長江にいきる 秉愛の物語

ダムをめぐって人々から伝わってくる生々しい中国が濃い!

秉愛
2007年,中国,117分
監督:フォン・イェン
撮影:フォン・イェン、フォン・ウェンヅ

 三峡ダムの建設に伴い、水中に沈むことになる集落に暮らす秉愛は、体の弱い夫と2人の子供を抱え、毎日身を粉にして働いていた。そんな秉愛の集落もいよいよ退去しなければならなくなるが、秉愛は頑として退去に応じず、役人の度重なる要請も断って毎日畑に通うのだった…
 日本留学中に小川紳介の作品を見てドキュメンタリーを撮り始めたという監督が7年間にわたって撮影した作品。2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でアジア最優秀賞に当たる「小川紳介賞」を受賞した。

 作品は主人公の“おばさん”秉愛の恋の思い出のモノローグではじまる。夕暮れの川辺で洗濯をする秉愛の映像をバックに「昔は恋をした」なんていう語りがつけられる。このシーンの眼目は望まない結婚だったということであり、それにもかかわらずいまは彼女は家族のために頑張っているのだ。彼女は、役人たちに反論して追い返し、自分の畑を見下ろしながら、畑を広げてもっと豊かな生活を送るという夢を語る。

 その彼女の姿は、強い“母”として魅力的である。貧しさにも苦境にも負けずに家族のために頑張るという母親像が明確なものとしてイメージされている。そして、「強い」と同時に「優しく」もある。役人とのやり取りでは強い口調でまくしたてるが、夫や子供は優しく気遣い、カメラに向かってははにかんだ笑顔を見せる。そんな彼女の人間性がこの作品の最大の魅力なのだろう。

しかし、どこかで自分勝手なのが「中国人らしい」と思ってしまう。日本人の感覚から言うと、ある程度の決め事によって退去せざるを得ないということになってしまえば、仕方ないから退去して、その上で交渉をするというのが「普通の」感覚だと思うのだが、この秉愛は納得がいかないことは納得がいかないといい続け、退去すること自体を拒否する。

 そして、その自分勝手さが非常によく出ているのが、村の話し合いの光景だ。このシーンでは村人達が移住後の土地の割り当てなどについて話し合っているのだが、一人の男が突然「自分を特別扱いしろ」と言い出す。そうでなくても点でばらばらな発言をしてまとまりのない話し合いは、さらにまとまらなくなるのだが、最後はなんとなく挙手によって話が決まる。

 これはその土地の雰囲気が生々しく伝わってくる非常にいいシーンだと思う。そしてそれは同時に観ている者との価値観の違いも浮き彫りにする。ドキュメンタリーというのはその対象となっているものに共感しなければ意味がないものではない。そこに映っているリアルと自分のリアルとがぶつかることで、自分のリアルを相対的に眺めることができるということによっても意味を生み出すことができるのだ。

 そして、このシーンは同時に村人達と秉愛との違いも明らかにする。秉愛はあくまでも自分と家族というたち位置を明確にして、そこから移住ということを考えているのに対し、村人達は他の人との相対的な関係として移住を考えているのだ。秉愛はおそらく村では少し孤立した存在で、その違和感がこの作品に絶妙の味わいを与えているのだろう。

 難点はといえば、この三峡ダムの計画の全貌が明らかにならない点だ。三峡ダムという巨大なダムの建設の事実と、それに伴う住民の退去という事実を知っていて見始めればよいが、そのような予備知識なしにいきなり見始めると、このおばさんはいったい何をごねているのかという気分になる。彼女の家の場所と畑の場所、そして移住場所として割り当てられた土地との位置関係も今ひとつわかりにくいので、彼女の訴えの切実さが今ひとつ伝わってこないのだ。たとえば、彼女が家から畑に向かう道のりや、そこから新しい移住場所を見上げる画があれば、描かれている空間がとらえやすくなり、もっと秉愛と感覚を共有できたのではないかと思う。

 監督によれば、秉愛以外の女性を中心に撮ったフィルムもあり、それらを編集してまた違う作品を作るという。そちらを見れば全貌がわかりやすくなり、この『秉愛』についても理解が進むのではないかと思う。

ウォルマート/世界一の巨大スーパーの闇

嘘つきで守銭奴で差別主義者、それがウォルマートだよ!

