ポイズン・ボディ

Deadly Sins
1995年,アメリカ,95分
監督:マイケル・ロビソン
脚本:マルコム・バーバー、ジョン・ラングレー
撮影:バリー・グラヴェル
音楽:バロン・アブラモヴィッチ
出演:アリッサ・ミラノ、デヴィッド・キース、アン・ウォーレン・ペグ、テリー・デヴィッド・ミュリガン

 海に浮かぶ小さな島、そこにある修道院で自殺事件が起こった。折りしも、その島に新しい保安官ジャックがやってくる。その事件をきっかけに修道院を調べ出すジャックは修道院長の秘書だというシスターと一緒に調査をはじめるが、そこにまた事件が…
 アリッサ・ミラノが主演したサスペンス。無意味なラブ・シーンが多いので、エロティック・サスペンスだと思います。サスペンスとしては悪くはないけれどちょっと分かりやすいかも。

 昨日も、書きましたが、アメリカ映画のわかりやすさというのがここでも出てきます。基本的に「さあ、犯人を探してください!」というスタンスで作られているので、見ている側としては犯人を探してしまうわけですが、結構分かりやすい。みえみえというほどではないけれど、なんとなく直感で分かる感じ。
 たぶん、エッチシーンを一つの見ものにしている映画なので、この程度のものでいいのだろうというところです。しかし、エロティックものに限らず、アメリカの娯楽サスペンスの推理度はこの程度のものが多い。「これが鍵だよ」って物が分かりやすく強調されるところが特徴(これ以上いうと、ネタばれになってしまうのでやめます。見る人いないと思うけど…)だと思います。
 ここからはアリッサ・ミラノに関わる全くの余談ですが、この映画はアリッサ・ミラノ低迷期の映画。このちょっと前の作品「レディ・ヴァンパイア」というのでヌードにもなっているそうです(この映画でもちょっとなってたけど)。しかし、現在は「チャームド魔女」がヒットしてアメリカではシャナン・ドハティーと共に復活。昔はもちろんアイドルでした。「コマンドー」に出てました。

天国にいけないパパ

Short Time
1990年,アメリカ,97分
監督:グレッグ・チャンピオン
脚本:ジョン・ブルメンタール、マイケル・ベリー
撮影:ジョー・コナー
音楽:アイラ・ニューボン
出演:ダブニー・コールマン、マット・フューワー、テリー・ガーバ、リー・コーヴィン、ジョー・パントリアーノ

 シアトルの警察に勤める定年間近の老刑事、定年間際で死ぬことを恐れ、犯人追跡にもしり込みする。そんな彼が生命保険のために健康診断を受けに行く。そこにドラッグ検査に来ていた男が自分のドラッグしよう発覚を恐れ検査用の血液を交換。老刑事は余命2週間半と診断されてしまう…
 よくある、という言葉がぴったりくるハリウッド・ハートフル・コメディ。どこにでもあるような映画ですが、ハリウッドらしくてよし。

 いろいろと設定面で不可解なところ(再検査しないとか)はありますが、プロットの進行上仕方ないということでしょう。そしてすりかえた相手の運転手の方はあんな扱いでいいのか。という気もしますが、分かりやすさをよしとするハリウッドでは許されるのでしょう。
 そう、ハリウッド映画のわかりやすさというのは子供向けの絵本のようなもの。先の展開が読めるのが楽しい。先を予想しながら見て、それがすべてあたっていく快感。本当は2・3ヶ所裏切られるのが一番気持ちいのですが、この映画は全てが予想通りでした。
 まあ、つまりはハリウッド映画のわかりやすさの見本という感じです。見ている側の期待を裏切らない。こんな映画なら5本立てくらいで見てもちっとも疲れない。だからアメリカのファミリーはシネコンで一日を過ごしたりするわけですね。そんなアメリカンなサバーバン・ライフを想像しながら見ていました。(筋がわかっているから、いろいろなことを考える余裕がある。)
 夏の猛暑、家を出る気もせず、しかし心に余裕があるときにお勧め。ビールとポップコーンを片手にね。

コモド

Komodo
1999年,アメリカ,89分
監督:マイケル・ランティエリ
脚本:ハンス・バウアー、クレイグ・ミッチェル
撮影:デヴィッド・バー
音楽:ジョン・デブニー
出演:ジル・ヘネシー、ビリー・バーク、ケヴィン・ゼガーズ

