でんきくらげ

1970年,日本,92分
監督:増村保造
原作:遠山雅之
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:渥美マリ、川津祐介、永井智雄、玉川良一、西村晃

 水商売で暮らす母と母の男とともに暮らしながら洋裁学校に通う由美だったが、ある日母の男に強姦される。それを母に告げると、母は男を刺し殺してしまった。刑務所に入った母のためにも水商売の世界に入った由美はその美貌と体を生かしてのし上がっていく。
 瞬く間にスターダムにのし上がり、まもなく消えていった渥美マリの代表作。その魅力で男をとりこにする女という増村が好むテーマ。しかし、この映画の場合、男をもてあぞぶ悪女というイメージでは必ずしもない。

 男をとりこにし、破滅させるというのは『刺青』や『痴人の愛』に通じるテーマだが、この3つの作品はそれぞれかなり異なっている。『刺青』は男を破滅させ、最後に自分も破滅してしまう。『痴人の愛』は一度は二人とも破滅するが、最終的にはある種のハッピーエンド。『でんきくらげ』は最初のうちは他の2作より男が優遇されているが、最後に破滅するのは男だけである。だからこそ電気くらげなのだろうが、終わってみれば一番たちが悪いのがこの由美だったりする。
 しかし、見ている我々は悪いのは由美ではなく男なんだと思う。そこが増村のすごいところ。この人はフェミニストなんじゃないかと思ってしまうくらい、女が勝つことが多い。まあ、勝ち負けの問題ではないのだけれど、概して女が強く男は弱い。その典型的な映画がこの『でんきくらげ』なのかもしれない。
 この映画を見てひとつ思ったのは、由美が野沢とともに母親に面会に行ったとき、由美が母親と話しているカットで、奥にいる野沢が妙に無表情なこと。脇にいる人が無表情というのは『卍』なんかでも思い当たる節があるんですが、かなり不思議な感じです。
 それから、この映画はワイドスクリーンなんだけれど、画面の焦点が中心にない。大概、話している人物が画面のどちらかによっている。これまたかなり不思議な映像で、巧妙なというか奇妙なフレーム使いでかなり気になりました。どういうことかといえば、普通ワイドスクリーンの場合、画面の中心に焦点を当てる人物がいて横の広いスペースに均等に小物を置く。しかしこの映画は、話している人が右側にいたら左側の画面が大きく開いている。しかもそこに何かがあるわけでもない(ことが多い)。普通こういうことをすると画面がさびしくなるものなのだけれど、この映画はまったくそういうことがない。なぜなんだろう? そのなぞは解けません。
 これは余談ですが、『グループ魂のでんきまむし』の「でんきまむし」はこの映画からとられたそうです(監督談)。どんな意味がこめられているのかはいまいちわかりませんが、人々をしびれさせる(笑いで)ということでしょうかね。

大地の子守歌

1976年,日本,111分
監督:増村保造
原作:素九鬼子
脚本:白坂依志夫、増村保造
撮影:中川芳久
音楽:竹村次郎
出演:原田美枝子、佐藤祐介、岡田英次、梶芽衣子、田中絹代

 山奥の山村で「ババ」と暮らす13歳の少女りん。いつものように猟から帰ってくるとババが冷たくなっていた。りんはババの死を隠そうとするが村人にばれ、しばらくしてやってきた人買いにだまされ瀬戸内海の島の女郎家に売られてしまう。そんなりんのこれまでの生をお遍路参りをするりんの姿を挟みながら展開させる。
 やはり焦点を当てられるのは女性。といっても少女。増村と少女、男を惑わす妖艶な女性とは違った女性像を増村が描く。

