ミュージック・オブ・チャンス

The Music of Chance 
1993年,アメリカ,103分
監督:フィリップ・ハース
原作:ポール・オースター
脚本:フィリップ・ハース
撮影:バーナード・ジッターマン
音楽:フィリップ・ジョンストン
出演:ジェームズ・スペイダー、マンディ・パンティンキン、ジョエル・グレイ、チャールズ・ダーニン、M・エメット・ウォルシュ

 ポール・オースター原作の小説の映画化。道端で拾ったギャンブラー・ジャックに自らの金を託し、大金持ちとポーカー勝負に向かうジム。カフカ的ともいえる不思議な世界を描いた映画。シカゴ・ホープで人気俳優となるマンディ・パンティンキンが好演している。
 原作を読んでしまっていると、つまらなく感じるが、純粋に映画としてみるならば、それほどつまらない作品ではない。原作の深みが2時間という時間の中で表現し切れなかったのが残念。

 この監督がオースターの作品が好きだということはよくわかる。しかし、あまりに原作に忠実すぎるのではないか。小説を映画化するときには常に付きまとう問題は、その監督の切り口と自分(見る側)の切り口の食い違いだが、この作品はそれ以前の問題だ。この監督の切り口が気に入らないというのではなく、主張というものが感じられないということ。原作を忠実に再現し、それなりに面白い作品には仕上がっているが、映画としてはあまり評価できない。たとえ、違和感を感じる人がいるとしても、自分なりの解釈でもって、ばっさりと原作を切り取ってくれたほうが、潔く、面白いものになったのではないかと感じてしまう。

ジャッキー・ブラウン

Jackie Brown 
1997年,アメリカ,155分
監督:クエンティン・タランティーノ
原作:エルモア・レナード
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:ギレルモ・ナヴァロ
音楽:ジョセフ・ジュリアン・ゴンザレス
出演:パム・グリア、サミュエル・L・ジャクソン、ロバート・フォスター、ブリジット・フォンダ、マイケル・キートン、ロバート・デニーロ、クリス・タッカー

 クエンティン・タランティーノの監督としては第4作。銃の密売をするオーデルと、スチュワーデスのジャッキー・ブラウン、保釈屋のマックス、オーディールの仲間ルイスと個性的な登場人物たちが繰り広げる、一風変わったギャング映画。
 サミュエル・L・ジャクソンやロバート・デニーロといった大スターに囲まれながら、一歩も引けを取らない演技を見せているパム・グリアが素晴らしい。タランティーノの監督技術も相変わらず秀逸で、個人的には、「レザボア・ドックス」に次ぐ名作だと思う。舞台は現代(1995年)ながら、全体に漂う70年代っぽい雰囲気も、映画に見事にはまっていて、不思議な味を出していた。

 クエンティン・タランティーノの監督技術で最も優れているのは、時間の操り方であると思う。映画というのはあらゆる芸術の中で時間の行き来が最も簡単なメディアである。それは、すなわちそれだけ、時間の扱い方が難しいということでもある。並行する出来事をどのようにあつかうのか?クライマックスへの持っていき方を操作するにはどの時間を省けばいいのか?そのような問題を考えるのにこの映画は非常にいい例を示してくれる。
 ひとつは、ジャッキーが保釈され、家に帰った場面。スクリーンが二分割され、左側(だったと思う)に車の中のマックスが、右側に家の中のジャッキー(とオーディール)が映し出される。最後に、観衆はジャッキーがマックスの車の中から銃を持ち出していたことがわかるわけだが、これは、まさに同時進行しなくては、面白さが半減してしまう場面だ。そのことは、後の場面(映画のクライマックスになるモールでの現金受け渡しの場面)と比較すると明らかだ。ここでは、同じ時間帯に起こったことをジャッキー、ルイス、マックスとそれぞれの視点から順番に映し出してゆく。そのことによって、現金の行方と人の流れが徐々に明らかになっていくのだ。
 このふたつの手法はともに時間を操ることによって画面に緊張感を持たせることを可能にしている。モールの場面は特にそれがうまくいっている。なんと言っても、ジャッキーがモール内でレイを探し回る手持ちカメラでの長回し、そして画面から伝わってくるルイスのイライラや、マックスのドキドキ、これらの要素が観客を引き込み、どこにからくりが隠されているのかという興味を持続させる。
 タランティーノはストーリーテラーとして抜群の才能をもっていると思う。

