洗濯機は俺にまかせろ

1999年,日本,102分
監督:篠原哲雄
原作:松崎和雄
脚本:松岡周作
撮影:上野彰吾
音楽:村山達哉 
出演:筒井道隆、富田靖子、小林薫、百瀬綾乃、菅井きん

 「月とキャベツ」の篠原哲雄監督が、筒井道隆と富田靖子のコンビであいまいな恋愛関係を描いた佳作。中古家電屋に勤めるキザキの店に、雨の日、社長の娘節子突然やってくる。そこから微妙な関係が生まれてくるわけだが……
 ストーリーを言ってしまえば、2・3行で説明できてしまうような恋愛物語なのだけど、それを描く描き方がこの映画の素晴らしいところ。所々に散りばめられた、クスリと笑ってしまう笑いのエッセンスや、なんとなくほのぼのとしてしまう時の流れ方がなんとも幸せな気分に浸らせてくれる。

 この映画の何がいいのかといわれると難しい。一番近いのは「雰囲気」という言葉、別段笑えるわけでもなく、感動するわけでもないけれど、最初のキザキが洗濯機を懸命に押さえ込もうとするシーンからすうっと映画に入り込めて、最後までほおっと映画を見つづけることができる。
 何がそうさせるのか、第一に映像の自然さ、役者の縁起の自然さ。まるで篠原ワールドに最初から住んでいた住人のような役者たちはまったく違和感がない。むしろ、彼らの心理がわかってしまうくらい近しい存在のように感じられる。それから画面の広さ。焦点となっている役者や物を大写しにせずに、画面の中にそっと入れ込むやり方が見ている側に入り込む余地を与えている。そのような映画のなかの「余裕」がこの映画の素晴らしいところだろう。
 ただひとつ難点といえるのは、ストーリーであろう。話の展開が偶然性に頼りすぎているような観がある。セツコがオオガミとキスしているところにキザキが出会ってしまったり、オオガミがやくざと思われる借金取りに詰め寄られているところにセツコが通りかかったり、デートの約束をしていて結局会えなかった日、キザキがセツコを見つけたり。ある程度の偶然はドラマチックな展開には必要だろうけれど、ここまで執拗に偶然が重なると、全体の展開のリアリティーがそがれてしまうのではないかと感じた。

HANA-BI

1997年,日本,103分
監督:北野武
脚本:北野武
撮影:山本英夫
音楽:久石譲
出演:ビートたけし、岸本加世子、大杉漣、寺島進、薬師寺保栄、松田井子

 ビートたけし演じる西刑事と、病気の妻(岸本加世子)、怪我をしてしまった同僚の堀部刑事(大杉漣)の間に繰り広げられる人間ドラマ。映画に繰り返し挿入される様々な絵も、たけしの作品らしい。
 北野作品の魅力は「色」と「間」だと思う。海の「色」、空の「色」、セリフのない「間」、セリフなしで演技をする役者たちはすばらしい。この映画は「あの夏、いちばん静かな海」のやさしさと、「その男、凶暴につき」の激しさが同居するような作品。それだけに映画としてのまとまりを持つことは難しかったのかもしれない。しかし、北野ワールドが人をひきつけてしまうことは疑いようがない。

 相変わらず、北野たけしの「色」と「間」の扱い方は素晴らしい。しかし、映画のなかでくり返しくり返し挿入される絵には少し食傷してしまった。絵が重要なことはわかるし、その正しい意図を反映させるために自分で描いた絵を入れるということも理解できるが、その絵は十分に物語を語りきれていないと思う。 それ以外の要素ではやはり北野ワールドといえる安心感があった。寺島進の演技もすばらしいし、岸本加世子も素晴らしい。無言で演技ができる役者は素晴らしい。 個人的には、車をパトカーに偽装する場面が気に入った。緻密な計算から生まれるあいまいな笑いと、驚き。満足げにはにかみ笑いを浮かべる西刑事を見ながら、「この場面だけでこの映画は価値がある」と思った。

インサイダー

The Insider 
1999年,アメリカ,158分
監督:マイケル・マン
脚本:マイケル・マン、エリック・ロス
撮影:ダンテ・スピノッティ
音楽:ピーター・バーク、リサ・ジェラード
出演:アル・パチーノ、ラッセル・クロウ、クリストファー・プラマー、ダイアン・ヴェノーラ、フィリップ・ベイカー・ホール

