キル・ビル

Kill Bill : vol.1
2003年,アメリカ,113分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:RZA、ラーズ・ウルリッヒ
出演:ユマ・サーマン、デヴィッド・キャラダイン、ダリル・ハンナ、ルーシー・リュー、ソニー・千葉、栗山千明、ヴィヴィカ・A・フォックス、ジュリー・ドレフュス、麿赤兒、國村隼、田中要次、風祭ゆき

 ひとりの女がある家を訪ねる。挨拶もなく、そこで闘いが始まる。その闘いはその家の娘が帰ってきたところでいったん幕を下ろす。その訪ねてきた女は実は元暗殺集団の一員で、4年余り前、結婚式のその場で仲間になぶり殺しにされたかに見えたが、奇跡的に一命を取り留めた女だった。彼女は自分をリンチした相手に復習することを誓い、復習するべき相手をリストにしていた…
 日本のB級映画を愛してやまないタランティーノが深作欣治にささげた仁侠映画風アクション映画。ルーシー・リューに和服を着せ、アクションはユエン・ウーピンと、アジアなら何でもありかい!的な匂いが漂う怪作。果たしてこれは名作なのか駄作なのか。その判断は1話分の尺に収まらず、2部立てとなってしまったその第2部をみて初めてつくのかもしれない。

 この映画はすべてが「フェイク」である。元ネタがあり、それを模倣しているが、それのやり方はパロディではなく、フェイクである。パロディとは元となるモノを茶化し、笑いへと転置する方法であるが、フェイクとは単純な模倣、偽物を作ることに他ならない。同じようなものを作りたいためにまねするのか、あるいは元になるものを愛してやまないがために真似をするのか、あるいはただ真似したいから真似するのか、そのあたりの理由には関係なく、真似をして作られた偽物であるということがすなわち「フェイク」であるということだ。
 この映画のもっとも明らかな元ネタは梶芽衣子主演の『修羅雪姫』であることは様々な風評からすでに明らかなことだ。元ネタの詳細は忘れてしまったが、基本的な物語もどこか似ている(様な気がする)。それはそれとして、ラストにはテーマ曲が引用されることから、それは明らかなのだが、何といってもあの血飛沫である。『修羅雪姫』をみて、映画の筋を忘れることは簡単だが、あの血飛沫を忘れることは難しい。そして、血に真っ赤に染まった波打ち際もはっきりと記憶に刻まれる。この『キル・ビル』もヒトを斬った時には血が噴水のように噴出し、池が真っ赤に染まる。真っ赤に染まるのが海からちんけな(しかし金のかかった)セットの池に代わったというのもこの映画の「フェイク」精神の顕われかもしれない。
 「フェイク」と言えば、話される日本語もまるっきりの偽物だ「やっちまいな!」と言っているらしいオーレン・イシイの決め台詞。何度聞いても「ヤッチェマナウ!」(意味不明)にしか聞こえない。逆にソニー千葉の英語もフェイクだ。これはルーシー・リューの日本語がフェイクであることにきづかなそうなアメリカの観客へのサービスだろうか。あるいは名前も。「服部半蔵」あたりはフェイクを越えてパロディの感もあるが、ゴーゴー夕張あたりはかなりフェイクの匂いが漂う。

 フェイクとパロディ、これは本質的に違うはずのものだが、この映画は結果的にフェイクとパロディのあいだをさ迷っている。いわゆるアクション映画のパロディとフェイクの間をさ迷ってしまうのは、アクションシーンがユエン・ウーピンによる本物だからなのかもしれない。その本物のアクションシーンをいかにフェイクにするのか、タランティーノはそれに腐心して、ユマ・サーマンにブルース・リーの衣装を着せ、無理から手摺の上でアクションさせ、ありえない斬られ方をさせてみた。そのようにして何とかまっとうなアクションにならないようにした結果、それはフェイクに近づくと同時にパロディにも近づいてしまった。そんな印象がある。