クルシメさん

1997年,日本,55分
監督:井口昇
脚本:井口昇
撮影:井口昇
音楽:YUJI&BERA
出演:新井亜樹、唯野美歩子、松梨智子、田中由香、田中芳幸、井口昇、鈴木卓爾

 人に言えないコンプレックスを持った二人の女性が、公園の清掃の仕事場で出会う。果たして二人の関係は…
 井口昇が監督・脚本・撮影・編集とほとんどすべてをこなした、自主制作のような中篇映画。アップリンクファクトリーで公開された。フィルムではなく、ビデオカメラ(Hi8)で撮られた映像はまさに自主制作映画。しかし、井口昇は素人ではなく、「裸足のピクニック」や「119」に出演した役者でもある。
 この映画はとりあえず、おかしな映画。役者が妙にに無表情での演技も不自然に下手。しかし、矢口史靖監督の「裸足のピクニック」を髣髴とさせるような不思議な魅力にあふれている。
 あたりまえに笑ったり、感動したりする映画とは違う何かを求めている人にはぴたりとくる映画かもしれない。

 井口昇はアダルトビデオ(レズもの、スカトロものが中心)を何本か監督し、「毒婦」というオリジナルビデオ(レズもの)の監督もしているが、一般映画といえる作品はこの「クルシメさん」しかない。しかし、よくある一般映画を撮る資金集めにアダルトビデオの監督をしているわけではなく、純粋に好きでやっているようだ。しかし、一般映画も撮りたいと。
 この作品を批評するのは難しい。映画の展開は完全に時系列にそって、しかも、主人公の藤井さんの視点から動かない。映像に工夫があるわけでもない。役者もぼう読みだし、「まるっきり素人じゃねえか!」と叫びたくなる映画だが、いったい何が面白いのか……
 しかし、決して面白くないわけではない。とにかく徹底的にバカバカしいところがいいのかもしれない。なんとなく引きずり込まれて観ているんだけれど、終わってみても何も残らない。振り返って考えてみればみるほどバカらしい。そんな映画が作れるというのもひとつの才能なのかもしれない。世の中のひとつの切り取り方、監督・脚本・撮影・編集とすべてをひとりでやった作品なのだから、これがまさしく井口昇の世の中の切り取り方なのだろうと思ってみるしかない。 

 最初見たときは、「あんまり面白くないな」と思った。しかし二度目に見て、いくつかのことに気づいた。ひとつはこれがレズビアン映画であるということ。いわゆるレズビアンものではないが、二人の女性の関係性というものはまさにレズビアン的で、口の中を見せ合うシーンにはかなりのエロッティクさが感じられる。そして、互いに惹かれていながら様々な理由(というかそれぞれにただひとつの理由)から一歩を踏み出せない二人が思いもかけない形でキス(と言えるかどうかはわからないが)をしてしまう。それが物語りのクライマックスであり、その後の二人は何かある種の運命共同体のような形に描かれる。そんなラブ・ストーリーとしてみることが出来た。
 もうひとつは、カメラの異常なまでの近接感。まさに顔をなめるように取るカメラが妙に生々しい。やはりこれはAV監督である井口昇だからこそ出来る技なのか、とにかく接写接写と責めまくる。しかし、大事なところは引き絵で見せる周到さも忘れない。
 この映画はぱっと見の異様な感じとは裏腹に意外と普通の映画なのかもしれません。異常さの皮をかぶった普通な映画。しかし、異様であることには変わりない。

バンディッツ

Bandits
1997年,ドイツ,109分
監督:カティア・フォン・ガルニエル
脚本:ウーベ・ヴィルヘルム、カティア・フォン・ガルニエル
撮影:トルステン・ブリュワー
音楽:バンディッツ
出演:カティア・リーマン、ヤスミン・タバタバイ、ニコレッテ・クレビッツ、ユッタ・ホフマン、ハンネス・イーニッケ

