夜の終りに

社会主義の暗さを感じさせない万国共通の青春の煮え切らなさが秀逸

Niewinni Czarodzieje
1961年,ポーランド,87分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・アンジェウスキー、イエジー・スコリモフスキー
撮影:キシシュトフ・ウイニエウィッチ
音楽:クリシトフ・コメダ
出演:クデウィシュ・ウォムニッキー、ズビグニエフ・チブルスキー、クリスティナ・スティプウコフスカ、アンナ・チェピェレフスカ

 スポーツ医でジャズドラマーのバジリはガールフレンドのミルカに冷たく当たる。その夜、バジリと飲んでいた友人のエディックが一人の女に目をつける。エディックが連れの男をだましてその女ペラギアを連れ出したバジリはペラギアに振り回されながら、彼の部屋に2人でたどり着く。
 アンジェイ・ワイダが“抵抗三部作”に続いて撮った青春映画。シンプル表現が秀逸で若きワイダの才能を感じさせる作品。

 電気かみそりにテープレコーダをもつ身なりのいい若い男、当時のポーランドの状況はわからないが、なかなか羽振りのいい男のようだ。その男バジリはガールフレンドの呼びかけに対して居留守を決め込み、やり過ごすとドラムスティックを持って出勤する。職場はボクシング上で仕事は医師らしい。そこに勤める看護婦とも過去に何かあったらしく、思わせぶりな会話が交わされる。

 夜はジャズバンドにドラムで参加、医師でミュージシャンなんていかにももてそうだし、顔もハンサムで、そのイメージどおりプレイボーイのようだ。何の説明もないが、ワイダはそのあたりをうまくさらりと描く。特別個性的な表現があるわけではないが、無駄な描写もなく着実に物語が構築されていっていると感じることができる。

 その後はプレイボーイであるはずの彼がペラギアに振り回されてしまうのだが、そこで展開される哲学的な話や煮え切らなさに青春映画の輝きを感じる。夜が更けてから翌朝にいたるまでの2人のやり取りというのは国や時代を超えてどの若者にも通じる感覚を持っている。それがワイダの才覚なのだろう。

 アンジェイ・ワイダの監督デビューとなった“抵抗三部作”はそのメッセージ性の強さが際立って、ワイダの監督としての力量や作家性はその陰に隠される形になった。それでも彼の映像の冴え、表現のうまさというのは感じさせたが、この作品からは彼の簡潔な表現のよさが感じられる。それは青春映画というシンプルなものになったことでディスコースが明確になったということであると同時に、“抵抗三部作”という労作を通して彼の表現力が増したということでもあるだろう。アンジェイ・ワイダはデビュー・シリーズである“抵抗三部作”によって有名だが、その直後に撮られたこの作品は彼の才能がそこにとどまらないことを明確に語っている。

 リアルタイムにこれを見た人はこれからの彼の作品にわくわくするような予感を感じたのではないか。50年後に彼の作品を見直す私でさえそう感じるのだから。あとは社会主義という体制が彼の才能と表現にどう影響してくるのか。

 この作品の時点ではその体制の不自由さがわずかに影を落としているだけだが、彼が体制と戦っていかねばならないという予感は感じさせる。ヒロインのペラギアはおそらく“自由”の暗喩であるのだろう。それは幻影のように目の前にちらりちらりと表れるけれどなかなか手に入らないものである。最後に“アンジェイ”という本名が明かされるバジリはまさしくワイダの化身なのだ。

俺たちステップ・ブラザース-義兄弟-

コドモな大人の姿が悲しすぎて笑えない、不完全燃焼のコメディ映画

Step Brothers
2008年,アメリカ,98分
監督:アダム・マッケイ
原案:ウィル・フェレル、アダム・マッケイ、ジョン・C・ライリー
脚本:ウィル・フェレル、アダム・マッケイ
撮影:オリヴァー・ウッド
音楽:ジョン・ブライオン
出演:ウィル・フェレル、ジョン・C・ライリー、メアリー・スティーンバージェン、リチャード・ジェンキンス、アダム・スコット

