ゴースト・オブ・マーズ

John Carpentert’s Ghost of Mars
2001年,アメリカ,115分
監督:ジョン・カーペンター
脚本:ラリー・サルキス、ジョン・カーペンター
撮影:ゲイリー・B・キップ
音楽:ジョン・カーペンター、アンスラックス
出演:アイス・キューブ、ナターシャ・ヘントリッジ、ジェイソン・ステーサム、クレア・デュヴァル、パム・グリア

 西暦2176年、火星。84パーセントまでに地球化が進んだ火星の都市に到着した列車。無人のように見えた列車には手錠をかけられた一人の生存者が。彼女は火星の警察の副隊長。いったい何があったのか。他の隊員たちはどこに消えてしまったのか。会議の席上、お偉方が並ぶ中、彼女はことの起こりから語り始めた…
 アメリカホラー界の奇才ジョン・カーペンターが火星を舞台に繰り広げるSFホラー・アクション。舞台を火星にしたところで、カーペンターはカーペンター。トリップ感さえ覚えてしまうほどの勢いで押しまくる。万人に受けるものではないけれど、とにかく痛快。

 いいですねこれは。渓谷についてからはとにかく殺し合いをしているだけなんだけれど、それが痛快。殺し合いが痛快というのはどうも語弊があるけれど、ジョン・カーペンターの殺し合いはあまりに痛快。それは一つはあまりに非現実的であるからであり、もう一つはとにかく徹底的だから。中途半端なヒューマニズムをひけらかしながら殺しを見せるより、こういう風に徹底的に殺す。躊躇なく殺す。とにかく殺したほうが害が少ない。害が少ないというのは娯楽として消化できるということで、「面白かったね」といって現実に戻ることができるというもの。
 同じように痛快な映画に『スターシップ・トゥルーパーズ』というのがあったけれど、これは相手が同じ宇宙人にしても形が昆虫で、だから殺すのに全く躊躇がなかったということ。コミュニケーションも全く取れないし。この映画は姿はほぼ人間なので、『スターシップ・トゥルーパーズ』よりある意味ですごい。人間の姿の敵なのに、殺戮が痛快であるというのはかなりすごい。それでも、自傷行為によってあまりヒトに見えなくするということや、やはりコミュニケーションは全く取れないという点で人ではないということは言える。

 徹底的という点で言えば、徹底的に残酷で、徹底的にグロテスク。CGではなくて特殊メイクで傷なんかを作るのもジョン・カーペンターらしい味で、リアルさは損なわれるけれど、逆にグロテスクさは増すような気がする。
 でも、やっぱり一番感心するのは徹底的に冷たいところだろうね。物語のつくりからして、登場人物たちも観客たちも突き放すような作り方。途中で主役級のヒトがあっさり死んでしまったり(一人しか生き残ってないからどこかで死ぬのはわかっているんだけれど)、とにかく分けもなく殺す。
 結局のところすべての話は殺戮ということに行き着いてしまう。アクションがしょぼいとか、現実的な考察がまるでないとか、行動が理不尽とか、いろいろ文句のつけようはありますが、どれもこれも「殺戮」という話に行き着くということは、そこの部分でこの映画は評価すべきということで、その部分ではこの映画は本当に素晴らしい。だからこの映画は素晴らしい映画だと思う。
 最後の最後の1シーンも、すごくいい。あれがあるとないとでは大違い。さらに観客を突き放すというか、わだかまりを残さないというか、ともかくこれも徹底的なものの一つ。
 その最後も含めて、なんとなくニヤニヤしながら見てしまう。ホラー映画で、結構怖いのに、全体的に言うとニヤニヤという感じ。もちろん生理的に受け付けない人や、怒って席を立ってしまう人もいると思いますが、映画に没入すれば一種のトリップ感を得られる。

 今、思い出しましたが、音楽もカーペンター自身が担当していて、相棒はスラッシュ・メタルの大御所アンスラックス。スラッシュ・メタルとかハード・コアなんて普段は全く聞かないけれど、この映画には非常にフィットしていていい。とてもいい。映画を盛り上げるというよりは、映像と音楽で一つの形になっていて、映画のリズムを作り、映像よりむしろ音楽が観客を操作している。そんな印象もありました。

BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界

Ballet
1995年,アメリカ,170分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 映画はABT(アメリカン・バレエ・シアター)の事務所から始まる。電話に向かって大声で交渉を行っている。つづいて練習風景。車椅子のお婆さんが振り付けをしている。車椅子に座っていても、凛とした姿でもともとバレリーナだったことが見て取れる。その後も練習風景を中心として講演に向けた準備を着々と進めていく光景を追っていく。
 世界的に有名なABTの内部に始めてカメラが入った。練習風景から、舞台裏、公演に至るまで克明に記録したのがこの映画。ワイズマンらしい鋭さよりも映像の美しさが際立つ作品。

