溺れゆく女

Alice et Martin
1998年,フランス,124分
監督:アンドレ・テシネ
脚本:アンドレ・テシネ
撮影:キャロリーヌ・シャンプティエ
音楽:フィリップ・サルド
出演:ジュリエット・ビノシュ、アレクシス・ロレ、カルメン・マウラ、ジャン=ピエール・ロリ

 美容院を経営する母親と幸せに暮らしていたマルタンだったが、10歳のとき、母に言われ、会ったこともない父のところで暮らすことになった。20歳になったマルタンは突然家を飛び出し、着の身着のままで盗みまでしながら3週間放浪を続けた。一度警察にまでつかまったあと、転がり込んだ義兄の家で、義兄の同居人アリスに出会った。
 知る人ぞ知るという感じのフランスの監督アンドレ・テシネ。ビノシュとのコンビは「ランデブー」以来十数年ぶり。全体的には濃い感じのラブ・ストーリーだけれど、なかなか物語に深みがあり味わい深い。

 マルタンが父親を殺してしまったのだろうということは映画の中盤くらいまでくれば容易に想像できるが、その背景にあるものがなかなか見えてこないし、その結果、自体がどのようになったのかも予測がつかない。それが明らかになった時にこの映画はなかなかすごいと思わせる。その謎解きの展開や描き方は決して秀逸とはいえないけれど、その物語自体に味がある。人間の心理っていうのはかくも複雑なものなんだと改めて実感させられる。
 あと、この映画で気になったのは、ひとつはピントの効果を非常にうまく使っていること。フレームの中に2人の人がいて会話しているときに、カメラに対して距離が異なるというのはよくあることだが、この映画ではそのシーンで大概片方の人にしかピントを合わせない。そして、そのピントを1カットの中で変えることが多い。しかも、必ずしも話している人にピントが合っているわけではない。これはディープフォーカスで2人ともがはっきりと見えてしまうシーンとは明らかに違う。注目してみるべき表情がひとりに絞られるので、メッセージが伝わりやすい。この方法自体は特に珍しいものでもないですが、結構頻繁に使われていたので、気になったわけです。そしてこの映画ではかなり効果的。
 もうひとつは、移動する人を映すときに、カメラとの間に遮蔽物が入ることが多い。柱とか柵とか壁とかそういったものですが、そういうものにさえぎられて被写体がカメラから度々隠れるというシーンがかなり多かった。この場合は具体的な効果というよりは画面に動きをつける工夫だと思いますが、これもうまく使えば目先が変わっていいのでしょう。これも珍しい手法ではありませんが、なかなかよかったです。

さよならS

Le Petit Vouleur
1998年,フランス,63分
監督:エリック・ゾンカ
脚本:エリック・ゾンカ、ヴィルジニー・ヴァゴン
撮影:ピエール・ミロン
音楽:ジャン=ジャック・フェラン
出演:ニコラ・デュヴォシェル、エミリー・ラファルジェ、ジャン=ジェローム・エスポジト、ジョー・プレスティア

 オルレアンのパン屋で働く18歳のSは代わり映えのしない日常に苛立ちを募らせ、遅刻を繰り返したためにパン屋をクビになる。その夜恋人のアパートに泊まったSは恋人の給料を盗み、マルセイユへ向かった。そこでボクシングジムを経営するギャングの仲間になり悪事に手を染めていった。
 「天使が見た夢」が話題を呼んだエリック・ゾンカの監督第2作。いわゆるギャング映画ではなく、少しノワールな青春映画。

 誰もが感じるある種の閉塞感を映像化したというイメージの作品。Sがいらだち、いきがっているだけだということが最初のあたりで何とはなしに明らかにされる。これがこの監督のやさしさか。実際のところSはかなり卑怯なことをし、悪事をやることにそれほど躊躇を覚えないようなのだが、それがSの本質ではないことは最初の設定でわかっているから、安心してみていられる。
 だから全体としては暖かな雰囲気の映画で、ギャングを扱った映画だという緊迫感は皆無。この映画はギャング映画ではなくて青春映画だからそれでいいのだけれど。
 だからかどうかはわかりませんが、画面も全体に明るい。
 いい映画なんですが、なんとなくどっちつかずというか、とらえどころがないというか、漠然としていて明確な何かがないという感じはしました。でもそれは複雑なもの(言ってしまえばSの「心」)を複雑なまま包み込んでいると解釈することも出来るので、それが一概に「浅い」ということも出来ないのでもありますが…

カノン

Seul Contre Tous
1998年,フランス,95分
監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
撮影:ギャスパー・ノエ
出演:フィリップ・ナオン、ブランディーヌ・ルノワール、フランキー・パイン