 40歳にもなって仕事もせずジャンクフードを食べテレビばかり見ているブレナンとデール。その母親と父親が再婚したことからふたりは義兄弟に。その環境の変化を受け容れられないふたりは互いを嫌うが、やがて趣味の一致を見出し“義兄弟”として仲良くやるようになるのだが…
 ウィル・フェレルがジョン・C・ライリーを相棒に迎えたナンセンスコメディ。

 39歳と40歳で仕事もせず家でTVを見てジャンクフードを食べているばかりのブレナンとデール。その母親と父親が再婚したことで、ブレナンがデールの家にやってくるのだが、このふたりが本当に痛々しい。ただ仕事をせずにぶらぶらしているというのではなく、完全にコドモなのだ。やることなすこと考え方から好きなものまですべてがコドモ、見た目はおっさんなのに完全なコドモ、この姿があまりに痛々しい。

 だいたいコメディ映画というのは「こんな奴いねーよ」と思わせながらどこかでそれに近い人は存在しているような気にさせないとそこに笑いは生まれない。この映画の場合、だいの大人が子供みたいなことをしているのを笑えということなのだろうけれど、あまりにコドモすぎて気持ち悪くて笑えない。下ネタのえげつなさもその気持ち悪さを助長する。

 結局キッズ・ムービーでやるのとまったく同じことをおっさんでやったというわけだけれど、果たしてそこに何の意味があるのか。子供なら笑えることも大人じゃあ笑えない。展開としては当然自立の道を歩き始めるということになるのだが遅きに失し、いきなり大人になったふたりを見てデールの父親は「お前たちのよさをなくすな」見たいな事を言うが、本当にそうなのか?

 この作品のもうひとりのキーパーソンはブレナンの弟のデレクだ。若くして成功した彼は文句なしのいやな奴だが、はやく大人になり成功したデレクとブレナンたちの対比には意味がある。そしてデレクの妻アリスがデールにぞっこんになってしまうというところは非常に面白い。価値観というのは人それぞれで気持ち悪い大人コドモを好きになる人もいるわけだ。ここを発展させて行ってそれをブレナンたちの未来につなげたらもう少し納得できる展開になったような気がする。

 90年代の白人ラップのパロディPVとか、ゾンビのパロディなんかを使うところは面白いし、最後には白い鳩が飛ぶ。そんなこんなで笑いどころがないわけではなく、センスもさすがに悪くないと思うのだが、どうも気持ちが悪い。ウィル・フェレルの顔が気持ち悪いのは、自分でネタにしていることからも織り込み済みなのだろうが、やっぱりちょっと…

 ところで、この作品には一昨日の『スモーキング・ハイ』の主演だったセス・ローゲンもちょい役で出演している。セス・ローゲンがウィル・フェレル作品出ることが多いのは、彼らが“ジャド・アパトー・ファミリー”であるからのようだ。下品なナンセンスコメディばかり製作しているこのファミリーの作品は当たりはずれが激しいような気がするが、好きな人にはたまらないのかもしれない。アメリカンコメディ好きな方はジャド・アパトーの名前は要チェックだ。

スモーキング・ハイ

Pineapple Express
2008年,アメリカ,112分
監督:デヴィッド・ゴードン・グリーン
原案:ジャド・アパトー、セス・ローゲン、エヴァン・ゴールドバーグ
脚本:セス・ローゲン、エヴァン・ゴールドバーグ
撮影:ティム・オアー
音楽:グレーム・レヴェル
出演:セス・ローゲン、ジェームズ・フランコ、ダニー・R・マクブライド、ゲイリー・コール、ロージー・ペレス

 召喚状の配達人をしているデールは無類のマリファナ好き。馴染みの売人のソールから“パイナップル・エクスプレス”という珍しいマリファナを手に入れ上機嫌で仕事に出かけるが、そのソールの元締めだというテッド・ジョーンズのところに召喚状を届けに行くと運悪く殺人を目撃していしまう。パニックに陥ってすいかけのマリファナを捨ててきてしまったデールはそこから足がつくと思いソールのところに駆け込むが…
 カナダの若手コメディ俳優セス・ローゲンが脚本・主演を務めたクライム・コメディ。ハイテンポな展開と小ネタがケッサク。

 このコメディは相当面白いと私は思う。もちろんコメディというのは見る人によって面白いと思えるかどうかが大きく変わるし、見る時期や気分によってもその面白さは大きく左右されてしまう。しかしこの作品は名作とは言わないまでもかなりの人が笑える作品だろうと思う。