 さて、タランティーノは何故ここまで執拗に「フェイク」たらんとしたのかを考えてみる。それはまず、そもそも元ネタにされている日本のB級映画というのが「フェイク」なのである。『修羅雪姫』もある意味では仁侠映画のフェイクである。もっとわかりやすい例を上げれば、この映画に登場する航空会社「エアO」の飛行機、これはあからさまに模型で、妙に赤い空のバックを飛んでいる風なわけだが、これを見るに付け思い出すのは京マチ子主演の『黒蜥蜴』である。そこで舟が登場するのだが、これがまた見事な模型。その舟は水槽の波に木の葉のように揺れるのだ。そしてこの『黒蜥蜴』がどう見てもフェイク・ミュージカルなのである。そこまで追求してしまうと自ら映画オタクと言い放つタランティーノの側に与してしまうことになるので、このあたりでやめるが、そんな「フェイク」が好きでたまらないタランティーノが自分も「フェイク」を作りたいと思ってきたであろうことは想像に難くない。

 ここでもう少し真面目に考えると、映画とはそもそもが現実の「フェイク」であるという事実も考えたい。映画とは現実を模造しようと始まった芸術である。いまでは必ずしもそうではないが、映画の本質には現実のフェイクであるという面が必ずどこかにある。
 そのような映画がわざわざ「フェイク」たらんとするということはどういうことか。おそらくタランティーノは世の中に「いかにも現実であろうとするフェイクが多すぎる」ということを憂えているのではないかと思う。憂えてはいないにしても、面白くないと思っているのではないかと思う。「いくら現実ぶったってフェイクはフェイクだ」ということを真摯に見つめない限り、映画なんて成り立たないとでも言いたげなのである。
 そのように思ったからこそ、フェイクのフェイクであるこの映画を作ろうとしたのではないか。そもそもフェイクである映画のフェイクであるような映画。そんな映画のフェイクという三重化されたフェイクを作ることで映画がフェイクであるという忘れがちな当たり前のことを想起させる。そんな狙いがあったのではないかと邪推してしまう。多分そんなことは考えていないと思うが、というよりそもそもタランティーノがどう考えていようとどうでもいいのだが、そんな風なことに目を向けさせてくれるこの映画はただのバカ映画ではないのだと私は見る。あるいは、この映画はただのバカ映画だが、バカ映画であるがゆえに見えてくるものもあるということだ。

 この映画が映画として面白いのかどうなのかは、vol.2を待たねばならないだろうが、二部構成にしてしまったがために、少し冗長な感じになって、タランティーノ独特のスピード感が薄れてしまった気がするのは残念だ。vol.2がどれくらいのものかはわからないが、何とか頑張って2時間半か長くて3時間弱に収めて1本の映画にしてくれたほうが、タランティーノらしい面白い映画になったのではないかとも思ってしまう。

モ’・ベター・ブルース

Mo’ Better Blues
1990年,アメリカ,129分
監督:スパイク・リー
脚本:スパイク・リー
撮影:アーネスト・ディッカーソン
音楽:ビル・リー、ブランフォード・マルサリス
出演:デンゼル・ワシントン、スパイク・リー、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジート、ロビン・ハリス、ジョイ・リー、ビル・ナン

ブリークはハーレム育ちだが、教育ママの母親にトランペットの練習をさせられて、トモダチとろくに遊ばせてもらえなかった。しかしその甲斐あってか新進気鋭のトランペッターとなり、自分のバンドを率いて、幼馴染のジャイアントをマネージャーにして毎日クラブを満員にしていた。しかし彼の生活は音楽一色で、他の人と心を通わせようとすることもなかった…

『ドゥ・ザ・ライト・シング』でブラック・カルチャーの枠から飛び出して広く知られるようになったスパイク・リーがジャズへの思いを込めて撮った静かな映画。デンゼル・ワシントン、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジートなど若き黒人スターが出演しているのも楽しい。