 ワイズマンについて語るとき、どうしてもその映画が提起する問題について語ってしまいがちである。それはもちろんワイズマンがそうさせているからであって、ワイズマンの映画とはおそらく本質的に観客を問題に意識的にさせるための道具であるのだろう。
 しかし、ワイズマンがそのように映画をテキストとして読むことを要請してるとは言っても、単なるテキストであるわけではない。それがテキストとして読まれることを可能にしているのは、映像と音声であり、その(視覚的と聴覚的な)造形の見事さが映画の根幹を支えていることはいうまでもない。
 この映画を見てまず意識に上るのは、その映像の美しさだ。もちろんそれはABTのダンサーたちの体や動きの美しさに負うところが大きいが、ワイズマンはそれを見事にフィルムに焼き付ける。この映画を見ると、ワイズマンの映画もまたテキストである以前に映像であるのだということに気付かされる。

 この映画はそんなワイズマンの美的/芸術的要素が前面に出ている映画だ。ABTという一つの集合体を被写体とするという意味ではこれまでのスタンスと変わりはない。しかし、その被写体は今までになくいわゆる政治/社会的な文脈よりも文化的な文脈におかれるのにふさわしい被写体である。
 テーマというかテキストを抽出するならば、人々あるいは社会と芸術との関係性ということがいえ、それは続く『コメディ・フランセーズ』にもつながっていく問題意識である。
 特権的空間を日常的空間として描く点も『コメディ・フランセーズ』と共通する。ワイズマンはこのふたつの映画によって特権化されがちな芸術(高等芸術)を日常的なものに意味づけなおすということをやっているのではないか。ギリシャの青空の下で行われるリハーサルの風景、それはえもいわれぬ美しさを持っているけれど、それは手の届かないところにあるのではなく、それを眺める少女の身近にあるものである。そのようなメッセージが画面から伝わってくる。そもそもバレエを映像に捉えること自体、日常的空間への転移の一種であるだろう。
 そのようにして特権を剥ぐことによって、ワイズマンは芸術を身近なものに感じさせることに成功している。そしてそれは価値を貶めるのではなく、むしろ高める。ワイズマンのフィルムに刻まれた練習風景を見ていると、本番が見たくなる。しかも本物の舞台を見たくなる。
 ワイズマンの目的は人々を舞台に連れて行くことではないだろうけれど、少なくとも芸術と日常を密接に結びつけること。これがワイズマンが意図したことの一つであることは間違いない。

アメリカン・ビューティー

American Beauty
1999年,アメリカ,117分
監督:サム・メンデス
脚本:アラン・ボール
撮影:コンラッド・L・ホール
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ケヴィン・スペイシー、アネット・ベニング、ゾーラ・バーチ、ミーナ・スヴァーリ、ウェス・ベントリー

 アメリカの田舎町、広告会社に勤める父と不動産業を営む母、ティーンエージャーの娘。典型的なアメリカの過程の風景だが、物語は父の自らの死の予告、娘の父を軽蔑する言葉、から始まる。
 家庭の崩壊、ドラッグ、ティーンエージャー、アメリカ的なものを並べ、アメリカのイメージを描く。「この国は地獄に落ちる」という言葉が頭に残る。どう見るかによって評価は分かれる。つまらないということはないし、見る価値もあると思うけれど、手放しで誉めるのはどうだろう?

 ストーリーを追っていくと、こんなにつまらない作品はないですね。全体が謎解きじみた構成になっているわりに、それが推理ゲームになるわけではない。最初に死を予告しておき、何度も死に言及する割に、それがテーマになってはいない。それはこの映画の構造が、死を予告しておいて、その死によって幕を閉じるということで一見まとまっているように見えるけれど、実際のところ何も解決してはいないということが原因なのかもしれない。このケヴィン・スペイシーの死をめぐる物語が映画の主プロットなのだとしたら、こんなつまらない映画はない。
 しかし、実際のところこの映画には主プロットはなく、さまざまな小さなプロットが積み重ねられてできているわけで、その小さなプロットのひとつが最初と最後に突出して、ひとつの物語りじみたまとまりをつけているというだけのもの。しかもその主人公であり、語り部であるケヴィン・スペイシーの心理激であるような印象を全体に残すので、ひとつのまとまりある物語を見たという印象を受けてしまう。
 このプロットの展開にだまされてしまうと、なんとなく「いい映画だった」と思ってしまう恐れがある。それはなんとなく奥深いような意味深いような複雑なような印象。