 前作「カルネ」の物語が最初プロローグ的に挿入され物語は始まる。カフェの元女主人と田舎に引っ込んだ元馬肉売りの男は女が約束の店を借りてくれないことに不満を募らせる。男は夜警の仕事をはじめるが、ある日その不満がついに爆発し男は家を飛び出した。
 前作とほとんど同じ映画の構成で、相変わらず斬新で暴力的な映画。特に独特の音響がショッキング。前作より長くなったせいか、一つ一つの構図のこだわりが弱くなったような気がしてしまうのが残念。

 ドラのような音でリズムを作ってカットを割っていく最初のほうの構成は前作とほぼ同じで最初のあたりはかなりいい感じ。しかし、そのドラのような音が銃声に変わり、観客を驚かせる。それはそれでいい。しかし、それが度重なると、暴力的でただ過剰な騒音になりかねない。個人の感性にもよるが、私にはちょっと過剰で耳障りに感じられてしまった。そんなことをしなくても出来ただろうにと思ってしまう。というのも、元馬肉売りの男が田舎からパリへと向かうトラックの中の大音響の音楽は決して耳障りではなかったから。
 そのあたりでちょっと映画への没入をそがれたものの、全体として悪くない。クライマックスのホテルの場面なんかはものすごい緊張感で圧倒された。この監督の緊迫感を作り出す力はすごい。
 さてそのあたりは置いておいて物語に話を移すと、ほぼすべてが男のモノローグで展開されるこの物語はとにかく暗い。「モラル」というものをテーマにし、それを徹底的に否定的にとらえ、「モラル」とは金持ちを助ける価値観でしかないと断罪する。あまりにそれを徹底しすぎているがゆえに、もと馬肉売りの男の行動は嫌悪感さえ催させる醜悪さを露呈するが、それはある程度の真理を語ってはいるのかもしれない。映画の冒頭ですべての「モラル」に挑戦すると宣言したギャスパー・のえの言葉は決して嘘ではなかった。我々が男の行動に嫌悪感を催すということは、我々もまた腐った「モラル」に浸りきったブルジョワでしかないということを意味するのかもしれない。
 この映画の居心地の悪さにはそのような罠が隠されているのだと私は思う。だから見ることの苦痛を覚悟しながらも、この映画を見ることには意味があると私は言いたい。

カルネ

Carne
1994年,フランス,40分
監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
撮影:ドミニク・コラン
出演:フィリップ・ナオン、ブランディーヌ・ルノワール、フランキー・バン

 馬肉の店を経営する男。妻は娘を置いて家を出た。それ以来ひとりで娘を育て、男は娘を溺愛した。娘は非常に無口だった。
 最初からテキストから始まり、馬の屠殺シーンが続く。冒頭から普通の映画ではないことを主張するこの映画は、どこかゴダールのような雰囲気があり、しかし明らかにそれとは違うオリジナルなリズムを持っている。実験的ではあるけれど、決してわけがわからないわけではなく、物語自体にも十分魅力がある。40分という時間に凝縮された世界はかなりすごい。

 最初のうちは文字画面がけっこう使われて、そこに効果音があってゴダールっぽい(特に娘の成長を追って月日が経って行くところ)。しかし、全体的な雰囲気はゴダールのポップ(といっていいのかな?)な雰囲気とは違い薄暗い感じ。 それでもかなり傾向として似ているのかなという感じを受けるのは、構図へのこだわり。この作品で何はともあれ最も気になるのは顔のない構図。あるいは顔の下半分の構図。会話の切り返しなんかでも、鼻から下だけを映して切り返しをしたりする。それは非常に目に付く。始まってからしばらくはまったく顔が映らないということもあるし。
 そのあたりはかなり面白い。そして、それで明白な何かを伝えようとするよりはなんとなく不思議な感じを与える、ほの暗い感じを与える効果を生む。それは奥行きの表現の仕方にもいえる。普通、奥行きというのは画面の真中の線を基準に表現されるのだけれど、この映画では斜めに奥行きがよく使われる。簡単に言えば、道が画面の左下から右上に伸びているような画面。素直な表現だと道は画面の左右か上下に伸びるものだが、この映画では斜めであることが多い。ここにもひとつの作為が感じられる。この構図の感じは… 行き詰まっている感じかな。 どうも、「感じ」という表現が多くなってしまいましたが、それはこの映画が感性のというか抽象的な映画であるから。それは何かを説明しようというのではなく、感知させようとする映画であるから。言葉や人間の行動で人間の感情や心理を表現するのではなく、構図やつなぎで表現する映画であるからです。だから娘はしゃべる必要はない。

