華氏451

Fahrenheit 451
1966年,イギリス=フランス,112分
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック

 モンターグは、全面的に禁止されている本を探索し焼却する「消防士」として有能な青年で、上司に昇進も約束されていた。ある日モンテーグは帰りのモノレールの中で近所に住むクラリスという女性に声をかけられ、クラリスは「本を読んだことがあるの?」と聞く。家でテレビを見、くすりで恍惚感に浸るばかりの妻と見た目はそっくりながらはつらつとしたクラリスに魅かれた彼は徐々に彼女と親しくなっていく。
 トリュフォーがレイ・ブラッドベリの近未来SFを映画化。初の英語圏作品だが、ニコラス・ローグ、バーナード・ハーマンなど多彩な才能に恵まれ、フランス語作品に全く見劣りしない作品に仕上がっている。

 最初の「逃げて」「逃げて」「逃げて」からかなりすごい。
 おそらくこれは原作も非常に面白いはずで、それを見事に映像化したトリュフォーもすごいということ。原作ということで言えば、「本が禁じられる」という設定と、それを取り締まる「消防士(fireman)」という発想が非常にうまい(全部が耐火住宅になったからって、消防士がいらなくなるという設定はかなり無理があるけれど)。禁止されるということと欲望との関係、それを本を利用してうまく描いているということ。
 しかし、やはりさらにすごいのはトリュフォー。近未来の世界観。1960年代から見た近未来なので、今頃のことかもしれない。壁にかけられたスクリーン、モノレール、規格化された住宅、などなど細部ではいろいろと「ちょっとね」と思うところもあるけれど、ひとつの寒々しい時代のイメージを作るのに成功している。「消防車」以外に車が全く走っていないというのも非常に印象的な設定である。そして本が燃えていくシーンのすばらしさ。本を読むシーンのすばらしさ。このすばらしさは主人公のモンターグよりむしろ「本」に焦点を当てることによって可能になっているのだろう。もちろん普通に考えれば主人公はモンターグなのだけれど、無表情で言葉すくなな彼の心情を明らかにすることよりも、彼が魅入られた本を描くことで彼と彼に代表される本に魅入られる人々の心理を審らかにあらわす。
 本が燃えていくシーンに心動かされるのは、そのように「本」というものに感情移入ではないけれど、愛着を覚えているから。そしてそのような「本」への愛着を生み出すのもその本が燃えていくシーンであるというのも面白い。繰り返される本が燃やされるシーン、そのそれぞれを自分がどのように見つめているのか、それを見つめ返してみるとこの映画のすごさがわかるのだと思う。
 そのように「本」への愛着がわけば、おのずとラストシーンもしっくり来るでしょう。ラストシーンは映像もとても効果的。ラストに限らず、この映画の映像はかなりいい。特に人間があまりいないシーンがいいですね。ネガとか、そんな実験的なものはちょっとよくわからなかったですが、ただ風景が映っているようなシーン、あるいは人がすごく小さく写っているようなシーンの構図がとても美しかった。

傷だらけの山河

1964年,日本,152分
監督:山本薩夫
原作:石川達三
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:山村聡、若尾文子、船越英二、村瀬幸子

 有馬勝平は自ら築き上げた企業グループの会長を務め、辣腕を振るっていた。彼には正妻のほかに3人の妾がおり、そこにも子供がいた。時折妾の下もたずねながら、息子たちに自分の哲学を語る。そんな彼が娘婿との会談にお茶を持ってきた事務員に目をかける…
 事業の鬼と化した男をめぐる事件とスキャンダル。豪華キャストで、しっかりとしたスタッフが作り出した骨太の力作。