 密売業者が捨てていった謎の卵。それから19年後、その島に毎年のように休暇にやってきた家族。息子のパトリックは島を探検に出て、恐ろしい怪物に遭遇した。パニックを起こして家に戻ったパトリックだったが、彼を探していた両親はその怪物に食べられてしまった…
 閉鎖空間である島で、コモドドラゴンを使ったパニック・ムーヴィー。パニック・ムーヴィーとしては並のでき。

 「ジョーズ」から連綿と受け継がれるパニック・ムーヴィーの伝統ですが、それにちょっとアクセントを加えた「ジュラシック・パーク」のままパクリという感じのこの映画ですが、おそらく低予算のせいでSFXもいまひとつ精彩がなく、登場人物のキャラクターも薄く、モンスターもいまいち弱いのです。しかし、まあパニックムーヴィーですから、「どっから現れるんだ?」というドキドキ感はしっかりと作りこんであるわけ。
 結局のところ精神科医だったり生物学者だったりする登場人物たちの背景は物語には全く関わってこず、淡々と進んでしまうのでした。少年のトラウマから不可解な行動に出るあたりで、予想もしない展開に発展するか? と思わせたものの、特に目覚しい展開はなく、おしいところではありました。
 これを読んだ時点で見ようと思う人はあまりいないとは思いますが、面白くないわけではないのです。パニック・ムーヴィーとしておしなべて平均点ということですが、「ロスト・ソウルズ」と同様、逆に普通のパニック映画の裏をかいていると思われるむきもあります。普通のパニック映画では盛り上げるところを逆に平板に描いている。それを退屈なパニック映画ととるか、革新的なパニック映画ととるかはあなた次第。

アイアン・ジャイアント

The Iron Giant
1999年,アメリカ,86分
監督:ブラッド・バード
原作:テッド・ヒューズ
脚本:ティム・マッキャンリーズ
音楽:マイケル・ケイメン
出演:ジェニファー・アニストン、ハリー・コニック・Jr、ヴィン・ディーゼル

 1956年アメリカ、海に落ちた飛行物体、しけの海でひとりの漁師が巨大なロボットを目撃した。近所に住む少年ホーガースはその話を聞いた夜、妙な物音がして、テレビが映らなくなってしまったのをみて、何か巨大なものが通ったあとを追って森へ行った。彼はそこで巨大な鉄人に出会う。
 ワーナー作のアニメーション、ディズニーともドリームワークスともちょっと違う雰囲気があり、温かみが伝わってくる作品。

 なんとなく単純なアメリカンアニメーションとは違うものを感じる。ディズニーのうそっぽさや、ドリームワークスの技術への過度の傾倒とは無縁の温かみのあるアニメーションといっていいのか。なんとなく日本のアニメの要素も取り入れつつという感じ。一番それを感じたのは、ジャイアントが変身(?)をするあたりの描写なんかがそう。細部の描写の緻密さがとてもいい。
 あとは、映像の作り方がすごく映画っぽい。特に目に付くのはパン移動。アニメーションなので、画面のサイズを変えるのは簡単なはずなのに、忠実にカメラを横や縦に振った感じの映像を作り出しているところに映画人としてのこだわりのようなものを感じた。
 ただ、惜しむらくは結局のところプロットの細部は子供だましで終わってしまっているところ。「そんなはずはない」と思ってしまうプロットや描写の細部が気になってしまう。たとえばあれだけどしどしと音を立てて歩いていたら、いくら実際に見なくてもいることには大概気づくはずだとか、いろいろ。最後クライマックスのあたりで特にその荒さが目に付いてしまったのが残念(ネタがばれるので詳細は自粛)。やはり、アメリカのアニメはいまだ子供向けなのか、という感想になってしまいます。
 もっとしっかり大人でも見れるアニメーションが作られない限り、アニメ市場の日本の天下は揺るがないでしょう。「メトロポリス」でも見に行こう。

ツイン・フォールズ・アイダホ

Twin Falls Idaho
1999年,アメリカ,110分
監督:マイケル・ポーリッシュ
脚本:マイク・ポーリッシュ、マイケル・ポーリッシュ
撮影:M・デヴィッド・ミューレン
音楽:スチュアート・マシューマン
出演:マイク・ポーリッシュ、マイケル・ポーリッシュ、ミシェール・ヒックス

