音楽

1972年,日本,104分
監督:増村保造
原作:三島由紀夫
脚本:増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:黒沢のり子、細川俊之、高橋長英、森次浩司

 精神科医汐見のところにやってきた女弓川麗子は「音楽が聞こえない」と言い出す。しかし、麗子はやってくるたびに話がころころ変わり、的を得ない。それでも汐見は徐々に麗子の症状の核心を探っていく。
 大映を出た増村保造が行動社とATGの製作で作ったフィルム。十数年振りにスタンダードサイズの画面を使い、これまでとは異なる映画を作り出そうとしている野心が感じられる作品。

 ちょっと全体的にストーリーに現実味がないのが気になる。なんといっても精神科医汐見の診察や診断の仕方が素人目に見ても素人くさいのがどうにも気になる。こういう細部が気になるとどうしても入っていけないのが映画の常。乗りに乗っている増村映画なら、そんな些細な細部の齟齬は勢いで吹き飛ばしてしまうのだけれど、この映画にはその勢いが足りない。映画のスピードとしては決して遅くはないのだけれど、そのスピードが負うべきプロットに齟齬が起きてしまっているので、どうしてもスピードに乗り切れない。そのあたりがちょっと不満なわけです。
 しかし、黒沢のり子はなんだか渥美マリみたいで(話し方もかなり似ている)、増村好みの質感がよく、演技もオーバーではあるのだけれど、いかにも増村世界の住人という感じがしてよかった。細川俊之はやや難。
 そして、こういうどろどろ系のドラマでスタンダードサイズというのが最後までどうもしっくりこなかった。横に広く使う増村らしさが出せないよ! と憤ってみたりもする。なぜなのだろう? 増村自身の試みなのか、それともATGの目論見が含まれているのか?
 などなど、増村ファンには疑問の尽きない作品でしょう。

クレイマー、クレイマー

Kramer vs. Kramer
1979年,アメリカ,105分
監督:ロバート・ベントン
原作:アヴェリー・コーマン
脚本:ロバート・ベントン
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:ヘンリー・パーセル
出演:ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、ジャスティン・ヘンリー、ジェーン・アレキサンダー

 広告代理店でバリバリと働くテッドは大きなプロジェクトを任され、成功の暁には重役への抜擢まで約束され、意気揚々と帰宅した。しかし、妻のジョアンナは子どもを寝かしつけ、荷物をまとめ、テッドに別れを告げようと待ち構えていた。結局テッドはジョアンナを引き止めることが出来ず、息子ビリーとの二人だけの新しい生活が始まった。
 離婚と子どもの養育という問題をハートウォーミングなドラマとして描いた作品。小技が効いていて物語りに入り込みやすいところがなかなかよい。

 良質なドラマではあるが、すごい映画というわけではない。プロットを構成する要素が非常に周到なところはいい。一番印象的で分かりやすいのはなのは「フレンチ・トースト」だけれど、朝のルーティンとか、学校へ送っていくところとか、同じシチュエーションが繰り返されることで、父子の関係性の変化を描くところがかなりうまい。
 メリル・ストリープのほうはある意味ではいい演技をしているのだけれど、ちょっと怖すぎる気がした。喫茶店からのぞいているところなんかはかなり強烈。今にも人を殺しそうなくらいの感じがある。だから、最後に感動的な場面を迎えてもなんとなく説得力がなく感じてしまったのは私だけだろうか。彼女はこの作品でアカデミー賞を受賞して、確かに演技としてはいいけれど、根本的にミスキャストなんじゃないかという気もしてしまった。
 あとは、昨日の「真夜中のカウボーイ」と比べると、非常に素直な映画で、悪く言えば平凡な撮り方しかしていないので、映画としてはそれほどすごくはないということ。このロバート・ベントンという監督もどうも監督よりも脚本家としての才のほうがあるようで、もともとは「俺たちに明日はない」や「スーパーマン」の脚本で有名な人です。

チャイニーズ・ブッキーを殺した男

The Killing of a Chinese Bookie
1976年,アメリカ,107分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:フレデリック・エルムズ、マイク・フェリス、アル・ルーバン
音楽:ボー・ハーウッド
出演:ベン・ギャザラ、ティモシー・アゴリア・ケリー、シーモア・カッセル、アル・ルーバン