 映画を製作会社で見るのはなんだかマニアックな印象がありますが、この当時(昭和30年代前後)の映画を見ていると、製作会社ごとの色彩というのがわかってきます。役者たちも製作会社が同じなら、同じ人が出てくることが多いので、製作会社を意識せざるを得ない。で、この映画は大映のわけですが、わたしは大映ファンということで、この映画を見てかなりつぼに入るわけです。大映といえばやはり増村ですが、山本薩夫もかなりのもの。監督はさておいたとしても、脚本が新藤兼人、カメラが小林節雄と来れば、大映らしさが感じ取れます。役者で言っても、若尾文子はもちろんのこと、船越英二や川崎敬三、高松英郎などが出てきて、「やっぱ大映だね」と思わされるのでした。
 他には松竹、東映、日活などがあるわけで、一番の大手といえば松竹となりますが、わたしは大映が好き。ということです。
 さて、製作会社の話はさておき、この映画ですが、映画の全体を通して、非常に激しく、なんだか戦争映画のような印象です。最初のほうはカメラも遠めで、落ち着いた始まりですが、物語が進むにつれ、山村聡がクロースアップで恫喝する場面などがかなり出てきて、激しくなる。当時の企業間の競争はいわば戦争のようなもので、それを見事にフィルムに写し撮ったということなのでしょう。だからかなりの迫力があって、2時間半という時間もあっという間に過ぎます。白黒、シネスコという今は敬遠されがちなフォーマットながら、全くそんなことは関係なく面白い。これは女性関係と事業という二つの軸をうまく絡み合わせているからでしょう。どちらかが中心になってしまって、物語が平行するというようなことになってしまうとおそらく全体が散漫な印象になってしまう。それをプロットの段階でうまくより合わせて、複雑な一つの物語にしたことがこれだけの迫力ある映画を作れた要因だと思います。さすが新藤兼人というところですね。
 そして、この映画は画面から人と人との距離感がよく出ていると思います。横長の画面いっぱいを使って、端と端に人を配す場面、片側に寄せて密着させる場面、その距離感が関係をわかりやすく表現する。さすが小林節雄ということころですね。
 そして、若尾文子はやっぱりいいな。となります。やはり。

おしゃれ泥棒

How to Steal a Million
1966年,アメリカ,126分
監督:ウィリアム・ワイラー
原作:ジョージ・ブラッドショウ
脚本:ハリー・カーニッツ
撮影:チャールズ・ラング
音楽:ジョニー・ウィリアムズ
出演:オードリー・ヘップバーン、ピーター・オトゥール、ヒュー・グリフィス、シャルル・ボワイエ

 オークションに出品されたセザンヌの名画、実はその持ち主ボネ氏は娘と2人で暮らす屋敷の屋根裏で日々贋作を作り続ける贋作者だった。そんなボネ氏が娘の反対を押し切って先代の作った「ビーナス」の彫像を展覧会に出品することにした。その展覧会が始まった日の夜、ボネ家に泥棒が忍び込む…
 パリを舞台にオードリーの活躍を巨匠ウィリアム・ワイラーが撮ったロマンティック・コメディ。間違いなく名作です。

 やっぱり、オードリーなのですよ。ウィリアム・ワイラーはすごいかもしれません。ジバンシーも素敵かもしれません。でもやっぱりオードリーなのですよ。どんなにすごい人たちでも引き立て役にしてしまうのがきっとオードリーなのですよ。この映画のオードリーはなんといってもサングラスですね。特徴的な大きな目を隠す大きなサングラス、これですね。そのサングラスをはずすと顔の半分くらいもありそうな大きな目。吸い込まれそうな目ですね(なんだか淀川長治のような文体になっていますが、気にしないように)。『昼下がりの情事』の時にはチェロでした。それが今回はサングラス。クレジットにジバンシーの名前が出ていましたが、あのサングラスもやっぱりジバンシーなのでしょう。そのあたりはあまり詳しくありませんが、今も『おしゃれ泥棒』モデルとして売られていることでしょう。それくらい魅力的なオードリーのサングラスでした。
 とはいってもサングラスだけで映画が作れるわけではありません。この映画の作りはかなり周到です。コメディとしてジャンルわけされる映画ですが実際のところ「謎解き」というか「気になる展開」が大きなウェイトを占めています。このダルモットという男は何者なのか、お父さんは捕まってしまうのか、ビーナスはどうなるのかなどなど。このように複数の「謎」があることで映画が展開力を持ちます(「展開力」というのはわたしが勝手に言っている用語ですが、要するに観客に先の展開を気にさせる力のことですね)。このような展開力のある映画は観客に受け入れられやすく、「面白かった」となりやすい。これはいいことですね。
 さて、この映画で一番よかったところといえば、クローゼットの一連のシーンですね。「鍵を動かすとき、角のところはどうしたんだ!」などという細かい疑問はありますが、あの狭い空間を表現するのにほぼ一つのフレームだけを使い、その固定されたフレームで十分なドラマを描く。それはかなりいいです。時間とともに変わっていく2人の間の緊張感と距離感がとてもよい。あの場面をもっとじっくり撮ってもよかったんじゃないかと思ってしまいます。
 そういえばひとつ不思議に思ったのは、オードリーの作品にヨーロッパが舞台のものが多いのは何故か?ということです。オードリーは(確か)ヨーロッパ系なので、それが理由といってしまってもいいのですが、何かそこに当時のアメリカ人のヨーロッパに対するイメージのようなものが見えてくるのかもしれないとも思いました。アメリカ人にとってオードリーとはある種のヨーロッパの鏡像であるというと大げさですが、アメリカ人にしてみると、オードリーはなんだかヨーロッパな香りなのでしょうかね?

