウァイとも言われた作品。

 オープニングから序盤いまひとつしっくり行かなかったのはフルーツ・チャン独特のリズムのせいだろう。ばっさりと切れて終わる断章の長さと、断章と断章の間のジャンプのアンバランス。このリズムがどうも体になじまない。
 しかし、途中のひとつのシーンでグット映画につかまれた。それはチャウが包丁を握ってトイレに入ったときに、別の少年が小便をする中年の男の腕をばっさりと(これも包丁で)切り落とす場面。このグロテスクな一瞬をさらりと見せたこのシーンにはっとする。このシーンは画面にインパクトがあるだけではなく、物語の展開にも主人公の気持ちにも大きなインパクトを与える。この大胆な転換点を大胆な映像で描ききったところがすごい。
 これですっかり映画になじみ、リズムにもなじみ、最後までつらつらと行くと、ラストまえのシークエンスにまた見せられる。ポケベルの呼び出しの声と氾濫する映像。フルーツ・チャンがウォン・カーウァイになぞらえられたのは、このあたりの映像のスタイリッシュさゆえだろう。しかしウォン・カーウァイの映像の独特さが主にクリストファー・ドイルのカメラワークによっていたのに対し、フルーツ・チャンのそれは編集のリズムによっていると思う。ひとつひとつの映像はそれほど新奇なものではないけれど、ここでも独特のリズムが存在し、それが新しさを感じさせるのだろう。この場面ではフラッシュバックとして一瞬挟まれる映像が非常に効果的で、そのフラッシュバックを見ることによって観衆が思い出させられるシーンの重なり合いが、観客の頭の中にさらに複雑な映像世界を作り出させているような気がした。フラッシュバックを見ることによって頭の中に蓄えられていた映像がどばっと出てくる感じ。そんな感じでした。

リトル・チュン

細路祥
1999年,香港,115分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、チュ・ヒンチョン
出演:ユイ・ユエミン、ワク・ワイファン、ゲイリー・ライ

 中国に返還される直前の香港、街の一角にある料理屋の息子チュンは香港の人気歌手ブラザー・チュンと同じ名前であることからリトル・チュンと呼ばれていた。父の商売や母の賭け事を子供の頃から見ていたチュンは少年ながらにお金儲けのことを考えていた。そんな中の店にある日、働きたいとファンという少女が訪ねてきた。「子供は雇えない」とチュンの父は追い返すが、チュンはその子に興味を持った。
 フルーツ・チャンの香港返還三部作の3作目、子供の視点から香港という街の多様性や活気、返還が持つ意味などを描いている。

 全体の印象としては、断片ごとのクオリティは高いけれど、まとまりがいまいちというところでしょうか。話にいろいろな焦点があって、話が散漫になりすぎた感があります。おばあちゃんとブラザー・チュンの話とか、ファンの話とか、デヴィッド兄弟の話とか、どれも面白そうな話なのに、なんだか中途半端で終わってしまっている。しかし、1本に話を絞ってしまうのもまた面白くなくなってしまうような気がするので、なかなか難しいところ。すべてをぐんぐん掘り下げて、4時間くらいの映画にしてくれていたら個人的にはうれしいですが…
 話の散漫さというのはリズムの悪さでもあると思う。先の展開への興味をかきたてながら次へ次へと進んでいくというリズムがこの映画にはないのではないかと。ひとつのまとまりがあったら、そこで一度終わって次のまとまりが始まる。それが単調なリズムで連なっていく。そうなるとそのひとつひとつがうまくまとまっていても飽きずに見るのは難しい。注意深く、ひとつひとつのシーンを吟味してみれば面白いところも見出せるのですが、ずうっと集中してみるというのはなかなか大変ですからね。
 でもこの映画もバイオリズムがあえば面白く見れると思うんですよね。映画は一期一会、見る環境や体調で違って見えてくるもの。私が退屈してしまったのはバイオリズムがあっていなかったせいかもしれない。もう一度見れば違う風に見えてきそうな映画ではあります。

ぼくは歩いてゆく

Don
1998年,イラン,90分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:ファルザッド・ジョダット
出演:ファルハード・バハルマンド、バフティアル・バハ、ファルザネー・ハリリ

 9歳のファルハードは戦争中に生まれ、両親が届をしなかったために戸籍がない。しかも父親は麻薬におぼれ、服役を繰り返す。学校に通うこともできないファルハードはもぐりで雇ってくれる働き口を探して歩き回る。ただ一枚の身分証のために雇ってもらえないファルハード、それでも彼は歩きつづける。
 ジャリリが街の少年の経験を少年自身によって再現させたフィルム。いまだ混迷するイランの社会を克明に描く。

