イン&アウト・オブ・ファッション

In & Out of Fashion
1993年,フランス,85分
監督:ウィリアム・クライン
撮影:ウィリアム・クライン
音楽:セルジュ・ゲンズブール
出演:イヴ・サンローラン、ジャン=ポール・ゴルティエ

 写真家・映画作家として知られるウィリアム・クライン。彼が自らの写真・映像両方の作品をダイジェストにし、一種の自伝として語った映画。写真よりも映画に重点が置かれ、過去の映画のダイジェストに多くの部分が割かれる。
 全体的なセンスはさすがウィリアム・クラインという雰囲気で、物語ではなくていろいろな断片をコラージュした映像という感じに仕上がっている。

 ウィリアム・クラインの自己紹介映画というところでしょうか。ウィリアム・クラインを知らない人が見るとなんとなくわかる。そして映画が見たくなる。そのような映画です。これまでに撮られた断片が多いので、それぞれへのコメントは控えるとして、全体的にどうかというと、ウィリアム・クラインは常に時代を先取り、自身もそれを自覚し、むしろ自慢にしているということでしょう。自らの67年の作品『ミスター・フリーダム』を評して「10年早かった」というクラインの言葉は紛れもない事実(あるいは、30年くらい早かったのかも)であり、それを自ら言ってしまうところがクラインらしさなのだろうと感じさせます。
 そのような映画なので、わたしはクラインのすごさに納得したのでいいのですが、スノッブで鼻につくという見方ができるのも確か。
 さて、そんな映画で、わたしが引っかかったのは、クレジットの出し方。クレジットの出し方にまでこだわるところがクラインらしく、これまたスノッブな感じでもあり、面白くもある。特にエンドクレジットなどは、多くの映画はただただ字を流して音楽をかぶせるだけ。たまにエピローグ風のものが入る映画があったり、『市民ケーン』のように、ここの人物の映像に文字をかぶせたりすることはあるもののまず監督がやるようなものではないはず。しかしこの映画はエンドロールもあくまでスタイリッシュに、情報を伝えるよりもひとつの映像として表現するという姿勢が明確に出ています。
 エンドロールで面白いといえば、香港映画ではNGシーンがよく使われますが、個人的に一番印象に残っているのは『プリシラ』。ヴァネッサ・ウィリアムスのヒット曲(タイトルは失念)にあわせて、ドラァグ・クイーンがしっとり口パク。このエンドロールは必見です。
 話がすっかり飛んでしまいましたが、今日の映画はウィリアム・クラインでした。

SHOAH

Shoah
1985年,フランス,570分
監督:クロード・ランズマン
撮影:ドミニク・シャピュイ、ジミー・グラスベルグ、ウィリアム・ルブチャンスキー
出演:ナチ収容所の生存者

 ナチス・ドイツの絶滅収容所のひとつヘウムノ収容所のただ2人の生存者のうちの一人シモン・スレブニク、当時14歳の少年で、とても歌がうまかったというその男性が監督に伴われてヘウムノを訪れるところから映画は始まる。
 そこから当時からヘウムノの周辺に住んでいたポーランドの人たちへのインタビュー、他の収容所の生存者たちへのインタビュー、もとSS将校へのインタビュー、ワルシャワ・ゲットーの生存者へのインタビューなどホロコーストにかかわりのあるさまざまな人へのインタビューと、収容所跡地の映像、これらホロコーストにかかわるさまざまな資料を9時間半という長さにまとめた圧倒的なドキュメンタリー映画。
 ユダヤ人である監督はもちろんホロコーストの本当の悲劇を世界に伝えるべくこの映画を撮った。これでもかと出てくる衝撃的な証言、映像の数々。

 まず、この映画を見る前に、この映画をほめるのは簡単だと考えた。「ホロコースト」という主題、9時間半もの長さ、貴重な証言の数々、それは歴史的に重要な映像の重なりであり、われわれに戦争の悲惨さとそれを繰り返してはならないという教訓を投げかけるということ。それは見る前から予想ができた。その上で私はこの映画を批判しようという目線で映画を見始めた。その視線が見つめる先にあるのは、この映画の視点が一方的なものになってしまうのではないかという恐れ、現在存在するパレスチナ問題にもつながりうるユダヤ人の自己正当化、そのようなものが映画の底流に隠されているのではないかという危惧を持って映画を見始めた。
 見終わって、まず思ったのはこの映画は紛れもなく必要な映画であり、見てよかったということ。この映画を見ることは非常に重要だということだった。それは単純に映画を賛美し、そのすべてに賛成するということを意味するわけではないが。

