ただひとつの拳のごとく

Las Banderas del Amanecer
1983年,ボリビア,92分
監督:ホルヘ・サンヒネス、ベアトリス・パラシオス
撮影:イグナシオ・アラマヨ
音楽:ハタリ・グループ
出演:ボリビアの人民たち

 1979年、ボリビアではナトシュによる軍事クーデタがおこった。しかしこれまでの軍事政権下での活動で力をつけてきていた労働総同盟は大規模なゼネストを打ってこれを打ち倒した。しかし、ことはそう簡単には行かない。左翼化を恐れる軍は再びクーデタを起こし、労働総同盟はさらなる戦いに入った。
 長い亡命生活からようやく帰国したウカマウ集団が再び遭遇した軍事クーデタ。今度は彼らはそれをドキュメンタリーという形で記録した。ウカマウの映画のひとつの分岐点となった作品。

 まず、ここまで堂々とウカマウが映画を撮れるようになったという意味で、それだけボリビアの民主化が進んだのだといえるだろう。だからこそウカマウはこの作品を最後に民衆を動員するような映画を撮るのは止めたのだろう。あるいはこの作品もすでに民衆を動員するという意図で撮られたというよりは純粋に人民の勝利の過程を記録しただけなのかもしれない。
 しかし、人民の勝利が完全ではないと考えていることは明らかだ。彼らが目指すのは社会主義体制であって、生ぬるい民主主義ではないのだ。それはこの映画の最後にあらわれている。しかし、この時点で社会主義の運動がいわれなき弾圧を受けることはなくなったことは明らかであり、それならばもう映画という手段を使わなくても社会主義を民衆に訴えることが出来るようになったのだろう。
 それにしてもこの作品はすごい。やはりこれまでの再現映画とは違ってドキュメンタリーという生々しさがある。表面上は同じなのだが、やはりその裏にある真剣さが違う。一つ一つの演説にしても声がかれるくらいに叫んでいるその声がリアルだ。だからこの作品はウカマウ映画のひとつの完成形であると私は思う。ウカマウがそもそも映画を撮り始めた理由「映画によって人民を感化すること」、これが「映画によって人民とともに闘うこと」に変化はしたが一貫して人民を動員するための映画を撮ってきたウカマウが結果としてそのような映画と決別することになった映画であるだろう。ただし、「地下の民」以降もスタイルは変わったとはいえ、根本的な姿勢は変わらないことも言っておく必要があるだろう。

汚れた血

Mouvais Sang
1986年,フランス,125分
監督:レオス・カラックス
脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ベンジャミン・ブリテン、セルゲイ・プロコフィエフ、シャルル・アズナヴール、デヴィッド・ボウイ、セルジュ・レジアニ
出演:ミシェル・ピッコリ、ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ、ジュリー・デルピー

 ハレー彗星の影響で異常気象に見舞われるパリ、マルクはメトロで自殺した仲間のジャンの死を怪しみ、「アメリカ女」がやったのではないかと疑う。しかし、マルクは「アメリカ女」への借金を返さねばならず、そのためには製薬会社に忍び込む必要があった。彼はジャンと同じく手先が器用なジャンの息子アレックスを誘おうと考えた。
 「ポンヌフの恋人」「ポーラX」のレオス・カラックスが世界的認知を得た作品。徹底的に作りこまれた映像美と難解な物語が独特の世界を作り出す。