物語を追っていけば、どうということのない映画。ある一人のジャズマンの一生というか、半生を追っただけ。こんなジャズマンはニューヨークにごまんといるだろう。だからこそスパイク・リーはそのような人物を描く。ある一人のジャズマン、それはある一人の野球選手、ある一人のバスケット選手でも同じことなのかもしれない。しかし、映画的にはジャズマン。ブラックの心、アフリカの心、それがジャズにあるのだとスパイク・リーはかたくなに信じているようだ。ヒップホップやリズム・アンド・ブルースだって、あくまで広い意味でのジャズから出てきたもので、アメリカの黒人の心に流れるのはジャズのリズムだ。

デンゼル・ワシントンが映画の中でクロスオーバーについて語り、黒人が俺の音楽を聞きにこないと嘆くその言葉にスパイク・リーの気持ちは込められている。そのような音楽への思いに突き動かされて作られた映画だけに、主役は音楽で、役者ではない。デンゼル・ワシントンがどのような人と関係を結んでもどこか空々しくめいるのは、彼の自己中心性よりもむしろ、それが映画の主題ではないからなのだ。そこにあるのは音楽、音楽、音楽。この映画で人々を動かすのは音楽で、それだけ。

その中で非音楽的な存在としているのがインディゴで、彼女だけは音楽とは関係ないところに存在している。だから彼女は映画に波風を立て、音楽のリズムを乱す。この映画の終盤が面白くないと思えてしまうのは、映画の全般にわたって映画を突き動かしてきた音楽というものが奪われ、非音楽が映画を支配するから。だからどうも違和感を感じ、音楽が覆ってきたこの映画の退屈さがあらわになってしまう。

しかし、私はこの退屈さも好きだ。「吹けなくなったらどうするの?」と聞いたインディゴの言葉、その言葉が映画に立てる波風、それによってもたらされる新たな人生、しかしブリークは音楽を失っておらず、心にはリズムがある。この終盤であらわされるのは、音楽的な人生と非音楽的な人生があるということではなく、人生とは音楽であり、人生とは常に音楽的であるということだ。ブリークは音楽を奪われてしまったけれど、心にはリズムがあり、最初から非音楽的な存在として描かれてきたインディゴも音楽を持たなかったわけではないということ。

スパイク・リーは音楽を特別なものとはみなさずに、人生そのものだと捉えている。この映画では音楽はそのように現れる。だから音楽にあふれているにもかかわらずこの映画はすごく静かだ。

ハリー・ポッターと賢者の石

Harry Potter and the Sorcerer’s Stone
2001年,アメリカ,152分
監督:クリス・コロンバス
原作:J・K・ローリング
脚本:スティーヴン・クローヴス
撮影:ジョン・シール
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、リチャード・ハリス、マギー・スミス、アラン・リックマン、イアン・ハート

額に傷を持つ赤ん坊のハリー・ポッターは魔法使いによって伯母夫婦に預けられ、その家で冷遇されて育てられていた。ハリーが11歳になろうというとき、ハリーのところにふくろうから次々と届くようになるが伯父はそれをハリーに読ませようとしない。しかし、11歳の誕生日の日、ついに魔法学校からの使者が現れ、ハリーを魔法学校へ連れて行く…

原作が世界中でベストセラーとなった「ハリー・ポッター」シリーズの第1作目の映画化。映画としても世界中で大ヒット、小説も次々と続編が書かれ、映画も次々と作られるはずのファンタジー巨編。

ものすごい観客を集めた映画にありがちな酷評があちこちで聞かれますが、私はそれほど悪い映画ではないと思います。原作をまったく読んでいなかったこともあって、物語の導入部分などはかなり興味深く見ることができました。魔法使いの世界という一つのパラレルワールドを作って、そこで物語を展開させるという方法は非常に巧妙でいくらでも面白く出来る要素がある。紀元前300年だったか創業の杖屋なんていう小ネタも自由自在。動物や植物だっていくらでも創造することが出来る。この自由さがファンタジーにとっては非常に重要なのです。

なので、長いシリーズの1作目としてはまずまずの出来なのではないかと思います。ただ、ちょっと長すぎますね。特にクライマックスに至る前の30分から1時間くらいはぎゅっと凝縮して映画を短くするか、映画には盛り込めなかった原作のエピソードをもう1つ2つ入れるかして濃度を高めたほうが飽きることなく見れるようになった気がします。

