ドラゴン危機一発

唐山大兄
1971年,香港,100分
監督:ロー・ウェイ
脚本:レイモンド・チョウ
撮影:チェン・チン・チェー
音楽:ジョセフ・クー
出演:ブルース・リー、マリア・イー、ジェームズ・ティエン

 チェンは田舎からいとこたちのいる町に出てきた。いとこたちの紹介で彼らと同じ製氷工場で働くことになる。その初日、チェンのミスで氷が割れてしまい、なかから袋が出てきた。それを目にしたいとこのうち二人が、仕事のあと工場長に呼び出され、そのまま姿を消してしまう…
 ブルース・リーの香港主演第一作。たいした映画ではない、というか基本的にはB級映画で、それをブルース・リーのために作ったという感じ。なので、見所はブルース・リーのアクションと、B級テイストの両方。

 この映画の製作は1971年、実質的にこの映画はTVシリーズの『グリーン・ホーネット』で人気が出たブルース・リーの初主演映画で、ブルース・リーがなくなるのが、1973年だから、ブルース・リーの映画活動というのは実質3年しかないということになる。だからこそ伝説的であるということもいえるけれど、そんな短期間で伝説的なスターとなりえたブルース・リーの原型があるのがこの映画。
 この映画は武術指導もブルース・リーがやっているので、まさにブルース・リーの映画である。ブルース・リーが母親との誓いで喧嘩を封印しているというのも、アクションシーンを引っ張って、そこを盛り上げるための戦略。結局は待ちに待ったブルース・リーのアクションというところにすべてが集約する。そのアクションはもちろんすごく、かなりの迫力だけれど、『燃えよドラゴン』で見せる悲壮感というか、哀愁のようなものはない。これは演出の成果、それともブルース・リー自身の演じ方の違いなのかはわからないけれど、ブルース・リーの味のひとつがう弱められるということはある。
 しかし、そのために純粋なアクションとして楽しめるということもあるし、B級映画として、全体にコメディテイストが含まれているのにもあっていることは言える。
 わたしがこの映画で気に入ったのはむしろこのコメディ的な面で、建物の壁が人型に抜けるところとか、香港映画特有の漫画的なギャグが時々はさまれるのがなかなかいい。
 それはわたしがそれほどブルース・リーに思い入れがあるわけではないからで、ブルース・リー・ファンの人からすれば、むしろそういうコメディ的な部分は邪魔なもので、アクションプロパーのブルース・リーの魅力全開!見たいな映画のほうがいいのかもしれませんが、わたしにはこんな変化球な感じのほうがいい。

煉瓦工

Murarz
1973年,ポーランド,18分
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:ヴィトール・シュトック
出演:ジョセフ・メレサ

 一人の初老の男のモノローグで全編が語られるこの映画は、そのモノローグによってポーランドの歴史を垣間見せる。男ジョセフ・メレサは昔からの共産党員で、その視点から歴史を振り返る。そして、しっかりと身づくろいをして向かった先は党大会のパレードだった。旧知の人たちとにこやかにパレードするメレサ。彼以外の人々も非常に楽しそうだ。
 すでに開放的雰囲気の中、党は変わりつつあるが、そのパレードは昔の華やかな姿を想像させるものがある。
 最後の最後、パレードの場面からモノローグは続いたまま、煉瓦工の姿が映る。煉瓦とセメントで煉瓦の壁を積み上げる。不意に現れるその姿が妙に印象的で、感動的だった。

ある党員の履歴書

Zyciorys
1975年,ポーランド,47分
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
脚本:ヤヌス・ファスティン、クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影:ヤシェク・ペトリツキ、タデアス・ルシネック

 映画が撮られた当時のポーランドはいまだ社会主義体制下。その社会主義体制の中で、ある工場に勤める男が党から除名されるか否かを決めるために呼び出される。予備的な議論の後、本人が呼び出され、討論が始まる。男は委員会の意見に執拗に食い下がり、除名を避けようとする。党に不信感を抱きながら、党から除名されないように必死な男とその鼻が非常に印象的。
 キエシロフスキーは社会主義体制下で数多くのドキュメンタリーを撮ってきた。そのスタンスは必ずしも反体制であるとは限らないが、真摯なドキュメンタリーを作っていたようだ。