 巨大タバコ産業の誤謬を暴こうとするテレビマンのバーグマン(アル・パチーノ)とその内部告発者として白羽の矢を立てられたワイガンド(ラッセル・クロウ)の苦悩を描いた物語。実際にあった事件を映画化し、すべての人物が実名で描かれている。
 派手にストーリーが転がっていくわけでも、銃撃戦やカーチェイスがあるわけでもないけれど、引き込まれる物語。重たく、説得力のある展開。そのような展開のなか、視覚と聴覚を目いっぱい揺さぶってくる。カメラワークはもちろんのこと、音楽だけにとどまらないさまざまな「音」が映画の臨場感を高め、観客の精神を緊張させ、物語へと引き込んでいく。
 そして、クローズアップで映し出されたラッセル・クロウの、アル・パチーノの、クリストファー・プラマーの、「顔」が、その表情が、言葉以上の言葉を語っている。アカデミー賞は取れなかったものの、20キロ以上も太り、髪を薄くし、白髪に染めたラッセル・クロウの演技は鬼気迫る迫力があり、まさに「アカデミー級」の演技。

 ラッセル・クロウの縁起の見事さに尽きるこの映画だが、なかでも、妻子も家を出て、バーグマンにも裏切られたと考えてこもっていたホテルの一室で、ホテルの壁に幻燈のように歪んだ風景が浮かびつづける場面での、超アップでの縁起は絶品だった。大きなスクリーンいっぱいに、額から口までがいっぱいに映り、顔の筋肉がヒクヒクと動く姿が見える。目も血走り(どうやってやるのだろう?)、唇は乾き、見ている側にまで緊張感がうつってしまうような演技。まさに絶品。
 他にこの映画で特筆すべきなのは、音の使い方だろう。たくさんのパトカーに護衛されて裁判所に向かうワイガンドが車に乗ってから、次の丘の上にその一行が見えてくるシーンまでの間の一瞬の無音の時間。そのシーンをはじめ、観客の緊張感を高めるような音の演出が随所に見られて、映画としての完成度を高めていたように思う。
 これは余談だが、この映画では誰一人タバコを吸う人が出てこなかった。当然といえば当然かもしれないが、なかなか凝ったことをするという感じ。ちなみに、ラストシーンで、アル・パチーノがドアを出て、コートの襟を立て、おもむろにタバコ(できればクール)を取り出して、ぱっと火をつけるところ(のアップ)で映画が終わったら面白いかもしれないと、勝手に思ったりしました。

どこまでもいこう

1999年,日本,75分
監督:塩田明彦
脚本:塩田明彦
撮影:鈴木一博
音楽:岸野雄一
出演:鈴木雄作、水野真吾、芳賀優里亜、堀広子、松本きょうじ、若菜江里

 小学校5年生になったばかりの子供から少年へと移り行く少年たちの物語。そこには友情や家族や世間や恋愛といった大人とまったく同じ問題が存在しているのだけれど、大人たちにはそれが問題とすら思われていないような、そんな年頃の子供たち。
 この作品は彼らの日常をほほえましくも、緊張感のあるタッチで描いている。誰もが(男だけ?)「ああ、こんなことがあったよな」と思ってしまう平凡な日常と少年たちにとっては大事件の数々。文字にしてしまえばしまうほどつまらなくなってしまう。大人の言葉に直してしまったら、まったく面白みは伝わらない。そんな映画なのかもしれない。

 全体的にはありきたりというか平凡というか凡庸な映画だが、ところどころにきらりと光るものがあった。たとえば、野村が死んでしまったあとに展覧会で展示されていた絵だとか、アキラがジャンプしながら空中に向かってキックする場面とか、「花火銃」とか。そういった、はっとさせられるような場面があるだけでこの映画には価値があると思う。
 そんなはっとする場面を演出しているのは、映画の自然さではないだろうか?「なんか見たことある」と感じてしまう団地の風景、不自然なほどにつるんでいる小学生の自然さ、団地等閉じられたコミュニティにありがちな人間関係、そんななんでもないことがなんでもなく描かれている。それがこの映画のよさなのかもしれない。
 とにかく、野村の絵とラストシーンはよかった。

冷たい血

1997年,日本,109分
監督:青山真治
脚本:青山真治
撮影:石井勲
音楽:山田勲生
出演:石橋凌、鈴木一真、遠山景織子、永島暎子、諏訪太郎

 「Helpless」や「Shady Glove」の青山真治監督の作品。石橋凌演じる刑事が新興宗教幹部を撃ち殺した犯人(柳ユーレイ)に肩を打たれるところから物語が始まる。打たれて意識を失っているあいだに紛失してしまった拳銃を手に入れた男(鈴木真一)とその恋人(遠山景織子)とのあいだに奇妙な関係が成立してゆく。
 この作品は、単なるバイオレンスというよりは、サイコサスペンス的な要素を取り入れ、精神的な要素を物語を展開していく上での大きなファクターとしている。映像は美しく、造りもかなりこっているが、私の好みにはあまりあわなかった。

