どですかでん
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1953年,日本,89分
監督:衣笠貞之助
原作:菊池寛
脚色:衣笠貞之助
撮影:杉山公平
音楽:芥川也寸志
出演:長谷川一夫、京マチ子、山形勲、黒川弥太郎、阪東好太郎、沢村国太郎、殿山泰司
平安末期、平清盛の臣下の武士・盛遠は平康の乱で上西門院の身代わりにたった袈裟という女の車を守る役に任ぜられ、その袈裟を助けて兄の家に連れて行ったとき、その袈裟の美しさに心を奪われる。盛遠は京を留守にしている清盛の下に謀反の知らせを届けて武勲を挙げる…
菊池寛の原作を衣笠貞之助が脚色し、監督。大映第一回の総天然色映画で、大映の看板スター長谷川一夫と京マチ子が共演した時代劇ドラマ。
時代劇とは、そもそも日本のアクション映画であった。日本で映画が作られ始めた当初から、時代劇での大立ち回りは映画の花、観客を喜ばせる時代劇の目玉だった。そして、黒沢明の登場により、時代劇のアクション映画として娯楽性はさらに増し、現代劇にも劣らないスピード感と面白さを持つ時代劇が次々に作られた。そして、その多くはシリーズという形で同じ主人公を擁して次々と作品が作らるにいたり、完全に娯楽映画の花形となる。長谷川一夫もその例に漏れず、51年には『銭形平次捕物帳』という人気シリーズを生み、10年間で17本が制作されている。しかし、この作品では、立ち回りといえるようなアクションシーンはほとんどない。映画の中盤で唯一、浜辺での斬りあいのシーンがあるが、これはオマケのようなもので、このシーンがどうしても必要だったというわけではない。
そう考えてみると、永遠の二枚目・長谷川一夫には必ずしもアクションシーンは必要なかった。勝新太郎の時代劇にはどうしてもアクションシーンが必要、というよりはアクション映画として作られなければ勝新太郎の映画になり得ないわけだが、長谷川一夫の時代劇は彼のアクションがなくとも成り立つということである。
しかも、この映画がすごいのは、主役である長谷川一夫演じる盛遠が決して「いいもの」ではないという点だ。映画の冒頭では謀反を起こした兄に与せず、結果的に兄が加わった謀反の軍に勝利して武勲を挙げるということで、彼がヒーローになる可能性を秘めているわけだが、「おごる平家は久しからず」の言葉もあるように、彼らの行く末は歴史の証言がすでに語ってしまっている。滅び行く平家の中で彼がどのような活躍を見せることができるのかというのは、映画が進んで行く中で疑問を強めて行く。
そこでこの映画は物語を大きく展開する。歴史上の出来事を描いたものから、その時代の色恋を描いたものへと物語をすりかえて行くのである。その中で盛遠はひとの女房に横恋慕をする横暴な男へと変貌する。気持ちがまっすぐなのだといえば聞こえはいいが、結局はひとの女房を寝取ろうとしている男、今ならばそんな話はごろごろしているが、時は平安、ひとの妻が他に好きな男が出来たからと言っておいそれと夫を捨ててその男のもとへと行っていいはずもない。しかも、その相手の袈裟が盛遠に恋しているわけでもなさそうなのだ。いったいこれはどんな物語なのだろうか。男の純愛の物語なのか、それとも男のエゴイズムの物語なのか。これがもし成瀬巳喜男によって映画化されていたならば、情けない男に振り回される女の悲劇として描かれていただろう。しかし、衣笠貞之助は基本的に盛遠を「悪者」にし、袈裟の夫である渡を「いいもの」にした。盛遠は無軌道で自分勝手な武士の代表であり、渡は思慮分別のある人物として描かれているのだ。しかし、この構図からいったい何が見えてくるのか。
私にはここから見えてくるのは男の身勝手さしかないように思える。盛遠はもちろんのことながら、渡も結局は袈裟のことがわかっていたのか。自分も渦中に巻き込まれた袈裟と盛遠の事件を気にしないということは、袈裟に対する態度表明としてはやさしさになるのかもしれないが、世間に対しては妻に対する風評を野放しにしているということになってしまう。彼は武士ではなく貴族だから、そのような柔らかな物腰を取ることが美学として成立しているのかもしれないが、この作品に登場する彼の同僚たちは必ずしもそのような彼の態度をよしとはせず、武士的な価値観を見せる。そのような世間に対しては彼も武士的な強い態度を見せなければならなかったのではないか。そうしなければ、結局袈裟は盛遠に振り回され、どうにもならない苦境へと追い込まれていかざるを得ないのだ。
