僕らのミライへ逆回転

いい意味でも悪い意味でも“くだらない”。とにかくくだらない。

Be Kind Rewind
2008年,アメリカ,101分
監督:ミシェル・ゴンドリー
脚本:ミシェル・ゴンドリー
撮影:エレン・クラス
音楽:ジャン=ミシェル・ベルナール
出演:ジャック・ブラック、モス・デフ、ダニー・グローヴァー、ミア・ファロー、メロニー・ディアス、シガーニー・ウィーヴァー

 ニュージャージーの小さな町のレンタルビデオ店の店員マイクは店を開ける店長に店を任されるが、幼馴染で変わり者のジェリーに誘われて何故か発電所を破壊に。しかしそこでジェリーは電流を浴び、磁気を帯びてしまう。そのジェリーによって店のビデオが全部消えてしまう。常連のファレヴィチに『ゴーストバスターズ』をリクエストされた彼らは、自分で作ってしまおうと考えるが…
 ミシェル・ゴンドリー監督、ジャック・ブラック主演のコメディ。チープなリメイクを作るというのは面白いが…

 ジャック・ブラックが『ゴーストバスターズ』や『ロボコップ』のリメイク版を勝手に作るという話、その滅茶苦茶な内容が流れる予告で面白そうだと思った。たしかに、そのリメイクを作る場面は面白い。リメイク作品が面白いというよりは、その作り方の適当さがあまりに下らなくて面白い。

 最初は『ゴーストバスターズ』、次に『ラッシュアワー2』、そのあとは基本的にダイジェストというか一瞬しか撮影シーンが映らないのだが、『2001年宇宙の旅』やら『シェルブールの雨傘』やらいろいろな作品が登場して笑える。

 しかし、はっきり言って面白かったのはその部分だけ、序盤はどうしてビデオが消えることになったのかという説明がまどろっこしいし、終盤は“いい話”になってしまってなんとも興ざめだ。

 この作品の肝は彼らが作った“リメイク”が著作権侵害などなどで訴えられるというところだと思うのだが、その部分もしまりがない。「海賊版許すまじ」というハリウッドの言い草はわかるし、こんな滅茶苦茶なものを野放しにする法はないとは思うが、素人が作るこの程度の質のものにまで目くじらを立てるというのもどうなのか。

 こういう「おふざけ」は鷹揚に許してしまうくらいの度量がメジャーになければ、自由な発想などというものは生まれないし、結局のところ目先の利益にとらわれて将来の芽を摘むということにもなりかねない。文化は模倣から発展するということはこの作品でも取り上げられている『ライオン・キング』が手塚治虫の「ジャングル大帝」に酷似していること(ディズニーは否定しているが)からも明らかだ。またこの「ジャングル大帝」はディズニーファンである手塚治虫が『バンビ』に影響を受けて書いたとも言われている。

 この作品はその著作権が問題になるあたりでお茶を濁してしまっているのも全体がすっきりしない理由になっているだろう。ジャック・ブラックも人のいいキャラが鳴りを潜めて、ただの異常者のようになってしまっているのが残念。

 この作品で一番よかった役者はアルマ役のメロニー・ディアスだろうか。いわゆる“ニューヨリカン”の若手女優、個性的な顔立ちと印象的なまなざしはインディーズを中心にさまざまな作品に需要がありそうだ。実際、2006年には“A Guide to Recognizing Your Saints”という作品でインディペンデント・スピリット・アワードの助演女優賞にノミネートされている。

 映画としてはあまり面白くはないが、見所はいろいろといったところか。

チャックとラリー おかしな偽装結婚!?

ゲイもののコメディは当たりが多い。この作品も普通に面白い。

I Now Pronounce You Chuck & Larry
2007年,アメリカ,115分
監督:デニス・デューガン
脚本:バリー・ファナロ、アレクサンダー・ペイン、ジム・テイラー
撮影:ディーン・セムラー
音楽:ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
出演:アダム・サンドラー、ケヴィン・ジェームズ、ジェシカ・ビール、スティーヴ・ブシェミ、ダン・エイクロイド