 確かにこの作品はすごいんですが、あまり「すごい、すごい」と言われすぎている気もするので、へそ曲がりな私としてはちょっと文句をつけてみたくなるわけです。
 最初のあたりはかなりゴダールの影響を感じさせるモンタージュで始まり、しかし、アップの多用や普通のギャング映画のような物語が進行しそうで、「ちょっと違うのかな」と思わせる。この最初のシーンはかなりいい。年寄りばかりで構成したのも非常に面白い。
 次のシーンもなかなかいい。  しかし、その後映画が進むにつれ、物語としては魅力を失っていき、映像も「作り込み」が目に余るようになってくる。特に気になったのは映像で、新しいことをやろうという気持ちも、なにをやりたいのかもわかるし、確かに面白い構図なのだけれど、作りこみすぎて「自然さ」が失われてしまっているように見える。それは構図を守るために動きを奪われてしまったことからくるのだろう。たとえば、アナのアップの後ろでアレックスが動いているシーンがあって、最初は奥のアレックスにピントがあっていて、画面の3分の2を占めるアナはぼやけている。それが、突然ピントが切り替えられるのだけれど、そのためにアレックスの動きが非常に制限されてしまっている。その「構図のために人を動かしている」っていうのが、どうもね、気に入らないというか、そっちに目がいっちゃって映画の中に入り込みきれないというか、そんな居心地の悪さがあるんですね。
 とはいってもやはり、いい映画ではある。アレックスがデヴィッド・ボウイにのって疾走するシーンなどなどいいシーンはたくさんあるし、この監督はなんといっても女優の使い方がうまい。当時ほとんど無名だったジュリー・デルピーをうまく使っている。
 いわゆる「アート系」と呼ばれる映画だと思うんですが、その中でもかなり時代の先を行っていたのだなと感じるわけです。この映画にいたく感動する人の気持ちもわかります。
 私にはそこまでの真面目さがないということなのかな?

ミッドナイト・ラン

Midnight Run
1988年,アメリカ,126分
監督:マーティン・ブレスト
脚本:ジョージ・ギャロ
撮影:ドナルド・ソーリン
音楽:ダニー・エルフマン
出演:ロバート・デ・ニーロ、チャールズ・グローディン、ヤフェット・コットー、ジョン・アシュトン

 ロサンゼルスに住む元刑事の賞金稼ぎジャックは保釈金保険業者のエディの依頼で容疑者を捕まえいている。今回は、マフィアの金を横領し、福祉団体に寄付した会計士のジョナサン“デューク”マーデュカスがターゲット。ジャックはマフィアとFBIの裏をかき、さっさとNYでデュークを確保したのだが…
 適度な笑いとアクションをちりばめた、ロード・ムーヴィーの傑作。物語のプロットが非常にうまく練られていて、一度見始めたらとまらない映画に仕上がっている。

 このころのデ・ニーロも好きだし、こういったおおらかな感じのアクション映画も好き。適度に笑いがあるほうがいいし、ロードムーヴィーは大好き。ということで、個人的な好みとしては最高!
 ですが、それは置いておいて、少々分析してみましょう。まず優れているのはプロット。話自体はそれほどひねっていないのだけれど、ジャックとジョンの関係に加え、マフィア、FBI、マーヴィン、エディ、ジャックの元妻と娘、がしっかりと話の縦糸に織り込まれ、うまくかみ合っている。どの要素もおまけのエピソードというふうにはならず、何らかの形で作品を引っ張っていく。だから、よく考えてみれば単純なストーリーを単純に感じさせずに最後まで押し切ることが出来ているのだろう。
 そして、それを非常に素直に撮影しているのだが、何せ登場人物が多いし、話の流れがいくつもあるので、次のシーンがどんなシーンなのか予想がつかないというのがいい。この映画ではシーンとシーンが1カットでつながっていることが多い。つまり、ひとつのシーンの最後のカットと次のシーンの最初のカットをひとつのカットでまとめてしまうということ。
 例えば、最後のほうで、トニーたちがジョンを連れてホテルに入っていくシーンで、トニーがホテルの中に入ったあと、カメラがパンすると、張り込んでいるFBIが移って、そこでカットが切れて、FBIのモーズリーのシーンになる。こんな感じ。
 これがどうと言う訳ではないんですが、こういう地味な工夫が物語りのスムーズな流れを生み出しているんではないかと思ったわけです。
 ちなみに、監督のマーティン・ブレストは「ビバリー・ヒルズ・コップ」の監督でもあるので、こういったアクション・コメディはお手の物という感じですね。
 さらにちなみに、脚本を書いているジョージ・ギャロはこの映画のヒットに気をよくし、”Another Midnight Run”というシリーズもののテレビ映画を3本作りました(プロデュース)。前にこのメルマガでも取り上げましたね。邦題では「ミッドナイト・ラン1」「--2」「--3」となっています。こっちもなかなか面白いです。