趣味の問題

Une Affaire de Gout
2000年,フランス,90分
監督:ベルナール・ラップ
原作:フィリップ・バラン
脚本:ベルナール・ラップ
撮影:ジェラール・ド・バティスタ
音楽:ジャン=ピエール・グード
出演:ジャン=ピエール・ロリ、ベルナール・ジロー、フロランス・トマサン、シャルル・ベルリング

 レストランでウェイターのアルバイトをしていたニコラはそこの常連客で実業家のフレデリックに声をかけられ、料理の味見をし、仕事を紹介するといって名刺を貰う。後日ニコラはフレデリックに呼ばれ、彼の味見係として雇われた。
 映画はそのエピソードと、いまは刑務所に入っているらしいニコラと周囲の人々に対する弁護士の質問で構成される。
 ある種のサスペンスではあるが、実業家と味見係という馴染みのないモチーフだけに難しいが、逆に不思議なスリルもある。

 結局何なんだ…
 ニコラの人格が刻一刻と換わっていくのはわかるし、それが不自然ではない形で示されているので、すんなりと物語自体には入っていけるのだけれど、結局なにがどうなっているのかわからない。ただ単にフレデリックがそもそも狂っていただけなのか、ただのサディストなのか… ただなんとなく怖い感じ。しかし、その怖い感じはわれわれの視点はニコラの友達の側にある場合に起きるわけで、ニコラやフレデリックの立場に立つと怖さはなくなってしまう。フレデリックはわけがわからないので、入り込めず、ニコラに入り込むのも難しく、結局中途半端な位置で映画と対峙しなければならなくなってしまう。そのあたりがこの映画のなじみにくいところなのでしょう。
 そう、なんだか釈然としない作品。ニコラがフレデリックを殺したという結末は映画半ばくらいで予想出来てしまうわけだし… いまひとつ釈然としないわけです。

男性・女性

Masculin Feminin
1965年,フランス=スウェーデン,104分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ギイ・ド・モーパッサン
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ウィリー・クラン
音楽:フランシス・レイ
出演:ジャン=ピエール・レオ、シャルタン・ゴヤ、マルレーヌ・ジョベール、ブリジット・バルドー

 ポールとマドレーヌはカフェで出会う。マドレーヌは友達のエリザベートと同居しながら、歌手になろうとしていた。ポールは兵役から帰ってきて雑誌社に職を見つけた。ポールはマドレーヌを盛んに口説こうとするがマドレーヌはなかなかそれに応じない。
 ポールとマドレーヌとの恋愛を中心に、60年代の若者たちを描いた作品。ゴダールはモーパッサンの短編『ポールの妻』と『微笑』に触発されてこの作品を撮ったらしい。

 一見素直な作品だが、非常に奇妙というか不思議な作品。恋愛とその友人たちとの関係といった部分はとてもわかりやすいが、それ以外の部分がかなり不思議。そして、その周縁の部分こそがゴダールが描きたかったもののような気がする。とにかくやたらと人が死ぬ。しかし死ぬ場面自体は出てこない。ガソリンを体に浴びて焼身自殺したり、いきなりナイフで自分を刺したり、何ナノこれは?  とどうしても思ってしまう。
 そして、『中国女』と共通する社会主義への関心、ポールのやっている「世論調査」なるもの。などなど、謎は山積み。
 しかし、ポールの友人のロベールが労働運動とマルクス主義に傾倒しているところはなんとなく「中国女」の雛形という感じがする。主人公のグループが5人というのも共通しているし、歌が印象的に使われているというのもあるし…
 といってみたものの、ちっとも分析にはなっていません。なんとなくの感じを書いてみただけです。やっぱりゴダールってのは入りやすくて、見ているとその世界にすっと入り込めて、でもその意味は一向にわからないという感じの作家であることを再確認するにとどまったというところでしょうか。

汚れた血

Mouvais Sang
1986年,フランス,125分
監督:レオス・カラックス
脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ベンジャミン・ブリテン、セルゲイ・プロコフィエフ、シャルル・アズナヴール、デヴィッド・ボウイ、セルジュ・レジアニ
出演:ミシェル・ピッコリ、ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ、ジュリー・デルピー

 ハレー彗星の影響で異常気象に見舞われるパリ、マルクはメトロで自殺した仲間のジャンの死を怪しみ、「アメリカ女」がやったのではないかと疑う。しかし、マルクは「アメリカ女」への借金を返さねばならず、そのためには製薬会社に忍び込む必要があった。彼はジャンと同じく手先が器用なジャンの息子アレックスを誘おうと考えた。
 「ポンヌフの恋人」「ポーラX」のレオス・カラックスが世界的認知を得た作品。徹底的に作りこまれた映像美と難解な物語が独特の世界を作り出す。