 NYの消防署に勤めるチャックとラリーは親友同士、妻を亡くして子供ふたりを抱えるラリーは年金の受取人を子供に変更するのを忘れていて、手続きに時間がかかるといわれて途方にくれる。そんな折、火事現場でラリーがチャックをすくい、何でもいうことを聞くというチャックに対し、ラリーは年金受け取りのため偽装同性結婚をしてくれと言い出す…
 アダム・サンドラー主演のコメディ。スティーヴ・ブシェミにダン・エイクロイドという豪華キャストでなかなか。

 親友を助けるためにパートナーシップ法を利用して偽装同性婚をしたラリーだったが、偽装ではないかと疑う調査員が派遣されたことで、本当に芸らしく振舞わなければならなくなり、さらに相談した美人弁護士に芸の権利のためのパーティーに参加してくれといわれ、そこで新聞記事になってしまうという展開。

 同時にラリーはその美人弁護士アレックスに惚れてしまい、アレックスのほうはラリーがゲイだということで心を許す。チャックのほうは死から3年経っても妻のことが忘れられず、息子がミュージカル好きなのが悩み。

 なんかどっかで聞いたような話ではあるが、コメディとしてはなかなかよく練られたプロット。

 チャックが入院したときに子供たちが母親が病院で死んだことを思い出して不安に襲われるエピソードを挿入して、チャックの焦燥感をあおるというもって行き方などはなかなか気が利いている。さらにアメリカ人のホモホビアの感情をうまく利用し、消防士というマッチョでもちろんゲイに偏見を持っているチャックに「ゲイも同じ人間なんだ」といわせるという展開はゲイものの王道とも言える展開だ。

 コメディとドラマをうまく融合させたこのプロットのよさも脚本家の列を見れば納得。『アバウト・シュミット』『サイドウェイ』のアレクサンダー・ペインとジム・テイラーのコンビが名を連ねている。

 笑いの部分ではカナダの結婚式場のアジア系の神父?のところが面白かった。まさにサタデー・ナイト・ライブ的な笑いでアダム・サンドラーの十八番というところか。ゲイがらみの下ネタのほうはあまり笑えなかったが、チャックとラリーがゲイっぽく見える買い物をしているシーンはなかなか面白かった。

 アダム・サンドラーは日本での受けはあまりよくなく、この作品もあっさりとDVDスルーになってしまった。まあ確かに劇場で見るほどではないという気はするが、私は嫌いじゃない。最近ではジャド・アパトー・ファミリーと組んだ『エージェント・ゾーハン』もDVDスルー。監督はこの作品と同じデニス・デューガン、これもなかなか面白そうじゃないか。一方、同年の作品でもディズニー製作の『ベッドタイム・ストーリー』は劇場公開(2009年3月)。私なんかはこの作品はどう見ても面白そうには見えないのだが… 面白そうな映画と日本で受け入れられる映画は違うんだね。

巨人征服

ハロルド・ロイドの真骨頂。アクロバットに優しい笑いが心地よい。

Why Worry?
1923年,アメリカ,77分
監督:フレッド・ニューメイヤー、サム・テイラー
脚本:サム・テイラー
撮影:ウォルター・ルンディン
出演:ハロルド・ロイド、ジョビナ・ラルストン、ジョン・アーセン、レオ・ホワイト

 大金持ちのハロルドは病気の療養のため看護師と召使とともに南米のパラディソ島に向かう。折りしもそのパラディソ島では金儲けをたくらむジム・ブレイクにより革命が行われようとしていた。そこにやってきてしまったハロルドだったが、そんなことは気にもかけない…
 喜劇王ハロルド・ロイドの全盛期である20年代前半の1作。飄々とした雰囲気がいつもどおりにいい。

 チャップリンとキートンとそしてロイド、チャップリンやキートンについては言われないのに、ロイドについて語るときは常に三大喜劇王という冠がついて回る。それは彼が3人の中で一番マイナーな存在だからだろう(特に日本では)。しかし、三大喜劇王といわれるだけ会って、彼もほかの二人に負けない面白さがある。

 特に彼が得意とするのはその顔からは意外に思える体を張った笑い。しかも筋力を生かしたアクロバティックな動きである。アクロバティックというとまずキートンを思い浮かべるが、バスター・キートンのアクロバットがスピードであるのに対し、ハロルド・ロイドのアクロバットはパワーである。