 作者の意図がどうであれ、この映画は共産党の幹部(おそらく地方の幹部)たちをネガティヴに映し出している。彼らの議論は理念ばかりが先に立ち、実際的な議論は全く先に進まない。そもそも問題としているのは、除名されようとしている男の内心の問題であり、彼の党に対する姿勢の問題なのである。
 男は党に対して不審や不満をもち、それを表明することに正当性を感じている。幹部たちはその党を疑う態度を批判する。男はそのようにして発言することを押さえつける党に疑問を投げかける。また男は批判される。
 結局はこのような空転する議論の繰り返しであり、延々とそれを見せられるだけなのだ。およそ40分間ただ進むことのない議論が映っている。それでも微妙に話の内容が滑っていき、男と幹部の意見は平行線をたどるどころか、どんどんかけ離れていくようだ。
 見ていると、男のほうに肩入れしたくなるが、その男が党に残ることに固執する。おそらく除名されることで生きにくくなるのだろうけれど、その男の態度も解釈するのは難しい。
 極めつけは幹部の一人が言う「共産党に内部対立はありえない」という言葉だ。この言葉が表しているのは、彼らの議論がそもそも理念から始まっており、その理念を覆すような現実はありえないものとして排除するという考え方だ。つまり、除名されようとしている男は党に対して不満を述べ、疑問を抱いている。彼が党内に存在しているということは党内に意見の相違が対立があるということであり、それはありえないことである。となると、男を除名して、その対立が存在しないようにするしかない。という論理。 
 これでは、焦点がぼやけ、どうにもならない議論になることは明らかだ。そのような体制によって支配された国が(理念的には素晴らしいものであっても)袋小路に陥るのは仕方のないことだったのかもしれない。ポーランドの共産党独裁が崩れるのはこれからさらに十数年後だが、この映画にはすでに、その崩壊の兆しが写し取られていたのだと(今見れば)思える。

ゴースト・オブ・マーズ

John Carpentert’s Ghost of Mars
2001年,アメリカ,115分
監督:ジョン・カーペンター
脚本:ラリー・サルキス、ジョン・カーペンター
撮影:ゲイリー・B・キップ
音楽:ジョン・カーペンター、アンスラックス
出演:アイス・キューブ、ナターシャ・ヘントリッジ、ジェイソン・ステーサム、クレア・デュヴァル、パム・グリア

 西暦2176年、火星。84パーセントまでに地球化が進んだ火星の都市に到着した列車。無人のように見えた列車には手錠をかけられた一人の生存者が。彼女は火星の警察の副隊長。いったい何があったのか。他の隊員たちはどこに消えてしまったのか。会議の席上、お偉方が並ぶ中、彼女はことの起こりから語り始めた…
 アメリカホラー界の奇才ジョン・カーペンターが火星を舞台に繰り広げるSFホラー・アクション。舞台を火星にしたところで、カーペンターはカーペンター。トリップ感さえ覚えてしまうほどの勢いで押しまくる。万人に受けるものではないけれど、とにかく痛快。

 いいですねこれは。渓谷についてからはとにかく殺し合いをしているだけなんだけれど、それが痛快。殺し合いが痛快というのはどうも語弊があるけれど、ジョン・カーペンターの殺し合いはあまりに痛快。それは一つはあまりに非現実的であるからであり、もう一つはとにかく徹底的だから。中途半端なヒューマニズムをひけらかしながら殺しを見せるより、こういう風に徹底的に殺す。躊躇なく殺す。とにかく殺したほうが害が少ない。害が少ないというのは娯楽として消化できるということで、「面白かったね」といって現実に戻ることができるというもの。
 同じように痛快な映画に『スターシップ・トゥルーパーズ』というのがあったけれど、これは相手が同じ宇宙人にしても形が昆虫で、だから殺すのに全く躊躇がなかったということ。コミュニケーションも全く取れないし。この映画は姿はほぼ人間なので、『スターシップ・トゥルーパーズ』よりある意味ですごい。人間の姿の敵なのに、殺戮が痛快であるというのはかなりすごい。それでも、自傷行為によってあまりヒトに見えなくするということや、やはりコミュニケーションは全く取れないという点で人ではないということは言える。

