ドゥ・ザ・ライト・シング
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Kill Bill : vol.1
2003年,アメリカ,113分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:RZA、ラーズ・ウルリッヒ
出演:ユマ・サーマン、デヴィッド・キャラダイン、ダリル・ハンナ、ルーシー・リュー、ソニー・千葉、栗山千明、ヴィヴィカ・A・フォックス、ジュリー・ドレフュス、麿赤兒、國村隼、田中要次、風祭ゆき
ひとりの女がある家を訪ねる。挨拶もなく、そこで闘いが始まる。その闘いはその家の娘が帰ってきたところでいったん幕を下ろす。その訪ねてきた女は実は元暗殺集団の一員で、4年余り前、結婚式のその場で仲間になぶり殺しにされたかに見えたが、奇跡的に一命を取り留めた女だった。彼女は自分をリンチした相手に復習することを誓い、復習するべき相手をリストにしていた…
日本のB級映画を愛してやまないタランティーノが深作欣治にささげた仁侠映画風アクション映画。ルーシー・リューに和服を着せ、アクションはユエン・ウーピンと、アジアなら何でもありかい!的な匂いが漂う怪作。果たしてこれは名作なのか駄作なのか。その判断は1話分の尺に収まらず、2部立てとなってしまったその第2部をみて初めてつくのかもしれない。
この映画はすべてが「フェイク」である。元ネタがあり、それを模倣しているが、それのやり方はパロディではなく、フェイクである。パロディとは元となるモノを茶化し、笑いへと転置する方法であるが、フェイクとは単純な模倣、偽物を作ることに他ならない。同じようなものを作りたいためにまねするのか、あるいは元になるものを愛してやまないがために真似をするのか、あるいはただ真似したいから真似するのか、そのあたりの理由には関係なく、真似をして作られた偽物であるということがすなわち「フェイク」であるということだ。
この映画のもっとも明らかな元ネタは梶芽衣子主演の『修羅雪姫』であることは様々な風評からすでに明らかなことだ。元ネタの詳細は忘れてしまったが、基本的な物語もどこか似ている(様な気がする)。それはそれとして、ラストにはテーマ曲が引用されることから、それは明らかなのだが、何といってもあの血飛沫である。『修羅雪姫』をみて、映画の筋を忘れることは簡単だが、あの血飛沫を忘れることは難しい。そして、血に真っ赤に染まった波打ち際もはっきりと記憶に刻まれる。この『キル・ビル』もヒトを斬った時には血が噴水のように噴出し、池が真っ赤に染まる。真っ赤に染まるのが海からちんけな(しかし金のかかった)セットの池に代わったというのもこの映画の「フェイク」精神の顕われかもしれない。
「フェイク」と言えば、話される日本語もまるっきりの偽物だ「やっちまいな!」と言っているらしいオーレン・イシイの決め台詞。何度聞いても「ヤッチェマナウ!」(意味不明)にしか聞こえない。逆にソニー千葉の英語もフェイクだ。これはルーシー・リューの日本語がフェイクであることにきづかなそうなアメリカの観客へのサービスだろうか。あるいは名前も。「服部半蔵」あたりはフェイクを越えてパロディの感もあるが、ゴーゴー夕張あたりはかなりフェイクの匂いが漂う。
フェイクとパロディ、これは本質的に違うはずのものだが、この映画は結果的にフェイクとパロディのあいだをさ迷っている。いわゆるアクション映画のパロディとフェイクの間をさ迷ってしまうのは、アクションシーンがユエン・ウーピンによる本物だからなのかもしれない。その本物のアクションシーンをいかにフェイクにするのか、タランティーノはそれに腐心して、ユマ・サーマンにブルース・リーの衣装を着せ、無理から手摺の上でアクションさせ、ありえない斬られ方をさせてみた。そのようにして何とかまっとうなアクションにならないようにした結果、それはフェイクに近づくと同時にパロディにも近づいてしまった。そんな印象がある。