 少年の経験を少年自身によって再現したことの利点は、ファルハード少年が過去を追体験することによってよみがえってくる感情のリアルさ。特に表情に表れる彼の不安感がリアルである。
 社会的な問題を少年の視点から見るというモチーフはイラン映画では定番。したがってこのモチーフで秀逸な映画を作るのは難しい。どれも良質ではあるけれど、「これはすごい!」と驚嘆できるものはなかなかないのです。同じモチーフを繰り返すことからくる弊害。なんだか区別がつかなくなってくる感じ、それがこの映画にもあります。
 ということなので、モチーフから離れてテーマ的なものへと話を進めましょう。私がこの映画を見て一番考えたことは「嘘」ということ。少年の口をつく数々の嘘、嘘をついてきたがために上塗りしなければならないさらなる嘘、理由はないけれど反射的についてしまう嘘、それらの無数の嘘が果たして本当なのか嘘なのか最初はわからない、しかし映画を見進めるに連れて、「嘘なんだろうな~」と断定的に見てしまう自分がいる。そんな自分も怖いし、少年にそうやって嘘をつかせてしまう社会も怖い。その嘘をつくときの少年の表情は今にも泣き出しそうで、その表情が目に焼きつきます。
 そのようにして少年の感情に誘導されたわれわれは大人たちの理不尽さに怒りを覚え、少年の当惑と憤りを肌で感じることができる。

リメンバー・ミー

Ditto
2000年,韓国,111分
監督:キム・ジョングォン
脚本:イ・ドンゴン、イム・テギュン
撮影:チョン・グァンソク
音楽:イ・ウッキョン
出演:キム・ハヌル、ユ・ジテ、ハ・ジウォン

 70年代の韓国ソウル。新羅大学に通うソウンは大学の先輩トンヒに想いを寄せていた。そんなソウンがひょんなことから手に入れたハム無線機を皆既月食の日につけてみると、知らない人から通信が。その日は驚いて切ってしまったソウンだったが、次の日話してみるとその男も同じ大学に通うと知り、無線機の教本を借りるため会う約束をするが…
 韓国で大ヒットとなったラブ・ストーリー。なんだかなつかしさも感じさせる淡い物語。

  冒頭を見たときは、「これはやっちゃった」と思いました。家庭用編集機でもできそうなセピア効果、そしてありがちなピアノのBGM。嘘のようにうぶな所作をする女子大生。そして、皆既日食の夜空のちゃちさ。
 しかし、話が進むに連れ、そうでもないと分かる。物語自体はたいしたことがなく、誰もが発想できそうな(現に「オーロラの彼方に」って言う映画もあった)ものですが、最近時空ものに敏感な私としてはちょっと気を惹かれてしまうわけです。しかしそれは置いておいて、まずは映画の話。映画としては平均点のストレートなラブストーリーで、登場人物のキャラクターがはっきりとしているのがとてもよい。問題はBGMのこっちが恥ずかしくなるほどのストレートさと映像の作りの安さでしょうか。主役のキム・ハルヌがいかにも70年代らしい顔(どんな顔?)だったのがなんだかつぼにはまりました。ちょっと松たか子似。
 という映画ですが、問題の時空の問題は、実はインのガールフレンドのヒョンジがそのことにさらっと触れていて「同じ次元にいる」とか何とか言っているんですが、これは全くそのとおりで、この映画の中のソウンとインは二人ともまっすぐな時間軸上にいて、その四次元空間から抜け出すことをしない。だから物語とは破綻しない。つまり、インがアクセスした過去は自分にとってのストレートな過去で、現在と矛盾したことをしないからそのベクトルが変化することはなく(あるいはそもそも変化した未来にいるので)、ソウンが異なった未来に向かうことはないわけです。しっかりできていますねハイ。

 注意! ここからパーフェクトネタばれ!!!

 もし、インがトンヒとソンミのことをいわなかったとしたならば、未来は変わったかもしれない。しかし、その未来にはインは存在しないわけだから、インがいまいる時点とは異なるものなわけです。5次元平面の別の点にいる。つまり、どこかでベクトルが変化して、異なった四次元空間が出現したというわけ。しかし、だからといって今ある四次元空間がなくなるというわけではなく、インにとっては一つしかない過去として存在するし、ソンウにとってはありうべき未来として存在していたものということ。あるいは、ソンウがインにもっと前に会って、未来のことを予言していたとしたら、そこでまたベクトルは別の方向に進み、異なった四次元空間が出現していたのでしょう。様々なありうべき可能性の中で、この物語では閉じたひとつの四次元空間だけをつかまえることを選択したということでしょう。その方が物語が混乱せず、すっきりしますからね。そしてヒョンジのほとんど理解できないひとことのセリフにメッセージをこめたということでしょう。意外とやるねこの監督。インとソンウは会っても会わなくてもよかったけど、会うことで本当に物語が閉じたという気がしてよかったようにも思えます。