残菊物語

1939年,日本,146分
監督:溝口健二
原作:村松梢風
脚本:依田義賢
撮影:三木滋人、藤洋三
音楽:深井史郎
出演:花柳章太郎、森赫子、河原崎権十郎

 六代目尾上菊五郎を継ぐべくして歌舞伎の修行をする尾上菊之助。周囲は大根と陰口をたたくが、本人の耳には届かない。しかし、自分の才能に疑問を抱く菊之助はいたたまれない毎日を送っていた。そんな時、夜道であった弟の乳母お徳が菊次郎に世評を伝える…
 江戸の歌舞伎の世界における浮沈を描いた重たいドラマ。溝口の戦中の作品のひとつで、歌舞伎というあまり知らない世界を描くという点でも非常に興味深い。

 この作品の何が気に入らないのかといえば、ドラマです。菊之助はさまざまな人に支えられ生きていて、本人もそれを受けて成長しているように描かれているけれど、実のところ彼は非常にエゴイスティックなキャラクターだと思う。世間知らずのボンボンであるという人間形成でそれも許されるものとされているのかもしれないけれど、苦労を重ねて芸は磨かれたのかもしれないけれど、人間性はちっとも磨かれていない。にもかかわらず、立派な歌舞伎役者になれた=立派な人間になれたという描き方で描ききってしまうところが気に入らない。エゴイスティックであるにもかかわらず人の意見をすぐに聞き入れてしまうところも気に入らない。
 などと、映画の登場人物のキャラクターに文句ばかり言っても仕方がないのですが、これはおそらく感動を誘う作品であるにもかかわらず、こんな主人公ではとても感情移入ができんといいたかったわけです。感情移入できるのはお徳さんのほう。しかし、菊之助が歌舞伎役者として立派になればそれですべてよしという(愛が故の)徹底的な利他主義というのは納得がいかない。そもそもいつから菊之助にそんなに思い入れるようになったのかもわからない。それじゃ映画に入りこめんわい、といいたい。
 ということで、文句ばかり言っていますが、それでも溝口、他の部分で補います。たとえば、不必要に長いと思えるほどの歌舞伎の場面。大根の時代の場面がないだけに比較対照はできないものの、その歌舞伎の迫力が画面から伝わってくることは確かでしょう。それだけに観客の拍手の多さはちょっとわかり安すぎるかなという気もさせましたが。後は、茶店の場面なども溝口らしさが漂います。町外れの茶店で、そこの婆と菊之助がやり取りをするだけなのですが、そのロングで撮ったさりげなさが溝口っぽい。ドラマティックには演出せず、さりげなくさりげなく撮る。これが溝口だと思いました。
 となるとこれは、可もなく不可もなく、ではなく、可もあり不可もある作品、ということです。

吸血鬼ノスフェラトゥ

Die Zwolfte Stunde
1922年,ドイツ,62分
監督:F・W・ムルナウ
原作:ブラム・ストーカー
脚本:ヘンリック・ガレーン
撮影:ギュンター・クランフ、フリッツ・アルノ・ヴァグナー
出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナック、グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー

 ヨナソンはブレーメンで妻レーナと仲睦まじく暮らしていた。ある日、変人で知られるレンフィールド社長にトランシルバニアの伯爵がブレーメンに家を買いたいといっているから行くようにと言われる。野心に燃えるヨナソンは妻の反対を押し切ってトランシルバニアに行くが、たどり着いた城は見るからに怪しげなところだった…
 「ドラキュラ」をムルナウ流にアレンジしたホラー映画の古典中の古典。ドラキュラの姿形もさることながら、画面の作りもかなり怖い。

 ドラキュラ伯爵の姿形はとても怖い。この映画はとにかく怖さのみを追求した映画のように思われます。この映画以前にどれほどの恐怖映画が作られていたのかはわかりませんが、おそらく映画によって恐怖を作り出す試みがそれほど行われていなかったことは確かでしょう。そんななかで現れたこの「恐怖」、当時のドイツの人たちを震え上がらせたことは想像にかたくありません。当時の人たちは「映画ってやっぱりすげえな」と思ったことでしょう。
 しかし、私はこのキャプションの多さにどうも納得がいきませんでした。物語を絵によって説明するではなく、絵のついた物語でしかないほどに多いキャプション。映像を途切れさせ、そこに入り込もうとするのを邪魔するキャプション。私がムルナウに期待するのはキャプションに頼らない能弁に語る映像なのです。その意味でこの映画はちょっと納得がいきませんでした。なんだか映画が断片化されてしまっているような気がして。
 しかしそれでも、見終わった後ヨナソンの妻レーナの叫び声が頭に残っていて、それに気づいて愕然としました。ムルナウの映画はやはり音が聞こえる。