 この作品でも、地面からバルコニーに懸垂で飛び乗ったり、大男に上ったりとさまざまなアクロバットを見せる。もちろん今のアクション映画からみればおとなしいものだが、それでも彼の体が発するパワーは感じれるし、そのアクロバットを笑いにつなげるのもすごくうまい。

 サイレント映画の時代、言葉でギャグがいえない以上、笑いは動きで生まなければならなかった。キートンもそうだが常人離れした動きが笑いを生む。それは現在まで脈々と続く笑いの基本だといえるだろう。それはおそらくサーカスから派生したものだ。

 そう考えると、この時代を席巻した三大喜劇王の誰もがサーカス的な要素を持っているのだということがわかる。それは彼らの活躍したのが映画がまだ見世物であった時代だったということだ。そして活躍しながら彼らは映画に物語性やメッセージ性を取り入れ、映画が見世物からひとつの文化へと成長する一翼を担ったということなのだろう。

 チャップリンは特にその傾向が強く、現代に至るまで評価が高いが、バスター・キートンにもこのハロルド・ロイドにもその傾向は見られる。しかも彼のギャグは今見ても笑える。さすがは喜劇王だと納得。

サミュエル・L・ジャクソン in ブラック・ヴァンパイア

安っぽくはあるが、スリルもホラーも実現したこれぞB級映画!

Def by Temptation
1990年,アメリカ,95分
監督:ジェームズ・ボンド・三世
脚本:ジェームズ・ボンド・三世
撮影:アーネスト・R・ディッカーソン
音楽:ポール・ローレンス
出演:ジェームズ・ボンド・三世、サミュエル・L・ジャクソン、カディーム・ハーディソン、ビル・ナン

 ニューヨークのとあるバーの常連の女は夜な夜な男を引っ掛けてはその男を殺害していた。牧師志望のジョエルは友人のKを頼ってニューヨークにやってくる。その夜、バーでその女と出会い、意気投合する。その女は実はジョエルをずっと狙っていた…
 ジェームズ・ボンド・三世監督・脚本・主演によるB級サスペンス・ホラー。安っぽいが見ごたえはなかなか。

 この“女”は生き血を吸ういわゆる“ヴァンパイア”ではないわけで、この邦題はどうかと思うが、まあそれはおいておいて、この“女”が男をだまくらかして殺してしまったり、破滅させてしまったりという序盤の展開はなかなか面白く、そして恐ろしい。

 そして、主人公のジョエルがニューヨークにやってくるタイミングでジョエルの友人のKが女と知り合うという、わかりやすいけれどその後の展開に期待を抱かせるプロットもうまいし、その“女”が男を引っ掛けるバーにいつも居合わせるいい加減な男の存在も思わせぶりでいい。つまり、決してよく出来たプロットではないのだけれど、それなりのスリルとそれなりの魅力があるということだ。

 そして終盤はというと、凝った特殊メイクや特撮、非現実的な展開、宗教的モチーフと盛りだくさんになる。どれもこれも安っぽくはあるのだけれど、この作品の世界観にはあっているし、90年という製作年を考えると、それなりにいい出来ではないかと思う。

 総じて見ると、これぞまさにB級映画!という印象。いまやビッグ・ネームのサミュエル・L・ジャクソンが出てはいるが、まだブレイク前だし、予算はかけず、題材もバカバカしい。しかし宗教的なテーマを扱ったりして単なるバカ映画というわけではない。中盤、Kがジョエルにニューヨークについて語るところなどは少々哲学的ですらある。

 ジェームズ・ボンド・三世も子役出身でこの作品を最後に映画界を去った。その後何をしているのかとか、なぜ映画界を去ったのかはわからないが、これだけの作品を作れるのだからちょっと残念という気もする。子役は大成しないというのは通説だが、それはあくまでも俳優としての話で、監督や脚本という別の職掌ではその限りではないのかもしれない。まあ言っても仕方のないことだが…

 そして、ブラック・ムービーとしても十分に映画史の1ページに加えうる作品だ。ジェームズ・ボンド三世もサミュエル・L・ジャクソンも重要な脇役で出演しているビル・ナンもスパイク・リー監督の『スクール・デイズ』の出演者であり、この映画には完全に黒人しか出演していない。人種に対する何らかの主張がなされているわけではないが、いわゆる“普通の”映画との違いがこの映画がまぎれもなく黒人映画であることを主張しているように思える。

