生きていてよかった

1956年,日本,49分
監督:亀井文夫
撮影:黒田清巳、瀬川浩
音楽:長沢勝俊
出演:山田美津子(解説)

 1955年、原爆投下から10年を迎えた広島・長崎で「第1回原水爆禁止世界大会」が開かれた、亀井文夫はその支援運動のひとつとして、その前後の期間、広島と長崎で被爆者たちを取材し、それをドキュメンタリーとしてまとめた。
 映画は顔の4分の1ほどが崩れ落ちた女神の像からをバックにしたタイトルから始まる。これは顔にケロイドができてしまった少女たちのメタファーなのだ。一部原爆投下直後のフィルムも織り交ぜられ、原爆投下10年後の現実を余すことなく伝える。
 勅使河原宏も助監督として参加している。

 50年代に入り、亀井は基地問題についてのドキュメンタリーを次々と発表したが、それもまた戦争と人々との係わり合いについて考えるためのものであったのかもしれない。そしてこの作品も戦争と人々とのかかわりについて考えさせられる。簡単に言えば、戦争は一部の人には深い傷跡となって残り続けるけれど、他の人々には忘れ去られてしまうものだということだ。亀井の作品はその忘却に抗って、そしてさらにそもそもそのような悲劇を知らない人々に知らしめるものである。
 それを象徴的に示すのは、原爆記念館を訪れた外国人の女性の「こんなことはあってはならない」というセリフだ。このセリフを吐かせたのは、原爆によってひん曲がってしまった少女の手のレプリカであり、それが展示されることが可能になったのは、その少女の母親が周囲の冷たい視線や反対を押し切って積極的に展示しようと動いたからだ。周囲の視線や、いわれなき差別は原爆被害者たちにその傷跡を隠そうとさせる。もちろん被害者たちもそのような傷跡を治療し元に戻したいだろうが、周囲がさらにその傷に塩を塗りこむようなことをする必要はない。
 そんな当たり前のことをこの映画は再認識させる。日本で育っていれば大概見たことがあるだろう原爆被害の悲惨な写真や映像やエピソードも時間とともに忘却のかなたに追いやられてしまう。それは新たな戦争、新たな核兵器への警戒心を緩めてしまう。だからその悲惨さや苦しみをくり返し忘却の淵から取り出さねばならない。
 この映画の戦争とのかかわり方はそういうことだ。戦争という悲劇を忘却の淵から掬い上げること。それもまた映画というものが戦争とかかわる一つのやり方である。

舞台恐怖症

Stage Fright
1950年,イギリス,110分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:セルウィン・ジェプソン
脚本:ウィットフィールド・クック
撮影:ウィルキー・クーパー
音楽:レイトン・ルーカス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ジェーン・ワイマン、リチャード・トッド

 舞台俳優のジョナサンが来るまで友人のイヴに告白する。彼は愛人の女優シャーロットが夫を殺し、自分の部屋に助けを求めて駆け込んできたという。そして、その血みどろのドレスを始末しようとしているところを女中に見つかって逃げてきたのだと…
 ハリウッドに渡ったヒッチコックが、イギリスに戻り、ディートリッヒを迎えて撮った作品。おそらくハリウッドとは違うヨーロッパ的なサスペンスを作ろうと考えてのこととみえ、ドラマの仕立て方も謎解き中心の落ち着いたものになっている。