 場末のバーのオーナーコズモはようやく借金を払い終え、店を自分のものとすることが出来た。その勢いで店の踊り子達を連れてカジノへと足を運んだが、そこで大負けし、またも大きな借金を作ってしまった。カジノを経営するマフィアは中国人のおおボスを殺せば借金を解消してやると提案するが…
 カサヴェテスとしては珍しい、起承転結がはっきりとしたストーリーで「グロリア」のような雰囲気をもつ。コズモの微妙な心理の描き方がなんといっても秀逸な一作。

 この映画は完全にコズモの一人称で語られている。しかし、コズモは心理を吐露するようなセリフをはくことはなく、モノローグなんて入れるはずもない。しかし、すべてのシーンがコズモを中心に撮られ、われわれが経験することはコズモの経験以上のものでも以下のものでもない。それでわれわれに伝わってくるコズモの心理はどんな言葉で語られるよりも生々しく心に響く。出番を渋るミスター・ソフィスティケーションと踊り子達と楽屋で語るとき、何も知らない彼らに語りかける彼の複雑な心理は心を打つ。
 そんな彼を追うカメラは相変わらず大胆で、この映画では特に光の加減がかなり不思議。全体的に光量が少なくて、暗い感じの画面になっているだけではなく、ライトの逆光で度々目潰しを喰らったり、光のスペクトルが映り込んだりする。しかししかし、これがなかなかよくて、とくにクラブでコズモが逆行の中シルエットになるところなんていうのは素晴らしい。
 この映画はなんとなく起承転結がはっきりしていて、いわゆるカサヴェテスらしい映画とは違っているように見えるが、本質的には変わっていないと思う。カサヴェテスのどこへ向かうのかわからないストーリーというのをこの映画でもわれわれは感じる。それは、コズモの立場に立った場合で、自分の意志とは関係なくどこかへと流されていってしまうような感覚、と言ってしまうと月並みだが、先にある不安に向かっていくような感覚、がここにも存在している。

弾丸特急ジェット・バス

The Big Bus
1976年,アメリカ,88分
監督:ジェームズ・フローリー
脚本:フレッド・フリーマン、ローレンス・J・コーエン
撮影:ハリー・ストラドリング・Jr
音楽:デヴィッド・シャイア
出演:ジョセフ・ボローニャス、トッカード・チャニング、ネッド・ビーティ、ルネ・オーベルジョノワ

 キティ・バクスターが設計した初の原子力バス・サイクロプスが運行しようというときキティの父カーツ博士のいるサイクロプスの研究所で爆弾騒ぎがあり、2人の操縦士が負傷してしまう。代わりの操縦士としてカーツ博士はキティの元婚約者ダンを指名した。
 最初のナレーションで、様々なパニック・ムーヴィーの一つとして紹介されるこの映画だが、実際はパニック映画の完全なパロディ。
 つまりこの映画はドタバタB級な笑い連発のアクション・SF・パニック・コメディ(何じゃそのジャンル)

 最初のほうはB級な笑いのセンスがなかなかよくて、「もしかしてこれは!」と思わせるのだけれど、結局そのままだらだらと最後までいってしまうので、並みのB級コメディという感じになってしまった。何より設定の部分がテキトーすぎる。爆弾がことごとく意味がないとか、結局石油王の仲間達は何にもしていないとか、その部分もパロディなのだろうけれど、設定の部分までパロってしまうと、何がなんだか脈絡がなくなってしまう。ある意味では「オースティン・パワーズ」に似た感じの設定の作品だが、こう見ると「オースティン・パワーズ」ってのはなかなか優秀なパロディなんだと思ってしまう。
 意外と面白いところがあったのに、それが全体に生きなかったのが残念。バスのじゃまをする親分みたいな人がもっと表面に出てきて対決構造が明らかになったらよかったのに。字幕にはでてなかったですが、なんかおじいさんがタイタニックを沈めた見たいなことを言っていたので、そのあたりの設定は意外と深そうなだけに残念。

こわれゆく女

A Woman under the Influence
1974年,アメリカ,145分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:マイク・フェリス、デヴィッド・ノウェル
音楽:ボー・ハーウッド
出演:ジーナ・ローランズ、ピーター・フォーク、マチュー・カッセル、ニック・カサヴェテス

