カルメンという名の女

Prenom Carmen
1983年,フランス=スイス,85分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:プロスペル・メリメ
脚本:アンヌ=マリー・ミエヴィル
撮影:ラウール・クタール
出演:マルーシュカ・デートメルス、ジャック・ボナフェ、ミリアム・ルーセル、クリストフ・オーデン、ジャン=リュック・ゴダール

 ビゼーの歌劇『カルメン』をゴダール流に映像化したものらしい。
 最初の2つのシーンは、精神病院と室内楽の練習風景。精神病院にはゴダールがいて、室内楽の練習風景でははっとするほど美しい少女がヴィオラを弾いている。最初この2つの場面がほぼ交互に展開されて行くが、精神病院にはゴダールの姪カルメンが訪ねて来て、ゴダールの別荘を使わせてくれと頼む。室内楽の練習は終わり、少女(クレール)は兄と思いを寄せているらしい兄の友人(ジョー)と車に乗る。カルメンは仲間と銀行強盗をする。そこには警官のジョーが居合わせる。
 ストーリーがどうこうより、その映像と音とで見せる作品。全編ゆったりとしたペースで進み、後には美しさのみが残る。

 これを「難解」といってしまってはいけない。これは至極単純な映画だ。理解することは難しいけれど、理解しようとしてはいけない。説明を求めてはいけない。「いずれ説明してあげるわ」とカルメンは繰り返す。しかし、決してその説明がされることはない。ゴダールも我々に何も説明しようとしない。登場人物たちの考えていることも、行動の理由も、それぞれの場面が意味していることも。ただひたすら美しいものが並べられたフィルム。すべてが作りものじみていて、しかしすべてが美しい。あまりにすべてが美しいので、我々は逆にその単調さに弛緩してしまう。眠りにも似た心地よさに。美しいクレールの顔、美しい波打ち際、美しいランプシェード、美しい空。しかし、時折、その単調な美しさを凌ぐはっとする瞬間がある。月明かりに照らされたカルメンの横顔、モップで拭われる床の血。
 ただ一人現実的な時に囚われているジョーのように考えることはあきらめて、我々は美しさの奔流に身を任せればいい。逆行で影になった男女のシルエットの美しさに、浴室のタイルに押し付けられるカルメンの裸体の美しさに、カフェの鏡に映ったゴダールに付き添う女性の佇まいの美しさに、見とれていればいい。

行商人

Peddler
1987年,イラン,95分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:ホマユン・バイヴァール、メヘルダッド・ファミヒ、アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ゾーレ・スルマディ、エスマイル・ソルタニアン、モルテザ・ザラビ、マハムード・バシリ、ベヘザード・ベヘザードブール

 マフマルバフが強烈な映像で貧困層の人々を描いた3話オムニバス。
 第1話は「幸せな子供」。4人の障害児を抱え、スラム街の廃バスで暮らす貧乏な夫婦が、今度生まれる子供は幸せにしようと、子供を自分たちでは育てずに、誰かに育ててもらおうと奮闘する物語。
 第2話は「老婆の誕生」。年老いた車椅子生活の母と暮らす一人の青年。少し頭の弱い彼は日々懸命に母親の世話を焼いていたが…
 第3話は「行商人」。市場で服を売っていた行商人が突然ギャングに連れて行かれる。それは顔見知りのギャングで、彼にはなにか後ろめたいことがあるらしい。彼はギャングに連れていかれる途中、逃げる方法を考えるが…
 いきなり、氷付けになっているような赤ん坊の映像ではじまるショッキングな作品は、貧困と恐怖で織り上げられた絶妙のオムニバス。果たして万人に受けるのかどうかは別にして、一見の価値はある快作(怪作)。