第七天国

Seventh Heaven
1927年,アメリカ,119分
監督:フランク・ボーゼージ
原作:オースティン・ストロング
脚本:ベンジャミン・グレイザー
撮影:アーネスト・パーマー、J・A・ヴァレンタイン
音楽:エルノ・ラペー
出演:ジャネット・ゲイナー、チャールズ・ファレル、ベン・バード、デヴィッド・バトラー

 パリの貧民街で暮らすディアンヌは酒飲みの姉に鞭打たれ、こき使われていた。そんな二人のところに金持ちの叔父が外国から帰ってくるという便りが来る。精一杯におしゃれして待つ二人だったが… 一方、チコは地下の下水で働きながら地上に出て道路清掃人になることを夢見て崩れ落ちそうなアパートの天井裏に暮らしていた。
 この二人が出会い、展開される愛の物語。サイレント映画というよりは動く絵本。とにかくメロメロのメロドラマ。主演のジャネット・ゲイナーは第1回アカデミー賞の主演女優賞を受賞。

 わかりやすくお涙頂戴。当時の現代版の御伽噺で、「シンデレラ」とか「白雪姫」とかいうレベルのお話です。しかも、キャプションがたびたび挟まれ、趣としては動く絵本。サイレント映画を娯楽として突き詰めていくとたどり着くひとつの形という気がする。
 今回は後にオリジナル・ピアノがつけられた英語版(日本語字幕なし)で見ましたが、サイレント映画を見るといつも、今の映画環境に増して映画というものが一期一会だったのだと実感します。完全に無音だったり、弁士が入ったり、オケがついたりする。これだけ見方うと、ひとつの同じ映画だと言い切ってしまうのは無理があると思えるほどだ。ピアノが単純なBGMではなくて、たとえばこの映画で重要な時計のベルに合わせてピアノを鳴らしたりするのを聞くと、「これがあるとないとではこのシーンの印象はずいぶん変わるなあ」と思ったりする。しかし、どんな見方をしてもこれはひとつの映画で、映像以外の部分は見方の違いに過ぎないのだ。だから、いろいろな見方で見てみるのも面白いと思う。たとえば、小津の『生まれてはみたけれど』を弁士つきと完全に無音の2つの見方で見たことがあるけれど、それはなんだか違うもののような気がした。私は完全に無音の方が好きだったけれど、本来は弁士つきのような見方が一般的だったのかもしれない。
 この一期一会というのはサイレントに限ることではない。今では映画本体は変化しなくなったものの、上映する劇場の設備やサイズによってその印象は違ってくる。もちろんビデオで見る場合などはまったく違うものかもしれない。それにともにそこに居合わせた観客、隣に座っている人なども映画の印象を変えてしまう。
 何の話をしてるんだ? という感じですが、何度も同じ映画を見てもいいよということをいいたいのかもしれません。
 とにかく映画に話を戻して、この映画でかなり印象的なのは画面の色味がカットによって変わること。最初の青っぽい画面から、ディエンヌの家に入ったときにオレンジっぽい画面になる。この2種類の色味がカットによって使い分けられるのが面白い。1シーンでもカットの変わり目で色が変わるところがあったりして、結構効果的。この作品は音が出なかったり、色がつけられなかったりする難点(と監督は考えている)克服しようという工夫がかなり凝らされた作品。サイレント/白黒なりの表現形態を模索したものとは違い、トーキー/カラーに近づこうと努力している映画といえる。この移行期にのみ発想できたこの色の使い方はなかなか気に入りました。

嘆きの天使

Der Blaue Engel
1930年,ドイツ,107分
監督:ジョセフ・フォン・スタインバーグ
原作:ハインリッヒ・マン
脚本:ロベルト・リーブマン
撮影:ギュンター・リター
音楽:フリードリッヒ・ホレンダー
出演:エミール・ヤニングス、マレーネ・ディートリッヒ、クルト・ゲロン、ハンス・アルベルス

