レネットとミラベル/四つの冒険

Quatre Aventures de Reinette et Mirabelle
1986年,フランス,95分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ソフィー・マンティニュー
音楽:ロナン・ジレジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:ジェシカ・フォルド、ジョエル・ミケル

 フランスの田舎道で自転車がパンクしたミラベルはたまたま通りかかった女に自転車屋の場所を聞く。その少女レネットは自転車やは10キロ先だといい、自分が直すからといって、ミラベルを家に招き入れる。夜明け前の一瞬に訪れる完全な静寂(青の時間)の話をするレネット、その時間を味わうためミラベルはレネットの家にとまることにした。
 この話を皮切りとした4話の断章。レネットとミラベルの対照的なキャラクターに、ロメールらしい軽妙な語り口と、どこか哲学じみた会話。いかにもロメール、これぞロメール。

 この映画はレネットとミラベルの対照的なところが映画のミソになっていることは間違いない。最初の登場からしてミラベルはスタイリッシュで、レネットは田舎臭く、ダサい。ミラベルは冷静なインテリで、レネットは感情的な独学の芸術家。そんな二人が出会って程なく仲良くなってしまうというところに疑問は覚えるが、ヴァカンスで出会ってすぐ仲良くなるというのはロメールの一つのパターンで、そのあたりの持って行き方は巧妙なので、それほど違和感もなく受け入れてしまう。ミラベルはインテリで、民族学をやっている大学院生だが、そのプロフィールは『夏物語』のマルゴを思い出させる。
 そんな二人だが、二人に共通するのはいい人というかヒューマニストというような側面だ。しかし、そのヒューマニスト的な面でも意見が一致しないことが、「物乞い、万引き、ペテン師の女」という断章で明らかになる。ここの会話は一種哲学的なもので、この哲学的な会話というのもロメールの一つのパターンというか特徴。真っ先に思い出したのは『春のソナタ』の食卓の会話。これにとどまらず、物語とあまり関係なく哲学的な話が挟まれることが多い。それは軽妙でさらりと流れてしまいそうな映画にとって一つのスパイスとなる。
 そういえば、『春のソナタ』も二人の女の子が出会ってすぐに仲良くなる話だった。『春のソナタ』は89年なので、80年代後半のロメールの一つの物語のパターンだったのかもしれない。かなりの数の映画を作り出しているロメールは、一種のパターンを持ち、いくつも見ていると飽きてしまいそうだが、なぜか飽きないのは、他の映画を連想させたり、見ている人を哲学的な思弁に引き込んだり、見るたびに違うところに引っかかるような仕掛けを用意しているからだろう。なんだか、エリック・ロメールの映画だけで半年くらい過ごせそうな気がする。
 ただ、あまり感想が浮かんでこないというのも正直なところで、なんとなく漫然と見てしまうのがロメールの映画なのでした。

DV-ドメスティック・バイオレンス

Domestic Violence
2001年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 映画はドメスティック・バイオレンスの現場に駆けつけた警察官らの映像から始まる。喉から血を流しながらパニックになり、叫ぶ女性。そんな映像をプロローグとして、映画はDV被害者保護施設である「スプリング」の内部に入ってくる。「スプリング」にはDV被害にあった人々からの電話を受け、彼らを受け入れる。
 これまでどおり、一つの施設を取り上げ、そこの内部に深く入っていく。DVがアメリカで非常に大きな問題となっていることは知られているので、問題意識を持ちやすく、映画に入っていきやすい。

1回目
 ドメスティック・バイオレンスという話題自体は耳新しいものではない。しかしその実態となると、あまり耳には入ってこない。日本で話題になるのは、親による子供の虐待死が多い。しかし、アメリカでは夫や恋人による女性への肉体的虐待が多い。という程度の知識。だからこの映画はまず、興味はあるけれど、内容はよくわからないものへの知的好奇心を刺激する。DVとはいったいどのようなものなのか。この映画がそれを明らかにすることは確かだ。
 そういった面で一番印象に残ったのは、一人の女性が、カウンセラーの質問項目に答えていく場面。彼女は「突かれたか?」とか「殴られたか?」とか「他人の前で侮辱されたか?」といった質問のすべてに当てはまっていく。その質問に答えることによって彼女は、あんなこともDVにあたるのだと気づき、自分がいかに虐待にさらされてきたのかということを知る。この映画の中で「洗脳」ということが何度か出てくるけれど、その「洗脳」に自分がさらされていたのだということに気づく瞬間の表情をワイズマンは見事にとらえる。
 この「スプリング」では(それはおそらくアメリカのDV対策においてはということだろうが)この「洗脳」ということを非常に重く見ている。主に男性が女性を自分の支配下に置くために洗脳する。虐待に当たることを当たり前のことと受け取らせてしまう。だから50年もの間、虐待を受けながらそれに耐えることになる。そしてそれが虐待だとはわからなかったということになる。
 だから、ここではグループカウンセリングにより、それに気づかせ、そうならないようにするためにはどうするべきかということを話し合わせる。いろいろな人の体験を聞くことによって今後の対策を考えることができる。