 とりあえず、各作品の印象に残ったところを羅列しましょう。
第1話:社会批判ともとれるテーマ。父親の鼻にかかった「ハーニエ」。
第2話:主人公が揺り椅子に寝ているショットから部屋をぐるりと回ると朝になっ  ているシーン。割れたガラスをくっつけた鏡。さまざまな映像的工夫。
第3話:羊をさばくシーンは圧巻。3本の中ではいちばん明快。
 と、いうことですが、とにかく、この映画は恐怖と狂気を縦糸と横糸にして織り込んだ織物(ギャベ)のような映画。何だかわからないけど、心臓の鼓動が早まり、ドキドキしてしまう。恐怖映画ではないんだけれど、じわじわと恐怖が内部から涌き出てくるような感覚。
 マフマルバフはイランの中ではかなり社会派の監督として位置付けられ、この映画も、貧困層を扱っているということで社会批判的なメッセージを込めたものとして受け取られるだろう。もちろんそのようなメッセージも込められているのだろうけれど、とにかく映画として素晴らしい。
 とにかくさまざまなアイデアが素晴らしい。アイデアでいえば特に2話目。まず、様々なものを操るひも。死んだように見える母親(時折口をもごもごと動かすことでかろうじて生きているのが確認できる、そのかろうじさが素晴らしい)。割れた鏡をジグソーパズルのようにはめて行くところ、そしてその鏡で見る顔。部屋にかけられた絵(あの絵はかなりいいと思うんだけど、いったい誰が書いたんだろう?)。
 あまり無条件に誉めすぎなので、少々難をいえば、3話目がちょっと弱かった。話としても普通だし、想像を映像化して、どれが現実なのかわからなくするという発想も決して独特とはいえない。3話目でよかったのは、阿片窟のような地下のギャングのたまり場。あんな雰囲気で全編が統一されていれば、かなり不思議でいいものになったかもしれない。しかし、羊をさばくところは本当にすごかった。あれは絶対に本物。喉から空気が漏れる音までがリアル。あー、こわ。

サイクリスト

The Cyclist 
1989年,イラン,83分
監督:モフセン・マフマルバフ
原作:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:モハラム・ゼイナルザデ、エスマイル・ソルタニアン、マフシード・マフシャールザデ、サミラ・マフマルバフ、フィルズ・キャニ

 妻が重い病気にかかり、高額の入院費を工面しなくてはならなくなったナシムは、元アフガンの元自転車チャンピオンで、イランにやってきたばかりで仕事もない。何とか見つけた井戸掘りの仕事も入院費の足しにはならない。そんな時、友人が世話になっている興行師から、1週間自転車に乗りつづけるという賭けの対象にならないかと持ちかけられる。愛する妻のためひたすら狭い広場を自転車でくるくる回るナシム。果たして彼は自転車に乗りつづけることができるのか?
 イランでは全国民が見たと言われる、モフセン・マフバルバフ監督の幻の名作。ファンタジックともシュールとも言える独特の味わいがほかのイラン映画とは一線を画する。広角レンズを多用した映像もアバンギャルドで、まったく古さは感じさせない。
 「りんご」を監督した娘のサミラも子役で出演。

 「果たしてこの映画は面白かったのか?」という疑問。「でも、もう1回見たい」くらいの感動。いや、感動といってもそれはいわゆる感動ではなく、こんな映画が存在していたのかという感動。あるいはこんな映画が存在していいのかという感動。
 なにが幻想でなにが現実なのか?と言ってしまうと非常に陳腐になってしまうが、ひたすら自転車に乗るというちょっと考えるとおかしいはずの行為がいつしか英雄的な行為へとすりかわって行く過程、周囲の人々は彼の行為になぜか心を動かされ、彼の姿に感動するのだけれど、自転車に乗っているナシム自身はまったく別の衝動に動かされているかのように自転車をこぎつづける。
 1回ずるをしたからってそれがどうした。妨害する人々と応援する人々がいて、そこに多額のお金が動いているからって、それがどうした。そんなこととはまったく無関係にナシムはこぎつづけるんだ。もう、息子も妻さえも、どうでも良くなっているかもしれない。
 もしかしたら、ここでこぐのを止めてしまったら世界そのものが崩壊してしまうのではないかというような恐怖感にさいなまれながら彼は自転車をこいでいるのかもしれない。
 しかし、しかし、映画自体は彼のそんな心を映し出すわけではない。映画は彼の周囲を執拗に映しつづける。興行師やジプシーの女や、なんか、領事や大使やいろいろな大変な人が出てきて、ドタバタと繰り広げる。
 しかし、しかし、しかし、私が心打たれたのは、ナシムと息子がいっしょに自転車に乗っている場面。自転車側に固定されたカメラは二人の顔をアップで捉え、周りを取り囲んでいるはずの観衆は抽象的な色の集合でしかなくなってしまう。ただ左から右へと移動する抽象的なピントの合っていない図形。その場面は感動的だ。
 でも、いったい何に感動したんだろう? 何が面白かったんだろう? 本当に不思議な映画だ。エンドロール(ペルシャ語だからまったく文様にしか見えない)の背景になったナシム(と自転車)をローアングルから撮ったスチルもなんとなく心に残った。