 オウム事件の影響を受け、それを題材に現代を切ろうとしていることはわかるが、どうも技巧に走りすぎのような気がする。さまざまな音を使って聴衆の心理を操作しようとする意図はわかるが、あまりそこにリアルさが感じられない。登場人物たちも難解そうな台詞をはくが、単なる言葉遊びに過ぎず、哲学が感じられない。台詞だけが上滑りしている感じがしてしまう。
 ただ、石橋凌はいい演技を見せてくれる。遠山景織子が物語から少し浮いてしまったのが残念。
 映像はきれいで、物語の展開にもスリルがあり、見ていて飽きることはなかったが、それぞれのエピソードのあいだの繋がりがよく見えてこなかった。

エグザイル・イン・サラエヴォ

2000/3/11
Exile in Sarajevo
1997年,オーストラリア,91分
監督:タヒア・カンビス、アルマ・シャバーズ
撮影:ロマン・バスカ、タヒア・カンビス、アルマ・シャバーズ
出演:サラエヴォの住人たち

 オーストラリアに住むカンビア監督が、戦火の母の故郷サラエヴォへ、亡命者(エグザイル:Exile)としてビデオカメラを持って入る。そこに待ち受けていたのはCNNやBBCが伝えるサラエヴォとは異質なものであった。彼はそこでさまざまな人々に出会い、この戦争の意味をこの戦争に巻き込まれた人々の気持ちを徐々に理解してゆく。そして母の姿も。
 この映画は戦争に対するプロテストとしてみることもできるし、戦争という危機的な状況の中で力強く生きる人々の生活を描いたドラマとしてみることもできるし、家族を主題にした物語としてみることもできるし、恋愛ドラマとしてみることもできる。
 とにかく、傑作。
 決して押し付けがましくないドキュメンタリー。

 単に、戦争の悲惨さや虐殺の残忍さを訴えるのではなく、一方的な視点にとらわれることの恐ろしさを抉り出そうとする。この映画は被害者の一方的な視点にとどまらないテーマ性を持ち、フィクションにも劣らないドラマ性を持つ。
 われわれはNATOの空爆についてニュースで知り、それについて賛否両論投げかけたけれど、実際、NATOというものがボスニアにおいてどのような存在であったのかということは、この映画を見るまでわからなかった。さも、正義の味方であるかのような顔をして世界に鎮座する国連が、決して常に正義の味方ではありえないことも思い知らされた。
 そして、この映画がさらに素晴らしいのは、そのような戦争に押しつぶされずに生きつづける人々を描き出していること。タヒアとアルマ画徐々に惹かれあっていく姿も、爆弾の餌食になってしまう少女ニルバナの姿も、精神的傷を負いながら絵日記を書き綴る少女アミラの姿も、等しく美しい。
  こんな映画に出会えてよかった。この映画はドキュメンタリーという姿をとり、実際にドキュメンタリー・フィルムではあるが、その内容はフィクションよりもドラマティックである。ドキュメンタリーの本質がそのようなものだとは思わないが、フィクションと同じドラマを孕むドキュメンタリーはやはりフィクションより感動的であるということを認識させる。

メタル&メランコリー

2000/3/11
Metaal en melancholie
1993年,オランダ,80分
監督:エディ・ホニグマン
脚本:ピーター・デルピー、エディ・ホニグマン
撮影:ステフ・ティジンク
出演:ペルーのタクシー運転手たち

 ペルーの首都リマで、タクシー運転手をする人々を取材したドキュメンタリー。ドキュメンタリーというよりは、エピゾードの集成。彼らは本職の運転手ではなく、俳優だったり、教師だったりする。経済的理由によって、副業として運転手をせざるを得ないのだ。
 日本人から見れば彼らタクシードライバーは皆、ひどい生活をしているのだけれど、そこに悲惨さはなく、陽気ささえ感じられる。私はそれをラテン気質とは言いたくない。ラテンアメリカという地域を「ラテン」という言葉でくくってしまうことは簡単だけれど、適切ではないと思う。それをこのドキュメンタリーは語ってくれる。
 決して安っぽいヒューマニズムに陥ることもなく、笑いをちりばめ、タクシードライバーたちの生活を描く描き方は、「これが本当のペルーだ!」と感じさせてくれる力があり、見てて飽きることがなかった。