ボディ・クッキング/母体蘇生

Ed and His Dead Mother
1993年,アメリカ,90分
監督:ジョナサン・ワックス
脚本:チャック・ヒューズ
撮影:フランシス・ケニー
音楽:メイソン・ダーリング
出演:スティーヴ・ブシェミ、ネッド・ビーティ、ジョン・グローヴァー、ミリアム・マーゴリーズ

 町の小さな工具店のオーナーのエドはおじのベニーと二人暮し。母親が死んで1年もたつのに、まだ母親をなくした悲しみに沈んでいる。望遠鏡で隣家をのぞくおじはエドに母親のことなんか忘れて女と付き合えという。しかし、エドは今朝も自分の店に生真面目に出勤していった。そんな彼のところに、「母親を蘇生させる」という怪しげなセールスマンが現れた。
 スティーヴ・ブシェミ主演のホラー・コメディ。タランティーノとコーエン兄弟に見出され、ようやく売れてきたころに出た数少ない主演作品。明らかにB級作品で、それほど笑えず、別に怖くもないけれど、なんだか不思議なおかしさが漂う。

 この作品に漂うのは一種のシュールリアリズムというか、マジックリアリズムというか、絶対に現実ではありえないのに、それが現実であることが別に不思議ではない空間を作り出してしまったことからくる不思議な空間。その空間で物語を展開していくこと自体が面白いという空間を作り出すというのがすべてかもしれない。
 普通の映画だったら疑問をさしはさんで、一応理論的に何らかの解決を図らなくてはいけないところ、あるいはその背景(たとえば歴史)を語らなければ正当化されないようなことをフツーに当たり前のことのように映画に織り込む。なんといっても「ハッピー・ピープル社」ですが、死人を蘇生させることを当たり前とすることがこの映画の大前提で、ブシェミがそれを受け入れることで、それにまつわるさまざまな疑問はすべて不問に付してしまう。母親がよみがえってからもおじさんがそれを受け入れてしまうことで、その疑問は霧散してしまう。
 そのあたりの展開の仕方のうまさがこの映画にはあって、それで最後まで見せてしまうんだけれど、それがどうしたといわれると困ってしまう。不思議なおかしさを湛えた小ネタは結構あって、「ハッピー・ピープル社」の名誉会員みたいなネタはとてもよい。お母さんのキャラクターもなかなかいい。この役者さんはもともとはイギリスの人で、『ベイブ』で犬の声をやっていたりするらしい。なかなか稀有なキャラクターだと思います。
 要するに「変な映画」で、変な映画としてはかなり高いレベルにあり、コメディとしても笑えないことはない。ホラーとしてはまったく使えないけれど、気持ち悪いことは気持ち悪い。スティーヴ・ブシェミは面白い、顔が。

エトワール

Tout pres des Etoiles
2000年,フランス,100分
監督:ニルス・タヴェルニエ
撮影:ニルス・タヴェルニエ、ドミニク=ル・リゴレー
出演:マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル・リッシュ、オーレリ・デュポン

 パリ・オペラ座のバレエ団、「エトワール」と呼ばれるソリストたちを頂点にある種の階級が存在し、だれもがエトワールになることを夢見ている。しかし、学校時代から続くそのための競争、エトワールになる以前の「コリフェ」「カドリーユ」としても群舞、それらをこなす生活は厳しい。エトワールになったしても、そこには厳しい自己管理の生活が待っている。それでも彼らはバレエを生きがいとして踊り続ける…
 『田舎の日曜日』などで知られるベルトラン・タヴェルニエの息子ニルス・タヴェルニエがバレエ団に3ヶ月密着し、練習、公演の光景にインタビューを加えて作り上げた初監督ドキュメンタリー作品。