妖婆・死棺桶の呪い

ВИЙ
1967年,ソ連,78分
監督:ゲオルギー・クロパチェフ
原作:ニコライ・ゴーゴリ
脚本:ゲオルギー・クロパチェフ、アレクサンドル・プトゥシコ、コンスタンチン・エルショフ
撮影:フォードル・プロヴォーロフ、ウラジミール・ピシチャリニコフ
音楽:K・ハチャトリアン
出演:レオニード・クラヴレフ、ナタリーヤ・ワルレイ、ニコライ・クトゥーゾフ

 ロシアの新学校の学生3人が学校が休みの期間荒野を旅する。道に迷い、野宿を覚悟した彼らの前に現れた怪しげな農家。そこにいたのは一人の老婆だった。怪しみながらも他に家もなく、そこに泊まることにした彼らだったが、その夜老婆が神学生の一人ホマーに迫ってきた。
 奇想天外なソ連時代の怪奇映画。いわゆるソ連B級SF作品のひとつ。原作はゴーゴリとなっているが、果たしてどれくらい原作に忠実なのか…

 見ている間も、見終わってからも頭にはずっと?が出続ける。果たして何個の?が頭に浮かんだだろうか。ひとつ明らかなのは、この映画は限りなくB級であるということ。冒頭から背景があっさりと書割で、とてもそれをリアルに見せようとしているとは思えない。書割になったり、実景になったりするその変化がさらに書割の安っぽさを強調する。しかも、時間の描き方がかなり適当で、朝なんだか昼なんだか夜なんかよくわからないまま、時間だけはたっているようなのだ。
 そして特撮は駆使されるが、その稚拙さは言うまでもない。おそらく、ハリウッド映画なら1カットに使われるであろう予算くらいで1本の映画を作ってしまったという感じ。しかし、この極彩色の不思議な特撮空間は魅力的でもある。かなりコアなB級映画ファンはこのあたりの作りはたまらないものがあるでしょう。私は生半可なB級映画ファンなので、ちょっとつらかったですね。同じソ連のSF映画といえば『不思議惑星キン・ザ・ザ』を思い出しますが、あの作品ほどの圧倒的なばかばかしさがこの映画には欠けている。そのように思います。マニアックに見ることはできるけれど、普通の見方をする観客を引き込むことはできない。そんな映画だと思います。
 ところで、原作はゴーゴリらしく、原作となっている『ヴィー』は読んだことないんですが、きっとこんな話ではないと思います。この映画でも「ヴィー」と呼ばれる妖怪のようなものが出てくるんですが、それは一瞬。たいした役回りもない。どうなってんの?

おとうと

1960年,日本,98分
監督:市川崑
原作:幸田文
脚本:水木洋子
撮影:宮川一夫
音楽:芥川也寸志
出演:岸恵子、川口浩、田中絹代、森雅之、岸田今日子

 作家の父と後妻の継母と暮らすげんと碧郎の姉弟。後妻の母は手足が悪く、弟の世話や家のことはほとんどげんが女学校に通っていながらやっている。しかし碧郎はどうにもぐれてしまって、ついには悪い仲間に入って盗みを働き、警察に捕まってしまう…
 互いにすれ違う家族の姿を描いた地味な映画。しかし、画面の隅々にまで注意の行き届いた緊張感漂う映画でもある。

