法と秩序

Law and Order
1969年,アメリカ,81分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 カンザスシティの警察官の様子。もちろん犯罪者を逮捕する。それだけではなく、街を見回りさまざまな出来事に応対する。ひったくられたバックの捜索などもする。ワイズマンがカメラを回したのは、アフリカ系の住人が多く、貧しい住民が多い地域である。
 映画は警察の活動を肯定的とも否定的とも取れる形で捉えていく。しかしそれは客観的という価値観によるものではなく、まさに現実を切り取ろうという意欲の結果である。
 現実はそのようなものであるとして、その『法と秩序』が意味しているものはなんなのか? ワイズマンはいつものように観客に問いかける。

 警察を追うドキュメントというのは見慣れた感じがする。日本でも「警視庁密着24時」なんてのもあるし、アメリカの番組も入ってきていたりする。だからといって、必ずしもこの映画と比較する必要もなく、この映画が30年以上前に作られたことも考え合わせると、単純な比較をすることがそもそも間違っているような気がする。ので、とりあえず比較はおいておいて、素直にこの映画を見てみたいと思う。
 この映画を見てまず思うのは、警察官とはいったいなんなのか? ということだ。それはあまりに素朴な感想だが、ワイズマンの描き方は、まさしく警察官のとらえどころのない活動の総体を捉える描き方だ。時には市民に優しく接する人々であり、時には犯罪者と見まごうばかりに暴力的にもなる。それはつまり生活に密着した存在であると同時に、権威を象徴する存在でもある。そのような存在である警察官を公的に表すのが「法と秩序」という言葉だ。警察官とは「法と秩序」の万人であるという言われ方をする。
 しかし、この映画に突然ニクソンの演説が挟まれると、話は簡単ではなくなっていく。ニクソンが「法と秩序」について語り、治安の維持こそが大切だと叫び、人心の刷新こそが必要だと訴えかけるとき、慣習の歓声がそこに捉えられているにもかかわらず、そこに説得力はない。それまでずっと警察官の活動を見せられてきたわれわれは、警察官の活動が上からの変革の影響を早々受けるものではないということにうすうす気付いている。だからニクソンの演説は訴えかけてくる以前に滑稽ですらある。
 これはある意味では、国家と生活との乖離を示す一つの例なのかもしれない。国家とはつまり権力である。警察とは国家と生活をつなぐ一面を持っているかもしれないが、その背景にあるのは権力である。だからいくら生活に近づこうとしても、そこに行き着くことはできない。その生活に密着しているようで、近づききれていない警察の微妙な立場がフィルムに込められているからこそ、この映画を見て「警察官とはいったいなんなんだ」と考える。

 結局ここで比較の話にいってしまいますが、いわゆる警察ドキュメントとこの映画との違いは、その辺りにあるのではないか。いわゆる警察ドキュメントが追っているのはあくまで警察の活動である。それぞれの活動の「意味」を求めることはあっても、基本的にそれが求めるのは警察の<活動>である。
 それに対して、この映画はまず警察の「意味」を求める。求めるというよりはそれを問題のまな板に載せる。ここの活動の「意味」も、活動それ自体もあくまで警察というものの存在の「意味」を考えるための材料である。
 もちろん、映画とは個々の映像(と音声)から成り立っているものであるので、そのように言ってみても、それは単なるひとつの解釈に過ぎないということになる。映像だけを捉えるなら、この映画もいわゆる警察ドキュメントもあまり変わりはない。
 あえて、繰り返しふたつの間の違いを言うならば、それは見ているものを考えるように仕向けるか否かという違いである。同じ材料を映像化しながら、それを一種のエンターテインメントとして見せるか、それとも思索の材料として見せるか、優劣以前の問題としてそのような違いがあるような気がする。

高校

High School
1968年,アメリカ,75分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:リチャード・ライターマン