 バレエをする人たちの肉体は本当に美しい。それはワイズマンの『BALLET』のときも思ったことだけれど、その肉体と体の動きの美しさには本当に魅了されてしまう。この映画でもとくに練習風景の体の動きなどを見ると、とてもいい。舞台監督が演技をつけているときの、動きの違いによる見え方の違いなんかも見た目にぱっとわかるくらい違うのがすごい。
 だからといって、その美しさばかりを追っていていいのかどうかというのが映画の難しいところ。ただただ踊るところばかりを見せていては映画にならないので、インタビューなんかを入れる。インタビューを入れることはもちろんいいし、それによって彼らの抱える問題とか、バレエ団がどのようなものであるかとがいうことがわかってくる。しかし、問題なのは、映画にこめるべきメッセージをインタビューに頼りすぎると、映画としての躍動感が失われてしまうということ。バレエダンサーは肉体によって自己を表現するもので、言葉によって表現するものではない。そのことをないがしろにして言葉に頼ってしまうと、バレエの持つ本来の魅力が映画によって減ぜられてしまうことになりはしないだろうか。この映画のインタビューはそれ自体は面白いのだけれど、そういう説明的な面がちょっとある。
 たとえば、練習風景で代役の人たちがそっと練習しているところをフレームの中に捉えているところが結構ある。彼らが代役であることは説明されなくてもわかるのだが、この映画ではそのあと代役を割り当てられた人たちの話が入る。そのインタビューはノートを見せて説明したりして楽しいのだけれど、何かね。ドラマを作り方なのか。最後には代役から出演が決まったダンサーを映すあたりのドラマじみたところがどうもね。
 というところです。この映画でいちばん魅力的なのは「エトワール」になる以前のダンサーたちであって、彼ら、彼女たちのナマの姿さえ伝われば、そこにドラマはいらなかったという気もする。群舞の中の4人が手のつなぎ方を話しているところなんかはそれだけで、そこにいろいろなドラマがこめられていて楽しいのだから。後は、スチールがすごくいい写真でした。映画としてはちょっと卑怯な気もしますが、写真自体はすごくいい写真でなかなか感動的。

みだれ髪

1961年,日本,93分
監督:衣笠貞之助
原作:泉鏡花
脚本:衣笠貞之助
撮影:渡辺公夫
音楽:斎藤一郎
出演:山本富士子、勝新太郎、川崎敬三、阿井美千子

 板前の愛吉が警察官に連れられて、喧嘩の巻き添えで怪我をさせてしまった深川の材木問屋の娘夏子をおぶって病院にやってきた。夏子は治療に当たったその病院の若先生・光紀と恋に落ち、愛吉は夏子を神様に見立てて禁酒の願をかけ、足繁く病院に見舞いに通う。退院後も夏子と光紀は会うようになったが、光紀には親が決めたいいなずけがいた…
 泉鏡花の『三枚鏡』を衣笠貞之助が映画化。泉鏡花原作なので、さわやかな恋物語になるわけもなく、話はどろどろ。そのどろどろさかげんにはまっていく山本富士子と勝新太郎がとてもよい。

 いいですね、60年代、大映、このどろどろさ。衣笠貞之助はこれ!という代表作はありませんが、50年代を中心になかなか質の高い作品をとっている大映の職人監督の一人です。スターシステムというほどではないですが、この作品は山本富士子と勝新太郎を中心とした映画なので、この二人を引き立てるようにオーソドックスな映画を作り上げています。
 60年代初めといえば、「悪名」シリーズと「座頭市」シリーズが始まったころで、まさに勝新太郎がスターダムに上りつめるころ。さすがにこういう渋い作品でもいい味出してます。山本富士子のほうは、もうすでにスターの地位を確立していたころでしょうか。しかし、この2年後フリーになった山本富士子は大映の恨みを買い五社協定(大手五社が新しい映画会社への役者流出を防ぐための協定)を口実に映画界から追放されてしまう運命にあったのです。しかもこの二人は同い年。そんなことも考えながら映画を見ると、なかなか面白いものもあります。
 大映というのはどうもやくざ風情の映画会社で、永田雅一はそもそも任侠系の人だという話も聞いたことがあります。それは一面では義理がたくて、利益第一ではないという利点もありますが、他方で非合理というか山本富士子のような不条理な被害者も出てしまう。でも、やくざとか任侠系の映画に面白いものが多いのも確かで、この映画の勝新太郎もかたぎではあるけれど、義理人情のやくざ風情が映画の重要な鍵になっている。
 いろいろありますが、この映画は面白いです。山本富士子がぐっとくるものはいままで見た中ではなかったんですが、これは結構きました。20代おわりくらいからようやく役者としての味が出てきたといわれるので、このあたりが一番あぶらの乗っていたころなのかもしれません。山本富士子ファンは必見。
 あとは、泉鏡花はやはり大映の作風にあっているということでしょうか。始まりから終わりまで油断させないドロドロ感、これがなかなかいいですね。