というのが全体的な感想で、第2作も2本立てかビデオかで見ようかなという感じです。

さて、この映画を見て最初に感じたのは『スター・ウォーズ』っぽいなということ。映画全体としてもちょっとそんな感じはしますが、主に話がそれっぽい。細かく何処がどうと言ってしまうとこじつけっぽくなってしまいますが、親が死んで親戚に育てられる設定とか、なぞの敵がいるとか、力を得るために教えを受けるとか、そういうところですね。これはある意味では冒険ファンタジーものの王道といえるストーリー展開なのかもしれません。だから万人に受け入れられる。『スター・ウォーズ』ファンには怒られるかもしれませんが、なんだか似てるなぁという印象は最後まで変わりませんでした。音楽もジョン・ウィリアムズだしね。主人公が運命で定められた英雄だというのも。

もちろん『ハリー・ポッター』のほうが子供だましっぽさが付きまとうし、出てくるキャラクターや物はほとんどが今まであったものばかりで創造性という点ではかけるのですが…

その点で言えば、同時期に公開された『ロード・オブ・ザ・リング』と比べても見劣りする。しかし、やはり『ロード…』の世界観は万人受けするものではなく、そのあたりでヒットするかどうかが別れてしまったのかもしれないという気がします。原作とのかかわりも『ハリー…』のほうがうまい感じですね。原作を読んでいれば、おそらく映画に出てきた呪文とか道具なんかのことがよくわかる。魔法学校の教科書まで発売されているのだから、はまればどんどんはまっていける。そのあたりは原作者ももうなくなってしまって、かなりマニア感が高くなってしまっているい『ロード…』とは違うのでしょう。

ヒット作にはそれなりの理由があり、映画としての出来がそれほどよくなくても人を惹きつけられるんだといういい見本だと思います。

リリイ・シュシュのすべて

2001年,日本,146分
監督:岩井俊二
原作:岩井俊二
脚本:岩井俊二
撮影:篠田昇
音楽:小林武史
出演:市原隼人、忍成修吾、蒼井優、伊藤歩、田中要次、大沢たかお、稲森いずみ、市川美和子、杉本哲太

中学生の蓮見雄一は不良仲間とつるんでいるが、どこか気弱なところがあり、リリイ・シュシュというアーティストにはまっている。雄一は万引きをしてつかまり、彼らのボス的な存在である星野修介と仲間にリンチされる。しかし、雄一と修介は中学1年生のころは中のいい友達だった…

現代の中学生の3年間をイメージとして物語に閉じ込め、それを音楽でひとつにまとめた作品。ウェブサイトの掲示板を利用して、読者との対話の中から岩井俊二が生み出したインターネット小説から生まれた映画。フィルム用いずデジタルビデオだけで撮影したというのも特徴のひとつ。

個人的な感想からいえば、あまり好きな映画ではない。映画の作り方としては新しいところもあり、面白いところもあるけれど、冗長で退屈だ。随所に登場人物たち自身が持つビデオカメラの映像が挿入され、安定した映画本体の映像と対照を成すが、その過剰な手ぶれが痛ましい。

そして、この映画は「痛み」とか「癒し」ということをいっていながら、決してその痛みに本体に入って行こうとはしない。「痛み」を抱える存在として描かれる登場人物たちの痛みを作り手が共有していないというか、それは言葉としてあるだけでちとなり肉となっていないという印象がどうしてもしてしまう。

それは、この映画があまりにスタイリッシュというか、映像としてのスタイルを重視しているがために起こるような気がする。「痛み」というようなものをひとつのテーマとしながら、そこにメッセージをこめてそれを映画の主題とするよりも、スタイルを重視してしまった感じ。それが私がこの映画に感じる根本的な嫌悪感だ。だから、面白くないとはいわないが、好きではない。

それでも、この映画を見るなとはいわないし、むしろ見てもいいと思う。たぶん、こういうスタイルで作られた映像のほうがスッと心の中に入ってくる人もいるのだと思う。そういう人は非常に現代的な心の持ちようをしていると思うし、それは悪いことではない。