Wal-Mart: The High Cost of Low Price
2005年,アメリカ,98分
監督:ロバート・グリーンウォルド
撮影:クリスティ・テュリー
音楽:ジョン・フリッゼル

 世界最大の小売企業ウォルマート、年間売り上げ40兆円、従業員210万人という大企業が成長を続け、巨額の利益を上げることが可能な理由とは?
 映画監督でプロデューサのロバート・グリーンウォルドが巨大企業の闇にせまった社会派ドキュメンタリー。アメリカでは劇場公開されて大きな話題を呼び、ウォルマートの経営方針にも影響を与えたといわれる。

 ウォルマートといえば日本でも西友を子会社化して間接的に進出しているが、アメリカでは他の追随を許さぬ巨大スーパーマケットチェーン。その売上が年に40兆円に上ることが作品の冒頭で明かされる。40兆円という金額はちょっと想像がつかないが、日本の国家予算(一般会計)の約半分と考えるとそのすごさが少しわかる。

 そしてこの映画はオハイオ州の田舎町でウォルマートの進出によって店をたたまざるを得なくなった家族のエピソードから始めることで、この巨大企業の負の側面を描こうとしていることがわかりやすく示される。ただ、大規模なスーパーマーケットの進出によって個人商店がつぶれるというのは日本でもよく聞く話、それだけではお話にはならない。

 この作品が描くウォルマートのひどさは、この巨大企業が競争相手を叩き潰すだけではなく、従業員、顧客、工場労働者を搾取して利益を生み出しているという点だ。特に前半に描かれる従業員に対する搾取は凄まじい。アメリカの医療保険制度の不備は『シッコ』などにも描かれているが、ウォルマートの医療保険はそんなアメリカの中でもひどく、従業員のほとんどが保険料を払えない。それどころかウォルマートの従業員の中はフルタイムで働いているにもかかわらず生活保護を受けている人までいるという。こんな会社は聞いたことがない。

 その後も出てくるのはウォルマートに対する批判、批判。ウォルマートの経営者は嘘つきで、守銭奴で、差別主義者で、ろくでなしである。それは間違いないようだ。

 もちろん、それは一方的な非難でもある。この作品はウォルマートを徹底的に悪者にし、CEOの映像を道化のように使い続ける。その証拠はない。しかし終盤で登場するウォルマートに対抗する人たちが口々に語るようにウォルマートという巨大な権力に対して市民はあまりに無力なのだ。その力の差を覆すには時には嘘も交えた詭弁を弄するしかないのだ。

 圧倒的に不利な戦いを正攻法のみで戦うというのは自殺行為だ。敵が嘘を武器として使うならこっちも使う、そんな汚い手段も許せるほどにこの映画に描かれたウォルマートはひどい。

 この作品が公開され反響を呼んだ結果、ウォルマートの体質も少しは改善されたらしい。駐車場の警備は強化され、ハリケーン“カトリーヌ”の被害者に対する支援を行ったという(MXテレビ放送時のコメント)。この作品当時世界長者番付の6位から10位に名を連ねていた創業者の遺族は、2007年版では23位から26位に位置している。まあそれでもその合計は800億ドル異常だが3年間で20%ほど減少している。

 創業者一家の金持ちぶりはともかくとすれば、この作品は1本の映画が巨大な権力を動かす力になりうることをある程度証明したと言うことができるだろう。この作品以外でも『スーパーサイズ・ミー』がマクドナルドを動かすなどの例もある。

 とにもかくにもこういう作品が作られなければ、普通の人々にその闇が知られることもない。日本のイーオンやユニクロは本当に大丈夫なのか、大きな企業の活動というのは注意深く見なければならないのだということを改めて認識させてくれる映画だ。

雪の下の炎

自らのプロパガンダ性を暴露してまで訴える“正義”の映画

Fire under the Snow
2008年,日本=アメリカ,75分
監督:楽真琴
撮影:ブラディミール・スボティッチ、リンク・マグワイア、楽真琴
音楽:アーロン・メンデス
出演:パルデン・ギャッツォ、ダライ・ラマ14世

 1959年のラサ蜂起に際して逮捕されたチベット僧のパルデン・ギャッツォは33年間に渡る囚人生活で幾多の拷問を経験し、多くの仲間の死を目にしてきた。現在はインドに亡命してチベット独立のための運動を続ける彼はアメリカやイタリアに渡って世界に訴えかける。
 中国のチベット弾圧の生き証人パルデン・ギャッツォの半生と現在の活動を追ったドキュメンタリー。監督はNY在住の日本人監督楽(ささ)真琴、これが初の長編作品になる。

