アタック・ナンバーハーフ

Satree Lex
2000年,タイ,104分
監督:ヨンユット・トンコントーン
脚本:ビスッティチャイ・ブンヤカランジャナ、ジラ・マリゴール、ヨンユット・トンコントーン
撮影:ジラ・マリゴール
音楽:ワイルド・アット・ハート
出演:チャイチャーン・ニムプーンサワット、サハーバーブ・ウィーラカーミン、ゴッゴーン・ベンジャーティグーン

 またもバレーボールチームの選考におちてしまったオカマのモン。実力は十分なのにオカマであるがゆえにはずされてしまう。悔しさを抱えながらモンは親友のジュンとバンコクに行くことにした。しかし出発直前、県選抜チームが選手を募集しているというので行ってみると、そこにはオナベの監督が。見事選考に通ったジュンとモンだったが彼らが入ったことで選手たちは辞めてしまい、ジュンとモンは昔の仲間に頼みに行くことにする。
 1996年、タイで実際にあったオカマのバレーボールチームを映画いたコメディ。スタンスとしては「クール・ランニング」ですね。かなり笑える。問題もちゃんと捕まえている。B級テイストも盛り込まれ、「これは見なきゃ!」といえる作品。

 ちょっと物語の進行がまどろっこしい感がある前半がなければ素晴らしかった。前半の何が悪いのかというと、いまひとつ的が絞りきれていないところ。観客としては彼ら(オカマたち)をどう見ていいのかちょっとわからない。主人公なのだから、そこの肩入れしてみるのが普通なのだけれど、この映画のつくりとしては、彼らは反感をもたれる存在として描かれている。それはおそらくオカマに反感を持つ観衆を想定しての描き方なのだろう。
 だから、最初から彼らに肩入れしてみると、彼らへの反感を取り除いていく過程の部分がまどろっこしい。それを回避するためには登場人物の一人を反感をもつ人間の代表としていれて、その登場人物が彼らにシンパシーを感じていくという過程を描くのが最もらくな方法で、この映画ではチャイがその役回りとして使われているのだと思うけれど、彼は最初からオカマをそれほど毛嫌いしていないので、いまひとつね。
 というところが少々難点ですが、そんな過程を越えて、サトリーレックを応援するところまで行ってしまえば、ただただ笑うだけです。偏見を持つ人のほうを逆に笑い飛ばすという方法も非常に効果的です。そして最後の最後に来て映画の面白さは一気に加速。映画の最後の15分くらいからエンドクレジットまではひと時も目が離せない。謎のB級特撮あり、エピローグも、エンドロールも最高です。

美少年の恋

Bishonen…
1998年,香港,100分
監督:ヨン・ファン
脚本:ヨン・ファン
撮影:ヘンリー・チャン
音楽:クリス・バビダ
出演:スティーヴン・フォンダ、ニエル・ウー、ジェイソン・ツァン、テレンス・イン、スー・チー

 香港の街で目をひく美少年ジェットは実は男娼。彼はある日、有名議員のJPを引っ掛けたあと、街中で女の子と歩いていた美少年に一目惚れしてしまう。そして偶然した2人は急速に親しくなっていくが…
 二人の関係に、ジェットの同居人で同業者のアチン、人気歌手のKSが絡み合い、複雑な恋愛模様を繰り広げる、いわゆる耽美系のゲイ・ムーヴィー。

 物語としては悪くない。美少年たちは本当に美少年で、『モーリス』や『ビューティフル・ランドレッド』よりも美しいといっていいくらいだ。
 しかし、純粋に映画的に見るといまひとつかな。それも音楽とナレーションに難ありというところ。ラブシーンで流れる妙に荘厳な音楽は最初は狙いかと思ったほどわざとらしく聞こえる。それに、ナレーションは余計。いったい誰なのかわからないし、いっていることも、そんなこと見てればわかるというようなことしかいわない。ナレーションなし、音楽なしなら結構好みの映画だったのにな。
 まあ、でもこれは好みの問題という気もします。映像自体は美少年たちに限らず非常に美しく、特に色使いがすごくいい。サムの家とかすごくヴィヴィッドな色をうまく使って美しい構成です。だから音楽とナレーションが…