 このサスペンスの展開には賛否両論あると思います。その内容はネタがばれてしまうので言えませんが、結局のところ観客を巧妙にだますことで謎解きが難しくなっているというところがある。ひとつの「うそ」が物語の鍵になるということですね。その「うそ」が見終わったときに映画全体の緊迫感を弱めてしまうような感じになってしまう。そのような意味であまり後味がよくない、ということです。
 が、しかし、その「うそ」に全く気付かなかったわたしは、「してやられた」という気持ちで映画を見終わり、エンドクレジットの直後には「さすがヒッチコックよのお」とさわやかに思っていたのでした。だからこれはこれでいいとわたしは思うのです。後から振り返ってみると、「なんかなぁ」と思うけれど、その120分間は充実したもので、見るほうは純粋に謎解きに頭を使って、あーでもないこーでもないと考えるわけです。この作業が楽しいわけで、それで十分ということです。(だからネタばれは絶対ダメなのね)
 後はディートリッヒということになりますが、この映画のころすでに40代後半、さすがに要望の衰えは隠せません。おそらくハリウッドのライティング技術を生かし、観客の心に残るかこの映像を生かし、美しくは見えるものの、若いジョナサンが夢中になるほど美しいかというとなかなか難しいところです。若さを取り繕うせいか、表情も少し乏しい。まあ、その表情の乏しさは、男を陥れようとする「魔性の女」(ファム・ファタルというらしい)っぽさを演出していていいのですが。
 それにしても、ヒッチコックらしいと思ったのはやはりライティング、大事な場面ではライティングがその恐怖心や、同情心をあおる重要なポイントになっています。先日の『レベッカ』のときも書いた気がしますが、ヒッチコックはやはりライティングが重要なのでしょう。後は、ヒッチコック自身がどこに登場するかということも!

おぼろ駕籠

1951年,日本,93分
監督:伊藤大輔
原作:大仏二郎
脚本:依田義賢
撮影:石本秀雄
音楽:鈴木静一
出演:阪東妻三郎、田中絹代、月形龍之介、山田五十鈴、佐田啓二

 江戸時代、権勢をほしいままにし、その権力は将軍をも上回るといわれた沼田家。その下には全国各地から贈り物と請願が届き、その贈り物いかんでどうにでもなる世の中。そんな時代、沼田家に対抗する家臣の家に推され将軍の中藹になろうかというお勝が殺された。そんな話が生臭坊主夢覚和尚の耳にも届く。阪妻演じる和尚が活躍する推理時代劇。
 若い阪妻もいいけれど、わたしはむしろ年を重ねて十分に味が出てきた阪妻が好き。50歳にしてこの色気を出し、同時に笑わせることもできる芸達者振りが今阪妻を振り返って魅力的なところ。

 阪妻はもちろんいいです。たしか『狐の呉れた赤ん坊』でも描いたと思いますが、スタートは思えないほどコミカルに動く顔の表情が最高。立ち回りも、坊主であることによってコミカルなものにはやがわり。若かりしころの緊迫感漂う、颯爽とした立ち回りもいいですが、コミカルに立ち回りができるというのは得がたき才能なのでしょう。
 立ち回りといえば、この映画で印象的だったのは橋の上での立ち回り。多勢に無勢、多数の軍勢を阪妻一人で受けて立つわけですが、それを橋の上に展開させる監督の(あるいは脚本の)周到さ、いかに剣豪ばりの刀捌きを見せる和尚であっても(そして阪妻であっても)、何もない平原で多勢に無勢じゃ歯がたたない。多勢に対抗するときには細いところで一度に相手にする敵の数を減らす。これは戦いの基本であるようです。そのあたりをきっちり守るところがなかなかよい。そういえば、準之助を逃がす場面の立ち回りも一方が塀、一方が堀の細い道でした。
 映画の作りのほうの話をすれば、監督は巨匠の、そして阪妻と数多くの作品で組んでいる伊藤大輔。さすがに見事な画面構成といわざるを得ません。何度か使われる手持ちカメラでのトラックアップ、たまに出てくることで、そのシーンの緊迫感が増す。使いすぎるとうるさくなる。しかし、他のシーンからあまりに浮いていても映画にまとまりがなくなる、そのあたりのバランスをうまく取って、抜群の効果を挙げています。
 そう、監督の演出も手法もさすがという感じですが、まあ伊藤大輔ならこれくらいやってくれるさと(生意気にも)思うくらいのものです。それよりもやはり阪妻の顔。それは面白いだけではなく、その場面場面でセリフ以上のことを語る顔。伊藤大輔はさすがにそれを知ってズームアップを多く使う。そして顔から伝わる物語。そういえば、阪妻最初の登場は坊主の笠で顔を隠し、隠したままで1シーン、2シーンと進んでいました。その登場の仕方からしても、監督は阪妻の顔の魅力を十全に知っていたということでしょう。ついでに、終盤は田中絹代と、山田五十鈴の顔がクロースアップされます。阪妻には負けますが、彼女たちも女優魂をかけてかどうかはわかりませんが、懸命に顔で演技をする。
 いい顔がじっくり見れます。