 というのが、この映画で描かれたDV対策だ。もちろんそれは必要だ。「自分の心は自分のものだ」ということは当たり前のことであり、重要なことだ。特に「スプリング」にきている彼女たちは心を他人に譲り渡してしまいやすに人たちで、だからそれを強く言い聞かせることは必要だ。しかし、好きな人がいて、その人に心を明け渡したいという欲求が生まれることも確かだ。好きなのに、心の一端も譲り渡すことができないというのはあまりに寂しい。
 問題はおそらく、その相互依存が力の関係に変わってしまうということだろう。力関係が均等でなくなると、それは相互依存でありながら、力の弱いものにとっては一方的な依存であるように見えてしまう。そのようにならないための努力というのがこの映画に描かれていることだ。
 しかし、その先にある問題は、それが結果的に支配の奪い合いになってはしまわないかということだ。望ましいのは、奪い合う関係ではなく、与え合う関係であるはずなのに、それを教えることすら叶わないこの状況はあまりに悲しいと同時に、考えなくてはならない状況である。
 この映画は非常に引き込まれるが、決して後味はよくない。ワイズマンが自分の価値判断を示さないのはいつものことだが、この映画の最後に、ドメスティック・バイオレンスに及ばない現場が、虐待をしそうな本人が警察に通報した場面を挿入したことは、ワイズマン自身この問題があまりに複雑で、解決しがたいことであると認識していることを示しているように見えた。

2回目
 まず、われわれは警察が駆けつけたDVの現場を見せられる。驚くほどの血を流し、うろたえる女性、DVというと殴ったとか蹴ったという程度を思い浮かべがちだが、実際には刃物や銃を使ったものもある(これが非常に多いことは後々わかってくる)ということを認識させられ、その深刻さに気づかされてから、われわれはその被害者の駆け込み寺とでもいうべき施設“スプリング”の中に誘われる。
 そのスプリングにやってくる女性たちは予想通り、傷つき、打ちひしがれている。重要なのはそれが単なる暴力なのではなく、長年にわかる抑圧であるということだ。問題なのは物理的な傷が治癒することではなく、ずたずたに切り裂かれた精神を癒すことこそが必要なのだということがわかる。
 彼女たちは精神を押さえつけられ、閉じ込められ、逃げ出すことが出来なかった。物理的には可能であっても「逃げたら殺される」と思い込まされ、閉じ込められてきたのだ。そんな彼女たちが着の身着のまま逃げ込んだスプリングでの最初の面談が、まず映されるが、そのカウンセリングから徐々にその抑圧が解けていく過程を見ることが出来る。

 そして、彼女たちの問題は「知らない」ということだ。暴力を伴わない関係を「知らない」、逃げる方法を「知らない」。そこで、ここに登場するDV被害者の多くが母親もDVの被害にあっていたと語ることが重要になる。そして、DVの被害を受けた人の多くが大人になって加害者に回るというのも問題になる。
 それは、DVが存在する環境で育つことで、それが存在しない環境を知ることがないということが原因なのではないか。暴力の介在しない人間関係があることを知らない。DVはそこからひたすら再生産されるのである。そのようなことが明らかになるのは、被害者たちが教室のようなところで体験を語る場面である。ここではしゃべる人は限られているのだが、しゃべり始めると関を切ったように喋り捲るのだ。それはまさに抑圧が取り払われたことを象徴的に示している。抑圧され、閉じ込められていたものを一気に解き放つ感じ、それがその爆発的なしゃべり方に現れている。

 「知らない」のはスプリングにやってくる被害者ばかりではない。映画の中盤で老婦人の集団がスプリングを見学にやってくるのだが、彼女たちはアメリカの女性の約3分の1が虐待を受けた経験があるということを聞いて驚く。そしてその割合は昔と比べて増えているわけではないという説明を聞く。それはつまり、彼女たちの3分の1もかつて虐待を受けていたか、今も受けているということを意味するのだ。彼女たちは自分たちには関係ないかわいそうな人たちの世界としてスプリングを見ていたわけだが、実は彼女たちも無関係ではないということを知る。
 そして私たちも自分も無関係ではないということを知る。日本でどれくらいの割合の人が虐待を受けた経験がるのかはわからないが、決して少なくはないだろうと思う。実は自分は虐待を受けて知るのかもしれない、あるいは虐待しているのかもしれない。そのような疑問がこの映画を見ている中で必ず沸く。