 なんといっても原田美枝子が素晴らしい。暴れまわるシーンにスカッとしたり、ヌードのシーンにドキッとしたり、いかにりんを魅力的に描くかというのがこの映画の最大の焦点なのだろう。自由奔放で純粋、勝気で芯が強い。しかし不安定で、わがままで弱い。そんなりんに感情移入せずに入られない。
 物語として完全にりんに焦点を絞っているのもいい。りんの周りの人々はりんと関わるところ意外はばっさりと切ってしまっている。りんがはじめて恋をする漁師の息子なんかはもう少し引っ張りたくなるのが心情というものだけれど、あっさりと映画から立ち去る。そういう意味では人買い(名前忘れた)が死ぬエピソードが挿入されたのはちょっと納得が行かなかった。それもバサリと関係ないものとして、切り捨ててほしかったというのが正直なところ。
 りんのキャラクターに比べて映画全体のトーンはそれほど荒々しいものではなく、映像的にも落ち着いている。最後の最後で幻想的なシーンが出てくる以外は、意外と普通に撮っている。なぜ?と考えると、画面の中でりんが動き回っているわりにはカメラはどっしり構えている、あるいはりんが動き回るからカメラは動かす必要がない。からでしょう。思い返してみれば、移動カメラを使ったシーンというのはひとつもなかった気がする(多分あると思うけど)。それくらいどっしりとカメラが構え、りんがフレームアウトするとカメラを切り替えるという場面構成になっていたような気がする。やはりこういう強弱が映画には重要。人も動けばカメラも動くじゃ、メリハリがなくっていけねえ。
 頭に残るのは音楽。映画全体を通して流れるテーマ曲が耳に残り、エンドロールで少しだけ歌詞つきのが流れるのにはつい笑ってしまった。ギターの音なのに妙に和風。不思議。

恐怖のメロディ

Play Misty for me
1971年,アメリカ,108分
監督:クリント・イーストウッド
原作:ジョー・ヘイムズ
脚本:ディーン・リーズナー、ジョー・ヘイムズ
撮影:ブルース・サーティース
音楽:ディー・バートン
出演:クリント・イーストウッド、ジェシカ・ウォルター、ドナ・ミルズ、ジョン・ラーチ、ジャック・ギン、アイリーン・ハーヴェイ

 カリフォルニアでDJをするデイビッド。今日も放送中「ミスティ」をリクエストする女性から電話がかかってきた。仕事帰りに馴染みのバーで引っ掛けた女性が実はその「ミスティ」の女エヴリンだった。遊びのつもりで一夜をともにしたデイビッドだったが、エヴリンはしつこく彼に付きまとい、その行動は徐々に常軌を逸してゆく。
 いわゆる「ストーカー」もののサスペンス。時代的に言ってはしりといえる作品なのか。脚本は今から見ればかなりオーソドックスだが、映画の作りは、かなり不思議な感じ。デビュー作だけに、まとまりがないという感もしないでもないが、奇妙な調和をなしていると見ることも出来る不思議な映画。

 シナリオをざっと追って、映画の造りを簡単に見ていくと、オーソドックスなハリウッド映画に見えるかもしれない。特に、ヒッチコックっぽい(つまり、古典的なハリウッドサスペンスっぽい)造りに見える。そして、そう見た場合に秀逸なのはジェシカ・ウォルターの演技。本当に狂気を湛えたように見える「目」が特にすばらしい。
 しかし、ハイウッドらしい不自然さ。造りものっぽさ。最初のシーンが空撮、特にすごいのは、森でのラブシーン。そんなバカな!と叫びたくなる瞬間。
 しかし、しかし、この映画なんだかおかしい。調和が取れていない。最初のうちは気づかないのだけれど、トビーと海辺を散歩するあたりから、色調のおかしさに気づいてくる。色が多すぎる。デイビッドの家もそう。妙に色が多い。そしてそれが不思議な調和を作り上げている。たとえば、さっきもあげた森でのラブシーンの後の、岩場でのキスシーン。二人のシルエットははじっこのほうに小さくあって、残りは全部夕日。そしてこの夕日と空と岩とが赤とか白とか青とか緑とか、とにかく色がごたごたとあって、しかしそれが美しい。
 さらに、色だけでなく、映像のつなぎまで不思議なことになって行く。とくに、最後のほうデビッドがトビーの家に車を走らせるとき、デビッドとエヴリンが交互に映されるのだけれど、そのカットが異常に短い。
 などなど「なんだかおかしい」というイメージが残る映画。おそらくこれはイーストウッドが意識的に従来の映画作法を壊そうとしているのだろう。この評価はもちろんこの作品以降のイーストウッドの作品を見ての評価なのだけれど、この映画を見て、それが確かにあると思えることもまた事実。
 しかし、この作品をポンとみて、「こいつは才能があるよ!」と言えるだけの審美眼は私にはないとも思いました。まだまだ修行がたりんのう。
 いやいや、すごいねイーストウッド。