ヘカテ

Hecate 
1982年,スイス=フランス,108分
監督:ダニエル・シュミット
原作:ポール・モーラン
脚本:パスカル・ジャルダン、ダニエル・シュミット
撮影:レナード・ベルタ
音楽:カルロス・ダレッシオ
出演:ベルナール・ジロドー、ローレン・ハットン、ジャン・ブイーズ、ジャン=ピエール・カルフォン

 北アフリカに赴任したフランスの外交官ロシュールはパーティーでであったアメリカ女性クロチルダと恋に落ちる。純粋な恋愛映画として始まるこの映画、しかしクロチルダの謎めいた行動がロシュールを混乱させ、徐々にサスペンスの要素が強まって行く。
 徐々に緊迫感を増す展開もおもしろいが、この作品で最も素晴らしいのはその構図。フレームによって切り取られた一瞬一瞬が一葉の絵画のように美しい構図を構成する。微妙な色合い、光の加減、フォーカスを長くして作り出す不思議な構図などなど。その美しいという言葉では言い表せない映像を見ているだけでも飽きることはない。

 そう、構図が美しい。無理に一言で表現してしまえばそういうことなのだが、決してそれだけでこの映画の映像のすばらしさが表現できるわけではない。重要なのは、その一瞬の構図が美しいことではなく、その変化する構図が緊張感を保ちながら美しくありつづけることだ。
 たとえば、山の上から、ロシュールと上司の外交官が下を見下ろしている場面。カメラは彼等二人の背中を映しながら右から左へゆっくりとパンして行く。その時、正面にひとつの山並みが見えるのだが、その山が正面にやってきたときの構図にはっと心を打たれる。もちろんその時、遠くにあるはずの山と近くにいるはずの二人とに同時にピントがあっていることも大事な要素だ。そこでは映画における遠近法が無視され、山と人は同じ大きさのものに見える。
 あるいは、階段にロシュールとクロチルダがうずくまっているシーン。最初、赤と緑の微妙な色合いで、左上へと昇って行く階段と、右上に青い窓が映される。その構図だけでもちろん驚くほど美しいのだが、まず、右上の窓のところロシュールが動く。そこで観衆は(少なくとも私は)そこに人間がいることに気づく。そしてさらに、階段のところにはクロチルダがいることに気づく。二人はのそのそと動き、構図を変化させるのだけれど、果たして構図は美しいままだ。
 もうひとつ、面白いのは、30年代くらいのハリウッドの模倣。私が気づいたのは、ある場面で二人がキスする時、直接映すのではなく、影を映す。これはいわゆるクラッシックなハリウッド映画を見ているとたびたび用いられる手法だ。他にも、あっと思ったシーンが二つほどあったけれど、ちょっと思い出せません。おそらくシュミットは黄金期のハリウッド映画にかなりの愛着を持った監督なのだろう。
 非常に、玄人受けする映画だと思いました。

パッション

Passion 
1982年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:イザベル・ユペール、ハンナ・シグラ、イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ドミニク・ブラン、ミリアム・ルーセル

 最初のカットは、空を横切る飛行機(雲)。そこから、切れ切れの断片が次々とつなげられる。それぞれの意味するところは説明されることなく、それぞれのカット(映像)の切れ目とセリフ(音)の切れ目も一致しない。ひとつのモチーフは工場で働くどもりの少女、もうひとつのモチーフは生身の人間で構成される絵画(おそらくレンブラント)の撮影風景。いきなり見るものを圧倒し、混乱させる作りで始まるこの映画、徐々に物語らしきものがたち現れてくる。
 ゴダールらしい実験性と工夫に溢れた作品。物語らしきものがあるようでないようなのだけれど、常に緊迫感が漂い、見るものを厭きさせない。
 いわゆる普通の映画に馴らされてしまっていると、かなり面食らうに違いない映画だが、この世界になじんでいけば、最後には終わってしまうのを惜しむ気持ちが沸いてくるに違いない。