 大映と山本富士子といえば、逸話をもうひとつ。あの小津安二郎が『彼岸花』をとるときに、どうしても山本富士子を使いたいとおもい、大映にオファーしたところ、大映の条件は「大映で一本映画を撮る」というものでした。それで撮ったのが小津唯一の大映作品『浮草』です。これは近々見る予定。『彼岸花』もみよっと。

ビートニク

The Source
1999年,アメリカ,88分
監督:チャック・ワークマン
脚本:チャック・ワークマン
撮影:アンドリュー・ディンテンファス、トム・ハーウィッツ
音楽:デヴィッド・アムラム、フィリップ・グラス
出演:ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、ジョニー・デップ、デニス・ホッパー

 1950年代に現れ、アメリカの新しい若者文化を生み出したビート族(ビートニク)。その元祖とも言えるジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズの3人を中心に、彼ら自身が登場する映像、インタニューなどのフィルムに加えて、彼らの知己たちへのインタビュー、ジョニー・デップらによるポエトリー・リーディングを使ってその全貌を明らかにしようとするドキュメンタリー。
 ビートニクのファンの人たちにとってはとても魅力的な作品。ビートニクを知らない人たちにとっては勉強になる。

 つくりとしてはものすごく普通のドキュメンタリーなわけです。残っている映像を収集して、それをまとめてひとつの作品にする。作品として足りない部分はインタビューやポエトリー・リーディングによって補う。「知ってるつもり」の豪華版のようなものですね。
 なので、ビートニクとはなんぞやということを知らない人にとっては一種の教養番組というか、新しい知識を映像という形で取り入れる機会になるわけです。しかも、本人が出てきたり、具体的な作品も使われているのでわかりやすい。ケルアックの『路上』ぐらいは読んでもいいかなという気になるわけです。
 一方、ビートニクが好きな人、日本でも結構はやっていますので、そういう人も多いと思うわけですが、そういう人たちにとっては本人が登場するということでなかなか見ごたえがある。コートニー・ラブが出ていた『バロウズの妻』とか、バロウズ原作の『裸のランチ』とかいった映画は結構あるんですが、本人が出ているものといえば、『バロウズ』という映画があったくらい。なので、これだけ本人の映像が満載というのは、特にケルアックのものは、ファンにはたまらないという気がします。
 という映画であるのですが、そのどちらでもない人、ビートニクは知っているけど、別にそれほど好きではない、という人にはなかなか入り込めないかもしれない。物語の展開が工夫されているわけでもないので、なかなか興味を継続しにくいというのもあります。詩のいっぺんとか、ひとつの発言なんかがうまく引っかかってくれればいいのですが、そうではないと、出てくる人たちも名前を出されても誰だかよくわからないし、言っていることもよくわからないということになってしまう。大体の人はここにはまりそうな気がします。

ビバ!マリア

Viva Maria!
1965年,フランス,122分
監督:ルイ・マル
脚本:ルイ・マル、ジャン=クロード・カリエール
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ブリジット・バルドー、ジャンヌ・モロー、ジョージ・ハミルトン

 アイルランドのために爆破を繰り返す父親を手伝って育ってきたマリーだったがその父が警察に捕まり、涙ながらに警察もろとも爆破した。そして逃亡中に紛れ込んだ旅芸人の一座で踊り異なる。相棒のマリアとともにストリップまがいの踊りで人気を博したが、「マリアとマリア」という名で講演旅行中にサン・ミゲルで事件に巻き込まれる…
 ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローというフランスの大女優二人が共演、監督はルイ・マルという作品だが、作品のほうはB級テイストにあふれた楽しいもの。BBの魅力全開という感じだが、物語もなかなか痛快で見ごたえがある。