 そしてそのことに気づかないというありそうにないことが起こるのは、DVというものが「洗脳」のメカニズムを備えているからだということが映画の後半に説明される。被害者は加害者に「洗脳」され、虐待されること/虐待することを普通のことだと思うようになってしまうということだ。「そんなバカな」と思うけれど、スプリングにやってくる彼女たちは見事にその「洗脳」の餌食になってしまっているのだ。
 そして、この「洗脳」は被害者だけでなく加害者をも犯している。加害者もまた虐待を当たり前のものとして「洗脳」されているのだ。彼らには虐待をしているという意識がない。あるいは意識があったとしても自分で止めることが出来ない。
 そのように加害者もまた「知らない」ことが映画の最後に挿入されるエピソードで明らかになる。この最後のエピソードは警察が呼ばれていくと、そこでは男性と女性が口論していて、それは虐待をした経験のある男性が、「このままだと大変なことになる」と思って警察を呼んだのだという。つまり彼は自分で止める自身がないから警察を呼んだということなのだ。彼は自分が虐待に及ぶ可能性を知ってはいるが、それを止めることが出来ないのだ。

 このように、この映画で示されているのは、ことごとく「知らない」ということである。被害者も加害者もそしてわれわれもDVのことを本当には「知らない」のである。そしてさらに、この映画を見たからと言って、それでDVのことを知ったことになるわけではないということもわかる。われわれはただ「知らない」ということを知っただけなのだ。あとは、自分が何を「知らない」のかを自分自身で考えることだ。もしかしたらあなたもDVの被害者/加害者かもしれないのだから。

メイン州ベルファスト

Belfast, Maine
1999年,アメリカ,247分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 朝焼けの中、ロブスターの漁をする舟。かごを海底から引き上げ、そこからロブスターを取り出す。そんな漁業が行われているベルファスト。続いてクリーニング屋が映り、さらに町のさまざまな場所が映し出される。
 ワイズマンの30本目のドキュメンタリーに当たるこの作品はひとつの施設や組織ではなく、町全体を被写体とした。そのことによって、さまざまな要素がカメラに切り取られることになる。それはこれまでにワイズマンが映してきたさまざまなものを包括するものであるという一面も持つ。

 これはワイズマン流のひとつのアメリカ史なのだと思う。ニューイングランドにあるこの町は南北戦争以前からあり、教会がいくつもあり、白人しかおらず、老人が多い。こんな小さな町であるにもかかわらず、あらゆるものがある。何もないという言い方もできるが、逆に何でもあるという言い方もできる。商業、漁業、農業、工業といった産業もあるし、商店や映画館、裁判所、図書館、病院など、アメリカの社会に必要なあらゆるものがこの小さな町(小さな町であることは画面から十分に伝わってくるが、資料によれば人口6000人の町らしい)にある。 具体的な歴史も出てくる。南北戦争を研究する男、アーサー・ミラーやハーマン・メルヴィルについて教える授業。それはアメリカ史そのものである。
 これを見てワイズマンがどのような歴史観をもっているかということを推測するのはなかなか難しいが、少なくともワイズマンはあくまでもアメリカにこだわっている。そして、おそらくアメリカを活気に満ち溢れた国というよりは、年老いた国と見ている。それは他の国との比較という意味ではなくて、歴史を振り返ってみてアメリカも年老いたということを言っているのだと思う。老人人口は増え、医療に膨大な金が掛かる。南北戦争のころのような新しいものを生み出す活力はすでになく、工場のように同じものを作り続けているだけ。この映画を見ているとそのようなイメージが浮かんでくる。
 だからといって悲観しているわけではなく、悲観とか楽観という視点を超えて、あるいはそのような視点には踏み込まないで、そのようなアメリカを問題化する。歴史を取り出して、その問題を明確化する。ワイズマンがやっているのはそのようなことだ。

 とにかくこの映画にはこの町には老人ばかりがいる。一人のおばあさんがフラワーアレンジメントの教室と、南北戦争の講義とおそらく両方に出ていたので、必ずしも老人が大量に要るというわけではないだろうが、この町が高齢化していることは確かだ。そんな中で問題となってくるのは、医療や社会福祉という問題だ。それはワイズマンがこれまでに扱ってきた問題で、この映画はワイズマン映画の見本市のような様相を呈する。
 それらの問題は、つまりいまだアメリカにおいて問題であり続け、ワイズマンにとっても問題であり続けるようなことだ。
 わたしが面白いと思ったのは裁判所の場面。たくさんの被告人が呼ばれ、一人ずつ機械的に罪状認否をして言く。有罪だと主張すればその場で罰金刑が科され、無罪を主張すると、裁判になる。そのオートマティックな裁判所の風景は、缶詰工場の風景を思い出させる。これはもちろんアメリカの裁判の数の絶対的な多さからきていることだが、ここにもアメリカの病の一端があるような気がする。
 それも含めて、この町はアメリカが抱えているあらゆる問題を同様に抱えている。小さな田舎町。その風景はおそらく多くのアメリカ人にとっての原風景に通じるものがあるのだろう。そして、歴史という時間軸とさまざまな事象という事象平面によって提示されるこの町の全体像をアメリカの縮図とする。ワイズマンのカメラはそんな仕掛けを用意してこの町を映し出す。