さて、タランティーノは何故ここまで執拗に「フェイク」たらんとしたのかを考えてみる。それはまず、そもそも元ネタにされている日本のB級映画というのが「フェイク」なのである。『修羅雪姫』もある意味では仁侠映画のフェイクである。もっとわかりやすい例を上げれば、この映画に登場する航空会社「エアO」の飛行機、これはあからさまに模型で、妙に赤い空のバックを飛んでいる風なわけだが、これを見るに付け思い出すのは京マチ子主演の『黒蜥蜴』である。そこで舟が登場するのだが、これがまた見事な模型。その舟は水槽の波に木の葉のように揺れるのだ。そしてこの『黒蜥蜴』がどう見てもフェイク・ミュージカルなのである。そこまで追求してしまうと自ら映画オタクと言い放つタランティーノの側に与してしまうことになるので、このあたりでやめるが、そんな「フェイク」が好きでたまらないタランティーノが自分も「フェイク」を作りたいと思ってきたであろうことは想像に難くない。
ここでもう少し真面目に考えると、映画とはそもそもが現実の「フェイク」であるという事実も考えたい。映画とは現実を模造しようと始まった芸術である。いまでは必ずしもそうではないが、映画の本質には現実のフェイクであるという面が必ずどこかにある。
そのような映画がわざわざ「フェイク」たらんとするということはどういうことか。おそらくタランティーノは世の中に「いかにも現実であろうとするフェイクが多すぎる」ということを憂えているのではないかと思う。憂えてはいないにしても、面白くないと思っているのではないかと思う。「いくら現実ぶったってフェイクはフェイクだ」ということを真摯に見つめない限り、映画なんて成り立たないとでも言いたげなのである。
そのように思ったからこそ、フェイクのフェイクであるこの映画を作ろうとしたのではないか。そもそもフェイクである映画のフェイクであるような映画。そんな映画のフェイクという三重化されたフェイクを作ることで映画がフェイクであるという忘れがちな当たり前のことを想起させる。そんな狙いがあったのではないかと邪推してしまう。多分そんなことは考えていないと思うが、というよりそもそもタランティーノがどう考えていようとどうでもいいのだが、そんな風なことに目を向けさせてくれるこの映画はただのバカ映画ではないのだと私は見る。あるいは、この映画はただのバカ映画だが、バカ映画であるがゆえに見えてくるものもあるということだ。
この映画が映画として面白いのかどうなのかは、vol.2を待たねばならないだろうが、二部構成にしてしまったがために、少し冗長な感じになって、タランティーノ独特のスピード感が薄れてしまった気がするのは残念だ。vol.2がどれくらいのものかはわからないが、何とか頑張って2時間半か長くて3時間弱に収めて1本の映画にしてくれたほうが、タランティーノらしい面白い映画になったのではないかとも思ってしまう。
Mo’ Better Blues
1990年,アメリカ,129分
監督:スパイク・リー
脚本:スパイク・リー
撮影:アーネスト・ディッカーソン
音楽:ビル・リー、ブランフォード・マルサリス
出演:デンゼル・ワシントン、スパイク・リー、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジート、ロビン・ハリス、ジョイ・リー、ビル・ナン
ブリークはハーレム育ちだが、教育ママの母親にトランペットの練習をさせられて、トモダチとろくに遊ばせてもらえなかった。しかしその甲斐あってか新進気鋭のトランペッターとなり、自分のバンドを率いて、幼馴染のジャイアントをマネージャーにして毎日クラブを満員にしていた。しかし彼の生活は音楽一色で、他の人と心を通わせようとすることもなかった…
『ドゥ・ザ・ライト・シング』でブラック・カルチャーの枠から飛び出して広く知られるようになったスパイク・リーがジャズへの思いを込めて撮った静かな映画。デンゼル・ワシントン、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジートなど若き黒人スターが出演しているのも楽しい。