 この見せ掛け上の話のまとまりの裏に隠されているのは、アメリカのさまざまな姿で、しかもそれはアメリカの暗い部分というか、問題をはらんだ部分であるということ。一人の中年男の倒錯の物語という覆いにさまざまな問題が隠されている。
 この映画の構成はふたつの解釈ができる。一つはいろいろな話をぶち込んで、誰もが引っかかる部分を設け、映画にヴァラエティを持たせて、映画に厚みを持たせる。もう一つは、見せ掛け上の主プロットによって、さまざまな問題を覆い隠し、むしろ問題のほうをうったえかけようとする。
 さまざまなほうっておかれる問題、ゲイ差別、ドラッグ、家庭の崩壊、などなどが解決しないのは、現実の反映で、現実でも決して解決されえない問題であると明かしているように見える。そして暗黙のうちに提示される「アメリカ=白人」という構図。
 わたしの印象としては、この映画はそれらの問題を問題化していないように見える。そういう問題はあるけれど、それはそれとしてアメリカはアメリカ、人間は人間、みたいな。ちょっとうまくかけないんですが、これらの問題は問題として提示されているのではなく、「こういうことがある」という事実としてある。それを解決しようとかそういうことではなくて、そのような事実が存在するアメリカでどのように生きるのか、そのサンプルのようなものを何人か提示したという形。その生き方のヴァラエティのどれかに見ている人たち(主にアメリカの白人)がはまれば映画と観客の関係はうまくいくという感じ。
 そのように感じる一番大きな要素は、音楽の使い方で、誰がどんな音楽を聴くのか、という要素がこの映画で非常に大きな意味を持つ。音楽はいいんですが、それがいいとか悪いとかいうことではなくて、音楽がうまく利用されているということが大きい。そのうまく利用されているということは音楽にとどまらず、すべてのトピックが映画のために利用されていて、全体としては「ゼロ」になるようなそんなつくり。簡単に言ってしまえば、いろいろ意味深いことを言っているようで、結局のところ何も言っていない。そんな映画。
 それでいいといえばいいんだけれど、「いい映画」とはいえない。

チャーリーズ・エンジェル

Charlie’s Angels
2000年,アメリカ,98分
監督:マックG
脚本:ジョン・オーガスト、ライアン・ロウ
撮影:ラッセル・カーペンター
音楽:エド・シェアマー
出演:キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、ルーシー・リュー、ビル・マーレイ

 とある飛行機のファーストクラス。アフリカ系の大男が挙動不審の男の隣に座る。合言葉というと、その男は胸に抱えた爆弾を見せた。アフリカ系の大男は爆発直前に爆弾を持った男を抱え、飛行機の扉を開けて外に飛び出した。空中で爆弾は爆発した。
 謎の男チャーリーに雇われ難事件を解決するナタリー、ディラン、アレックスの美女3人組。その名はチャーリーズ・エンジェル。
 70年代に人気を博したTVシリーズのリメイク版。ドリュー・バリモアが製作権を買い、自らキャストを集めたという入魂の作品。

 この映画をどう見るかといえば、笑うしかない。アクション映画だと思って真面目に見てしまうと、確実にどうしようもない映画になってしまう。いかに早くそのことに気付くのかが勝負。
 といっても、冒頭の飛行機のドアを開けて外に飛び出す時点でそのことにはすっかり気付くわけで、そこから先は全く持って破天荒な滅茶苦茶な、アクションによる笑いを楽しめばいい。それはもちろん、わかりやすいワイヤー・アクションでみんなが空を飛び(今のアメリカ人は空くらい飛べたないと映画には出れないらしい)、爆風に跳ね飛ばされ、ドアや壁にぶち当たる。それでも怪我ひとつしない。
 この映画でむしろ邪魔なのは、逆として存在するギャグの部分。パーティーでの相撲レスラーとか(後ろにいたのがどう見てもトンガ人なのは面白かったけど)ビル・マーレイのコメディアンらしい動きとか。そんなことをしなくてもこの映画は笑える。
 とはいえ、この映画は基本的にはアクション映画のようで、作る側もそのように作っているらしい。いわゆる「マトリックス後」のハリウッド・アクションの典型的な例で、ワイヤーアクションと映像加工を駆使して、ありえないことをさまざまやってしまう。一番面白かったのは、レーシングカー同士が橋の上でチキンレースをするところ。ありえなさもここまで行き着くとものすごい。大爆笑してしまいました。「マトリックス後」のアクションの過剰さ。その過剰さを笑いに持っていくのも一つの方法。作る側は狙っていないかもしれないけれど、できた映画を見れば、見事に笑えるところに落としている。あるいはわたしのツボに落としている。
 おそらく、この映画を批判する人はたくさんいるでしょう。アクションがつたない。ストーリーが荒唐無稽。話の辻褄が合わない。リアリティがなさ過ぎる。いろんな映画の真似に過ぎない。何で肝心のときに銃をつかわねーんだ。アジトのわりに警備が薄すぎるぞ。
 まあ、どれも当たっているんですが、それでもあえて、この映画を笑うことのできる余裕のある大人、そして心の広い映画ファンでありたい。皆さんにもそうあって欲しい。そのような願いを込めております。だって、ドアは全部蹴って開けるんだよ。