 この映画に溢れているのは、「音」と「光」。「音」はその過剰さによって、「光」はその不在によって存在を主張する。我々はまず遠くを飛ぶ飛行機のノイズに耳を澄ませ、主人公である少女の吃音に耳を尖らせ、彼女の吹くハーモニカに違和感を覚え、突然けたたましくなるクラクションに驚かされる。
 主人公であるジョルジは光の不在に頭を悩ませ、我々は多用される逆行の画面にいらだつ。美しいはずの音楽は中途で寸断され、聞きたい言葉はの登場人物たちの心の中のモノローグによってかき消される。
 この世の中は、過剰なノイズによって肝心の音は聞こえず、光が存在しなくなってしまったために物が見えなくなってしまっている。劇中で作られている『パッション』という映画が完成しないのは、光が見つからないからではなく、光が存在しないからなのだ。
 ゴダールのすごいところは我々をいらだたせることによって、自分の側にひき込んでしまうこと。我々の欠落した部分につけ込んで我々に期待を抱かされること。しかしその期待がかなうことはなく、我々は痛みを抱えて映画館を後にする(またはビデオデッキのイジェクトボタンを押す)。そして、ためらいながらも違うゴダールに期待をしてしまう。
 なぜそうなのかを分析することは難しい。我々はただ驚くだけ。ゴダールの映画はなぜショッキングなのか? ゴダールの映画に登場する女性たちはどうしてあんなに美しいのか?
 やはりゴダールは天才なのか?

グット・モーニング・ベトナム

Good Morning, Vietnam
1987年,アメリカ,120分
監督:バリー・レヴィンソン
脚本:ミッチ・マコーウィッツ
撮影:ピーター・ソーヴァ
音楽:アレックス・ノース
出演:ロビン・ウィリアムズ、フォレスト・ウィテカー、チンタラー・スカパット、ブルーノ・カービイ

 ベトナム、米軍放送の人気DJエイドリアン・クロナウアーから見たベトナム戦争を描いた社会派コメディ。スタンダップ・コメディアン、ロビン・ウィリアムズの本領発揮、喋って喋って喋りまくるマシンガン・トークが面白い。
 しかし、やはりベトナム戦争もの、決して明るいだけでは終わらない、DJではあっても彼も兵士、戦争を避けて通ることはできない。『プラトーン』『ハンバーガー・ヒル』といった「まっとう」なベトナム映画と見比べてみると面白いかもしれません。
 準主役、クロナウアーの相棒ガーリック役のフォレスト・ウィテカーもいい味出してます。 

 久しぶりに、何回目かにこの映画を見て、「この映画が私にとってのロビン・ウィリアムスの原点だ」と気づいた。ロビン・ウィリアムスのほかの映画を見るときにも、いつもこの映画の残像が目の前のスクリーンに投射されていたのだと。簡単に言えば、ロビン・ウィリアムスらしさが凝縮された映画。表情や、動きや。映画全体を包み込む雰囲気とか、これがロビン・ウィリアムス「の」映画。確かに、フォレスト・ウィテカーなしでは成立しないんだけれど、どう見ても、ロビン・ウィリアムスの映画。
 この映画の中でもっともそれが出ているのは、前線に向かう兵士たちのトラックが立ち往生しているところで、ガーリックに促されて、クロナウアーがトークをする場面。話している場面から兵士たちが去っていく場面までのロビン・ウィリアムスの表情を見ているだけで、映画が成り立ってしまう。もちろん、兵士が去っていくところでの、2つの固定アングルの切り返しという映像技術も重要なのだろうけれど、見る側の印象に残るのは、トラックの荷台の格子越しに見えるロビン・ウィリアムスの表情だ。 

0086笑いの番号

The Nude Bomb
1980年,アメリカ,94分
監督:クライヴ・ドナー
原作:メル・ブルックス、バック・ヘンリー
脚本:アーニ・サルタン
撮影:ハリー・L・ウルフ
音楽:ラロ・シフリン
出演:ドン・アダムス、シルヴィア・クリステル、ヴィットリオ・ガスマン、ロンダ・フレミング、パメラ・ヘンズリー

