ハートの問題

 脚本家のアルベルトは胸に痛みを覚えて、病院の救急外来に行く。入院することになった彼は、心臓発作で救急救命室に運ばれてきたアンジェロと同室に。なぜか気があった2人は、退院後にも合うことを約束。恋人と別れたアルベルトのことを心配するアンジェロは自分の家に滞在するように勧めるが…
死を予感させる病に直面した人々の感情や想いをユーモラスにしかし丹念に描いたヒューマンドラマ。

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人生、ここにあり!

1 980年代のミラノ、労働組合員のネッロは強硬な姿勢が仇になり新たな組合に左遷されてしまう。その組合は元精神病患者の協同組合で組合とは名ばかりの組織だった。熱血漢のネロは自ら稼ぐことで彼らの意識を変えようと建築現場の床貼りの仕事を請け負ってくるが…
イタリアのグループホームで実際に起きた出来事を元にしたコメディ・ドラマ。障害とされるものを特性ととらえる視線が現代的。

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木靴の樹

L’Albero Degli Zoccoli
1978年,イタリア,187分
監督:エルマンノ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:エルマンノ・オルミ
出演:ルイジ・オルナーギ、オマール・ブリニョッリ

 19世紀末のイタリアの農村、地主に収穫の3分の2を取られながら、その土地にすがるしかない農民たち。そんな農民の一人バティスティは神父に進められて息子を学校にやることにした。しかし、生活は依然として苦しい。
 貧しい農民たちの暮らしを淡々と描く作品。舞台を19世紀末と設定したことによりかろうじてフィクションの形をとっているが、映画の作り方としてはドキュメンタリーに近いものといえる。

 この映画がフィクションであると断言できるのは、最初に説明される19世紀末という設定があるからである。この映画が撮られた時代を含む現代ではこのような農村は存在しなくなってしまい、このような映画をドキュメンタリーで撮ることは難しくなってしまった。だから、この映画はフィクションとしてとられるしかなかったのだ。しかし、あえて言うならばこの映画はドキュメンタリーであってもよかった。ありえないことは承知でこれを19世紀末の農村に関するドキュメンタリーと言い切ってもよかったはずだ。
 この映画で19世紀末の農民たちを演じているのはおそらく現代の農民たちで、彼らは自分たちの先祖を追体験しているのだ。それほどまでにこの映像は真に迫っている。農民たちの真剣な目、土に向かうひたむきな姿勢、機械のない前近代的な農業にしか宿ることのない美しさがそこにある。
 ここに見えてくるのはフィクションとドキュメンタリーの、あるいは劇映画と記録映画の境界のあいまいさだ。この映画で作家が提示したかったものは、現代には存在せず、19世紀にしか存在しなかった。それが具体的になんであるかということはこの映画はあからさまには主張しないが、おそらく現代に対する一種の批判であるだろう。人と家畜が、あるいは人と植物が、人と土が親密であった時代から現代を批判する。もちろん、その時代はただ美しいだけではなく、非人間的な生活を強要され、生きにくい時代でもあっただろう。この映画はその両方を提示しているが、力点が置かれているのは美しさのほうだ。だから、彼らが悲劇的な境遇から救われたり、自ら抵抗の道を選ぼうとはしない。これがフィクションであり、ひとつのドラマであり、虐げられた人々のドラマであると了解している観客は彼らがどこかで立ち上がり、自由を勝ち取るのだと期待する。そのように期待して遅々として進まないストーリーを追い、画面の端々に注意を向ける。

しかし、この映画ではそのような抵抗や革命は起こらない。それはこの映画から数十年前に同じイタリアで作られたネオ・リアリズモ映画ならありえた展開だが、この映画ではそれは起こりえない。観客は裏切られ、この映画の劇性に疑問を持つ。しかし、観客が裏切られたと気付くのはすでに映画を見始めてから2時間半が経ったときである。単純な日常を切り取っただけの映画、まるでドキュメンタリーのようなフィクション。そのとき観客はすでに、そのような映画であるとわかった映画の世界に入り込んでしまっている。ドキュメンタリーであるフィクション。黙ってただ立ち去る彼らを見ながら、やり場のない怒りを感じながら、しかしその怒りを映画に向けるわけにはいけないことを知っている。これはドキュメンタリーであって、フィクションではないのだから、映画には結末を操作できないのだと。そのような幻覚を抱かざるを得ない。彼らは別の土地に移り住み、やはり土とともに生き、しかし今よりさらに過酷な生活を強いられるのだとわかっているから。