セックスチェック 第二の性

1968年,日本,89分
監督:増村保造
原作:寺内大吉
脚本:池田一朗
撮影:喜多崎晃
音楽:山内正
出演:安田道代、緒方拳、小川真由美、滝田裕介

 もと天才スプリンターの宮路はホステスのひもになって落ちぶれた生活を送っていたが、選手時代のライバル峰重に電気会社のコーチの仕事を進められる。しかし、その選手たちを見て宮路はそれを断った。しかし、その帰りバスケット部の練習で見かけた南雲ひろ子に宮路は類まれな素質を見る。そしてひろ子のコーチをはじめた宮路だったが、ひろ子はセックスチェックで半陰陽と診断され、女子選手としての資格が否定されてしまった…
 相変わらずすさまじいテンポで進む増村映画。さらにこの映画は半陰陽というなかなか難しいテーマを使って混乱は増すばかり。増村作品の中では少し典型から外れるかなという気もしますが、それは時代のスタンダードに近いということではなく、逆にさらにいっそう離れているということ。

 かなりすごい。「えー、そうなのー?」という感想がまずわいてくる。そしてやはり人が一人狂ってしまう。果たして、実際擬半陰陽といえるような外性器をもって生まれてくる人はいるだろうし、それを医者が半陰陽と誤診することもあるだろうし、その擬半陰陽の人が初潮が遅いということもあるのだろうという気はするけれど、果たしてそれが毎日セックスすることで早まるのかといわれるとかなり?????という感じ。
 増村は映画的にはかなり先へ先へといっているすごい作家だけれど、思想的な面では、時代より少し先をいっているに過ぎないのかもしれないと思った。この映画から出てくるのは結局は男と女の二分法であって、半陰陽である人の生き様ではない。半陰陽であることを嫌がり、結局女になれた(正確には女であることがわかったということだが、その区別はここでは重要ではない。ひろ子の主観としては、「女になれた」ということであるだろうから)人間の物語でしかない。ここでは半陰陽というものが扱われていながら、いわゆるトランスジェンダーやインターセクシュアルということは問題にならず、単純に「男」と「女」の愛の物語に終始してしまっているわけだ。そのあたりが現在のこの時点から見ると甘いというか、その時代の発想にとらわれているのだと言わざるをえない。
 まあ、それは仕方のないことなのでしょう。ジェンダーなんて思想が日本にやってきたのはたかだか20年位前。この映画が撮られたのは30年前。それを求めるほうが無理というもの。それよりもこの映画の映画的な美点を誉めるべきでしょう。でも、それは、ほかの増村映画の解説の繰り返しになってしまうのでやめておきます。ただひとつ言いたいのは、安田道代の眼差しがすごいということ。増村映画のヒロインは若尾文子も野添ひとみも原田美枝子もみんな眼差しがすごいのだけれど、この映画の安田道代は本当にすごい。見られた人間を後ずさりさせるような鋭さ。小川真由美も狂ってしまうほどの鋭さ。峰重の奥さんが狂ってしまったのは宮路に振られたことよりも、その事実を突きつけたのがひろ子であったから何じゃないかと思ってしまうくらい、重い眼差しをしていたのが非常に印象的でした。

DRUG GARDEN

2000年,日本,89分
監督:広田レオナ
脚本:広田レオナ
音楽:坂井洋一
出演:広田レオナ、吹越満、マーク、クリスティーヌ・ダイコ★、マーガレット、HOSSY

 最初、元ドラッグ常用者のインタビューで始まるこの映画だが、それが終わると雰囲気は一転し、3人のドラァグ・クイーンが登場。
 レオナは夫のフッキー、息子のマーク、3人のドラァグクイーンとシンケンとチル(ともにモデル)と同居生活を送っている。みんなで食べる朝ご飯の席でレイナはパニック・ディスオーダーの発作で倒れてしまった。レオナはトラウマからパニック・ディスオーダーに陥り、8年前から大量の薬を常用しているのだった。
 レオナの物語、ドラァグ・クイーンコンテストを目指す3人、マーク、チル、それぞれの物語が交錯し、みんなの中で何かが変わっていく。
 広田レオナが自らの体験を映画化。シリアスなドラマを斬新な映像で切り取り、ドラァグ・クイーンの笑いの要素をうまくはめ込んだ秀作。

