くちづけ

1957年,日本,74分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:舟橋和郎
撮影:小原譲治
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、三益愛子、若松健

 拘置所に父親の面会にやってきた欽一は選挙違反で拘留されている父親に「早く出してくれ」と囁かれ、10万円の保釈金を作らなければならなくなった。そんな時、拘置所で同じく父親が拘留されている章子に出会った…
 溝口健二や市川昆の助監督を勤めていた増村保造がはじめて監督をした作品。ヌーベルヴァーグを思わせるスタイルは当時では新鮮だったと思わせる、簡潔な青春ドラマ。

 いま増村的と考えるものとは少し違う。ロングショットが多用されていたりするし、直線的なパースペクティブが重要な場面で利用されていたりする。しかし、これは以後の映画でも所々に見られる手法で、増村の一つの「道具」ではあると思う。この映画では逆にそのような手法が前面に押し出され、「増村的」なものは小道具として利用される。一つの理由はこの映画がスタンダードで撮られていて画面の偏りを利用する構図が利用出来ないことだろう。
 それにしても、ドラマとしてはすごく分かりやすく爽やかな感じ。初期増村の映画はどれもさっぱりとしていて、テンポが速くて、爽快な作品が多いけれど、これもそんな作品でした。スピード感としては「青空娘」や「最高殊勲夫人」には劣るという気がしますが、それはおそらくストーリーがわかりやすいせいでしょう。74分という短さでこれだけのストーリーを展開させてしまうのはやはりかなりのスピード。

 さて、余談ですが、原作者の川口松太郎は川口浩の父親だそうな。共演の野添ひとみは後の川口浩の奥さん。母親役の三益愛子は本当に川口浩のお母さん(要するに松太郎さんの奥さん)というなんだかファミリーな映画なのでした。

黒の超特急

1964年,日本,94分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:増村保造、白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、藤由紀子、船越英二、加東大介

 岡山で細々と不動産業を営む桔梗のところに東京の観光開発会社の社長と名乗る男が儲け話を持ってきた。その男・中江によれば、桔梗の住む町に大きな工場が誘致されるらしい。大金をつかみたい桔梗はその男の話に乗り、地主達を説得するのだが…
 増村としては三作目の「黒」シリーズだが、シリーズとしては11作目(なんと2年ちょっとで)にして最後の作品。金と正義とが複雑に絡み合う社会派サスペンスで、なんといっても田宮二郎の熱演が光る。

 冒頭(タイトルの前)、激しいフレーミングで驚かされる。すごくローアングルだったり、腰の高さだけを切り取ったりという感じ。タイトルが出た後は少々落ち着くので安心。増村らしい構図は健在だが、それほど目に付かず、それよりも(黄金期の)ハリウッド映画を思わせるディープ・フォーカスのパースペクティヴが使われているのが印象的だった。それとローアングルが多い。この二つはおそらくサスペンスドラマとしての劇的効果を狙ってのことだと思う。
 しかし、映画としてはサスペンスというよりはメロドラマという感じで、硬派なドラマさよりは増村らしいウェットな雰囲気を感じる。それは増村ファンとしてはうれしい限りだが、サスペンスとしてはどうなのか? あるいは、完全に増村的ではない(例えば、主人公のキャラクターが他の作品と比べると徹底されていない)ところはどうなのか? などと、増村的なるものといわゆるサスペンスなるものの間で揺れ動いてしまった。

 この「黒」シリーズは基本的にメロドラマ的な要素が強く、サスペンスといいながら、ヒロインとのウェットな関係がいつも物語のスパイスというか、サブプロットというか、主人公のキャラクター作りの一つとして使われている。最終作になっても、増村は自分が作り上げたそのスタイルを守り、シリーズに一貫性を持たせている。そして、この2年間で11作というモーレツな勢いで作られてシリーズは、時代のモーレツさを象徴しているものかも知れなず、シリーズの最後はまさに時代を象徴するものとしての“新幹線”がテーマとなっているのだ。
 60年代は田宮二郎の時代と私は(勝手に)主張するが、その60年代の前半の時代的なものをすべて盛り込んだシリーズがこの「黒」シリーズであったのだと思う。そこには60年代という時代が描きやすい単純な時代の空気を持っていたということも大きく、今となっては時代を象徴するようなシリーズなんてものはどうあがいても作れないだろう。だから私がこの「黒」シリーズを賞賛するのは、自分が生まれていない時代へのノスタルジーでしかないということも言える。
 でも、時代なんてそんなものだとも思うし、ノスタルジーだって悪い面ばかりじゃないんだよといいたい。ハリウッド映画の未来への幻想と、日本映画のノスタルジーと、まったく違うもののようで、行き着くところは夢の世界に浸れる時間という同じものなのかもしれないと、ずいぶん大規模なことを考えてみたりもした。