 徹底的という点で言えば、徹底的に残酷で、徹底的にグロテスク。CGではなくて特殊メイクで傷なんかを作るのもジョン・カーペンターらしい味で、リアルさは損なわれるけれど、逆にグロテスクさは増すような気がする。
 でも、やっぱり一番感心するのは徹底的に冷たいところだろうね。物語のつくりからして、登場人物たちも観客たちも突き放すような作り方。途中で主役級のヒトがあっさり死んでしまったり(一人しか生き残ってないからどこかで死ぬのはわかっているんだけれど)、とにかく分けもなく殺す。
 結局のところすべての話は殺戮ということに行き着いてしまう。アクションがしょぼいとか、現実的な考察がまるでないとか、行動が理不尽とか、いろいろ文句のつけようはありますが、どれもこれも「殺戮」という話に行き着くということは、そこの部分でこの映画は評価すべきということで、その部分ではこの映画は本当に素晴らしい。だからこの映画は素晴らしい映画だと思う。
 最後の最後の1シーンも、すごくいい。あれがあるとないとでは大違い。さらに観客を突き放すというか、わだかまりを残さないというか、ともかくこれも徹底的なものの一つ。
 その最後も含めて、なんとなくニヤニヤしながら見てしまう。ホラー映画で、結構怖いのに、全体的に言うとニヤニヤという感じ。もちろん生理的に受け付けない人や、怒って席を立ってしまう人もいると思いますが、映画に没入すれば一種のトリップ感を得られる。

 今、思い出しましたが、音楽もカーペンター自身が担当していて、相棒はスラッシュ・メタルの大御所アンスラックス。スラッシュ・メタルとかハード・コアなんて普段は全く聞かないけれど、この映画には非常にフィットしていていい。とてもいい。映画を盛り上げるというよりは、映像と音楽で一つの形になっていて、映画のリズムを作り、映像よりむしろ音楽が観客を操作している。そんな印象もありました。

怪盗ブラック★タイガー

Fa Talai Jone
2000年,タイ,114分
監督:ウィシット・サーサナティヤン
脚本:ウィシット・サーサナティヤン
撮影:ナタウット・キッティクン
音楽:アマンボン・メタクナウット
出演:チャッタイ・ガムーサン、ステラ・マールギー、スパコン・ギッスワーン、エーラワット・ルワンウット

 ダムはファーイに率いられた盗賊団で銃の名手として「ブラック・タイガー」と呼ばれていた。今日も同じくファーイの手下のマヘスワンと裏切り者の家を訪ね、皆殺しにした。一方、沼の中のあずまやに一人やってきた女性。彼女はダムの写真を持ち、一人待つ。仕事を終え、あずまやへと向かったダムだったが、ついたとき、そこにもう女性の姿はなかった。
 ごく彩色の不思議な色彩の映像に、古風なメロドラマ、西部劇、コメディといったさまざまな要素を詰め込んだタイ流エンターテインメント。作られた安っぽさが笑いを誘う。

 こういう映画は嫌いではない、というよりむしろ好きなんですが、この映画の場合、安っぽく作ることの意味を履き違えているというか、中途半端というか、笑えるところはあるけれど、全体としてはしまりがないというか、そんな気がしてしまいます。
 最初から、色みがおかしくて、なんだか昔のパートカラーの映画のようで、それは面白いんだけれど、それで全部を通すわけではなく、風景が多いところや、加工しやすいところにだけ、そういった風合いを出してしまっている。これは安いのではなく、安易。安い映画を作るのは非常に大変なもの。それもお金をかけて安い映画を作るのではなくて、本当に安い映画を作るのはさらに大変。そのあたりの努力が足りないことがこの色の使い方からも見えてしまう。
 この映画を見ていると、「もっとこうしたら」とか「こうなったら面白いのに」ということが結構ある。たとえば、オレンジ色のごく彩色の知事の家がありますが、最初3回くらい映るまではこの家を正面からしか捉えない。それを見たときに「これはきっと張りぼてだ」と思ったんですが、結局全体があって、ちゃんと映る。多分これは張りぼてだったほうが面白かったと思う。全体を写すのは正面だけで、部分部分は別に作る。そのほうが、非常に変な感じになって面白かったんじゃないかな。と思う。そんな場面が結構あります。
 あと、問題は主プロットのメロドラマがあまりにお粗末。恋愛ではなくて、ダムの人生というか、日常のほうが主プロットで恋愛はサブプロットだったなら、メロドラマのお粗末さ、ありきたりさも目立たなかったろうけれど、ここまで前面に押し出されてしまうとつらい。何せスリルがほとんどない。まあ、古典的メロドラマを使って、全体の時代性を統一しようという意図はわかるけれど、終盤はちょっと退屈してしまう。