 まず批判。果たして最初と最後のドラッグ常用者のインタビューは必要だったのか? 確かに、これがあればテーマがストレートに伝わるが、そこまで丁寧に説明しなくても、伝わるし、むしろ全体の映画のカラーを乱している印象を受けた。  という点はありますが、全体的にはかなりいい作品でした。この映画ではパニック・ディスオーダーというのは実はそれほど大きなテーマではなくて、むしろドラッグとやはり「人間」一般がテーマになっている。「ドラッグ」の持つ意味や人はなぜドラッグをやるのかということを言葉すくなに語っている。
 かなりさまざまな語り方が出来る映画だが、私が注目したいのは「ドラァグ・クイーン」。この映画に出てきたドラァグ・クイーンは本当に有名なドラァグ・クイーンたちで、本名(ではないか、現実での名前)で映画に出演している。彼ら(彼女ら?)がコンテストに出るというテーマ自体はどうでもよくて(カレンダーにバツをつけて行く映像はかなりいいけれど)、彼らの摩訶不思議な存在がこの映画を成立させている鍵だと思う。これだけ重いテーマを普通の(というとドラァグ・クイーンに失礼か)人たちだけでやってしまうと、深刻になりすぎる。そこにドラァグ・クイーンを入れることで映画全体がファンタジックで面白いものに変わってしまう。それはドラァグ・クイーンがゲイカルチャーの中で演じている役割と同じものであって、それこそがドラァグがドラァグである所以なのだ。
 映像についても語ることが結構ありそうだけれど、別に難解な映像を作り上げているわけではないので、単純に見た感じで「面白い」とか「きれい」だとか言っていればいいような気もする。チルの葬式の場面でひとりひとりを正面から映す過露出の映像はかなりきれいだった。じっと魅入ってしまうような澄んだ美しさだった。他にもサイレント映画風に仕上げたり、フレームを落としてコマ送りのようにしたりとさまざまな工夫が凝らされていて非常によかった。

ローラとビリー・ザ・キッド

Lola + Bilidikid
1998年,ドイツ,90分
監督:クトラグ・アタマン
脚本:クトラグ・アタマン
撮影:クリス・スキレス
音楽:アルパッド・ボンディ
出演:ガンディ・ムクリ、バキ・ダヴラク、エルダル・イルディス、インゲ・ケレール

 ベルリンに住むゲイのトルコ人少年ムラートは、家父長であり高圧的に振舞う兄とその兄に従順な母との暮らしに息苦しさを感じていた。そんなある日、彼はゲイであることを理由に勘当されたもう一人の兄がいることを知る。物語はムラートと兄のローラ、その恋人ビリーを中心に展開してゆくが、長兄のオスマン、ローラの仲間たち、ドイツ人のゲイの中年男などが登場し物語に深みを与える。
 ドイツにおけるトルコ人の立場、ゲイの立場というものをひとつの事件を舞台として展開させてゆく監督の手腕はなかなか。登場人物一人一人に個性、内面がうまく描かれていたと思う。 

 この映画でまず目に付くのは、ドイツ人のホモフォビア(同性愛者嫌悪)とトルコ人に対する民族差別である。二重に(あるいは三重に)虐げられる存在としてのローラ。彼女(彼)が殺される。しかし彼女=彼が殺される理由はいくらでもあるのだ。ホモ嫌いのドイツ人、トルコ人嫌いのドイツ人、ホモ嫌いのトルコ人、などなど。
 このことがはらんでいるのは、トルコ人という被植民者の「女性化」(ここでは「ゲイ化」)である。ドイツ人=植民者=マチョ=家父長/トルコ人=被植民者=女性的=ゲイというちょっとひねったコロニアリズムが垣間見える。これによってトルコ人のゲイの不遇を描くというのならそれでいい。しかし、この作品が素晴らしいのは、そのように描かなかったこと。より複雑な要素としての家族や様々な愛情をそこに織り込んでいったこと。オスマンにローラを殺された衝動はなんだったのか?それは、オスマンとビリーに共通する要素、ドイツでトルコ人としていきながら、ゲイでありかつマチョとして生きようとすること、その矛盾がオスマンを殺人にまで駆り立てた。社会の歪みを引き受けた存在としてのオスマンとビリーを描くことで、ドイツ社会の抱える矛盾を明らかにしたといえるのではないだろうか?