 この作品の主人公デールはマリファナが好きなだけの無害な男。しかしたまたま殺人を目にしてしまって危険な男たちに追われる羽目になる。逃げる相棒となるのは売人のソール。ふたりして間抜けなことを繰り返し、どんどん追い詰められていってしまう。しかし、この2人が善人だというのがこの映画のミソである。善人というよりはガキなのかもしれないが、私欲のために相手を裏切ったりすることはなく、ある意味ではロマンティックな男たちなので安心してみることができる。そんなキャラクターの構築の仕方がとてもうまい。

 そしてもうひとつ面白いと思ったのは私たちがアクション映画を見ているときに「ほんとかよ!」と思うような突込みどころを見事に笑いにしているというところ。カーチェイスをしているときに何かの理由で前が見えなくなり、フロントガラスを蹴破るというのはアクション映画で時折見られる光景だが、この作品でもそれをやろうとして足がガラスに突き刺さって抜けなくなってしまう。運転しながら見事に割って運転し続けるよりも、そのようが「さもありなん」という感じがする。しかも足を突き刺したまま運転している状況を外からも撮影しているその画が笑える。

 ほかにもそんな小ネタが結構ある。そしてそのたびに間抜けな画で観客を笑わせる。このノリが映画ファンの心をくすぐる。

 下ネタも満載だが、そんなに下品なものではなく、大人なら笑い飛ばせる類のもの。2人のガキっぽさを演出するのに欠かせない要素ともいえるので、あって正解。ただ劇場公開されればPG12くらいにはなっただろうという感じはする。

 この主演のセス・ローゲンはカナダ出身のコメディ俳優。16歳で「フリークス学園」というTVシリーズに抜擢されたが、予定放送回数を終えることなく打ち切りとなる。しかし『ボラット』のサシャ・バロン・コーエンの「Da Ali G Show」に脚本家として参加、2006年には『40歳の童貞男』で映画デビュー。2007年の『スーパーバッド 童貞ウォーズ』では脚本にも参加した。

 この『スモーキング・ハイ』は「フリークス学園」のプロデューサで『40歳の童貞男』の監督でもあるジャド・アパトー、「Da Ali G Show」の共同脚本家であるエヴァン・ゴールドバーグとセス・ローゲンの3人で原案から作り上げた作品である。この3人の誰しもが決して有名とはいえないが、これからヒットメイカーになっていくのではないかという予感がする。

 この作品のセス・ローゲンは非常にうまいと感じさせる。面白いというよりはうまい。すごく普通な感じなのでシリアスなシーンも演じることができるのに、瞬発力があって笑えるシーンでは面白さが爆発する。『40歳の童貞男』という映画はあまり面白くなかったが、主人公の同僚を演じていたセス・ローゲンのことは記憶に残っている。

 ハリウッドのコメディ映画にはその時代時代にスターが生まれる。このセス・ローゲンがスターになるかどうかはわからないが、脚本もかける器用さがあるから、近い将来アダム・サンドラーのような存在にはなるだろうと思う。

サイボーグ

Cyborg
1989年,アメリカ,90分
監督:アルバート・ピュン
脚本:キティ・チャルマース
撮影:フィリップ・アラン・ウォーターズ
音楽:ケヴィン・バッシンソン
出演:ジャン=クロード・ヴァン・ダム、デボラ・リクター、デイル・ハドソン、ヴィンセント・クライン

 文明が崩壊し、ペストによって人類滅亡の危機にある地球、ペストの治療のための情報をインプットしたサイボーグがフェンダー率いるギャング一味に奪われる。フェンダーに個人的な恨みを持つギブソンとサイボーグを救いたいナディは一行を追いかけるが…
 最低映画監督アルバート・ピュンがジャン=クロード・ヴァン・ダム主演でとった近未来アクション。あまりのひどさに一件の価値はあり。

 この作品は基本的には典型的なハリウッドアクション映画だ。男たちがこぶしで殴りあい、ナイフを振り、言葉にならない雄たけびをあげる。殺せるチャンスがあっても殴り倒すことを選び、意味もなく筋肉ムキムキの体をひけらかす。