ノー・マンズ・ランド

No Man’s Land
2001年,フランス=イタリア=スロヴェニア他,110分
監督:ダニス・タノヴィッチ
脚本:ダニス・タノヴィッチ
撮影:ウォルター・ヴァン・デン・エンデ
音楽:ダニス・タノヴィッチ
出演:ブランコ・ジュリッチ、レネ・ビトラヤツ、フイリプ・ショヴァゴヴイツチ、セルジュ・アンリ・ヴァルケ、カトリン・カートリッジ

 交代兵として全線へと向かうチキとニノとその仲間たち。闇の中をガイドに従ってやってきたものの、深い霧に視界を奪われ、朝まで待機することに。朝目覚めてみると、そこはセルヴィア軍の塹壕の目の前だった。銃弾の雨を浴びせられる中、チキはかろうじて中間地帯の塹壕に逃げ込んだ。そしてそこに、セルビア兵が偵察にやってくる…
 戦争を真正面から取り上げているにもかかわらず、コメディとしたところにこの映画の成功の鍵がある。国連軍まで巻き込んで展開される展開は笑いを誘いながら、決してふざけてはおらず、しっかりとしたメッセージも伝わってくる。

 戦争を戦争映画としてではなく描こうとすると、パロディ化するかヒューマンドラマ化するかという方法論が多い。パロディ化とは一種のコメディ化だけれど、この映画のようにパロディではない形で笑いを中心とするというのは珍しい。ヒューマンドラマの方向性で、暖かい笑い見たいなものもあるけれど、それとも違う。それがこの映画のいいところであり、それがリアルというかわざとらしくない秘密だと思う。
 果たしてこの映画はコメディかということになると、それはなかなか難しい。確かに笑いが映画の中心となっているけれど、それはすっきりとした笑いではなく、シニカルな笑い。しかし物語りは非常に突き放した感じで、すっきりしている。終わり方などを見れば、「このどこがすっきりしているんだ!」と思う向きもあるかもしれないけれど、へんにうまくいってしまったりすると、きっとそのわざとらしさというか、つくりものじみた感じになってよくないと思う。ポイントはこの徹底的に突き放した感じ。しかも、ヒューマンドラマを見慣れてしまった観客にはこの描き方は新鮮に映る。
 見終わった後でも、この映画の印象はなかなか強く、後に引きずる。パッと見はなんともやるせない終わり方、ちょっと考えるとこの突き放し方がさっぱりしている、後で振り返るとさまざまなことがわだかまりとして残っている。そんな重層的な感想が持てる。
 わだかまりというのは、おそらく監督がこの映画で描きたかったことで、結局何も変わっていないということ。表面的には国連の役立たず振りというか、むしろ火に油を注ぐ役目しかしていないということが笑いのネタにもなっているし、中心的な批判の対象になっているように見える。あるいは、マスコミの問題も見ている側が憤りやすい存在である。
 しかし、本当にえぐりたかったのはそのさらに奥にある問題で、それは決して直接的に描くことはできない問題。たとえば、殺し合いをしているのは言葉が通じるもの同士で、敵の通訳によってしか仲裁者の言葉を理解できないということ。その落とし穴。その落とし穴に落ちてしまったのはなぜなのかということは描かない。あるいは描けない。落とし穴に落ちてしまった人々と落とし穴の上から見ている人々を描く。上にいる人々は落とし穴を生めることはせずに、ふたをしていってしまう。問題は落とし穴の中にあるのか、外にあるのか、穴自体にあるのか、
 この映画の舞台が塹壕なので、穴というメタファーが浮かびましたが、逆にわかりにくくなってしまったような気もします。笑われていることが問題であることのように見えるけれど、本当に深刻な問題は笑われていない問題のほうにあるということだと思います。

コメディ・フランセーズ 演じられた愛

La Comedie-Francaise ou l’amour joue
1996年,アメリカ,223分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 フランスのパリにある国立劇場コメディ・フランセーズ。歴史と伝統を誇るこの劇場と劇団の活動を追う。劇団の運営会議からリハーサル、実際の舞台、引退する役者の引退パーティなどを映すが、一番中心になるのは、やはりリハーサルと本番の舞台。舞台がどのように作られるのかを中心に描く。
 ワイズマンとしては座長を中心として、劇団をどのように切り盛りしていくのかに興味があるようで、そのあたりの描写が面白い。