 というように、全体としてみると、どうしてもあらが目立つというか、気になるところが多く見られますが、やはり面白いところも結構ある。カウボーイ風の強盗団がいること自体すごいけれど、彼らが馬で走るとき必ず掛かる音楽が一緒。この音楽はなかなか面白い。あとは、ダムがゴンだったか誰だったかの三人組とやりあう二つのシーンはいいですね。「血ぃ出すぎだよ!」とか「弁当箱忘れてるよ!」とか、突っ込みどころ盛りだくさんなので、一人で見るよりは、友達とがやがや見たいところ。
 そのあたりはなんだか「シベ超」的なところもありますが、ちょっとふざけすぎ。ふざけるならもっと真面目にふざけてよ。

BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界

Ballet
1995年,アメリカ,170分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 映画はABT(アメリカン・バレエ・シアター)の事務所から始まる。電話に向かって大声で交渉を行っている。つづいて練習風景。車椅子のお婆さんが振り付けをしている。車椅子に座っていても、凛とした姿でもともとバレリーナだったことが見て取れる。その後も練習風景を中心として講演に向けた準備を着々と進めていく光景を追っていく。
 世界的に有名なABTの内部に始めてカメラが入った。練習風景から、舞台裏、公演に至るまで克明に記録したのがこの映画。ワイズマンらしい鋭さよりも映像の美しさが際立つ作品。

 ワイズマンについて語るとき、どうしてもその映画が提起する問題について語ってしまいがちである。それはもちろんワイズマンがそうさせているからであって、ワイズマンの映画とはおそらく本質的に観客を問題に意識的にさせるための道具であるのだろう。
 しかし、ワイズマンがそのように映画をテキストとして読むことを要請してるとは言っても、単なるテキストであるわけではない。それがテキストとして読まれることを可能にしているのは、映像と音声であり、その(視覚的と聴覚的な)造形の見事さが映画の根幹を支えていることはいうまでもない。
 この映画を見てまず意識に上るのは、その映像の美しさだ。もちろんそれはABTのダンサーたちの体や動きの美しさに負うところが大きいが、ワイズマンはそれを見事にフィルムに焼き付ける。この映画を見ると、ワイズマンの映画もまたテキストである以前に映像であるのだということに気付かされる。

 この映画はそんなワイズマンの美的/芸術的要素が前面に出ている映画だ。ABTという一つの集合体を被写体とするという意味ではこれまでのスタンスと変わりはない。しかし、その被写体は今までになくいわゆる政治/社会的な文脈よりも文化的な文脈におかれるのにふさわしい被写体である。
 テーマというかテキストを抽出するならば、人々あるいは社会と芸術との関係性ということがいえ、それは続く『コメディ・フランセーズ』にもつながっていく問題意識である。
 特権的空間を日常的空間として描く点も『コメディ・フランセーズ』と共通する。ワイズマンはこのふたつの映画によって特権化されがちな芸術(高等芸術)を日常的なものに意味づけなおすということをやっているのではないか。ギリシャの青空の下で行われるリハーサルの風景、それはえもいわれぬ美しさを持っているけれど、それは手の届かないところにあるのではなく、それを眺める少女の身近にあるものである。そのようなメッセージが画面から伝わってくる。そもそもバレエを映像に捉えること自体、日常的空間への転移の一種であるだろう。
 そのようにして特権を剥ぐことによって、ワイズマンは芸術を身近なものに感じさせることに成功している。そしてそれは価値を貶めるのではなく、むしろ高める。ワイズマンのフィルムに刻まれた練習風景を見ていると、本番が見たくなる。しかも本物の舞台を見たくなる。
 ワイズマンの目的は人々を舞台に連れて行くことではないだろうけれど、少なくとも芸術と日常を密接に結びつけること。これがワイズマンが意図したことの一つであることは間違いない。

アメリカン・ビューティー

American Beauty
1999年,アメリカ,117分
監督:サム・メンデス
脚本:アラン・ボール
撮影:コンラッド・L・ホール
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ケヴィン・スペイシー、アネット・ベニング、ゾーラ・バーチ、ミーナ・スヴァーリ、ウェス・ベントリー

 アメリカの田舎町、広告会社に勤める父と不動産業を営む母、ティーンエージャーの娘。典型的なアメリカの過程の風景だが、物語は父の自らの死の予告、娘の父を軽蔑する言葉、から始まる。
 家庭の崩壊、ドラッグ、ティーンエージャー、アメリカ的なものを並べ、アメリカのイメージを描く。「この国は地獄に落ちる」という言葉が頭に残る。どう見るかによって評価は分かれる。つまらないということはないし、見る価値もあると思うけれど、手放しで誉めるのはどうだろう?

