誘拐騒動/ニャンタッチャブル

That Darn Cat
1996年,アメリカ,90分
監督:ボブ・スピアーズ
脚本:S・M・アレクサンダー、L・A・カラゼウスキー
撮影:ジャージー・ジーリンスキー
音楽:リチャード・ギブス
出演:クリスティナ・リッチ、ダグ・E・ダグ、ジョージ・ズンサ、ピーター・ボイル

 田舎町で暮らす少女パティは、あまりに平和で何もおこらない田舎町がきらいで、都会に行くことばかり考えて、友達といえば猫のBJだけ。母親はそんなパティに説教ばかりするが、パティは聞く耳を持たない。そんなある日、BJが腕時計を首につけて帰って来た。パティはそれが新聞に載っている誘拐された家政婦のものだと騒ぎ出して…
 65年のディズニー映画『シャムネコFBI/ニャンタッチャブル』のリメイク。動物と子どもを使ったいかにもディズニーらしい穏やかなコメディ。

 いちおう猫中心に回っているようですが、よく考えると別に猫が活躍しているわけではなく、猫に振り回されるFBIという面白さを追求しているだけ。しかも笑いのネタになっているのは事件にかかわらないことばかり。誘拐事件を扱っているにもかかわらず、あまりいさかいが起きないというのも不思議。 などなどいかにもディズニーという展開は子どもが見ていても安心ということはありますが、やはりコメディなんてものはばかばかしかったり、お下劣だったり、したほうが面白いわけです。
 要するに、特に面白くないということがいいたいわけですが、そもそもサスペンスでもあるはずなのに、犯人が誰かという謎解きの部分は全くない。面白いところといえば、パティとジークの夫婦漫才のようなところ。ジークはなかなか面白いですが、『クール・ランニング』のひとだそうです。
 やはり、ディズニーのコメディはなかなかヒットしないと確認したしだいでした。

隣のヒットマン

The Whole Nine Yards
2001年,アメリカ,99分
監督:ジョナサン・リン
脚本:ミッチェル・カプナー
撮影:デヴィッド・フランコ
音楽:ランディ・エデルマン
出演:ブルース・ウィリス、マシュー・ペリー、ロザンナ・アークエット、マイケル・クラーク・ダンカン

 歯科医のオズの隣に一人の男が引っ越してきた。なんだか見たことがあると思ったオズはすぐにその男が17人もの人を殺し、マフィアのボスを売って短い刑期で出てきた名高い殺し屋ジミー・チュデスキだということに気付く。そしてオズは、折り合いのよくない妻のソフィアに半ば脅されるようにシカゴにジミーを密告にいくはめに…
 ブルース・ウィリスと『フレンズ』のマシュー・ペリー共演のサスペンスコメディ。物語の転がり方が面白く、なかなか楽しく見ることができる。監督はヒット作はないものの地味にコメディを採り続けている監督ジョナサン・リン。

 サスペンス・コメディというジャンルはどうかと思いますが、この映画は間違いなくサスペンス・コメディで、なかなかうまくいっている。ひとつは脚本のうまさで、サスペンスの展開として重要な出来事をうまく笑いに結び付けている。ネタはばらせませんが、オズのアシスタントのジルが・・・だったというのはなかなかうまい展開と舌を巻きました。
 あとは、キャスティングのうまさでしょうか。『フレンズ』のマシュー・ペリーはもちろん、ジル役のアマンダ・ピートも『ジャック&ジル』というコメディに出ていて(こっちでの役名はジャックなので、多分意識している)、少なくともアメリカ人にとっては喜劇役者として一応知られている人たちなわけです。ブルース・ウィリスも今はムキムキマッチョ君になってしまいましたが、もとはといえば、『こちらブルームーン探偵社』でとぼけた役をやっていたわけで、それを考えると、これは喜劇役者を集めてサスペンスをとってみた映画。ということなのかもしれません。
 だからなんとなく全体的にサスペンスの「間」ではなくて、コメディの「間」になっている。もちろん監督がコメディ畑の監督だというのもあるんでしょうけれど。しかし、だからといって笑えるかといえば、別に笑えるわけでもなく、はらはらするかといえばそれほどはらはらするわけでもなく、中途半端といってしまえばそれまでの作品ですが、わたしはこういう根本的にうそっぽいドラマは大好きです。ここまで明るく人を殺せる人はなかなかいないね。
 好みは分かれるところかとは思いますが、いろいろ辻褄が合っていないと、落ち着かない人は見ないほうがいいと思います。テキトーなことが好きな人は結構つぼにはまるかと思います。