 チベットにおける中国による人権侵害は、2008年の北京オリンピックに際して大きな問題となった。そしてその翌年2009年は1959年のラサ蜂起から50年という節目の年を迎え、その問題にさらに焦点が当てられることとなった。

 そしてこの映画の主人公パルデン・ギャッツォはその50年のうち33年間を囚人として過ごしたチベット僧である。しかも彼が刑務所に入れられた理由は簡単に言ってしまえばチベット独立を訴えたからである。しかもその間、度重なる拷問が行われ、周囲では仲間が次々と死んでいった。

 この映画はそのパルデン・ギャッツォが1996年のチベタン・フリーダム・コンサートで自分の拷問に使われた“電流棒”を示すところからはじまる。しかし彼はその悲惨な自分の状況を無表情に語り、舞台裏では満面の笑顔を浮かべる。衝撃的な事実と彼の魅力、それが冒頭にはっきりと示されて見るものは彼の人生にぐっと引き込まれる。

 このドキュメンタリーはパルデン・ギャッツォという魅力的な人物を通して「チベット解放」を訴える映画である。ドキュメンタリーには乱暴な言い方をすれば2つある。ストレートな主張をする映画と客観的に観察する映画である。ほとんどのドキュメンタリーはこの2極の間のどこかにあるといえるのだが、この作品は「主張をする映画」という極にほぼ一致する位置にある。

 その内容は今までなかなか私たちの目には触れることのなかったチベット弾圧の事実を白日のもとにさらすものであり、正義を主張するものである。虐げられているチベットの人たちに目を向けろと世界に訴えるそんな正義の映画だ。

 ただそのためには手段を選ばない。中国政府は徹底的な悪人に仕立て上げられ、IOCまでもそれに加担する“敵”のような描かれ方をする。作品の中にはパルデン・ギャッツォの平和だった子供時代を想起させるようなスチル写真や回想シーンじみた再現フィルムが挿入される。それは彼の少年時代そのものを記録したものでは決してないにもかかわらず、彼の半生を語る文脈の中で何の説明もなく使われる。

 中国政府が刑務所で行った暴力的な“洗脳”とはもちろん比べるべくもないが、一方的な情報を都合のいい創作まで加えて伝えるというのはプロパガンダへの道を開く。しかし、この作品はプロパガンダに陥るすれすれのところで踏みとどまっていると私は思う。それはこの創作部分が「明らかに」彼の少年時代そのものではないというところにある。明らかに事実そのものではない映像を挿入することで、自身のプロパガンダ性を明らかにしているのだ。

 世界を目覚めさせるには極端と言っていいほどの刺激が必要になることもある。この作品はあえてプロパガンダ的な要素を取り入れることで刺激を強め、見る者の無知を攻撃する。事実のような顔をしたドキュメンタリーが必ずしも客観的な視線を保っているとは限らないということを自ら暴露しながら、なおも主張し続ける。その主張は確かに力強い。

 ただその内容は決して暴力的ではないということも最後に言っておく必要があるかもしれない。パルデン・ギャッツォは本当に強い人間だが、あくまでも優しく慈愛に満ちている。彼の優しい笑顔こそがこの映画の最大の武器なのだ。

アフター・デイズ

Aftermath
2008年,ドイツ,87分
監督:クリストファー・ロウリー
脚本:スティーヴ・ミルトン
撮影:フランク・ヴィラカ
音楽:クリストファー・デトリック
出演:マイク・マッカーリー(声)

 今から1分後に全世界の人類が消滅したとしたら… 人類のいなくなった世界では数時間後に電力が止まり、動物が自由を得る。しかし同時に汚染物質や原子力発電所などは危機を招きうる…
 緻密な理論とCG技術によって人類消滅後の世界をシュミレートしたドキュメンタリーというかなんというか。

 「今突然人類が消滅したら」というまったくもってありえない前提ではじまるこのドキュメンタリーはもやはドキュメンタリーではないわけだがでもまあ劇映画ではないわけで、一応ドキュメンタリーの範疇に入れておく。