 それでも私は9時間半、批判することを忘れずに見続けた。そして批判すべき点もあるということがわかった。
 映画の序盤、映画に登場するのは監督と証言者と通訳。私がまず目をつけたのはこの通訳だ。通訳を介し、通訳が翻訳した言葉で伝える。オリジナルではもちろんそのまま音声で、字幕版でも証言者本人の証言に字幕がつくのではなく通訳の翻訳に字幕がつく。最初これが非常に不思議だった。
 しかも、証言者たちはカメラのほうを見つめることなく、ほとんどカメラを意識させず、監督のほうを見つめる。このような撮り方は監督の存在を強調し、映画が監督によるレポートであるということを明確にする。われわれは証言者の証言を直接聞くのではなく、そのインタビュアーである監督のレポートを見ることになる。

 そして、次に疑問に感じたのが、人物の紹介のときに出るキャプション。ユダヤ人、ポーランド人、もとナチスという線引きは果たして中立的なのか、ユダヤ人とそれ以外という線引きを強調しすぎてはいまいか? と考える。
 そして登場する元SS将校。「名前を出さないでくれ」というその元将校の名前を堂々と出し、隠し撮りをし、隠し撮りであることを強調するかのようにその隠し撮りの状況を繰り返し映す。
 この「隠し撮り」がこの映画における私の最大の疑問となった。果たしてこのようなことがゆるされるのか?

 この元SS将校の生の証言によってこの映画の真実味が飛躍的に増すことは確かだ。被害者や近くにいたというだけの第三者の証言だけでなく、加害者であるナチスの直接の証言は強烈だ。
 しかし、「名前は出さない」と約束し、撮影していることも(おそらく)明らかにせず得た映像と情報を臆面もなく映像にしてしまう。名前を全世界に向けて明らかにする。その横暴さはどうなのか? 確かにそのナチの元将校はひどいことをした。反省をしてもいるだろう。繰り返してはいけないと思っているのだろう。だから証言をした。「正々堂々と名前と顔を出して証言しろ」といいたくなることも確かだ。しかしその元将校にも彼なりの理由があって名前を伏せることを条件にした。その条件があって始めて証言することに応じた。そのような条件を踏みにじることが果たして赦されるのか?
 監督はこの映像がこの映画に欠かせないと考えたのかもしれない。それはそうだろう。せっかく得た映像を使わないのは馬鹿らしい。しかし、私はそれは決してやってはいけなかったことだと思う。それをやってしまうことは一人の映像作家として、表現者として恥ずべきことであり、映像作家であり、表現者であると名乗ることは赦されるべきではない。表現者とは許された条件の中で自分の表現したいことを表現するものであり、禁じられたものを利用してはいけないはずだ。
 映画に限っても、映画とはさまざまな制限の中で作られるものだ。その制限の中に以下に自分を表現するのかが勝負であるはずだ。予算や、機材や、検閲や制限に程度の差こそあれ、その制限を破ることなく作るのが映画であるはずだ。この監督がやったことはたとえば「予算が足りないから銀行強盗をして予算を増やそう」ということと変わらない。
 そこに私は大きな憤りを感じた。