物語を追っていけば、どうということのない映画。ある一人のジャズマンの一生というか、半生を追っただけ。こんなジャズマンはニューヨークにごまんといるだろう。だからこそスパイク・リーはそのような人物を描く。ある一人のジャズマン、それはある一人の野球選手、ある一人のバスケット選手でも同じことなのかもしれない。しかし、映画的にはジャズマン。ブラックの心、アフリカの心、それがジャズにあるのだとスパイク・リーはかたくなに信じているようだ。ヒップホップやリズム・アンド・ブルースだって、あくまで広い意味でのジャズから出てきたもので、アメリカの黒人の心に流れるのはジャズのリズムだ。
デンゼル・ワシントンが映画の中でクロスオーバーについて語り、黒人が俺の音楽を聞きにこないと嘆くその言葉にスパイク・リーの気持ちは込められている。そのような音楽への思いに突き動かされて作られた映画だけに、主役は音楽で、役者ではない。デンゼル・ワシントンがどのような人と関係を結んでもどこか空々しくめいるのは、彼の自己中心性よりもむしろ、それが映画の主題ではないからなのだ。そこにあるのは音楽、音楽、音楽。この映画で人々を動かすのは音楽で、それだけ。
その中で非音楽的な存在としているのがインディゴで、彼女だけは音楽とは関係ないところに存在している。だから彼女は映画に波風を立て、音楽のリズムを乱す。この映画の終盤が面白くないと思えてしまうのは、映画の全般にわたって映画を突き動かしてきた音楽というものが奪われ、非音楽が映画を支配するから。だからどうも違和感を感じ、音楽が覆ってきたこの映画の退屈さがあらわになってしまう。
しかし、私はこの退屈さも好きだ。「吹けなくなったらどうするの?」と聞いたインディゴの言葉、その言葉が映画に立てる波風、それによってもたらされる新たな人生、しかしブリークは音楽を失っておらず、心にはリズムがある。この終盤であらわされるのは、音楽的な人生と非音楽的な人生があるということではなく、人生とは音楽であり、人生とは常に音楽的であるということだ。ブリークは音楽を奪われてしまったけれど、心にはリズムがあり、最初から非音楽的な存在として描かれてきたインディゴも音楽を持たなかったわけではないということ。
スパイク・リーは音楽を特別なものとはみなさずに、人生そのものだと捉えている。この映画では音楽はそのように現れる。だから音楽にあふれているにもかかわらずこの映画はすごく静かだ。
Harry Potter and the Sorcerer’s Stone
2001年,アメリカ,152分
監督:クリス・コロンバス
原作:J・K・ローリング
脚本:スティーヴン・クローヴス
撮影:ジョン・シール
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、リチャード・ハリス、マギー・スミス、アラン・リックマン、イアン・ハート
額に傷を持つ赤ん坊のハリー・ポッターは魔法使いによって伯母夫婦に預けられ、その家で冷遇されて育てられていた。ハリーが11歳になろうというとき、ハリーのところにふくろうから次々と届くようになるが伯父はそれをハリーに読ませようとしない。しかし、11歳の誕生日の日、ついに魔法学校からの使者が現れ、ハリーを魔法学校へ連れて行く…
原作が世界中でベストセラーとなった「ハリー・ポッター」シリーズの第1作目の映画化。映画としても世界中で大ヒット、小説も次々と続編が書かれ、映画も次々と作られるはずのファンタジー巨編。
ものすごい観客を集めた映画にありがちな酷評があちこちで聞かれますが、私はそれほど悪い映画ではないと思います。原作をまったく読んでいなかったこともあって、物語の導入部分などはかなり興味深く見ることができました。魔法使いの世界という一つのパラレルワールドを作って、そこで物語を展開させるという方法は非常に巧妙でいくらでも面白く出来る要素がある。紀元前300年だったか創業の杖屋なんていう小ネタも自由自在。動物や植物だっていくらでも創造することが出来る。この自由さがファンタジーにとっては非常に重要なのです。
なので、長いシリーズの1作目としてはまずまずの出来なのではないかと思います。ただ、ちょっと長すぎますね。特にクライマックスに至る前の30分から1時間くらいはぎゅっと凝縮して映画を短くするか、映画には盛り込めなかった原作のエピソードをもう1つ2つ入れるかして濃度を高めたほうが飽きることなく見れるようになった気がします。