 タイトルは『サイボーグ』となっているが、それは対立するフェンダーとギブソン(ギターの名前みたいだ)がそのサイボーグを奪い合っているからであって、別にサイボーグが闘うわけではない。まあ近未来の終末観を出したいがために舞台を未来に設定し、未来であることがわかるようにそんなタイトルにしたのだろうけれど、実際のところ文明が衰退してしまったために火器はほとんど使えなくなっているので、舞台は古代ローマでもかまわなかったのかもしれない。

 そのどこでもいいところでどうでもいいことが起きる。そもそもペストって抗生物質で治るよね? いくら文明が崩壊したからってそれで人類が滅亡するという設定もひどい。何らかのウィルスが働いて人間が凶暴化したなんていう設定ならわかるが、ペストでこんなになるなんて…

 この映画がヒットしたというのだから本当にアメリカという国はわからない。そんなにみんな意味のない暴力が好きなのだろうか。基本的に言葉をしゃべらず、多くの登場人物が顔を隠しているのは、その無名性によって人間性を否定し暴力を正当化するためだろうか。人間でない人間が殴りあい殺しあう。そのさまを見るのがアメリカ人は好きなのだろうか。

 まあ出来が悪くリアリティがまったくないので、人と人が殺しあうことに対する嫌悪感というものすら感じさせないので、唾棄すべき作品というよりはあまりにひどくて笑っちゃう作品といったほうがふさわしい。たとえるならば「まずいのに体にいいわけではない青汁」(悪くもない)というところだろうか。なかには「まずーい。もう一杯」と言ってしまう人がいるから、この最低の監督アルバート・ピュンは作品を撮り続けてしまっているのだろう。

 そんなアルバート・ピュンの毒にやられてしまっている人と若かりし頃のジャン=クロード・ヴァン・ダムが見たいという人以外にはまったく勧めません。あとは本当にどうしようもないクソ映画(汚い言葉ですみません)を観たい人はどうぞ。

MID ミッション・イン・ザ・ダーク

Connors’ War
2006年,アメリカ,90分
監督:ニック・キャッスル
脚本:D・カイル・ジョンソン
撮影:シュキ・メデンセヴィック
音楽:ジェームズ・ベアリアン、ルイス・キャッスル
出演:アンソニー・“トレッチ”・クリス、ブル・マンク、マニア・ピープルズ、ガーウィン・サンフォード

 大統領夫人を人質として閉じこもる事件が発生。シークレットサービスが駆けつけると、そこではすでにブルックス率いるチームがいて、彼の部下コナーズが単独で救出に向かう。そして見事に救出に成功するのだが…
 アメリカでオリジナルビデオとして作られたクライム・アクション。SF的要素や陰謀の要素などいろいろ盛りだくさんだが、凡庸な印象は否めない。主演は“Naughty by Nature”のラッパー“トレッチ”ことアンソニー・クリス。

 最初に大統領夫人を人質に立てこもるという事件が置き、シークレットサービスとは別のチームとしてブルックスとコナーズというエージェントが現れる。彼らはシークレットサービスのボスのグリーンとは対立しており、先んじて事件を解決することで鼻を明かそうと考えるのだ。そしてコナーズは見事に犯人達を倒し、大統領夫人の救出に成功するのだが、シークレットサービスが突入させたスワットの行動によって失明してしまう。その3年後、無為に過ごすコナーズををブルックスが訪ね、仕事に戻るよう誘いをかける。

 つまり、盲目のエージェントが活躍する話ということ。そこにブルックスとグリーンの対立、二人の過去、戦争、陰謀、などが絡んでサスペンスを展開する。そしてもちろんコナーズをめぐるちょっとしたロマンスも入れ込まれる。

 アイデアに意外性があるわけでもなく、アクションに新しさがあるわけでもなく、出ている誰かが光っているわけでもない。愛国心と功名心の相克といういかにもアメリカらしいテーマがアクセントになってはいるが、あくまでもアクセントであってそこを追求した作品というわけでもない。つまらなくはないので、90分という時間を過ごすことは出来るけれど、見たことすら忘れてしまうような作品でもある。

 引っかかることといえば、筋肉はムキムキだが演技も特にうまくなく、アクションがうまいわけでもないこの主演の俳優。知っている人は知っている90年代に売れたラップグループ“ノーティ・バイ・ネイチャー(Naughty by Nature)”のラッパーであるトレッチだというじゃないか。知らない人にしてみれば「誰それ?」としかならないが、記憶に留めている人なら懐かしさを感じるんじゃないかという感じ。