 まず、このワイズマンの映画にはプロの役者が出てくるという展で、他の映画とは明らかに違う。劇映画を一本撮ったことがあるけれど、それ以外ではプロの役者が出てくるのは初めてなのだ。そこで気付くのは、ドキュメンタリーといえども彼らがいかに演技しているかということだ。稽古や舞台での彼らの役者としての輝きはすごいが、舞台を離れたところでも彼らは演技する。それはわざとらしくというわけではないけれど、明らかに何かを演じている。そう感じるのは、他のほとんどの作品に登場する人たちとの違いだ。この映画に登場する役者たちは役者らしく振舞っているように見える。カメラに映ることを了解し、自分を演じる。そのような姿に見える。
 このことから逆に、他の映画に登場する普通の人々も自分を演じているのだということに気付く。ただその演じ方がプロの役者とは違ってぎこちない。自分を演じているつもりが、興奮して完全に素の自分が出てしまったり、映っていることにたえられなくなったりする。ワイズマンはそのようなものも含めて写し取っているのだから、それでいい。
 ワイズマンはカメラが存在するということで、撮影されているということを了承していることで、すでに人々は演技をしていると言った。なかなかこのことがわからなかったのだが、この映画を見ると、そのことがなんとなくわかるような気がした。舞台での演技は間違いなく演技だけれど、舞台を下りた部分で映っている時でも一種の演技をしている。それは作り物ということではなくて、「自分」というものを場所や相手に合わせて変化させるのと同じようにカメラの前での「自分」を演じているということだ。『モデル』の終盤でモデルたちが騒いでいるシーンを思い出したのは、そのシーンでは彼女たちが「モデル」を演じていたからだろう。

 もうひとつ、この映画で気になったのは、内と外ということ。ワイズマンは執拗に外の様子、パリの街の様子をインサートする。この建物の内部のシーンとシーンの間に外の風景を挟むというのは、ワイズマン作品のほとんどに共通して見られる方法だが、この映画では特にその対比が大きい。『臨死』のように仮想的な一日を作り出すというわけではなく、単純にコメディ・フランセーズ対その外部という構造を作り出すだけだ。
 そこには何かワイズマンなりの批評精神というか世界観があるような気がする。コメディ・フランセーズはそもそも非日常的な空間であるけれど、その空間が役者にとっては日常空間である。チケットを求める人々はそこに日常からの逃避かあるいは超越を求めてやってきている。しかし、役者やスタッフにとってはそこは仕事場であり、まごう事なき日常なのである。よく考えるとワイズマンはこれまでにも動物園や病院などそのような日常と非日常が交錯する空間を対象としてきている。
 そんな内部にとっては日常的である非日常的空間の集積こそが現実であるという全体像がそこから見えてくるような気がする。一人の視点からは画然としている日常と非日常という座標が、社会においては複雑に交錯しているということ。ひとつの空間を日常と捉えるか非日常と捉えるかということによるその捉え方の違い、そこから生じる齟齬(この映画ではその齟齬の部分はあまり描かれていないが、風景による対照である種の乖離を表している)、そのようなことに意識的であることは、現実に対する姿勢を大きく変化させると思う。

トップガン

Top Gun
1986年,アメリカ,110分
監督:トニー・スコット
脚本:ジム・キャッシュ、ジャック・エップス・Jr
撮影:ジェフリー・キンボール
音楽:ハロルド・フォルターメイヤー、ジョルジオ・モロダー
出演:トム・クルーズ、ケリー・マクギリス、ヴァル・キルマー、アンソニー・エドワーズ、メグ・ライアン、ティム・ロビンス

 海軍で戦闘機のパイロットをするマーベリックは国籍不明機を追う。接近するとそれはソ連の戦闘機ミグ28だった。1台にミサイルロックをかけて追い払う。もう一台は、背面飛行でコックピットに近づいた。マーベリックはその事件で自信をなくしたエースパイロットに代わり、相棒のグースとともに、海軍最高のパイロットが集まる「トップガン」に派遣された。
 いわずと知れたトム・クルーズの出世作。他にも、ヴァル・キルマー、メグ・ライアン、ティム・ロビンスといった今はスターとなっている役者たちが出演。監督はリドリー・スコットの弟トニー・スコット。