 映画のちょうど真ん中辺りにあるアウシュビッツの映像。生存者の証言にあわせてカメラがアウシュビッツの跡地を進む。その映像は徹底して一人称で、見ているわれわれは自分がその場所に立っているかのような錯覚にとらわれる。そしてそこに40年前に起こっていたことが陽炎のように表れるのを体験する。そのシークエンスは非常に秀逸だ。この映画の中で最も映画的で、最も感動的な場面といっていいだろう。想像させるということは、どんなにリアルな再現よりも効果的である。
 しかし、批判の眼を忘れないように見続ける私はその感動と衝撃の合間に監督の意図を探る。このシークエンスの意図は明確だ。当時のユダヤ人の衝撃と悲しみの疑似体験をさせること。それは殺されていったユダヤ人たちを理解するための近道である。しかしこのような近道を作ることで見ているわれわれはユダヤ人の視線に追い込まれていく。それは中立な視線を保つことの困難さ、ユダヤ人の受難を自分自身の身に降りかかったことであるかのように思わせる誘導。そのような誘導を意識せずに見ると、この映画は危険かもしれない。ひとつの見方に押し込められてしまう危険があるということを常に意識していなければいけない。
 そのような観客の感情の誘導はそのあたりがピークとなる。その後、感情の高ぶりはやや抑えられ、逆に生依存者たちの心理の複雑さも垣間見えるようになる。生存者のほとんどは「特務班」と呼ばれる労働者だった。それは到着してすぐにガス室に送られるユダヤ人とは違う境遇にある。彼らは被害者であると同時に、ナチスの虐殺にある種の加担をする立場でもある。自分が生きながらえるために仕方ないとはいえ、その仕方なさはそれ以外によりどころがないという仕方なさであり、それにすがるしかないというのは心理的に非常にきついことなのだ、ということが証言の端々から感じられる。

 このあたり、映画の後半の証言はほとんど直接に字幕がつく。それは英語であったり、イスラエル語(?)であったりする。それは言語の問題なんだろうか? 単純に監督が通訳を必要とせずに話せるというだけの理由なのだろうか?しかし、字幕なしにすべての言語を理解できる人は少ないだろう。
 この、通訳を介するということから直接の証言への変化はこの映画のつくりのうまさのようなものを感じる。ドキュメントは虐殺の中心、より悲惨な生存者の少ないところから、虐殺の周辺、より生存者の多いところへと移動していく。それとは裏腹に、証言者たちは通訳を介した間接的な存在から、通訳なしで語りかけてくる直接的な存在へと変化する。虐殺の中心から周辺へという移動は、最初で一気に観客をつかむとともに、物語の強弱によって9時間半という長さを退屈にならないようにする。一つ一つのエピソード(たとえばチェコ人のケース)も非常にドラマティックだ。
 このような映画のつくりのうまさは監督の手腕を感じさせると同時に、なんとなく姑息な感じというか、計算高さを感じてしまう。観客を自分の側に取り込んでいくための周到な計画がそこに感じられる。
 もちろんそれが悪いわけではない。ホロコーストという想像を絶する悲惨な体験を自分のものとするためには並大抵の衝撃では無理である。この映画はその並大抵ではないことをある程度実現しているという点ですごい映画であり、この体験をすることは非常に有益である。しかし、映画を見終わってその自分の体験を客観視することが必要になってくる。単純に映画に浸るだけで終わってしまっては、描かれた歴史的事実のはらむ根本的な問題は見えてこない。
 この映画もまたひとつの暴力であるということを見逃してはいけない。私があくまでもこだわる元SS将校の証言はその具体的なものだが、全体としてこれがナチを一方的に攻撃していることは確かだ。そしてそれはユダヤ人を正当化することにつながりうる。

 この映画を見終わって、監督があまりに感情的であることに救われる。もしこのようなドキュメントを冷静に描いていたらこの9時間半は鼻持ちならない時間になってしまっていたことだろう。そうではなくて、この映画があくまで監督の憤りの表現であることがわかると、納得できる。果てしなく果てしなく果てしないモノローグ。他人の口を借りたモノローグ。それがモノローグであることを理解したならば、そのメッセージを冷静に噛み砕くことができる。そしてその部分部分は歴史的証言として非常に価値がある。そしてまたこのモノローグが吐露する憤りはユダヤ人といわれる人たちに(少なくともその一部に)共有されている感情なのだろう。
 そのように自分なりに客観的に見つめてみて、あとはこの映画からはなれて、しかしこの映画とかかわりのあるさまざまなことごとと接するたびに思い出すことになるだろう。

愛の世紀

Eloge de L’Amourohn
2001年,フランス,98分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:クリストフ・ポロック、ジュリアン・ハーシュ
出演:ブルーノ・ピュッリュ、セシル・カンプ、クロード・ベニョール