バーディ

Birdy
1984年,アメリカ,120分
監督:アラン・パーカー
原作:ウィリアム・ワートン
脚本:サンディ・クルーフ、ジャック・ベアー
撮影:マイケル・セレシン
音楽:ピーター・ガブリエル
出演:マシュー・モディーン、ニコラス・ケイジ、ジョン・ハーキンス、サンディ・バロン

 バーディとアルは子供のころからの親友。空を飛ぶことを夢見、鳥にあこがれるバーディと女のこの尻を追っかけまわしレスリングをするアル。二人はベトナム戦争に参加し、ともに負傷して帰ってくるのだが、バーディは言葉をしゃべらず、感情もし表さなくなってしまった。
 精神病院に収監されたバーディのもとを訪れるアルが昔を回想する形で物語は進む。プロットもよく練られていて、映像も整っているかなり完成度の高い作品。

 何かが飛びぬけていいというわけではない。強いて言うならば、バーディとアルのキャラクター。二人の性格がきっちりとしていて、しかもまったく水と油というよりは二人とも強いところもあり弱いところもあるという設定。二人は互いを理解しているようでしていないのかもしれないという関係。他人を完全に理解することなど無理なのだからあたりまえなのだけれど、それが理解できてしまうような幻想を人間は抱く。
 バーディは言う「おまえならわかってくれると思ったのに」。それは幻想に過ぎない。しかし、この二人の関係はそこにとどまらない。そのときには理解できなかった感情も時が立てば理解できる。
 アルは言う「おまえには付き合いきれないよ」。それはそのとおり。他人のやることすべてに同調することなんてできっこない。しかし、いつの日か付き合ってやればよかったと思う。
 言ってしまえば、終盤のヒューマニックなところはどうでもよく、二人が社会に復帰できようと、一生精神病院に閉じ込められようと、どちらでもいい。重要なのは二人が同じ過去を持ち、それを同じく受け入れているということ。
 話は変わって、映像的な面では、鳥の話だけあってかなりアングルにこっていた。上からの視線としたからの視点を巧みに使い分ける。精神病院の場面では下からのアングルが多用される。ローアングルというのはかなり面白い画がえられるもので、ここではバーディが「鳥っぽく」見えるという効果を生んでいるのだろう。と言ってしまってはつまらないが、あれが人間の視線と同じアングルではちっとも面白くない画になってしまっていただろうということはいえる。

陽炎座

1981年,日本,139分
監督:鈴木清順
原作:泉鏡花
脚本:田中陽造
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
出演:松田優作、大楠道代、加賀まり子、楠田枝里子、磨赤児

 劇作家の松崎は一人の女と不思議な出会いをする。そのことをパトロンの玉脇に話すが、実はそれは玉脇の妻だった。玉脇には二人の妻がおり、一人目の妻は実はドイツ人なのに、日本人の格好をさせているという。
 ストーリーを説明しようにも、なんだかわけのわからない清順ワールド。しかし、小気味よいカットの切り方や、フレームの美しさについつい見入ってしまう。出ている役者も超個性的で、妙に味がある不思議な味わいの作品。