第一の敵

El Enemigo Principal
1974年,ボリビア,110分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、ウカマウ集団、出演者たち
撮影:エクトル・リオス、ホルヘ・ビグネッティ
出演:ペルーの先住民たち

 フリアンは地主に盗んだ牛を返してくれるよう頼みに行くことを決意した。家族の静止も聞かず、逆に家族を引き連れて地主のところへ直訴しに行ったフリアンだったが、怒った地主に首をはねられてしまう。それに怒った村人たちは地主を捕まえて判事のところへ連れてゆくのだが、判事もまた地主の味方をし、逆に村人たちは捕らえられてしまう。
 そんな村に休息を求めに偶然やってきた反政府ゲリラ。果たして彼らと村人たちが共同し、地主を倒すことができるのか、というのがこの物語の最大のテーマとなる。
 この映画はそもそも先住民(農民)たちの意識を喚起することを目的に作られたため、内容はイデオロギー的で、とっつきにくい。しかし、最初はぎこちなかった農民たちの表情が徐々に活気を帯びてくるのを見れば、映画の持つ力の強さというものが実感でき、何らかのメッセージを受け取れることだろう。

 まったくなじみのない風景にまったくなじみのない人々、画面は白黒で音響も単調。決して楽しいとはいえない重たい物語。農民たちのたどたどしい演技。そんなとっつきづらい要素に溢れていながら、我々は徐々にこの映画に引き込まれていく。それは物語の力なのか?それとも映像の?あるいは登場人物たちの?
 この映画を理解する上でまず考えなくてはならないのは、この映画に登場するゲリラというものが果たすのと同じ役割をこの映画自体が果たすということ。それはつまり農民たちを「意識化」するということ。ゲリラが村にやって来て果たした最も大きな功績は地主を倒したというそのことではなく、村人たちに革命の意識を植え付けたこと。自分たちの窮状の元凶がどこにあるのかをはっきりと認識できたことなのである。だからこそこの映画は「第一の敵」と題されているのだ。そして、この映画はこの映画を見るすべての人民に「第一の敵」が誰であるのかを教える。
 あるいは、教えるのではなくともに学ぶ。先住民たちの言葉で語る(この映画の大部分はペルーの先住民の言葉であるケチュア語で語られる)ことによって、先住民にとって身近な問題であることが実感できる。そのようなものとしてこの映画があるわけだ。
 果たして、このような前提を理解したわれわれがこと映画から受け取るメッセージとは何なのか?
 映画として見れば非常に素朴な作品だが、「語り部」の導入とロングショットの多用という面に、この映画のオリジナリティが感じられる。この作品の十数年後に撮られることになる「地下の民」(明日お届けします)あたりから、かなり作り方が変わり、純粋に映画として語ることも可能になるのだけれど、この作品の時点では、映画としてよりはイデオローグとして情報を効果的に伝えることに重点をおかれている感が強い。それでも、広い荒野を何十人もの村人が地主を引っ立てていくシーンなどはかなり強い印象を残す。
 映画としての評価はその程度ですが、映画がもつ一つの可能性を示すものとして見る価値はある、あるいは見なくてはならない作品なのかもしれません。

さすらい

Im Lauf Der Zeit
1975年,西ドイツ,176分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、マルチン・シェイファー
音楽:インプルーブド・サウンド
出演:リュティガー・フォグラー、ハンス・ツィッシュラー、リサ・クロイウァー、ルドルフ・シュントラー