 久しぶりに見てみると、何の映画なんだこれは? という気になってくる。パイロットだからもちろん軍隊ものなんだけれど、そこにハリウッド映画らしくラブロマンスが加わり、友情も映画のメインプロットになっていく。ということで、商店がどこにあるのか全くもってわからない。どのプロットも中途半端というか、納得する形では結末を迎えない。今から言えばなんとなく80年代の雰囲気とはそういうもので、時代にあっているということはできるかもしれないが、それにしても、何の映画なのか? 冷戦時代にこんなぼけた映画とってていいのか?
 冷戦といえば、実は結構ひどい映画で、最後のミッションに向かう理由が、自国の船が外国に入ってしまったというものなのに、そこで戦闘機で空中戦を繰り広げてしまう。そんなのアリ?
 などなどと、不思議な腑に落ちないことがいっぱいありますが、結局のところこの映画が「いい」のは、飛行機が滑空する空中のアクションシーンと音楽。結構長めに空中アクションが入ることで、それに目が行く。そのシーンはかなりかっこいいので、だまされてしまう。後は音楽。おなじみの音楽たちがいやがおうにも場面を盛り上げるので、プロットとしては対して盛り上がっていないんだけど、盛り上がった気分になってしまう。大画面大音響で、このシーンを見せ、この音楽を聞かせる。それでなんだか「いいな」と思ってしまう。そんなマジカルな映画なのでした。
 それにしても、メグ・ライアンは15年間全く変わっていないというのがすごい。キャラクターはちょっと違うけど、顔かたちはほとんど同じ。トムがずいぶんと違う顔になってしまったのとは対照的。後は、グースがERのグリーン先生だったということに気付きました。髪の毛が…。ティム・ロビンスもちょっとわかりにくいですね。

動物園

Zoo
1993年,アメリカ,130分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 この映画の始まりはわれわれがイメージするままの動物園だ。象のショーが行われ、家族連れや、カップルが思い思いに動物を見、動物に触れている。舞台となっているのはマイアミにあるメトロポリタン動物園。マイアミという土地柄かトロピカルな鳥なども多い。
 一般的な動物園を見せた後カメラは動物園で働く人々を映し始める。ワイズマンの目は主にこの働く人々に注がれるが、それだけではなく、動物にも、客たちにも等しく注がれる。そこにあるのは動物園という世界のそのままの現実である。

 ワイズマンは施設を被写体にするといっても、実際はその中で主に描こうとする対象、あるいは多くの時間を割いて映す対象がある。しかし、この映画は客も映っているし、従業員も映っているし、動物だけが映っている場面もある。どれかが突出するということもなく、全体像をうまく描く。
 そのように見えたときに受ける印象は、この映画が動物園の疑似体験のように感じられるということだ。観客は動物園の客として、しかし単なる客ではなく、普通の客には入れないような特権的な内部にまで入ることのできる客としてこの動物園を見る。そこには動物園で得られる喜びと、動物園の裏側を見ることによる驚きがある。サイの出産やワニの産卵というドラマは、この映画のそのような見世物的な印象を強める。

 しかし、もちろんワイズマンはこの映画を見世物として作ったわけではない。そんな見世物的なものからはみ出す部分がこの映画にはやはりある。
 わたしが一番引っかかったのは、従業員の動物たちに対する態度だ。サルに接するときのように愛情をもって接している場面を捉えることもあれば、病に冷淡に接する場面を捉えることもある。この映画のハイライトのひとつとも言えるサイの解剖のシーン、解剖を終えたサイを焼却炉に放り込む獣医の行動はあまりに淡白すぎるように見える。
 しかし、それが単純な動物愛護というような訴えでないことは明らかだ。このシーン意外で目につくシーンは、オオトカゲとヘビの食餌のシーンだろう。オオトカゲはアジか何かの魚とひよこを咀嚼しながら飲み込んでいく。ヘビは、飼育係によって、頭を殴られ殺されたウサギをそのまま丸呑みにする。このひどく残虐でグロテスクなシーンは観客にショックを与えるとともに、その意味を考えさせる。表面的な残虐さにとらわれると真実が見えなくなってしまうということを示している。
 そのような真実が見えている従業員たちは動物と微妙な距離感を保つ。その距離感になんだかメッセージが込められているような気がする。

 そんなワイズマンはこの映画で何度か動物園を取材に来ている人たちを映す。彼らは小道具として草を手に持ったり、わかりやすいコメントを何度も撮ったりする。それがワイズマンの姿勢とは正反対であることは明らかだ。ワイズマンがあえてこれを編集後も残したのは、明確に自分の存在意義というか、いわゆるTVドキュメンタリーとの違いというものを明らかにしておこうという意図があったのだろう。動物園というわかりやすい題材を、わかりやすくとったワイズマンは、このTVクルーの映像をいれることで、わかりやすく彼らとの差異化を図った。

ストア

Store
1983年,アメリカ,118分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ダラスにある高級百貨店「ニーマン=マーカス」。クリスマスシーズンのその百貨店で働く人々とそこに訪れる客たち。静かで広々とした店内に、豪華な品物が並ぶ。エスカレーター脇ではカルテットがクリスマスナンバーを演奏し、毛皮売り場では店員が客にクロテンの毛皮を見せている。
 地域にステータスとして君臨する百貨店をワイズマンはどう切り取ったか。従業員たちを中心に、彼らと客との関係を、彼らと商品との関係を淡々と描く。
 『モデル』『セラフィタの日記』という商品の広告をするモデルを描いた作品から商品を販売する『ストア』へ。この当時ワイズマンの目は「消費」に向いて
いた。