 今回ワイズマンが入っているのは、ノースイースト高校。白人中産階級向けの典型的な高校のひとつで、かなり優秀な生徒が集まっているようだ。そんな中でも問題を起こす生徒はおり、生活指導の教師が生徒たちに厳しい言葉を投げかける。あるいは父兄が呼ばれ、成績や進路について話し合う。そんなどこの高校でもありうる風景を連ねた作品。
 ワイズマンには珍しく時代性を強調し、映画の始まりも当時のヒット曲をBGMとして使っている。ワイズマンが切り込むのは、生徒よりはむしろ教師と学校という機構の側である。

 なんともいらだたしい学校だ。表面上は性教育が盛んであったり、現代的な教材(たとえば、サイモン&ガーファンクル)を取り入れたりして、進歩的な教育を行っているように見える。しかし、その実は旧態然とした権威主義と差別主義がすべてを支配する学校だ。教師のどの言葉をとっても、そこに権威主義と/か差別主義が透けて見える。
 生活指導を行う教師はあからさまに権威を振りかざす。そこには理屈はない。生徒が何をしゃべろうとその言い分は何一つ聞かず、あらかじめ用意した自分の考えを生徒に押し付けるだけだ。言葉の上では硬軟使い分けるが、結局言おうとすることはひとつで、反抗する生徒には容赦をしない。ここで思うのは教師たち(一部の生徒もそうだが)の「決め付け」の激しさである。すべては自分の先入観をもとに判断される。これで教育などできるはずがない。
 「家」について話す教師は女系家族を尊重するような口ぶりをするが、旧約聖書にはほとんど女性が登場しないなどという話を持ち出して、結局は女性の地位を貶める(生徒は男子学生のみである。この授業にかかわらず、この学校では男女別の授業が数多くあるようだ)。

 この映画は時代性を意識して作られている。最初のシーンで流れる音楽は当時のヒット今日であるし、ベトナム戦争が話題のなるのも一種の時代性だ。生徒たちのファッションや髪型にも頻繁にカメラが向く。ワイズマンの作品は一般的に言って、時代とか場所とかを超越したような作品が多い。それは一種の普遍性である。この映画もそのような普遍性を目指している点では変わりがない。この時代性が意味するのは、教育と時代との密接な関係性だろう。
 その時代性を象徴するトピックのひとつが最後にやってくるベトナムに行った卒業生からの手紙だが、もちろんワイズマンは観客を感動させようとしてこのエピソードを入れたわけではないし、反戦のメッセージでもない。かといって、超然とそのような生徒=兵士を生産する学校という制度に疑問を投げかけているわけでもない。
 ワイズマンの関心は兵士の生産装置として描かれている学校というものがアメリカという大きな機構のひとつの部品でしかないということであるだろう。その意味は、国と学校を含めた生活とが密接にかかわっているということではなく、その逆である。
 一つ一つの現実は一人一人の人間の生活そのものであり、それは真剣に見つめなければならない問題である。ここで現実とは高校のことであり、それは主に生徒にとっての高校という意味だ。しかし、他方で国という大きな機構があり、それはあらゆる現実と関わり、それを制御しようとする。この国と現実との関係性はあまりに薄い。国は現実とは乖離してしまい、何もすることができない。

es[エス]

Dar Experiment
2001年,ドイツ,119分
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
脚本:ドン・ボーリンガー、クリストフ・ダルンスタット、マリオ・ジョルダーノ
撮影:ライナー・クルスマン
音楽:アレクサンダー・フォン・ブーベンハイム
出演:モーリッツ・ブライブロロイ、クリスチャン・ベルケル、オリヴァー・ストコウスキ

 タクシー運転手のタレクは「被験者求む」という広告を見つけ、それに応募する。その実験は集まった被験者たちを囚人役と看守役に分け、それによる精神の変化を見ようという実験だった。その実験が行われる直前、タレクは美しい女性に車をぶつけられ、そのまま一夜を過ごすという不思議な体験をする…
 過去に実際に行われ、被験者たちへの精神的影響があまりに大きく、途中で中止されてしまった。現在は心理上の問題もあり、全面的に禁止されている。この映画は実際に行われた実験をもとにして作られている。