 いろいろと理不尽なところはあるわけですよ。しかし、それはこの映画が基本的にハチャメチャな映画で(そもそもブリジット・バルドーが革命家という設定からして相当無理がある)、監督はそのことをがっちりつかんで、多少の脱線や理不尽は映画が消化してしまうということを理解している。だから、普通に映画を撮るとしたら何とか調整をつけようとすること、たとえばサン・ミゲルの人たちに映画の演説の意味が通じるとか、そういうことを全く放置して、映画をどんどん進めてしまう。これが映画に勢いをつけて、物語を魅力的にする。そのあたりのストーリーテリングの妙というか、映画の組み立て方が絶妙という気がしました。
 しかも、その辺のB級映画とは違って、それぞれのネタがただのバカネタではない。いろいろ元ネタとか含蓄があるような気がする(具体的に何なのかはわかりませんが)。最後のオチも、単純に笑わせようというネタではなく、神父が…(ネタばれ防止)というところに意味があるわけです。20世紀初頭という設定もただブリジット・バルドーにコスチューム・プレイをさせたいという理由だけではなく(もちろん、それも理由の一つではある)、メキシコの革命という時代設定にあわせてあるのです。そのあたりをしっかり考えている感じがとてもよいです。
 というわけで私はとてもいいと思ったわけですが、一般的に言うと、ルイ・マル映画としては主流を外れ、ブリジット・バルドーものとしてもお色気満点というわけではなく(30代に差し掛かっているし)、コメディというわけでもないので、ターゲットとする観客がはっきりしないのがなかなか難しいところなのかもしれません。でも、やはり、なんか、いいですよ。「古い映画はちょっと」とか、「ブリジット・バルドーって動物愛護の人でしょ」とか思っている人も、この映画ならなかなか楽しめるはず。

カレードマン大胆不敵

Kaleidoscope
1966年,アメリカ,102分
監督:ジャック・スマイト
原作:マイケル・アバロン
脚本:ロバート・キャリントン、ジェーン=ハワード・カリントン
撮影:クリストファー・チャリス
音楽:スタンリー・マイヤーズ
出演:ウォーレン・ビーティ、スザンナ・ヨーク、エリック・ポーター、クライヴ・レヴィル、ジェーン・バーキン

 赤いオープンカーに乗ったバーニーは町で見かけた通りすがりの娘エンジェルに一目ぼれ。一夜のデートを楽しんで、彼女を送っていく。バーニーはしばらく出かけるが、帰ったら連絡をするといって去っていった。その用事というのは実はジュネーブにあるカレイドスコープ社のトランプの原版に細工をしてカジノで大もうけしようという計画だった…
 60年代の雰囲気満載の、サスペンス・コメディ。ウォーレン・ビーティが若い。凝ったつくりというか、全体的に不思議な雰囲気がある。

 ちょっと眠くて、あまり覚えていないんですが、画面が変わるときに、なんだか不思議な幾何学模様が使われていたりするのが不思議。ついでにそこで流れる音楽はインド風、ガムランってやつですかね。映画の展開もなかなか不思議。半分過ぎるくらいまで映画の要点が見えてこない。
 「カレイドスコープ」といえば、多分万華鏡という意味だった気がするんですが、なぜそれがトランプ会社の名前でしかも映画のタイトル(原題)になってしまっているのか、という疑問もある。しかも、イギリスのケイジ風情にわかってしまうような仕掛けがカジノの人たちにわからないのか、という疑問も浮かぶ。 まあ、そんなこんなを考えながらみていたら、ようするにこの映画は完全におふざけというか、サスペンスという形はとっているけれど、わたしにとってはコミカルな部分とか、60年代風の雰囲気というもののほうが興味を引かれる。
 ちょっとネタばれ気味になってしまいますが、後半に出てくる敵のボス(という表現がいいかどうかはわからないけれど)のキャラもなかなかいい。ナポレオンを信奉しているということで、髪形なんかがナポレオン風で変わっているのもいいけれど、背を低い人をキャスティングするその細かさがなかなかいい。
 この監督はかなり地味ですが、いい作品をとっているのかもしれないという気がします。たぶんコメディ向き。