 1999年には「ラン・ローラ・ラン」、「ノッキン・オン・へヴンズドア」など、新しいタイプのドイツ映画が数多く上映されたが、これはその先駆けとなった作品。囚人の女性バンド「バンディッツ」が警察のパーティーに演奏しに向かう途中で脱走を図り、脱走中の模様がテレビで放送されると、CDもベストセラーになり……
 とにかく、ハチャメチャな映画。MTVのようでもあり、香港映画のようでもある。ストーリーはそれほど練ったものではないが、展開にはメリハリがある。バンディッツのそれぞれのキャラクターが非常に魅力的なのが、この映画の成功の秘密だろうと思う。

 ハチャメチャさと思い切りとキャラクターの個性がこの映画の魅力。
 何がハチャメチャかといえば、ひとつは各場面のつくりがハチャメチャ。道路でファンに囲まれ、なぜかみんなで踊り始める場面、マサラムービーかおまえは!と、突っ込みたくなってしまうハチャメチャさ。
 思い切りというのは、モンタージュの仕方。普通に考えればストーリーをつなぐために必要なはずのディテイルを思い切って省いてしまって、躍動感のある展開を可能にしている。逆にいえばストーリーが隙だらけなのだけれど(簡単に言ってしまえば、あんな方法で逃げつづけられるはずがない。警部がよっぽどのバカか、ドイツ警察がひどい人手不足だ)、必要な説明を映画に盛り込むかどうかは映画全体の構成を決める大きな要素なのだ。普通に考えれば必要だと思える断片を思い切ってカットしてしまうことによって、その監督の個性が映画に反映され、独特なものを作り上げることができるようになるのだ。
 少しわかりにくい説明になってしまったが、この監督の特徴的なモンタージュの仕方は「時間の混合」ではないだろうか。特徴的なのは、ルナとウェストのラヴシーン。話をしているシーンとセックスシーンが交互に挿入されてふたつの時間が混合された形でシーンが構成されている。これは、最後の場面(観客のところへ飛び込むシーンと船へと走っていくシーンを混合した場面)でもまったく同じ構成の仕方がされている。そして、たびたび画面の中に入れ込まれるミュージックビデオの映像も現在の時間に過去の時間を割り込ませることで同様の効果を生み出しているといえる。
 これらの手法は決して目新しいものではないけれど、この映画のなかではかなり効果的に使われているといえるのではないだろうか。

マトリックス

The Matrix
1999年,アメリカ,136分
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
脚本:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
撮影:ビル・ポープ
音楽:ドン・デイヴィス
出演:キアヌ・リーヴス、ローレンス・フィッシュバーン、キャリー=アン・モス、ヒューゴ・アーヴィング

 コンピュータプログラマーのアンダーソンは、「ネオ」という名の凄腕のハッカーでもあった。Matrixの謎にとらわれた彼はコンピュータ画面上に現れた不思議な言葉に導かれ、有名なハッカー・トリニティに出会う。そしてさらに彼女に導かれ謎の男モーフィアスと出会うことになる。この謎に満ちた男との出会いは衝撃的な現実が明らかになるほんの始まりだった。
 見事はSFXと緊張感のある展開が後を引く。ウォシャウスキー兄弟は「バウンド」を観て好きになったけれど、この「マトリックス」もハリウッド大娯楽エンターテイメント作品としては非常に優秀だと思う。こういう映画は映画館で観るに限る!まだ、観たことがないなら、ビデオを見るより、やっているところを探して大スクリーンで観て欲しい。

 宣伝どおりSFXは見事だった。設定もそれほど奇異なものではないが、説得力があっていい。まず、最初にこの世界が現実ではないと知らせる前に、ネオ(この時点ではまだアンダーソンか)の口がふさがってしまったり、奇妙な機械の虫が出てきたりという展開の仕方は見事。本当に夢だったのかと一瞬だまされてしまった。デジタルな音響も非常に効果的で、劇場にいると本当に別世界に入り込んだような感覚があった。
 シナリオの話をすれば、たいがいが典型的なもので新みがないと言うことができる。内通者がいて味方が死んでいくとか、キスで死んだはずのネオが生き返るとか、使い古されてきたような展開が多々みられた。しかし、この映画の真価はシナリオにあるわけではないので、そのへんは目をつぶることができるだろう。逆に、預言者の存在、そしてその予言の矛盾と言う効果はなかなか観衆を欺くように計算されていてよかったと思う。
 本当に劇場で見てよかった。この映画をビデオで見てしまったらもったいない。でも、終わった後、劇場を出たら、ガードレールとか飛び越えてみたくなったり、建物から建物に飛び移ってみたりして危ないかも。 