 パリ、エドガーはある企画をもっている。出会い、セックス、別れ、再開という愛における4つの瞬間を若者、大人、老人という3組のカップルについて描くというもの。果たしてその出演者たちを探し始めたエドガーは役にぴったりの女性に以前であっていたことを思い出す。
 ゴダールはあくまでゴダールである。美しいけれど理解できない。すべてを理解することはできないけれど、何かが引っかかる。それがゴダールでいることはわかっている。

ゴダールはアインシュタインなのかもしれない。ゴダールを全く理解できるのはゴダール自身と世界中にあと幾人かしかいないのかもしれない。それでもゴダールがすごいと思えるのが天才たるゆえん。アインシュタインの相対性理論も理解できないけれどそれが何かすごいことを説明していることはわかる。ゴダールの映画も理解できないけれど、それが何か新しい表現であることはわかる。こじつけていろいろと理解してみることはできるけれど、その理解は全きゴダールとはおそらく異なっているだろう。しかし、相対性理論と同じく、ゴダールも一部分を利用しただけでも新しいものが生まれるのかもしれない。
 断片化されたこの映画を見ながら、そのそれぞれの断片が何かを含んでいることはわかる。前半のモノクロの鮮明なフィルムの映像と、後半のカラーの濁ったビデオの映像。その違いが表現しているのはフィルムの優越だろうか?あるいは質の違いが必ずしも価値の違いを生みはしないということだろうか?実際その結論はどちらでもいいのだろう。映像をとどめるためにはフィルムとビデオがあり、その質には違いがあるということ。そこまでをゴダールは明らかにし、それを併用することによって表現できることもあるということを示してはいるけれど、その先は…
 「愛について」という言葉と「さまざまな事柄」という言葉のどちらが先に出るのか、その順番を変えることにどんな意味があるのか? それもまたわからない。
 私はこの映画でゴダールがこだわっているのは「言葉」だと思った。冒頭の「映画、舞台、小説、オペラのどれを選ぶ?」という質問の答えは「小説」だった。それは小説という言葉による芸術。つまり「言葉」の象徴。ゴダールはこの映画で言葉を多用しながら、それと決してシンクロすることのない映像の断片を重ねていく。それは「言葉」への反抗、映像を使った新しい文法、新たな世紀の文法であるかのようだ。アインシュタインが相対性理論を発明したように、ゴダールは映画という新たな文法を発明したが、われわれは従来どおりの文法でそれを見るから理解できない。それは仕方のないことだ。「何度も繰り返し眺めていれば、ある日ふっとわかるかもしれない」という頼りない望みを抱きながら、私はゴダールを見続けるのだろう。

パリのランデヴー

Les Rendez-vous de Paris
1994年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:パスカル・リビエ
出演:クララ・ベラール、アントワーヌ・バズラー、ベネディクト・ロワイアン

 エリック・ロメールがパリを舞台に3つの恋を描いたオムニバス作品。
 第1話は「7時のランデヴー」。恋人に浮気の疑いを抱いた大学生を描いた作品。第2話は「パリのベンチ」。恋人と一緒に暮らしながら違うタイプの男とデートを重ねる女性の姿を描く。第3話は「母と子 1970年」。ピカソの「母と子」が恋物語を展開させる。
 どの話もパリの風景がふんだんに出てきて、ちょっとした旅行気分が味わえる小品たち。

