灰とダイヤモンド

Popiol i Diament
1957年,ポーランド,102分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:イエジー・アンジェウスキー
脚本:アンジェイ・ワイダ、イエジー・アンジェウスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:フィリッパ・ビエンクスキー
出演:ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ、バクラフ・ザストルジンスキー

 1945年、ポーランド。ふたりの男マチェックとアンジェイが共産党の書記シチューカの暗殺を試みるが人違いで失敗。その日、戦争が終結し、祝賀ムードが漂う中、マチェックは偶然にシチューカを発見し、暗殺を実現しようとするが…
 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダがその名を世界に知らしめた名作。『世代』『地下水道』につづく“抵抗三部作”の第3作。

 この映画から真っ先に感じるのは「混沌」である。物語は第二次世界大戦が終わった日、ソ連の影響下で共産主義化しつつあるポーランドとそれを阻止しようとする勢力が対立する。この映画が作られた当時、ポーランドは完全に共産主義政権下にあったのでその抵抗勢力は“ゲリラ”として描かれている。しかし、“ゲリラ”である彼らの出自はワルシャワ蜂起にあることが見て取れる。

 ワルシャワ蜂起は1944年、ポーランド国内軍がドイツ占領軍に対して蜂起した事件である。この蜂起にはソ連軍による働きかけもあったのだが、ソ連軍はドイツ軍の抵抗にあってワルシャワに到達できず、ポーランド国内軍はドイツ軍に鎮圧され、国内軍の一部は地下水道を伝って南部の解放区に脱出した。

 最終的にソビエト軍はポーランドをナチス・ドイツから解放したわけだが、同時にこのワルシャワ蜂起の際の苦い記憶もある。映画の中でも描かれているようにブルジョワは共産主義体制が固まる前に西側に脱出してしまう。

 この映画が描いているのは、戦争が終わりドイツ軍はいなくなったがまだ次の支配者は確立されていない混沌がきわまった一日なのである。共産党の書記を暗殺しようという動きと、ゲリラを鎮圧しようという動き、共産党の書記はブルジョワの家とつながりがある。誰もが次の一歩をどこに踏み出すかを迷っているようなもやもやとした空気がそこらじゅうを覆っているのだ。

 そしてそのような政治状況とは別に個人の生活がある。戦時にはいやおうなく抗争や戦争に巻き込まれてしまったが、戦争が終わったのなら平凡な生活がしたいと望む人も多いだろう。しかし抗争は続き、平凡な生活は容易には手に入らない。

 『灰とダイヤモンド』というタイトルが意味するところは、戦火が生み出した大量の灰の中に埋もれる平凡な生活こそがダイヤモンドの輝きを放つものなのだということなのではないか。この言葉はポーランドの詩人ノルヴィトの詩の中の言葉ということだが、作中で語られた詩からは今ひとつこの言葉の意味をつかめなかった(単に私の理解力不足かもしれないが)ので、そんな意味にとって見ることにした。

 そのダイヤモンドをつかむため混沌という灰の中を這い回らなければならない人々、そんな人々にとってこの混沌の意味するところは何なのか。そこにワイダはある種の虚しさを見出してしまっているのではないか、そんな気がしてならなかった。

 アンジェイ・ワイダの演出はその混沌を非常にうまく表現する。逆さ吊りのキリスト像、突然現れる馬、楽隊の調子はずれの音楽、そして最後のゴミ捨て場、それらは整然と物語を進行させる映画の構築の仕方とは異なる混沌の表現に違いない。そして混沌の中で局面局面に生じる緊張感がこの映画を稀有なものにしているということができるだろう。

 このように混沌とした作品になった理由には共産主義体制化での検閲を通過しつつメッセージを伝えるために象徴的な表現を使わざるを得なかったことにも起因しているだろう。しかし、それがポーランドにとって決定的な終戦の日を描くのに最も適した方法でもあり、映画が作られた当時の状況をも表現しうる手段であったともいえるだろう。

 アンジェイ・ワイダが体現する世界をもっと掘り下げてみたいと思わせてくれる作品だ。

カランジル

Carandiru
2003年,ブラジル,145分
監督:ヘクトール・バベンコ
原作:ドラウジオ・バレーリャ
脚本:ヘクトール・バベンコ、フェルナンド・ボナッシ、ビクトル・ナバス
撮影:ウォルター・カルバーリョ
音楽:アンドレ・アブジャムラ
出演:ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス、ミウトン・ゴンサウヴェス、アイルトン・グラーサ、ロドリゴ・サントロ