 お金がないことに腹を立てながらアイダホ通りの安ホテルの部屋へと向かった娼婦のベニー。部屋でであったのはシャム双生児の兄弟だった。一度は逃げ出したベニーだったがかばんを忘れ、部屋にとりに戻り、そのまま寝入ってしまう…
 孤独なシャム双生児と娼婦の間で展開される淡いラブストーリー。双子の2人が脚本・監督・主演を果たした異色作。

 物語り方は非常にうまい。ゆったりとしているようで実はすばやいテンポで物語が展開してゆく。ゆったりしていると感じさせるのはおそらく双子の動きと、くすんだ色調。テンポを作り出すのは多くを語らず、不要な部分を切り捨てていく周到なカッティング。おそらくシャム双生児を扱うという珍しさに目が行ってしまいがちだけれど、それがむしろあだになったかもしれないと思わせるくらい見事な物語り方だった。
 例えば、2人がギターを弾くシーンで、二人がベットの方に歩き、視線を横にやるカットのあと、ギターのカットが1・2秒あって、すぐに2人はベットでギターを爪弾いている。このギターが映る一瞬でわれわれは2人の荷物がギターケースに入っていたことを思い出し、次のカットにすっと入れる。ここに2人の囁きあいやフラッシュバックが入ってしまうと、効果的なようで物語を遅延させるだけの無駄なカットになってしまうように思う。
 こういった無駄なカットを省いていくことで、非常にスリムないい作品に仕上がっていると思う。ただ最終的には詰めが甘い。終盤はほぼ予想がついている展開にもかかわらず語りすぎてしまったと思う。せっかくそこまでいいペースで来たのにもったいないような気がした。
 しかし、まあ全体としてはとてもいい雰囲気の映画ですね。語りすぎないことというのは映画にとって非常に重要なことだと思います。

ザ・ハリケーン

The Hurricane
1999年,アメリカ,145分
監督:ノーマン・ジュイソン
脚本:アーミアン・バーンスタイン、ダン・ゴードン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:クリストファー・ヤング
出演:デンゼル・ワシントン、ダン・ヘダヤ、ヴィセラス・レオン・シャノン、クランシー・ブラウン

 1960年代、ミドル級の世界チャンピオンになったルービン・ハリケーン・カーター。殺人罪で終身刑を宣告され、獄中で回想記を書く彼は冤罪を訴えていた。しかし、再審請求も却下され社会から忘れ去られた彼の本を古本位置で偶然手に入れた少年レズラはその本に強く心打たれ、ハリケーンに手紙を書く。
 人種偏見に基づく実際の冤罪事件を元にした映画。モハメド・アリやボブ・ディランも当時の映像で登場する。

 ありがちな題材といっては失礼かもしれないが、人種偏見による冤罪という、60年代アメリカらしい題材。しかし、黒人と白人の対決という面を一方的に押し出すことはせずに、静かに描く。淡々と、しかし虐げられた黒人たちの怒りと憎しみははっきりと表す。このあたりはなかなかうまい。
 しかし、逆にそのせいで映画全体が平板なものになってしまっているのかもしれない。いまひとつ山場がないので、エンターテイメント性にはかけるというところ。そしてメッセージもいまひとつ強調されない。
 私は扇動的な映画よりはこういった淡々とした映画のほうが的確にメッセージが伝わっていいと思いますが、その割にこの映画はメッセージが弱いのかもしれません。差別に反対していることは分かるけれど、結局のところ、いまのアメリカは差別もなくなっていい国になったよみたいな結論で終わってしまっている。それが事実であるかどうかは別にしても、そのあたりのメッセージ性の弱さがこの映画を平凡なものにしてしまっている要因なのかもしれません。
 でも、2時間半も長さがあるわりには飽きさせず、すっと映画に入り込めるなかなかの作品。やはりデンゼル・ワシントンに尽きるのか。人相まで変わってしまうくらい役作りに徹底しているところがすごい。せっかくだからもっとハリケーンの内面を掘り下げてほしかったところです。
 要するに、いいところはたくさんあるけれど、どれをとってもあと一歩の踏み込みが足りないというところでしょうか? 踏み込んで描くにはちょっと近過去過ぎたのかもしれません。

2001年宇宙の旅

2001 : A Space Odyssey
1968年,アメリカ=イギリス,139分
監督:スタンリー=キューブリック
原作:アーサー・C・クラーク
脚本:スタンリー=キューブリック、アーサー・C・クラーク
撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット
出演:ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルヴェスター

 人類の夜明け、そこには黒く巨大な直方体があった。それに触った猿達は道具を使うことを覚え、他の猿の群れに優位に立てるようになった。それから数百万年後、月へと向かう宇宙船に乗り込んだフロイド博士は極秘の任務を帯びていた。それからさらに数年後、最新鋭の人工知能HAL9000を搭載したディスカバリー号が初の有人木星航海に向かう。
 壮大に映像でひとつの宇宙像を描き出した言わずと知れたキューブリックの代表作。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌だと私は思う。

 この映画を見るといつも寝てしまう。劇場で見れば大丈夫かと思ったけれど、劇場で見てもやはり寝てしまった。何も考えず、物語を追い、映像に浸り、ただスクリーンを目で追っていると、どうしようもない眠気が襲う。その心地よさは何なのか。私はこれは一種の子守歌だと思う。宇宙を舞台とした壮大な子守歌。原作を読むと、かなりプロットも複雑で、物語の背景が説明されていて、SF物語として読むことができるけれど、この映画は原作とは別物であるだろう。
 もちろんこの映画にはいろいろな解釈ができ、じっくり考えて自分なりの解釈を導き出すという営為はキューブリックが狙ったことに一つなのだろうけれど、そのために原作なんかの周辺知識を利用することは私はしたくはないので、ただただ「これは子守歌だ」とつぶやくだけで満足する。

2007年のレビュー
  この映画は私にとって映画探求の端緒となった作品のひとつであった。それは何年か前、私がこの作品を劇場とビデオで立て続けに2度見たとき、同じところで眠ってしまったことから起きる。この作品の最終版、サイケな映像でトリップをするあたりからラストのスペースチャイルドが登場する辺りまでうつらうつらと眠ってしまうということが2度続いたのだ。
  そんなことから考えたのは、眠ることもまた映画を見るあり方の一つだということである。眠っていたら映画を見てはいないのだけれど、しかし途中眠っていたとしても映画は見たことになる。その眠ってしまった時間もあわせて映画の体験なのだ。そんなことを考えながら私はこの作品を「宇宙を舞台とした壮大な子守歌」と名づけた。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌、それは映画を見ながら眠ってしまった自分自身への言い訳であると同時に、このように心地よく眠れてしまう映画への自分なりの解釈でもあった。
  そこから私は映画を見るということへの魅力にひきつけられて行ったのだ。

 まあ、それはいい。今回改めて見直してみて、最後まで眠ることなく見て思ったのは、この作品が本当に面白い作品だということだ。序盤の類人猿が登場するシーンの、その類人猿のぬいぐるみ然とした演技には40年という隔世の感を感じざるを得ないし、宇宙船などに使われている技術にもSF的想像力の豊穣さを感じると同時に、限界をも感じるわけだが、作品全体としては本当に40年前の作品とは思えない完成度と面白さを保っている。
  まず思うのは、イメージとサウンドによる絶対的な表現力である。この作品は2時間半という時間の作品にしては極端にセリフが少ない映画である。その代わりに映像によるイメージとサウンドによって観客の想像力を刺激し、様々なイメージや想念を喚起する。とくにサウンドは「美しき青きドナウ」のような音楽に加えて、ノイズの使い方が非常にうまい。船外作業をするときのノイズと呼吸音、ただそれだけで彼らの緊迫感が手に撮るように伝わり、「何かが起こるのではないか」という緊張をわれわれに強いる。そして、そのような明確な効果がない部分でも、この作品にはノイズが溢れ、それが静に私たちに働きかけ続けるのだ。
  そして、イメージも実に豊富だ。モノリスという空白をも意味するのではないかと考えうる漆黒の平面と対照的な形で様々なイメージがわれわれに提示される。もちろん円を回転させて擬似重力を作るという方法を映像化したのも見事だが、それ以上にハルのカメラに点る赤いランプや宇宙飛行士のヘルメットに映る明かりによって観客のイメージを喚起するそのやり方が実に見事だ。特殊な技術を使わずとも、そして言葉を使わずとも、観客の側で何かを考えてしまう。実に綿密に計算された映像であると思う。