 B級スリラーファンか黒人映画ファンなら観ても損はない作品だろう。

雲南の花嫁

少数民族はあくまで飾り、チャン・チンチューのアイドル映画。

花腰新娘
2005年,中国,91分
監督:チアン・チアルイ
脚本:チアン・チアルイ
撮影:ワン・ミン
音楽:トン・ウェイ
出演:チャン・チンチュー、イン・シャオティエン、ツイ・チェンミン

 雲南の少数民族イー族のファンメイは幼馴染のアーロンとめでたく結婚することに、しかしイー族のしきたりで結婚から3年間は一緒に暮らすことができなかった。現代っ子のファンメイはアーロンが指導する娘龍舞隊に入って一緒にいられるように画策するのだが…
 チアン・チアルイによる“雲南三部作”第2弾。主演のチャン・チンチューはこのあとハリウッドに進出。

 中国にはたくさんの少数民族がいるわけだけれど、この作品はそんな少数民族の一つイー族を扱っている。イー族に独特の結婚後3年は夫婦が一緒に住むことができないというしきたり、そして夫婦が一緒になる“帰家”前の娘だけが参加できる娘龍舞隊をテーマとしている。

 愛し合って夫婦になったはずなのにすぐには一緒になれないという理不尽、そしてそれにとどまらないしきたりの不自由さ、それを現代的な娘ファンメイがどう乗り切っていくのか、というのが物語の筋になりそうな話である。が、なかなかそうはならない。実際に展開されるのはアーロンの筋違いの嫉妬とよくわからない横恋慕。このプロットがなんとも古臭い。日本で言うなら50年代に量産されたメロドラマのような感じ、いまどき田舎の中学生でもそんな恋愛はしない。

 だからなんとも退屈だ。登場人物の誰にも感情移入することは出来ないし、せっかくのイー族の独特のしきたりという舞台装置もまったく生かされていない。そもそもそのしきたりがどのようなものなのか具体的に説明されることもない。

 ただイー族の民族衣装や歌、踊りは楽しめるしチャン・チンチューはかわいい。

 このチャン・チンチューは『ラッシュ・アワー3』でハリウッド進出を果たしたポスト・チャン・ツィイーと目される女優、素朴だけれど整った顔つきがとてもかわいい。この作品もそんなチャン・チンチューの魅力におんぶに抱っこという感じでとにかく彼女の正面からのアップを使い続ける。まあ50年代の日本映画だってそうやってスターの魅力で代わり映えしないプロットの映画を売り続けたのだから文句は言えないのだが、中国とて映画が大衆娯楽の王様という時代ではもはやないだろう。

 果たしてこの映画は一体何がしたかったのか。ただのアイドル映画だというのならそれでいいが、雲南という地域と少数民族について描こうとした映画だというのならあまりにひどい。チャン・チンチューも監督のチアン・チアルイも別に雲南出身というわけではないことを考えると、やはり中国というのは地方や少数民族が低く見られている国なんだという穿った見方もしたくなってしまう。結局のところこれは少数民族という演出によってアイドルを魅力的に見せようという局地的なオリエンタリズムに他ならないのかも知れないのだ。

 映画が退屈なためについついそんなことを考えてしまう悪循環な映画だった。

片腕マシンガール

危険!グロさ満点のスプラッターアクション、井口昇のワンステップ。

The Machine Girl
2007年,アメリカ=日本,96分
監督:井口昇
脚本:井口昇
撮影:長野泰隆
音楽:中川孝
出演:八代みなせ、亜紗美、島津健太郎、穂花、西原信裕、川村亮介

 弟をいじめの末殺された女子高生のアミはいじめグループのリーダーであるやくざの息子木村翔に復讐を果たすため、失った左腕にマシンガンを装着し、立ちはだかる敵を殺し続ける…
『恋する幼虫』の井口昇がアメリカで日本の映画作品の輸入を手がけてきた“メディアブラスターズ”の出資によって撮り上げたバイオレンス・アクション。残虐シーンが盛りだくさん。

 井口昇はスカトロもののAV出身で、AVも撮り続けつつ『恋する幼虫』なんて一般映画も撮ってきた。スカトロ出身なだけに人間の肉体に対する執着は凄まじく、人間の体のかたちが何らかの形で変貌を遂げるという現象を執拗に映像にしてきた。これまでもやたらと舌が長かったり、目ん玉を出し入れしてみたり、いろんなことをしてきた。