 怖すぎます。
 この恐怖はどこから来るのでしょう。それはあまりに起こりえる出来事だから。簡単に想像できる恐怖だから。簡単に想像はできるけれど、同時にその恐怖に耐えられないことも容易に想像できる恐怖だから。
 この映画は実験を行う側についても描かれ、恋愛の話なども挟まれ、ちょっとこねたプロットになっているのだけれど、そんなことはどうでも良く、とにかく実験の中身、行われている実験のほうにしか興味は行かないし、それだけで十分であるともいえる。
 言葉にしてしまうと月並みになってしまうけれど、普通の人がいかに攻撃的に、あるいは暴力的になりうるのか、自制心を、良心を失うことができるのか。その変化は劇的なようでいて、意外に簡単なものである。結局はそういうことだ。この映画はもちろんそういうことを示唆するし、そこから考えるべきことも多く、恐怖の源もここにある。
 しかし、わたしはこの映画が成功している最大の秘密は具体的な恐怖の作り方にあると思う。ホラー映画の基本は観客に「来るぞ、来るぞ」と思わせておきながら、それでも予想もしない瞬間に観客を襲うという方法。その盛り上げ方が周到で、その遅い方が意外であるほど、観客を襲う恐怖も大きい。この映画はそんなホラー映画の文法をしっかりと守る。観客が頭の中で恐怖心を作り出せるように周到なプロットを練り、それを意外なところで爆発させる。

 なんだろう、映画の途中で囚人役の一人が「ナチス!」と口走るように、この心理作用はあらゆる集団操作に使われているし、この後も使われる危険はある。そのことを説得的に語るのではなく、純粋な恐怖として語るというのは作戦としてすごい。見ている間は完全な娯楽作品というか、サスペンスとしてみることができるけれど、見終わって「アー、怖かった」と振り返ってみると、また現実における恐怖がわきあがってくる。そういう意味では一度で二度怖いという言い方もできる。
 ファシズムには負けないぞ!

パブリック・ハウジング

Public Housing
1997年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 シカゴにある公共住宅アイダ・B・ウェルズ・ホームズ、主に低所得者層のマイノリティが住むこの公共住宅には、老朽化などのさまざまな問題がある。住人たちにも、失業、犯罪、麻薬などの問題がある。そんな問題だらけの公共住宅に住む人々にワイズマンは目を向けた。
 公共住宅という性質上、役所との交渉がそこには常に存在している。それと同時に、さまざまな話し合いが持たれたり、託児所があったり、バザーが開かれていたり、ひとくくりにはできないさまざまな生活がそこにはある。

 これは公共住宅の映画ではない。最初のほうこそ公共住宅の問題点が語られ、害虫駆除などの具体的な問題が提示されるが、それを過ぎると公共住宅というひとつのコミュニティーの話となる。これは『病院』のような施設の性質と密着にかかわる話ではない。ある地域があって、そこは公共住宅で、そこに住む人は貧しかった、という場所設定のドキュメンタリーでしかない。
 それがどうということではもちろんない。それはただなんとなく、この映画がワイズマンのほかの映画とはちょっと違うということを示しているに過ぎない。

 この映画で一番目を引くのは、昼間からあまりにもたくさんの人が家の近くをぶらぶらしているということだ。これは失業の問題が最も大きく作用しているわけだが、ここにアメリカの抱える根本的な問題がある気がする。もちろん彼らだって働く意思はある。しかし、他方で働かなくても家はあるし、食べていけないこともない。彼らは政府が何とかしてくれると思っている。
 わたしは別に努力をしないのがいけないといいたいわけではない。彼らに生活させることができる政府の施策も間違ってはいないだろう。問題なのは彼らの這い上がりたいという欲望の持って行き所がないということだ。住宅管理局のロン・カーターはしきりに「会社を作れ」とけしかけるが、聞く者たちの目は不審気だ。そこには成功するわけないという一種の諦めがあり、閉塞感がある。それは、結局政府は助けてくれないという諦めでもあるが、しかし他方で政府の援助なくしては暮らせないという現実にも直面せざるを得ない。その自分の中での矛盾はただその閉塞感をさらに増すだけだ。