 単純に物語を追うと、非常に地味でしかもギクシャクしていて、落ち着かない。言いたいことがあるようなないような、まとまるようなまとまらないような。その印象は圧巻のラストシーンが終わっても消え去らない。むしろラストシーンによって混乱は増すばかりだ。しかしそのなんともいえない緊迫した空気感のようなものこの映画の味といっていいのだと思う。
 その空気感を作り出すのはもちろん映像で、それはもちろん宮川一夫のカメラだ。普段のローアングルとは違い、上からのカットを多用しているのが印象的だが、そうなっても構図の美しさはいつもと変わりがない。しかし、宮川一夫はいわずとしれた名カメラマン。これくらいの仕事は黙っていてもしてくれるはず。そんなに驚くべきことではない。それでもこの映画が宮川一夫の撮影作品でも秀逸なもののひとつだと思えるのは、その光の入れ方である。非常に細かく計算された陰影の作り方。
 それに最初に気づいたのは岸恵子と川口浩が夕日をバックに土手に座っているシーン。立ち上がる岸恵子はバックに夕日を従えて、陰になる。しかしそのくらい中で表情は美しい。構図も秀逸だが、岸恵子の顔に入る光の微妙な入り方がその画面の美しさを引き出していると思った。その光の魔術は病院のシーンでいっそう明らかになる。薄暗い裸電球の灯り、廊下の明かり、廊下に漏れ入る外の眩い光、これらの光が壁や人の顔に落とす光と影の陰影はえも言われず美しい。もちろん岸恵子も美しい。画面のメリハリをつけるには照明が非常に重要な役割を果たすのだということがわかります。
 照明は伊藤幸雄という人です。ちなみにですが。市川崑作品だと他に『黒い十人の女』などを手がけています。宮川一夫と組んでいるのも『赤線地帯』(溝口)『浮草』(小津)など多数あります。照明から映画を選ぶということはなかなかないと思いますが、タイトルクレジットで伊藤幸雄という名前を見かけたらちょっと注目してみるのもいいかもしれません。

帰って来たヨッパライ

1968年,日本,80分
監督:大島渚
脚本:田村孟、佐々木守、足立正生、大島渚
撮影:吉田康弘
音楽:林光
出演:ザ・フォーク・クルセーダーズ、緑魔子、渡辺文雄、佐藤慶

 ベージュの詰襟を着た3人組が海へやってくる。3人が服を脱いで海に行っている間に砂浜の中からニョッキリと手が出てきて服を取り替えてしまう。海から帰って来た3人は仕方なく取り替えられた服を着てタバコ屋にタバコを買いに行く…
 ザ・フォーク・クールセダーズの同名曲を使い、非常に不思議な雰囲気を出す。

 この映画は非常に哲学的であると同時に、具体的な問題をも提起する。哲学的という面はこの映画の時間の流れ方にある。単純な繰り返しでもなく、単純なやり直しでもない時間の流れ。一種の螺旋を描く時間の流れ方。果てしなく続く螺旋の一部を切り取った線分。この映画が「おらは死んじまっただ~」という歌から始まることが示すのは、この前にも螺旋の一巻きがあったということを意味する。そしてもちろん終わったあとにも螺旋の時間は進み続ける。この螺旋という(キリスト教的な)直線とは異なった時間の概念の使い方が哲学的な思索を促す。
 『ラン・ローラ・ラン』という映画があった。1998年のドイツ映画で、ひとつの選択から異なってくる結末を描くという映画だったが、その映画では同じ時間の(異なるパターンの)繰り返しであるにもかかわらず、前のエピソードが次のエピソードに多少の影響を及ぼす。この映画ではそのことが不思議なこととして描かれているのではあるけれど、完全な直線よりは多少螺旋に近しい時間のとらえ方がそこにあると思う。
 この「螺旋」というのは結末に向かって直線的に突き進むハリウッドをはじめとした西洋の映画とは異なった映画を作る重要な要素になっていると思う。そこには西洋と東洋の時間のとらえ方の根本的な違いがあるわけだが、それを60年代の時点でとらえていた大島はさすがである。
 さて、話は変わって、この映画から提起される具体的な問題はもちろん「朝鮮」との関係性である。ふたまわり目で主人公たちが「僕らは朝鮮人だ」と主張するとき、そこには日本人が朝鮮人に成りすますという単純な「ふり」とは違う何かが生まれる。彼らがそのように言う視線は真剣で、心からそのことを信じているように見える。ただ「ふり」がうまいというだけではなく、その真相には「日本人」と「朝鮮人」なんていつでも交換可能なものだという気持ち、あるいは違いなんてないという気持ち、いやより正確に言うならば「日本人」は「朝鮮人」であるという気持ち。がそこにはあるように見える。監督本人も登場する街頭インタビューを模した場面「いえ、朝鮮人です。朝鮮人だからです」という連呼には日本人の誰しもが朝鮮人でありうるという主張が見て取れる。監督自身どこかで「日本人は朝鮮人だ」といっていた。
 フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)はこの映画が製作された68年、「イムジン河」という曲をリリースしようとしていた。これに対して北朝鮮からクレームがつき、発売が中止になるという事件があったということも映画に影響を及ぼしているのかもしれない。
 そもそも大島渚は「朝鮮」という問題をさまざまな映画で取り上げてきたので、この映画だけからその解答を見つけようとするのは難しいだろう。