 ストーリーを追っていくと、こんなにつまらない作品はないですね。全体が謎解きじみた構成になっているわりに、それが推理ゲームになるわけではない。最初に死を予告しておき、何度も死に言及する割に、それがテーマになってはいない。それはこの映画の構造が、死を予告しておいて、その死によって幕を閉じるということで一見まとまっているように見えるけれど、実際のところ何も解決してはいないということが原因なのかもしれない。このケヴィン・スペイシーの死をめぐる物語が映画の主プロットなのだとしたら、こんなつまらない映画はない。
 しかし、実際のところこの映画には主プロットはなく、さまざまな小さなプロットが積み重ねられてできているわけで、その小さなプロットのひとつが最初と最後に突出して、ひとつの物語りじみたまとまりをつけているというだけのもの。しかもその主人公であり、語り部であるケヴィン・スペイシーの心理激であるような印象を全体に残すので、ひとつのまとまりある物語を見たという印象を受けてしまう。
 このプロットの展開にだまされてしまうと、なんとなく「いい映画だった」と思ってしまう恐れがある。それはなんとなく奥深いような意味深いような複雑なような印象。

 この見せ掛け上の話のまとまりの裏に隠されているのは、アメリカのさまざまな姿で、しかもそれはアメリカの暗い部分というか、問題をはらんだ部分であるということ。一人の中年男の倒錯の物語という覆いにさまざまな問題が隠されている。
 この映画の構成はふたつの解釈ができる。一つはいろいろな話をぶち込んで、誰もが引っかかる部分を設け、映画にヴァラエティを持たせて、映画に厚みを持たせる。もう一つは、見せ掛け上の主プロットによって、さまざまな問題を覆い隠し、むしろ問題のほうをうったえかけようとする。
 さまざまなほうっておかれる問題、ゲイ差別、ドラッグ、家庭の崩壊、などなどが解決しないのは、現実の反映で、現実でも決して解決されえない問題であると明かしているように見える。そして暗黙のうちに提示される「アメリカ=白人」という構図。
 わたしの印象としては、この映画はそれらの問題を問題化していないように見える。そういう問題はあるけれど、それはそれとしてアメリカはアメリカ、人間は人間、みたいな。ちょっとうまくかけないんですが、これらの問題は問題として提示されているのではなく、「こういうことがある」という事実としてある。それを解決しようとかそういうことではなくて、そのような事実が存在するアメリカでどのように生きるのか、そのサンプルのようなものを何人か提示したという形。その生き方のヴァラエティのどれかに見ている人たち(主にアメリカの白人)がはまれば映画と観客の関係はうまくいくという感じ。
 そのように感じる一番大きな要素は、音楽の使い方で、誰がどんな音楽を聴くのか、という要素がこの映画で非常に大きな意味を持つ。音楽はいいんですが、それがいいとか悪いとかいうことではなくて、音楽がうまく利用されているということが大きい。そのうまく利用されているということは音楽にとどまらず、すべてのトピックが映画のために利用されていて、全体としては「ゼロ」になるようなそんなつくり。簡単に言ってしまえば、いろいろ意味深いことを言っているようで、結局のところ何も言っていない。そんな映画。
 それでいいといえばいいんだけれど、「いい映画」とはいえない。

チャーリーズ・エンジェル

Charlie’s Angels
2000年,アメリカ,98分
監督:マックG
脚本:ジョン・オーガスト、ライアン・ロウ
撮影:ラッセル・カーペンター
音楽:エド・シェアマー
出演:キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、ルーシー・リュー、ビル・マーレイ