 どのエピソードも何か言っているようで何もいっていないような感じ。2番目のエピソードがちょっと毛色が違うような気がするけれど、どれも結局のところ漠然と「恋」というものを描く。一つの映画でひとつの恋を描くのではなく、3つの恋を完全に独立したエピソードで描くことで浮かび上がってくることもある。
 単純にひとつの恋を描く映画、これはつまり「恋」をモチーフとしたひとつの単純なドラマを描いているということ。それは単純なひとつのケースとして描きたいことが描けるし、そこから何か恋の全体像が浮かび上がってくる必要はない。
 複数の恋をひとつの物語で描く映画、これはおよそ人間関係が複雑であったりして物語として面白くなる。ここではとりあえず「恋」というものに絞って考えるなら、このような複数の恋をひとつの物語で描く映画では概してそれぞれの恋の差異が浮かび上がってくる。それは登場人物が複数の鯉の中からひとつを選んだり、選ばなかったりということがおきるからで、そこで生じる比較が「恋」についての差異を浮かび上がらせてゆく。
 複数の恋を複数の物語で描く映画。これはこの『パリのランデヴー』のような映画のことだけれど。この場合、それぞれの恋の関係性は特にないので、あまり比較にはならない。共通点や違いがあったとしても、それが差異として浮かび上がってくるというよりはそれも含めて「恋」の全体像が浮かび上がってくるという感じ。
 と、唐突に「恋」に関する映画を分析してしまいましたが、このようなことがいえるのは何も「恋」に限ったことではなく、映画にテーマを読み取るとするならば、そのテーマについて描く描き方一般に言えることだと想います。
 だからどうしたというわけでもないですが、パリといえば「恋の街」ということで、そんなことを考えてみた次第であります。

モンパルナスの灯

Montparnasse 19
1958年,フランス,108分
監督:ジャック・ベッケル
原作:ミシェル・ジョルジュ・ミシェル
脚本:ジャック・ベッケル
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:ポール・ミスラキ
出演:ジェラール・フィリップ、リノ・ヴァンチュラ、アヌーク・エーメ、レア・パドヴァニ

 1917年、パリ、画家のモジリアニはまったく絵が売れず、酒びたりの日々を送る。そんな彼を支えるのは女たちと隣人のズボロフスキーだけ。そんな彼がある日が学生のジャンヌとである。二人は恋に落ち、結婚を約束するが荷物を取りに家に帰ったジャンヌを待っていたのは…
 モジリアニの伝記をジャック・ベッケルが映画化。アヌーク・エーメの美しさ、ジェラール・フィリップのはかなさ。リノ・ヴェンチュラの不敵さ。伝記映画の傑作のひとつ。

 いかにもアル中というていの(悪く言えば型どおりすぎる演技の)ジェラール・フィリップをカメラがすっと捉えると、こちらもすっと映画に入ってしまうのは何故か? ジェラール・フィリップはあまりにはかなく、不運の画家を演じるのにうってつけすぎる。水のように赤ワインを飲み干すその大げさにゆがめた口元の演技の過剰さがむしろ自然に見えるのは何故か。物語はつらつらと進み、われわれはモジリアニを観察する。映像もそのあたりでは遠目のショットで捕らえることが多い。しかし、ジャンヌとで会ったあたりから、カメラは劇的に登場人物たちに近づき、われわれを彼らの視点に引き寄せる。
 そこから、ジャック・ベッケルの演出力とクリスチャン・マトラのカメラは見ている側の観客への感情移入を促すことに専念する。ただひたすら悲惨な境遇のふたり。どうしようもなかった男が愛に誠実に生きるようになる過程。そしてそれを納得させるアヌーク・エーメの美しさ。このメロドラマは周到に結末に向かってわれわれを物語の中に引き込んでいく。そこで登場する不敵な悪役。悪役のわかりやすすぎるキャラクターもすでにメロドラマに引き込まれているわれわれには違和感を与えない。かくして舞台はそろい、役者もそろい、ハッピーエンドに終わってくれという期待を高めながらわれわれはひたすらメロドラマに巻き込まれる。
 ジャック・ベッケルはこのように観客を映画に巻き込んでいく技術に長けている。それはあるときはメロドラマであり、あるときはサスペンスであるけれど、観客をひとつの視点・ひとつの立場に引き込み、結末に向かって突き進ませる力。それがジャック・ベッケルの映画にはある。この映画はそのジャック・ベッケルの演出力がうまく伝記という難しい題材を救った。
 私は伝記映画というのをあまり信用していないのですが、この映画はかなりのモノ。それにしてもこの話がどれくらい実話なのかというのは気になりますね。これがすべて事実だとしたら、モジリアニの人生(の最期)はあまりに劇的で、あまりにメロドラマ過ぎる。しかし、それでも本当だったのだろうと信じさせるものがこの映画にはあります。