というのが全体的な感想で、第2作も2本立てかビデオかで見ようかなという感じです。
さて、この映画を見て最初に感じたのは『スター・ウォーズ』っぽいなということ。映画全体としてもちょっとそんな感じはしますが、主に話がそれっぽい。細かく何処がどうと言ってしまうとこじつけっぽくなってしまいますが、親が死んで親戚に育てられる設定とか、なぞの敵がいるとか、力を得るために教えを受けるとか、そういうところですね。これはある意味では冒険ファンタジーものの王道といえるストーリー展開なのかもしれません。だから万人に受け入れられる。『スター・ウォーズ』ファンには怒られるかもしれませんが、なんだか似てるなぁという印象は最後まで変わりませんでした。音楽もジョン・ウィリアムズだしね。主人公が運命で定められた英雄だというのも。
もちろん『ハリー・ポッター』のほうが子供だましっぽさが付きまとうし、出てくるキャラクターや物はほとんどが今まであったものばかりで創造性という点ではかけるのですが…
その点で言えば、同時期に公開された『ロード・オブ・ザ・リング』と比べても見劣りする。しかし、やはり『ロード…』の世界観は万人受けするものではなく、そのあたりでヒットするかどうかが別れてしまったのかもしれないという気がします。原作とのかかわりも『ハリー…』のほうがうまい感じですね。原作を読んでいれば、おそらく映画に出てきた呪文とか道具なんかのことがよくわかる。魔法学校の教科書まで発売されているのだから、はまればどんどんはまっていける。そのあたりは原作者ももうなくなってしまって、かなりマニア感が高くなってしまっているい『ロード…』とは違うのでしょう。
ヒット作にはそれなりの理由があり、映画としての出来がそれほどよくなくても人を惹きつけられるんだといういい見本だと思います。
Home Alone
1990年,アメリカ,102分
監督:クリス・コロンバス
脚本:ジョン・ヒューズ
撮影:ジュリオ・マカット
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:マコーレー・カルキン、ジョー・ペシ、ダニエル・スターン、ジョン・ハード、キャサリン・オハラ、ジョン・キャンディ
クリスマスが近いある日、翌日から家族でフランスに行くことになっていたマカリスター家は兄夫婦とその子供も来ていて11人の子供を抱えててんやわんやの大騒ぎ、そして翌日停電によって寝坊した一家は大慌てで空港へ。しかし実はマカリスター家の末っ子ケヴィンがひとり家に取り残されていた…
いまや「ハリポタ」の監督として有名になってしまったクリス・コロンバスが監督としては初のヒットを飛ばした作品。脚本にはコメディの名手ジョン・ヒューズ、音楽にはジョン・ウィリアムズとスタッフもしっかりとしてし、脇を固める俳優もいいけれど、やはりなんといってもカルキン君の芸達者ぶりに脱帽。
コメディの名作に解説はいらないというのが私の気持ちなわけですが、やはり解説しなければなりません。
カルキン君は今では離婚なんかもして大変ですが、このころはとても芸達者な子供としていい味を出しています。今というかちょっと前は子役といえばオスメントですが、私はカルキン君のほうがかわいげがあって好きです。そういえば、このクリス・コロンバスは脚本家としても『グレムリン』とか『グーニーズ』とか作ってるし、いまは「ハリポタ」だし、子供ものを作るのが好きなのだと思われます。そもそもがアンブリン(スピルバーグの映画プロダクション)なので基本的に子供向けに強いわけですが、その中でもかなり子供を使う率が高い。だからこそ「ハリポタ」の監督に起用されたのだと思います。 そういう意味でも、この映画は現在まで見られてしかるべきで、しかもいつ見ても面白い。
もちろん、最大のハイライトはカルキン君が泥棒ふたりを撃退する最後のシークエンスなわけで、これをはじめてみた時は子供に帰って痛快感を覚えましたのを思い出します(といっても、たぶん高校生のころ)。