 この映画のよさは前提が完全にありえないために、どのような結果になってもそれはあくまで想像上のことでしかないということが明らかになっている点だ。この作品は決して人類に警句を発しているわけではない。環境をテーマにしたドキュメンタリーというとどうしても見ている人を脅かすような警鐘になっている場合が多いが、これはそうではないということだ。

 見ている人はただ淡々と変わり行く世界を眺める。発電所が止まり、電力が止まることで汚染物質が流れ出したり、最終的には原子力発電所が臨界を起こしたりする。しかし人間のいない地球の時間は止まらない。人間の作り上げた多くの構造物は時間とともに劣化し、崩壊する。動物や植物は生き残り、環境は変化し、気候も変わる。

 ただそれだけだ。退屈といえば退屈だが、この作品からはいろいろなことが考えられる。今人間が地球に対して行っていることの意味、もし“人類が消滅しなかった”場合にどうなるかという予測、人類が今の生活を維持するために必要としているさまざまなこと。そんなことが頭をよぎり、いろいろと考える。

 この作品のシュミレーションはおそらく正確ではないだろうし、もしかしたら実際にはまったく違うことが起きるのかもしれない。シュミレーションの対象となっている地域が北米とヨーロッパの一部に限られているのも納得がいかない。しかし、そもそもが絵空事なのだから、そんな欠点にいちいち目くじらを立てる必要はない。足りないものは自分の頭で補って自分なりにこの素材を消化して、自分のものにすればいいのだ。

 そして、CGの質もかなりのものだ。明らかにアニメーションにしか見えないところもあるが、かなりリアルなところもあって、人間のいない世界を創造するのに十分なリアリティを備えている。絵空事ではあるけれど、ありえないことではない。そんな感覚を与えてくれる。

 この作品が与えてくれる人類が唐突にいなくなった地球のビジョンが私に語りかけてきたのは、まだ取り返しはつくということだ。人類が突然消滅するという大変革がおきなくとも、私たちは自分達人類の存在を薄めて地球の回復力を助けることができる。今の地球を病気の人だと考えるなら、人類の消滅というのはいわば決定的な特効薬だ。副作用もあるけれど病をもとから絶つことができる。しかし人類としてはそんな特効薬を使われてしまっては困るわけで、それならば地球に寄生する生き物のとして、宿主がなるべく長生きでき、かつ自分達が快適にいられるようにできる限りのことをするべきだ。そんなことを私は思ったが、果たして皆さんはどうでしょうか?

おいしいコーヒーの真実

アフリカ最大のコーヒーの産地エチオピア、そのエチオピアのオロミア州の農協連合会の代表タデッサ・メスケラはコーヒー価格の下落を嘆く。彼は貧困にあえぐコーヒー農家たちが正当な収入を得ることができるためにさまざまな対策を練り、時には海外に直接売込みにも行く。しかし、そこには巨大な多国籍企業の大きな壁が…

イギリスのドキュメンタリー作家フランシス兄弟の長編デビュー作。サンダンス映画祭で賞賛された硬派なドキュメンタリー。

この作品のチラシやポスターには緑色のロゴのカップが描かれ、330円のトールサイズのコーヒーのうち、コーヒー農家に行くのは3円から9円に過ぎないと書かれている。

が、映画を見るとこの広告の割合もまだましだということがわかる。実際にエチオピアの農家に支払われる額は当時で1キロ当たり約1ブル(=0.12ドル)、1キロの生豆から約80杯のコーヒーが取れるとして、1杯あたりではわずか0.15セントである。

いくら物価が安いとは言っても、さすがにそれではどうにもならず、コーヒー農家たちは貧困にあえぐ。その貧困が深刻化したのは80年代の国際コーヒー協定の破綻から。コーヒー価格の下落が直接生産者の収入源につながったというわけだ。

この作品はその生産者の窮状とそれを何とか改善しようと頑張る農業連合会代表のタデッサの活動を中心に描く。タデッサはコーヒーが消費者に届くまでの中間業者の多さを訴え、生産者が直接焙煎業者に売る方法を模索する。中間業者を省くことで正当な報酬を生産者に支払うことができる、つまりフェア・トレードである。