 監督はジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』の脚本で名を上げたニック・キャッスル。監督に転じて『わんぱくデニス』なんかを監督しているが泣かず飛ばずという感じだ。

 こんな映画はたくさんある。まあそんな映画だ。

グーグーだって猫である

2008年,日本,116分
監督:犬童一心
原作:大島弓子
脚本:犬童一心
撮影:蔦井孝洋
音楽:細野晴臣
出演:小泉今日子、上野樹里、加瀬亮、大島美幸、村上知子、黒沢かずこ、楳図かずお、マーティン・フリードマン

 人気漫画家の小林麻子はアシスタント4人とともに久しぶりの読み切りを書き上げる。しかしその間に愛猫のサバが死んでしまっていたことを知る。15歳という大往生だったが、サバを失った麻子は仕事も手につかなくなってしまう。しかししばらく後ペットショップで子猫を見かけた麻子はその子猫を買って“グーグー”と名づける。
 大島弓子の同名漫画を犬童一心が映画化。吉祥寺を舞台に暖かい人間ドラマが展開される。

 締め切りを間近にした人気漫画家とアシスタント達。そのアシスタントが森三中であってもその雰囲気には緊張感があり、その間に静かに別れを告げる猫のサバの存在もあって、この最初のシーンは魅力的である。だから、語り手の上野樹里演じるナオミも主人公の麻子もすんなりと受け入れられ、その世界にすっと入ることができる。

 だから、その後の猫を失った哀しみというか虚しさや、その中で出版記念パーティーに出るということのわずらわしさ、ペットショップの前で躊躇する感覚、それらもよくわかる。しかし、ここで入り込んでくる楳図かずおとマーティン・フリードマンはどうにも邪魔だ。マーティン・フリードマンは吉祥寺という街を紹介するからまだいいが、楳図かずおのほうは吉祥寺で漫画家といえば…というだけで出ているだけで、本編には一切関係がない。彼が悪いわけではないが、その存在が作品の雰囲気を壊してしまっているといわざるを得ないだろう。

 それを除けば決して悪い映画ではない。ただ、原作者のファンだという犬童一心監督の思い入れが強すぎたのか、多分に映画的とはいえない語り口になっているのは気になる。物語の語り手は麻子のアシスタントのナオミなわけだが、その麻子への思い入れがそのまま作品に反映され、漫画そのもの(大島弓子の作品)がたびたび登場し、その中の言葉が文脈とあまり関係なく引用される。その語り方が今ひとつテンポを生まないのだ。

 それはこの物語の前半が麻子が猫を失い、新しい猫を飼い、一人の男性に出会うということに終始してしまっているかもしれない。それに比べて物語の核となる最後の30分ほどは内容も濃く、プロットの構築も秀逸で非常に見ごたえがある。

 それだけに大部分を占める中盤部分の緊張感のなさがどうにも気になる。冒頭でぐっと引き込まれたものが1時間ほどのゆるい時間の中でほどけてしまい、せっかくの内容の濃い最後にも乗り切れなくなってしまう。もっと中盤部分を圧縮して、麻子の再生を描いたとある意味ではいえる終盤に時間を割くことでこの作品のコンセプトがはっきりし、メリハリもついたのではないかと想像する。そうすれば『グーグーだって猫である』という題名が持つメッセージの重みももっとはっきりしたのではないか。

 それでも小泉今日子と上野樹里で映画としては成立する。特に小泉今日子は本当にうまいと感じさせる。彼女ももはや中年に入ったわけだが、中年に差し掛かった雰囲気を体中から発しているようだ。加瀬亮も悪くないのだが、小泉今日子の前ではかすんでしまい個性を出そうともがいているのが少しこっけいにも見えてしまう。上野樹里は小泉今日子とは対照的な存在感があるので2人が打ち消しあうことはなく、非常にいいコンビだと思った。