 昨日の『巨人と玩具』とはうって変わって映画の流れは非常に緩やかな映画。しかし、部分部分を取ってみると、妙なスピード感がある。とくに、異常に短いカットのつなぎや、異常に速いズームアウトが目に付く。普通、人の顔の切り返しというのは会話のときに、それぞれのセリフをアップで撮るために使うのだけれど、この映画ではセリフがないのにやたらと切り返す場面がある。しかも、ワンカットは1秒にも満たない短さ。なんだかわけのわからないおかしさ。
 異常に速いズームアウトというのはかなり目に付くが、しかもそれが微妙にぶれる。これまた不思議な感じ。しかも、不気味な不思議さではなく、なんとなくおかしい不思議さ。全体としては非常にまじめに映画が作られているのだけれど、部分を見ると妙におかしい。わけがわからない。しょっぱなから出てくる人たちが誰なのかまったくわからないし、「病院」と言われているところはちっとも病院に見えないし、誰も人もいないし、しかも妙にきれいで作りたてのセットであることがばればれ(反小津)。
 何の事やらさっぱりわからん。何で品子は心中するのにたらいに乗ってんじゃ?とかね。「狂気」というてんで増村との共通項を見出しました(別に見出さなくてもいいんですが…)。あと共通するのは場面転換の早さかな。
 鈴木清順ってのは本当に不思議な監督だ。発想がとっぴなところがちょっとレオス・カラックスに似てるかも。などとこちらもわけのわからないことを考え始めてしまいました。

恐怖分子

Terrorizers
1989年,香港=台湾,109分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン、シァオ・イエ、チェン・クォフー
撮影:チャン・ツァン
音楽:ウォン・シャオリャン
出演:コラ・ミャオ、リー・リーチュン、チン・シーチェ、ワン・アン、リウ・ミン

 研究者の夫と小説家の妻の夫婦、妻の元恋人、ある事件に関わってしまう不良とその恋人、事件に関わる刑事、カメラマン。さまざまな人々の関係が交錯し、さまざまなことが変化してゆく。主人公といえる存在がいない複雑な物語構成から浮かび上がってくるものは何か?
 エドワード・ヤンはこの作品で台湾の現代監督の一人として名を馳せた。それほど「新しい」という印象はないが、ゆったりとした映像に漂う言いようのない緊迫感がすごい。

 全体としてみれば、決して斬新な作品とはいえない。一つ一つのカットは従来の映画作法を踏襲しているものが多い。細かいことだが、別途で胸までシーツをあげている女性とか、タバコを映すときにまず灰皿を映してそこにタバコがフレームインしてくるとか、「ありがち」な映像がたくさんある。
 だから、いくら見ても、この映画に興奮することはなかった。時折、セリフを削ってうまく映像に語らせているところがあったりして、関心はしたけれど、逆に登場人物が饒舌になりすぎて、映画的世界からさめてしまうこともあった。
 そんなこんなで、「はんはん、こんなものね」と思いながら見ていたのだけれど、最後の最後で感想はがらりと変わった。最後、研究者である夫(名前は忘れました)に物語りは収斂してゆき、小説と現実の境を見失っていくと、昇進がかなわなかったことで狂気に陥り、逆恨みをして次々と人を殺してゆく。「そうきたか、ほほう」と思っていたら、物語は一転。違う結末が待ち受ける。この終わり方は素晴らしかった。本当の結末だけよりも味わい深いし、殺しまくる結末で終わってしまったら、「何の映画?」って感じになってしまう。そこをすっとまとめてしまう。そこがなかなかうまかった。
 というわけなので、眠くっても、がんばって最後まで見てください。最後に置かれる重心は「バッファロー’66」なみです。

ロックド・アウト(21ジャンプ・ストリート)

21 Jump Street
1987~92年,アメリカ,92分
監督:ジョージ・モンテシ、ジェームズ・ホイットモア・Jr
脚本:グレン・モーガン、ジェームズ・ウォン、ジョナサン・レムキン
撮影:デヴィッド・ゲッツ
音楽:ピーター・バーンスタイン
出演:ジョニー・デップ、ホリー・ロビンソン、ピーター・デルイーズ、ダスティン・ヌエン、スティーヴン・ウィリアムズ、ブリジット・フォンダ、ブラッド・ピット