ダブル・リアクション

Perfect Assassins
1998年,アメリカ,98分
監督:H・ゴードン・ブース
脚本:ジョン・ペニー
撮影:ブルース・ダグラス・ジョンソン
音楽:ジョフ・レヴィン
出演:アンドリュー・マッカーシー、ロバート・パトリック、ポーシャ・デ・ロッシ、ニック・マンクーゾ

 何かのレセプション会場が銃を持った男たちに襲撃される。何人もの要人や警察官が殺され、犯人のうち二人は自殺、一人は逃亡中に捕まった。しかし、その一人も銃口を自分の口に突っ込んで自殺しようとしていた。それを目の当たりにしたFBI捜査官のベン・キャロウェイはこの事件の裏には何かあると感じるが、上司に止められ、独自に捜査を始める…
 典型的なアメリカのB級アクション映画。派手な銃撃戦と、ちょっとしたロマンスと裏切りと。社会批判をスパイスに。そんな映画。

 主役の人は知りませんが、相棒のリオ役は『ターミネーター2』で液体金属の新型ターミネーターを演じた人でした。日本ではあまり目にしないけれど、こんなところに出ていたのね。そしてヒロインの女の人はたぶん『アリー・マイ・ラブ』に出ている人です。主役ではありませんが、それでも男勝りのアクションを展開。こういう華奢な女性が派手なアクションを繰り広げるというのが最近の流行のようです(この映画はちょっと前だけど)。『トゥーム・レイダー』とか、今度公開する『バイオ・ハザード』とか。最近多いですね。
 さて、この映画の結末に用意されているのは、一種の政府批判で、まあたいした批判ではありませんが、基本的に政府やメディアに対する不信感がそこにはある。簡単に言ってしまえば、事件をもみ消してしまうということだけれど、そういうテーマもアメリカにはかなり多い。そういうものを繰り返し見せられていると、やっぱり本当にそうなんだろうなー、という気がしてきて、実際本当にそうなんだろうけれど、何か居心地が悪い。
 そんなアメリカの姿を描きながらも、アメリカにはヒーローもいるというのがこの映画のテーマで、この映画に限らずB級映画にはそんなものが多い。世の中は腐っているけれど、身近にはまだヒーローがいる。そんな希望というか誇りというかそのようなものが良く描かれる。しかし、いわゆる大作ハリウッド映画では(特に最近)世の中が腐っているという描かれ方すらしなくなっている。『ダーティー・ハリー』とか『リーサル・ウェポン』では、組織の爪弾きものが実はヒーローという話だが、そうも最近はヒーローが組織の中でもヒーロー見たいな印象。あくまで印象ですが。
 何を見ても、そんな由々しき状況が見えてしまう。B級映画のほうにアメリカの精神は生きているとわたしは思います。たいして面白くはないけれど、『トータル・フィアーズ』(見てないけど)なんか見るよりは、この映画見てた方がいいと思う。

ワイルド・アット・ハート

Wild at Heart
1990年,アメリカ,124分
監督:デヴィッド・リンチ
原作:バリー・ギフォード
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:フレデリック・エルムズ
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン、ウィレム・デフォー、イザベラ・ロッセリーニ、ハリー・ディーン・スタントン

  あるパーティー会場で、ナイフで脅されたセイラーは素手でその相手を殺してしまう。故殺とされてセイラーは矯正院に入れられる。約1年後、矯正院を出たセルラーを恋人のルーラが迎える。二人は車で旅に出るが、ルーラの母親がそれを阻止しようと追っ手を送り込んだ…
 デヴィッド・リンチの名を不動のものとした、これぞまさに「リンチ・ワールド」という作品。執拗に繰り返されるマッチのクローズアップなど、映画に奇妙なバランスを持ち込んだ。登場人物たちもどこか普通ではない。理解しようとしてはいけない。感じようとすれば最後に何かが見えてくる。

 一つ一つのシーンの意味なんかを考え出すと、わけがわからなくなりますが、全体的な印象として、この映画は子供の映画だということ。登場人物たちはすべて子供で、それは自分の欲求をストレートに追求しているということ。そして、世界のとらえ方も現実を理性的に捕らえるのではなく、感性で自分の感じる世界をそのまま受け入れるというとらえ方。そのように考えると映画を一つの構造体としてみることが(私には)できる。
 口紅で顔を真っ赤に塗りたくる母親も、最初は狂気のように見えるけれど、子供らしいいたずらというか、幼児的な行動。これに限らず母親の行動はまさに子供じみた行動で、わがまま放題、周りを振り回して自分の欲求を果たそうとする。 これはこじつけかもしれないけれど、この映画には子供は一人も出てこないけれど、逆に老人ばかりが働くホテルが出てきたりする。「何年と何ヶ月と何日」という妙に正確なキャプションも、妙に正確性を求める子供的発想と考えられなくもない。
 なので、最後のあまりにくさいというか、そんなんでいいのか、と思ってしまいそうなラストにも納得。セックスとバイオレンスを描いた映画ならあんな終わり方はしないはずだが、これは子供映画なので、絵に描いたようなハッピーエンドが必要だったのだ。