しかも、これは子供だましの映画ではなく、子供向けであっても大人向けと同じクオリティで作っているところがいい。子供の視点から見たファンタジーとして作るのではなくて、ある種のリアリズムを追求して映画が作られている。「そんなバカな!」と思わせるところはなく、すべての出来事がちゃんと複線を持って連綿とつながっているのです。
そして、コメディだけではなくファミリー・ドラマ的なものも盛り込むわけですが、これは家族向けとしては仕方のないこと。コメディとしてはそんなハートフルなものは取り除いて、とにかく笑わせればいいということになりがちで、基本的にはそういうコメディのほうが私は好きなんですが、この映画の場合はこのハートフルな面を入れることで物語全体がうまくまとまっているのでいいと思います。
2も3も今ひとつだったし、こういういいファミリー向けコメディというのは最近ないなぁ…
Thirteen Days
2000年,アメリカ,145分
監督:ロジャー・ドナルドソン
原作:アーネスト・R・メイ
脚本:デヴィッド・セルフ
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:ケビン・コスナー、ブルース・グリーンウッド、スティーヴ・カルプ、ディラン・ベイカー、ルシンダ・ジェニー
1962年10月、アメリカの偵察機U2がキューバ上空から撮影した写真にソ連の核兵器らしい影が写っていた。キューバに核兵器が配備されれば、アメリカはその射程内に入ってしまう。大統領補佐官のケニー・オドネルは大統領ジョン・F・ケネディ、司法長官ロバート・ケネディとともに戦争の危機を回避する方法を考え出そうとするが、軍部は戦争は不可避と考え即時爆撃を要求していた…
最も全面核戦争に近づいた瞬間として知られる1962年のキューバ危機を題材にしたリアル・サスペンス。わずか40年前の史実を映画にするという難しいことをうまく裁いた印象がある。サスペンスとしてももちろん面白いが、現在のアメリカの姿と比較してみると、またいろいろ考えさせられるところもある。
結果がわかっているサスペンスが面白くないのは仕方のないことなので、キューバ危機について細部まで知っている人にとってはサスペンスとしては面白くもなんともないでしょう。しかし、キューバ危機についてまったく知らない、あるいは一応知ってはいるけれど細かくは知らないという人にとってはサスペンスとしても楽しめるし、歴史としてみることもできる。歴史としてはアメリカ側からの視点しかないという留保つきではありますが。
ということなので、2時間半という長さでも飽きることはなく見ることができる。物語展開としてはわかりやすいヒーロー物というか、プロデューサでもあるケヴィン・コスナーが必要以上にヒーローとして出てきてしまっているという印象はあるが、ちょっと腹が出て生え際も後退し、2枚目然としたところは薄れたのでこれは良しとしましょう。
ということで、映画としては面白いということでいいのですが、他にも書くべきことがあります。ひとつは視点の偏り、ひとつは現在のアメリカとの対比ですね。
視点の偏りというのはもちろん、一方的なアメリカの側からの視点のみで書かれているということ。フルシチョフも登場しないし、もちろんカストロも登場しない。大使やら国連大使やらは登場するけれど、それは常にアメリカが倒すべき敵、疑わしい嘘つきとして登場する。アメリカ(の3人)はいい人で他は悪い人、そんな主張が明確に現れる。
これがあまりにばかげていると思うのは、たとえば少ししか出てこなかった米州機構との関係、この映画では米州機構の支援を意図も簡単に、自主的に取ったように描いている。しかし実際のところ、米州機構というのはアメリカがアメリカ大陸を掌握し、事実上の植民化を図る機関であって、彼らがアメリカを支援するのはその代表がアメリカが支援している親米政権だからだ。そしてその親米政権というのはアメリカが武器援助なども含めた支援によってテロリストも含めた反体制勢力を政権に立てたものに他ならない。
ソ連によるキューバへのミサイル配備というのは、そのような米州機構の中でキューバが孤立していたという背景があるということも考える必要がある。つまり、キューバへのミサイル配備というのが必ずしもアメリカへの先制攻撃のためだと決め付けられるわけではないということだ。