息子の部屋

La Stanza del Figlio
2001年,イタリア,99分
監督:ナンニ・モレッティ
原案:ナンニ・モレッティ
脚本:ハイドラン・シュリーフ
撮影:ジュゼッペ・ランチ
音楽:アレッサンドロ・ザノン
出演:ナンニ・モレッティ、ラウラ・モランテ、ジャスミン・トリンカ、ジュゼッペ・サンフェリーチェ

 精神科医のジョバンニは妻パオラ、息子アンドレア、娘イレーネと仲睦まじくし暮らしていた。そんなある日、学校に呼び出され息子に窃盗の疑いがかかっていることを知る。息子を信じようとするジョバンニだったが、そこには一抹の不安が…。その事件をきっかけとして、家族の歯車が微妙に狂い始める…
 なかなかメジャーになれなかった寡作の監督ナンニ・モレッティがカンヌ・パルムドールを獲得し、一気にメジャーになった。作品としてはいわゆる感動作という感じだが、「家族の絆」などという安易な結論にいかないだろうという予想はできるかもしれない…

{ 映画はなんとなく進む。息子が死んでしまった後の家族の話が眼目となるのだろうけれど、そこもまたなんとなく進む。家族は議論をしているようで全く議論はしていない。自分の信条を吐露するだけの一方的な発話。果たして監督はそんなことを描きたかったのだろうか?
 それはさておき、この映画のラストシーンは秀逸だ。ラストシーンの話をしてしまうのはなんだけれど、その浜辺とバスの切り返し(多分違う場所で撮影していると思うけど)からは家族としての結論が見えてくる気がする。それは浜辺に佇む家族の姿の美しさがそう錯覚させるのだろうか?
 そのラストシーンについて考えていると、そこに至るまでの心理的な道筋がわからなくなってくる。果たして彼らはどうしてそのような結論に行き着くことができたのか? あまり人物の心理を直接的に描こうとしないこの映画からそれを読み取るのは難しい。涙や笑顔や無言の歩みからそれを読み取るのは難しい。主人公のジョバンニはさまざまなことを語り、彼自身の想像する場面も描かれるから彼の心理を推測するのは、ある程度は可能だけれど、この家族の変化を捉える鍵は彼よりもむしろ妻のパオラや娘のイレーネにある気がする。それにしては彼女たちの心理をとらえるためのヒントが少なすぎる。
 だから、美しいラストにもかかわらず、なんとなく消化不良な感じが残ってしまった。一人称で語ることは決してできないはずの家族の物語を一人称で語ってしまった作品。その視点を持つジョバンニに自分を同定できればこの映画に浸ることができるのだろうが、それができないと厳しい。そして監督は主人公(それはつまり自分)の視点に観客を引き込む努力をしていない。
 これは監督が主演する映画にたびたび見られる欠点でもある。監督で主演ならば、その視点に自分が立つのは当たり前だ。監督と主演の両方をして、自身が映画に没入しすぎないようにするのは難しいのだろう。そんな中で観客の位置を正確に把握していくのはさらに難しい。

女ともだち

Ie Amiche
1956年,イタリア,104分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、アルバ・デ・セスペデス
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:エレオノラ・ロッシ=ドラゴ、イヴォンヌ・フルノー、ヴァレンティナ・コルテーゼ

 1952年、ローマからブティックの支店開設のため生まれ故郷のトリノへとやってきたクレリアはホテルの隣室の客ロゼッタの自殺未遂に出くわす。そこから仲良くなったロゼッタのともだちモミナらと仲良くなった。またクレリアは店の設計技師の助手カルロに心魅かれもしていた。
 複雑な人間関係が交錯するアントニオーニには珍しい通俗劇。監督としては3作目の長編となる。ストレートなドラマとしてみることができるが、その中にアントニオーニらしさも垣間見れる作品。