 彼らの問題を突き詰めていくと、結局話しは麻薬に行ってしまうのか。この公共住宅には麻薬中毒者と思われる人がたくさんいる。売人などもいるらしい。麻薬が彼らを閉塞感の悪循環に追い込んでいることは確かだ。おそらく警察を含め、周辺に住む人々はアイダ・B・ウェルズを麻薬中毒者の巣窟のように思っているのだろう。じじつ、警官は映画の最初のほうで、公園の同じところに3時間も立っていた女を売人と決め付ける。偏見は新たな悪循環を生む。
 それでも映画の終盤に出てくる、治療を受けるためのカウンセリングのシーンは感動的だ。カウンセリングを行う医師の徹底的な我慢強さ。2人の間にはしっかりとコミュニケーションが成立し、きっと彼はちゃんとした治療を受けるだろう。これはこのコミュニティが立ち上がるひとつの方向性を示している。もうひとつその方向性を示しているのは、ボランティアについての話し合いだ。「なんて当たり前のことを言っているんだろう」とは思うが、当たり前のことを当たり前に行って、信頼を勝ち取ってゆくことによって偏見は解消されていくはずだ。しかしワイズマンはこの公共住宅の未来に必ずしも楽観的なわけではない。ほとんどの問題は解決される見込みもないまま放置されている。
 先ほども言ったロン・カーターの話をどうだろうか? どうもうまく実現するようには思えない。子供に対する知育はうまくいくだろうか? DV教室でも言われているように、親の姿を見て育つ子供が、この環境の中で健全に生きることにあまり希望は持てない。麻薬の誘惑を断ち切れるような子供は早々にここから出て行ってしまうのでは

臨死

Near Death
1989年,アメリカ,358分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 ボストンにあるベス・イズラエル病院。その内科ICUで治療を受ける何人かの病人たちを記録した映画。本当に死に瀕する患者とその死に臨む患者の家族、患者とその家族と話し合いながら治療法を考える医師、看護婦。
 ワイズマンはいつものように冷徹な目でそれを見つめるが、そこには生と死というドラマが厳然としてあり、6時間という時間も飽きさせることがない。基本的には4人の患者をそれぞれ独立した物語として描く。
 6時間という時間は観客にとってはとにかく考える時間として与えられている。映画が投げかけるものについて考えざるを得ない6時間。それは得がたい時間である。

 あまりに長くて最初のほうは忘れてしまいましたが、とにかく最初から最後まで呼吸器や蘇生術という延命治療が問題となる。その背景には脳死が完全に人の死として認められたということがあるだろう。途中で看護婦が行っていたように脳死とは不可逆的な機能停止ではあるけれど、心臓が動き呼吸をしている以上、完全な死のようには見えない。そのような特殊な状況の中でどのような選択ができるのか。この選択の問題は脳死に限らず、回復の見込みのない患者一般に広まる。そこで決断を迫られる患者とその家族。彼らと医者・看護婦との関係。これがこの映画の焦点となっていることは間違いがない。
 この映画は川を進むボートの風景ショットから始まり、病院でのエピソードの間に何度も外の景色がインサートされる。最初の区切りはやけに長いが、その終わりには夜の街とそれに続く朝の病院のショットが挟み込まれる。この夜から朝の一連のショットは何度か挟み込まれ、擬似的な一日を作り出す。もちろんその外景ショットで区切られた1エピソードは一日ではなく、順番もそのままではないのだが、その擬似的な一日があまりに長い映画を整理する役目を果たしている。
 なぜこんなことを長々と書いたかといえば、この映画が時間を周到に操って作られているからだ。おそらく同時に進行しているであろう3人ないし4人の患者の話をそれぞれ独立した話として順番に語っていく構成。この構成自体がこの映画にとって非常に大きな意味を持ってくるのだが、そのことについてはあとで書くとして、この構成を作り出すために擬似的な時間軸をワイズマンは作り出したわけだ。そのあたりはさすがという感じ。