 生徒に馬鹿にされる高校の英語教師ラート教授。彼は授業中に生徒が眺めていたブロマイドを取り上げる。放課後、同じブロマイドを持っていた優等生を問い詰めると、そのブロマイドに写っているのは“嘆きの天使”というキャバレーの踊り子だという。教授はその夜、”嘆きの天使”に向かうが…
 ディートリヒとスタンバーグという黄金コンビの最初の作品。ディートリッヒがアメリカでブレイクした作品でもある。

 この映画が語られるとき、常にいわれるのはディートリッヒの脚線美ということだ。ドイツで端役をやっていたディートリッヒを見出し、主役に抜擢し、アメリカに売り込んだスタンバーグ監督が、そのとき売りにした脚線美。それはもう本当に美しく、白黒の画面でもその美しさは伝わってくる。
 しかし、この作品が成功したのは単純に脚線美だけではなく、その脚線美が生み出すドラマのせつなさ。抗いがたい魅力を持つ脚線美という土台の上に気づかれた物語がまた心をつかむ。前半はコメディタッチでテンポよく進んでいくのだけれど、後半それが一転、ドラマチックな展開になっていくその変わり方も見事だし、終盤のドラマの見ごたえがすごい。
 なんといっても最後の最後、ロラロラと教授の間で交わされる言葉にならない言葉。ロラロラの考えていることが教授に伝わらないもどかしさ。あるいは伝わっているのかもしれないけれど、それを素直に受け入れられない教授のプライド。それはもう切ないのです。その切なさをしっかりと表現できるディートリッヒとそしてエミール・ヤニングス。ヤニングスといえば、ムルナウの『最後の人』なんかに出ていた名優ですから、その名優の向こうを張ってがっちりと演じきってしまうディートリッヒにはやはり脚線美という売りを超えた才能があったということでしょう。そう、その二人が舞台と舞台袖で視線を交わし、無言で語らいあう。ロラロラのほうは教授の考えていることがわかっているのだろうけれど、教授のほうはロラロラの考えていることがよくわからない。とらえられない。そのディートエイッヒの視線はどのようにも解釈できる視線。私は彼女はいまだ教授を愛していて、彼をある意味では励まそうという視線を送っているように見えた。教授はそれを受け入れることができない。そのあたりがもう切ない。
 それから、ディートリッヒは歌も見事。何でも、スタンバーグは舞台に出て歌っていたディートリッヒを見て、主役に抜擢することに決めたということなので、歌がうまいのも当たり前です。この歌を聴いて、観客は「これがトーキーのすばらしさか」と納得したことだろうと想像します。ひとつの完成形となっていたサイレントからトーキーに移行するには、このようなトーキーでなくては作れない名作の出現が重要だったのだろうと想像します。映画史的に見れば、そういった意味で重要な作品だったんじゃないかということです。

間諜X27

Dishonored
1931年,アメリカ,91分
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ
脚本:ダニエル・N・ルービン、ジョセフ・フォン・スタンバーグ
撮影:リー・ガームス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ヴィクター・マクラグレン、グスタフ・フォン・セイファーティッツ、バリー・ノートン

 第一次大戦中のウィーン、女は自分のアパートでまた自殺者が出たのを見て、「私は生きるのも死ぬのも怖くない」とつぶやく。それを聞いた男が女を誘って
女の部屋へ。男は女にスパイをしないかと持ちかける。ワインを買いに行くといって部屋を出た女は反オーストリアだといった男を逮捕させるため警察官を連れて
くる。
 スタンバーグはディートリッヒがスターダムにのし上がるきっかけを作った監督で、アメリカでの初期の作品で7本コンビを組んでいる。

 ディートリッヒは美しい。ディートリッヒが美しいから、あとはどうでもいい。というか、あとはディートリッヒの美しさを引き立てるためにある。といいたくなってしまう。
 この映画のプロットはかなりお粗末といっていい。こんなのんきなスパイはいないと思う。にもかかわらず「女でなかったら最高のスパイだっただろう」などと冒頭で強調するのは、あくまでその「女」の部分を強調したかったからだろう。それはひいては、この映画がスパイ映画ではなく恋愛映画であるということを主張しているということだ。そしてその恋愛を引き立たせるために(スパイ同士という)困難な状況を作る。
 これはこの映画の過度のロマンティシズムを生む。いま見るとこの映画ロマンティックすぎる。この映画が作られたのは1930年、ちょうど世界恐慌が起こったころだ。再び戦争の足音が聞こえてきた時代、ロマンティシズムは映画制作者と観客を現実から一時逃れさせてくれたのかもしれない。ロマンティシズムで世界を救うことはできないが、一人の人間をいっとき救うことはできるのかもしれない。それを生み出すのがかくも美しいディートリッヒならなおさらのことだ。
 それにしても、ディートリッヒはずん胴ね。脚は細くて美しいのに、どうしてあんなにずん胴なんだろう?