もうひとつ、現在のアメリカとの対比というのはもちろんイラク攻撃のことで、軍部も大統領も挙国一致で戦争へ突入しようとするアメリカと比べると、このころのアメリカはまだ良心が残っていたという印象を持つということ。やられたらやり返すという報復の精神や、自国と同盟国の人々以外の命はなんとも思っていない点では変わっていないが、あいまいな理由で戦争には持ち込まないという理念は合ったような気がする。
それが今の、何でいいから空爆したいというブッシュ政権とは違う。この映画はもちろん9・11以前に撮られた映画で、だからこそこのような映画ができたのだろう。アメリカにおいて民衆の扇動装置としても働くハリウッドは9.11以降は現政権に疑問を投げかけるようなものは引っ込めて、毒にも薬にもならない映画ばかりを送り出す。
Duets
2000年,アメリカ,112分
監督:ブルース・パルトロー
脚本:ジョン・バイラム
撮影:ポール・サロッシー
音楽:デヴィッド・ニューマン
出演:マリア・ベロ、アンドレ・ブラウアー、ポール・ジアマッティ、ヒューイ・ルイス、グウィネス・パルトロー、スコット・スピードマン、ロックリン・マンロー
警察署で小学校時代の先生が万引きで捕まったところに出くわしたタクシー運転手のビリーは家に帰ると今度は妻が共同経営者と浮気しているところに出くわし、そのまま家を飛び出す。元プロ歌手のロッキーは賭けカラオケをしながら各地を転々としているが、そこに昔かかわった女の死を知らせる電話が。テーマパークの営業マンのトッドは出張先を間違え、家に帰っても妻も子供もお帰りも行ってくれない。
さまざまな理由で旅する人々がカラオケという共通点で結ばれ、その人生がカラオケのチャンピオン大会で交差するというドラマ。グィネス・パルトローと父ブルース・パルトローの最初で最後の共作として話題になった作品。
グィネス・パルトローが主役だと思ってみていたら、ちっともそうではなくて、グウィネス・パルトローとヒューイ・ルイスの組はむしろ脇役で、残りの二組のほうが主役的な役割を果たす。この二組はなかなかうまいつくりになっている。私は特にマリア・ベローとアンドレ・ブラウアーがうまいキャラクターだと思いました。
ただ、6人もの登場人物を主役級として出したことで逆にそいれぞれが薄くなってしまった観もある。マリア・ベロー演じるスージー・ルーミスのキャラクターは彼女自身がでた『コヨーテ・アグリー』などでも描かれ得たアメリカ映画には比較的よく登場するキャラクターで、それを助ける一人の男という設定もわかりやすい。
アンドレ・ブラウアー演じるレジーとトッドの組がこの映画でもっとも秀逸なキャラクター。企業戦争に精神を破壊されてしまうという設定はこれまた映画に珍しい設定ではないけれど、テーマパークの営業マンというのはアメリカ社会を象徴的にあらわすものとしては非情にうまいキャラクターだし、そのトッドを完全にこわしてしまい、旅に出させて、レジーという不思議な相方をあてがい、ロード・ムーヴィーに持っていき、さらにカラオケという小道具を絡ませる。そこにはアメリカ社会への風刺も含まれ、基本的にほとんど白人しか出てこないこの映画の中で異彩を放っている。
わたしとしては欲張って3組の物語を描かずに、このふたりのロードムーヴィーにしてしまったほうが面白い映画になったような気もするけれど。
グウィネスとヒューイ・ルイスの組は客を集めるための客寄せパンダ(表現が古いか…)的な役回りに過ぎず、映画にとっては内容を薄めるものでしかない。ヒューイ・ルイスの歌は確かにうまいし、グウィネスの歌もなかなかのものだけれど、それだけで主役級にするには物足りない。
否定的にいうならば、アメリカの商業至上主義社会を批判するようでいながら、結局その商業主義に積極的に乗っかり、映画自体の面白さを犠牲にしてしまったような映画ということになる。
ただ、逆に言うと、商業主義に無批判に乗っかることでだめになってしまう映画が多い中、それに乗っかりながらそれ自体を風刺するというスタンスを取ったということは評価できるのかもしれない。
Telma & Louise
1991年,アメリカ,128分
監督:リドリー・スコット
