MID ミッション・イン・ザ・ダーク

Connors’ War
2006年,アメリカ,90分
監督:ニック・キャッスル
脚本:D・カイル・ジョンソン
撮影:シュキ・メデンセヴィック
音楽:ジェームズ・ベアリアン、ルイス・キャッスル
出演:アンソニー・“トレッチ”・クリス、ブル・マンク、マニア・ピープルズ、ガーウィン・サンフォード

 大統領夫人を人質として閉じこもる事件が発生。シークレットサービスが駆けつけると、そこではすでにブルックス率いるチームがいて、彼の部下コナーズが単独で救出に向かう。そして見事に救出に成功するのだが…
 アメリカでオリジナルビデオとして作られたクライム・アクション。SF的要素や陰謀の要素などいろいろ盛りだくさんだが、凡庸な印象は否めない。主演は“Naughty by Nature”のラッパー“トレッチ”ことアンソニー・クリス。

 最初に大統領夫人を人質に立てこもるという事件が置き、シークレットサービスとは別のチームとしてブルックスとコナーズというエージェントが現れる。彼らはシークレットサービスのボスのグリーンとは対立しており、先んじて事件を解決することで鼻を明かそうと考えるのだ。そしてコナーズは見事に犯人達を倒し、大統領夫人の救出に成功するのだが、シークレットサービスが突入させたスワットの行動によって失明してしまう。その3年後、無為に過ごすコナーズををブルックスが訪ね、仕事に戻るよう誘いをかける。

 つまり、盲目のエージェントが活躍する話ということ。そこにブルックスとグリーンの対立、二人の過去、戦争、陰謀、などが絡んでサスペンスを展開する。そしてもちろんコナーズをめぐるちょっとしたロマンスも入れ込まれる。

 アイデアに意外性があるわけでもなく、アクションに新しさがあるわけでもなく、出ている誰かが光っているわけでもない。愛国心と功名心の相克といういかにもアメリカらしいテーマがアクセントになってはいるが、あくまでもアクセントであってそこを追求した作品というわけでもない。つまらなくはないので、90分という時間を過ごすことは出来るけれど、見たことすら忘れてしまうような作品でもある。

 引っかかることといえば、筋肉はムキムキだが演技も特にうまくなく、アクションがうまいわけでもないこの主演の俳優。知っている人は知っている90年代に売れたラップグループ“ノーティ・バイ・ネイチャー(Naughty by Nature)”のラッパーであるトレッチだというじゃないか。知らない人にしてみれば「誰それ?」としかならないが、記憶に留めている人なら懐かしさを感じるんじゃないかという感じ。

 監督はジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』の脚本で名を上げたニック・キャッスル。監督に転じて『わんぱくデニス』なんかを監督しているが泣かず飛ばずという感じだ。

 こんな映画はたくさんある。まあそんな映画だ。

アイ・アム・レジェンド

I Am Legend
2007年,アメリカ,100分
監督:フランシス・ローレンス
原作:リチャード・マシスン
脚本:マーク・プロセヴィッチ、アキヴァ・ゴールズマン
撮影:アンドリュー・レスニー
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ウィル・スミス、アリシー・ブラガ、ダッシュ・ミホク、チャーリー・ターハン

 2012年ニューヨーク、癌の特効薬として開発された薬でニューヨークの住人のほとんどが死滅。一人残ったロバート・ネヴィルはそのウィルスに対する特効薬を開発しようとする研究者だった。彼は相棒の犬のサムとともに食料を求めて街をさまよう…
 リチャード・マシスンのSFの古典「地球最後の男」の3度目の映画化。

 原作は「地球最後の男」、生き物をゾンビ化させるウィルスによってニューヨークの住人が一人を残して全員死滅、感染者たちは陽の光のもとでは活動できず、夜のみ活動する。そんな中、唯一を免疫を持ち、生き残った研究者のロバート・ネヴィルが感染者たちを治療する特効薬の研究に望みをつなぐ。