そう考えると、この作品はひとつの時代の大きな変化、貴族の時代から武士の時代へという大きな変化を描いてもいると考えることもできるのかもしれない。旧時代の象徴たる渡と新時代の象徴たる盛遠、このふたりが一人の女をめぐって争うことで、その時代の違いを明らかにする。そして、そのどちらが、ということではなく、その違い時代の意味を浮かび上がらせようとするのだ。
そのような映画の中で長谷川一夫はやはりスター性を発揮する。悪者であるのに魅力的、袈裟も夫への貞節と夫への思いを引きずりながら、盛遠に魅かれずにはいられない。あからさまに盛遠になびくということはないのだが、彼の体からは魅力が発散され、彼女をひきつけている事は画面を通してうかがい知ることが出来る。若かりし日の余りマスクとは違うけれど、さすがに武士らしい力強い演技が光る。
さて、この作品はイーストマンカラーでの総天然色作品。大映は初めてのカラー映画の制作の題材に時代劇を選んだ。日本初の総天然色映画といえば、松竹の『カルメン故郷に帰る』だが、これはもちろん現代劇、しかもほとんどがロケでの撮影であった。これは当時のカラーフィルムが非常に強い光を必要としたため、スタジオ撮影での撮影は困難だったからだ。にもかかわらず、大映はセット撮影による時代劇を企画した。もちろん全てが人工の照明ではないが、それでもその挑戦には頭が下がる。
そのために、衣装をはじめとした美術の色彩に力が注がれる。今はもう失われた平安時代の人々の生活のなかの色彩を再現すること。それは歌舞伎などの演劇での経験はあるものの、映像としてそれを再現するのは初めての体験である。それはまるで無から何かを作り出す作業であり、非常に困難を伴うことだったのではないかと思う。この作品はカンヌ映画際でグランプリを撮ったことで有名だが、実はアカデミー賞も受賞していて、しかもその賞は「衣装デザイン賞」、受賞したのは色彩考証を担当した和田三造であった。この和田三造は50年代に大映・東映の時代劇で色彩考証を担当している。この和田三造は本業は洋画家で、日本色彩研究所を設立した研究者でもある。アメリカのアカデミー賞が日本の時代劇に衣装デザイン賞を贈ったというのも不思議な話だが、この作品にはそれだけ大映の力が込められているということは確かだ。さらにいうならば、この作品の撮影は杉山公平となっているが、ロケ撮影では宮川一夫がカメラを握ったらしい。杉山公平は昭和初年の『狂った一頁』から衣笠貞之助とコンビを組んでいる巨匠だが、宮川一夫も戦前から定評のある名手、このふたりを起用したということはそれだけ映像に力が入っているということの証拠である。
出演者たちのメイキャップには違和感がないこともない(ほっぺたが妙に紅い)が、衣装の絢爛さや馬あわせのシーンなどの映像のダイナミックさなどは見事の一言に尽きる。
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2004年,日本,132分
監督:塩田明彦
脚本:塩田明彦
撮影:山崎裕
音楽:大友良英
出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、りょう、つぐみ、甲田益也子、水橋研二、戸田昌宏
テロ事件を起こしたカルト教団“ニルヴァーナ”、そこから保護された子供の中でただひとり12歳の岩瀬光一だけが抵抗を続け、児童相談所にとどまっていた。しかし光一は祖父に引き取られていった妹の朝子を取り戻すべく、児童相談所を脱走し、関西から東京へ向かうこと決意する。一方、由希は光一と同年代で援交のようなこともする少女、その由希が乗った車の前に光一が飛び出し、車が横転、由希は光一を引っ張るようにしてその場を逃げ出す…
塩田明彦監督が、オウム事件を題材に、その子供たちにスポットを当てて撮った作品。だが、それほど社会派という印象ではなく、今だからこそ振り返って考えることが出来るものを撮ったという感じ。映画初出演という谷村美月の演技が素晴らしい。