 という風に私は考えたわけですが、これもあくまでこういうとらえ方もあるということです。おそらく、セックスとバイオレンスをパロディ化した一種のコメディ映画だという見方もできるだろうし、生と死と狂気を見つめた精神的な映画と見ることもできるだろう。どの見方も、この映画の一面をとらえている一方で、一面を見逃している。私は自分のとらえ方に固執しながら、それによってすべての理不尽が許されてしまい、その結果この映画が持つ細部へのこだわりがあまり意味を持たなくなってしまうということを感じている。序盤の徹底的に原色にこだわった画面作りなどを解釈することはできない。
 ということは、そのような自分なりの解釈を抱えて、もう一度この映画を見ることができるということでもある。あらゆる解釈を可能にすることで、繰り返し見せるような映画。それがデヴィッド・リンチの映画であると思う。

DV-ドメスティック・バイオレンス

Domestic Violence
2001年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 映画はドメスティック・バイオレンスの現場に駆けつけた警察官らの映像から始まる。喉から血を流しながらパニックになり、叫ぶ女性。そんな映像をプロローグとして、映画はDV被害者保護施設である「スプリング」の内部に入ってくる。「スプリング」にはDV被害にあった人々からの電話を受け、彼らを受け入れる。
 これまでどおり、一つの施設を取り上げ、そこの内部に深く入っていく。DVがアメリカで非常に大きな問題となっていることは知られているので、問題意識を持ちやすく、映画に入っていきやすい。

1回目
 ドメスティック・バイオレンスという話題自体は耳新しいものではない。しかしその実態となると、あまり耳には入ってこない。日本で話題になるのは、親による子供の虐待死が多い。しかし、アメリカでは夫や恋人による女性への肉体的虐待が多い。という程度の知識。だからこの映画はまず、興味はあるけれど、内容はよくわからないものへの知的好奇心を刺激する。DVとはいったいどのようなものなのか。この映画がそれを明らかにすることは確かだ。
 そういった面で一番印象に残ったのは、一人の女性が、カウンセラーの質問項目に答えていく場面。彼女は「突かれたか?」とか「殴られたか?」とか「他人の前で侮辱されたか?」といった質問のすべてに当てはまっていく。その質問に答えることによって彼女は、あんなこともDVにあたるのだと気づき、自分がいかに虐待にさらされてきたのかということを知る。この映画の中で「洗脳」ということが何度か出てくるけれど、その「洗脳」に自分がさらされていたのだということに気づく瞬間の表情をワイズマンは見事にとらえる。
 この「スプリング」では(それはおそらくアメリカのDV対策においてはということだろうが)この「洗脳」ということを非常に重く見ている。主に男性が女性を自分の支配下に置くために洗脳する。虐待に当たることを当たり前のことと受け取らせてしまう。だから50年もの間、虐待を受けながらそれに耐えることになる。そしてそれが虐待だとはわからなかったということになる。
 だから、ここではグループカウンセリングにより、それに気づかせ、そうならないようにするためにはどうするべきかということを話し合わせる。いろいろな人の体験を聞くことによって今後の対策を考えることができる。

 というのが、この映画で描かれたDV対策だ。もちろんそれは必要だ。「自分の心は自分のものだ」ということは当たり前のことであり、重要なことだ。特に「スプリング」にきている彼女たちは心を他人に譲り渡してしまいやすに人たちで、だからそれを強く言い聞かせることは必要だ。しかし、好きな人がいて、その人に心を明け渡したいという欲求が生まれることも確かだ。好きなのに、心の一端も譲り渡すことができないというのはあまりに寂しい。
 問題はおそらく、その相互依存が力の関係に変わってしまうということだろう。力関係が均等でなくなると、それは相互依存でありながら、力の弱いものにとっては一方的な依存であるように見えてしまう。そのようにならないための努力というのがこの映画に描かれていることだ。
 しかし、その先にある問題は、それが結果的に支配の奪い合いになってはしまわないかということだ。望ましいのは、奪い合う関係ではなく、与え合う関係であるはずなのに、それを教えることすら叶わないこの状況はあまりに悲しいと同時に、考えなくてはならない状況である。
 この映画は非常に引き込まれるが、決して後味はよくない。ワイズマンが自分の価値判断を示さないのはいつものことだが、この映画の最後に、ドメスティック・バイオレンスに及ばない現場が、虐待をしそうな本人が警察に通報した場面を挿入したことは、ワイズマン自身この問題があまりに複雑で、解決しがたいことであると認識していることを示しているように見えた。