 あるテロリストが新型の爆弾を開発。それは人体には傷をつけず、衣服だけを破壊するというものだった。そのような地球の危機(?)に引退したはずの諜報部員(86号)マクスウェル・スマートが呼び戻された。
 スパイもの(スパイ大作戦+007という感じ)をパロったドタバタコメディ。バカバカしいので、真面目な人は見てはいけない。B級コメディの中では名作のひとつと言える。 

 なんてことはないのだけれど、笑えるところはなかなかある。しかもまったくバカバカしい。結末もわかりきっているし、見終わったら「あー、時間を無駄にした」と思うのも目に見えているのに、ついつい最後まで見てしまう。やはり細かい逆の数々が目を話させない秘訣。この映画の中で好きなのは13号。
 しかし、批評もしにくいです。何も書くことがないのでね。何も考えずに席に座って(映画館だったら)、ただただ笑って、映画館をでたらすっきり忘れる。これが正しいB級コメディの見方でしょう。どんな映画かなんてことはどうでもいい。問題はどれだけ笑えるかってことだけ。これなら多分、10~20回くらい笑えるかな。そんなもの。
 「それ行けスマート/世界一の無責任スパイ」(アメリカテレビ放映、ビデオ廃盤)という続編もある。 

東京画

Tokyo-ga
1985年,西ドイツ=アメリカ,93分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:エド・ラッハマン
音楽:ローリー・ベッチガンド、ミーシュ・マルセー、チコ・ロイ・オルテガ
出演:笠智衆、厚田雄春、ヴェルナー・ヘルツォーク

 小津安二郎ファンであるヴィム・ヴェンダースが小津へのオマージュとして作った作品。笠智衆や小津作品の撮影監督である厚田雄春を訪ねながら東京を旅する、ヴェンダースの旅日記風ドキュメンタリー。
 小津の「東京物語」のなかの30年代の東京と、現在(80年代)の東京を対照させて描く。パチンコ屋や夜の新宿など私たちには馴染み深い風景がでてくる。素晴らしいのはヴェンダースのモノローグ。この映画、実は東京を背景画にしたヴェンダースの独り言かもしれない。 

 現代の東京と小津の東京を比べて、「失われたもの」を嘆くのを見ると我々は「またか」と思う。ノスタルジーあるいはオリエンタリズム。文化的なコロニアリズムを発揮した西洋人たちが、自らが破壊した文化の喪失を嘆くノスタルジーあるいはオリエンタリズム。ヴェンダースでもそのような視点から逃れられないのか!と憤りを感じる。
 しかし、ヴェンダースはそのようなことは忘れて(自己批判的に排除したわけではない)、もっと自分のみにひきつけて「東京」を語ってゆく。二人の日本人へのインタビュー、モノローグ。ヴェンダースのモノローグは文学的で面白い。完全にブラックアウトの画面でモノローグというところもあった。字幕で見ると、それほどショッキングではないけれど、まったくの黒い画面で言葉だけ流れるというのはかなりショッキングであるはずだ。このたびはヴェンダースの自身と映画を見つめなおすたびだったのだろう。ヴェンダースがもっとも映画的と評する小津の手法に習いながら、映画的ではないドキュメンタリーを撮る。それが面白くなってしまうのだから、さすがはヴェンダース。 

パリ、テキサス

Paris, Texas 
1984年,西ドイツ=フランス,146分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:サム・シェパード、L・M・キット・カーソン
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ライ・クーダー
出演:ハリー・ディーン・スタントン、ナスターシャ・キンスキー、ハンター・カーソン、ディーン・ストックウェル、オーロール・クレマン

 テキサス、砂漠をさまよう男がバーで倒れ、病院に担ぎ込まれる。しかし、男は黙ったまま。男の持っていた名刺からわかったロサンゼルスに住む弟が駆けつける。弟のウォルトは4年間音信不通だった兄トラヴィスをとりあえずロサンゼルスへと連れて行くのだが…
 ロビー・ミューラーの映像は相変わらず研ぎ澄まされており、プロットの作り方も申し分ない。2時間半という長さもまったく苦にならない。ライ・クーダーの音楽が加わることで、画像からなんともいえない哀愁が漂う。
 映画史上最高のロード・ムーヴィーと私は呼びたい。何度見ても飽きません。