 今回見たのは2回目だけれど、そうするといろいろなことに気づく。
 まず、観客に様々な謎を与える巧妙さ。2度目にみると、「マトリックス」が何なのかわかっていて、すべての現象に納得がいくのだけれど、初めて見る時点ではネオと同じくこの世界が現実ではないと知らない。その状態で、ネオ(この時点ではまだアンダーソンか)の口がふさがってしまったり、奇妙な機械の虫が出てきたりという不可解な展開を持ってくる。この展開の仕方は見事。「本当に夢だったのか、でもどこから?」という疑問が浮かぶのが必然。
 そして、シナリオにかなり説得力がある。キスで死んだはずのネオが生き返るところなんて、そんな古典的な…と言いたくなるが、それは逆に「死んだはず」の部分を覆しているのであって、非常に新しい方法であるのだろう。あるいは、預言者の存在、結局あの予言者は矛盾した解答を出したわけだが、予言者ですら絶対ではないという効果は常識的に映画を見ている観衆を欺くように計算されていてよかったと思う。

 あとは、ブルース・リーやジャッキー・チェーンの映画と同じで、映画を見終わった後しばらくは自分も出来るんじゃないかと思ってしまう感じが心地よかった。

π(パイ)

Pi 
1997年,アメリカ,85分
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:ダーレン・アロノフスキー
撮影:マシュー・リバティーク
音楽:クリント・マンセル
出演:ショーン・ガレット、マーク・マーゴリス、ベン・シェンクマン、パメラ・ハート

 天才数学者のマックス(ショーン・ガレット)はすべての事象はパターンがあり、数式で予測できると考え、株式市場の法則を見つけようとしていた。その彼の頭脳を利用しようとする株屋やユダヤ神秘主義教団の思惑に翻弄される。
 これはまさしく「サイコ数学スリラー」。白黒の映像が斬新で、カメラ回しも秀逸。デジタルな音の使い方も非常に面白い。シナリオ自体はあまりこったものではないが、アイデアが独特のため、非常に面白くできている。
 また、数学という学問を通じて哲学的な内容にすることで、単なるカルト映画の域を越える映画となっている。
 ただ、頭痛持ちの人は見ないほうがいいかもしれません。

 216桁。 考えれば考えるほど難しい。すべての法則を支配する数字=神。数学=宗教?マックスの頭の傷はなんだったのか?アリは?
 そんな謎はおいておいて、この映画の素晴らしいところは「数学」というものでアドベンチャーの世界を作り出してしまっていること。マフィアの臭いが感じられる株屋とか過激なユダヤ教団とか、そんな現実的なアドベンチャーに結びつくものなしでも、十分にサスペンスとして成立したんじゃないかと思わせる。
 ソルが囲碁をしながら言った「考えるんじゃない。直感だ」という(ような)セリフが心に残る。少し哲学くさいことを言えば、考えつづけている限り、人間は「見る」ことはできない。「見る」ということはアルキメデスの妻のように直感的にわかることだ。アルキメデスに必要なのは考えつづけることではなく風呂に入ることだと感じることだ。しかし、人間は完全なる真実を感じ取るには脆すぎる。だから人間は考えるしかない。真実を感じ取ってしまったマックスは崩れてゆくしかないのだ。それは「神」の領域であって、人間の領域ではない。だから人間は考える、考える、考える、考えるしかない。
 この映画から感じ取れるのはそういうこと。言葉ではなく、映像や音や幻想やとなりの美女や白黒の世界からなにかを感じ取るしかない。そして考えるしかない。真実は我々の手の届かないところにある。

ジュマンジ

Jumanji 
1995年,アメリカ,104分
監督:ジョー・ジョンストン
原作:クリス・ヴァン・オールスバーグ
脚本:ジョナサン・ヘンズリー、グレッグ・テイラー、ロバート・W・コート
撮影:トーマス・アッカーマン
音楽:ジェームズ・ホナー
出演:ロビン・ウィリアムズ、ジョナサン・ハイド、キルステン・ダンスト、ブラッドリー・ピアーズ、ボニー・ハント