塩田明彦の作品には映画が匂いたつ瞬間がある。それは大体が些細なことなのだが、時に非常に重要で強烈で印象的なものもある。この作品で言えば、途中に出てくる駄洒落の看板や、りょうとつぐみがいきなりひっぱたきあいをはじめるところなどにはっとさせられた。そして、一番強烈な瞬間といえばもちろん最後の展開だろう(ネタばれ防止)。この最後の展開には賛否両論あると思うけれど、私はとてもいいと思った(詳しくは最後にネタばれにして書きます)。
とにかく塩田明彦の監督作品には映画的な喜びというものがあふれているような気がして私は好きなのだ。ヒットした『黄泉がえり』にはそれがあまりなかったような印象があるが、『月光の囁き』などをみると、そのような印象を強く持つ。
が、この映画はそのようなこと以前に、“オウム”という題材によって話題を呼ぶし、どうしてもそこから映画を眺めてしまうことになる。もちろんフィクション化されていて、具体的にオウムと結びつくわけではないが、この“ニルヴァーナ”がオウムであることは説明するまでもないことだし、そしてそれは「カルト教団」なるものの極限値ということでもある。
その上でこの作品を考えて行くとどのように考えることが出来るだろうか。まず、時がたつにつれて「被害者-加害者」という事件の前面に登場する関係から、その周囲のものへと目が向けられて行っているという一般的な流れにそってこの映画が作られているということはいえる。それは2001年に是枝裕和が『DISTANCE』において加害者の家族たちを物語の中心に据えた問題意識の延長線上にあると言っていいだろう。主人公の光一は加害者の家族であり、かつ自分も自主的ではないにしろ信者だったという『DISTANCE』の家族よりも一歩踏み込んだ形で教団と関わっていた存在である。
そしてもちろんもっとも重要なのは彼が子供だということである。しかも、何もわからない小さな子供というわけではない。彼にとって“ニルヴァーナ”とは何なのか。これとまったく同じことを映画の終盤で教団で少年の教育係だったジュナーナが光一に聞く。このジュナーナの長い台詞は映画の中では少し異質で、流れの中から浮いた感じはするのだが、この台詞はこの映画のエッセンスを凝縮した台詞でもある。この台詞がエッセンスを凝縮しているというのは、この映画の前提(プロローグ)が文字によって語られるということも含めて、この映画の説明臭さに通じることは確かなのだが、この映画の「意味」を考える上では非常に重要なものとなってくる。
その台詞の中には、教団も現実であったというような言葉も出てくるのだが、これもまたひとつ重要な問題を提起している。カルト教団と現実、カルト教団というものはわれわれの現実と隔絶したものであるかのように思えてしまうが、しかしもちろん彼らが現実であるということこそが問題なのではないか。この映画が捉えるのは隔絶しているはずのカルト教団と現実の中間にいる人たちだ。彼らの存在そのものがカルト教団の現実性を担保するのだ。とくに、由希の存在はもっとも現実社会に近い中間点である。それは「家族」という問題を持ち出すことでカルト教団と現実とが変わらないということを示す存在である。
そしてその由希の存在は光一や朝子にとっては「お母さん」以外の何者でもない大量殺人犯を社会はどのように扱えばいいのかという問題をも提起する。これは再び『DISTANCE』とつながる。加害者であるがゆえに家族であるにもかかわらず悼むことすら許されないような状況、許しを請うことすら罪だと考えられてしまうような状況、そのような状況が作り上げられてしまっているのをまざまざと見せられるのだ。
しかし、加害者の家族や自分は実行犯ではない信者たちが、真に被害者に対して責任を取るなり心から許しを請うなりするには、まず自分の家族たる加害者を悼むことからはじめなくてはならないのではないだろうか。死者(とはかぎらないが)を悼み、それを消化することによってはじめて被害者たちのことを正当に見ることが出来るようになる。簡単に言えばそういうことだ。
!!!!ネタばれネタばれネタばれ あり!!!!!!!
それは、この映画の最後の光一の白髪にも通じる。この光一の白髪が意味するのは光一が母親の死を悼み、その衝撃をこの短い間に無理やりに消化したということなのではないか。だからこそ光一は祖父に向かって「ワレスベテヲユルスモノナリ」などということが出来たのだ。光一は母を死に追いやったものを許すことが出来たからこそ祖父も許すことが出来た。母を悼むことなく祖父にあっていたら、光一は(由希と同じように)祖父を殺してでも朝子を連れて帰ることになったろう。