 ニックは労働者仲間のリーダー格だが、神経症気味の妻メイベルを持て余し気味。しかし、妻を愛していることに疑いはない。そんな2人がゆっくりと過ごそうと三人の子どもを母親に預けた日、突然の落盤事故でニックは帰れなくなってしまった。神経が高ぶったメイベルは徐々に様子がおかしくなり、バーで出会った男を家に連れ込んでしまう…
 いかにもカサヴェテスらしい、落ち着きのない物語。愛と狂気というテーマをそのままフィルムに焼き付けたという感じの生々しい映画である。ピーター・フォークとジーナ・ローランズがなんといっても素晴らしい。

 カサヴェテスが描くのは、自己と周囲との齟齬感であるのかもしれないとこの映画を見てふと思う。あらゆるものから疎外されている感覚がそこにはある。メイベルはもちろんのこと、登場するすべての人物が疎外感を感じている。子ども達でさえもそう。だから、あの海への旅があれほどぎこちないものになってしまう。メイベルの狂気とは、そんなすべての人が感じている疎外感・齟齬感の鏡として存在している。だから、みながメイベルを見て不安になり、他方でメイベルに愛情を感じる。それを最も端的に表しているのはニックの母であり、彼女はある意味でメイベルの対極にあるのだろう。彼女の無神経なころころと変わる態度は、その疎外感や齟齬感を自己の中で解決しようとするのではなく、他人になすりつけることから来るのだろう。
 カサヴェテスの映画はそういったことが(直接にはいわれていないにもかかわらず)伝わってくる映画だ。
 そしてカサヴェテスの映画はそんな物語に引っ張られて、画面を冷静に見ることが出来ない映画でもある。面白いフレームがたくさんあって、「あ、カサヴェテス!」という映像があるのだけれど、いざ冷静に見てやろうと思っても、結局物語のほうに引き込まれてしまって、見ることが出来ない。今回、一番頭に残っているのは、ピーター・フォークがフレームの左側にいて、背中と右手だけが映っていて、奥のほうにジーナ・ローランズとその父がいる場面。そのフレームの配置はすごくよい。ピーター・フォークの手もすごくよい。

しびれくらげ

1970年,日本,92分
監督:増村保造
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:渥美マリ、田村亮、川津祐介、玉川良一

 モデルのみどりは、ウェイトレスだったのを繊維会社の宣伝部員山崎に拾われグラビアに出るくらいのモデルになれたのだった。その山崎は恋人であるみどりに取引のためアンダーソンという米国人と寝てくれと頼む。一方みどりにはストリップ小屋の楽屋番をしているのんだくれの親父がいた。果たしてみどりは…
 一応「でんきくらげ」の続編という形だが、人物設定はまったく関係なく、物語もまったく違うもの。物語の質もそうとう異なっていて、この映画のほうが増村としてはオーソドックスに男と女の関係を描いていると思う。

 「でんきくらげ」は「女の生き様」という要素が前面に押し出されていた気がするが、こっちは「男と女の関係」というオーソドックスなテーマが一番大きな要素になっている。見る前は「でんきくらげ」と同じく、女が体ひとつでのし上がってくみたいな映画を期待していたのだけれど、その予想は裏切られた。まあ、でも、主人公の渥美マリが一本筋がとおっていて強いのだけれど、情にはもろいキャラクターである設定は同じ感じだったので、二つの作品がまったく異なるというわけではない。
 むしろこの作品は「遊び」に設定が似ている。ヤクザが女を手篭めにして体を売らせるという設定に何か思い入れがあったのかわからないけれど、ほとんど同じシチュエーションを使っている。しかも連れ込み宿の女将(雇われ女将)が同じ人(でも宿の名前は違った)。増村は女が買われたり騙されたりして売春婦になるという設定が好きらしい。そういえば「大地の子守歌」もそうだった…
 さて、作品に話を戻すと、この作品は最初のシーンからかなりひきつける。普通に寝室っぽいところで渥美マリはネグリジェ(と映画で言っていた)を脱いでいくのだけれど、その脱ぎ方が妙に大げさで、「何なんだ?」と思ってみていると、それがファッションショーだとわかる(ぱっと見ストリップにしか見えないけれど)。そのちょっと後のシーン、みどりと山崎が波止場に行ったシーンで、波止場に車(確か軽トラ)が整然とものすごい台数止まっている。これは圧巻。 「高度経済成長!」という感じです。やはりビデオの小さい画面で見ると構図なんかに目が行きにくいのですが、そのあたりはけっこう「おおっ」と思わせるところでした。