 この作品が“名作”とされながらどこかで無条件に絶賛されるわけではないのは、理解しがたい部分があるからだ。見終わって誰しもが感じるであろう「だから何なの?」という感覚、この消化不良な感じが引っかかりとして残るのだ。そして、そこから何かを導き出すことができなければ、結局この作品はなんでもなくなってしまう。ただ退屈なだけの映像詩となってしまうのだ。
  そしてそれはこの作品が持つ必然的な欠点である。この作品は基本的に哲学として作られている。それはこの作品のテーマ曲のひとつが「ツァラトゥストラはかく語りき」というリヒャルト・シュトラウスの交響詩であることからも明確に示唆されている。
  哲学とは問であり、それに対峙する人はそれに対する答えを求めるのではなく、答えを探すのだ。哲学に答えはない。哲学にとって重要なのはその答えを探す過程であるのだ。だからこの作品を見ることも、作品が何を言っているかが重要なのではなく、作品が何を言っているのかを考えることが重要なのだ。
  しかし、それは無駄かもしれない。それは結局何の役にも立たないかもしれないのだ。私はそのような無駄も尊いものだと思うからこの作品は絶賛されるべきものだと思うが、果たして本当にそうなのだろうかという疑問は当然だ。
  あるいは、何らかの答えを出して、その答えから演繹して作品に対して否定的な態度をとるというあり方もありえるだろう。そのあり方に対しては私は間違っていると言いたい。なぜならば、この作品自体は何も結論じみたことを行っていないからだ、見る人それぞれが導き出した結論は、作品よりもその見る人それぞれを反映している。人それぞれの世界と人類に対する見方を反映しているのだ。それをもって作品を批判するというのは、結局は思い込みによって世界を観ている自分自身の姿を露呈しているにすぎないのではないか。

 この作品が投げかける、世界とは何か、人類とは何かという問、類人猿と人類の境界はどこにあるのか、そして人間とコンピュータの境界はどこにあるのか。この広大な宇宙において独立独歩歩んできたと一般的には考えられている人類と宇宙との関係をどう捉えるか、それらの問に対する答えは用意されていないし、導き出すこともできない。類人猿は棒を持った瞬間にヒトとなったのか、ハルは機械に閉じ込められた人間ではないのか、デイブの新宇宙での経験は果たして何なのか、それらの問に答えようと真摯に考えること、それこそがこの作品の意味なのではないか。

あの頃ペニー・レインと

Almost Famous
2000年,アメリカ,123分
監督:キャメロン・クロウ
脚本:キャメロン・クロウ
撮影:ジョン・トール
音楽:ナンシー・ウィルソン
出演:ビリー・クラダップ、フランシス・マクドーマンド、ケイト・ハドソン、パトリック・フュジット、アンナ・パキン

 サン・ディエゴに住む少年ウィリアムは大学教授の母親のもの、非常に厳しく育てられた。そんな厳しい家庭環境でウィリアムの姉はハイ・スクールの卒業とともに家出、ウィリアムスにロックのレコードを残していった。それからロックの世界にのめりこんでいったウィリアムスは15歳で地元の音楽雑誌に評論を載せるほどになった。
 キャメロン・クロウの実体験を元に、70年代のロック界を描いた作品。少年の成長物語でもあり、時代へのオマージュでもあり、などなどといろいろな要素が盛り込まれた秀作。

 結局のところ少年の成長物語なのだけれど、そこにうまく音楽を使い、時代性を持ち込み、まとまりのある世界を作り出す。実体験に基づいているというだけにプロットの進め方に力があり、物語にすっと引き込まれる。これがこの映画の全てかもしれない。映像も普通で、つまりさりげなく、時間の流れ方も滞りない。特に緊張感が高まるシーンもなく、先の見えないミステリーというものがあるわけでもない。それでもこれだけ力強く物語を転がしていけるのだから、なかなかのものといわざるをえないというわけ。
 この映画で印象的なのは、どうしてもペニー・レイン=ケイト・ハドソンの顔です。もちろんアップが多いというのもありますが、なんとなくパッとひきつけられる表情を浮かべています。それほど美人というわけでもなく、好みでいえばアンナ・パキンのほうが好きだけど、この映画ではケイト・ハドソンが映るとはっとしてしまう。ウィリアムスに自己同一化していたという事なのか、それともケイト・ハドソンの力なのか、キャメロン・クロウの撮り方なのか?
 撮り方で言えば、これはあくまで印象ですが、ケイト・ハドソンのクロースアップでは、背景がぼやけているシーンが多かったような… クロースアップというのは概して背景にはピントがあっていないものですが、この映画のケイト・ハドソンの場合は意識的にそんな演出がなされていたのかもしれないとふっと思いました。気のせいかも。
 でも、それは効果として幻想的な、夢うつつなイメージを生むものだから、ウィリアムスの心理とは一致していていいのではないの? やっぱり意識的なのかも。それは監督かカメラマンか当人だけが知る意図ですが、こんな疑問を見つけると、同じ映画をくり返し見たくなります。