モンパルナスの灯

Montparnasse 19
1958年,フランス,108分
監督:ジャック・ベッケル
原作:ミシェル・ジョルジュ・ミシェル
脚本:ジャック・ベッケル
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:ポール・ミスラキ
出演:ジェラール・フィリップ、リノ・ヴァンチュラ、アヌーク・エーメ、レア・パドヴァニ

 1917年、パリ、画家のモジリアニはまったく絵が売れず、酒びたりの日々を送る。そんな彼を支えるのは女たちと隣人のズボロフスキーだけ。そんな彼がある日が学生のジャンヌとである。二人は恋に落ち、結婚を約束するが荷物を取りに家に帰ったジャンヌを待っていたのは…
 モジリアニの伝記をジャック・ベッケルが映画化。アヌーク・エーメの美しさ、ジェラール・フィリップのはかなさ。リノ・ヴェンチュラの不敵さ。伝記映画の傑作のひとつ。

 いかにもアル中というていの(悪く言えば型どおりすぎる演技の)ジェラール・フィリップをカメラがすっと捉えると、こちらもすっと映画に入ってしまうのは何故か? ジェラール・フィリップはあまりにはかなく、不運の画家を演じるのにうってつけすぎる。水のように赤ワインを飲み干すその大げさにゆがめた口元の演技の過剰さがむしろ自然に見えるのは何故か。物語はつらつらと進み、われわれはモジリアニを観察する。映像もそのあたりでは遠目のショットで捕らえることが多い。しかし、ジャンヌとで会ったあたりから、カメラは劇的に登場人物たちに近づき、われわれを彼らの視点に引き寄せる。
 そこから、ジャック・ベッケルの演出力とクリスチャン・マトラのカメラは見ている側の観客への感情移入を促すことに専念する。ただひたすら悲惨な境遇のふたり。どうしようもなかった男が愛に誠実に生きるようになる過程。そしてそれを納得させるアヌーク・エーメの美しさ。このメロドラマは周到に結末に向かってわれわれを物語の中に引き込んでいく。そこで登場する不敵な悪役。悪役のわかりやすすぎるキャラクターもすでにメロドラマに引き込まれているわれわれには違和感を与えない。かくして舞台はそろい、役者もそろい、ハッピーエンドに終わってくれという期待を高めながらわれわれはひたすらメロドラマに巻き込まれる。
 ジャック・ベッケルはこのように観客を映画に巻き込んでいく技術に長けている。それはあるときはメロドラマであり、あるときはサスペンスであるけれど、観客をひとつの視点・ひとつの立場に引き込み、結末に向かって突き進ませる力。それがジャック・ベッケルの映画にはある。この映画はそのジャック・ベッケルの演出力がうまく伝記という難しい題材を救った。
 私は伝記映画というのをあまり信用していないのですが、この映画はかなりのモノ。それにしてもこの話がどれくらい実話なのかというのは気になりますね。これがすべて事実だとしたら、モジリアニの人生(の最期)はあまりに劇的で、あまりにメロドラマ過ぎる。しかし、それでも本当だったのだろうと信じさせるものがこの映画にはあります。

赤線地帯

1956年,日本,86分
監督:溝口健二
原作:芝木好子
脚本:成沢昌茂
撮影:宮川一夫
音楽:黛敏郎
出演:京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子、沢村貞子

 売春防止法が制定されるか否かという時期の吉原。その売春宿の一軒「夢の里」で働く売春婦たちの生活を描いた群像劇、店一番の売れっ子、結核の夫と子供を抱え通いで働く女、子供を養うために働く女、などなどそれぞれの物語が語られる。
 若尾文子、京マチ子など豪華な女優人に加えて、カメラは宮川一夫。助監督には増村保造というそうそうたる面々をそろえた作品。