ロード・オブ・ザ・リング

The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring
2001年,アメリカ=ニュージーランド,178分
監督:ピーター・ジャクソン
原作:J・R・R・トールキン
脚本:ピーター・ジャクソン、フランシス・ウォルシュ、フィリッパ・ボーエンズ
撮影:アンドリュー・レスニー
音楽:ハワード・ショア
出演:イライジャ・ウッド、イアン・マッケラン、リヴ・タイラー、ヴィゴー・モーテンセン

 世界的に有名なトールキンのファンタジー小説『指輪物語』。映像化は不可能といわれ、これまで映画化されていなかった作品をピーター・ジャクソンが1部作として映画化。この作品はその第1作に当たる。
 物語は現実の世の中とは全く異なる世界で展開される。人間以外の種族もたくさん生きている世界。はるか昔、闇の冥王サウロンが作った指輪。悪の力を秘めたその指輪がおよそ3000年後、ホビットの青年フロドの手に渡ったことから物語りは展開される。

 この世界観はあらかじめ知識を持たずに見る人には厳しいものかもしれない。ホビットやドワーフやエルフという人間ではないが姿かたちは人間に非常に似いる生き物があまり説明されないままに出てくる。映画を見ていれば徐々にその関係や性格がわかってくるけれど、それがわかるまでに映画は1時間から1時間半のとき費やし、ファンタジーになじみのない人なら飽きてしまっても不思議はない。
 だからこの映画は『スター・ウォーズ』とか『ハリー・ポッター』などのように一般的にヒットする映画ではなく、ある意味では特定の観客に向けた映画である。とはいっても、もともとの原作が非常に有名で読者も多いので、そのターゲットはある程度は広く、わたしも子供のころに小説を読んだ(ほとんど覚えていないけれど)ので、物語に入り込むのにあまり困難はなかった。
 監督のピーター・ジャクソンもいわゆるメジャー系の監督ではなく、悪趣味系、カルト系の監督であり、ファンタジー的な世界を作るのは得意かもしれないけれど、一般受けするような映画は作れない。さらに、これといったスターも出ていない。というような問題がたくさんあり、映画としては非常にじみ。
 それでもやはり映画として見ごたえがあり、ある程度世界的にヒットしたのも原作の力と、原作を忠実に映画化した監督の力。人間とホビットの縮尺とか、いろいろな怪異な生き物とか、CGを駆使したりしながらうまく作り上げる。ホビットがロングショットで写されるときに子供の代役が使われていることはちょっとあからさま過ぎるけれど、まあ映画に入り込むのを邪魔するほどではない。

 などなどなどと御託ばかり並べているのは、この映画が一本の映画といえるものではなく、一本の映画の3分の1でしかないものだからで、この映画の本当の評価というのは3本すべてを見なければ下せないような気がする。それでもこの映画は1本の映画としてリリースされているので、それに対する評価を下さざるを得ないが、そうなると不完全な映画であるとしかいえない。
 でも、わたしは続きに期待して見たいと思います。
 ひとつ不思議だったのは、主人公のフロドの目の色がころころ変わること、青、緑、グレーというようにいろいろな色に変わる。あからさまに処理してかえているところもあるけれど、自然に変わっているように見えるところもある。これは何かのなぞが秘められているのか?