遊び

1971年,日本,90分
監督:増村保造
原作:野坂昭如
脚本:今子正義、伊藤昌洋
撮影:小林節雄
音楽:渡辺岳夫
出演:関根恵子、大門正明、蟹江敬三、松坂慶子

 工場で働く少女は郷里に病気の姉と母がいる。度々金を無心にくる母に嫌気がさした少女はホステスをしようとホステスになった元同僚に電話をかけようとする。公衆電話でその電話番号を探しているところへチンピラの少年がやってきた。少年は彼女をお茶に誘う。しかし2人には無邪気とはいえない運命が待っていた…
 大人の世界に翻弄される少年と少女を描いた恋愛ドラマ。若い女優を主人子に据えてとるというのも増村の常套手段のひとつ。この作品を最後に増村は大映を去った。

 増村にしては素直な映画で、ことがこうあって欲しいという方向に順調に進んでいく。なんとなく驚きが少なく感じてしまう。映像はいつも通りさえているのだけれど、それほどすごい! と圧倒されるほどの構図はなかったと思う。なんだか、増村保造は結局ロリコンで、若い女優を使って甘っちょろいロマンスを撮りたかっただけなのか?
 という疑問が浮かんでしまうのは、「でんきくらげ」や「大地の子守歌」のほうが断然面白かったからだろうか。  この映画で白眉は松坂慶子。ちょい役だけど「かわいい!この子誰?」と思わせる。松坂慶子主演でやったらもっと面白かったかも?

ここから出ていけ!

Fuera de Aqui !
1977年,ボリビア,100分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、ウカマウ集団
撮影:ホルヘ・ビグナッティ、ロベルト・シソ
音楽:マルセル・ミラン、フレディ・シソ
出演:アンデスの農民たち

 アンデスにあるカラカラ村は姑息な政治屋にだまされないきちんとした意志をもった人々が住む村であったが、羊の皮をかぶった狼には抵抗出来なかった。カラカラ村にやってきた北アメリカの宣教師の一団は無料診療所を作って村人の信頼を勝ち取り、一部の村人を信仰に引き込むが、実際彼らがやっていたのは村人の不妊かと周囲の地質調査だった。
 味方の顔をして村に入り込み、利益をむさぼる北アメリカの帝国主義の実情を事実に基づいて描いた最後のいわゆる「ウカマウ」的作品。

 いままでウカマウが一貫して描いてきたハンヤンキー帝国主義というテーマを再び声高に訴える。扱う対象も『コンドルの血』で扱った平和部隊と重なるものであり、新しさはないし、結末も農民たちが年の労働者との団結を訴えて終わるという予想通りの展開で、ウカマウの映画を何本も見てから見ると、映画としての面白みには欠けるかもしれない。
 まあ、しかしウカマウ映画の本来の目的である反帝国主義という意識の喚起はこの映画でも実現されているのでよいのだろう。
 しかし、ウカマウはこの作品の次には『ただひとつの拳のごとく』というドキュメンタリーを撮り、あるひとつの新たな試みを行う。そしてさらにその次の作品は『地下の民』というよりフィクション性を強めた作品だ。それはこのころからウカマウにとってのひとつの役割が終わりつつあったということだろう。

人民の勇気

El Coraje del Pueblo
1971年,ボリビア,100分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネスとウカマウ
撮影:アントニオ・エギノ
音楽:アベラルド・クッシェニル
出演:シグロ・ベインテの住人たち

 行進するデモ隊、それを待ち受ける軍隊。映画は1942年ボリビアで400人以上の死者を出したカタビの虐殺の再現で始まる。そこからいくつもの虐殺の事実が列挙され、その責任者の名が声高に叫ばれる。映画の中心は1967年にシグロ・ベインテの錫高山で起こった虐殺事件を再現することに当てられる。実際にその虐殺を経験し、生き延びた人々が自らの経験を再現し、演じる。それは見ているものの心をも怒りで震わせる。
 この映画が作られた3年前の1968年、ボリビアでは革命政府が成立し、このような映画を発表することが可能になった。しかし革命政府は脆弱で、アメリカ帝国主義の軛から脱し切れてるとはいえない状態だった。そのような状態でウカマウは革命の継続を訴え、人民を更なる行進へといざなうためにこのような映画を作ったのだろう。