 猫と女優を見るためならばなかなかいい作品かもしれない。

俺もお前も

1946年,日本,72分
監督:成瀬巳喜男
脚本:成瀬巳喜男
撮影:山崎一雄
音楽:伊藤昇
出演:横山エンタツ、花菱アチャコ、山根寿子、河野糸子、菅井一郎

 サラリーマンの大木と青野はふたりでやる宴会芸が社長に気に入られ、ある日は得意先との宴会に、あるには社長の家の手伝いにと借り出される。4人の子供がいる青野は長女の結婚相手を大木に頼むが素っ頓狂な答えが返ってくるばかり。そんなある日、社長はふたりに骨休めに温泉に言って来いという。
 エンタツアチャコ主演の成瀬巳喜男戦後第2作。小市民を描いたコメディドラマで東宝と吉本の合同製作となっている。

 映画のはじめにはエンタツアチャコの芸をたっぷりと見せ、その後もドタバタコメディのような展開でまずはエンタツアチャコの面白さで観客を惹きつける。エンタツアチャコは戦前(昭和6年)に結成された漫才コンビで現在の「しゃべくり漫才」の祖といわれる。それまで漫才というのは「色物萬歳」という寄席の古典芸の一つで音曲を使ったものが多かった。エンタツアチャコは「しゃべり」を漫才の中心にすえることで現在の漫才のかたちを確立させたといわれる。横山ノックは横山エンタツの弟子で、ノックの弟子が横山やすしであることからも関西の漫才の祖であるといえる。

 そんなエンタツアチャコだが実はその寿命は非常に短く、昭和9年にアチャコの入院を機に解散している。ただ映画ではその後もコンビで出演し、この作品でも共演しているというわけだ。その人気者のエンタツアチャコの出演は敗戦直後の映画界では人々に明るさを与える要素として歓迎されただろう。

 成瀬巳喜男も戦後第2作でそれに乗っかった形になったが、そこは名匠、コメディ然とした導入から徐々に自分のドラマへと映画を転調していく。中心になるのはいやな仕事をさせられながら社長に頭が上がらないサラリーマンの悲哀である。それに対して大木の息子が労働者の権利を父親にとうとうと説き、世代間の考え方の違いと時代の変化を描く。

 折りしもこの映画が作られた1946年は東宝でストが頻発し、いわゆる“東宝争議”への機運が高まっていた時期、時代を読み取り、それを作品に反映させる成瀬らしい脚本ともいえるのだが、東宝にしてみればこんな作品を容認してしまって失敗だったと考えたかもしれない。

 そんな社会派の要素を組み込むのも成瀬らしさだが、この作品で最も成瀬らしいさえを見せたと私が思ったのは、“下駄”を使った語りである。大木が最初に家に帰ってきたとき、下駄の片方がなくなったというまったく物語とは関係ないエピソードが挟まれ、片方しかない下駄がしっかりと映される。そのときはなんだかわからないのだが、物語が終盤に差し掛かって大木と青野が社長にそれぞれが「下駄の片方ずつ」と評されることでそれが生きてくる。三和土に打ち捨てられた半端な下駄の虚しさをすら感じさせる映像がここで観客の頭に去来するのだ。

 72分という短い作品で決してそれほどいい出来とはいえないのだが、それでも成瀬は成瀬らしさを発揮し、面白い作品を作る。戦前はトーキーにいち早く取り組み、戦中は「芸道もの」というジャンルで戦時下という特殊な状況を跳ね除けた成瀬が、いよいよ自分らしさを発揮する前奏曲という感じでファンには見所のある作品となった。

地下水道

Kanal
1956年,ポーランド,96分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・ステファン・スタヴィンスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:ヤン・クレンツ
出演:タデウシュ・ヤンツァー、テルサ・イジェフスカ、エミール・カレヴィッチ、ヴラデク・シェイバル

 1944年ワルシャワ、レジスタンスの一中隊が廃墟で敵に囲まれる。ドイツ軍による攻勢に抵抗するが死者、負傷者を出し本部の指令でやむなく地下水道を通って撤退することに。しかし、その地下水道も汚臭と暗闇に覆われた迷宮で撤退は困難を極める…
 アンジェイ・ワイダがワルシャワ蜂起を描いた“抵抗三部作”の第2作。57年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。