 おとり捜査に命をかける若き刑事たちを描いたTVシリーズ。ジョニー・デップをスターにした作品で、アメリカでは5年間続いた。「ロックド・アウト」というビデオには2話を収録。以前は「ハイスクール・コップ」というタイトルでビデオ発売されていた。現在、DVDで4タイトル出ている。(タイトルは「21ジャンプ・ストリート」)
 第1話はブリジット・フォンダがゲスト出演。路上生活する家出少年たちのリーダー格の少年の行方不明事件を追及する。ジョニー・デップはほとんど出てこない。
 第2話はブラッド・ピットがゲスト出演。連続空き巣事件の調査のため高校に潜入した刑事たちは生徒の自殺事件に遭遇する。「自殺」を巡ってさまざまな考え方が語られ、アクションとは離れたドラマになっている。 

 ジョニー・デップがスターになったということ以外さしたるトピックもないドラマ。おそらく各回違う監督で、ゲストを呼ぶというアメリカではオーソドックスなスタイルなのだろう。第1話は設定などがよくわからなかいまま見たものの、話立てがなかなか面白かったが、第2話はかなりきつい。ブラッド・ピットの熱狂的なファンなら話のために見てもいいかもと言うくらい。
 しかし、個人的にはアメリカのこういったテレビシリーズは大好きなので、テレビで放送されたら見てしまうかも。(苦笑)

地下の民

La Nacion Clandestina
1989年,ボリビア,125分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス
撮影:セサル・ペレス
音楽:セフヒオ・プルデンシオ
出演:レナルド・ユフラ、オルランド・ウアンカ、ボリビアの人々

 村を出て街で暮らしていた先住民のセバスチャンは生まれ故郷に戻ることを決意した。理由あって数年前に村を追放された彼は少年時代に見た「死の踊り」を踊って罪滅ぼしをしようと街の仮面職人に、踊りの神の仮面を注文する。
 彼が仮面を背負って村へと向かう道中、彼は自分の反省のさまざまな場面に遭遇する。現在と過去が入り組み、セバスチャンのアイデンティティの危機を描く。果たして彼は先住民としのアイデンティティ再生することができるのだろうか?
 これまでの作品と比べて作風が様変わりし、純粋に映画としてみても素晴らしい作品になっている。ほとんどが1シーン1カットで撮られた物語世界は圧倒的な力を持っている。

 ボリビアならびにペルーの先住民たちを出演者として革命映画を撮ってきたウカマウのこの作品は1960年代初頭から彼らが行ってきた活動の延長にあるのは間違いない。しかしこの映画から彼らの映画のスタイルは大きく変わった。『第一の敵』のような直接的な教育映画ではなく、先住民もまた複雑な問題を抱えた人間であるということにスポットを当て始めた。
 街で働くセバスチャンは子供の頃に村を出て、街の人々のメンタリティを体得してしまった。そこから彼の悲劇が始まり、彼は決して村に戻ることのできない人間となってしまう。
 しかしそこで主張されるのは、「街」というものへの批判だけではなく、街へ出ざるを得ない先住民たちの複雑な状況である。途中で出てくる鉱山労働者との協力といったことからもわかるように、先住民は農村にのみ存在する人間ではなくなっているのだ。そのような状況を無視して農村の先住民たちを教化することだけに力を入れてはいられないということだろう。
 それでもしかし、西洋人に対する批判は痛烈だ。自らを「アンデス人」と語るサンヒネス監督は西洋人の脆弱さを容赦なく暴く。この映画のな化でもっとも象徴的なのは過激派の白人の青年。セバスチャンにポンチョを売ってくれと話すこの青年は西洋人の無知と脆弱さ(特にアンデスという土地での脆弱さ)を象徴している。これはウカマウたちが自己への反省も込めて盛り込んだ人物像だろう。ウカマウたちもまた西洋人でしかなかったということは「コンドルの血」の撮影にまつわるトラブルを自己反省的に映画化した「鳥の歌」によく描かれている。
 この映画の話に戻ると、純粋に映画としてみれば最大の特徴といえる1シーン1カット、これは監督の話によれば「わかりやすく」するためだという。それは一つは出演している先住民たちにとってわかりやすいということを意味し、もう一つには技巧によって複雑になってしまった西欧(アメリカ合衆国とヨーロッパ)の映画と対比しての「わかりやすさ」であるだろう。
 とはいうものの、サウンドの次のシーンへのオーバーラップなどヨーロッパ的な(ゴダール的な?)映画技術の影響も見られることは確かだ。果たして彼らはこれからどのような方向へ進んでいくのか? 彼らなりのオリジナリティをどのように出してゆくのか? そのような楽しみな疑問が次々と沸いてくるウカマウにとっての転換点となる映画だろう。