踊るのよ! フランチェスカ

Franchesca Page
1997年,アメリカ,106分
監督:ケリー・セーン
脚本:ケリー・セーン
撮影:クリス・ノー
出演:モーリーン・グリフィン、バーラ・ジーン・マーマン、ロッシ・ディ・パルマ、タラ・レオン、ロンダ・ロス・ケンドリック

 昔ショー・ガールをしていたリタ・ペイジは自分の果たせなかったブロウドウェイの夢を娘のフランチェスカに託し、オーディションに送り込む。しかし、フランチェスカは音痴に運痴、オーディションも大失敗。しかし、あきらめていた二人のもとに合格の通知が…
 「アタメ!」や「キカ」などのアルモドバル作品で知られる怪女優ロッシ・ディ・パルマが悪徳プロデューサー役を熱演。ジャンルとしてはミュージカルとされているが、実際はミュージカル映画をパロディ化し、映画というものをもパロディ化した作品。リタ・ペイジ役のバーラ・ジーン・マーマンやその友人役(名前わからず)の二人が歌って踊るのが本当に笑える。バーラ・ジーン・マーマンはニューヨークでは有名なドラァグ・クィーンらしいので、その素晴らしくそして笑える身のこなしにも納得。

 ドラァグ・クィーンであるバーラ・ジーン・マーマンが普通に女性役として登場するところがこの映画のすごいところ。ドラァグ・クィーンの映画というと、「プリシラ」のようにドラァグ・クリーンの役として登場するのが一般的だし、それを演じる役者が本当にドラァグ・クィーンであることは少ない。そのような意味ではかなり考える材料になる映画でもある。
 よく考えてみれば、フランチェスカはリタの子供で、お父さんはサミー・デービス・ジュニア(笑)という設定になっていて、そのこと自体がパロディ化された親子関係とみることもできる。フランチェスカは本当にリタが産んだ子供という設定なのか? 映画の中でリタは完全に女性として納得されているけれど、なかなか微妙な設定だ。このようなどうとでも解釈できる設定こそがレズビアン&ゲイ映画祭のコンセプトにあっていたということなのかもしれない。ことさらにホモフォビアや偏見を強調するよりも、このような笑いの中に隠されたいかようにも解釈できる現実という要素のほうがむしろ心に訴えかけてくるのかもしれない。それはドラァグ・クィーンの心に通じるのだろう。 

バタフライ・キス

Butterfly Kiss
1995年,イギリス,85分
監督:マイケル・ウィンターボトム
脚本:フランク・コトレル・ボイス
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
音楽:ジョン・ハール
出演:アマンダ・プラマー、サスキア・リーヴス、リッキー・トムリンソン、キャシー・ジェイミソン

 「ウェルカム・トゥ・サラエボ」などで知られるマイケル・ウィンターボトム監督の初長編作。
 ハイウェイのガソリンスタンドで「ジュディス」という女性を探すユーニス。「ジュディス」ではないとわかった店員を殺し、次のスタンドへ。そこで出会ったミリアムは、ガソリンを体に振り掛ける彼女を心配し、自分の家に連れてゆく。ユーニス(ユー)に惹かれてゆくミリアム(ミー)、ふたりは果たして…
 物語はミリアムの告白を語り部に展開してゆく。レズビアン版シド&ナンシーと例えることもできるし、神話世界のメタファーとして読み解くこともできるだろう。ユーとミーという呼び名に何らかの示唆を読み取ることもできるかもしれない。現代的な映像の奥に、深みを感じさせるウィンターボトム監督の力作。

 「ジュディス」は旧約外典のひとつ『ユディト書』の主人公ユディトに由来していると思われる。未亡人ユディトは敵国の将ホロフェルネスを誘惑し、油断させ、寝首を掻き切ったイスラエルの女性。グスタフ・クリムトが描いた『ユディトⅠ』という絵が有名だが、この絵でユディトはホロフェルネスの首を抱えて微笑んでいる。このことから考えるとユーニスは「ジュディス」、つまり自分を殺しに来る何者かを探していると解釈することができる。しかもそれは自分を愛してくれる誰かでなくてはならない。そう考えると、ミリアムの「私がジュディスの代わりになる」というセリフが意味を持ってくるわけだ。ミリアムはユーリスにとってのジュディスになり、ユーリスはホロフェルネスになれる。
 キリスト教圏の人が「ジュディス」と「ユディト」とをすぐに結びつけることができるのかはわからないが、私は映画を見てから調べるまでそんなことはまったく知らなかった。このようなメタファーが映画に出てくることはままあるが、それを理解できないことが多い。あとから史ってなんとも残念な気分になることがありますが、今回もそうでした。ちなみにミリアムはモーゼの姉の名だが、これも何か関係あるのかもしれない。