チート

The Cheat
1915年,アメリカ,44分
監督:セシル・B・デミル
脚本:ヘクター・ターンブル、ジャニー・マクファーソン
撮影:アルヴィン・ウィコッフ
出演:ファニー・ウォード、ジャック・ディーン、早川雪州

 株の仲買人リチャード・ハーディーの妻のエディスは社交界を生きがいとして、浪費癖があった。リチャードは今回の投資がうまく行くまで節約してくれと頼むのだがエディスは聞き入れない。そんな時、エディスは友人からおいしい投資話を聞き、預かっていた赤十字の寄付金を流用してしまう…
 セシル・B・デミルの初期の作品の一本。日本人を差別的に描いているとして在米邦人の講義を受け、3年後に字幕を差し替えた版が作られる。18年版では「ビルマの象牙王ハラ・アラカウ」となっている早川雪州はもともとヒシュル・トリという名の日本人の骨董商という設定。日本ではついに公開されなかった。

 主な登場人物は3人で、それぞれのキャラクターがたっていて、それはとてもいい。デミルといえば、「クレオパトラ」みたいな大作の監督というイメージだけれど、この映画の撮られた1910年代は通俗的な作品を撮っていたらしい。簡単に言えば娯楽作品で、だから少ない登場人物でわかりやすいドラマというのは好ましいものだと思う。サイレントではあるけれど、登場人物の心情が手に取るようにわかるので、気安く楽しめるというイメージ。特に妻のエディスのいらだたしいキャラクターの描き方はとてもうまい。雪州演じるアラカウが基本的に悪人として描かれているけれど、必ずしもすんなりそうではないという微妙な描き方だと思います。
 ということで、前半はかなり映画に引き込まれていきましたが、後半の裁判シーンはなかなかつらい。主に弁論で展開されていく裁判をサイレントで表現するのはかなりつらいと、トーキーが当たり前の世の中からは見えるわけです。結局字幕頼りになってしまって、映画としてのダイナミズムが失われてしまう気がします。サイレント映画はやはり字幕をできる限り削って何ぼだと私は思うわけです。そのあたりに難ありでしょうか。
 映画史的にいうと多分いわゆるハリウッド・システムができるころという感じでしょうか。監督は芸術家というよりは職人という感じがします。それでも、編集という面ではかなり繊細な技術を感じます。短いカットを挿入したり、編集によって語ろうとするいわゆるモンタージュ的なものが見られます。しかし、当時はおそらく監督が編集していたわけではないので、必ずしもデミルの表現力ということではないと思いますが。監督という作家主義にこだわらず、この一本の映画を見るとき、シナリオも演出もカメラも編集もかなり優秀だと思います。

私の殺した男

Broken Lullaby
1932年,アメリカ,77分
監督:エルンスト・ルビッチ
原作:モーリス・ロスタン
脚本:サムソン・ラファエルソン、エルネスト・ヴァイダ
撮影:ヴィクター・ミルナー
音楽:W・フランク・ハーリング
出演:フィリップ・ホームズ、ライオネル・バリモア、ナンシー・キャロル、ルシアン・リトルフィールド

 第一次大戦終戦から一年後のパリ。その式典に参加した青年ポールは戦争中に殺したドイツ兵のことがどうしても頭から離れず、協会で神父に告白する。「任務を果たした」といって神父になだめられたポールは逆に悩みを増し、そのドイツ兵ウォルターの故郷を訪ねることにした…
 脂の乗り切ったルビッチが映画を量産した20年代から30年代前半の時期の作品のひとつ。多くのフィルモグラフィーの中に埋もれているとはいえ、そこはルビッチ、堅実にいい作品を作る。