しとやかな獣

1962年,日本,96分
監督:川島雄三
原作:新藤兼人
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:池野成
出演:若尾文子、川畑愛光、伊藤雄之助、山岡久乃、浜田ゆう子、高松英郎、船越英二

 息子が会社の金を着服し、娘は作家の妾に納まって優雅な生活を送っている岡田家。息子の会社の社長が殴りこんでくるというので、普段の豪勢な内装をみすぼらしいものにかえ、そ知らぬ顔で社長を迎える。そこには会計係の美しい女がついてきたが、実は彼女こそが…
 川島雄三がアパートの一室を舞台に、作り上げた一風変わったドラマ。サスペンスというかなんというか、とにかく川島雄三の天分と自由さがいかんなく発揮された作品。登場する人たちもはまり役ばかり。特に若尾文子はすごいですね。

 川島雄三は自由である。その自由が許されるのはやはり才能ゆえなのであろう。ゴダールも自由だが、彼もまた天才であるからこそ自由でありえる。
 最初のシーンから、窓から2つの部屋を同時に見るというショットである。2つの部屋を同時に撮ること自体はそれほど新しいことではない。しかし、この仕掛けが映画を通して繰り返され、窓からにとどまらず、上から下からのぞき穴から、区切られた二つの空間をさまざまな形で同時に移しているのを見ると、この監督がいかに空間というものから自由であるかがわかる。ひとつの部屋をひとつの空間としてとらえることは容易だけれど、複数の部屋をひとつの空間と考えて、それが作り出すさまざまな空間構成を操作することは難しい。そこに必要なのは自由な発想である。天井があるはずのところにカメラをおく、ありえないようなのぞき窓を作ってしまう。そのようなことができる自由さが保障されるのは、やはりそこから出来上がるものがあってこそ。それが自由と才能を結びつけるものだと思う。
 しかし、天才というのは理解できないからこそ天才であるという面もある。この川島雄三の映画も、そんな空間の扱い方にとどまらず、やたらと画面の中に人物を詰め込むやり方などを見ても、「すごい」とは思うけれど、そのそれぞれにどのような意味や効果がこめられているのかを理解することは(私には)できない。それらのつながりが見えてこず、ばらばらな印象を受けることもある。だから手放しにその才能を賛美することはできないが、どの作品を見ても感じられる自由な感覚には酔うことができる。
 川島雄三はすごい画面を作り、なかなか理解しがたい仕掛けを映画に仕込む。それは天才であるということかもしれないし、人とは違う感性を持った理解できない人間であるだけかもしれない。重要なのはそのどちらであるのかという判断は、川島雄三という映画監督にかかわることに過ぎず、それが個々の映画の見方を縛るわけではないということだ。川島雄三という名に固執して映画を見ること彼が最も重要視していたと推測できる「自由」に反することだ。川島雄三が撮った自由な映画を見るとき、見る側もまた自由でなければならないと思う。この映画で言えば、すべてのドラマが展開されるアパートの一室を中空に浮いたひとつの透明な箱ととらえたい。見るものはその透明な箱の周りを自由に飛び回ることのできる翼を持った存在だ。そのような自由な存在にわれわれをしてくれるのが川島雄三だ。
 川島雄三はこのように、閉じられた空間をとらえることによって自由な感覚を生み出したけれど、それができたのは、彼が誰にもまして自由だったからだろう。