大学でのインテリであるタデッサは英語を駆使してイギリスやアメリカに飛び、直接アピールする。

この作品は映画としてははっきり言ってあまり面白くない。知らなかったことを知ることができるという意味では意義深いが、単純に事実を並べ、貿易の不公正や貧困をくり返し訴えるだけなのだ。貧困にあえぐアフリカの人々と、コーヒーを娯楽として楽しむ欧米の人々を対比させようという意図は見えるのだが、そのつながりが希薄で今ひとつ効果的ではない。出来れば、バリスタ世界大会の優勝者に「このコーヒーの価格のうち何パーセントが生産者に言ってるか知っているのか?」などという質問をぶつけて欲しかったろころだ。その行儀のよさが作品のインパクトを弱める結果になってしまっているのは残念だ。

ただ、このタデッサおじさんの人柄や姿勢は見る人をひきつける。彼は本当にエチオピアという国の将来を憂い、農民の一員として彼らの生活を改善することを願っている。外国からの援助に頼らなくてもすみ、子供たちが教育を受けられるようになること、ただそれだけが彼らの望みなのだ。農業保護政策で守られたアメリカの農家が作った小麦が援助物資としてアフリカにやってくる。コーヒーを正当な価格で買ってくれさえすれば、それは援助ではなく貿易品としてやってくるはずなのに。

この作品を見たらもうフェアトレードのコーヒーしか買えないという気がしてきてしまう。巨大な多国籍企業が流通させているコーヒーを買うたびに私たちはアフリカの農民達を苦しめることになるのだ。もちろんフェアトレードのコーヒーのほうが高い、しかしその価格差は1.5倍程度だ。その価格差は多くの場合フェアトレードのコーヒーのほうが質が高いことを考えるとそれほど大きなものではない。それで生産者には2倍3倍の収入になるのだ。

何気なく買い物をしていると目に付かないものだが、気をつけてみればフェアトレードのコーヒーというのは結構売っている。この作品で槍玉にあがっているスターバックスでさえ(わずか1種類だが)フェアトレードのコーヒーを売っている。イオンや西友でも売っている。通販でも売っている。

私たちは大企業を通して生産者からコーヒー豆を安く買い叩いている。この作品からコーヒー豆の流通の構造を知ることで、世界の経済の仕組みが少し見える。そして、それは多国籍企業体が支配する経済体制への抵抗の第一歩であるのだと思う。

DATA
2008/8/7
Black Gold
2006年,イギリス=アメリカ,78分
監督:マーク・フランシス、ニック・フランシス
撮影:ベン・コール、ニック・フランシス
音楽:クンジャ・シャタートン、マット・コールドリック、アンドレアス・カプサリス

ロバート・イーズ

Southern Comfort
2000年,アメリカ,90分
監督:ケイト・デイヴィス
撮影:ケイト・デイヴィス
音楽:ジョエル・ハリソン
出演:ロバート・イーズ、ローラ・コーラ

 典型的な南部の郊外のトレーラー・ハウスで暮らすロバート・イーズ。どこから見ても普通のおじさんという彼だが、実は女性として生まれ二人の子供まで生んだ後、性転換手術を受け、男性となった。そして今は、子宮と卵巣が末期のがんに侵され、余命いくばくもない状態だった。しかし、彼は秋に開かれるトランスセクシャルの大会(サザン・コンフォート)にもう一度参加することを夢見て、パートナーのローラと懸命に生きるのだった。
 アメリカでも好機の目にさらされるTS(トランスセクシャル)やTG(トランスジェンダー)の問題と真っ向から向かい合ったドキュメンタリー。非常にわかりやすく問題の所在を描き出している。

 TSやTGという人は実際はきっとたくさんいて、ただそれが余りメディアに登場しない。日本では金八先生で「性同一性障害」が取り上げられて話題になったけれど、本当はこれを病気として扱うことにも問題がある。しかし、この映画でも言われているように、性転換手術には膨大な費用がかかるので、保険の問題から病気といわざるを得ないということは言える。性別の自己決定権というかなり難しい問題を理解するひとつの方法としてこの映画は多少の役には立つ。
 実際の問題はそのような理知的なレベルではなくて、いわゆる偏見のレベルにある。「気持ち悪い」とか「親にもらった体なのに」という周りの偏見や勝手な思い込み、これが彼らのみに重くのしかかる。マックスの妹のように身近にそのような人がいればその痛みがわかるのだろうけれど、いないとなかなかわからない。だからこの映画のように、メディアを通じてその痛みを感じさせてくれるようなものを見る。それでも本当の痛みはわからないけれど、何もわからず彼らを痛めつけてしまうよりはいいだろう。
 この映画は、ひとつの映画としては死期の迫った一人の男を追ったドキュメンタリーにすぎず、彼がたまたまトランスジェンダーであったというだけに見える。そのことが強調されてはいるが、それによって何か事件が起こったりするわけではない。穏やかに、普通の人と同じく、一つの生きがいを持って(TSの大会に参加すること)、生きる男の物語。
 だから、特にスペクタクルで面白いというものではないけれど、逆にこのように普通であることが重要なのだ。「普通の人と同じく」と書いたけれど、彼らだって普通の人と変わらないということをそれを意識することなく感じ取れること。つまり、「彼らも普通の人と変わらないんだ」と思うことではなく、「何だ、普通の話じゃん」と思えてこそ、彼らの気持ちに近づいているのだと思う。
 そう考えると、この映画は見ている人の意識を喚起させるのには役立つけれど、彼らは普通の人とは違うととらえているところがあるという点では被写体との間すこし距離があるのではないかと思う。