 確かにこの作品はすごいんですが、あまり「すごい、すごい」と言われすぎている気もするので、へそ曲がりな私としてはちょっと文句をつけてみたくなるわけです。
 最初のあたりはかなりゴダールの影響を感じさせるモンタージュで始まり、しかし、アップの多用や普通のギャング映画のような物語が進行しそうで、「ちょっと違うのかな」と思わせる。この最初のシーンはかなりいい。年寄りばかりで構成したのも非常に面白い。
 次のシーンもなかなかいい。  しかし、その後映画が進むにつれ、物語としては魅力を失っていき、映像も「作り込み」が目に余るようになってくる。特に気になったのは映像で、新しいことをやろうという気持ちも、なにをやりたいのかもわかるし、確かに面白い構図なのだけれど、作りこみすぎて「自然さ」が失われてしまっているように見える。それは構図を守るために動きを奪われてしまったことからくるのだろう。たとえば、アナのアップの後ろでアレックスが動いているシーンがあって、最初は奥のアレックスにピントがあっていて、画面の3分の2を占めるアナはぼやけている。それが、突然ピントが切り替えられるのだけれど、そのためにアレックスの動きが非常に制限されてしまっている。その「構図のために人を動かしている」っていうのが、どうもね、気に入らないというか、そっちに目がいっちゃって映画の中に入り込みきれないというか、そんな居心地の悪さがあるんですね。
 とはいってもやはり、いい映画ではある。アレックスがデヴィッド・ボウイにのって疾走するシーンなどなどいいシーンはたくさんあるし、この監督はなんといっても女優の使い方がうまい。当時ほとんど無名だったジュリー・デルピーをうまく使っている。
 いわゆる「アート系」と呼ばれる映画だと思うんですが、その中でもかなり時代の先を行っていたのだなと感じるわけです。この映画にいたく感動する人の気持ちもわかります。
 私にはそこまでの真面目さがないということなのかな?

死刑台のエレベーター

Ascenseur puur l’Echaaud
1957年,フランス,92分
監督:ルイ・マル
原作:ノエル・カレフ
脚本:ロジェ・ニミエ、ルイ・マル
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:マイルス・デイヴィス
出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、ジョルジュ・ブージュリー、リノ・ヴァンチュラ、ジャン=クロード・ブリアリ、シャルル・デネ

 石油会社に勤める元将校のジュリアンは会社の社長を自殺に見せかけて殺し、女と逃げる計画を立てていた。無事殺しは成功し、会社を出たが、殺人に使ったロープを忘れてきたことに気づき会社に戻る。しかし、エレベーターに乗ったとたん守衛がビルの電源を落とし、ジュリアンはエレベータの中に閉じ込められてしまった。
 ヌーヴェル・ヴァーグの担い手の一人ルイ・マルの実質的な監督デビュー作。おかしなところも多いが、映画的魅力にあふれたサスペンス映画になっている。

 細かいところを言っていけば本当におかしなところが多い。夜中町を歩いてずぶ濡れになったはずのフロランスが次のシーンでバーに入るとすっかり乾いて、髪の毛もセットしなおされているとか、なぜみんながみんなキーを着けたまま車を置きっぱなしにするのかとか。
 それはさておいて、映画としてはかなりいい。特にすきなのは、フロランスが途方にくれて町を歩くシーン、最初真横からフロランスを捉えて、後ろに映る街の人がなぜかみんなフロランスのほうをじっと見る、その後、正面から捕らえて、道路を渡るフロランスの前後を車がきれいに通過していく。非現実的なのだけれど、非常に美しくて魅力的なシーンだ。もうひとつは取調室のシーン。妙に暗くて、ジュリアンの周りだけが白く浮き上がっているその空間の感じが非常にいい。部屋の壁とか、扉とか天井とかそんなものは一切映っていない、舞台上のセットのような空間がたまらなく美しい。
 あとはやはりマイルス・デイヴィスの音楽。フロランスが町を歩くシーンではマイルスのトランペットが鳴り響くが、それはまさに今でいえばミュージック・ビデオのような詩的映像になっている。
 プロットのオーソッドックスさや、細部の稚拙さを差し引いても映画として十分に魅力的な映画。あるひ突然もう一度見てみたくなる作品。

中国女

La Chinoise
1967年,フランス,103分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:クロード・シャンヌ
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、フランシス・シャンソン、ミシェル・セメニアコ、レクス・デ・ブロイン