ニコラ

La Classe de Neige
1998年,フランス,96分
監督:クロード・ミレール
原作:エマニュエル・カレール
脚本:エマニュエル・カレール、クロード・ミレール
撮影:ギョーム・シュフマン
音楽:アンリ・テシエ
出演:クレモン・ヴァン・デン・ベルグ、フランソワ・ロイ、ロックマン・ナルカカン

 寝てもさめても悪夢ばかりを見る小学生のニコラはスキー教室に参加することになった。しかし、両親が数日前におこったバス事故を気にして、ニコラはバスではなく父親の車で合宿場所まで行くことにした。みんなから少し送れて合宿場所に着いたニコラは父親が帰ってしまった後荷物を車に積んだまま忘れてしまったことに気づく…
 不思議なモチーフでスリラーの雰囲気を持つドラマだが、基本的には少年ニコラの内的世界を描いたものなのか。

 ニコラの悪夢や想像と現実との境目をあいまいなものにするやり方はなかなかうまいと思う。これはニコラの主観からすべてを描いた映画であるといえ、だからこそ現実とそれ以外との境界がないということだろう。今見ているものが現実なのか、悪夢なのか、想像なのかということはそれを見ている時点で判断できるものではなく、あくまで時間が経過してから始めて判断できるものである。しかし、それはあくまで相対的なもので、あるひとつのつながりを現実と判断することでそれ以外は現実ではないと判断するしかないわけだ。
 この映画は基本的には現実とそれ以外というものを分けて描く。それは最初の父兄への説明会の場面と最後のホドゥカン一人の場面というニコラの主観ではない場面の存在によって固定されている。しかし、それ以外の場面が(多分)すべてニコラの視点から描かれていることを考えると、これら場面もニコラの見ている場面であると考えることもできる。それはつまりこの映画の文脈からいうとニコラの想像ということになる。両方があるいは少なくともどちらか一方が。
 そう考えると、どんどんわけがわからなくなっていく。合宿場所へと向かうニコラが車の中で寝入ってしまったことを考えると、それ以降は全部現実ではないのかもしれないと思えたりする。
 どれが現実で、どれが想像か。さらりと見ただけだと、一つの当たり前の解釈が成り立つようだけれど、果たして本当にそれでいいのかということはわからない。「もしかしたら」と考える可能性。それがこの映画のいいところだと思います。

アメリ

Le Fabuleux Destin d’Amelie Poulain
2001年,フランス,120分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン
撮影:ブリュノ・デルボネル
音楽:ヤン・ティルセン
出演:オドレイ・トトゥ、マチュー・カソヴィッツ、ヨランド・モロー、ルーファス

 子供のころ、両親に心臓病と決め付けられ、他の子供と遊ぶことなく育ったアメリは想像の世界で遊ぶことが大好きだった。22歳になり、家を出て、パリのカフェで働くようになってもそれは変わらなかった。そんなアメリがある日、自分のアパートで40年前その部屋に住んでいた少年の宝箱を見つけた…
 これまでは暗く奇妙な世界を描いてきたジュネ監督が一転、陽気なファンタジーを撮った。