エトワール

Tout pres des Etoiles
2000年,フランス,100分
監督:ニルス・タヴェルニエ
撮影:ニルス・タヴェルニエ、ドミニク=ル・リゴレー
出演:マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル・リッシュ、オーレリ・デュポン

 パリ・オペラ座のバレエ団、「エトワール」と呼ばれるソリストたちを頂点にある種の階級が存在し、だれもがエトワールになることを夢見ている。しかし、学校時代から続くそのための競争、エトワールになる以前の「コリフェ」「カドリーユ」としても群舞、それらをこなす生活は厳しい。エトワールになったしても、そこには厳しい自己管理の生活が待っている。それでも彼らはバレエを生きがいとして踊り続ける…
 『田舎の日曜日』などで知られるベルトラン・タヴェルニエの息子ニルス・タヴェルニエがバレエ団に3ヶ月密着し、練習、公演の光景にインタビューを加えて作り上げた初監督ドキュメンタリー作品。

 バレエをする人たちの肉体は本当に美しい。それはワイズマンの『BALLET』のときも思ったことだけれど、その肉体と体の動きの美しさには本当に魅了されてしまう。この映画でもとくに練習風景の体の動きなどを見ると、とてもいい。舞台監督が演技をつけているときの、動きの違いによる見え方の違いなんかも見た目にぱっとわかるくらい違うのがすごい。
 だからといって、その美しさばかりを追っていていいのかどうかというのが映画の難しいところ。ただただ踊るところばかりを見せていては映画にならないので、インタビューなんかを入れる。インタビューを入れることはもちろんいいし、それによって彼らの抱える問題とか、バレエ団がどのようなものであるかとがいうことがわかってくる。しかし、問題なのは、映画にこめるべきメッセージをインタビューに頼りすぎると、映画としての躍動感が失われてしまうということ。バレエダンサーは肉体によって自己を表現するもので、言葉によって表現するものではない。そのことをないがしろにして言葉に頼ってしまうと、バレエの持つ本来の魅力が映画によって減ぜられてしまうことになりはしないだろうか。この映画のインタビューはそれ自体は面白いのだけれど、そういう説明的な面がちょっとある。
 たとえば、練習風景で代役の人たちがそっと練習しているところをフレームの中に捉えているところが結構ある。彼らが代役であることは説明されなくてもわかるのだが、この映画ではそのあと代役を割り当てられた人たちの話が入る。そのインタビューはノートを見せて説明したりして楽しいのだけれど、何かね。ドラマを作り方なのか。最後には代役から出演が決まったダンサーを映すあたりのドラマじみたところがどうもね。
 というところです。この映画でいちばん魅力的なのは「エトワール」になる以前のダンサーたちであって、彼ら、彼女たちのナマの姿さえ伝われば、そこにドラマはいらなかったという気もする。群舞の中の4人が手のつなぎ方を話しているところなんかはそれだけで、そこにいろいろなドラマがこめられていて楽しいのだから。後は、スチールがすごくいい写真でした。映画としてはちょっと卑怯な気もしますが、写真自体はすごくいい写真でなかなか感動的。

ビートニク

The Source
1999年,アメリカ,88分
監督:チャック・ワークマン
脚本:チャック・ワークマン
撮影:アンドリュー・ディンテンファス、トム・ハーウィッツ
音楽:デヴィッド・アムラム、フィリップ・グラス
出演:ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、ジョニー・デップ、デニス・ホッパー