 ブラジル最大の刑務所の一つであるカランジル刑務所、80年代にそこに医師として派遣された“先生”は劣悪な環境におかれた囚人たちとの間に絆を結び、信用されるようになっていた。しかし、そこはやはり囚人たちの世界、思いもかけないことが次々とおこる。
 実話をもとにした原作を『蜘蛛女のキス』のヘクトール・バベンコが映画化。信じがたい現実の迫力がある。

 定員以上に詰め込まれたカランジル刑務所に新たに派遣された医師、彼は人にあふれた刑務所の劣悪な環境を目にする。観客は同時にその刑務所の囚人たちに許された自由に驚く。そもそも囚人たちを仕切るのも囚人で、彼らは房の中で煮炊きをし、金属を加工した刃物までもっている。タバコはもちろん、マリファナ、クラックなどさまざまなドラッグが蔓延している。

 医師はそのドラッグや性交によって刑務所内に広がっているエイズの予防を主な仕事としているがもちろんさまざまな怪我や病を抱える囚人もやってくる。そして彼らが語る刑務所に入れられるまでの人生が小さなエピソードとして一つ一つ語られる。ふたりの女を愛しどちらとも別れられない男、姉に対する暴行の復讐で人を殺してしまった青年など。

 ここで驚くのはその話も含めて驚くべきことがすべて当たり前のことのように受け取られてしまっていることだ。この刑務所で起こっていることや彼らが語ることは私たち日本人の想像を越えてしまう。この医師は囚人の一人がクラックをやりながら別の囚人の傷を縫合しているのを見ても驚かず、縫合が正確なのを見ると何もいわない。

 場所は刑務所で、環境は劣悪ではあるけれど、そこには自由があり、刑務所の厳しさよりは楽園のようなのどかさが感じられるのだ。

 この作品の監督ヘクトール・バベンコといえばウィリアム・ハートが主演した『蜘蛛女のキス』で日本でも知られている。この作品はアルゼンチンの作家マヌエル・プイグの原作で、ラテンアメリカ文学の特徴であるマジック・レアリズムの要素を感じさせる作品だ。そして今回の『カランジル』に登場する“レディ”は『蜘蛛女のキス』でウィリアム・ハートが演じたモリーナを髣髴とさせる。

 そしてそれはこの『カランジル』にもどこかマジック・レアリズム的雰囲気を漂わせるのに一役買っている。この作品が描いているのは紛れもない現実だ。劣悪な環境の刑務所、そして物語の終盤に起きる暴動、これらは厳然たる現実である。しかし刑務所内の彼らの生活や彼らが語る暴動の推移はどこか現実離れした雰囲気も持つ。

 マジック・レアリズムとは現実ではありえないことを現実のように感じさせるものだが、この作品から感じられるのはラテンアメリカの(ここではブラジルの)現実というのは私たちにとってはまるで魔術的なもののように見えるということだ。果たして本当にこんなことが起こりうるのか。まったく信じがたいけれどこれは本当に実際に起こったことなのだ。

アフター・デイズ

Aftermath
2008年,ドイツ,87分
監督:クリストファー・ロウリー
脚本:スティーヴ・ミルトン
撮影:フランク・ヴィラカ
音楽:クリストファー・デトリック
出演:マイク・マッカーリー(声)

 今から1分後に全世界の人類が消滅したとしたら… 人類のいなくなった世界では数時間後に電力が止まり、動物が自由を得る。しかし同時に汚染物質や原子力発電所などは危機を招きうる…
 緻密な理論とCG技術によって人類消滅後の世界をシュミレートしたドキュメンタリーというかなんというか。

 「今突然人類が消滅したら」というまったくもってありえない前提ではじまるこのドキュメンタリーはもやはドキュメンタリーではないわけだがでもまあ劇映画ではないわけで、一応ドキュメンタリーの範疇に入れておく。

 この映画のよさは前提が完全にありえないために、どのような結果になってもそれはあくまで想像上のことでしかないということが明らかになっている点だ。この作品は決して人類に警句を発しているわけではない。環境をテーマにしたドキュメンタリーというとどうしても見ている人を脅かすような警鐘になっている場合が多いが、これはそうではないということだ。

 見ている人はただ淡々と変わり行く世界を眺める。発電所が止まり、電力が止まることで汚染物質が流れ出したり、最終的には原子力発電所が臨界を起こしたりする。しかし人間のいない地球の時間は止まらない。人間の作り上げた多くの構造物は時間とともに劣化し、崩壊する。動物や植物は生き残り、環境は変化し、気候も変わる。