 このころルビッチはおよそ年2本のペースで映画を作っていた。代表作とされる作品(「天使」や「ニノチカ」や「生きるべきか死ぬべきか」)が撮られるのはもう少し後のことだが、この時期にも「モンテ・カルロ」や「極楽特急」といった名作も生まれている。
 というまわりくどい説明で言いたいことは、確かに面白い堅実な作品を作ってはいるけれど、完成度から言えばもう一歩という作品も混じってしまっているということ。この作品はドラマとしては非常に面白いし、画面が持っている緊張感もすばらしい。たとえば、ポールが始めてウォルターの家に行き、ウォルターの遺族3人に囲まれる場面、パンしながら3人の顔を一人ずつ映していくカメラの動きは、ポールの緊張感を如実に伝える。それ以外にも、さまざまなところに張り詰めた緊張感を漂わせる「間」がある。
 そういったすばらしいところがたくさんあり、ラストまでその緊張感を保つのはとてもいいのだけれど、ルビッチであるからあえて言わせてもらえば、稚拙さも目に付く。特に目に付くのはトラヴェリングの多用で、冒頭からかなりの頻度でトラヴェリング(つまり移動撮影)、特にトラック・アップ(つまりカメラを被写体に近づけていくこと)が多用される。的確なところで使われれば劇的な効果を生むはずのものだが、繰り返し使われるとなんとなく作り物じみて、物語世界から遠のいてしまう感じがする。
 とはいえ、やっぱり見所もたくさんあります。町の人たちが窓からポールとエルザを覗くシーンのスピード感とか、さりげないところに味がある。やっぱり見てよかったなとは思います。

タブウ

Tabu
1931年,アメリカ,81分
監督:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
原作:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ヒューゴ・リーゼンフェルド
出演:マタヒレリ

 ポリネシアに浮かぶボラボラ島。そこで人々は平和に暮らしていた。島の若者同士の恋物語がある日やってきた大きな帆船によって破られる。
 ドイツの巨匠ムルナウがハリウッドに渡り、ドキュメンタリーの巨匠フラハティの協力で、ポリネシアの現地人を起用して撮った作品。セミ・ドキュメンタリー的な手法も画期的であり、ムルナウらしさも生きているかなりの秀作。

 現地の素人の人たちを出演者として使うという手法はキアロスタミを初めとして、今では数多く見られる方法だが、この時代にそのような方法が試みられたというのはやはりドキュメンタリー映画の父フラハティならではの発想なのだろうか。おそらくこの映画に出演しているポリネシアの人々は映画のことなど何も知らなかっただろう。もしかしたら映画というものを見たことも聞いたこともなかったかもしれない。そのような状況の中で映画を撮ること。それはある意味では現地の人たちの生の表情を撮ることができるということかもしれない。
 サイレント映画というのは自然な演技をしていたのでは自然には写らない。再現できない音を映像によって表現することが必要である。それを非常に巧みに扱うのがドイツ表現主義の作家達であり、それを代表する作家がムルナウである。だから、フラハティとムルナウが組んでこのような作品を撮るというのは理想的な組合せであり、また必然的な出来事であったのかもしれないと思う。この映画が製作されてから70年が経ち、はるか遠い位置からみつめるとそのようなことを考える。しかし、作品の質は現在でも十分に通じるもので、そのドラマは多少、陳腐な語り尽くされたものであるという感は否めないものの、十分魅力的だし、映像の力も強い。ほら貝や波や腰蓑が立てる音が画面から聞こえてくるように思える。
 ムルナウはこの作品の完成直後交通事故で帰らぬ人となってしまった。当時まだ43歳。わずか12本の作品しか残さずに死んでしまった天才を惜しまずにいられない。

プリースト判事

Judge Priest
1934年,アメリカ,79分
監督:ジョン・フォード
原作:アーヴィン・S・コップ
脚本:ダドリー・ニコルズ、ラマー・トロッティ
撮影:ジョージ・シュナイダーマン
音楽:シリル・モックリッジ
出演:ウィル・ロジャース、ハティ・マクダニエル、トム・ブラウン、フランシス・フォード

 時代は19世紀末、南部の町で巡回裁判所の判事をしているプリースト。田舎町に大した事件はなく、彼に対して敵愾心を燃やす上院議員のメイドゥーとの小さな戦いと、ロースクールを卒業したばかりの甥っ子ジェロームの恋の話があるばかりだった。
 まさに古きよきアメリカ。のどかな雰囲気の中に適度な笑いと適度なサスペンスと適度にハートウォーミングがちりばめられた味わい深いヒューマンドラマ。