 大人の姿をした子供をやらせたら右に出るものがいないロビン・ウィリアムズ。彼は26年間ゲームの世界に閉じ込められていた中年男を演じる。事の起こりは、ボードに浮かんだことが実際に起きてしまうボードゲーム「ジュマンジ」。
 ボードゲームを手に入れた少年アランは友だちのサリーとゲームを始める。だが、ボードのメッセージ通りの事が起きた上、アランはどこかに消えてしまった。それから26年後、売りに出されていた屋敷に移り住んできた幼い姉弟ジョディとピーターは屋根裏部屋でそのゲーム“ジュマンジ”を発見。それをはじめると、ようやくアランは現実世界に戻ってくる。そして、ゲームを終わらせようと悪戦苦闘する。
 軽いタッチの笑いはロビンウィリアムスの味。この映画でも笑える場面がぽんぽんと飛び出す。売り物のCGが少し安っぽいのが残念。

アドレナリンドライブ

1999年,日本,112分
監督:矢口史靖
脚本:矢口史靖
撮影:浜田毅
音楽:山本精一&羅針盤
出演:石田ひかり、安藤政信、松重豊、角替和枝、真野きりな、ジョビジョバ

 ひょんなことからやくざのものだった2億円を手に入れてしまった男・鈴木悟(安藤政信)と看護婦・佐藤静子(石田ひかり)。金を取り戻そうとするやくざ(チンピラ)たちを振り切って、大金を手に入れようと逃げ回るが……
 ある意味ではコメディ、ある意味では恋愛映画、ある意味ではロードムーヴィー。相変わらずドライブ感覚あふれる矢口作品だが、「はだしのピクニック」で見せたようなはちゃめちゃさが影をひそめてしまっているのが残念。まあ、作品としてはまとまりがあっていいのかもしれないけど。
 出演している役者たちは皆いい味を出している。

 はっきり行って、それなりには面白いけれど、期待はずれだった。矢口史靖監督と言うと、「裸足のピクニック」の印象があまりに強烈で、それを凌ぐものを作ってくれないと納得がいかないというところだろうか。確かに、きれいにまとまっているし、「裸足のピクニック」の見苦しさはなくなっているけれど、それが本来の魅力であるはずのはちゃめちゃさを奪ってしまっては元も子もない。
 その原因は、私が思うに、この映画の登場人物たちの合目的性ではないだろうか。誰もが「お金」という目的を持って、それを手に入れるために様々な手段を講じるわけだ。それが、今までの矢口作品の登場人物たちの無目的性(あるいはなぜ自分がこんなことに巻き込まれているのかという理由すらわからない状態)とは明らかに異なる。
 私がこの映画の登場人物で好きなのは、安藤政信演じる鈴木悟と角替和枝演じる婦長だが、この無目的性という点からみると、このふたりが非合目的的なのだ(だから好きだというわけではないんだけど)。婦長は決して300万と言う金額につられて車を出したのではなく(と私は信じている)、鈴木悟も最後にはお金をあきらめた(恋を取ったという点では別な意味で合目的的なのかもしれないけど)。
 だから、ジョビジョバ演じるチンピラたちにも納得できなかった。彼らは中途半端なはちゃめちゃさを発揮するだけで、映画全体の面白みを増しているとは思えなかった。あんなにたくさんいる必要もないし(その人数が役に立ったのは軽自動車に乗ったときの車内のきつさだけ)、一人一人のキャラクターもはっきりしない。
 まあ、期待度を割り引けば、それなりに楽しめる映画だったのかもしれないけれど、期待が大きかっただけに、残念というところ。

ストレート・ストーリー

The Straigt Story 
1999年,アメリカ,111分
監督:デイヴィッド・リンチ
脚本:メアリー・スウィーニー
撮影:フレディ・フランシス
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:リチャード・ファーンズワース、シシー・スペイセク、ハリー・ディーン・スタントン