 2度目は、スペシャル・エクステンテンデッド・エディションというので見たのだが、このバージョンでは、冒頭の部分に説明が加わってかなりわかりやすくなっている。これによって映画全体をすっきり見ることができるし、2度目ということで、物語の進み行きにイライラせず、ゆったりと見ることができるというのもいい。ゆったり見てみるとこの作品はさすがに作りこまれていて面白い。なんといっても作品の世界観がいい。原作に忠実に時代設定をして作っているわけだが、その時代設定というのが「動力」が開発される以前であるということが重要だ。車もなければもちろん戦車もないし、それ以前に火気というものがない。これはいわば『ベン・ハー』のようなもので、徹底的に人と人(必ずしも「人間」ではないが)の戦いというところが重要になってくるのだ。こういう設定ではヒーローが生まれやすく、ドラマが組み立てやすい。そして、この映画は複数のヒーローを用意し、それぞれにドラマを作り上げる。そのようにして編み上げられた物語は懐が深く、観客は誰かひとりに感情移入すればよく、観客を引き込みやすい。問題は、全てのドラマが密接にかかわりあっていないと、観客が飽きてしまうということだが、この第1話の段階ではそれに成功していると思う。

 ところで、このスペシャル・エクステンテンデッド・エディションはエンドロールが30分くらいあって、そのうち20分くらいが”Special Thanks”に費やされているけれど、これはいったい何? と思いました。感謝したい気持ちはわかるけど、20分も見ないよねー、誰も。

親指ブレアサム

The Blair Thumb
2001年,アメリカ,30分
監督:トッド・ポーチガル
脚本:スティーヴ・オーデカーク
出演:スティーヴ・オーデカーク、ジム・ジャクソン

 前2作が話題を呼んで、続編が期待されていた「親指」シリーズ、オーデカークが満を持して出したのは、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の親指版。そもそも、いろいろと物議をかもし、ヒットはしたものの揶揄されることも多かった映画なので、パロディするのは楽なはず。
 しかし、オーデカークが作ったのはパロディというよりは、映画をネタにしたコメディ。設定を借りて、ぜんぜん違うオチを用意して笑わせる。それがミソ。

 そもそもの『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がどうしようもない映画だったので、それよりもつまらなくなることはないわけですが、オリジナルの処理に困ったのか、中盤と最後のオチは完全にもとネタからは離れたところで狙っている。ネタを明かすことはもちろんできませんが、その2ヶ所はなかなか笑える。そもそも『ブレア・ウィッチ』の大げささはパロディ化しやすい素材なわけで、『ボガス・ウィッチ・プロジェクト』というパロディもありました(未見)。『ブレア・ウィッチ2』(未見)も最初はパロディだといううわさもあったぐらいだし。
 しかし、それはパロディ作家としては作りにくいという点もあり、みんなが予想するネタではない予想外のネタで笑わせなければならない。冒頭の辺りの「手ブレ撮影法」なんかは面白いけれど、予想できるネタで、誰でもやるだろうこと。わたしが一番好きなのは、中オチのネタ(アー、言いたい!)で、多分オーデカークだか、監督だかも気に入っているらしく、映画後のおまけのところでも登場していた。いやいや、あれは不意を突かれたね。
 この映画はもとネタのいらいらする感じをそのまま使っている。そこをパロディ化してテンポよく行くのかと思ったら、もとネタのいやなところを生かしている。これは多分、ネタとのギャップを強調するためだろうけれど、ちょっと本当にイラつくので難しいところ。
 最初の2本と比べると、見慣れてしまったこともあり、爆発的な笑いはなかったけれど、なんだかんだいって新しいのが出たらまた見てしまうのでしょう。すでに2本作られてるらしいし。

親指バットサム

Bat Thumb
2001年,アメリカ,28分
監督:ディヴィド・ボウラ
脚本:スティーヴ・オーデカーク
出演:スティーヴ・オーデカーク、ジム・ジャクソン

 スティーブ・オーデカークが心血を注ぐ「親指」シリーズの第4作。前作から監督業を退き、脚本と出演(声と親指)に専念。とにかくオーデカークの親指好きとパロディ精神から始まったこの企画。いったいいつまで続くのか。
 今回は『バットマン』のパロディで、映画を下敷きにコミックやアニメのテイストを加える。とにかくくだらないのはいつものとおり、お下劣さは他の作品よりちょっと弱め。親指についた顔のCGがだんだん自然になってきているのがなんだかすごい。