 映画の内容についての感想はといえば、この病院では何度もミーティングが開かれる。それはここの患者の症状について、治療法についてという具体的な話し合いから、倫理観といったような抽象的な問題、井戸端会議のような看護婦の話し合いまで多岐にわたっている。これらの会議や話し合い(それには雑談も含まれる)を会話の意味までわかるようにきっちりと撮るワイズマンの撮り方は見せるというより考えさせようというスタンスだ。他の映画もそうだが、この映画は特に観客の感受性と思考力に訴えかける。ワイズマンの映画は観客自身の思考を抜きにしては完成されえない映画なのだ。
 ところで、このような話し合いでたびたび出てくる言葉に「ゴール」というものがある。それは治療・看護の目標の問題だ。医師や看護婦が患者に対して何を成し遂げようとするのか、それを「ゴール」として明確化すること、そのことがこの映画の中では常に重視される。しかし、そのようなゴールを決めなければ医療行為を行うことができないところに、この臨死治療の複雑さ、困難さがある。 さらにこの問題を複雑にしているのが、その「ゴール」を決めるのが患者自身、あるいは患者の家族であるということである。医者は医学的情報を患者や家族に与え、決断を迫る。医者の側としてはひとつの考え(答え)を持って患者や家族との話し合いに臨んでいるけれど、決めるのは患者とその家族であるのだ。しかし、そのような決断を患者自身や家族が本当にできるのか? ワイズマンの突きつけるもっとも大きな疑問のひとつがこれである。自分自身の、あるいは親しいものの死を前にして決定的な決断など本当に可能なのだろうか? 「責任を負う」という医者や看護婦が言う言葉、その言葉がこの決断の意味を表している。医者自身たびたび「自分だったらそんな決断はできない」と言う。それが意味しているのはそのような決断をすることの責任の重さだ。そんな重い責任を誰が負うのか? 看護婦の一人はその責任を負うことこそが仕事だという。
 スピラーザ氏のエピソードにファクター夫人の夫の姿が何度もインサートされる。医者である彼でも妻の死を前にして、ただ窓辺でまどろむしかない。力になることはおろか、選択することすらできない。

 どう考えをめぐらせても答えにたどり着くことはできない。だからこそワイズマンも6時間もの長きに渡って根本的には同じであるいくつものケースを繰り返し見せることにしたのだろう。この繰り返しという構造にこの映画のポイントがある。それぞれのケースで問題が起こるたびに、観客は問題に立ち返る。それによって導かれる思考の道筋。その思考の繰り返しこそがワイズマンが観客に求めるものだ。
 ワイズマンは作りながら繰り返し考え、われわれじゃそれを見ながら繰り返し考える。私はこれを書きながらさらにまた考える。皆さんはこれを読みながらまた考える。あるいはこれを読んで考え、映画を見に行って再び考える。そのように個人が考えることによってしかこの問題の答えへと近づく道はない。答えは決して出ることがなくとも、このような思考の積み重ねが個人が問題にぶつかったときに助けになるかもしれないと思う。

聴覚障害

deaf
1986年,アメリカ,164分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 アラバマ聾学校を舞台に、聴覚障害の子供たちと、教師、寮母たちを描く。聴覚障害の子供たちの多くはしゃべるの困難だ。だからキャンパスは静寂に包まれ、何か不思議な雰囲気を持っている。教師や寮母は健常者であったり、しゃべる技術を見につけた聾者であったりする。
 ワイズマンが焦点を当てるのは、その全面的な教育である。聾者に対する教育の意味というか、それがどのように行われているかを提示することで浮かび上がってくるのはやはり「アメリカ」というものだ。

 『聴覚障害』というタイトルではあるが、この作品も他の作品と同じくひとつの施設(聾学校)を対象とした作品である。主に取り上げるのは小学校入学前から小学生くらいの子供、言語を獲得していく過程にある子供たちである。これは素朴な感想だが、言語を獲得していく過程が、耳が聞こえると聞こえないとではあまりに違う。聾者にとって問題なのは言語を操ることではなく、言語を獲得することなのだということがリアルなものとして伝わってくる。しゃべるという概念すら理解できないとしたら、そうして言語などというものを想像することができるだろうか? 自分が聞くことのできない音を発するということがどんなに困難なことか。