 この映画はヴェンダースの積み上げてきた美しい映像世界に、いい脚本が乗っかって成立した。サム・シェパードといえば、「赤ちゃんはトップレディがお好き」とか「マグノリアの花たち」とか、最近では「ヒマラヤ杉に降る雪」などで知られる脚本家。彼にシナリオによって、今まで単調すぎるきらいがあったヴェンダース作品にかなりのアクセントが加わったと言えるだろう。個人的にはヴェンダースの淡々とした作風は好きだが、この作品に限って言えば、シナリオと映像は非常に幸せな出会いをしたといえるだろう。
 映像のほうに話を移すと、ロビー・ミューラーの映像は特に色彩感覚において秀逸なものがある。ローアングルで車の中から見える青空とか、そう、この作品では「空」が非常に美しかった。青空、夕焼け、くもり空、重い雲と明るい空とが微妙に混ざり合った空などなど。あとは、やはりロードムーヴィーだけあって、車の映し方。いちばん面白かったのはトラヴィスとハンターがジェーンの車を追って駐車場に入る場面、赤いジェーンの車が入るときにはかなり近くからローアングルで撮り、車はドアの部分しか写らないまま画面の左へと切れてゆく。それからトラヴィスたちの車が来る間に、カメラはゆっくりと移動して今度は上から映す。彼らの車は画面の左下のほうへと切れてゆく。言葉で説明してしまうとなんということはないのだけれど、そのカメラの微妙な動きがなんともいいんですよ。
 誉めてばかりですが、たまにはこういうのもいいでしょう。 

 今回見ていて気づいたのは、ヴェンダースの仕事の丁寧さ。さすがに小津好きというだけあって、映像の作りこみようはすごい。まず気づいたのは、冒頭、テキサスのスタンドで、卒倒したトラヴィスが、次のシーンでは病院のベットに寝かせれている場面、トラヴィスの額にしっかり瘤が!すごいぞヴェンダース。こだわってるぞヴェンダース。他に気になったのは音のタイミング、電車が来るタイミング、汽笛のなるタイミング、飛行機の爆音の聞こえるタイミング、撮る側にはどうすることも出来ないはずの音が見事なタイミングではいる。これはヴェンダースの根気なのだろうか?
 今回映像的に気に入ったのは、モーテルから逃げ出したトラヴィスが砂漠を歩いて、道路を渡り、フレームから出たタイミングでウォルトの車が画面の端に入ってくる来るところ。今回はかなり「タイミング」に気を撮られたらしい。しかし、この場面のフレーミングは見事な美しさだと思います。

路(みち)

Yol 
1982年,トルコ=スイス,115分
監督:ユルマズ・ギュネイ
演出:シェリフ・ギョレン
脚本:ユルマズ・ギュネイ
撮影:エルドーアン・エンギン
音楽:セバスチャン・アルゴンケンダイ
出演:タルク・アカン、シェリフ・セゼル、ハリル・エルギュン

 トルコのイムラル島にある刑務所から、ようやく仮出所することができた男たちが家族のいる故郷へと向かう。しかし彼らを待っていたのは必ずしも幸せな家族との再会ではなかった。
 当時トルコは軍政下、いたるところで戒厳令が引かれ、クルド地方ではゲリラの鎮圧が頻繁に行われていた。そのような社会状況の中で生きる人々の苦悩。
 監督のユルマズ・ギュネイは当時刑務所に入っていたため、シェリフ・ギョレンが現場の演出を受け持った。軍政に対する批判的なまなざしと、故郷の自然に対する憧憬。クルド地方の草原、山岳地方の雪山など変化に富んだトルコの自然風景の美しさに満ちた作品。 

 トルコがこんなに気候の変化に富んだ国だとは知らなかった。初夏のような草原、砂漠のような砂地、完全に雪で閉ざされた山岳地。これらの風景の対比が非常に美しい。特に、クルド地方の緑の草原と青い空、茶色い土の家の対比はえもいわれぬ美しさだ。特に、ラストシーン、家のうえに女性が一人たたずんでいるシーンは強烈に印象に残った。
 トルコが抱える社会的な背景は良くわからないが、この社会の不寛容さは悲劇的だ。非道徳的な行動には死をもって報いるという発想。うーん、なんとも。しかし、これを後進的だとか、前近代的だといって片付けてしまってはいけない。むしろそれをトルコというアラブとヨーロッパが衝突する場からのまなざしとして受け止めることによって、様々な問題が浮かび上がってきそうだ。