「どのような批判精神がそこにこめられているのか」
 いくつかの作品を見るうちに、いつの間にかそのような視点でワイズマンの作品を見るようになっていた。価値判断を保留し、ただものや人を映像に定着させるだけのワイズマンの視線は見るものに問題を投げかける。今回投げかけられる問題とはなんなのか? そのような問いを、いつも黒地に白い文字のタイトルを見ながら思う。
 この映画では序盤に副社長が「百貨店は商品を売るために存在する」と言う。それが正義であるかのような言い方をする。それを聞きながら思うのは、ワイズマンはそのような消費社会を批判しようとしているのだということだ。しかし、これもいくつかの作品を見て学んだことだが、ワイズマンは問題をそのように単純化しない。
 とにかく、確かに百貨店は商品を売るために存在するのだ。それを実行するためにさまざまな戦略が立てられる。それは客の見ていないところで、密かに立てられる。そして客は商品を買っていく。それは決してだましているわけではない。戦いでもない。この百貨店に限って言えば、彼らはブランドを売っているのだ。そして客はブランドを買っているのだ。
 それを象徴的に示すのは「ストッキングに<ニーマン=マーカス謹製>という刺繍を入れる」というバイヤーの言葉だ。その刺繍こそが客が求めるものである。

 ワイズマンがそのような「ブランド」で紡ぐ物語とは何か?
 はたから見れば、クリスマスシーズンに半袖で歩いている人がいるような街でどうして毛皮が必要なんだ?と思う。しかし、毛皮は売れる。そのような行動こそがワイズマンが捉えようとするものだ。ダラスで毛皮を買う人々は有閑階級であり、ワイズマンはこの映画が有閑階級を描こうとしたものだと明確に表明している。このダラスで毛皮こそが消費社会の象徴である。しかし、ワイズマンはだから有閑階級はダメなのだとは言わない。そのような有閑階級が存在するからこそ消費社会が存在し、このような百貨店が存続でき、従業員たちは仕事にありつける。問題はそこにはない。(余談としては、わたしはダラスで毛皮のコートを着たっていいと思う。真冬にミニスカートを履くんだって同じことだ。ただ、さらに個人的な話をすれば、わたしはそもそも毛皮はあまり好きではない。でも、毛皮を着たい人は(たとえ暑くても)着ればいい。おしゃれとは時に肉体的苦痛を伴うものだ)
 ワイズマンは有閑階級を描こうとしたと明言するにもかかわらず、彼が主にスポットを当てているのはそこで働く人々だ。有閑階級がいることによって存在する従業員たち。ワイズマンが繰り返し問うのは「彼らは仕事に誇りを持っているのか?仕事に満足しているのか?」ということだ。あるミーティングで、ニーマン=マーカスで働いていると特別な目で見られるという話が出てくる。就職希望者は熱烈にニーマン=マーカスへの憧れを語る。つまり、ニーマン=マーカスとは労働者たちにとってもあこがれであり、ステータスであるというわけだ。 つまり、ニーマン=マーカスが象徴する消費社会はダラスにおいては充足しており、問題にはならない。ワイズマンは消費社会を批判するためにこの百貨店を持ち出したのではないのかもしれない。

 ところで、この映画に出てくる商品はことごとく趣味が悪い。最初は進める従業員もお世辞でいっているのだろうと思ったが、どうも本気で言っているらしい。成金趣味の金ピカの宝飾品やわけのわからない柄のスカート。ワイズマンは映画の中でそれらのものの価値判断を行っていないが、好意的だとは思えない。にもかかわらず、そのような露悪趣味を「良いもの」としてしまうのはニーマン=マーカスのブランドであるからである。
 そんな露悪趣味が頂点に達するのは、社長の「マイ・ウェイ」だ。そんな鼻白いことさえも許されてしまう、あるいは積極的に受け入れられてしまう、そんな露悪的な成金趣味をステータスとみなす社会、それがこの映画の中に描かれている社会なのだ。ワイズマンはこのような社会を批判するわけではない。そのような社会が成立する構造を提示し、そのような社会が具体的にどのようなものなのかを視覚化し、その価値判断は観客にゆだねる。それがワイズマンのスタンスだと思う。

デッド・カーム/戦慄の航海

Dead Calm
1988年,オーストラリア,97分
監督:フィリップ・ノリス
原作:チャールズ・ウィリアムズ
脚本:テリー・ヘイズ
撮影:ディーン・セムラー
音楽:グレーム・レヴェル
出演:ニコール・キッドマン、サム・ニール、ビリー・ゼイン