 今回の目玉はなんといってもCGの多用。今までの作品より格段にいいCGを使っている。バットサムがビルから飛び降りるシーンにかなりリアルなCGが使われていて、バットサム自体もCGで作られていて、親指で演じているものよりそっちのほうがかっこいいけど、一瞬しか映らない。こんな高度な技術を使えるにもかかわらず、あくまでローテクでやるのがこのシリーズの面白さなので仕方がない。
 意味がわからないが笑えてしまうネタが多く、その中でもブルー・ジェイが何故かバットサムに常にくっつきたがるというのがいい。バットサムの登場シーンでチンピラとわけのわからない会話をしているのもいい。ここの会話は世の中にあふれる犯罪映画をパロディ化することで、それがいかにリアルではないかということを明らかにしている。
 オーデカークがこのシリーズを作り続けるのは、(親指がすきなのと)そのような風刺精神を遺憾なく発揮できるからだろう。人が演じるパロディよりも親指が演じるパロディのほうが当たりが優しくなるので、いろいろと言いたいことが言えるんじゃないでしょうか。とは言っても作るのは多分結構大変で、指にいちいち顔を入れるだけでも大変。衣装とかを作るのも多分大変。でも、顔のNGはなんだかどんどん自然になってきて、見ていて違和感がなくなってしまった。違和感があったほうが面白いんだけど、なれとは恐ろしいものだ…
 最近はCGもののNG週がはやっているのか、このビデオの最後にもおまけ映像としてボツカットやインタビューなんかが入ってました。これもまたパロディー。そういえば、シリーズに必ず登場する一つ目指がエンドクレジットで「as himself」となっていたのがかなりマニア心をくすぐります。

ザ・ロイヤルテネンバウムズ

The Royal Tenenbaums
2001年,アメリカ,110分
監督:ウェス・アンダーソン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェン・ウィルソン
撮影:ロバート・D・イェーマン
音楽:マーク・マザースボウ
出演:ジーン・ハックマン、アンジェリカ・ヒューストン、ベン・スティラー、グウィネス・パルトロー、ルーク・ウィルソン、ダニー・グローヴァー、ビル・マーレイ

 天才児として知られたテネンバウム一家の3人の子供たち、長男チャスは投資家として、長女マーゴは劇作家として、次男リッチーはテニス・プレイヤーとして、成長した。しかし今は3人とも問題を抱え、チャスは事故で妻をなくし、マーゴはバスルームに閉じこもり、リッチーは長い船旅に出ていた。そんな3人の父親は20年前に別居していらいホテルで暮らしてきたが、破産し、ホテルを追い出されることになった。『天才マックスの世界』で認められたウェス・アンダーソンが豪華キャストでとったひねりの効いたコメディ。全体的に70年代テイストで統一されているのがなかなかいい。

 全体的にスピード感のあるコメディではなくて、妙なおかしさを狙ったコメディ。リアルに作ることを放棄し、すべてにおいて作り物じみたおかしさを狙う。これがこの映画の笑いの作り方。だからさいしょから人物を正面から中心に捕らえるショットが多い。会話の場面など、普通は空間を出すために斜めから人物をとらえるんだけれど、それをしないことで会話自体が不自然になる。それにともなって切り替えのタイミングもチョっとずらし、会話の間も不思議な感じにする。
 そのような妙なおかしさがそれほどギャグやネタがあるわけでもない映画をコメディとして成立させている。コメディ的なキャラといえば、わたしが好きなのはパゴダ。かなりボケが効いていて、ロイヤルの横で看護士の姿をしていたりするのはかなり笑える。あとはイーライの部屋に掛かっている絵とか、タクシーとか、バスとか。このタクシーとバスというのはとくに笑いを誘うわけではないのですが、とてもいいネタでここにこそこの監督のすごさが出ていると思います。最初に止めるタクシーのぼろさにびっくりしますが、その後出てくるどのタクシーも同じ「ジプシー・キャブ」、バスもずっと同じバス。こういう地味なネタはとてもいいですね。
 どんなに書いても多分おかしさは伝わらない。そういう映画だと思います。それにしても予告編が面白かった割りに、字幕が相当ひどかった。英語をなんとなく聞きながら主に字幕を見ているわけですが、なんだか面白くない。セリフのおかしさがちっとも字幕から伝わってきません。この人はきっとコメディを理解していないんだ、そんな疑問を抱きながら映画を見ていて、それが最後の最後で決定的に。最後の墓碑銘のネタ、映画中に伏線が張られていて、オチになるはずなのに、あの字幕はひどすぎる… やっつけ仕事かオイ!