 今回はそれが女子高生の腕がマシンガンになるというかたちをとり、さらにさまざまな暴力と特殊効果によって腕や首や胴がもげたり、穴があいたり、真っ二つになったり、焼け爛れたりする。これらの残虐シーンははっきり言って気持ち悪い。スプラッター映画に目を向けられないという人は吐き気を催すであろうほどのひどさだ。

 しかし、それは逆にそのスプラッターを演出する特殊効果のリアルさを裏打ちするものでもあるし、洗練されたアクションシーンがその印象をさらに強める。こういう過剰にリアルな残虐なアクションというものにはカルト的な需要が常にある。それはカルト≒異形という構図の範疇に収まるもので、それが暴力/アクションとつながることでそのマーケットは広がる。そのジャンルではかなり完成度の高い作品ということができるだろう。

 暴力的なカルト映画というとどうもいい印象をもたれないが、たとえばクローネンバーグやジョン・カーペンターなんてのも、もともとはそんなマーケットから現れたということも出来るだろう。

 残虐性というのは肉体の欠落と常に表裏一体であり、肉体の欠落とは異形とつながる。そして異形は畏敬につながる。“健康な”社会は異形を社会の前面から排除し、見えないものにしてしまうが、それは私たち自身と表裏一体のものとして存在しつづける。異形を描くカルト映画というのは私たちが抱え続ける“闇”の部分をそのように描くからこそ魅力を持っているのだ。

 だからカルト映画の中には私たちが日常の中で忘れがちな“闇”の中の事実を突きつける名作が時々表れる。たとえばクローネンバーグの『スキャナーズ』なんかがそれだし、日本ではこの井口昇監督の『恋する幼虫』なんかがまさにそうだ。

 というわけでこの作品にも期待していたわけだが、このような過剰な暴力との結びつきは私にとっては残念な方向性に進んだといわざるを得ない。彼の異形に対するまなざしは以前の作品ではもっと優しく、誇張しながらもわれわれに何かを投げかけていた。しかしこの作品は異形を圧倒的な暴力と結びつけることで単なる肉体の崩壊に堕してしまっている。異形と暴力を結び付けるにしても、その異形に対するまなざしにもっと深みを持たせて欲しかった。

 悪役が徹底的に悪役なのはいい。しかし肉親が殺された憎しみによって人々が残虐性を容易に獲得してしまうというプロットは絶望的過ぎはしないだろうか? 肉の塊となってしまった肉親を見て人々が感じるのは漏れなく憎しみなのだろうか? その単純化がこの作品に決定的な欠点となっている。

 カルト映画がカルト映画として一般映画ファンにも受け容れられるためにはそれが一般映画にはない複雑さをもっているときだけなのではないか。表面的には単純な暴力を描いていても、その裏には哲学的あるいは冷笑的な意図が潜んでいる。そんな意図がこの作品には欠如していると思う。

 もちろんこれは井口監督のアメリカ進出の第一歩であり、本格的に“暴力”に取り組んだ最初の作品でもある。いつの日か“暴力”を彼なりに消化して本当に世界に通用する傑作を撮ってくれるだろうと私は期待している。

てんやわんや

四国独立という奇抜な話ながら意外に人情話なコメディ映画。

1950年,日本,96分
監督:渋谷実
原作:獅子文六
脚本:斎藤良輔
撮影:長岡博之
音楽:伊福部昭
出演:佐野周二、淡島千景、志村喬、藤原釜足、三井弘次、桂木洋子

 東京でサラリーマンをしていた犬丸順吉は東京がいやになり会社をやめる。しかし世話になった社長の言いつけで社長の郷里である四国は伊予に行くことになる。そこで知り合った町会議員の越智らから四国独立計画の話しを聞かされ、いつの間にか巻き込まれていってしまう…
 獅子文六の同名小説の映画化。宝塚の娘役トップスター淡島千景が松竹に入社し、映画デビューを飾った作品

 敗戦から5年後の日本、まだまだ民主主義なんてものは定着していない。そんな中、四国を独立させようと考える3人の男たち。そもそも四国を独立させようというのに仲間が3人しかいないってのがすごい話しだし、独立しようという理由もよくわからない。しかし、よくわからない時代にはよくわからない人がいるもので、まあそんなこともあるんだろうなぁと納得してしまったりもする。