フォー・ルームス

Four Rooms
1995年,アメリカ,99分
監督:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
脚本:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
撮影:ロドリゴ・ガルシア、フィル・パーメット、ギレルモ・ナヴァロ、アンジェイ・セクラ
音楽:コンバスティブル・エディソン、エスクィヴェル
出演:ティム・ロス、マドンナ、リリ・テイラー、アントニオ・バンデラス、クエンティン・タランティーノ、ブルース・ウィリス

 ロサンゼルスのホテル・モンシニョール。ある年の大晦日、そこでお客さんの対応をしているのはのベル・ボーイのテッドだけ。そのテッドが呼び出され、騒ぎに巻き込まれる4つの部屋。その4つの部屋の物語を4つの短編にしたオムニバスをインディーズ系の4人の監督が競作した作品。
 最初の2本はなんだかボヤンとしているが、後半2本はなかなかのでき。特に3本目のロバート・ロドリゲスの作品は、一本の映画にしてもいいのかも、と最初に見たときには思っていて、今考えるとそれが『スパイキッズ』になったのかもしれない。

 最初の作品にマドンナが出ています。アーティストとしては、イメージチェンジしたマドンナですが、どうも女優としてはパッとしないようです。しかし、この映画を見る限り、コメディエンヌとしてならやっていけそうな気もする。この1篇はすべてがすごく無意味です。40年前にのろわれた魔女をよみがえらせてどうなるのか。果たしてコメディなのか、コメディとして笑えるのは呪文というか、儀式のときの魔女たちの悩ましげな声と謎の動き。とても真に迫っていなくて、うそっぽいところがいい。じわりじわりとおかしさがわいてくるような作品。
 2本目は本当によくわかりません。気になったところといえば、ティム・ロスが窓から首を出しているところを断面図的に捉えている場面がどう考えても、画面どおりの向きで撮っていないということ。このあたりのリアリティのなさが笑いにつながればいいのだけれど、ここでは今ひとつならなかった。
 3本目はいいですね。この映画を見ていない人はこれだけのためにでも見る価値はあるかもしれません。広角な感じの画面をうまく使っているのもなかなかいい。最近のアクション映画によくある作風という気がしますが、この時代にはかなり新しい感じであったと思います。
 4本目は、まあ、タランティーノさんどうしたの? という感じでしょうか。『レザボア』と『パルプ』でなかなかうまい使われ方をしていたティム・ロスもこの映画では今ひとつ切れがない。タランティーノはコメディコメディ下コメディはあまり向いていないのかもしれない。と思いました。

旅の途中で FARDA

2002年,日本=イラン,106分
監督:中山節夫
脚本:横田与志
撮影:古山正
出演:宍戸開、オスマン・ムハマドパラスト、忍足亜希子、寺田農、保坂尚輝

 自動車の部品メーカーでサラリーマンで忙しく働く井沢、学生時代の友人で画家の木田の個展に呼ばれ、出かけると、そこに浩子が来ていた。浩子は井沢がかつて世話になっていた町工場の社長村田の娘で、昔は親しく付き合っていたが、井沢の会社が切り捨てたことで工場は倒産してしまっていた。そのとき、村田が心臓発作で倒れたという知らせが入る…
 競争社会に飽み疲れたサラリーマンがイランを旅するというロードムービー。アッバス・キアロスタミ監修の下でイラン・ロケを敢行。日本人の目からイランを見ることができるという面ではいい。