 毛沢東主義(マオイズム)をテーマにしたゴダール流革命映画。
 相変わらず、人物や場面の設定が明らかにならないまま映画は進行して行くが、とりあえずわかるのは、毛沢東主義を信奉している5人の若者が共同生活をし、それを映画として記録しているということ。しかしこれが映画の映画なのか、どこまでが現実なのか、それはわからないまま映画は進む。
 マルクス主義・共産主義・フランスの政治に詳しくないと意味のわからない用語がたくさん出てくるので、あまりに知らないと苦しいが、マルクス主義思想なんかを少々かじっていればなんとなく意味はわかるはず(それは私)。
 しかし、そこはゴダール。もちろん思想面を伝えることが第一義なのだろうが、ゴダール映画らしい映像感覚とサウンドは相変わらず素晴らしい。とにかく見てみて、うんうんうなずくもよし、わけがわからんと投げ出すもよし、ゴダール的世界を味わうもよし。

 とにかく、設定がわからないのだけれど、「何なんだこれは?」と眉間に皺を寄せながら最後まで見きってしまった。という感じ。最後まで見れば、なんとなく設定はわかるのだけれど、映画の撮影クルーの位置付けがなかなかわからない。おそらく、ゴダールたち自身でもあり、劇中人物でもあるという微妙な立場にいるのだろうとおもうが、果たしてどうか。
 毛沢東主義との兼ね合いもあり、難解と言われがちなこの映画ですが、見てみると意外と見やすい。わけがわからないと言えばわけがわからないのだけれど、ゴダールの映画は見始める時点ですべてを理解しようなどという構えは捨ててしまっているので、理解できなくてもそれは心地よいわからなさと言ってしまえるような感覚。(負け惜しみではないよ)
 最近、ゴダールの映画を見て思うのは、こういう天才的な感性を持つ人の映画は理解するのではなく、流し込むのだってこと。頭を空っぽにして感性そのものを流し込む。そうすると、1時間半の間は自分も天才になったような気になる。そんな感覚で見るゴダール。いいですよなかなか。

 ここまでが1回目のレビュー。今回ある程度、展開を把握してみたところ、実のところ彼らの若者らしい先走り感が映画の全編にあふれており、映画を撮っている男達はそれを冷淡に見つめているという関係性があるような気がしてきました。彼らの革命ごっこが一体どうなるのかをみつめている感じなのか… そこまではなんとなく理解しましたが、それだけ。
 あとは細部に気を引かれ、映像の構図の美しさはやはりゴダールならでは。壁際にひとりが立ってクロースアップでインタビューを受ける場面はそれぞれが違う色調で描かれており、その対比が美しい。

右側に気をつけろ

Soigne ta Droite
1987年,フランス,81分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
音楽:リタ・ミツコ
出演:ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・ペリエ、ジャック・ヴィルレ、ジェーン・バーキン

 殿下と呼ばれる映画監督と白痴の男、スタジオでレコーディングをするミュージシャンこの3つの物語が、断片として描かれて行く、非常に詩的な映画。
 ジャン=リュック・ゴダールその人が演じる「殿下」はフィルムの缶を持って「地上にひとつの場を」求めて歩き回る。
 といってみたものの、この映画にストーリーは不必要だ。挿入される空のカットや、自然や人を眺め、それを味わうことがこの映画を見るときに必要なことのすべてだ。おそらくドストエフスキーの「白痴」をモチーフにしたと考えられるこの作品は世界(地上)の無垢な美しさを求める物語なのだろう。

 理解しようとすると、かなり難しい。しかし、理解することを止めればそれなりに味わうことはできる。映画のはじめから「白痴」という言葉が表れ、ゴダール演じる男が「伯爵」と呼ばれるところから、ドストエフスキーの「白痴」がイメージされるが、さらにそのゴダール演じる伯爵は常に「白痴」を読んでいる。したがって、映画を見る側としては、この伯爵を「白痴」の主人公であるムイシュキン伯爵(公爵だったけ?)と重ね合わせてみることになる(少なくとも私は)。
 しかし、そうするともうひとりの白痴らしい男との関連性が見えなくなってくるし、レコーディングをしているしている二人との関係性もわからない。
 私の力及ばずというところでしょうか?
 そこで、理解することをあきらめただただ眺めていれば、その音(必ずしも音楽とは限らず数限りないノイズも含む)と画のコンポジションはまさにゴダールの世界で、あるいはこれこそがゴダールの世界なのだと感じられはするけれど、それは、抽象絵画を見るように曖昧な感情しか呼び覚まさない。なんとなくすごいし、なんとなく見入ってしまうんだけれど、それがいったい何なのかわからない世界、この映画にあったのはそんな世界。