 ただそれだけだ。退屈といえば退屈だが、この作品からはいろいろなことが考えられる。今人間が地球に対して行っていることの意味、もし“人類が消滅しなかった”場合にどうなるかという予測、人類が今の生活を維持するために必要としているさまざまなこと。そんなことが頭をよぎり、いろいろと考える。

 この作品のシュミレーションはおそらく正確ではないだろうし、もしかしたら実際にはまったく違うことが起きるのかもしれない。シュミレーションの対象となっている地域が北米とヨーロッパの一部に限られているのも納得がいかない。しかし、そもそもが絵空事なのだから、そんな欠点にいちいち目くじらを立てる必要はない。足りないものは自分の頭で補って自分なりにこの素材を消化して、自分のものにすればいいのだ。

 そして、CGの質もかなりのものだ。明らかにアニメーションにしか見えないところもあるが、かなりリアルなところもあって、人間のいない世界を創造するのに十分なリアリティを備えている。絵空事ではあるけれど、ありえないことではない。そんな感覚を与えてくれる。

 この作品が与えてくれる人類が唐突にいなくなった地球のビジョンが私に語りかけてきたのは、まだ取り返しはつくということだ。人類が突然消滅するという大変革がおきなくとも、私たちは自分達人類の存在を薄めて地球の回復力を助けることができる。今の地球を病気の人だと考えるなら、人類の消滅というのはいわば決定的な特効薬だ。副作用もあるけれど病をもとから絶つことができる。しかし人類としてはそんな特効薬を使われてしまっては困るわけで、それならば地球に寄生する生き物のとして、宿主がなるべく長生きでき、かつ自分達が快適にいられるようにできる限りのことをするべきだ。そんなことを私は思ったが、果たして皆さんはどうでしょうか?

スペース カウボーイ

Space Cowboys
2000年,アメリカ,130分
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ケン・カウフマン、ハワード・クラウスナー
撮影:ジャック・N・グリーン
音楽:レニー・ニーハウス
出演:クリント・イーストウッド、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナー

 1950年代に宇宙飛行士を目指したフランク・コービンらはアメリカ発の宇宙飛行士がチンパンジーに決まり、その夢を絶たれる。しかし40年後、フランクの設計した装置を積んだ人工衛星が軌道上で故障、協力を求めてきたNASAに対し、フランクは自分達が行って修理すると告げる…
 クリント・イーストウッド監督・主演のスペース・ロマン。爺さん達が大活躍。

 映画の中でも言っている通り、このときクリント・イーストウッドは69歳、文句のつけようのない爺さんだ。そのイーストウッドとチームを組む3人の中ではトミー・リー・ジョーンズだけが大分若く(46年生まれ)、彼は爺さんと呼ぶには忍びないが、他のふたりはイーストウッドとほぼ同じ年代である。

 そんな爺さん達が主役のこの映画は、いわば爺さんたちの夢をすべてかなえるような映画だ。第一線を退いた爺さん達が現場に復帰し、若者達にバカにされながらもその若者達を見返す活躍をし、若い娘と恋愛などもし、仲間と団結して一つのことを成し遂げる喜びを思い出す。そんな幸せな物語だ。

 そこには年をとったがゆえの問題もあり、過去の因縁もあり、若者とのギャップもある。しかしそれを乗り越えてゆくエネルギーを彼らはもっている。印象的なのは宇宙飛行士になれなかった彼らがついに宇宙にいけるかもしれないとなった今までの時間を「40年も前」と言っていたのを、最後には(意識的に)「たった40年」と言いなおすところだ。彼らは40年という時間を乗り越え、さらに成長したのだ。

 だからこれはいわば爺さんのためのおとぎ話であり、したがって物語はすべて予定調和に終わる。初めてみたはずなのになんとなく既視感があるのはそのすべてが予想通りに進む予定調和がためなのだろう。

 でも別にそれがつまらないと言っているわけではない。むしろ安心して楽しめるエンターテインメントだ。ベテラン俳優というのはどうしても脇役になりがちだけれど、こんな風にしてベテランが主役になるというのはいい。若い頃の切れはなくてもやはり経験がものを言い、いい味を出す。ドナルド・サザーランドなんてたいして何もしてないのだけれど、存在感がある。

 これは「爺さんの、爺さんによる、爺さんのための映画」だが、そのそこに流れるロマンは少年から爺さんまでみなが共通に持つものではないだろうか。だから予定調和のどこかうそ臭い話でも反発を覚えることなく楽しめてしまう。