黒の切り札

1964年,日本,92分
監督:井上梅次
脚本:長谷川公之
撮影:渡辺徹
音楽:秋満義孝
出演:田宮二郎、宇津井健、藤由紀子、万里昌代

 同じ難波田という男に組をつぶされたやくざ者と父親を自殺に追いやられた社長の息子。この二人が難波田に復讐をしようと組んだのは難波田の経営するナイトクラブでサックスを吹く謎の男・根来。三人はある夜、極東信用金庫に盗みに入った…
 「黒」シリーズの10作目はシリーズでともに主役を張る田宮二郎と宇津井健が共演。いつものヒロイン藤由紀子も出演し、シリーズとしても「切り札」を切ったという感じ。

 田宮二郎はかっこよく、「黒」シリーズは面白い。それがどのように面白いのか考えてみる。たとえば「火曜サスペンス」とどのあたりが違うのかを考える。
 一番違うのは画面の作り方だろう。テレビで見られることを主眼としたテレビドラマとスクリーンでかけられることを前提とした映画の違い。もちろんシネマスコープサイズというのもあるけれど、ものの配置の仕方が違う。そして、カメラの動き方が違う。多くのテレビドラマはカメラ動きすぎる。ズームアップしたり、走っている人を追ってみたり、それは緊迫感を高めるひとつの技術ではあるけれど、カメラが動きすぎることによって失われるものもある。
 テレビドラマの中にも面白いものはあるので一概には言えないのですが、傾向としてはそういう感じだということです。結局のところ、このあたりのシリーズものの娯楽映画がテレビドラマの源流のひとつとなっているので、根本的な違いはそれほどないはず。もっとも大きな違いといえば、スポンサーからお金をもらってただで放映するのか、それともお客さんからお金を取って上映するのかという違いでしょう。
 お金をとってお客さんを呼ぶ以上、お客さんの興味を引くような映画でなければならない。その意味でこの映画はヒットシリーズもので、二人のスターが出演しているから、お客さんの興味を引くことは確か。しかし、内容はといえば… 今のテレビドラマと特に違いはないくらいの質でしょう。何百本もの映画が作られていたこのころ、映画の質はピンキリということですね。そんな中では中くらいの出来だと思います。
 今日は話がばらばらになってしまいました。結論としては「火曜サスペンス」と根本的には違わないけれど、田宮二郎とシネスコと映画の質が違うということです。後はメディアが違うということも結構影響があるでしょう。
 そして田宮二郎はやはりいいということ。

放浪記

1962年,日本,123分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井手俊郎、田中澄江
撮影:安本淳
音楽:古関裕而
出演:高峰秀子、田中絹代、宝田明、加東大介、小林桂樹、草笛光子

 両親と行商をしながら全国を転々として少女時代を暮らしたふみ子は本が大好きでいつも本ばかり読んでいる。女学校を卒業し、母と二人東京に落ち着いたが、母は九州にいる父を助けに九州へといってしまう。一人暮らしをはじめたふみ子だったが仕事はなかなか見つからず、貧しい生活を送っていた…
 林芙美子のデビューのきっかけとなった自伝小説の映画化。成瀬が映画化した林芙美子の作品としては最後の作品となった。林芙美子自身の文章をキャプションに使い、かなり原作を反映させた作品となっている。