 物語のほとんどを占めるのは売春婦たちの単純な生活。それぞれにドラマがあるけれど、行き着く先がわからないまま流れていく物語。それは行き着く先を思い描けない売春婦たちの人生と呼応するものだろう。ただその日その日の一喜一憂だけがそこには存在しているように見える。
 それをしっかりとらえるのはいつものように見事な宮川一夫のカメラだが、この作品では必ずしもどっしりと構えているわけではない。いつもの固定、ローアングルのショットは見事で、物語の前半ではカメラもそのようにどっしりと構えている。しかし物語が動いてくるにつれ、カメラも動いたり、俯瞰で撮ったりと自由になる。
 物語とカメラの両方が劇的に動き出すのは、映画もかなり終盤に入ったあたりで、そこまではなんとなくまとまりのないばらばらの物語の集合という印象だったものが急激にまとまってくる。それはおそらく最後の10分とか15分くらいのものだけれど、そのあたりは本当に食い入るように画面に見入ってしまう。これは今言ったカメラもさることながら、溝口のそこへの話のもっていき方に尽きるのだろう。ただ淡々と過ごしているように見えていた売春婦たちが、そこにかかえていたさまざまなもの。それが怒涛のように噴出してくるその最後の10分か15分は本当にすごい。しかもその怒涛のように噴出す、一人の人間にとって重要なはずのことごともそれまでの日常生活と同じように描いてしまうのが溝口だ。溝口は数々の事件もそれまでの日常生活と同じ淡白さで捕らえ、彼女たちの感情の噴出をことさらに表現しようとはしない。彼女たちの心に呼応するように動くのは宮川のカメラだけだ。そしてそのカメラも激しい彼女たちに擦り寄るのではなく、逆に遠ざかることによって表現しようとする。
 その控えめな描き方がまさに溝口らしさといえるだろう。廊下で倒れた若尾文子の顔を映すことなく、すっと画面転換してしまう。それがまさに溝口健二というものなのかもしれない。

昼下りの情事

Love in the Afternoon
1957年,アメリカ,134分
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー
撮影:ウィリアム・C・メラー
音楽:フランツ・ワックスマン
出演:オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー、モーリス・シャヴァリエ

 パリで浮気調査をする私立探偵のシャヴァス、旅先から戻ってきた夫に結果を報告すると、夫はその相手の男を殺そうとピストルを持って出て行く。それを聞いていた私立探偵の娘アリアンヌは殺されそうな男フラナガン氏の身を案じ、ホテルや警察に電話するがとりあってくれない。そこで直接ホテルに行くことにするが…
 パリを舞台に繰り広げられるオードリー&ワイルダーのラブ・コメディ。オーソドックスな作りながら、オードリーの魅力が際立つ一作。

 なんといってもオードリー。そもそもオードリーなので、画面にいればそれだけで華やかなのだけれど、この映画はその輝きがさらにいっそう増している感じ。そのあたりがワイルダーのうまさなのか。ワイルダーは職人的にオードリーの魅力を引き出していく。
 まずチェリストという設定がとてもよい。細身のオードリーに大きなチェロケースを持たせる。そしてチェリストといえば、ロングスカートかパンツルック。特にパンツのスタイルがとても新鮮でいい。ショートカットにパンツルック。なるほどね。
 というわけでどこを切ってもオードリーなわけですよ。あとは脇役のミシェルと「夫」と楽団がなかなかいいキャラクターで、この脇役たちによって物語全体が面白くなっているという気はしますが、それもやはり結局はオードリーに行き着くわけです。
 そして、オードリーで一番すごいと思うのはやはりその表情。フラナガン氏と会っているとき、気丈なふりをして話すその表情。そして、大きな目からは心の中の呟きがこぼれ落ちそう。
 というわけで、2時間強の間私の目にはオードリーしか入ってこず、映画の感想といわれてもオードリーのことしかかけないわけです。オードリーがすばらしいのか、ワイルダーがうまいのか。両方だとは思いますが、ワイルダーの役者の生かし方のうまさは今で言えばソダーバーグに通じるものがあると思います。念入りに舞台装置を組み立てて、いかに役者を生かすかということを常に考えている。そんな気がします。それが一番端的に出ているのはこの映画ではチェロだと思いますね。

 あと興味を魅かれるところといえば、パリの風景。フラナガン氏が滞在しているのがリッツホテルの14号室で、映画もそのリッツホテルを覗き込むシャヴァスのモノローグから始まり、リッツホテルを中心に展開されるといってもいい。今から見れば少し昔のパリの風景は、いまも「憧れ」の対象であるのだと思った。