セルロイド・クローゼット

The Celluloid Closet
1995年,アメリカ,104分
監督:ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン
原作:ヴィットー・ルッソ
脚本:ロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン、アーミステッド・モービン、シャロン・ウッド
撮影:ナンシー・シュライバー
音楽:カーター・バーウェル
出演:トニー・カーティス、ウーピー・ゴールドバーグ、トム・ハンクス、スーザン・サランドン、リリー・トムソン(ナレーション)

 ゲイやレズビアンを扱った映画の歴史をヴィトー・ルッソの原作を元に映画化。古い映画の映像を見せるとともに、実際にカミングアウトした映画関係者や同性愛者の役を演じた役者のインタヴューを豊富に集めた。対象をアメリカ映画に限定しているため、話はわかりやすくまとまっている。ドキュメンタリーとしてはそれほど優れたものとは思えないが、知らなかったことを実感をもって知るためには役に立つ。1995年頃はゲイやレズビアンの映画がムーヴメントとして盛んだった頃なので、こういった映画も作られたのだろう。
 パゾリーニなどヨーロッパに関係することは対象からはずされているのが残念。
 映画のからくりといえるものは特にありません。ハリウッド映画史の勉強にはなります。20・30年代には検閲が強化されていたということで思い出したのが、何の映画だったか、有名な映画だったはずですが、男女がひとつのベットで寝る時に、間にシーツをたらして敷居にしていた場面。その頃はベットシーンというものが禁止されていたために、そのような工夫がされたんだという話を聞いたことを思い出しました。何の映画だったっけかなぁ… 

ウォーターメロン・ウーマン

The Watermelon Woman
1995年,アメリカ,80分
監督:シェリル・デュニエ
脚本:シェリル・デュニエ
撮影:ミシェル・クレンショウ
出演:シェリル・デュニエ、グィネヴィア・ターナー、ヴァレリー・ウォーカー、カミール・パグリ、アリサ・マリー・ブロンソン

 「GO fish」に影響を受けたと思われるシェリル・デュニエが、レズビアンと黒人女性という二重のマイノリティ性を問題化した作品。30年代のハリウッド映画で“ウォーターメロン・ウーマン”とクレジットされている黒人女性を発見したレズビアンの映画作家志望シェリルは彼女の生涯を映画にしようと考える。その映画作成の過程を映画として作り上げた。
 「GO fish」と比べると、レズビアンや黒人女性というものを問題化する意識が強いように見える。ハリウッドで黒人女性とレズビアンが無視されつづけてきた状況を問題化することこそがこの映画の目的なのだろう。映像や物語のつくり、映画としてのつくりを見ると「GO fish」のほうが明らかに上だが、この映画も「黒人」独特のリズムがあって飽きることはない。

 「GO fish」の脚本と主演を担当したグィネヴィア・ターナーがシェリルの恋人ダイアナとして「ウォーターメロン・ウーマン」に登場する。「ウォーター」の舞台はフィラデルフィアだが、ダイアナはシカゴで映画を取っていたという設定。「GO fish」がシカゴの映画であることを考えると、ダイアナは「GO fish」の作家として「ウォーター」に登場していると解釈できる。それぐらいこのふたつの映画のつながりは深い。
 「GO fish」が映画として完成されていたがゆえに、一般に受け入れられ、それによって「ウォーター」はより深い問題を扱うことができた。そんなことを考えながらも、「レズビアン」という問題は映画で扱われることがあまりに少ないんだと実感せざるを得ない。 

GO fish

GO fish
1994年,アメリカ,85分
監督:ローズ・トローシュ
脚本:ローズ・トローシュ、グィネヴィア・ターナー
撮影:アン・T・ロセッティ
音楽:ブレンダン・トーラン、ジェニファー・シャープ
出演:グィネヴィア・ターナー、T・ウェンディー・マクミラン、V・S・ブロディ、アナスタシア・シャープ、ミグダリア・メレンデス

 レズビアンの日常を、マックスとイーレイの関係を軸に描く。全編白黒の画面は非常にセンスがよい。「センスがよい」という安易な言葉は使いたくはないのだけれど、この言い方がいちばんぴったり来る。フレームの切り方だとか、ワンカットの短さだとか、挿入される抽象的なカットの具合だとか、「あー、カッコイイ」と思わせる。
 レズビアンムーヴィーとしては画期的な作品。ゲイムーヴィーはかなり前から作られ、認められていたが、レズビアンのものは案外歴史が浅く、この作品あたりから世間的に認められるようになってきた。決して深刻にならずに、しかし伝えたいことはしっかり伝えるという姿勢が、一般的に受け入れられた要因だろうと思う。