 しかし、そのことと主人公の犬丸順吉とはあまり関係がない。この若者はただ東京から逃げ、選挙運動がいやだからといって仮病を使い、山奥の家で知り合った美貌の娘(桂木洋子)に熱を上げてしまう。東京には世話になった社長と知らぬ中ではないその秘書のこれまた美貌の娘(淡島千景)がいる。

 この淡島千景は本当にきれいだ。登場シーンからして会社の屋上で水着姿で日光浴をしているというのだから、その美貌と肉体美とがこの映画の売りになっていることは一目瞭然。宝塚の大スターが銀幕デビューするのだから、まあそのくらいのことはやってもいいだろう。淡島千景はこのあと順調にスターへの階段を上っていくだけあってただきれいなだけではなく、演技もそつなくこなす。松竹三羽烏の一人である佐野周二を無効に張って遜色のない存在感だ。

 さらに脇役も志村喬、藤原釜足、三井弘次と芸達者がそろいみんなうまい。

 にもかかわらずこの映画が今ひとつ面白くないのは脚本がよくないせいだろう。ただ時間が過ぎるだけではらはらやどきどきという要素がない。コメディ映画化と思いきや笑いもほとんどない。人情話的な感じは随所に感じられるが、いろいろな話が盛り込まれて注意が散漫になってしまうので今ひとつ盛り上がらない。

 原作は獅子文六の新聞小説。原作のほうはもう少し面白そうな感じがするのでなんとももったいない映画だと思ってしまう。

俺たちニュースキャスター

ジャド・アパトーのいつものバカコメディ。でも豪華ゲストが出演。

Anchorman: The Legend of Ron Burgundy
2004年,アメリカ,94分
監督:アダム・マッケイ
脚本:ウィル・フェレル、アダム・マッケイ
撮影:トーマス・アッカーソン
音楽:アレックス・ワーマン
出演:ウィル・フェレル、クリスティナ・アップルゲイト、ポール・ラッド、スティーヴ・カレル、デヴィッド・ケックナー、セス・ローゲン、ルーク・ウィルソン、ベン・スティラー、ジャック・ブラック、ヴィンス・ヴォーン、ティム・ロビンス

 1970年代のサンディエゴ、地元で圧倒的な人気を誇るニュースキャスターのロン・バーガンディは仲間達と楽しい日々を送っていた。そこにアンカーを目指すヴェロニカがレポーターとしてチームに入ってくる。ロンがヴェロニカにアタックしふたりは恋愛関係になるが…
 ジョン・アパトー製作のおばかコメディ。ジャック・ブラック、ティム・ロビンスといった豪華ゲストが見もの。

 “ウーマンリブ”運動が盛り上がりつつある70年代、まだまだ男社会のニュースチームに一人の女性が入ってくることで展開されるドタバタ。ジャド・アパトーが映画に本格的に進出した最初の作品ともいえベン・スティラー、ジャック・ブラックらコメディ界のスター達がゲスト出演している(多くはノン・クレジット)。その後、『40歳の童貞男』、『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』など下らないコメディを量産するジャド・アパトー・ファミリーの記念すべき第1作といえるかもしれない。

 内容のほうは、そんな記念碑的な作品にふさわしい下らなさ。テーマは70年代の男と女、女性の実際的なところと男のバカさ加減。常に男がバカでコドモだということを描き続けるジャド・アパトーらしい設定だ。人気を誇るニュースキャスターチームだが言葉もろくに知らず、酒と女にしか興味がない。それがバカバカしい笑いを生むというわけだ。いいのは小さなネタがいろいろとちりばめられているところ、2×2のルービックキューブなんかをわざわざ用意するあたりのこだわりが好きだ。

 そしてその男のバカさ加減が極まったところで豪華ゲスト出演の乱闘シーンとなる。ここもなかなか面白い。最後の最後にはIQ48のブリックがブッシュ政権のブレーンになるというブラックジョークまで披露される。