2回目
 まず、われわれは警察が駆けつけたDVの現場を見せられる。驚くほどの血を流し、うろたえる女性、DVというと殴ったとか蹴ったという程度を思い浮かべがちだが、実際には刃物や銃を使ったものもある(これが非常に多いことは後々わかってくる)ということを認識させられ、その深刻さに気づかされてから、われわれはその被害者の駆け込み寺とでもいうべき施設“スプリング”の中に誘われる。
 そのスプリングにやってくる女性たちは予想通り、傷つき、打ちひしがれている。重要なのはそれが単なる暴力なのではなく、長年にわかる抑圧であるということだ。問題なのは物理的な傷が治癒することではなく、ずたずたに切り裂かれた精神を癒すことこそが必要なのだということがわかる。
 彼女たちは精神を押さえつけられ、閉じ込められ、逃げ出すことが出来なかった。物理的には可能であっても「逃げたら殺される」と思い込まされ、閉じ込められてきたのだ。そんな彼女たちが着の身着のまま逃げ込んだスプリングでの最初の面談が、まず映されるが、そのカウンセリングから徐々にその抑圧が解けていく過程を見ることが出来る。

 そして、彼女たちの問題は「知らない」ということだ。暴力を伴わない関係を「知らない」、逃げる方法を「知らない」。そこで、ここに登場するDV被害者の多くが母親もDVの被害にあっていたと語ることが重要になる。そして、DVの被害を受けた人の多くが大人になって加害者に回るというのも問題になる。
 それは、DVが存在する環境で育つことで、それが存在しない環境を知ることがないということが原因なのではないか。暴力の介在しない人間関係があることを知らない。DVはそこからひたすら再生産されるのである。そのようなことが明らかになるのは、被害者たちが教室のようなところで体験を語る場面である。ここではしゃべる人は限られているのだが、しゃべり始めると関を切ったように喋り捲るのだ。それはまさに抑圧が取り払われたことを象徴的に示している。抑圧され、閉じ込められていたものを一気に解き放つ感じ、それがその爆発的なしゃべり方に現れている。

 「知らない」のはスプリングにやってくる被害者ばかりではない。映画の中盤で老婦人の集団がスプリングを見学にやってくるのだが、彼女たちはアメリカの女性の約3分の1が虐待を受けた経験があるということを聞いて驚く。そしてその割合は昔と比べて増えているわけではないという説明を聞く。それはつまり、彼女たちの3分の1もかつて虐待を受けていたか、今も受けているということを意味するのだ。彼女たちは自分たちには関係ないかわいそうな人たちの世界としてスプリングを見ていたわけだが、実は彼女たちも無関係ではないということを知る。
 そして私たちも自分も無関係ではないということを知る。日本でどれくらいの割合の人が虐待を受けた経験がるのかはわからないが、決して少なくはないだろうと思う。実は自分は虐待を受けて知るのかもしれない、あるいは虐待しているのかもしれない。そのような疑問がこの映画を見ている中で必ず沸く。

 そしてそのことに気づかないというありそうにないことが起こるのは、DVというものが「洗脳」のメカニズムを備えているからだということが映画の後半に説明される。被害者は加害者に「洗脳」され、虐待されること/虐待することを普通のことだと思うようになってしまうということだ。「そんなバカな」と思うけれど、スプリングにやってくる彼女たちは見事にその「洗脳」の餌食になってしまっているのだ。
 そして、この「洗脳」は被害者だけでなく加害者をも犯している。加害者もまた虐待を当たり前のものとして「洗脳」されているのだ。彼らには虐待をしているという意識がない。あるいは意識があったとしても自分で止めることが出来ない。
 そのように加害者もまた「知らない」ことが映画の最後に挿入されるエピソードで明らかになる。この最後のエピソードは警察が呼ばれていくと、そこでは男性と女性が口論していて、それは虐待をした経験のある男性が、「このままだと大変なことになる」と思って警察を呼んだのだという。つまり彼は自分で止める自身がないから警察を呼んだということなのだ。彼は自分が虐待に及ぶ可能性を知ってはいるが、それを止めることが出来ないのだ。

 このように、この映画で示されているのは、ことごとく「知らない」ということである。被害者も加害者もそしてわれわれもDVのことを本当には「知らない」のである。そしてさらに、この映画を見たからと言って、それでDVのことを知ったことになるわけではないということもわかる。われわれはただ「知らない」ということを知っただけなのだ。あとは、自分が何を「知らない」のかを自分自身で考えることだ。もしかしたらあなたもDVの被害者/加害者かもしれないのだから。

メイン州ベルファスト

Belfast, Maine
1999年,アメリカ,247分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 朝焼けの中、ロブスターの漁をする舟。かごを海底から引き上げ、そこからロブスターを取り出す。そんな漁業が行われているベルファスト。続いてクリーニング屋が映り、さらに町のさまざまな場所が映し出される。
 ワイズマンの30本目のドキュメンタリーに当たるこの作品はひとつの施設や組織ではなく、町全体を被写体とした。そのことによって、さまざまな要素がカメラに切り取られることになる。それはこれまでにワイズマンが映してきたさまざまなものを包括するものであるという一面も持つ。