 この映画はさまざまな見方ができ、それによってさまざまな評価ができると思う。一番単純には、素直に明るい物語とその世界を追っていく方法。そのように表面をさらりとさらうととてもポップで明るいお話で、とても女の子受けもよい感じ。それはジャン=ポール・ジュネ独特の鮮やかな色彩や奇妙な世界観。それは現実とかけ離れているという意味で非常に浸りやすく、それだけに見終わった後も楽しく宝物のように映画をとって置くことができる。
 しかし、そこから掘り下げてゆくと、ジャン=ポール・ジュネはやはりジャン=ポール・ジュネだという話になる。現実とかけ離れた奇妙な世界観は細部を気にし始めるといろいろと理解しがたいところが出てきて、そこから先は好みの問題となっていく。ジュネの世界の人たちはとにかくおかしい。それをファンタジーとしてとらえるか、ありえないとして拒否するか、あるいは自分の内的現実との共鳴を感じるか。
 そもそも、アメリというキャラクターに共感できるのかどうか? そして、その周りの変な人たちを受け入れることができるのかどうか? たとえば、アメリと下の階のガラスの骨のおじいさんは互いに覗き見していることを知りながら、それを受け入れている関係。よく考えるとこの関係も相当不思議。アメリだっていたずらといえば聞こえはいいけれど、よく考えるとかなり悪いことをしている気もする。
 となるわけですが、私はこの世界観が非常に好きです。そもそもジャン=ピエール・ジュネは好き。それは彼の描く特異なキャラクターたちも含めてです。そして、アメリも好き。アメリのような人は大好きです。なかなか言葉で表現するのは難しいところを、ジュネがうまく映画という形で表現してくれたといいたいくらいとっても好きなキャラクター。私にとってはアメリはそれくらいしっくり来るキャラクターでした。
 アメリはこの映画で3つのことをしようとしているわけです。人を幸せにすること、一人の人をいたずらでいじめること、自分が幸せになること。そのそれぞれは成功したり失敗したりしますが、面白いのはそれが成功するかどうかということではなくて、その過程。そのいたずら心。その過程の面白さはみているわれわれを幸せにしてくれる。それが素敵(一番はやはり小人かな)。
 それにしてもジュネ監督の細部へのこだわりは相変わらず。一番思ったのは、アメリが作ったパスタの湯気。本物の湯気があんなにしっかりとカメラに映るはずもなく、ということはわざわざ映像に湯気を足したということなわけで、しかしその湯気がことさら重要なわけでもない。その辺りのこだわりがとてもいいのではないかと思う。

恋の秋

Conte d’Automne
1998年,フランス,112分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
出演:マリー・リヴィエール、ベアトリス・ロマン、アラン・リボル、ディディエ・サンドル、ステファン・ダルモン

 マガリは夫と死に別れ、二人の子供も独立し、一人で親から引き継いだブドウ畑でワインを造っていた。親友のイザベルがある日マガリをたずねると、マガリは息子レオの恋人のロジーヌと一緒にいた。そのロジーヌは哲学の先生のエティエンヌと分かれてレオと付き合い始めたばかりだった。孤独に暮らすマガリに男の人を世話しようとイザベルとロジーヌはそれぞれ考えを持っていて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の最後の作品。主人公の年齢が高いのは人生の「秋」という意味なのだろうか。

 最初のシーンで遠くのほうに移る工場の煙突。田舎の風景の中でなんとなく浮いているその煙突は物語が進んでから人々の話題にのぼる。映画というのは、そういう細かい部分の「気づき」が結構重要だと思う。もちろん映画自体のプロットとか、登場人物のキャラクターとか、メインとなるものはもちろん重要なのだけれど、それだけではただの物語としての面白さ、ドラマとしての面白さになってしまう。それは、映画としての面白さと完全に一致するものではないような気がする。本当に面白い映画とは、一度見ただけではすべてを見切れない映画であるような気がする。1時間半や2時間という時間で捉えきれないほどの情報をそこに詰め込む。
 この映画はそれほど情報量が多いわけではないけれど、その煙突のようなものがメインとなるドラマの周りに点々とある。その点は映画的な魅力となりうるものだと思う。たとえば、イザベルとジェラルドが初めて会ったとき、出されたワインのラベルが画面にしっかりと映る。こういうのを見ると「ん?後々なんか関係してくるのかしら?」と思う。具体的にいえば、「マガリの作ったワインかしら?」などと思う。実際、このラベルは後々の話とはまったく関係なかったけれど、そういう周囲のものにも注意を向けさせる撮り方というのは映画にとって重要なんじゃないかと思ったりする。
 さて、これは「四季の物語」最後の作品で、4本撮るのに10年もかかってしまったのですが、全部見てみると、結局のところどれも恋の話で、結局いくつになっても恋は恋。ジェラルドが言った「18歳のときのように怖い」というセリフがこのシリーズをまとめているかと思われます。最後の作品で少し年齢層が高めの物語を持ってきたというのは、ロメールなりのそういったメッセージの送り方なんじゃないかと思ったりもしました。

歌う女・歌わない女

L’une Chante, L’autre pas
1977年,フランス=ベルギー,107分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:シャルリー・ヴァン・ダム、ヌリート・アヴィヴ
音楽:フランソワ・ヴェルテメール
出演:テレーズ・リオタール、ヴァレリー・メレッス、ロベール・ダディエス