 そんな素朴な感想を超えてまず気になるのは、映画のハイライトになる後半の長いシーン。好調とカウンセラーと生徒の母親が話していて、そこの生徒が呼ばれるというシーン。カメラはずっとその室内にとどまって会話を余すことなく伝える。このシーンは簡単に言ってしまえば、聴覚障害者であるということにかかわらず、人間として正しく生きろということを生徒に諭している場面であるが、実際にそこにあるのは、思春期のもやもやや独立心やいろいろなものを押しつぶして大人の価値観を押し付けようという姿勢である。
 彼だって母親を愛している。しかし思春期にありがちな反抗心や気恥ずかしさ(それは独立心に由来していると思うが)によって、それを認めたくないだけだ。そこには葛藤があって、その葛藤を乗り越えて、自ら愛や家族というものを理解していくべきもの(だとわたしは思う)のに、この校長(とカウンセラー)は無理やりに彼に母親を愛しているということを認めさせてしまう。そこには脅しがあり、賞罰主義が透けて見える。これを見て思うのは、これは彼を大人にしようという教育ではなく、無条件に愛するという子供の状態に戻すだけなのではないかということだ。この学校では、大人として愛というものを理解することを教えるのではなく、操作しやすい都合のいい生徒にするだけだ。

 結局、彼らの教育とは障害者にある種の生き方を強制するするものだ。それは自らが他の人と変わらないという生き方。それは最後の黒人の成功者らしい老人が言っていることともつながるが、ハンディキャップがあってもそれを克服して生きられる、成功することができるという哲学だ。そこには逃げ道はない。何をしゃべっているのかわからない異邦人たちの国で彼らはその中に溶け込み、その中でのし上がっていかなくてはいけないと説得されているのだ。しかも、そんな異邦人たちの国を愛せといわれている。
 最後の黒人の話はあまりにひどい。エジプトだかどこだかの話をしてそこにはアメリカのような自由はないと語る。そしてアメリカは素晴らしい。その言説にはあらゆる問題が含まれている。まず彼はアメリカの自由がそのような不自由な国に対する搾取によって成り立っていることを自覚していない。アメリカこそがその自由を奪っているのだということに気付いていない。
 彼は自らがマイノリティであったという経験を持っているにもかかわらず、マジョリティの価値観の押し付けに無自覚である。この聾学校の教育そのものがマジョリティの価値観の押し付けである。そもそも問題とするべきなのは、少年の自殺のほのめかしなどの言動なのか、それとも母親が手話を学ばないということなのか。わたしは母親が手話で息子と語れないということのほうに根本的な問題がある気がするのだが。

キング・イズ・アライブ

The King is Alive
2000年,デンマーク=スウェーデン=アメリカ,108分
監督:クリスチャン・レヴリング
脚本:クリスチャン・レヴリング、アンダース・トーマス・ジャンセン
撮影:ジャン・スクロッサー
出演:ロマーヌ・ボーランジェ、ジェニファー・ジェイソン・リー、ジャネット・マクティア、デヴィッド・ブラッドリー

 アフリカのどこかの国、エメラルド・シティーへと向かうはずのバスだが、なかなか目的地に着かない。朝になり、どこを向いても一面砂漠の道を走っていることに気付いた一行は目的地を示すコンパスが壊れていたことを発見する。 何とか廃墟となった小さな村にたどり着いたが、そこには一人の老人が何もせずに暮らしているだけ。一人の男を救援を呼ぶために送り出し、残りの人々はただただ砂漠で待つ生活を始めた。
 デンマークの90年代の映画運動「ドグマ95」の4作目。手持ちカメラでサスペンスフルな雰囲気を作り出しているが、今ひとつ緊迫感が足りない。