脚本:カーリー・クォーリ
撮影:エイドリアン・ビドル
音楽:ハンス・ジマー
出演:スーザン・サランドン、ジーナ・デイヴィス、ハーヴェイ・カイテル、マイケル・マドセン、クリストファー・マクドナルド、ブラッド・ピット
ウェイトレスをして暮らす独身のルイーズと抑圧的な夫と暮らす主婦のテルマ、仲のよい二人は週末をルイーズの勤める店のオーナーの別荘で過ごそうとしていたが、テルマはそれを夫のダリルに言い出せず、結局黙って家を出てしまう。そして、開放的になったテルマは立ち寄ったパブではめをはずし、男と夜通し踊ったが…
大作のイメージのあるリドリー・スコットがふたりの女性を主人公にしたロードムーヴィー現代作った。なんといっても主人公のふたりがはまり役で、物語にも力がある。それまで泣かず飛ばずだったブラッド・ピットがブレイクするきっかけとなった作品でもある。
とにかく痛快。女性版『明日に向って撃て!』という観もあるわけですが、逃亡というのは非常に映画的で面白くなります。やはり緊張感が持続するというのが最大の要因なんでしょうけれど、ただそれだけでは伸びっぱなしのゴムのようで面白くはならない。たまにふっと緩む場所があるとそこに抑揚がついて面白くなるわけです。
その点で、この映画は非常にうまい、最初から2人のキャラクターが対照的な正確に描かれている。象徴的なのはもちろん2人が旅の荷物をパッキングする場面ですね。ここできっちりと几帳面なルイーズと大雑把で行き当たりばったり、しかし心配性なテルマというキャラクター設定がはっきりとわかる。そして、事件がおきるまでは「何か起きそう…」という緊張感を保ちながら、テルマがそれを緩ませる役を負っている。その役割は事件後もしばらくは続くわけですが、ある一点で、その二人の立場が逆転する。ネタばれ防止のためどこかは言いませんが、それはあからさまにわかることなので、大丈夫でしょう。
ふたりの間には常に主導権争い(別に争っているわけではないと思うけど)があって、どちらがリードしていくのかが流動的に動いている。そしてそれを示すのが運転とタバコ。運転は結構しょっちゅう変わるわけですが、主導権を握っているほうが運転することが多い。そして、主導権を握っているほうはタバコをすっているカットが多い。そもそもタバコをすっているのはルイーズだけだったのに、いつの間にかふたりともすうようになっているわけですが、この映画ではタバコというものはかなり意識的に使われている。最近のアメリカ映画ではタバコが小道具として使われることはなくなってしまったわけですが(タバコを吸っている人が出てきただけでR指定にするという案も出ているらしい)、80年代くらいまではタバコというのは非常にいい小道具として使われていたなぁ… などとも思ったりします。
とにかく、そのような小道具なんかに注目してみると、また主人公ふたりの心理の動きとかが見えるようになって面白い。
そのようにして二人の役割とか立場が変化していくことがこの映画の大きな原動力になっているわけです。だから、このふたりはアカデミー主演女優賞にダブル・ノミネートされたのもまったくうなずける話です。
あとは、脇役にも存在感があります。ブラッド・ピットもいいし、ハーヴェイ・カイテルもいい。ブラッド・ピットは実はウィリアム・ボールドウィンの代役で出演したらしいですが、これ以前にはほとんどテレビ俳優だったようです。ハーヴェイ・カイテルのほうもこの年『レザボアドッグス』にも出演し、ブレイクの年となったわけです。『レザボアドッグス』といえばルイーズの恋人役のマイケル・マドセンも『レザボア』で印象的な役を演じていました。
そう考えると、タランティーノを中心とした90年代のアメリカ映画とも関係がありそうなこの映画。その流れはウォシャウスキー兄弟あたりまでつながりそうな気がします。ウォシャウスキー兄弟の出世作も女性2人が主人公の『バウンド』だったし、リドリー・スコットといえば『ブレード・ランナー』で、90年代あたりのSF(あるいはオタク文化)の流れを先取りしたという印象もある。
ということなのかもしれませんが、そんなことはともかくこの作品は面白い。特に女性にはよいでしょう。痛快爽快。