 そんな内容だがら、想像されるのは圧倒的なパニック映画。逃げて逃げて逃げまくり、数少ない生存者と出会い、戦いを挑むという。

 しかし、この映画は非常に穏やかに展開する。無人で廃墟と化したニューヨークをウィル・スミスがひとり犬と闊歩するのみ。研究室でマウスを実験台に実験をし、DVDショップでマネキンに話しかける。

 後半に入ると展開は一変し、いわゆるゾンビ映画/パニック映画の様相を呈するのだが、この後半にあまり新しさはない。ゾンビと化した感染者はかなり怖いので、それで迫力はあるが特段すごいというわけでもない。ウィル・スミスはいい役者になったと感じさせるが、この結末はちょっと臭すぎるというかあまりにあまりという感じで脚本で損をしているんじゃないかという気がする。

 そんな後半だからむしろ面白いのはゾンビ映画/パニック映画にしては長すぎて穏やか過ぎる前半だ。ここでの彼と犬のコンビはかなり見せてくれる。同じ原作で3度目の映画化というのがこのちょっと変わった構成にさせたのか、この構成は成功だと思うが、それでもやはりそれほど面白い作品にはならなかった。

スペース カウボーイ

Space Cowboys
2000年,アメリカ,130分
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ケン・カウフマン、ハワード・クラウスナー
撮影:ジャック・N・グリーン
音楽:レニー・ニーハウス
出演:クリント・イーストウッド、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナー

 1950年代に宇宙飛行士を目指したフランク・コービンらはアメリカ発の宇宙飛行士がチンパンジーに決まり、その夢を絶たれる。しかし40年後、フランクの設計した装置を積んだ人工衛星が軌道上で故障、協力を求めてきたNASAに対し、フランクは自分達が行って修理すると告げる…
 クリント・イーストウッド監督・主演のスペース・ロマン。爺さん達が大活躍。

 映画の中でも言っている通り、このときクリント・イーストウッドは69歳、文句のつけようのない爺さんだ。そのイーストウッドとチームを組む3人の中ではトミー・リー・ジョーンズだけが大分若く(46年生まれ)、彼は爺さんと呼ぶには忍びないが、他のふたりはイーストウッドとほぼ同じ年代である。

 そんな爺さん達が主役のこの映画は、いわば爺さんたちの夢をすべてかなえるような映画だ。第一線を退いた爺さん達が現場に復帰し、若者達にバカにされながらもその若者達を見返す活躍をし、若い娘と恋愛などもし、仲間と団結して一つのことを成し遂げる喜びを思い出す。そんな幸せな物語だ。

 そこには年をとったがゆえの問題もあり、過去の因縁もあり、若者とのギャップもある。しかしそれを乗り越えてゆくエネルギーを彼らはもっている。印象的なのは宇宙飛行士になれなかった彼らがついに宇宙にいけるかもしれないとなった今までの時間を「40年も前」と言っていたのを、最後には(意識的に)「たった40年」と言いなおすところだ。彼らは40年という時間を乗り越え、さらに成長したのだ。

 だからこれはいわば爺さんのためのおとぎ話であり、したがって物語はすべて予定調和に終わる。初めてみたはずなのになんとなく既視感があるのはそのすべてが予想通りに進む予定調和がためなのだろう。

 でも別にそれがつまらないと言っているわけではない。むしろ安心して楽しめるエンターテインメントだ。ベテラン俳優というのはどうしても脇役になりがちだけれど、こんな風にしてベテランが主役になるというのはいい。若い頃の切れはなくてもやはり経験がものを言い、いい味を出す。ドナルド・サザーランドなんてたいして何もしてないのだけれど、存在感がある。

 これは「爺さんの、爺さんによる、爺さんのための映画」だが、そのそこに流れるロマンは少年から爺さんまでみなが共通に持つものではないだろうか。だから予定調和のどこかうそ臭い話でも反発を覚えることなく楽しめてしまう。

 クリント・イーストウッドは偉大な映画監督だとは思わないが、観客を楽しませる術は知っている。それがこの作品にも表れていることは間違いない。

おいしいコーヒーの真実

アフリカ最大のコーヒーの産地エチオピア、そのエチオピアのオロミア州の農協連合会の代表タデッサ・メスケラはコーヒー価格の下落を嘆く。彼は貧困にあえぐコーヒー農家たちが正当な収入を得ることができるためにさまざまな対策を練り、時には海外に直接売込みにも行く。しかし、そこには巨大な多国籍企業の大きな壁が…