ロミーとミッシェルの場合

Romy and Michele’s High School Reunion
1997年,アメリカ,91分
監督:デヴィッド・マーキン
脚本:ロビン・シフ
撮影:レイナルド・ヴィラロボス
音楽:スティーヴ・バーテック
出演:ミラ・ソルヴィーノ、リサ・クドロー、ジャニーン・ガロファロー、アラン・カミング

 高校から親友で、ロサンゼルスに出て10年間ずっと一緒に暮らしてきたロミーとミッシェル、車の修理工場でキャッシャーをやっているロミーと、仕事もなく、2人の服を自分で作っているミッシェル。そんな2人のところに高校の同窓会の便りが来た。高校時代を振り返り、自分たちは決して人気者でなかったことを思い出す2人だが…
 ミラ・ソルヴィノと『フレンズ』のリサ・クドロー主演のコメディ。コメディとはいっても、ストレートな感じではなく、アンチクライマックスで変化球な感じ。リサ・クドローが『フレンズ』のままのとぼけたキャラで笑いを誘う。

 コメディという頭で見始めて、確かにコメディなんだけど、どうも笑いどころが少ないというか、テンポが悪くて、話が進んでるんだか戻ってるんだか、右にいってるのか左にいってるのか、なんのこっちゃらさっぱりわからん。感じなんですが、2人がクラブに行って踊るなぞの踊りからしても、ミッシェルが作っているという普段の服からしてもふたりのダサかっこよさが眼目になっているだろうことはわかる。
 それにしても妙な「間」で、とにかくすべての「間」が長い。ぽんぽんとテンポよくギャグの応酬という感じではなくて、なんかおこったら長い「間」があって、物語が展開しそうであいだに他のエピソードが入って、しまいにはやけに長い夢が出てきて、こりゃ最後のドカンと落とすのかと思ったら、さらに妙な「間」のダンスシーンが。しかし、このダンスシーンは最高。とてもわけのわからない笑いのセンスに脱帽。この監督は何者なのか… このダンスシーンはMTVムービー・アワードのダンスシーン賞(そんな賞があったんだ…)にもノミネートされたらしい。
 というなんだか気の抜けた笑いと気分に襲われる脱力系コメディ。アメリカのコメディらしく人生とか友情なんかについても考えさせちゃったりして、ふだん肩いからせて歩いている人はこんな映画を見てください。
 人生で一番大事なもの。それは「笑い」ふふふふふ(不気味)。

チェブラーシカ

CHEBYPAWKA
1974年,ソ連,64分
監督:ロマン・カチャーノフ
原作:エドワード・ウスペンスキー
音楽:ウラジーミル・シャインスキー

 何故かオレンジの箱の中で眠っていた不思議な生き物、見つけた果物やさんが「チェブラーシカ」(ばったりたおれ屋さん)となづけて、動物園に連れて行くけど受け入れてもらえず、ディスカウントストアの前の電話ボックスに住むことに。でも、ワニのゲーナという友達もできて…
 ロシア人なら誰でも知っている(らしい)ソ連時代のアニメーション、人形をコマ撮りで動かすというとても手間の掛かることをやっているが、とにかくかわいいのでそれでよし。

 えー、物語の内容はもちろんどうでもいいわけですが、2話目のあたりとか社会主義思想を子供たちに広めようというか、子供のうちからそういう価値観を植え付けようというか、そんな意図がなんだか透けて見えてしまうのですが、いまとなっては、歴史の1ページ。
 アニメが振りまく思想性というものは多分子供に大きな影響を与えるので、気にして見なければいけないという気はします。この映画がそのことを教えてくれるというのは確かでしょう。ディズニーもジブリも多かれ少なかれ子供たちの考え方に影響を与えている。そこには意識するものと意識しないものが混在していて、その映画を見ただけではなかなか判断しがたいものもありますが、ディズニーならディズニーの、ジブリならジブリの傾向があることは複数の作品を見ればわかってきます。重要なのは、望ましくないものを見せないことではなくて、いろいろなものを見せること。できればこれみたいなソ連のものとか、何があるかはわかりませんがアラブのものとか、そういったものも見せるほうがいいんだろうなぁという気がします。とはいえ、本当にそうなのかどうかはわかりませんが。少なくとも大人は、そのようにアニメの背後にある思想性というものに意識的でなければいけないと思います。