 これはワイズマン流のひとつのアメリカ史なのだと思う。ニューイングランドにあるこの町は南北戦争以前からあり、教会がいくつもあり、白人しかおらず、老人が多い。こんな小さな町であるにもかかわらず、あらゆるものがある。何もないという言い方もできるが、逆に何でもあるという言い方もできる。商業、漁業、農業、工業といった産業もあるし、商店や映画館、裁判所、図書館、病院など、アメリカの社会に必要なあらゆるものがこの小さな町(小さな町であることは画面から十分に伝わってくるが、資料によれば人口6000人の町らしい)にある。 具体的な歴史も出てくる。南北戦争を研究する男、アーサー・ミラーやハーマン・メルヴィルについて教える授業。それはアメリカ史そのものである。
 これを見てワイズマンがどのような歴史観をもっているかということを推測するのはなかなか難しいが、少なくともワイズマンはあくまでもアメリカにこだわっている。そして、おそらくアメリカを活気に満ち溢れた国というよりは、年老いた国と見ている。それは他の国との比較という意味ではなくて、歴史を振り返ってみてアメリカも年老いたということを言っているのだと思う。老人人口は増え、医療に膨大な金が掛かる。南北戦争のころのような新しいものを生み出す活力はすでになく、工場のように同じものを作り続けているだけ。この映画を見ているとそのようなイメージが浮かんでくる。
 だからといって悲観しているわけではなく、悲観とか楽観という視点を超えて、あるいはそのような視点には踏み込まないで、そのようなアメリカを問題化する。歴史を取り出して、その問題を明確化する。ワイズマンがやっているのはそのようなことだ。

 とにかくこの映画にはこの町には老人ばかりがいる。一人のおばあさんがフラワーアレンジメントの教室と、南北戦争の講義とおそらく両方に出ていたので、必ずしも老人が大量に要るというわけではないだろうが、この町が高齢化していることは確かだ。そんな中で問題となってくるのは、医療や社会福祉という問題だ。それはワイズマンがこれまでに扱ってきた問題で、この映画はワイズマン映画の見本市のような様相を呈する。
 それらの問題は、つまりいまだアメリカにおいて問題であり続け、ワイズマンにとっても問題であり続けるようなことだ。
 わたしが面白いと思ったのは裁判所の場面。たくさんの被告人が呼ばれ、一人ずつ機械的に罪状認否をして言く。有罪だと主張すればその場で罰金刑が科され、無罪を主張すると、裁判になる。そのオートマティックな裁判所の風景は、缶詰工場の風景を思い出させる。これはもちろんアメリカの裁判の数の絶対的な多さからきていることだが、ここにもアメリカの病の一端があるような気がする。
 それも含めて、この町はアメリカが抱えているあらゆる問題を同様に抱えている。小さな田舎町。その風景はおそらく多くのアメリカ人にとっての原風景に通じるものがあるのだろう。そして、歴史という時間軸とさまざまな事象という事象平面によって提示されるこの町の全体像をアメリカの縮図とする。ワイズマンのカメラはそんな仕掛けを用意してこの町を映し出す。

コメディ・フランセーズ 演じられた愛

La Comedie-Francaise ou l’amour joue
1996年,アメリカ,223分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 フランスのパリにある国立劇場コメディ・フランセーズ。歴史と伝統を誇るこの劇場と劇団の活動を追う。劇団の運営会議からリハーサル、実際の舞台、引退する役者の引退パーティなどを映すが、一番中心になるのは、やはりリハーサルと本番の舞台。舞台がどのように作られるのかを中心に描く。
 ワイズマンとしては座長を中心として、劇団をどのように切り盛りしていくのかに興味があるようで、そのあたりの描写が面白い。

 まず、このワイズマンの映画にはプロの役者が出てくるという展で、他の映画とは明らかに違う。劇映画を一本撮ったことがあるけれど、それ以外ではプロの役者が出てくるのは初めてなのだ。そこで気付くのは、ドキュメンタリーといえども彼らがいかに演技しているかということだ。稽古や舞台での彼らの役者としての輝きはすごいが、舞台を離れたところでも彼らは演技する。それはわざとらしくというわけではないけれど、明らかに何かを演じている。そう感じるのは、他のほとんどの作品に登場する人たちとの違いだ。この映画に登場する役者たちは役者らしく振舞っているように見える。カメラに映ることを了解し、自分を演じる。そのような姿に見える。
 このことから逆に、他の映画に登場する普通の人々も自分を演じているのだということに気付く。ただその演じ方がプロの役者とは違ってぎこちない。自分を演じているつもりが、興奮して完全に素の自分が出てしまったり、映っていることにたえられなくなったりする。ワイズマンはそのようなものも含めて写し取っているのだから、それでいい。
 ワイズマンはカメラが存在するということで、撮影されているということを了承していることで、すでに人々は演技をしていると言った。なかなかこのことがわからなかったのだが、この映画を見ると、そのことがなんとなくわかるような気がした。舞台での演技は間違いなく演技だけれど、舞台を下りた部分で映っている時でも一種の演技をしている。それは作り物ということではなくて、「自分」というものを場所や相手に合わせて変化させるのと同じようにカメラの前での「自分」を演じているということだ。『モデル』の終盤でモデルたちが騒いでいるシーンを思い出したのは、そのシーンでは彼女たちが「モデル」を演じていたからだろう。