 こういうのはとてもいいですね。なんとなく自分自身の気分にあったと言うことなのだろうけれど、すごくこころにすっと入ってくる感じ。大体想像はつく物語ではあるのだけれど、なんといってもプリースト判事のキャラクターが秀逸で、会っただけで誰もがほっと肩をなでおろしてしまいそうなあたたかさがにじみ出ているようなのでした。
 ジョン・フォード自身とアメリカの観客もこの雰囲気を気に入ったのか、フォードは南部を舞台に同じウィル・ロジャース主演でさらに2本の映画を撮ったらしい(1本が「周遊する蒸気船」であることは確認。もう一本は未確認)。
 もう一ついいのはプリーストのところにいる二人の黒人。もちろんこれはプリーストが反差別主義であることを示すためのものだけれど(実際はいまから見れば十分に差別的なのだけれど、これが30年代の映画であることを考えると仕方がないといっていいと思う)、この二人がもたらす陽気さと音楽は単純な古きよきアメリカ映画とは違うアクセントになっていていい。とはいえ、基本的にはホームドラマ的な映画なのですがね。
 きのうの「暗黒街の弾痕」の完璧さと比べるとかなりすきだらけの映画ですが、私には(とりあえずいまの私には)、こっちの作品の方がヒットしました。多くの人は「暗黒街」の方に軍配を上げると思いますが… とにかく、ハリウッド黄金期というのはやはり本当に黄金期だったのね、と思うわざるをえない作品のバリエーションがそこにはあります。

暗黒街の弾痕

You Only Live Once
1937年,アメリカ,86分
監督:フリッツ・ラング
原作:ジーン・タウン、グレアム・ゲイカー
脚本:ジーン・タウン、グレアム・ゲイカー
撮影:レオン・シャムロイ
音楽:アルフレッド・ニューマン
出演:ヘンリー・フォンダ、シルヴィア・シドニー、ウィリアム・ガーガン、バートン・マクレーン

 弁護士事務所で働くジョーの婚約者のエディがついに服役を終えて出所した。周りの人々はエディのことを快くは思わないものの、二人は幸せに新婚旅行へと出かけ、エディはトラック運転手の職にもつくことができた。しかし周囲の前科ものに対する目は厳しく、徐々に窮地に追い詰められていく。そんな折、6人の犠牲者を出す強盗事件がおき、現場にはエディの帽子が残されていた…
 ハリウッド黄金時代を気づいた映画監督にひとりフリッツ・ラングが作り上げた傑作サスペンス。この作品が生み出すスリルは70年近い歳月を全く感じさせない。

 「ドラマ」というものは不変というか、時代を超えて通じるものであると実感させられる。この映画は徹底的にドラマチックで、ドラマでない部分は一切ない。次々と現れる謎の連なりが織り成すまさしく隙のないプロットで観客を必ずつかまえる。最初の謎はジョーの婚約者らしい「テイラー」なる人物が誰なのかということ。この謎に始まって次々と途切れることなく、しかし過剰になることなく謎が繰り出されていく。観客はその謎の答えを知るために映画を見つづけざるを得ず、その解明の過程に含まれる小さなドラマにも目を奪われる。特に刑務所でのエディの様々な計略のスリル感はたまらない。
 なんとなく暗く、地味な展開は黄金期のハリウッドのイメージとは裏腹なようだけれど、それによってフリッツ・ラングがその黄金期の中にあっても異彩を放たせたものであり、時代を越えてわれわれを魅了する要素でもある。全体に映像が暗いのもフィルムが古いせいばかりでもないだろうし。勧善懲悪の二分法となっていないのも好感が持てる。いい/悪いが明確に示されていないという点では昨日の「氾濫」と似てはいるが、こちらは絶対的な悪が存在しないのではなく隠されているに過ぎないので違うし、この違いはやはりハリウッド映画が基本的には勧善懲悪の原理原則を基本としていることを示唆しいてもいる。いくらフリッツ・ラングでもその原則をはずすことはできなかった、あるいははずそうとは思わなかったところにかすかな欺瞞を感じたけれど、まあそれはそれとして70年前の偉大な映画に拍手を送ります。