Kelid
1987年,イラン,76分
監督:エブヒム・フルゼシュ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:モハマド・アラドポシュ
出演:マハナズ・アンサリアン、ファテメ・アサール、アミール・モハマッド・プールハッサン

 ある朝、お母さんはまだ小さいアミール・モハメドと赤ん坊を置いて買い物へ。アミール・モハメドは鳥に水をあげようとするが、水道の栓が固くてひねれない。どうしていいかわからないアミール・モハメドに次々と難題がのしかかる。いったいお母さんはいつになったら帰ってくるの!?
 キアロスタミが脚本した作品らしく、素朴な少年の姿をひたすらとらえる。アミール・モハメドのひたむきな姿は見ていて楽しいが、さすがに物語が単調すぎたか。イラン映画らしいイラン映画であることは確か。
 イラン版「ロッタちゃん」というところ?

 なにかこう、どこかで展開があるのかと思いきや、結局最後まで、淡々と、単調に、ただひたすらアミールの姿を追いつづける。そこには省略もなく、本当に時間の流れどおりに忠実に追いつづける。近所のおばさんや、おばあさんが出てきて、その時には、アミールから視線が離れるのだけれど、結局また戻ってきて、ひたすらアミールの視線。
 なんだかこう、途中まではいいのだけれど、ここまでひたむきにやられてしまうと、すさんだ心の大人にはついて行けない、温かく見守ってもいられない、そんな気がしてきてしまう。もうちょっと展開があってもよかったかな、と思ってしまう。ちょっと、すっきりしない感じです。

右側に気をつけろ

Soigne ta Droite
1987年,フランス,81分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
音楽:リタ・ミツコ
出演:ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・ペリエ、ジャック・ヴィルレ、ジェーン・バーキン

 殿下と呼ばれる映画監督と白痴の男、スタジオでレコーディングをするミュージシャンこの3つの物語が、断片として描かれて行く、非常に詩的な映画。
 ジャン=リュック・ゴダールその人が演じる「殿下」はフィルムの缶を持って「地上にひとつの場を」求めて歩き回る。
 といってみたものの、この映画にストーリーは不必要だ。挿入される空のカットや、自然や人を眺め、それを味わうことがこの映画を見るときに必要なことのすべてだ。おそらくドストエフスキーの「白痴」をモチーフにしたと考えられるこの作品は世界(地上)の無垢な美しさを求める物語なのだろう。

 理解しようとすると、かなり難しい。しかし、理解することを止めればそれなりに味わうことはできる。映画のはじめから「白痴」という言葉が表れ、ゴダール演じる男が「伯爵」と呼ばれるところから、ドストエフスキーの「白痴」がイメージされるが、さらにそのゴダール演じる伯爵は常に「白痴」を読んでいる。したがって、映画を見る側としては、この伯爵を「白痴」の主人公であるムイシュキン伯爵(公爵だったけ?)と重ね合わせてみることになる(少なくとも私は)。
 しかし、そうするともうひとりの白痴らしい男との関連性が見えなくなってくるし、レコーディングをしているしている二人との関係性もわからない。
 私の力及ばずというところでしょうか?
 そこで、理解することをあきらめただただ眺めていれば、その音(必ずしも音楽とは限らず数限りないノイズも含む)と画のコンポジションはまさにゴダールの世界で、あるいはこれこそがゴダールの世界なのだと感じられはするけれど、それは、抽象絵画を見るように曖昧な感情しか呼び覚まさない。なんとなくすごいし、なんとなく見入ってしまうんだけれど、それがいったい何なのかわからない世界、この映画にあったのはそんな世界。