 大爆笑というわけではないが、くすくすニヤニヤしてしまうようなネタは十分、これくらいの下らなさ、これくらいの面白さなら、ウィル・フェレルの下品さも我慢できるかも。

 アダム・マッケイは何か社会批判というか社会問題を笑いにするのが好きなようだが、結局あまりたいしたことは言えないのだからやめたほうがいいと思う。この作品もどこかで男社会のバカさ加減を皮肉るという意図があったのだろうけれど、それにはまったく成功していない。変なこと考えずにあまり下品にならないバカバカしいコメディを撮っていればなかなかの監督だろうとおもう。

 ジャド・アパトー・ファミリーのコメディに支持者は少ないと思うが、うまくはまれば爆発的に面白い作品が出来るかもしれないという予感はする今まで見たところではセス・ローゲン主演の『スモーキング・ハイ』が一番面白かった。下手な鉄砲も数打ちゃあたるさ。

風花

メロドラマの名手木下恵介の実験的モダニズムメロドラマ

1959年,日本,78分
監督:木下恵介
脚本:木下恵介
撮影:楠田浩之
音楽:木下忠司
出演:岸恵子、久我美子、有馬稲子、川津祐介、笠智衆

 長野県の寒村の名家名倉家の使用人春子は戦時中に名倉家の次男英雄との心中を試みるがひとり生き残り、息子捨雄を生んだ。捨雄は使用人として扱われながらも跡取り娘のさくらに思いを寄せるが、そのさくらもついにお嫁に行くことになり…
 木下恵介が農村を舞台に展開するメロドラマ。時間軸を交錯させる語りが斬新だが、内容はきわめて古典的。

 “家”へのこだわり、体面を過剰なほどに気にする考え方、男女関係に対する頑なな制限、そんな古きよき(?)日本の考え方が如実に現れた農村の名家を舞台にしたメロドラマ。その中心にいるのは東山千栄子演じる“おばあちゃん”。8歳年下の男のところに嫁に来たことで後ろ指を差されながら、夫亡きあとも家名を守るためにひとり奮闘し、“心中”などという恥さらしな行状に及んだ春子と英雄を許すことはない。

 この東山千栄子の「やなババア」加減がものすごい。捨雄や長男の嫁であるたつ子が屈辱に耐えてこぶしを握るその姿が目に浮かぶようだ。しかし最も屈辱的に感じていいはずの春子はまったくと言っていいほど反発心を見せない。忍従しているという感じでもなく、むしろすべてをあきらめているという感じだ。それはこの作品の登場人物のほとんどが縛られている日本的な価値観によるものだろう。心中に失敗したことで春子は自分が死んだも同然だと感じ、何の意欲も希望も持たずに生きる。死んだ英雄とその家族に対する申し訳ない気持ちもそれを後押しする。だから彼女からはもはや感情が失われてしまっているのだ。

 この作品はそのような登場人部たちの感情をつぶさに描きながらクロースアップという手法はとらず、徹底的にロングショットで関係性をとらえる。そのどこか覚めた感じが私はいいと思ったが、メロドラマ的にはもっとそれぞれの人物に迫ってどろどろとした心のうちを吐露させたほうが盛り上がったようにも思える。

 あえて時間軸を交錯させ、まったく同じシーンを反復し、不自然にも思える展開に仕上げたことも含めてこの作品はどこか木下恵介の実験という印象が強い。木下恵介といえば『喜びも悲しみも幾歳月』のような“ベタ”なメロドラマを作るという印象が強いのだが、単に古典的な文法を踏襲してメロドラマを作り続けるだけではこれほどまでに名を残すことは出来なかったはずだ。今の目から見れば“ベタ”と見える作品の数々も実はその時代時代の手法を取り入れ、工夫して作り上げたものなのだということは間違いがない。そしてこの『風花』はそのような時代感覚を取り入れる作品の一つ、50年代末から60年代に日本映画界を席巻するモダニズムとメロドラマを融合させようという試みの一つであったのだろう。

 はっきり言ってその試みは成功してはおらず、ぎこちない作品になってしまった印象は否めないが、黄金期の日本映画を見通す上で一つのヒントを与えてくれる作品ではないかと思う。この時代の日本映画のファンならぜひ見ておきたい作品だ。

鉄の男

歴史的事実や当時の空気を伝えてはいるが映画としての面白さは…

Czlowoiek z Zelaza
1981年,ポーランド,152分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アレクサンドル・シチ、ボル・リルスキ
撮影:エドワルド・クウォシンスキ
音楽:アンジェイ・コジンスキー
出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、クリスティナ・ヤンダ、マリオン・オパニア、ボグスワフ・リンダ