 一見ほれたはれたの通俗劇で、イタリア版「ビバヒル」みたいな感じだけれど、そこはアントニオーニで、決してハッピーな展開にはならず、痛切な出来事ばかりが起こる。結局のところ人と人との心はつながらないというか、理解しあえることなどはないんだとでも言いたげで、ちょっと気が滅入ったりもしました。 なんといってもロレンツォっていうのが、ひどい男ですね。映画を見ながら、「卑劣極まりないね」などとつぶやいてしまいました。
 でも、まあ話としてはわかりやすく、まとまりもついているし、アントニオーニにしては見やすいといえるかもしれません。それでも物語に含まれるそれぞれの話は徐々に散逸していき、決してひとつにまとまることはないということはあります。それがアントニオーニ。ひとつの物語へと集中する観客の視線を拒否することによって成り立っている映画という気がします。その物語から視線をそらされたところで、気を引かれたひとつの要素は音楽。この間の「欲望」のハービー・ハンコックの音楽もよかったですが、この映画にさりげなく含まれる音楽もかなりいい。それを一番思ったのはモミナのアパートに女たちが集まったときにBGMとしてかかっている曲。さりげなくセンスのいい曲が流れ、しかしそれも頻繁ではないという控えめな感じ。いいですね。
 ジョヴァンニ・フスコはアントニオーニ作品の多くを手がけているので、ほかの映画を見ても音楽のセンスのよさを感じられていいですね。

欲望

Blow-up
1966年,イタリア,111分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原作:フリオ・コルタサル
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン

 大勢の若者が白塗りの顔で車に乗って騒いでいる、簡易宿泊所(?)から無言で人々が帰ってゆく。そんな映像とハービー・ハンコックの音楽で始まるこの映画の主人公はカメラマンのトーマス。売れっ子カメラマンらしくわがまま放題に行動するトーマスはまた撮影の途中でスタジオを抜け出す。公園へとやってきた彼は、カップルのいる風景を写真に撮るが…
 アントニオーニの後期の代表作のひとつ。カンヌではパルムドールを受賞。

かなり理解しがたい物語であるが、それは登場人物たちの関係性やトーマスの行動原理がまったく見えてこないことにある。スタジオの程近くの家に住む美女はいったい誰なのか? なぜ料理を注文しておいて車で去ってしまうのか?
 この映画の原作者のフリオ・コルタサルはラテンアメリカの多くの作家と同様に幻想的な作品を多く書いている作家である。
 そんなことも考えながら映画を反芻していると、なんとなくいろいろなことがわかってくる。現実と非現実を区別するならば、誰が現実の存在で誰が非現実の存在なのかということ。トーマスがエージェントらしい男に見せる老人たちの写真。映画に写真として現れるのは、この老人たちの写真と公園の写真だけである。映画の冒頭で簡易宿泊所(?)から出てきたトーマスがおそらくそこで撮ったのであろう写真。トーマスの行動は若者が夢想する典型的な自由であるように思える。
 すべてが幻想であり、虚構であると考えることは容易だ。しかしこの映画がそんな単純な「夢」物語なのだとしたら、ちっとも面白くないと思う。何でもありうる「夢」の世界で起こる事々を単純な仕組みで描いただけであるならば、ありがちな映画に過ぎない。この映画の優れている点はこれが「夢」物語であるとしても、少なくともある程度は「夢」物語ではあるわけだが、誰の「夢」であるのかがはっきりとしないことだ。いくつもの解釈の可能性があり、どれが正解であるとは決まらない。単純な「夢」の物語と考えず、その現実とのつながり方を考え、いくつもの可能性を考えたほうが面白い。
 少なくとも一部は「夢」であると考えられるのにこの映画は「リアル」である。トーマスが一人になる場面がいくつかあるが、そこで彼は完全に無言である。不要な独り言やモノローグは存在しない。大仰な身振りも存在しない。トーマスを見つめるカメラの目が彼の行動を解釈しているに過ぎない。

さすらい

Il Grido
1957年,イタリア,102分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、エリオ・バルトリーニ、エンニオ・デ・コンチーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツィオ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:スティーヴ・コクラン、アリダ・ヴァリ、ドリアン・グレイ

 イタリアで暮らすイルマのもとに夫が死んだという知らせが届く。イルマはアルドとアルドとの間の娘ロジナと3人で暮らしていた。夫の死を機にアルドは結婚しようというが、イルマは別の男性に心惹かれており、アルドに別れを告げ、家を出てしまう…
 イタリアの巨匠アントニオーニの初期の名作のひとつ。淡々と進む物語と鋭く洗練された映像はまさにアントニオーニらしい。