 物語はワルシャワ蜂起がすでに鎮圧されようとしているところから始まる。亡命政府の指令でソ連軍の支援を当てにして始まったワルシャワ蜂起だったが、ソ連軍がワルシャワに到達できなかったことで戦況は絶望的になり、レジスタンスは敗走を余儀なくされることになる。ワルシャワ中に張り巡らされた地下水道(つまり下水道)は彼らがドイツ軍に見つかることなく移動できる唯一の手段であり、多くの命を救った。

 この作品は敗走する一中隊がその地下水道を行軍する様子を克明に描く。実際にそれを体験したイエジー・ステファン・スタヴィンスキーによる脚本には迫力があり、モノクロの画面から伝わってくるのは常に絶望だ。

 ここに描かれるのは祖国のために立ち上がった人々が侵略者によって虐げられる姿だ。しかし印象的なのは、そこにドイツ兵の姿がほとんど登場しないということだ。最初に攻撃されるところでも攻撃してくるのは戦車である。しかし銃弾や砲弾によってドイツ軍の存在は明瞭にわかる。そして、この見えないものへの恐怖というのがこの作品全体を覆い、地下水道に入ってからも毒ガスや手投げ弾という形で彼らを襲うのだ。

 この「見えない」ことによって恐怖はリアルになる。多くの人々にとって恐怖のもとは見えないものだ。それは日常でも戦争でも。見えないからこそいつ襲われるかわからない恐怖が生まれ、人間の心を圧倒してしまう。ワイダは戦争が人に植え付ける恐怖をドイツ兵を“見せない”ことによって描いた。それが彼の非凡なところなのだろう。

 そしてその「見えない」恐怖は彼がこの映画を作ったリアルタイムの現実についても言えるはずだ。彼が味わう、検閲・迫害・粛清という恐怖。現代のわれわれから見ればこの作品にはそんな彼自身の恐怖の匂いも漂っているように思える。祖国のために闘って死んでいった人たちの死が犬死になってしまうような現状、ナチスドイツの残酷さを描いているようでいて、彼は彼らの死の虚しさを描いているのではないかという気がしてくる。

 それでもこの作品に希望があるのはそこにかすかに存在する青春のためだ。どんなに悲惨で絶望的な状況でも若者はどこかに希望を見出し、もがく。その結果がどうあれ、青春とは生きることだ。自身もまだ若かったアンジェイ・ワイダがこの作品でやりたかったのは恐怖に圧倒される中でも希望を失うなと自分に言い聞かせることだったのではないか。そうでなければ暗黒の中では気が狂ってしまうのだ。

 重苦しく、見ていて楽しい作品ではないが、見なければならない作品でもある。

アイ・アム・レジェンド

I Am Legend
2007年,アメリカ,100分
監督:フランシス・ローレンス
原作:リチャード・マシスン
脚本:マーク・プロセヴィッチ、アキヴァ・ゴールズマン
撮影:アンドリュー・レスニー
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ウィル・スミス、アリシー・ブラガ、ダッシュ・ミホク、チャーリー・ターハン

 2012年ニューヨーク、癌の特効薬として開発された薬でニューヨークの住人のほとんどが死滅。一人残ったロバート・ネヴィルはそのウィルスに対する特効薬を開発しようとする研究者だった。彼は相棒の犬のサムとともに食料を求めて街をさまよう…
 リチャード・マシスンのSFの古典「地球最後の男」の3度目の映画化。

 原作は「地球最後の男」、生き物をゾンビ化させるウィルスによってニューヨークの住人が一人を残して全員死滅、感染者たちは陽の光のもとでは活動できず、夜のみ活動する。そんな中、唯一を免疫を持ち、生き残った研究者のロバート・ネヴィルが感染者たちを治療する特効薬の研究に望みをつなぐ。

 そんな内容だがら、想像されるのは圧倒的なパニック映画。逃げて逃げて逃げまくり、数少ない生存者と出会い、戦いを挑むという。

 しかし、この映画は非常に穏やかに展開する。無人で廃墟と化したニューヨークをウィル・スミスがひとり犬と闊歩するのみ。研究室でマウスを実験台に実験をし、DVDショップでマネキンに話しかける。

 後半に入ると展開は一変し、いわゆるゾンビ映画/パニック映画の様相を呈するのだが、この後半にあまり新しさはない。ゾンビと化した感染者はかなり怖いので、それで迫力はあるが特段すごいというわけでもない。ウィル・スミスはいい役者になったと感じさせるが、この結末はちょっと臭すぎるというかあまりにあまりという感じで脚本で損をしているんじゃないかという気がする。

