惑星ソラリス

Солярис
1972年,ソ連,165分
監督:アンドレイ・タルコフスキー
原作:スタニスワフ・レム
脚本:フリードリッヒ・ガレンシュテイン、アンドレイ・タルコフスキー
撮影:ワジーム・ユーソフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:ナタリーヤ・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリ・ヤルヴェット

 惑星ソラリスの軌道上を回る宇宙ステーションに向かうクリス。彼の旅立ちに先駆けて、父の友人で以前ソラリスで幻覚を見るという体験をしたもと宇宙飛行士の記録を見せられる。実際にクリスがステーションに行くと、3人の研究員のうちの一人で、クリスの友人であるギバリャンは自殺してしまっていた。
 アメリカの『2001年宇宙の旅』(1968)と常に比較されるソ連のSF映画の金字塔。『2001年』のような技術力はないけれど、その哲学的な内容がSF映画の枠を超えて議論を呼ぶ。

 この映画にとって、外惑星、あるいはSFという要素は舞台要素に過ぎない。完全に哲学として作られた映画、そのような印象だ。人間とは何か、存在とは何か、意識とは何か、他者とは何か。そのような問いを自分に投げ返すものとして存在する自己の意識の鏡像。つまり、果てしないモノローグ、自分との対話、どのように生きるかという姿勢。
 それなのに夢の実体化として現れるハリーの立場が中途半端なのは不思議だ。夢の具現化でありながら、人間として完璧ではない存在。ドアの開け方もわからない存在。なぜ、最初から完璧な夢の実体化として現れないのか、なぜ学習し、成長する存在として描かれねばならないのか、そしてなぜ自意識を持つまでに成長しなくてはならないのか。
 この映画のわからなさはその辺りにある。単純に自己の意識と向き合うのではなく、自己の意識から生まれながら徐々にそこから離れてゆくものと向き合うということ。そのことにどのような哲学的な意味があるのか。そのように考えていくと、この映画は哲学的な思索ではなく、哲学的な問いかけであるような気がしてくる。
 この映画は絶望的過ぎる。この映画が問いかける問いは「失うことこそ人生なのではないだろうか?」ということかもしれない。「存在とは何か」という問いかけにこの映画は「存在とは失われるものだ」とこたえているような気がする。しかし、それはわれわれに用意された答えではなく、そのような絶望的な答えを映画によって表現することで、それ以外の答えがないかと問いかけようという声なのだろう。「ありはしない」とつぶやきながら、「誰か他の答えを知らないか」とすがるように問いかけるその問いかけに、われわれは失われていくものを愛しむという以外の答えを用意することができるのだろうか?

メトロポリス<リマスター版>

Metropolis
1984年,アメリカ,90分
監督:フリッツ・ラング
脚本:テア・ファン・ハルボウ、フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント、ギュンター・リター
音楽:ジョルジオ・モロダー
出演:アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ、フリッツ・ラスプ

 地下で機械的な労働をする大量の労働者達を尻目に繁栄を誇る巨大都市メトロポリス。そのメトロポリスを治めるアーベルの息子フレーリッヒは地上で見かけた労働者の娘マリアを追って地下に降り、労働者の過酷な現実を目にする。
 ロボットのようにエレベータに向かう労働者達の衝撃的な映像で始まるフリッツ・ラングの不朽の名作をカラー処理し、音楽を加えた作品。そうすることが悪いわけではないのだけれど、原作がもったいないという気もしてしまう。

 果たしてこのリマスターに意味があったのか? と思ってしまう。最初に「現代的な音楽を加え」と書かれていたけれど、それはすでに現代的ではなくなってしまっている。大部分がテクノ風の音楽で近未来といえばテクノという単純な発想が感じられていまひとつ乗り切れない。そしてそれよりもひどいのは歌詞が映画を説明してしまっていること。フリッツ・ラングが考え抜いて作り出したサイレントの画面を台無しにしてしまう饒舌すぎる説明はむしろ邪魔。日本にくるとそれがさらに字幕で律儀に翻訳されて、迷惑この上ない。
 しかし、元の作品自体はさすがに傑作中の傑作。すべてのSF映画の原点、大量の労働者達を一つの画面に収めたシーンの数々は本当にすごい。もちろんすべてに本当の役者を使い、CGとか合成なんて使ってはいない。いまなら引きの絵はCG合成してしまうところだけれど、それを生身の人間で実現してしまうのは当時のハリウッドが得意とした力技だけれど、ドイツでもやっていたのね。やはり20年代のドイツの映画ってのはすごいのね。
 この映画はすべてがすごい。できればオリジナル版のほうを見て欲しいところ。

蝿男の恐怖

The Fly
1958年,アメリカ,94分
監督:カート・ニューマン
原作:ジョルジュ・ランジュラン
脚本:ジェーズム・クラヴェル
撮影:カート・ストラス
音楽:ポール・ソーテル
出演:アル・ヘディソン、パトリシア・オーウェンズ、ヴィンセント・プライス、ハーバート・マーシャル

 ある夜、フランシスのもとに弟アンドレの妻エレーヌから「アンドレを殺した」という電話がかかってくる。その直後、工場の夜警からも「プレス機のところで人が死んでいる」という電話が。警察とともに駆けつけてみると、それは紛れもなく弟の死体だった。エレーヌは「アンドレを殺した」というばかりで動機を話そうとしない。その裏にはアンドレの行っていた実験の秘密が隠されていた…
 ジョルジュ・ランジュランの原作を映画化したSFホラーの古典的名作。このあと続編が2本作られたほか、クローネンバーグによって「ザ・フライ」としてリメイクもされた作品。

 とりあえず、発想が素晴らしい。それは原作のおかげであり、だからこそリメイクまでされたのだろうけれど、なんと言っても、事件の顛末をまず先に語ってしまうという私が勝手に「コロンボスタイル」と呼んでいるやり方がホラー映画らしくなくていい。ホラー映画というのは普通、恐怖のもとがなんだかわからず、「なんだ?なんだ?」っていうので怖さをあおるものなのに、この映画はまったく違う。そしていわゆるホラー映画的な怖さはない。むしろ一つ一つの謎が解かれていくというミステリーのような感覚がある。
 ハエ男のメイクとか、機械装置なんかはもちろん今見ればお粗末な代物だけれど、こういったSF映画というのはその当時の最先端を用いたもの(多分)であるので、その時代の発想を知ることができて面白い。この時代のSFを見ていつも思うのは、前にも書いたかもしれないけれど、「デジタル」という発想の欠如。タイマーなんかも全部アナログで時計の針みたいのをジジジとまわしてセットする。これを私は勝手に「サンダーバード時代のSF」と呼んでいるのだけれど、意外と面白いSF作品が多いのです。
 あとは、アンドレの家にかかっていたモジリアーニの絵がなんとなく印象的でした。