 アントニオーニの物語は決してまとまらない。この映画もぶつりと切れて終わる断片が時間軸にそって並んでいるだけで、それが一つの物語として完結しはしない。そしてそれぞれの断片も何かが解決するわけではない。その独特のリズムには、ある種の不安感/いらだちを覚えるものの、同時にある種の心地よさも覚える。この物語に反抗するかのような姿勢が1950年代(つまりヌーヴェルヴァーグ以前)に顕れていたというのは、映画史的にいえばイタリアのネオリアリスモがヌーヴェルヴァーグと並んで重要であるということの証明なのだろうけれど、純粋に映画を見るならばそんな名称などはどうでもよく、ここにもいわゆる現在の映画の起源があったことを喜びとともに発見するのみだ。アントニオーニはやっぱりすごいな。
 さて、この映画でもうひとつ気になったのは「水辺」ということ。アルドが出かける土地はどこも水辺の土地で、必ず水辺の風景が登場する。これが物語に関係したりはもちろんしないのだけれど、それだけ反復されるとそこになんらかの「意味」を読み取ろうとしてしまう。本来はアルドがあてもなくさすらってたどり着いたという共通点しかないはずの土地土地が「水辺」という全く別の要素で結びついていることの意味。それはやはりアルドの心理的な何かと結びついているのだろうか? 分かれる直前にイルマがじっとみつめていた水面に映っていた何かを求めて水辺にたどり着いてしまうのだろうか? 映画はそんな疑問も解決することなくぶつりと終わる。それはまるでその「意味」を語ることを拒否しているように見える。
 反「物語」そして反「意味」。すべてに反抗することこそがアントニオーニの映画だということなのだろうか?

マレーナ

Malena
2000年,イタリア=アメリカ,95分
監督:ジョゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジョゼッペ・トルナトーレ
撮影:ラホス・コルタイ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:モニカ・ベルッチ、ジョゼッペ・スルファーロ、ルチアーノ・フェデリコ、マティルデ・ピアナ

 第二次大戦中のシチリア、レナート少年は父親に自転車を買ってもらい、年上の少年たちの仲間にいれてもらう。「半ズボン」といって馬鹿にされる彼だったが、何とか仲間に入れてもらい、彼らについてゆく。彼らが向かった先には街の男の視線を一身に集める妖艶な美女マレーナがいた。レナートは一目で彼女に恋し、一途に彼女を思うようになるが…
 少年の淡い恋に戦争を絡めて描いたトルナトーレ監督得意のノスタルジックな作品。古い街並みとエンニオ・モリコーネの音楽は絶品。

 映画に美しさを求めるならば、この映画はまれに見る優れもの。フィルムに刻まれた街並みと、マレーナの美しさ。モリコーネの音楽、美しいものがはかなく崩れ落ちてゆくときのさらなる美しさ。
 しかし、ドラマとしてみると、私には展開が単調でロマンティックすぎるように思える。物語のすべてが明らかで謎がなく、唯一のどんでん返しも物語の展開から推測できてしまう。しかも明確なメッセージがこめられていて、そのメッセージのために物語が単純化されすぎている。男と女、少年、大衆、夫と妻などなど舞台を大戦中にしたことで現代では偏見として切り捨てられてしまうようなことをあたりまえの事として描いてしまえるわけだが、それを当たり前に描いてしまうところにこの映画の限界がある。ノスタルジーとロマンティシティ。ただこれだけが作品から滲み出してくる。現代でもこの映画に描かれるような「愛」の形は感動的なものとしてみられるのかもしれないけれど、私には過去に対する感傷としか思えませんでした。
 と、物語には否定的ですが、モニカ・ベルッチの美しさには抗うことはできず、男たるものの悲哀を感じもしたのでした。それともう一つ美しかったのは、街が爆撃されるシーンで、高い建物のうえで爆発が起きるところ。なんとなく古い町並みと爆発という一種のミスマッチが美しかったのでした。

シャンドライの恋

Besieged
1998年,イタリア,94分
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
原作:ジェームズ・ラスタン
脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、クレア・ペプロー
撮影:ファビオ・チャンケッティ
音楽:アレッシオ・ヴラド
出演:デヴィッド・シューリス、タンディ・ニュートン、クラウディオ・サンタマリア

 ローマの古びた邸宅で家政婦をしながら医学生として暮らすシャンドライ。彼女はアフリカのとある国で夫が政治犯として逮捕され、イタリアにやってきた。彼女の暮らす邸宅にはピアニストのキンスキーがひとりで暮らしていた。キンスキーはやがてシャンドライに思いを寄せるようになるが…
 大作で知られる巨匠ベルトルッチが撮った小品。ベルトリッチらしい緊迫感がありながらシンプルで美しいラヴ・ストーリーに仕上がっている。ベルトリッチが苦手という人でもきっとすんなり受け入れられるはず。