 映画館を巡回して、映写機を修理し、フィルムを貸して回る男ブルーノ(リュディガー・フォグラー)がある朝トラックでひげを剃っていると、目の前をものすごい速度で飛ばすビートルが通り過ぎ、川に突っ込んで沈んでいった。その車から現れた男ロベルト(ハンス・ツィッシュラー)は妻と別れて放浪生活をしていた。二人はほとんど言葉を交わすこともなく一緒に旅をはじめる。
 ロードムーヴィー三部作の三作目とされるこの作品はヴェンダースのロードムーヴィーの一つの到達点を示しているのかもしれない。もともと精緻なシナリオがなく撮りはじめたため、まさに旅をしながら物語が生まれてくるという感じになったのだろう。二人の男の人物設定が会って、その二人が旅をするとどのような関係が生まれていくのか?それを決してドラマチックに使用などと考えずに淡々と描いてゆくリアルな物語はまさしくロードムーヴィというにふさわしい。
 この映画で目を引くのは、動いてゆく風景。単に背景としてではなく、ミラーに映ったり、フロントガラスに映り込んだりとあらゆるところに背景が入り込み、それが過ぎ去ってゆく。 

 この映画のこの二人の男は決して前には進まない。いつも進んではいるのだけれど、彼らの旅は何かに向って進む旅ではない。それを象徴するのは最初と最後の移動の場面。最初の移動の場面。トラックに乗り込んだ二人をカメラは脇の窓から捕らえる(はず)。その反対側の窓の向こうにあるバックミラーは過ぎ去ってゆく土地をえんえんと映している(この場面はかなり不思議で、人物にも、窓の外の風景にも、バックミラーの風景にもピントが合っている)。最後の移動の場面、電車に乗り込んだロベルトは進行方向と逆に向かって座る。彼から見えるのは過ぎ去ってゆく景色だけだ。こうして二人の男は前には進まず、停滞し、時だけが流れ去る。彼らのそのような行動が何を意味しているのかを語ることをこの映画は巧みに避ける。彼らは最後、国境の米軍の東屋でわずかながら考えをぶつけ合うけれども、それがゆえに二人はわかれ、別々の方向へと進み始める。
 やっぱりこの作品も語るのは難しかった。黒沢清がどこかで言っていたけれど、ヴェンダースの映画(80年代以前)は「お話がどうも確実にあるようなんだが、それをひとことで言えといわれるとそう簡単には言えないような映画」なのだろう。だからどう書いていいのかわからない。みればわかる、みればわかる。と繰り返すだけ。
 本当にみればわかる。この映画、個人的にはヴェンダース作品の中でいちばん好きかもしれない。 

まわり道

Falsche Bewegung
1974年,西ドイツ,100分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ペーター・ハントケ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:リュディガー・フォグラー、ハンナ・シグラ、ナスターシャ・キンスキー、H・C・ブレッヒ

 我々は冒頭の街の俯瞰ショットで期待に胸を膨らませる。そして、主人公のヴィルヘルムが拳で部屋の窓ガラスを割るシーンにハッとする。苛立ちと不満感にさいなまれる小説家志望のヴィルヘルムは母に勧められるまま旅に出る。ドイツを縦断するように旅する彼は何かを見つけ出すことができたのだろうか?
 ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を底本として書かれたペーター・ハントケの小説の映画化。ヴェンダースのロード・ムーヴィー三部作の2作目に位置付けられる。希望に満ちた若者の旅というよりは、寂寥感や静謐さを感じさせる。これが映画デビュー作のナスターシャ・キンスキーも強い印象を残す。 

 この作品は「ゴールキーパーの不安」と似通ったところが多い。物語の転換のきっかけとして「死」があること。「ゴールキーパー」ではそれが殺人であり、「まわり道」では自殺であるという違いはあるものの、そこで物語が固着するという点は同じだ。そしてヴェンダースが本当に描きたかったのはそれらの「死」の後の話だという点も。単調で退屈に見える、「動き」を奪われてしまったその後の展開は、結局何も始まりも終わりもしなかったたびを象徴するものとしてそこにある。ヴィルヘルムは、最後には山の頂きに立ちはするが、何も生み出さず、何も得られず、何も見つけられなかった。
 ただ、これはヴェンダースが何かを否定していることは意味しない。ヴェンダースはただこれを提示しただけ。ひとつの物語として我々に示しただけだ。彼が私たちに見せたかったのは、「世界」であって教訓ではない。
 この作品が「ゴールキーパー」と違うのは主人公のモノローグ。「ゴールキーパー」では主人公に同化しにくいが、この「まわり道」では我々は主人公の視点でものを見させられる。主人公がモノローグを語りだすと見る側は、彼を観察することをやめ、自分がそのモノローグを語っているかのように錯覚し始める。そして主人公の視点に立ち始めるのだ。
 個人的にはそのように主人公の視点に捉えられてしまうことは非常に居心地が悪かったが、「むなしさ」を強く感じることができたことも確かだ。一般的に言えば感動を誘うはずのラストシーンの雄大な山の景色も、ただ白々しいだけのものに見えた。それは私がある程度ヴィルヘルムの気分を共有していたからだろう。物語の後半が退屈に感じられるのも、ヴィルヘルムもまた退屈しているからだろう。映画が退屈であるというこの事実にヴェンダースの力量を感じた。 