好色一代男

1961年,日本,92分
監督:増村保造
原作:井原西鶴
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、船越英二、水谷良重

 京都の豪商のボンボン世之助は女が何よりも好き。女を喜ばせるためなら財産も命も捨てるそんな男だった。そんな男だからもちろん倹約、倹約で財産を築いてきた父親とはそりが合わなかった…
 市川雷蔵が念願だった世之助の役をやるために当時まだ若手だった増村保造と白坂依志夫のコンビに依頼、増村としては初の時代劇、初の京都撮影所作品となった。時代劇でも変わらぬスピード感が増村らしい快作。

 この作品はかなり速い。時代劇でしかも人情劇なんだから、もっとゆっくりとやってもよさそうなものだが、増村は情緒の部分をばっさりと切り捨ててひたすらスピード感にあふれる時代劇を撮って見せた。
 そのスピード感はストーリー展開にあるのだが、なんといっても一人の女性にかける時間がとにかく短い。それでいて主人公の冷淡さを感じさせることもない。そんな主人公に否応なく惹かれてしまうのは、世之助が自分をストレートに表現するいかにも増村的な人物だからだろう。日本の社会の封建的な部分が強調される江戸という時代にこれだけ自分の感情を直接的に表す人物を描くことはすごく異様なことであるはずだ。そのように理性では考えるのだけれど、そこからは推し量れない人間的な魅力というものをさらっと描き出してしまう増村はやはりすごい。
 そして、この映画のもう一つすごいところは中村玉緒演じるお町が棺桶の中でにやりと笑うシーンに集約されている。そしてそれがすらりと過ぎ去ってしまうところに端的に現れる。このシーンが何を意味するのかを考える時間は観客には与えられない。そんなことはなかったかのように次のシーンへと飛んでいく(なんと、地図をはさんだ次のシーンは新潟から熊本までと距離的にも離れている)ので、われわれはすっかりそのことを忘れてしまう。しかし、見終わってふと考えると、「あれはいったいなんだったんだ?」と思う。いろいろと答えらしきものは思いつくけれど、それが何であるかが重要なのではなくて、見終わった後までも楽しみを継続させてくれるところがにくい。
 あるいは、世之助に心底入り込んでしまった我々は若尾文子演じる夕霧の美しさに息を呑む。心のそこから彼女を喜ばせたいと思う。その若尾文子の出番は本当に短く、ほんの一瞬にすら感じられるのだけれど、その余韻はいつまでも続く。
 こんなに終わって欲しくないと思った映画は久しぶりに見た。面白い映画というのは結構あるけれど、それは見終わって「ああ、面白かった」と満足して思う。しかしこの映画は面白くて、見ている間も「終わるな、終わるな」と心で叫び、終わった後は「終わっちゃった」と残念な気持ちを残す。「この映画が永遠に続いてくれたら幸せなのに」と。

ギプス

2000年,日本,82分
監督:塩田明彦
脚本:堀内玲奈、塩田明彦
撮影:鈴木一博
音楽:ゲイリー芦屋
出演:佐伯日菜子、尾野真千子、山中聡、津田寛治

 アルバイトをしながら平凡な生活を送る和子はある日家の近くでギプスをし、松葉杖をついて歩く美しい女とであった。その女・環になぜか鍵を貰った和子は徐々にその環の魅力にとり憑かれて行く…
 塩田明彦監督がラブ・シネマシリーズの一作として撮った作品なので、ソースはデジタルビデオ。フィルムと比べると粗い画素と淡い色彩が女同士の微妙な関係を美しく怪しく描く。