 1980年、ポーランドのグダニスクの造船所でストが起きる。ワルシャワの放送局に勤めるビンケルはそのストの首謀者マチェクへの取材とストへの働きかけの任務を帯びてグダニスクへ赴く。その任務にしり込みするウィンケルはスト委員会によって禁酒令が発せられると知りさらに憂鬱を募らせる…
 アンジェイ・ワイダが“連帯”に対する支持を表明する作品として発表した社会派ドラマ。“連帯”のレフ・ワレサ自身も映画内に登場し、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。

 物語は1981年現在の状況をビンケルが取材する形で進んでいくが、その中で関係者の証言として1970年の弾圧や1980年の連帯の誕生時の話が映像として挿入される。それは“連帯”(1980年にグダニスク造船所のストをきっかけに全国的なポーランド民主化のための組織として誕生)の誕生によってひとつの完成を見たポーランド民主化運動の歴史そのものである。この作品はその歴史をグダニスクの造船所のストの指導者であるマチェクと70年のストで亡くなった彼の父親を通して描こうとしているわけだ。

 主眼がそのような社会的な事実を描くことに置かれているだけに映画としては退屈にならざるを得ない。常に落ち着かず、額に汗を浮かべてすぐに酒に頼ろうとするビンケルのキャラクターは秀逸で彼の存在がこの映画に予想不可能な緊張感を与えている。しかしそれでも彼はあくまでストを推し進める側ではなく、それを客観的に見つめ、あるいはむしろそれを阻止しようとする体制側にいるかもしれない人間だ。そのために彼は物語の主役とはなりえず、そのキャラクターは十全には生かされていないように思えてしまうのだ。

 アンジェイ・ワイダの作品の最大の魅力は人間と人間の関係の描き方にあるように思える。言葉に頼ることなく画面に2人3人という人間を収めて物語を構築していくだけでその関係性が浮き彫りになり、そこに深みのある物語が生まれる。それがワイダが作り上げる映画の面白みに他ならない。

 この作品はビンケルとマチェクと終盤にはその妻との関係が描かれてはいるが、それはこの作品が描こうとする民主化運動と“連帯”の大きさから比べると小さすぎる。ワイダの視線は社会という大きな塊を描こうとするにはナイーブ過ぎ、その全体像を伝えきれないという印象がある。

 だからこそ、ワレサを主人公にするのではなく、グダニスクの造船所のストという“連帯”への端緒となる比較的限定された対象を選んだのだろうけれど、それが最終的に“連帯”という全国的な広がりを持つ運動へと発展してゆくのに伴って存在感を薄れさせていったのと同様、この作品も求心力を失ってしまっていっているような気がする。

 アンジェイ・ワイダは1980年9月にポーランドで成立した“連帯(独立自主管理労働組合)”に強い支持を表明した。しかしこの“連帯”は1981年の戒厳令の発令により大きく力をそがれてしまう。この作品が作られたのは“連帯”が勢いを持ったわずかな時期の間である。その高揚感は作品からは感じられるが、それが歴史となった今見ると、その高揚感によってワイダの優れた描写力が鈍ってしまっているように思える。

 私は映画監督というのは好きなものを好きなように撮っていいという時より、予算とか検閲といった制限がある程度あるときのほうがいい作品が撮れるものだと常々思っている。検閲下で優れた映画を作り続けてきたイラン映画やソ連映画、戦中の日本映画、戦後の日本映画の性的表現などがそうだ。

 この作品は散々不自由な思いをしてきたワイダがついにある程度自由に思いのたけをこめることができるようになった作品なのだと思うが、そのことが逆にワイダのよさを殺してしまった。そんな風に思えてならない。

 この作品に与えられたカンヌ映画祭のグランプリは映画そのものというより西欧社会を代表してポーランドの“連帯”に与えられたものなのだろう。良くも悪くも映画というものも“政治”とは無関係ではいられないことを示すことになった作品だと思う。ワイダも81年の戒厳令により(おそらくこの作品のせいで)映画人協会会長の座を追われしばらく国内での映画製作ができなくなってしまった。

 映画と政治というのはなかなか難しい関係にあるもののようだ。