 1962年、歌手を志す高校生のポリーヌは町の写真屋で昔隣人だった友人が子供と一緒にの写真を眼にする。そして彼女がその写真屋と同棲し、子供までもうけたと知る。後日彼女を訪ねたポリーヌは、彼女が貧しさに苦しみながらもう一人子供を身ごもっていることを知る。
 二人の女性はまったく異なった立場ではあるが、どこかにつながりを感じ、ひとつの物語を織り成してゆく。

 昨日は、シュールリアリスティックなヴァルダの世界感について書きましたが、それと比べるとこの映画は非常にオーソドックスな空間を構成しています。まったくの日常の風景。
 この映画にあるのは徹底的なアンチクライマックス。物語をひとつあるいはいくつかのクライマックスに向けて作ろうという姿勢ではなく、ほとんど平坦なストーリーテリングをしようという姿勢。この物語り方は非常に現実的である気がする。大きな節目である自殺の場面を経ても、二人の関係は劇的に変わらない。そもそもその自殺の場面も劇的に演出されない。
 ヴァルダは普段は非常に近くに人物をとらえる。多くの場合、画面からはみ出しさえする。そんなヴァルダが自殺に続くスザンヌの田舎暮らしの場面で徹底して遠くから被写体をとらえるのはなぜなのか? その画面が伝えるのは決してスザンヌの悲惨さというものではない。両親に冷たく当たられながらもスザンヌの顔には笑みがあふれ、子供たちも決して不幸せそうではない。しかしそう幸福そうでもない。
 つまり、この場面は遠くからとらえることで悲惨さやあるいは幸福さが薄められている。それは自殺という劇的な事件を機に大きくドラマが波打つのを防ぐ。
 これらによって作り出されるアンチクライマックスは映画の重心をドラマからそらせる。映画のドラマ以外の部分。それこそが常にヴァルダが観客にプレゼントしたいものなのだと思う。

百一夜

Les Cent et une Nuits
1994年,フランス,105分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:エリック・ゴーティエ
出演:ミシェル・ピコリ、ジェリー・ガイエ、エマニュエル・サリンジャー、マルチェロ・マストロヤンニ、マチュー・ドュミ

 映画と同じ年齢のムッシュ・シネマの城に映画の話をしに101日間通うというアルバイトの契約をしたカミーユ。そこにはマストロヤンニらスターたちも訪れる。そんなカミーユの恋人ミカは映画青年だが、映画を撮りたいが資金がない。そこで彼らが考えたのは…
 アニエス・ヴァルダが映画100年を記念して、たくさんのスターを出演させて撮った作品。シュールではあるが、遊び心にあふれた作品。

 かなりわけがわからないです。映画マニアなら、これはあれ、それはどれといろいろ思いをはせることができ、にやりとしてしまう演出も多くあるのですが、普通に見るとなんだかわけのわからない話になってしまっている感じ。 いろいろなスターが見られるということと、ヴァルダ流の映画史解釈を見ることができるというところがこの作品の面白いところでしょうか。ストーリーといえるものはほとんどないに等しいので、遊びたいだけ遊べる。シネマ氏の屋敷の使用人たちからして本当にわけがわからないので、なんともいえませんね。
 しかし、映画の中でシネマ氏が「アンダルシアの犬」を「映画の教科書」といっていたことを考えると、このシュールリアリスティックな空間がヴァルダにとっての映画というものなのではないかと推測することもできます。
 ヴァルダの映画はこれ限らずどこかシュールリアリスティックなところがある気がします。それは私がヴァルダを好きな理由のひとつでもあるわけですが、この作品はそのヴァルダのシュールリアリズム性を改めて明らかにしたというものでもあると思います。
 次から次に出てくるスターたちに惑わされがちですが、それこそがヴァルダが映画100年を振り返って最も言いたかったことなのかもしれません。シネマ氏の城の庭で開かれるパーティーで繰り返し現れ、強烈な印象を与える牛。それはその直後ブニュエルとして台詞までしゃべってしまう。その「黄金時代」への憧憬こそがヴァルダの映画の原動力なのではなかろうかとこじつけたくなります。