 とある飛行機のファーストクラス。アフリカ系の大男が挙動不審の男の隣に座る。合言葉というと、その男は胸に抱えた爆弾を見せた。アフリカ系の大男は爆発直前に爆弾を持った男を抱え、飛行機の扉を開けて外に飛び出した。空中で爆弾は爆発した。
 謎の男チャーリーに雇われ難事件を解決するナタリー、ディラン、アレックスの美女3人組。その名はチャーリーズ・エンジェル。
 70年代に人気を博したTVシリーズのリメイク版。ドリュー・バリモアが製作権を買い、自らキャストを集めたという入魂の作品。

 この映画をどう見るかといえば、笑うしかない。アクション映画だと思って真面目に見てしまうと、確実にどうしようもない映画になってしまう。いかに早くそのことに気付くのかが勝負。
 といっても、冒頭の飛行機のドアを開けて外に飛び出す時点でそのことにはすっかり気付くわけで、そこから先は全く持って破天荒な滅茶苦茶な、アクションによる笑いを楽しめばいい。それはもちろん、わかりやすいワイヤー・アクションでみんなが空を飛び(今のアメリカ人は空くらい飛べたないと映画には出れないらしい)、爆風に跳ね飛ばされ、ドアや壁にぶち当たる。それでも怪我ひとつしない。
 この映画でむしろ邪魔なのは、逆として存在するギャグの部分。パーティーでの相撲レスラーとか(後ろにいたのがどう見てもトンガ人なのは面白かったけど)ビル・マーレイのコメディアンらしい動きとか。そんなことをしなくてもこの映画は笑える。
 とはいえ、この映画は基本的にはアクション映画のようで、作る側もそのように作っているらしい。いわゆる「マトリックス後」のハリウッド・アクションの典型的な例で、ワイヤーアクションと映像加工を駆使して、ありえないことをさまざまやってしまう。一番面白かったのは、レーシングカー同士が橋の上でチキンレースをするところ。ありえなさもここまで行き着くとものすごい。大爆笑してしまいました。「マトリックス後」のアクションの過剰さ。その過剰さを笑いに持っていくのも一つの方法。作る側は狙っていないかもしれないけれど、できた映画を見れば、見事に笑えるところに落としている。あるいはわたしのツボに落としている。
 おそらく、この映画を批判する人はたくさんいるでしょう。アクションがつたない。ストーリーが荒唐無稽。話の辻褄が合わない。リアリティがなさ過ぎる。いろんな映画の真似に過ぎない。何で肝心のときに銃をつかわねーんだ。アジトのわりに警備が薄すぎるぞ。
 まあ、どれも当たっているんですが、それでもあえて、この映画を笑うことのできる余裕のある大人、そして心の広い映画ファンでありたい。皆さんにもそうあって欲しい。そのような願いを込めております。だって、ドアは全部蹴って開けるんだよ。

ダブル・リアクション

Perfect Assassins
1998年,アメリカ,98分
監督:H・ゴードン・ブース
脚本:ジョン・ペニー
撮影:ブルース・ダグラス・ジョンソン
音楽:ジョフ・レヴィン
出演:アンドリュー・マッカーシー、ロバート・パトリック、ポーシャ・デ・ロッシ、ニック・マンクーゾ

 何かのレセプション会場が銃を持った男たちに襲撃される。何人もの要人や警察官が殺され、犯人のうち二人は自殺、一人は逃亡中に捕まった。しかし、その一人も銃口を自分の口に突っ込んで自殺しようとしていた。それを目の当たりにしたFBI捜査官のベン・キャロウェイはこの事件の裏には何かあると感じるが、上司に止められ、独自に捜査を始める…
 典型的なアメリカのB級アクション映画。派手な銃撃戦と、ちょっとしたロマンスと裏切りと。社会批判をスパイスに。そんな映画。