 1950年代に現れ、アメリカの新しい若者文化を生み出したビート族(ビートニク)。その元祖とも言えるジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズの3人を中心に、彼ら自身が登場する映像、インタニューなどのフィルムに加えて、彼らの知己たちへのインタビュー、ジョニー・デップらによるポエトリー・リーディングを使ってその全貌を明らかにしようとするドキュメンタリー。
 ビートニクのファンの人たちにとってはとても魅力的な作品。ビートニクを知らない人たちにとっては勉強になる。

 つくりとしてはものすごく普通のドキュメンタリーなわけです。残っている映像を収集して、それをまとめてひとつの作品にする。作品として足りない部分はインタビューやポエトリー・リーディングによって補う。「知ってるつもり」の豪華版のようなものですね。
 なので、ビートニクとはなんぞやということを知らない人にとっては一種の教養番組というか、新しい知識を映像という形で取り入れる機会になるわけです。しかも、本人が出てきたり、具体的な作品も使われているのでわかりやすい。ケルアックの『路上』ぐらいは読んでもいいかなという気になるわけです。
 一方、ビートニクが好きな人、日本でも結構はやっていますので、そういう人も多いと思うわけですが、そういう人たちにとっては本人が登場するということでなかなか見ごたえがある。コートニー・ラブが出ていた『バロウズの妻』とか、バロウズ原作の『裸のランチ』とかいった映画は結構あるんですが、本人が出ているものといえば、『バロウズ』という映画があったくらい。なので、これだけ本人の映像が満載というのは、特にケルアックのものは、ファンにはたまらないという気がします。
 という映画であるのですが、そのどちらでもない人、ビートニクは知っているけど、別にそれほど好きではない、という人にはなかなか入り込めないかもしれない。物語の展開が工夫されているわけでもないので、なかなか興味を継続しにくいというのもあります。詩のいっぺんとか、ひとつの発言なんかがうまく引っかかってくれればいいのですが、そうではないと、出てくる人たちも名前を出されても誰だかよくわからないし、言っていることもよくわからないということになってしまう。大体の人はここにはまりそうな気がします。

三人三色

Digital Short Films by Three Filmmakers
2001年,韓国,92分
監督:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、ツァイ・ミンリャン
脚本:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、リサ・ハットニー、ツァイ・ミンリャン
撮影:ユー・リークウァイ、ジャ・ジャンクー、ドゥウォルド・オークマ、ツァイ・ミンリャン
音楽:ダリオ・マリネッリ

 香港のジャ・ジャンクー、イギリスのジョン・アコムフラー、台湾のツァイ・ミンリャンの3人が「デジタルの可能性」をテーマにデジタルビデオで30分の短編を作り、それをオムニバス作品にしたもの。
 ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』は多分中国の北部の鉄道の駅やバス停に集まる人々を淡々と撮影した作品、ジョン・アコムフラーの『デジトピア』はデジタルミックスされたラヴ・ストーリー、ツァイ・ミンリャンの『神様との対話』はデジタルビデオの機動力を生かして祭りやシャーマンを撮影した作品。
 3作品ともかなり見ごたえがあるので90分でもかなり疲れます。

 一番印象に残っているのは2番目のジョン・アコムフラーのお話なんですが、まず映像のインパクトがかなりすごくて、幻想的というか、妄想的というか、黙示録的というか、派手ではないけれど頭にはこびりつく感じ。物語のほうはすべてが電話での会話とモノローグで成り立っていて、映るものといえばとくに前半は男が一人でいるところばかり。たいした物語でもない(30分でたいした物語を作るのも大変だが)し、よくある話という感じだけれど、その映像のなんともいえない味が映画全体にも影響して、不思議な印象を受ける作品でした(だからといって特別面白いというわけではない)。
 他の2作品は一見普通のドキュメンタリーで、ツァイ・ミンリャンのものは完全に普通の(上手な)ドキュメンタリーになっているわけですが、ジャ・ジャンクーのほうは何かおかしい。というか面白い。

 ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』という作品は一見よくあるドキュメンタリーで、市井の人々を人が集まる駅やバス停で映した作品に見える。しかし、この作品で気になるのは映っている人たちがやたらとカメラのほうを見、カメラについてこそこそと話をすること。「台湾の有名な監督らしい」といったり、カメラに向かって髪形を整えてみたり、とにかくカメラを意識する。普通のドキュメンタリーだと、そういう場面はなるべく排除するか、あらかじめ了解を取ってあまりカメラを見ないようにしてもらう(あるいは共同することで自然にカメラを気にしなくなる)かするのだけれど、この映画はそのような努力をせずに、逆にカメラを意識させるようなショットを集めて編集している印象がある。
 最初のエピソードからして、メインの被写体となる男性はカメラを意識していないのに対して、そこにたまたま居合わせた男性はやたらとカメラのほうを見る。この対比を見せられると、メインの被写体となる男性は撮影者との了解があって、カメラを見ずに行動している(ある種の演技をしている)のだと思わずにはいられない。他の場面でも何人かの人は一度カメラを見つめ、それを了解した上で、そのあとは自然になるべくカメラを意識しないように行動しているかのように見えることがある。
 これらのことがどういうことを意味するのかと考えてみると、この『イン・パブリック』という映画は、イン・パブリックで、つまり公衆の中でカメラを回し、それを切り取った映画などではなくて、イン・パブリックにあるカメラがどのような存在であるのか、つまり公衆の中でカメラを回す行為というのがどういう意味を持つのかということを描こうとしている映画であると考えることができる。
 それはつまりドキュメンタリー映画を作る過程というものを浮き彫りにし、それが必ずしも日常を切り取ったものではないということ、カメラが存在するということがすでに人々を日常から切り離しているということ、カメラの前で自然に振舞っているように見える人々もカメラがあることに気付いている限りある種の演技をしていることを明らかにしている。それはまさにフィクションとドキュメンタリーの間について語ることであり、その観点から言うとこの映画は非常に意義深い映画であるといえる。
 マルセイユ国際ドキュメンタリー映画祭がそのような意味でこの映画をグランプリに選んだのだとしたら、それはとても正当なことだと思う。

平原の都市群

Cites de la Plaine
2000年,フランス,110分
監督:ロバート・クレイマー
撮影:リシャール・コパンス
音楽:バール・フィリップス
出演:ベンアメリー・デリュモー、ベルナール・トロレ、ナタリー・サルレス

 盲目の男ベンは少年に導かれて市場を歩き、なじみの人たちと会話を交わす。女性と一緒に医者のところに行き、治療について話をする。場面はいつの間にか同じ名前のベンという男を映し出し、工場で働き、カフェで何か悩んでいる彼の姿を映す。
 全体に暗いトーンで統一されたドキュメンタリーの映像素材とフィクションの映像素材をを幻想的な一編の物語/詩篇に構成する。クレイマーの遺作となったこの作品は非常に難解で、グロテスク、人の心を騒がせる作品になっている。

 はっきり言ってよくわからなかったです。とくに、おそらく盲目のベンの目に映っていると思われる空想の風景、砂漠と母とイグアナと、それらがつむぎだすイメージの意味というか映画全体の中での位置づけが。
 物語自体は一応筋が通っていて、何の解説もなく時系列が交わっていくのもひとつの仕掛けてして面白いし、盲目のベンの心のありようが非常にうまく伝わってくるのがいい。利己中心的で激しい気性のベンが自ら招いてしまった悲劇と、それによる心の変わりよう。本人が演じる(?)盲目のベンがとてもいい。
 最初のほうの仕掛けは、盲目ということを意識させるための黒画面に音声という仕掛け。これは非常にわかりやすく、お手軽な感じがする。しかし、その後もこの映画は音というかノイズを大きくすることで、聴覚に対する鋭敏さをを表現しているようだが、これがなかなか精神をさかなでされるというか、どうも落ち着いて見られない。わたしはどうもノイズに弱いようで、こういう作品はなんだか苦手。
 逆に意味はわからないけれど、静謐で美しい幻想世界のイグアナのほうに心惹かれる。光るうろこ、恐竜のような背中の棘、イグアナはベンなのか、それとも全体がベンでイグアナは彼の心に潜む何者かなのか、立ち去っていったものは誰か、肉の塊は何を意味していたのか、などなど疑問は尽きないのですが、イメージで語られるものはイメージで理解しろ、ということが映画を見る際に
重要なことだと思うので、イメージで考えてみます。
 寂莫、孤独、乾いた感じ、愛の欠如、生命、孤独、恐怖、愛、悲劇、ある種の適応、、、、、
 という感じですかね。
 イメージの言語化。