しかし、私はこの映画にスッと入り込めてしまうような心の持ちように対して胡散臭さを感じる。この現実を切り取ったようなさまをしながら、あくまでもすべてがイメージの産物であるような映画を、自分の現実に引き込んでリアルだと感じられるということは、その現実に何か瑕疵があるのではないかと思ってしまう。その瑕疵に気づかないまま映画の世界に浸ってしまうことにはある種の危うさが伴う。

そのような現実感覚、つまり自分の現実をイメージで覆い隠してしまうというか、バーチャルな異なったリアルを作り出してしまうような現実との対峙の仕方をどうにも受け入れがたいということだ。

映画の中の掲示板のメッセージのひとつで、ノストラダムスの予言について言及したとき、「世の中は滅びた。今あるのはマトリックスだ」みたいな言葉があって、それは映画の中ではそれほど重要な言葉として出てくるわけではないけれど、この映画の要素を凝縮したような言葉であるという気がした。

マトリックスで起きているさまざまな出来事であるがゆえに、彼らのとる行動はこうなってしまうのだと。

岩井俊二がそのような現実感覚に対してどのようなスタンスをとっているのかはこの映画からはわからない。ここで描かれているようなものに対する危機感をもって作っているのか、それともただ現実(あるいは未来)をなぞっているのか、特に意識していないのか。

わたしはこの映画はあくまでスタイルを重視した映画だから、そのあたりはあまり意識せず、現代的なスタイルと一致する世界観を構築するということに重点が置かれているのだと思う。

そこで作られたこのような現実感覚の希薄な世界に私は共感できない。

Jam Films

2002年,日本,109分
監督:北村龍平、篠原哲雄、飯田譲治、望月六郎、堤幸彦、行定勲、岩井俊二
脚本:高津隆一、渡部貴子、飯田譲治、望月六郎、三浦有為子、行定勲、岩井俊二
撮影:古谷巧、石山稔、高瀬比呂志、田中一成、唐沢悟、福本敦
音楽:森野宣彦、矢野大介、山崎将義、池瀬広、遠藤浩二、野見祐二、めいなCo.、岩井俊二
出演:北村一輝、山崎まさよし、篠原涼子、大沢たかお、吉本多香美、麿赤兒、秋山奈津子、妻夫木聡、綾瀬はるか、広末涼子

7人のクリエーターが共通するテーマなどを設けず自由に作った7本の短編を集めた企画もの。エピソードは「the messenger -弔いは夜の果てで」「けん玉」「コールド スリープ」「Pandora -Hong Kong Leg-」「HIJIKI」「JUSTICE」「ARITA」の7本。本当に何か共通点があるわけではないので、共通した感想をあげることもできないが、多くの作品が笑いに走り、それに成功しているのはわずかという悪循環がある。

ぎりぎり合格点なのは「けん玉」「Pandora -Hong Kong Leg-」「JUSTICE」「ARITA」の4本か。

ちゃんと1本目から見ていきましょう。

1本目「the messenger -弔いは夜の果てで」

笑いに走らず、ハードボイルドに仕上げたのはなかなかよく、いけるかと思ったが、最後のカメラ目線で台無し。違う落としどころにそっと落とせたら見られる作品になったと思うが、これではどうにも。バイオレンスシーンもあまり迫力がない。

2本目「けん玉」

最初の肉のミンチのショットからなかなかという感じで、さすがは篠原哲雄となるが、ちょっと偶然性を物語の必然に織り込みすぎた感があるし、ラストも少々しつこい感じ。それでもアイデアの面白さと、山崎まさよし&篠原涼子の雰囲気で○。

3本目「コールド スリープ」

コメントのしようもない感じですが、結論から言えば発想におぼれたというところ。一種の謎解きと意外性を狙ったのだろうけれど、発想が陳腐というか定型的過ぎていかんとも。

4本目「Pandora -Hong Kong Leg-」

7本の中で一番まとまっている。けれどまとまっているぶん、面白みもあまりない。麿赤兒がうまく全体をまとめていて、吉本多香美もなかなかいいけれど、話としては意外性がなく、映画として特殊なアイデアがあるわけでもない。古ぼけた劇場の画はなかなか。