 この作品はウカマウの作品の中でもメッセージがはっきりし、描く題材も具体的でわかりやすい。この映画にこめられているのは、「軍事独裁の時代を忘れない」というメッセージあり、「反米帝国主義路線を歩きつづけよう!」という政治宣伝である。
 そして、その目的を非常によく果たしている。見たものはアメリカと軍事独裁政権の悪行に怒り、震え、拳を突き上げるだろう。そうさせる要因は何なのかといえば、それが事実であるのはもちろんだが、なんといっても音響の使い方にあるだろう。まさに虐殺が起こっているときに鳴り響きつづけるサイレンの音が見ているものの神経を逆撫で、苛立ちを募らせる。それは拷問を受けながらも、殺されることがわかっていながら抵抗出来ない労働者たちの苛立ちに似ている。そんな労働者たちの苛立ちを疑似体験した我々は立ち上がらなくてはならない気分にさせられる。
 とはいえ、私が立ち上がるわけではないですが…
 とにかく、映画にこれだけの力があるということを示すのがウカマウの映画であるということを再認識したのでした。

静かな生活

Still Life
1975年,イラン,89分
監督:ソフラブ・シャヒド=サレス
脚本:ソフラブ・シャヒド=サレス
撮影:フシャング・バハルル
出演:サーラ・ヤズダニ、ハビブ・サファリアン

 イランの片田舎の踏み切り。踏み切りの上げ下げをする一人の老人。老人は家で絨毯を織る妻と二人、ひっそりと暮らしていた。しかし、ある日3人の男が現れ、老人に年と勤続年数を聞いて帰っていった。そして、そのしばらく後、老人のところに退職勧告の手紙が舞い込む。
 モフセン・マフマルバフが「ワンス・アポン・ア・タイム・シネマ」(日本未公開)の中でこの映画のシーンを引用しオマージュをささげた、イラン映画史上に残る名作。本当に静かな老人たちの生活を淡々と描くが、しかし非常に味わい深い。

 列車、踏み切り、家、食事。毎日のすべての出来事が同じことの繰り返しである日常。パンを運んでくる列車。見ていると、老人の一日の生活パターンがあっという間にわかる。タバコの吸い方、紅茶の飲み方、ランプを持っていく時間… まず、それを説明せずにわからせてしまうところがすごい。一切説明はなく、セリフも必要最小限。しかし、見ている側は、老人が踏み切りの開け閉めをして、その合間に小屋で居眠りし、夕方にはパンを受け取って、それを家に戻って入れ物に入れ、紅茶を飲み、紙巻タバコをパイプで吸い、ランプに火をつけ、それをもってまた踏み切りのところに行き、帰って夕飯を食べる。そんな生活をまるまるわかってしまう。
 しかも、この監督がすごいと思うのは、このまったく同じことの繰り返しをまったく同じには撮らず、少しずつ違う形で撮っていく。踏み切りの開け閉めをしているところでも、微妙にカメラの位置が違っていて、老人の大きさや通り過ぎる列車の見え方が違う。パンを受け取るところでも、最初は老人が列車に隠れる形で撮って、受け取る瞬間は写さないが、次の時には逆からとってそのものを映してみたりする。そうやっていろいろな角度から同じ行動を見ていると、それがちょっと変わったときに思わず気づいてしまう。わかりやすいのは、退職通知を受け取って老人が家に戻ったとき、パンを持ったまま椅子に座る。見ている人は「いつもはあそこに…」とつい思ってしまう。
 それが本当にゆっくりとしたテンポで展開され、あまりに心地よく、ついつい寝入ってしまいそうな、「あー、でもここで眠ったらもったいないよ、こんないい映画なのにー」という葛藤がこの映画の質を表しているのではないでしょうか。
 最近思うのは、寝られる映画ってすごいということ。それだけ見ている側を心地よくさせるということですから。これもそんな映画です。しかし、寝てしまって見逃すのはもったいない。あーーーー