 やはりこの監督はいいですね。ちょっと全体に自主制作っぽさがあるのは、デジタルビデオだからというわけでは必ずしもないのですが、そこがまたいい。二人の女性も非常に、すごく魅力的で、それだけで映画に引き込まれてしまう。特に二人とも「目」を中心とした表情で演技をしているのがすごく印象的なのです。 物語自体は「偽の」ギプスという発想を置いておけばそれほどものめずらしいものではない「女性同士の微妙な関係」で、関係性の揺れ具合もオーソドックスといっていいでしょう。
 そう、すべてがオーソドックスな感じ、そんな中で登場人物が魅力的であれば映画は非常に魅力的になるし、この映画のポイントとなる「ギプス」という発想の風変わりさがオーソドックスな映画の中で絵的にも物語的にも非常に効果的なスパイスとなっているのだろうということです。そういう意味で、デジタルビデオという方法を取って、全体的に素人っぽさをだしてはいるものの、非常に完成された映画なのでしょう。

カリスマ

2000年,日本,103分
監督:黒沢清
脚本:黒沢清
撮影:林淳一郎
音楽:ゲイリー芦屋
出演:役所広司、池内博之、大杉漣、洞口依子、風吹ジュン

 刑事の藪池は廃墟のような警察署のソファーで毎日のように寝ている。ある日、人質に拳銃を突きつけて立てこもる犯人からのメッセージを受け取り戻ろうとした藪池の背後で銃声が聞こえ、人質は撃ち殺され、突入した警察官によって犯人も殺された。その直後休暇を取った藪池は「どこでもいい」といって人里はなれた森の中で一人車を降りた…
 全体的に荒廃したような印象のある日本のどこかでくたびれた刑事が経験する一本の気を巡る不思議な出来事。理由もわからない恐怖感が全体を覆うある種のサスペンス。

 「無言の人間の怖さ」というものがあるけれどこの映画は全体がそんな怖さに満ちている。誰もが多くを語ろうとはせず、真実を語ろうともしていない。それを最も象徴的に表しているのは大杉漣率いるトラック部隊の謎の隊員達だろう。彼らの怖さがこの映画の怖さであるのだ。
 黒沢清は「すべての映画はホラー映画だ」というほど「怖さ」というものを追及する監督であり、この映画もその一つと考えれば非常に納得はいく。全体の構成が謎解きであるような形をとりながら、結局何も謎は解かれず、恐怖と謎が残ったまま終わるのも、一つの怖さの演出だろう。
 惜しむらくは、なんといってもCGの拙さだろうか。普通の映画に効果的にCGを使うという手法ははやっているし、時には非常に面白いが、この映画で使われるCGは少し安っぽく、あらが見えてしまってよくなかった。

楽園

2000年,日本,90分
監督:萩生田宏治
脚本:萩生田宏治
撮影:田村正毅
音楽:茂野雅道
出演:松尾れい子、荒野真司、谷川信義

 九州あたりのある島で、船大工をするじいさんが一人、孫娘と暮らしている。孫娘シズエはおばさんがやっている町の雑貨屋でアルバイト。そんな島にやってきていた南国風の獅子舞の楽団。スコールにあって最後まで出来なかったその舞台をニコニコしながらみつめていたじいさんに連れられて、船大工の小屋にやってきた獅子舞のリーダーは、気づくとそこにいついてしまっていた。
 不思議にぼんやりと雰囲気のなか、なんとなく進んでいくストーリーが快適。セリフも少なく、表情をクローズアップでとらえたりもしない非常に地味な表現が逆に味わい深い。

 メッセージもストーリーも笑いも涙もないけれど、なんとなくすっと心に染み入るような「いい雰囲気の映画」としか言いようがない。
 特徴としては、ロングショットが多い(というよりはクロース・アップがほとんどない)。セリフが少ない。音が同録っぽい。などということがあり、それは(「ブレアウィッチ」などとは逆の意味で)ドキュメンタリーっぽいつくりなのかな、という感じ。特にカメラとマイクの位置を(おそらく意識的に)同じにしているので、むこう向きの人の声がこもったり、間に遮蔽物があると声が小さくなったりして、それがなかなか場に溶け込んでいるような幻想を抱かせてくれる。 しかし、カメラはほとんど固定で、横や縦に振ることはあっても移動撮影や手持ち撮影といえるようなものはほとんどない。(一箇所だけ気づいたのはシズエと真司が舟の上にねっころがっている場面、波の音が強調され、手持ちカメラを一定のリズムで振ってまるで海の上であるかのような映像を作っていたところ。でもこれはいわゆる手持ちカメラではない。)それがすごく地味な感じと安定感を与えて、音の不安定さと微妙なバランスを保っている。
 というわけで、この映画はなかなかのもの。まさに佳作というのはこういう作品と言いたいところです。田村正毅はやはり現在の日本屈指のカメラマンであることは確かなようです。