5本目「HIJIKI」

山盛りのひじき以外はどこかで見たことがある感じ。天井が低い家というのは『マルコビッチの穴』を思い出させていけない。オチも大体読めるし。途中いくつか面白いネタがあったのが救い。

6本目「JUSTICE」

ポツダム宣言をえんえん英語で朗読するというなんとも不思議な授業風景がいい。全体としても本当にどうでもいいことで、どうでもいいことというのは若者にとって大事なことのような気がする。そんな気持ちがふっとわく佳作。

7本目「ARITA」

最後にもってこられるだけあってアイデアは一番。広末涼子のひとり芝居という形態にしたのも短編としてまとめる上ではプラスになっている。ただ、途中のCGが妙にリアルなのに違和感を持つ。光量の調整やフォーカスの仕方などにもうまさが光る。

全体として、結局テーマを絞らなかったのが裏目に出たというか、まとまりのなさと作品の質の低下を招いたかもしれない。撮影自体は簡単に済むかもしれないが、短編のアイデアを練るにはおそらく長編と同じくらいの苦労があるだろう。多分、制約があったほうがアイデアのひねりようもあり、制約の中でどのようにオリジナリティを出すかという発想が生まれてくる。

それに対して、「どうぞ自由にやって」といいながら、時間だけは区切られているとなると、そこに自分が積み込めるものは何か、それでいて観客を楽しませることができるものは何か、という問題に突き当たるはずだ。しかもこの映画の監督たちは短編映画のスペシャリストではないわけだからなおさらのはずで、イメージ先行の安易な企画だったといわざるを得ない。

それでも、いま売れているクリエーターたちのスタイルが一望できるという点では見る価値があるのかもしれない。

アンナ・マデリーナ

安娜瑪徳蓮娜
1998年,香港=日本,97分
監督:ハイ・チョンマン
脚本:アイヴィ・ホー
撮影:ピーター・パオ
音楽:チュー・ツァンヘイ
出演:金城武、ケリー・チャン、アーロン・クォック、レスリー・チャン、アニタ・ユン、ジャッキー・チュン、エリック・ツァン

ピアノの調律師のチャン・ガーフは調律に行った先の家で小説家を名乗る謎の男モッヤンに出会う。モッヤンは居候していた女の家を飛び出し、ガーフの家に転がり込んでふたりの共同生活が始まる。その共同生活も落ち着きを見せてきたころ、ガーフのアパートの上の階にモク・マンイーという女性が引っ越してくる。モクに弾かれるガーフ、衝突するモクとモッヤン…

日本でも名前が売れていた金城武とケリー・チャンを主役に起用して香港との合作で恋愛映画を撮るという一見売れ線狙いの映画ながら、映画としてのできは非情に地味で、通好みの映画という感じになっている。レスリー・チャンやアニタ・ユンなど脇役人も豪華。

映画の題名は映画の中でも言及されているようにバッハの奥さんの名前から来ている。そしてその奥さんのために書いた「メヌエット」が映画を通して鳴るひとつの響きとしてある。この「メヌエット」はピアノでもバイオリンでも楽器を習ったことがある人なら一度は弾いたことがある曲、なので体にすっと入ってくる感じがする。

映画の構成も第1楽章から第4楽章となっていて、クラッシク音楽の構成によっている。メヌエットが果たして4楽章構成なのかは知りませんが、とにかくこの映画は音楽になぞらえられているということは確か。

しかし、別に映画が音楽的というわけではなく、そういう構成になっているというだけの話。だから実際のところ、この映画は『アンナ・マデリーナ』である必要はなく、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』でもよかったのかもしれない。

この映画でいい部分というのは実際のところ第4楽章の「変奏曲」の部分だけだといってもいい。第3楽章までは長いプロローグというのか、劇中劇を語るための舞台設定といっていいのか、すべてがこの第4楽章を語るための序章であるといっていいと思う。