 すごく普通というか、まともな映画で、設定や物語は古臭ささえ感じるほどオーソドックスである。人を探すたびが自分探しのたびになるというロードムービーの王道を臆面もなく堂々と展開する。もちろんそれが悪いというわけではないけれど、それではあまりに話が予想通りに進みすぎる。
 言葉をしゃべれないヒロインを登場させて、ちょっとアクセントをつけてはいるものの、その恋愛物語は映画の主プロットからは完全に外れていて、なんだかとってつけたような内容。しかも手話の場面でBGMが流してしまうのもなんともわかりやすいというか、わかりやすくしようとしすぎている。
 この映画の新しさはイランということ。イラン映画はこれまでも数多く日本に入ってきて、イランがどのようなところであるかはそれらの映画を見ればなんとなくわかる。しかしそれはあくまでイラン人が作ったイラン映画であって、日本人が見たとしても、それはイラン人としてその映画世界に入っていく。しかし、この映画を見ることは日本人としてイランに入っていく体験だ。その意味では映画において始めてイランと日本が本当に出会ったといっていいのだろう(私の知らない映画があるかもしれないけど)。
 この映画を見ていいと感じるのは、ほとんどすべてがイランのよさである。その風景、その音楽、その人間、それらイランなるものがすべていい。「急ぐのは悪魔の仕業」ということわざはこの映画のことは忘れてしまっても、忘れることのできない言葉だ。あまりに日本語をしゃべれるイラン人に出会いすぎという気はするが、それもまたイランと日本の「近さ」を表現しようとするひとつの誇張であると捉えれば首肯できる。

 しかし、この映画の主人公の幼稚さにはちょっと辟易する。恋愛話でも言葉が通じないからとか、そんなことをいっているが、そんな段階でくよくよ悩んでいるんじゃどうしよううもないわけで、そんなことわざわざイランまで来なくてもわかるだろうという気がしてしまう。
 わざわざイランまで来て受け取るべきものはもっと違うものだったはずで、たとえば、彼が敬虔な仏教徒のように手を合わせて祈ること。もちろん彼は日本ではそんなことはしていないはずで、神の国イランにふさわしいと思うから普段やらないそのような所作を思わずしてしまう。ということについて思いをはせれば、もっと深い部分にある何かを受け取れたんじゃないか。
 映画を見ているわれわれのほうが実際にイランに行ったはずの主人公よりイランから多くのものを受け取っているような気がしてしまい、その分この主人公が薄っぺらな感じがしてしまう。

天才マックスの世界

Ruchmore
1998年,アメリカ,96分
監督:ウェス・アンダーソン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェン・ウィルソン
撮影:ロバート・D・イェーマン
音楽:マーク・マザースボウ、ピート・タウンゼント
出演:ジェイソン・シュワルツマン、ビル・マーレイ、オリヴィア・ウィリアムズ、シーモア・カッセル

 名門ラシュモア校に通うマックスは奨学生だが、フェンシングや養蜂などなどさまざまな課外活動に没頭して成績は一向に上がらない。落第したら退学だと校長に告げられたマックスだったが、勉強をする様子はなく、今度は学校の先生の一人に恋をしてしまう…
 ウェス・アンダーソンの出世作となったとても不思議なコメディ映画。この監督の作品は爆笑作品ではないけれど、映像のつくりなどに非常に味があっていい。

 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』を見ていると、はじめから終わりまであまりに似ているのに驚くのですが、もちろん本当はその逆で『テネンバウム』のほうがこの映画に似ているわけです。ここまで似ていると、それはこの監督のスタイルと考えざるを得ないわけです。
 そのスタイルにはいろいろありますが、まず目につくのは紙芝居型のプロット展開。この映画では月ごとに幕が下りて区切られています。このスタイルが作り出すのは、これが徹底的に劇であるという雰囲気。マックスが演劇をやっているというのも理由にはなっているんでしょうが、基本的にこの映画は「劇」であるということです。
 あとは、物語や人物の描写に深みをもたせてあること。普通のコメディのようにわかりやすく単純なキャラクターを立てるのではなく、普通のドラマに登場するような人物をキャラクターにたて、その関係性も「ボケ-突っ込み」のような固定した関係ではなく、変化する関係である。もちろん普通のコメディ映画でも、ラブ・コメとか、ヒューマン・コメディとか、人間の関係が変化するものはありますが、それはあくまで主の2人とか3人とかの関係で、この映画のように主人公を中心とした相互関係がゆっくりと変化していくところを描くものはなかなかない。
 ここまで見ると、この映画はまったくコメディ映画などではなく、ただのドラマのようなんですが、確かにそうで、筋立てとかキャラクター自体に面白い人はあまりいない。面白いといえば、マックスのやっている課外活動が面白い。こういうネタは私は大好きです。それはそれとしても、コメディアンのビル・マーレイすらコミカルなキャラクターとして登場しているわけではない。
 この映画のおかしさを演出しているのは映像で、一番特徴的なのは、人物を正面から画面の中心に捉えるバスト・ショット。これは非常に不自然なショットで、リアリズムを追求する映画ではほとんど使われないわけですが、この映画はやたらとそのショットを使う。これは最初の「劇」的ということともかかわってきますが、作り物じみた感じを演出する。その作り物じみた感じがおかしさを誘う。他にも作り物じみた感じが結構あって、またマックスの課外活動の話ですが、その紹介場面も非常に作りこまれた感じ。
 という感じでなかなか地味ながら味わい深いいい映画でした。