女の勲章

1961年,日本,110分
監督:吉村公三郎
脚本:新藤兼人
撮影:小原譲治
音楽:池野成
出演:京マチ子、若尾文子、中村玉緒、叶順子、田宮二郎、船越英二

 新設の洋裁学校に入り込んだ胡散臭い実業家銀四郎は実務では手腕を発揮して、学校をどんどん拡大していく。胡散臭いと思いながらも銀四郎のペースに巻き込まれていってしまう院長と一番弟子たちを描いた、濃い目のドラマ。
 昨年11月にこの世を去った吉村監督の作品の中でも、比較的マイナーな作品だが、出演者陣は豪華。ドラマが濃密で、いやむしろ濃密過ぎて110分という時間がかなり長く感じられる、充実した作品。

 吉村公三郎は光の作家であるとこの映画を見て思った。冒頭のシーンからずっと後姿だった銀四郎が振り返っても、彼の顔に光は当たらず、逆行の中去ってゆく。
 しかし、最初のうちはそんな光加減よりも、セリフの多さに圧倒され、物語についていくのに必死である。しばらく経ってそれが落ち着くと見えてくるのは光。特に逆行を使って顔を影にする効果(どことなくヒッチコックを思わせる)はこの映画の最も特徴的機名部分といえるだろう。
 その他にも光を意識させる部分が多くでてくる。たとえば灯りの着いた部屋を暗い廊下側から眺める場面など、壁の部分が完全に黒く、明るい部屋との対比をなしている。この「壁」は増村もよく使う方法だが、増村の場合光を利用するというより、例えば画面の右半分を壁でふさいでしまうなどして構図に工夫をするために使う。吉村の場合は大概部屋は画面の真中にあり、光と影の対比が強調されている。
 もう一つ印象的な光の使い方は、暗い部屋や廊下に差し込む光が顔を照らすというもの。ある意味では陳腐な方法だが、スポットのように照らされた顔に浮かぶ表情はやはり非常に印象的である。他にも夜には窓の外に必ずネオンサインがあったり、「光」を使った演出が非常に多く、しかも巧みである。

くまちゃん

1992年,日本,98分
監督:小中和哉
脚本:小中千昭
撮影:志賀葉一
音楽:うさうさ
出演:草刈正雄、川合千春、冨永みーな(声)、風祭ゆき、大杉漣

 彫刻家の石室昭雄は妻と別れて10年、今は20歳も年下の舞台女優の卵、中尾桂と恋愛中。今日もアトリエで制作に没頭していた。そこに突然屋根を突き破って卵形の物体が! その物体は制作中の作品を壊してしまった。そして翌朝起きると、その物体は割れており、部屋にはしゃべるくまのぬいぐるみがいた。
 宇宙からやってきた「くまちゃん」が巻き起こす騒動を描いたラブ・ストーリー。小中和哉監督は、「ブラックジャック」シリーズなどのVシネマに加え、最近では「ウルトラマン・ティガ」を手がける異色の監督。

 異常にくさいセリフとスタイリッシュといっていい映像にはさまれるくまのぬいぐるみのバランスが奇妙でおかしい。序盤は相当映像にこっていて、ズームイン・ズームアウトを多用するほか、つなぎ方に工夫してみたりいろいろいじっている。しかし、その間には必ずくまちゃんがはさまれ、それを見るとついにやっとしてしまう。
 この映画は相当すごいと思う。面白いかどうかは置いておいて、発想がすごい。なぜ宇宙人がくまのぬいぐるみなのか? どうして誰もくまちゃんがやってきた目的を聞かないのか? など疑問は尽きないが、この構成はすごい。映画の画面の中でどうしても異物(あるいは浮いた存在)であるくまちゃんが主役。それに、コメディであるようでコメディでないようでもある不思議な雰囲気。妙に凝った映像。くまちゃんがおもちゃの車に乗ってアーケードを疾走するところなんて相当すごい。
 まあ、だからといって話として面白いかといえばそうでもなく、川合千春の演技は拙く、みんながみんなセリフがくさい。そのあたりが普通に映画としてみることの出来ない原因かと思いますが、映画としては相当面白いですね。