スナッチ

Snatch
2000年,アメリカ,102分
監督:ガイ・リッチー
脚本:ガイ・リッチー
撮影:ティム・モーリス=ジョーンズ
音楽:ジョン・マーフィ
出演:ブラッド・ピット、デニス・ファリナ、ベニチオ・デル・トロ、ヴィニー・ジョーンズ

 ベルギーの宝石業者から盗まれた86カラットのダイヤモンド、これを持ってロンドンに降り立ったフランキー、早速ニューヨークのボスに電話を入れるが、賭博好きのフランキーは罠にはまって監禁されてしまう。これを機にダイヤを巡って男達の汚いバトルが始まった。
 「ロック・ストック・トゥー・スモーキン・バレルズ」と同じく、イギリスを舞台にしたクライム・ムーヴィー。「ロック~」と同様脚本がよく練ってあり、映像も現代的。いかにも流行にイギリス映画という風情の作品。アメリカ映画だけど。

 結構面白いけれど、なんだか雰囲気が「ロック・ストック・トゥー・スモーキン・バレルズ」に似すぎ、その分、「ロック~」と比べるといまいちという部分が際立ってしまったという感じ。
 しかし、スタイリッシュな映像感覚と、入り組んだプロットの組み立て方はかなりのもの。やはりガイ・リッチーは並みの監督ではないということでしょう。ブラッド・ピットも大物俳優を袖にして切れ具合はピカイチ、かなりの存在感を発揮する。ブラピのおかげかどうなのか、「パンキー」たちの存在は個人的にはかなり好き。描き方がというよりはその存在の仕方自体が気に入ったという事で、映画そのものとはあまり関係ありませんが。
 ヨーロッパの監督がアメリカに行くと毒を抜かれがちですが、この作品もそんな感じがしなくもない。ガイ・リッチーはいい仕事をしていますが、いい仕事以上のことはしていない。もっと何かをぶち壊すパワーのようなものが感じられない。
 面白いことは面白い。でももっとすごいものを期待してしまう。そんな映画。そんな監督。次の作品は別の方向性に行くか、もっと突き抜けるかして欲しいところです。

 ところで、この映画、振り返ってみると女の人がほとんど出てきません。ブラピのあ母さんとノミ屋の店員さん以外はセリフのある人もいなかった気がする。気のせいかな? 

ザッツ・エンタテイメントPART2

That’s Entertainment, part 2
1976年,アメリカ,120分
監督:ジーン・ケリー
脚本:レナード・ガーシュ
撮影:ジョージ・フォルシー
音楽:ネルソン・リドル
出演:ジーン・ケリー、フレッド・アステア

 ジーン・ケリーとフレッド・アステアがミュージカル映画の名作を紹介するアンソロジーの第2弾。有名なシーンや有名なスターが次から次へと登場する。
 ミュージカル映画が好きな人なら、ふんふんとうなずきながら見れます。映画マニアは薀蓄をたれられます。まったく知らない人でも歌と踊りを単純に楽しめるはず。

 これだけ歌と踊りの場面だけを集まるというのはやはり凄い。司会もしているジーン・ケリーの映画がやたらと多かったものの、それもご愛嬌、偉大なミュージカル俳優であることは確かなので、いたしかたありません。
 個人的にはあまりミュージカルには入り込めないほうなのですが、この時代のハリウッド映画の凄さというのは感じさせられます。途中で「見事な合成」といっている場面がありますが、それは電波少年より拙い合成。それくらいの技術レベル、つまりCGなんてまったくない技術で、この映像を作りには相当なことをしなければならない。全盛期のハリウッド映画が膨大な数のエキストラを使ったというのは有名な話ですが、ここで出てる映画で、題名は忘れましたが、異常にたくさんのダンサーが出てくるシーンがある。しかもそれがかなりうまい。ただの素人でもいいエキストラならまだしも、ある程度のダンサーを集めるのは大変だったろうな、それくらい映画産業が脚光を浴びていたんだろうなと考えてしまいました。
 それと、出てくる映画群を見ていて気づいたのは1カットが長い。街中で踊るシーンなんかでも、移動するのを追いながらなかなかカットが切れない。大変だったんだろうな、撮影。