ゴールキーパーの不安

Die Angst des Tormanns Bein Elfmerter
1971年,西ドイツ,101分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:アルトゥール・ブラウス、カイ・フィッシャー、エリカ・プルハール、リプガルト・シュヴァルツ

 プロのゴールキーパーのヨーゼフは試合中に審判に暴言を吐き退場処分に。スタジアムから出た彼は街をさまよい、安ホテルに宿を取って目的もなく街をぶらぶらと歩く。そして映画館の受付譲と仲良くなって、彼女の家で一夜をともにしたが…
 この作品は長編としては2作目だが、すでにヴェンダースのスタイルが確立されている。ロビー・ミューラーのカメラは色彩の鮮やかさこそまだ発揮されていないが、構図の作り方は秀逸、クローズアップでの切り返しも鮮やか。ヴェンダースの特徴のひとつである画面のフェイドアウトも効果的に使われている。 

 「不安」という言葉がこの作品をまとめている。この作品は、最終終的にどこかへ向うわけでも、何かが解決するわけでもないことが多いヴェンダースの作品の中でも特に行き先の見えない話だ。ヨーゼフがなぜそれぞれの行動をとったのかはまったく説明されないまま、そしてヨーゼフがいったい何を考えているのかも示唆されないまま、物語は淡々と進んでゆく。主人公への没入を拒否する姿勢。映画に対して第三者でい続けさせられる不安感。観客はその不安感を抱きながら、ヨーゼフの不安を見つめる。この微妙な関係性を作り出すのがヴェンダースの力量なのだろう。観客が安易に主人公に同調して物語世界に入り込んでしまわないように、しかし映画の世界には惹きつけられるようにするという微妙な作業。そのための緻密な計算がこった映像を作らせるのだと感じた。
 この作品は長編第2作目だけあって、その緊張感が緩む場面がたびたびあったが、それによってむしろヴェンダースのやらんとしていることを感じ取れたような気がする。いまだ完成されていないスタイルの魅力にあふれた一作。 

都会のアリス

Alice in den Stadten
1973年,西ドイツ,111分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ファイト・フォン・フェルステンベルク
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:CAN
出演:リュディガー・フォグラー、イエラ・ロットレンダー、リサ・クロイツァー、エッダ・ケッヒェル

 ポラロイドで写真を撮りながら、アメリカを放浪していたドイツ人作家フィリップは持ち金も底をつき、ドイツに帰って旅行記を執筆することにした。しかし、おりしもドイツでは空港がスト、アムステルダム経由で帰ることにするのだが、そのとき空港で出会った女性に娘のアリスをアムステルダムまで連れて行ってくれと頼まれる。
 いわゆるロード・ムーヴィー三部作の1作目。白黒の画面は淡々として余計な説明が一切ない。表情と風景がすべてを物語る。説明がなく、しかも劇的なプロットがあるわけでもないので、その静寂の奥にこめられた意味を探ってしまう。 

 「移動する」ということによって物語りは活気を帯びる。そしてフィリップとアリスの関係も変化してゆく。二人は互いに語ることはほとんどないのだけれど、そこで交わされる言葉にならない交流がこの映画の最大の魅力だろう。言葉にならないのだから、ここで文章で表現するのは難しいのだけど、誤解を恐れず単純化してしまえば、結局のところ焦点となっているのはフィリップの「癒し」なのかもしれない。アリスももちろん主体的に成長する存在として描かれているのだけれど、映画にとっては「従」の存在でしかないのかもしれない。
 という気がしました。しかしこの見方にはきっと異論があることでしょう。異論反論はどしどしお寄せください。 
 あとはやはり映像ですね。ヴェンダースは映像作家といわれ、映像の美しさには定評があるので、ここでことさら語ることはしませんが、彼の「絵」の最大の魅力は「隙」だと思います。何もない部分、何かがあることによって強調される何もない部分(たとえば白く塗りつぶされたようなくもり空)の存在感がなんともいい味を出しています。 