 もうひとつ、この映画で気になったのは、内と外ということ。ワイズマンは執拗に外の様子、パリの街の様子をインサートする。この建物の内部のシーンとシーンの間に外の風景を挟むというのは、ワイズマン作品のほとんどに共通して見られる方法だが、この映画では特にその対比が大きい。『臨死』のように仮想的な一日を作り出すというわけではなく、単純にコメディ・フランセーズ対その外部という構造を作り出すだけだ。
 そこには何かワイズマンなりの批評精神というか世界観があるような気がする。コメディ・フランセーズはそもそも非日常的な空間であるけれど、その空間が役者にとっては日常空間である。チケットを求める人々はそこに日常からの逃避かあるいは超越を求めてやってきている。しかし、役者やスタッフにとってはそこは仕事場であり、まごう事なき日常なのである。よく考えるとワイズマンはこれまでにも動物園や病院などそのような日常と非日常が交錯する空間を対象としてきている。
 そんな内部にとっては日常的である非日常的空間の集積こそが現実であるという全体像がそこから見えてくるような気がする。一人の視点からは画然としている日常と非日常という座標が、社会においては複雑に交錯しているということ。ひとつの空間を日常と捉えるか非日常と捉えるかということによるその捉え方の違い、そこから生じる齟齬(この映画ではその齟齬の部分はあまり描かれていないが、風景による対照である種の乖離を表している)、そのようなことに意識的であることは、現実に対する姿勢を大きく変化させると思う。

トップガン

Top Gun
1986年,アメリカ,110分
監督:トニー・スコット
脚本:ジム・キャッシュ、ジャック・エップス・Jr
撮影:ジェフリー・キンボール
音楽:ハロルド・フォルターメイヤー、ジョルジオ・モロダー
出演:トム・クルーズ、ケリー・マクギリス、ヴァル・キルマー、アンソニー・エドワーズ、メグ・ライアン、ティム・ロビンス

 海軍で戦闘機のパイロットをするマーベリックは国籍不明機を追う。接近するとそれはソ連の戦闘機ミグ28だった。1台にミサイルロックをかけて追い払う。もう一台は、背面飛行でコックピットに近づいた。マーベリックはその事件で自信をなくしたエースパイロットに代わり、相棒のグースとともに、海軍最高のパイロットが集まる「トップガン」に派遣された。
 いわずと知れたトム・クルーズの出世作。他にも、ヴァル・キルマー、メグ・ライアン、ティム・ロビンスといった今はスターとなっている役者たちが出演。監督はリドリー・スコットの弟トニー・スコット。

 久しぶりに見てみると、何の映画なんだこれは? という気になってくる。パイロットだからもちろん軍隊ものなんだけれど、そこにハリウッド映画らしくラブロマンスが加わり、友情も映画のメインプロットになっていく。ということで、商店がどこにあるのか全くもってわからない。どのプロットも中途半端というか、納得する形では結末を迎えない。今から言えばなんとなく80年代の雰囲気とはそういうもので、時代にあっているということはできるかもしれないが、それにしても、何の映画なのか? 冷戦時代にこんなぼけた映画とってていいのか?
 冷戦といえば、実は結構ひどい映画で、最後のミッションに向かう理由が、自国の船が外国に入ってしまったというものなのに、そこで戦闘機で空中戦を繰り広げてしまう。そんなのアリ?
 などなどと、不思議な腑に落ちないことがいっぱいありますが、結局のところこの映画が「いい」のは、飛行機が滑空する空中のアクションシーンと音楽。結構長めに空中アクションが入ることで、それに目が行く。そのシーンはかなりかっこいいので、だまされてしまう。後は音楽。おなじみの音楽たちがいやがおうにも場面を盛り上げるので、プロットとしては対して盛り上がっていないんだけど、盛り上がった気分になってしまう。大画面大音響で、このシーンを見せ、この音楽を聞かせる。それでなんだか「いいな」と思ってしまう。そんなマジカルな映画なのでした。
 それにしても、メグ・ライアンは15年間全く変わっていないというのがすごい。キャラクターはちょっと違うけど、顔かたちはほとんど同じ。トムがずいぶんと違う顔になってしまったのとは対照的。後は、グースがERのグリーン先生だったということに気付きました。髪の毛が…。ティム・ロビンスもちょっとわかりにくいですね。