 が、とりあえずそれさえ意識していれば、あとは楽しめばいいわけで、この映画はまさに癒し系という感じ。安っぽいぬいぐるみ状のチェブラーシカはもちろんですが、出てくる登場人物(生物?)たちがみなかわいいですね。縮尺のあり方とか、そういうのがいいんですかね。チェス板がどう見ても16マスくらいしかなかったり、人より扉のほうが小さかったり、その辺りに味がある。あとは、色使いがなかなか独特でとてもよい。アメリカなんかの70年代のサイケな色使いとはまた違った感じで、今見ると非常にいいのです。
 あとは、ゲーナの歌(多分ロシアの伝統的な歌のアレンジ)もとてもいいですね。アニメとあわせてみているからこそいいのだろうけれど、「サントラないのかな?」と一瞬思ってしまいました。ちょっと『アメリ』に似ているかもしれない。『アメリ』の音楽のヤン・ティルセンはロシアあるいはスラヴ系の人なんだろうか?
 癒されたい人はぜひどうぞ。

裏切り者

The Yards
2000年,アメリカ,115分
監督:ジェームズ・グレイ
脚本:ジェームズ・グレイ、マット・リーヴス
撮影:ハリス・サヴィデス
音楽:ハワード・ショア
出演:マーク・ウォールバーグ、ホアキン・フェニックス、シャーリーズ・セロン、フェイ・ダナウェイ

 仲間をかばって、服役していたレオが出所してクィーンズの家に帰って来た。そこには女でひとつでレオを育ててくれた母も、親友のウィリーもいとこのエリカもいた。レオは真面目に働こうとエリカの母の再婚相手(つまり叔父)のフランクの経営する会社に面接に行く。フランクは整備工の学校に通うように進めるが、病気の母のためにもすぐに金が欲しいレオは金回りのいいウィリーと同じ仕事をさせて欲しいと頼むが…
 マーク・ウォールバーグはじめキャストも渋いが、内容もとても地味なサスペンス。ハワード・ショアの音楽だけが『羊たちの沈黙』なみに仰々しい。

 ええ、本当に地味ですね。出所してきた息子のためにパーティーをやっているような家だからきっとマフィア一家か何かなのかと思いきや、ただ悪がきだっただけで、物語の筋になる裏社会の人がおばさんの再婚相手という微妙な関係で、しかもその裏社会というのが地下鉄の修理や保全という地味な業界で、しかも発端は普通の汚職事件。それによく考えるとわいろを贈る相手がクィーンズ区長というのだから、多分これはそんなに大規模な話じゃない。ちっちゃいところでちっちゃくおこるとっても地味な犯罪もの。「街から遠く離れた」はずのレオが電話してその日のうちに帰ってこれるんだからね。
 などなどと文句を言っていますが、本当はこれが正直なアメリカの現実というか、アメリカ人の世界観というか、日常というか、そんなものであるような気もする。自分の家族と友達と住んでいる地区の問題が生活の大部分を占めていて、それ以外のものはなんだか現実感がないというか、その規模の中ですべてがまかなえてしまうから、その外側を必要としないというか、そういうう感じがあるのかもしれない。だから、アメリカ人が見れば現実的というか、日常的というか、自分にもおこりえそうな身近なことに感じるのかもしれません。
 でも、これは映画なので、たぶん日常的なことなど見たくはなく、だからきっとこの映画はヒットしなかったはずで、キャストも地味ながらもなかなかの名前があるし、シャーリーズ・セロンもサービスカットを出しているので、多分赤字で製作会社いっこぐらいつぶれたかもしれません。それもアメリカの現実。 ホアキン君も今ひとつ光らない。もちろん兄ほどの光を求めはしませんが、もう少し光ってくれてもよかった。一番売れっ子のホアキン君がこれではフェニックス兄妹の先行きも地味なものになりそうですね。