 クリント・イーストウッドは偉大な映画監督だとは思わないが、観客を楽しませる術は知っている。それがこの作品にも表れていることは間違いない。

おいしいコーヒーの真実

アフリカ最大のコーヒーの産地エチオピア、そのエチオピアのオロミア州の農協連合会の代表タデッサ・メスケラはコーヒー価格の下落を嘆く。彼は貧困にあえぐコーヒー農家たちが正当な収入を得ることができるためにさまざまな対策を練り、時には海外に直接売込みにも行く。しかし、そこには巨大な多国籍企業の大きな壁が…

イギリスのドキュメンタリー作家フランシス兄弟の長編デビュー作。サンダンス映画祭で賞賛された硬派なドキュメンタリー。

この作品のチラシやポスターには緑色のロゴのカップが描かれ、330円のトールサイズのコーヒーのうち、コーヒー農家に行くのは3円から9円に過ぎないと書かれている。

が、映画を見るとこの広告の割合もまだましだということがわかる。実際にエチオピアの農家に支払われる額は当時で1キロ当たり約1ブル(=0.12ドル)、1キロの生豆から約80杯のコーヒーが取れるとして、1杯あたりではわずか0.15セントである。

いくら物価が安いとは言っても、さすがにそれではどうにもならず、コーヒー農家たちは貧困にあえぐ。その貧困が深刻化したのは80年代の国際コーヒー協定の破綻から。コーヒー価格の下落が直接生産者の収入源につながったというわけだ。

この作品はその生産者の窮状とそれを何とか改善しようと頑張る農業連合会代表のタデッサの活動を中心に描く。タデッサはコーヒーが消費者に届くまでの中間業者の多さを訴え、生産者が直接焙煎業者に売る方法を模索する。中間業者を省くことで正当な報酬を生産者に支払うことができる、つまりフェア・トレードである。

大学でのインテリであるタデッサは英語を駆使してイギリスやアメリカに飛び、直接アピールする。

この作品は映画としてははっきり言ってあまり面白くない。知らなかったことを知ることができるという意味では意義深いが、単純に事実を並べ、貿易の不公正や貧困をくり返し訴えるだけなのだ。貧困にあえぐアフリカの人々と、コーヒーを娯楽として楽しむ欧米の人々を対比させようという意図は見えるのだが、そのつながりが希薄で今ひとつ効果的ではない。出来れば、バリスタ世界大会の優勝者に「このコーヒーの価格のうち何パーセントが生産者に言ってるか知っているのか?」などという質問をぶつけて欲しかったろころだ。その行儀のよさが作品のインパクトを弱める結果になってしまっているのは残念だ。

ただ、このタデッサおじさんの人柄や姿勢は見る人をひきつける。彼は本当にエチオピアという国の将来を憂い、農民の一員として彼らの生活を改善することを願っている。外国からの援助に頼らなくてもすみ、子供たちが教育を受けられるようになること、ただそれだけが彼らの望みなのだ。農業保護政策で守られたアメリカの農家が作った小麦が援助物資としてアフリカにやってくる。コーヒーを正当な価格で買ってくれさえすれば、それは援助ではなく貿易品としてやってくるはずなのに。

この作品を見たらもうフェアトレードのコーヒーしか買えないという気がしてきてしまう。巨大な多国籍企業が流通させているコーヒーを買うたびに私たちはアフリカの農民達を苦しめることになるのだ。もちろんフェアトレードのコーヒーのほうが高い、しかしその価格差は1.5倍程度だ。その価格差は多くの場合フェアトレードのコーヒーのほうが質が高いことを考えるとそれほど大きなものではない。それで生産者には2倍3倍の収入になるのだ。

何気なく買い物をしていると目に付かないものだが、気をつけてみればフェアトレードのコーヒーというのは結構売っている。この作品で槍玉にあがっているスターバックスでさえ(わずか1種類だが)フェアトレードのコーヒーを売っている。イオンや西友でも売っている。通販でも売っている。

私たちは大企業を通して生産者からコーヒー豆を安く買い叩いている。この作品からコーヒー豆の流通の構造を知ることで、世界の経済の仕組みが少し見える。そして、それは多国籍企業体が支配する経済体制への抵抗の第一歩であるのだと思う。

DATA
2008/8/7
Black Gold
2006年,イギリス=アメリカ,78分
監督:マーク・フランシス、ニック・フランシス
撮影:ベン・コール、ニック・フランシス
音楽:クンジャ・シャタートン、マット・コールドリック、アンドレアス・カプサリス