イギリスのドキュメンタリー作家フランシス兄弟の長編デビュー作。サンダンス映画祭で賞賛された硬派なドキュメンタリー。

この作品のチラシやポスターには緑色のロゴのカップが描かれ、330円のトールサイズのコーヒーのうち、コーヒー農家に行くのは3円から9円に過ぎないと書かれている。

が、映画を見るとこの広告の割合もまだましだということがわかる。実際にエチオピアの農家に支払われる額は当時で1キロ当たり約1ブル(=0.12ドル)、1キロの生豆から約80杯のコーヒーが取れるとして、1杯あたりではわずか0.15セントである。

いくら物価が安いとは言っても、さすがにそれではどうにもならず、コーヒー農家たちは貧困にあえぐ。その貧困が深刻化したのは80年代の国際コーヒー協定の破綻から。コーヒー価格の下落が直接生産者の収入源につながったというわけだ。

この作品はその生産者の窮状とそれを何とか改善しようと頑張る農業連合会代表のタデッサの活動を中心に描く。タデッサはコーヒーが消費者に届くまでの中間業者の多さを訴え、生産者が直接焙煎業者に売る方法を模索する。中間業者を省くことで正当な報酬を生産者に支払うことができる、つまりフェア・トレードである。

大学でのインテリであるタデッサは英語を駆使してイギリスやアメリカに飛び、直接アピールする。

この作品は映画としてははっきり言ってあまり面白くない。知らなかったことを知ることができるという意味では意義深いが、単純に事実を並べ、貿易の不公正や貧困をくり返し訴えるだけなのだ。貧困にあえぐアフリカの人々と、コーヒーを娯楽として楽しむ欧米の人々を対比させようという意図は見えるのだが、そのつながりが希薄で今ひとつ効果的ではない。出来れば、バリスタ世界大会の優勝者に「このコーヒーの価格のうち何パーセントが生産者に言ってるか知っているのか?」などという質問をぶつけて欲しかったろころだ。その行儀のよさが作品のインパクトを弱める結果になってしまっているのは残念だ。

ただ、このタデッサおじさんの人柄や姿勢は見る人をひきつける。彼は本当にエチオピアという国の将来を憂い、農民の一員として彼らの生活を改善することを願っている。外国からの援助に頼らなくてもすみ、子供たちが教育を受けられるようになること、ただそれだけが彼らの望みなのだ。農業保護政策で守られたアメリカの農家が作った小麦が援助物資としてアフリカにやってくる。コーヒーを正当な価格で買ってくれさえすれば、それは援助ではなく貿易品としてやってくるはずなのに。

この作品を見たらもうフェアトレードのコーヒーしか買えないという気がしてきてしまう。巨大な多国籍企業が流通させているコーヒーを買うたびに私たちはアフリカの農民達を苦しめることになるのだ。もちろんフェアトレードのコーヒーのほうが高い、しかしその価格差は1.5倍程度だ。その価格差は多くの場合フェアトレードのコーヒーのほうが質が高いことを考えるとそれほど大きなものではない。それで生産者には2倍3倍の収入になるのだ。

何気なく買い物をしていると目に付かないものだが、気をつけてみればフェアトレードのコーヒーというのは結構売っている。この作品で槍玉にあがっているスターバックスでさえ(わずか1種類だが)フェアトレードのコーヒーを売っている。イオンや西友でも売っている。通販でも売っている。

私たちは大企業を通して生産者からコーヒー豆を安く買い叩いている。この作品からコーヒー豆の流通の構造を知ることで、世界の経済の仕組みが少し見える。そして、それは多国籍企業体が支配する経済体制への抵抗の第一歩であるのだと思う。

DATA
2008/8/7
Black Gold
2006年,イギリス=アメリカ,78分
監督:マーク・フランシス、ニック・フランシス
撮影:ベン・コール、ニック・フランシス
音楽:クンジャ・シャタートン、マット・コールドリック、アンドレアス・カプサリス