三人三色

Digital Short Films by Three Filmmakers
2001年,韓国,92分
監督:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、ツァイ・ミンリャン
脚本:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、リサ・ハットニー、ツァイ・ミンリャン
撮影:ユー・リークウァイ、ジャ・ジャンクー、ドゥウォルド・オークマ、ツァイ・ミンリャン
音楽:ダリオ・マリネッリ

 香港のジャ・ジャンクー、イギリスのジョン・アコムフラー、台湾のツァイ・ミンリャンの3人が「デジタルの可能性」をテーマにデジタルビデオで30分の短編を作り、それをオムニバス作品にしたもの。
 ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』は多分中国の北部の鉄道の駅やバス停に集まる人々を淡々と撮影した作品、ジョン・アコムフラーの『デジトピア』はデジタルミックスされたラヴ・ストーリー、ツァイ・ミンリャンの『神様との対話』はデジタルビデオの機動力を生かして祭りやシャーマンを撮影した作品。
 3作品ともかなり見ごたえがあるので90分でもかなり疲れます。

 一番印象に残っているのは2番目のジョン・アコムフラーのお話なんですが、まず映像のインパクトがかなりすごくて、幻想的というか、妄想的というか、黙示録的というか、派手ではないけれど頭にはこびりつく感じ。物語のほうはすべてが電話での会話とモノローグで成り立っていて、映るものといえばとくに前半は男が一人でいるところばかり。たいした物語でもない(30分でたいした物語を作るのも大変だが)し、よくある話という感じだけれど、その映像のなんともいえない味が映画全体にも影響して、不思議な印象を受ける作品でした(だからといって特別面白いというわけではない)。
 他の2作品は一見普通のドキュメンタリーで、ツァイ・ミンリャンのものは完全に普通の(上手な)ドキュメンタリーになっているわけですが、ジャ・ジャンクーのほうは何かおかしい。というか面白い。

 ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』という作品は一見よくあるドキュメンタリーで、市井の人々を人が集まる駅やバス停で映した作品に見える。しかし、この作品で気になるのは映っている人たちがやたらとカメラのほうを見、カメラについてこそこそと話をすること。「台湾の有名な監督らしい」といったり、カメラに向かって髪形を整えてみたり、とにかくカメラを意識する。普通のドキュメンタリーだと、そういう場面はなるべく排除するか、あらかじめ了解を取ってあまりカメラを見ないようにしてもらう(あるいは共同することで自然にカメラを気にしなくなる)かするのだけれど、この映画はそのような努力をせずに、逆にカメラを意識させるようなショットを集めて編集している印象がある。
 最初のエピソードからして、メインの被写体となる男性はカメラを意識していないのに対して、そこにたまたま居合わせた男性はやたらとカメラのほうを見る。この対比を見せられると、メインの被写体となる男性は撮影者との了解があって、カメラを見ずに行動している(ある種の演技をしている)のだと思わずにはいられない。他の場面でも何人かの人は一度カメラを見つめ、それを了解した上で、そのあとは自然になるべくカメラを意識しないように行動しているかのように見えることがある。
 これらのことがどういうことを意味するのかと考えてみると、この『イン・パブリック』という映画は、イン・パブリックで、つまり公衆の中でカメラを回し、それを切り取った映画などではなくて、イン・パブリックにあるカメラがどのような存在であるのか、つまり公衆の中でカメラを回す行為というのがどういう意味を持つのかということを描こうとしている映画であると考えることができる。
 それはつまりドキュメンタリー映画を作る過程というものを浮き彫りにし、それが必ずしも日常を切り取ったものではないということ、カメラが存在するということがすでに人々を日常から切り離しているということ、カメラの前で自然に振舞っているように見える人々もカメラがあることに気付いている限りある種の演技をしていることを明らかにしている。それはまさにフィクションとドキュメンタリーの間について語ることであり、その観点から言うとこの映画は非常に意義深い映画であるといえる。
 マルセイユ国際ドキュメンタリー映画祭がそのような意味でこの映画をグランプリに選んだのだとしたら、それはとても正当なことだと思う。