陸軍中野学校

1966年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:星川清司
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:市川雷蔵、小川真由美、加東大介、早川雄三、E・H・エリック

 会田次郎は陸軍士官学校を卒業し、婚約者に送られた軍服を着て晴れて中尉として入隊を果たした。しかし会田が配属された連帯の草薙中佐におかしな質問を受け、いく日か経ったある日出張を命じられた。しかし、行ってみるとそこには士官候補生ばかりが18人集められ、スパイになるための教育を受けることを命じられたのだった。そして彼らはスパイになるため名も捨て、家族も捨て、将来も捨てた。
 勢いがあってクレイジーなストーリーがなんといってもすごい。人気シリーズとなりその後何本か続編が作られたが、増村保造は監督はしていない。

 本当にものすごい話。本当の話かどうかはわからないが、映画を見る限りでは戦争当時語られた話を基に作られたようだ。とにかく圧倒されてしまったが、とにかくクレイジー。それも挙国一致の軍国主義的なクレイジーさではないところがすごい。そしてその徹底振りがすごい。まったく人間性の入り込む隙間がないという感じであるのに、じつは中心にいる草薙中佐はひどく人情深い人間であるということ。決して人を人とも思わない非情さではない非情さであるところがすごい。
 む、このレビューはまとまらない予感がします。なので、とにかく思いついたことを羅列。
 草薙中佐の話し方が早い。初期の作品を思い出させるような早い台詞回し。それもまたクレイジーさあるいはストイックさを強調する。
 増村の映画には時折非常に無表情な登場人物が出てくるが、この映画の市川雷蔵もそのひとり。もちろんスパイという役柄だからだろうが、とにかくまったく表情がない。あるとすればかすかに眉間にしわが寄るくらい。しかしそこには常に緊迫感が漂い、迫力がある。
 草薙中佐のコンセプトがすごい。しかし、よく考えてみると、陸軍そのものをひっくり返すとか、植民地を解放するとか、今から考えればすごい説得力のあることだけれど、当時はひどく突飛というか、ある種、反逆的な発想だったんじゃないかと思う。それなのに生徒たちがついてきてしまうというのは、物語としておかしいの?でも、見ている時点ではまったくそんな疑問は浮かばなかった。

はつ恋

2000年,日本,115分
監督:篠原哲雄
脚本:長澤雅彦
撮影:藤澤順一
音楽:久石譲
出演:田中麗奈、原田美枝子、真田広之、平田満、佐藤充

 予備校に通う聡夏(サトカ)は突然母が入院することを知らされる。一時退院したとき、母が戸棚の奥から取り出したオルゴール。鍵がなくなってあかなくなってしまったそのオルゴールを残し再入院した母。サトカはそのオルゴールをこじ開けた。その中には母がそのむかし藤木真一路という人に出せなかったラブレターが入っていた。サトカはその人を探しに母の郷里へ向かった。
 田中麗奈が主演、篠原哲雄が監督と話題性は十分のハートウォーミング・ストーリー。ゆったりと、しかし退屈せずに見られる佳作です。

 特に苦言を呈するべきこともございませんが、ちょっと細部がずさんかなと。ペースはゆったりとしていて、日本映画らしい日本映画なんですが、小津のような(小津までやれといっているわけではありませんが)繊細さが足りない。例えば25年前の手紙があんなにきれいなはずないとか、そういうことです。要するに「汚し」が足りないということです。
 しかし、それはこういったゆっくりとした「見せる」映画にはつき物のことです。アクション映画とか勢いで見せる映画は1カットも短いし、そんな細部に目をやる暇はないけれど、この映画のように長回しを使ったりすると、そんな細部がどうしても目に入ってきてしまう。だから小津のように、徹底的に「汚さ」ないといけないわけです。
 そういう細部を置いておけばこの映画かなりいい。はっとさせられる美しいショットがあったり(桜とか、田中麗奈が雨の中走っていくとことか)、なるほどと思わせるエピソードがあったり(ダムに沈んでることや、友達を母の身代わりにすることとか)、カメラの使い方にも工夫があったり(真田広之が病院に行くところが主観ショットになっているとか)、うまい作りです。