 そんな後半だからむしろ面白いのはゾンビ映画/パニック映画にしては長すぎて穏やか過ぎる前半だ。ここでの彼と犬のコンビはかなり見せてくれる。同じ原作で3度目の映画化というのがこのちょっと変わった構成にさせたのか、この構成は成功だと思うが、それでもやはりそれほど面白い作品にはならなかった。

世代

Pokolenie
1954年,ポーランド,88分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:ボフダン・チェシコ
脚本:ボフダン・チェシコ
撮影:イエイジー・リップマン
音楽:アンジェイ・マルコフスキ
出演:タデウシュ・ウォムニッキ、ウルスラ・モジンスカ、ズビグニエフ・チブルスキー、ロマン・ポランスキー

 ナチスドイツ占領下のポーランド、ドイツ軍の石炭を盗んで憂さを晴らしていたスターシュは仲間が殺されたのを機に工場で働くようになる。そしてそこで労働者の団結について知り、レジスタンス活動に関わるようになってゆく…
 アンジェイ・ワイダの長編デビュー作で『地下水道』『灰とダイヤモンド』とつづく“抵抗三部作”の第1作。情熱にあふれた意欲作。

 この作品は何も知らなかった青年スターシュが共産主義思想に触れて感化され、レジスタンス運動へ参加してゆく過程が描かれている。この作品が作られたのは1954年、戦争が終わって約10年、ソ連の強い影響下にある社会主義政権による検閲が映画に対しても行われていた。この作品はもちろん検閲にはまったく引っかからない。むしろマルクス主義の精神を賛美する作品として“文部省推薦”になってもいいくらいのものだ(そんな制度が当時のポーランドにあったかどうかは知らないが)。

 しかし、そんな体制迎合の作品であっても(実はそうではない部分もあるのだが、それは後述する)、アンジェイ・ワイダの才能はあふれ、これがデビュー作とは驚きだ。

 一人の青年の成長をレジスタンスとナチスドイツの対立を軸に語り、そこにもう一つのなぞの勢力を絡めるプロットのうまさ、スターシュを中心に思想と友情と少々の恋愛を描いてゆく物語のふくらみ、それらのストーリーテリングのうまさがまずひかる。

 そしてワイダを特徴付けるのはやはり映像だ。アンジェイ・ワイダの特徴はモンタージュ(映像の組み合わせ)によって語るという映画の古典的な文法の使い方のうまさなのかもしれない。クロースアップ、ロングとさまざまなサイズを使い分け、カットの切り替えによって物語を展開していく。

 たとえば、スターシュが材木運びの際にドイツ軍につかまってしまう場面、ほとんどセリフはないが、画面の動きやスターシュの表情によってそのエピソードの意味、スターシュとドイツ兵たちの感情は手にとるように伝わってくる。この手法はサイレント映画によって洗練されたモンタージュの技法を想起させる。ワイダ自身はサイレント映画を撮ったことはないが、サイレント映画を観ながら育った世代だろう。それが彼の映画美学を育てたのではないかとこのデビュー作から推察できる。

 さて、そんなワイダがデビューしたこの作品は社会主義体制のお気に召す必要があった。しかし彼自身は決してマルクス主義の信奉者ではなかった。彼はこの作品の中でナチスドイツを批判し、資本主義を批判している。ナチスドイツへの批判はもちろんのこと、資本主義への批判もある程度は本心だろう。しかしだからと言って彼が共産主義者だとはいえない。

 この作品が語りかけるのは体制への反抗である。体制というものは人々のことを考えてはくれない。ここで名指しされ批判されているのはナチスドイツだが、その背後に現在の社会主義体制に対する不満があることも今見れば明らかだ。

 そしてこの“世代”というタイトルも秀逸だと思う。その意味は最後の最後に明らかになり、観客はスターシュと同じ哀しみともあきらめとも、あるいは逆に希望とも取れる感情に襲われる。戦争の時代には一つの“世代”というのは10年20年単位ではなく、数年単位になってしまっている。その厳しい現実の中で若者はあっという間に年をとってしまう。それはなんとも悲しいことだ。