 主役の人は知りませんが、相棒のリオ役は『ターミネーター2』で液体金属の新型ターミネーターを演じた人でした。日本ではあまり目にしないけれど、こんなところに出ていたのね。そしてヒロインの女の人はたぶん『アリー・マイ・ラブ』に出ている人です。主役ではありませんが、それでも男勝りのアクションを展開。こういう華奢な女性が派手なアクションを繰り広げるというのが最近の流行のようです(この映画はちょっと前だけど)。『トゥーム・レイダー』とか、今度公開する『バイオ・ハザード』とか。最近多いですね。
 さて、この映画の結末に用意されているのは、一種の政府批判で、まあたいした批判ではありませんが、基本的に政府やメディアに対する不信感がそこにはある。簡単に言ってしまえば、事件をもみ消してしまうということだけれど、そういうテーマもアメリカにはかなり多い。そういうものを繰り返し見せられていると、やっぱり本当にそうなんだろうなー、という気がしてきて、実際本当にそうなんだろうけれど、何か居心地が悪い。
 そんなアメリカの姿を描きながらも、アメリカにはヒーローもいるというのがこの映画のテーマで、この映画に限らずB級映画にはそんなものが多い。世の中は腐っているけれど、身近にはまだヒーローがいる。そんな希望というか誇りというかそのようなものが良く描かれる。しかし、いわゆる大作ハリウッド映画では(特に最近)世の中が腐っているという描かれ方すらしなくなっている。『ダーティー・ハリー』とか『リーサル・ウェポン』では、組織の爪弾きものが実はヒーローという話だが、そうも最近はヒーローが組織の中でもヒーロー見たいな印象。あくまで印象ですが。
 何を見ても、そんな由々しき状況が見えてしまう。B級映画のほうにアメリカの精神は生きているとわたしは思います。たいして面白くはないけれど、『トータル・フィアーズ』(見てないけど)なんか見るよりは、この映画見てた方がいいと思う。

ワイルド・アット・ハート

Wild at Heart
1990年,アメリカ,124分
監督:デヴィッド・リンチ
原作:バリー・ギフォード
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:フレデリック・エルムズ
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン、ウィレム・デフォー、イザベラ・ロッセリーニ、ハリー・ディーン・スタントン

  あるパーティー会場で、ナイフで脅されたセイラーは素手でその相手を殺してしまう。故殺とされてセイラーは矯正院に入れられる。約1年後、矯正院を出たセルラーを恋人のルーラが迎える。二人は車で旅に出るが、ルーラの母親がそれを阻止しようと追っ手を送り込んだ…
 デヴィッド・リンチの名を不動のものとした、これぞまさに「リンチ・ワールド」という作品。執拗に繰り返されるマッチのクローズアップなど、映画に奇妙なバランスを持ち込んだ。登場人物たちもどこか普通ではない。理解しようとしてはいけない。感じようとすれば最後に何かが見えてくる。

 一つ一つのシーンの意味なんかを考え出すと、わけがわからなくなりますが、全体的な印象として、この映画は子供の映画だということ。登場人物たちはすべて子供で、それは自分の欲求をストレートに追求しているということ。そして、世界のとらえ方も現実を理性的に捕らえるのではなく、感性で自分の感じる世界をそのまま受け入れるというとらえ方。そのように考えると映画を一つの構造体としてみることが(私には)できる。
 口紅で顔を真っ赤に塗りたくる母親も、最初は狂気のように見えるけれど、子供らしいいたずらというか、幼児的な行動。これに限らず母親の行動はまさに子供じみた行動で、わがまま放題、周りを振り回して自分の欲求を果たそうとする。 これはこじつけかもしれないけれど、この映画には子供は一人も出てこないけれど、逆に老人ばかりが働くホテルが出てきたりする。「何年と何ヶ月と何日」という妙に正確なキャプションも、妙に正確性を求める子供的発想と考えられなくもない。
 なので、最後のあまりにくさいというか、そんなんでいいのか、と思ってしまいそうなラストにも納得。セックスとバイオレンスを描いた映画ならあんな終わり方はしないはずだが、これは子供映画なので、絵に描いたようなハッピーエンドが必要だったのだ。

 という風に私は考えたわけですが、これもあくまでこういうとらえ方もあるということです。おそらく、セックスとバイオレンスをパロディ化した一種のコメディ映画だという見方もできるだろうし、生と死と狂気を見つめた精神的な映画と見ることもできるだろう。どの見方も、この映画の一面をとらえている一方で、一面を見逃している。私は自分のとらえ方に固執しながら、それによってすべての理不尽が許されてしまい、その結果この映画が持つ細部へのこだわりがあまり意味を持たなくなってしまうということを感じている。序盤の徹底的に原色にこだわった画面作りなどを解釈することはできない。
 ということは、そのような自分なりの解釈を抱えて、もう一度この映画を見ることができるということでもある。あらゆる解釈を可能にすることで、繰り返し見せるような映画。それがデヴィッド・リンチの映画であると思う。