ポイントはやはりモク・マンイー、それは第3楽章までのモク・マンイーではなく、あくまでガーフの物語の中でのモク・マンイー。映画を見ていない人には何のことやらさっぱりわからないとは思いますが、それでいいんです。見た人にしかわからない、見ていない人に語ってしまうのはもったいない。そんな映画があってもいい。

おそらく、この映画見て何も感じない人もいるでしょう。むしろ感じない人のほうが多いのかもしれない。あるいは感じたとしてもそれを表面化させない人もいるかもしれない。このモク・マンイーが心の琴線に触れる人はおそらくどこかナイーブな心を持っていて、しかもそれでいいと思っている人のような気がします。それをこの映画ではモク・マンイーのいる人といっているわけですが…

映画を作るものにはそのような感性は必要だとは思いますが、果たしてそれをストレートに映画にこめてしまっていいのか、という疑問が湧かないわけではありません。共感したり、理解したりできる人ならいいんですが、共感できない人には共感できない、感情の押し付けということもできるような作品でもある。ということは確かです。

なので、人に勧めることはできませんが、自分の心のナイーブさに何か肯定的なものを感じている人は見るといいかもしれません。

ホーム・アローン

Home Alone
1990年,アメリカ,102分
監督:クリス・コロンバス
脚本:ジョン・ヒューズ
撮影:ジュリオ・マカット
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:マコーレー・カルキン、ジョー・ペシ、ダニエル・スターン、ジョン・ハード、キャサリン・オハラ、ジョン・キャンディ

クリスマスが近いある日、翌日から家族でフランスに行くことになっていたマカリスター家は兄夫婦とその子供も来ていて11人の子供を抱えててんやわんやの大騒ぎ、そして翌日停電によって寝坊した一家は大慌てで空港へ。しかし実はマカリスター家の末っ子ケヴィンがひとり家に取り残されていた…

いまや「ハリポタ」の監督として有名になってしまったクリス・コロンバスが監督としては初のヒットを飛ばした作品。脚本にはコメディの名手ジョン・ヒューズ、音楽にはジョン・ウィリアムズとスタッフもしっかりとしてし、脇を固める俳優もいいけれど、やはりなんといってもカルキン君の芸達者ぶりに脱帽。

コメディの名作に解説はいらないというのが私の気持ちなわけですが、やはり解説しなければなりません。

カルキン君は今では離婚なんかもして大変ですが、このころはとても芸達者な子供としていい味を出しています。今というかちょっと前は子役といえばオスメントですが、私はカルキン君のほうがかわいげがあって好きです。そういえば、このクリス・コロンバスは脚本家としても『グレムリン』とか『グーニーズ』とか作ってるし、いまは「ハリポタ」だし、子供ものを作るのが好きなのだと思われます。そもそもがアンブリン(スピルバーグの映画プロダクション)なので基本的に子供向けに強いわけですが、その中でもかなり子供を使う率が高い。だからこそ「ハリポタ」の監督に起用されたのだと思います。 そういう意味でも、この映画は現在まで見られてしかるべきで、しかもいつ見ても面白い。

もちろん、最大のハイライトはカルキン君が泥棒ふたりを撃退する最後のシークエンスなわけで、これをはじめてみた時は子供に帰って痛快感を覚えましたのを思い出します(といっても、たぶん高校生のころ)。

しかも、これは子供だましの映画ではなく、子供向けであっても大人向けと同じクオリティで作っているところがいい。子供の視点から見たファンタジーとして作るのではなくて、ある種のリアリズムを追求して映画が作られている。「そんなバカな!」と思わせるところはなく、すべての出来事がちゃんと複線を持って連綿とつながっているのです。

そして、コメディだけではなくファミリー・ドラマ的なものも盛り込むわけですが、これは家族向けとしては仕方のないこと。コメディとしてはそんなハートフルなものは取り除いて、とにかく笑わせればいいということになりがちで、基本的にはそういうコメディのほうが私は好きなんですが、この映画の場合はこのハートフルな面を入れることで物語全体がうまくまとまっているのでいいと思います。

2も3も今ひとつだったし、こういういいファミリー向けコメディというのは最近ないなぁ…