 74歳の老人アルヴィン・ストレートがトラクターに乗って400キロ離れた兄ライルの家へと旅するロードムーヴィー。1994年NYタイムズに載った実際にあった話をデビット・リンチの公私にわたるパートナーであるメアリー・スィーニーが脚本にし、デビット・リンチがそれに乗る形で映画化が実現した。
 デビット・リンチらしからぬストレートな映画だが、その映像や台詞には相変わらずリンチらしさが垣間見える。映像がとても美しく、散りばめられたエピソードも、どれをとっても素晴らしい。

 この作品はこれまでのリンチ作品とは異なるといわれる。しかしそうだろうか?確かに、実際にあった話を脚色するという手法はこれまでとられたことがなかったし、純粋な人間ドラマというものも描いたことはなかった。しかし、リンチが最もリンチらしいところの映像やせりふといったものにはリンチらしさがにじみ出ている。急坂でファンベルトが切れてあせるアルヴィンのアップへと移るカメラの寄せ方、妊娠した家出少女とアルヴィンとの会話、ロングショットになると声もまた遠くなるとり方、その一つ一つを見てみれば、これは紛れもなくデビット・リンチ。
 ただひとついえるのは、それまでのリンチ作品のような緻密で複雑に絡み合った平行する物語がより単純化されたということ。それでも、単純にひとつの物語というのではなく、家出少女の物語や娘ローズの物語が、アルヴィンの一人称の物語という縦糸を斜めに横切っていく。
 この作品を撮るに際してデビット・リンチはアルヴィンと同じ道のりを(トラクターでではないけれど)たどってみたらしい。その辺りもデビット・リンチらしい緻密さである。リンチ作品を見ていつも思うことだけれど、「これは本当はもっともっと長い物語で、本当は4時間くらいで撮りたかったんじゃないかな」と思わずにいられなかった。やはり、デビット・リンチはデビット・リンチだったということか。 

2001年9月7日

 今回見て印象に残ったのは鹿。この鹿のシーンもまたリンチらしいシュールなユーモアを感じさせる部分。しかも、全く何も解決しないまま進んでしまうのがらしいところ。この映画に出てくるエピソードのほとんどはその後が語られない。そこに味があるのだと思いました。

洗濯機は俺にまかせろ

1999年,日本,102分
監督:篠原哲雄
原作:松崎和雄
脚本:松岡周作
撮影:上野彰吾
音楽:村山達哉 
出演:筒井道隆、富田靖子、小林薫、百瀬綾乃、菅井きん

 「月とキャベツ」の篠原哲雄監督が、筒井道隆と富田靖子のコンビであいまいな恋愛関係を描いた佳作。中古家電屋に勤めるキザキの店に、雨の日、社長の娘節子突然やってくる。そこから微妙な関係が生まれてくるわけだが……
 ストーリーを言ってしまえば、2・3行で説明できてしまうような恋愛物語なのだけど、それを描く描き方がこの映画の素晴らしいところ。所々に散りばめられた、クスリと笑ってしまう笑いのエッセンスや、なんとなくほのぼのとしてしまう時の流れ方がなんとも幸せな気分に浸らせてくれる。

 この映画の何がいいのかといわれると難しい。一番近いのは「雰囲気」という言葉、別段笑えるわけでもなく、感動するわけでもないけれど、最初のキザキが洗濯機を懸命に押さえ込もうとするシーンからすうっと映画に入り込めて、最後までほおっと映画を見つづけることができる。
 何がそうさせるのか、第一に映像の自然さ、役者の縁起の自然さ。まるで篠原ワールドに最初から住んでいた住人のような役者たちはまったく違和感がない。むしろ、彼らの心理がわかってしまうくらい近しい存在のように感じられる。それから画面の広さ。焦点となっている役者や物を大写しにせずに、画面の中にそっと入れ込むやり方が見ている側に入り込む余地を与えている。そのような映画のなかの「余裕」がこの映画の素晴らしいところだろう。
 ただひとつ難点といえるのは、ストーリーであろう。話の展開が偶然性に頼りすぎているような観がある。セツコがオオガミとキスしているところにキザキが出会ってしまったり、オオガミがやくざと思われる借金取りに詰め寄られているところにセツコが通りかかったり、デートの約束をしていて結局会えなかった日、キザキがセツコを見つけたり。ある程度の偶然はドラマチックな展開には必要だろうけれど、ここまで執拗に偶然が重なると、全体の展開のリアリティーがそがれてしまうのではないかと感じた。