 ところで、主演のジェイソン・シュワルツマン君は巨匠フランシス・フォード・コッポラの甥で、タリア・シャイアの息子。つまりコッポラ・ファミリーで、ソフィア・コッポラやニコラス・ケイジの従兄弟ということ。ちなみに弟はロバート・シュワルツマンといって、『シュレック』に(声で)出ているらしい。そして兄のジェイソンはPhantom Planetという(結構メジャーな)バンドのメンバーらしい。恐るべしコッポラ・ファミリー!

ステューピッド/おばかっち地球防衛大作戦

The Stupids
1996年,アメリカ,94分
監督:ジョン・ランディス
原作:ハリー・アラード、ジェームズ・マーシャル
脚本:ブレント・フォレスター
撮影:マンフレッド・グーテ
音楽:クリストファー・L・ストーン
出演:トム・アーノルド、マーク・メトカーフ、ジェシカ・ランディ

 郊外の住宅地に住むスタンレーとジョアンに子ども2人ののジュテューピッド一家。朝になると家の前のゴミがなくなっていることに気づいたスタンレーはゴミの盗難事件だと騒ぎ出し、その犯人を突き止めようと家の前で寝ずの番をする。そして、目撃したマスクの怪しい男たちを追ってローラーブレイドを飛ばす…
 日本で言えば馬鹿田さんとでもいう、ステューピッドという名前からしてふざけているが、とりあえずふざけておこうという感じのオーソドックスなどたばたコメディ。ネタもテンポも古典的、スタイルも狙いすぎの感あり。

 えーと、バカが偶然に偶然を重ねて、うまいこといったり、地球を救ってしまったりするのはよくある話ですが、この映画もそんな話。とはいっても、結局うまいこといっているのかというとそれは微妙なところ。そもそもドタバタコメディの巨匠ジョン・ランディスだけに結論なんてどうでもいいわけですが。 それにしてもこの映画はなんだかね。ギャグも弱いし、面白そうな題材を掘り下げないし、邦題のせいもあるけれど、せっかくの宇宙人もあまり活躍しないし。個人的にはもっとあの宇宙人を活躍させて欲しかったと思いますね。なんといっても映画の中で一番面白いキャラだったし。あとは、謎のCGの猫。なぜあの猫はCGなのか? そして、それが全く生かされていないのはなぜなのか? それもギャグ?
 この映画を見ていて思ったのは、ハリウッド映画は、特にコメディは、後ろを振り返らないということ。いろいろなことがおき、どんどん話が展開していくのがハリウッド映画で、どんどんどんどん転がって、どんどんどんどん話が変わって、めでたしめでたしハッピーエンド! で終わるわけですが、別にハッピーエンドでなくてもいいんですが、よく考えるとそれまでに起こったことの始末は何一つつけていない。よく考えると、「あれはどうなった?」「これはどうなった?」という疑問符のオンパレードなわけですが、それはとにかく置いておいて、「よかったよかった」とか、「なんていい話でしょう」とかいっている。まあ、別にそれでいいんですが、脚本家とか、原作者がいるときとかはそれで納得してもらえるのだろうか? などといろんな疑問が頭をよぎります。
 この映画でよかったところといえば、ステューピッド家の家の内装のエキセントリックさかな。おもにピンクと水色で構成されていたのは、多分精神医学的な裏づけを取った符合でしょう。チェックのものがいっぱいあったのも考え合わせると、幼児化傾向とか未発達とか、そういうことをあらわしている(勝手な想像)。その色彩の組み合わせがエキセントリックでよろしい。