 「ドグマ95」はロケ撮影、自然音、手持ちカメラを徹底し、特殊な撮影方法、特別な照明などを排した映画。基本的にジャンル映画を拒否し、リアリズムに徹する方法論である。しかも監督の名前をクレジットしないという決まりもある。(「ドグマ95」については詳しくは公式サイトを見てください。)
 そのようなルールがあるので、この映画もそれに従っているわけだが、このルールの結果生じるのはまずは劇的ではない映画だ。リアリズムの中でいかに独自性を出していくか。それはアイデアに多くをよることになる。この映画の場合、砂漠に取り残され(これ自体は新しくない)、そこで演劇を演じる(これは聞いたことない)というアイデアになるわけだ。しかし、その結果生じたのは、なんとも緊張感のないドラマだ。極限状態で演劇をやるという行為の意味がいまいちはっきりしてこない。それが彼らの心理にどのような影響を与えたのか。
 そんな、アイデア自体にも今ひとつ納得できないし、細部にも納得がいかない。なぜわざわざ炎天下の日向で演劇の練習をするのかとか、ちゃんと水は集めているのかとか、あの村に住んでいたおじいさんは結局なんなのかとか、疑問ばかりがわいてくる。結局この物語の難点はちっともリアルではないところなのかもしれない。
 もっと極限状態になってもいいような気もするし、演劇を始めるヘンリーの考えもいまいちわからない。それぞれの行動の動機付けが今ひとつわからないのが、ドラマに入り込めない一因だろう。だからといって狂気に取り付かれているわけでもなさそうだ。
 こういうひとつのテーゼに沿って映画を作るということは難しいことだ。映画には常に制約がつき物だけれど、これはその趣向に賛同して参加するものなので、自己規制でもあるわけだ。だから規制の中で工夫するというよりは規制を忠実に守ってやるということになる。そのようなフォーマットの中ではやはり独創性というのは生まれにくいのではないだろうか?

競馬場

Racetrack
1985年,アメリカ,114分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 放牧されている馬たち。親子で草を食む。厩舎では新たに仔馬が生まれる。そばで見守る人たちはそれほど心配もせず、産むがままに任せている。
 競馬場そのものではなく、競馬馬たちが放牧されている牧場から始まるこの映画は競馬場の物語ではあるが、競馬場に来る人々の物語というよりは、競馬にかかわる人々と競馬場というものの物語である。馬主、騎手、調教師などにカメラを向けて、競馬を取り巻く状況をゆったりと描く。
 ワイズマンにしてはイージーというか、ゆったりとした雰囲気で、のんびりと見られる映画。

 映画は親子の馬が草を食む放牧で始まり、そして分娩のシーンへと続く。あるいは分娩のシーンも合わせて牧場の場面から始まるといってもいい。それは競馬そのものからは少し離れた部分であり、どのような文脈で語られているのかは全くわからない。そこだけ見ると、これが親子の物語であるかもしれないという考えが頭をよぎるが、馬が主人公ではなさそうなので、それはあくまで描写のひとつに過ぎないのだと考える。
 映画はそこからゆっくりと競馬そのものに近づいてゆく。
 この映画に特徴的なのは会話が少ないということだろうか。ワイズマンの映画に登場する(アメリカ)人たちはとにかくよくしゃべる。カメラがあるからなのか、アメリカ人の特徴なのかはわからないが、とにかくよくしゃべる。しかし、この映画に出てくる人はあまりしゃべらない。普通は、会話によって人間関係がわかったり、映画の論点がわかることが多いのだけれど、この映画ではわからない。それは映画の対照が大規模すぎたせいもあるかもしれないが、最後まで個人が特徴的なキャラクターとして固定されることはない。

 なので、この映画は捉えにくい。個人が個人として同定できれば、あるいは映画の描く空間を把握できれば、映画をひとつのまとまりとしてみることができるが、この映画ではそのような映画の把握は難しい。
 だから、テーマとか、時系列をたどってみてみようとするが、テーマらしいものも見つからないし、時間の手がかりとなるものもない。
 それでもなんとなく映画を見続けていると、突然パーティの場面が始まる。この場面と続く競馬場の場面(おそらく重賞レースが開かれている)でなんとなくメッセージというかワイズマンの思いが伝わってくる。それは競馬がアメリカの人たちにとって日常であるということ、そしてそれは古き良き時代へのノスタルジーであるということ。
 この競馬場はおそらくNY近郊にあって、そこにはさまざまな人種や階級の人が混在しているのだけれど、そこで掛かる音楽はヒップホップではなく、カントリーやブルースである。男たちはカウボーイハットをかぶり、子供も駆け回っている。アメリカがアメリカとしてまとまるノスタルジーがそこにはあり、そのようにして時代を超えることを容易にしているのが競馬場という場であるということなのだろう。競馬場にくれば、昔のアメリカ人の日常に思いをはせ、今も変わらぬアメリカがそこにあることを確認できる。そのような場所としてワイズマンは競馬場を描いているような気がする。