 冒頭から何度も入る。文字によるキャプション「○月×日 …」。この言葉はすごく美しく、ぐっと心に響いてくる。もちろん原作ままの文章をキャプションとし、それを高峰秀子が読むという形なのだけれど、原作ではおそらく無数にあるであろうその文章の中から本当に心に響く言葉を選び出し、効果的な配することができるのは映画の力だ。原作者-脚本家-監督の絶妙のコラボレーション。ただ、この文章も映画の終盤になるとその威力を弱める。映画の中でも言われている「貧乏を売り物にしているのが鼻につく」ということだろうか?それとも単純にその言葉に慣れてしまうからだろうか? あるいは映画のテンポにあまりに変化がなさ過ぎるからか?
 基本的にこの映画はドラマが最大の魅力であると思う。ふみ子のまさにドラマティックな人生。そのドラマにこそ観客は入り込み、ふみ子に自己を投影する。あるいはふみ子を影から見つめている保護者のような立場に自分を置く。だから福地が登場すると「こんな男にはだまされるなよ」などと思ってしまう。ふみ子の味方として映画の中の世界の隣に佇む。そんな立場で映画を見ることができるのはすばらしい。それはもちろん成瀬のさりげない演出、子供のころふみ子が画面の奥でいつも本を読んでいるとか、本郷の下宿の建物が微妙に傾いているとかいうことも重要だし、高峰秀子の非常にうまい役作り、しゃべり方や表情も重要なのだろう。しかし、これも終盤になると弱まってしまう。なんとなくふみ子にわずかに反感を覚えてしまったりもする。感覚としては映画の中の世界からぽんと外に放り出されてしまったような感じ。ふみ子という存在がすっと遠くに行ってしまったような感覚を覚える。これも成瀬流の演出なのか? 最後にクライマックスを持ってきて感動の涙を流させようとするいやらしいハリウッド映画とは違う成瀬の「いき」なのかとも思う。
 ある意味では絶妙な終わり方。パーティーでの福地のぶった演説はすごく感動的だった。しかしそれはふみ子の敵であったはずの福地の呼んだ感動であり、単純な勧善懲悪のドラマの裏切りである。一人の立場に入り込んで映画を見ると、ほかの人を善悪に二分しがちで、この映画もその例外ではないのだけれど、しかし、福地の演説に限らず終盤でこの二分論を裏切ることで映画全体を複雑で味わい深いものにしているのも事実である。この関係性の転換というか書き換えがシンプルなドラマとしてとらえた映画にとっては違和感になってはいるけれど、逆に深みを出してもいるといえるのではないだろうか?

幸福

Le Bonheur
1964年,フランス,80分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ジャン・ラビエ、クロード・ボーゾレーユ
音楽:W・A・モーツアルト
出演:エマニュエル・リバ、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ

 ひまわり咲き乱れる野原を手をつないで歩く家族。仲むつまじいフランソワとテレーズには二人の子供があり、日曜日ごとに森にピクニックに出かける幸せそのものの家族。フランソワは叔父の建具屋で働き、テレーズは家で洋裁の仕事をしていた。フランソワはある日叔父から仕事を任されて近くの町に出かけていった…
 題名どおり、「幸福」とは何かということを考える映画。ヴァルダとしては初期の作品で、映像的に何か工夫をしようという試みが感じられるが、逆にあら削りという印象も与える。

 ひまわりを前景にして向こうから近づいてくる家族をとらえる。そんなタイトルクレジットは、さすがですが、ファーストシーンにいつもほどの切れがないという印象でもある。このタイトルクレジットの時点で非常に短いカットをはさんでいくのに、なんとなく違和感を感じる。この短いカットがこの映画の中では何回か使われていて、特にフランソワがエミリーのところに行ったときの奇妙に早い切り返しなどはざくっと印象に残り、映画のテンポを変えるという効果もあるけれど、個人的にはあまり好きではない。物語の最後のほうには、非常に重要と思われる何と解釈していいのかわからない短いシーンがありますが(ネタばれ防止のため言いません)、このシーンはすごくいろいろな解釈ができていいですね。ひとつの意味を与えることができないくらい短いシーン。その一瞬でとららえられたものは人によって違うはず。私は木の枝のしなりがとても印象的でした。
 もうひとつたびたび使われるシーンとシーンのつなぎ目のフェードのときに単色の画面が入るのは好き。はっきり言って意味はないと思うけれど、映画全体に強い色彩を使っているだけに、この色の使い方はなんだか心地よい。色といえば、シーンの変わり目意外でも、鮮やかな赤や緑の建物が短いカットで挿入されます。それはかなりとがった挿入の仕方。映画の流れをぶつりと断とうとする挿入の仕方であるような気がします。これも短いカット。
 この短いカットが今ひとつ納得いかないのはなぜかと考えてみると、これが私にはヴァルダの尖ろうとする意志に見えてしまうからでしょう。私がヴァルダの魅力として感じるのは、物語や映画の流れの分断ではなくて、雲散霧消という感じ。ぶつりと分断されるのではなく、なんとなくうやむやなまま消えていってしまうような感じなのです。先ほど触れた最後のほうの非常に重要な短いカットは物語をそんなうやむやさの中に放り込むという意味でとてもヴァルダらしくていいと感じるのです。
 それにしても、こんな形で「幸福」を描くのってすごい。