 ヨットでクルージングを楽しむ夫婦。そこに小型ボートが近づいてくる。そこに乗っていた若い男は、船が沈没してしまったと語る。しかし、その若い男を乗せた二人のヨットに無人のぼろぼろの船が近づいてきた。
 アメリカでもヒットし、オーストラリア出身のフィリップ・ノリスとニコール・キッドマンがハリウッドへ進出するきっかけとなった。ハリウッド映画のような豪華さはなく、B級なテイストが漂うが、サスペンスとしてはなかなかのもの。

 結構わけのわからない映画で、特にラストシーンなどはふざけているとしか思えないが、おそらく大真面目に作っている。アメリカでこの映画のなにが好評だったのかわからないが、このあまりにパターンにぴたりとはまった映画作りは見ていて面白い。プロットはサイコ・サスペンス的な恐怖とオカルト的なショックとをうまく織り交ぜて、いいサスペンスに仕上がっているといえる。いろいろ「んなあほな」というところはあ りますが、そのB級な感じが、わたしとしてはこの映画を救っているように思えました。
 ニコール・キッドマンのヌードというのも映画が一流ではないということをあらわしているのでしょう。あまり書くこともないので、ニコール・キッドマンの話にしましょうか。ハリウッドで整形はあたりまえですが、この映画を見ると、今のニコールとはちょっと違う。鼻の形?目?マア、どこでもいいですが、ニコールに限らず整形女優は大体整形前のほうが親しみをもてる顔をしている。整形後のほうが美女なのかもしれないけれど、その背後にある美人の方のようなものに反感を感じてしまいます。
 ワイズマンの『モデル』でモデル事務所に問い合わせるときに「アメリカ的な美人(American Pie)」などといっているのを聞くと、やはり、そんな定型的な美人のほうが仕事があるのかと思いますが、どうなんだろうなー
 映画にとって美女は重要ですからね。

モデル

Model
1980年,アメリカ,129分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ニューヨークのモデル事務所「ゾリ」、180人ものモデルを抱えるこの事務所とそこに所属するモデルたちの日常を追う。事務所には仕事の依頼の電話がひっきりなしにかかり、モデル志望も男女がたくさん訪れる。ワイズマンが写すのはその全体。そこにニューヨークの日常的な風景を挟み込んで、その対照性を明らかにする。
 ワイズマンの作品としてはメッセージ性が薄く、少し変わった雰囲気の作品。撮影をしながら対象について学んでいくと語るワイズマンだが、こんな馴染みのなさそうな題材でもその姿勢を貫いている。

 全体を通じて思うのは、モデルの映画であるのに、モデルたちが話す部分が非常に少ないといういうこと。これはこの映画がモデルたち自体ではなくモデルを取り巻くシステムを問題化しているからだろう。それはつまりモデル事務所を経由してモデルたちが結びつく広告のシステムである。結論から言ってしまえば、広告とはつまり消費社会を支える典型的なシステムであり、消費社会を体現する業界であるといえる。その広告を題材とすることによってこの映画は消費社会批判のような形をとる。
 ワイズマンが捉えるのは、その広告を支えるモデル事務所の人々である。事務所という施設ではなく、人間を捉えようとするというのはこの映画のよい点だ。メイクアップをするにしても、CMを撮影するにしても、そこで注目するのは人間である。特に多くの時間を割かれるストッキングのCM撮影の一連のシーンで描かれる人々と、出来上がったCMの没人間性の対比はおもしろい。広告(それは主にモノを広告するもの)というものの性質がことばにならない形でうまく表れている気がする。
 ここでモデルたちがしゃべらないという話に立ち返ると、ワイズマンはあえて彼らに話させない(明確にしゃべるのはインタビューのシーンだけ)ことによって、彼らのモノ的な側面を表現しようとしたとも捉えられる。広告という巨大メディアの中では、広告しようとする商品も、その素材となるモデルたちも同じモノでしかないという捉え方。そのような捉え方をワイズマンは問題を捉えるためのヒントにしているのではないか。

 もちろん、そのモデルたちを捉えたシーンの間に挟まれるニューヨークの街のシーンも注目に値する。そこに移っている人たちの多くは消費社会の末端に位置する人々だ。デモ行進をする黒人たちの姿もある。その対比の仕方はあまりにわかり安すぎるという気もしないでもないが、これがないと単なるモデル業界の内幕ものとなってしまう不安もある。そのあたりは編集こそが創作活動であるとするワイズマンならではの映画作りといえるのだろう。時にはとっつきやすい題材と、わかりやすい構造の映画も必要ということなのだろうか?
 ワイズマンを見慣れた目で見ると物足りないと映るかもしれない。でも、それはそれでいいのだとわたしは思う。ワイズマンはあらゆるアメリカを捉え、それをあらゆるアメリカに対して提示する。そのような作家だから、対象も表現の仕方も多岐にわたっているほうがいいのだ。