チキン・ハート

2002年,日本,105分
監督:清水浩
脚本:清水浩
音楽:鈴木慶一
出演:池内博之、松尾スズキ、忌野清志郎、荒木経惟

 「殴られ屋」をしながら、なんとなく暮らしている元ボクサーの岩野。そんな彼と一緒にいるのは、ティッシュ配りや取立て屋をしながらいい歳してプータローのサダと、親戚の帽子や店番をしながら、占いばかり見ている丸。そんな3人の環境が徐々に変わっていく中、何かが変わっていく…
 北野組の助監督を勤め、『生きない』で監督デビューした清水浩の第2作。個性的なキャストを集めたことで、物語云々にかかわらず、面白い映画を作ることができた。

 物語を追ったら全くたいしたことありません。でも、一つ一つのエピソードはなんとなく面白い。世の中きちんと生きている人が見たら、いらいらするのかもしれないけれど、そんな人はおそらくこんな映画は見ない。なんとなく、のらりくらりと生きている人がこの映画を見る。でも、この映画は必ずしもそののらりくらりを肯定するわけではない。その辺は居心地が悪いけれど、そういったポジティブなメッセージも込めないといけないんでしょうねやはり。
 その辺りはなんだか不満というか、もやもやしますが、岩野が借金を取り立てに行くところとか面白い。わたしとしてはなんといっても松尾スズキがおもしろい。映画としては池内博之と清志郎がメインのような気はするけれど、ネタとして面白いのはさすがに松尾スズキ。そのダサさ加減は愛するしかないという感じです。
 わたしの好みからすると、そんなキャストの裁き方にも少し不満が残るけれど、世間的には松尾スズキが脇にまわるのは仕方がないのでしょう。
 これはこれでいいんじゃないの。

 さて、北野武がどうしてもバイオレンスとかシリアスなものに行き、コメディはどうしてもうまくいかない中、この清水浩はなかなか面白い映画をとる。いつも北野武も本当にやりたいのはコメディなんじゃないかという気がして仕方がない。だから助監督からこのような監督が出るというのは北野武としても喜ばしいことのような気がする。オフィス北野から、このようにいろいろな監督が出てくると、日本映画も面白くなるのではないでしょうか?

ライフ・オブ・ウォーホル

Life of Warhol
1990年,アメリカ,35分
監督:ジョナス・メカス
撮影:ジョナス・メカス
音楽:ベルヴェット・アンダーグラウンド
出演:アンディ・ウォオール

 ドキュメンタリー作家ジョナス・メカスが撮り続ける日記フィルムのなかから友人であるウォホールを撮影した部分を抜粋し編集したフィルム。
 家族とのヴァカンスや、ベルヴェット・アンダーグラウンドの初ステージなど資料的に貴重というか、なかなか見られない素材がトリップ感のある映像として編集されている。せりふがまったくなく、全編にわたってアルバム風な仕上がりになっている。

 ベルヴェット・アンダーグラウンドの音楽に引っ張られてというわけではないだろうけれど、前半は特に手持ちカメラの映像を早送りしたりして、80年代のトリップビデオのような印象。一体だれが映っているのかよくわからないほど。それは60年代から70年代くらいを写したものの話で、80年代を写したものになると逆に映像は落ち着いて、何が写っているかわかるようになる。そこにはウォホールの家族が写っていて、なんとなくウォホールのイメージとは違う。ウォホール家のホームビデオをのぞいているようなそんな感じ。でも、突然ジョン・レノンとオノ・ヨーコが写っていたりして面白い。
 マア、でも特に画期的な何かがあるというわけではない。構成も時系列にしっかり沿っているし、ふーんという感じで見るしかない。それがいいといえばそれがいいんだけどね。友人とはいえ他人を主人公にしてしまっているので、メカスの私小説的な雰囲気が出なかったというのもあるかもしれない。