 言葉すくなになります。ベルトルッチの映画はいつも言いようのない刺すような緊迫感が画面から漂う。彼の映画のほとんどは緊迫した場面で構成される映画だから、それは非常にいい。しかし、他方で彼の映画は強すぎ、見るものをなかなか受け入れようとしない。「1900年」の5時間にわたる緊張感を乗り切るのは非常につらい。
 この映画は同じ緊迫感を漂わせながら、何に対する緊迫感であるのかがはっきりしない。シャンドライがクローゼットを開けるとき、彼女はなにを恐れるのか?このシンプルなドラマに対する過剰な緊迫感。そのアンバランスさはともすれば映画全体を崩しそうだが、ベルトリッチはそれを食い止め、セリフに頼ることなく物語ることを可能にした。
 ほとんど語り合うことなしに、コミュニケーションを続けるシャンドライとキンスキーの間の緊迫感は2人の感覚を研ぎ澄まさせ、その研ぎ澄まされた感覚が感知した雰囲気をわれわれに伝える。それを可能にしたのがベルトリッチならではの緊迫感というわけ。たとえば、シャンドライの視点で語られる(言葉で語られるわけではないけれど)場面で、画面にシャンドライ自身の影がすっと入ってくるとき、われわれはその黒い影にはっとする。それはつまり画面に対する感覚が鋭敏になっていることを意味する。ベルトルッチの映像が美しいと感じるのはただ単に彼の画面作りがきれいだからというだけではなく、そのような緊張感の下に置かれたわれわれの感覚が平常より深くそれを感じ取ることができるからでもあるだろう。
 わたしはいままでベルトリルッチの作品を見ながらその強さに太刀打ちできなかったが、この作品を見てその理由が少しわかった気がする。彼の作り出す緊迫感は見る側の感覚を研ぎ澄ませるためにあるのだと。果たしてそれを長時間維持できるのかはまた別の話…
 90分くらいなら持つけど、5時間はやっぱり無理かもね…

アルジェの戦い

La Bataille d’Alger
1966年,イタリア=アルジェリア,122分
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
脚本:フランコ・ソリナス
撮影:マルチェロ・ガッティ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ

 少年の頃から犯罪を繰り返してきたアリは街角でもぐりの賭博をして、またつかまった。しかし彼は刑務所でひとりの囚人が処刑されるのを眼にする。釈放後独立運動に加わった彼はその無謀とも言える勇敢さでリーダーとなっていく。
 1950年代後半から1960年代にかけてアルジェリアでは独立運動が展開され、独立戦争と言える規模に発展した。その初期に解放戦線のリーダーのひとりであったアリ・ラ・ポワンテを中心に解放戦線の活動を描いた作品。

 これはもちろん一つの革命映画である。しかし、ある程度完了した革命を記憶するためものとして作られている。プロパガンダとしてではなく、記録として。この映画がそういったものとして評価されるときにおかれる力点は「客観性」ということだろうと思う。解放戦線の側に肩入れしていることは確かだが、必ずしも解放戦線を無条件に賛美しているわけではない。無差別テロの場面を描けば、一般のフランス人を殺す彼らに反感を覚えもする。
 しかし、この映画の革新的なところはアルジェリア人の側(被植民者の側)にその視点を持ってきたということである。それまでは確実に「西洋」のものでありつづけた映画を自分たちのものにしたこと(それがイタリア人の監督の手を借りたものであれ)には大いに意味があるだろう。
 ただ、今見るとその「客観性」がまどろっこしい。アルジェリア人の視点に立つならばアリを徹底的にヒーローとして描くほうが分かりやすかっただろうに。なぜか…、と考えると、観衆としての西洋の人たちが浮かんでくる。この映画はイタリア映画で観衆の中心はヨーロッパの人たちだろう。その人たちに映画を受け入れさせる(ひいては映画の背景にある革命の精神を受け入れさせる)ためには、フランス人を完全な「悪」の側にまわすわけには行かないというところだろうか。視点をはじめからアルジェリア人の側に固定するのではなく、視点のゆらぎを利用しながら徐々にアルジェリア側への同一化作用を狙う。それがこの映画の戦略なのではないかと思う。