バタフライはフリー

Butterflies are Free
1972年,アメリカ,109分
監督:ミルトン・カトセラス
脚本:レナード・ガーシュ
撮影:チャールズ・B・ラング・Jr
音楽:ボブ・アルシヴァー
出演:ゴールディ・ホーン、エドワード・アルバート、アイリーン・ヘッカート、ボブ・アルシヴァー

 当時若手人気コメディエンヌだったゴールディ・ホーン主演のヒューマン・ラブ・コメディ。しかし、コメディの要素は少なめ。
 ジル(ゴールディ・ホーン)は、アパートの隣の部屋の男がいつも窓から覗いているのが気になって仕方ない。そんなある日、隣の部屋から母親と電話で言い争う男の声が。ジルがそれに対抗してラジオを大音量でかけていると、隣の男ドン(エドワード・アルバート)が文句をいってきた。そこからふたりは親しくなるのだが…
 種明かしをしたくないので、ポイントは黙っておきますが、かなり良質なヒューマンドラマ。ひとつの要素で、ただのラブコメとは違う味わい深いドラマに仕上げることができた。画もなかなかよくて、ときどきはっとさせられるカットがある。と思っていたら、アカデミー撮影賞にノミネートされていたということらしい。ちなみに、ドンの母親役のアイリーン・ヘッカートがアカデミー助演女優賞を受賞している。意外と名作。 

 カットで特に気に入ったのは、どの変化は忘れたけれど、ドンが洗面所の(ステンドグラスの)ドアに寄りかかって、髪が顔にかかって表情の見えない顔を、ベット越しに抜くところ。なんだかドキッとする緊張感があってよかった。
 ストーリーで言えば、身障者にとっての世界観というものと健常者の身障者に対する心理というのはよくあるテーマだけれど、これが1972年の作品ということを考えると、かなり思い切ったもので、かつうまくまとまったものであるといえるのかもしれない。エドワード・アルバートの演技もかなりよかったと思う。
 なんをいえば、もう少し笑えるところがあるとよかったかもしれない。別にゴールディ・ホーンがシリアスドラマに出たっていいんだけど、この映画の体裁を見ると、一応(ヒューマン)コメディとして作られているようなので、もう少ししっかり笑える場面があるとコメディ好きとしてはうれしかったというところ。 

ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ

Je T’Aime Moi Non Plus
1975年,フランス,90分
監督:セルジュ・ゲンスブール
脚本:セルジュ・ゲンスブール
撮影:ウィリー・クラン、ヤン・ル・マッソン
音楽:セルジュ・ゲンスブール
出演:ジェーン・バーキン、ジョー・ダレッサンドロ、ユーグ・ケステル、ジェラール・ドパルデュー、ミシェル・ブラン

 ごみ処理車で働くゲイのカップルと、食堂で働く一人の女。ちょっと変わった三角関係を描いた恋愛映画。セルジュ・ゲンスブールの独自の世界観が堪能できる作品。
 繰り返される音楽、工夫されたフレームの切り方と、何か新しいものを生み出そうとしていると雰囲気は感じられるし、フランス映画としては非常に不思議な空気をもった映画だが、少し流れが平坦すぎるという感じがした。もう少し各キャラクターに深みを持たせたい。 

 フレームのきり方は非常に美しく、芸術的なセンスは感じられる。ふたりの背中越しのごみ集積場、洗面台の下にうずくまる全裸のジェーン・バーキン、などなど。思い切って人をフレームで切ってしまうところが美しさを作り出しているのだろう。
 音楽も、さすがに、耳に残るいい曲という気はする。
 問題はやはり脚本か。
 でも、映像と音楽がよければ、映画なんて楽しめるものなので、特に文句はありません。