まらそん侍

1956年,日本,90分
監督:森一生
原作:伊場春部
脚本:八木隆一郎
撮影:本多省三
音楽:鈴木静一
出演:勝新太郎、夏目俊二、大泉滉、嵯峨三智子、トニー谷

 安中藩はでは年に一度「遠足(とおあし)」という今で言うまらそん大会が開かれる。その大会の各部門で優勝したものには藩の宝である純金の煙管で煙草を賜ることができた。ある年の優勝者に名を連ねた和馬と一之輔は親友でライバル。藩校に入学した2人は、東京から帰ってきた筆頭家老の娘千鶴に恋をする。
 スター勝新太郎がまだ若いころ主演したコメディ映画。脇にはトニー谷らコメディアンが並び、わかりやすい娯楽作品にしている。

 なんですかねえ、勝新がこんな映画に出ているのはなかなか見れない。結局のところこれは時代劇でもなんでもなく、普通のコメディ映画にちょんまげをかぶせただけでしょう。トニー谷がそろばんはじいているのは愛嬌にしても、トニー谷も大泉滉も動きが面白い。特にマラソンシーンの大泉滉のふざけ方はどうなんだろう? あんなへろへろ走って一位になれるはずがない。とは思いますが、その辺の厳密さをまったく求めていないところがまたいいとところ。かなりいい加減な映画です。いい加減なところを上げていくと本当にキリがなくなるのでやめますが、たとえば五貫目(約20キロ)あるキセルをひょいと持ち上げるお嬢さんなんかいやしない。
 まあまあ、コメディとしては面白いです。トニー谷と盗賊の姉御が掛け合いで唄を歌うところなんかは当時のコメディならではの味がある笑いだと思います。今では絶対に作れない。謡曲風で今見ると違和感はありますが、それはそれで結構面白いもの。トニー谷というひとはかなり芸達者だったのだと思ったりもします。
 コメディというのはやはり昔から軽く見られていたのでしょう。たくさん作られていたはずなのに、今見られるものは非常に少ない。フィルムは結構残っていますが、ビデオなんかになって簡単に借りられるものはあまりないと思います。そんな中この作品は勝新が主演だというせいではありますが、ちゃんとビデオになっている希少な作品です。
 昭和30年代の日本映画黄金時代を見るならば、見ておいて損はない作品かと思います。これだけ低予算な映画というのもなかなか見られません。それは勝新がまだ若かったころだから。立ち回りもなんだか勢いがなく、肝心の純金の煙管も白黒で見ても明らかにしょぼい。こう安いと衣装なんかも他の映画の使いまわしなんじゃないかと考えてしまいます。まあ、それはそれでいいのです。

祇園囃子

1953年,日本,85分
監督:溝口健二
原作:川口松太郎
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:斎藤一郎
出演:木暮実千代、若尾文子、河津清三郎、斎藤英太郎、浪速千栄子

 芸者の娘栄子は、母を亡くし、叔父に邪険にされ、零落した父親を頼ることもできず、母の昔の仲間を頼って祇園にやってきた。一軒の館を構える芸者美代春は保証人のなり手もない栄子を芸者として仕込むことに決めた。一年あまりの稽古を終え、美代春の妹美代栄としてはれて舞妓になった栄子だったが、その世界ははたから見るほどきれいなものではなかった…
 溝口、宮川に脂の乗り切った木暮美千代、そして出演2作目で若々しい若尾文子と役者はすっかりそろい、駄作が生まれるはずもない。

 溝口の「間」。この映画の前半、溝口はふんだんに「間」をとる。ひとつのシーンの始まりや終わりで、シーン自体とは無関係なものや人を映す。わかりやすいのはシーン頭に何度かあるカメラの前を通過する人々だろう。最初のシーンでもまず目を引くのは物売りの女。しかしこの女は物語とは関係がない。その後シーンの頭でカメラの前を人や自転車が通過する。その後本来の登場人物がフレームに入ってくるという構成がとられる。この「間」がゆったりとした映画の流れを作る。しかし映画の後半になるとこの「間」ははぶかれ、物語はテンポを持って展開してゆくようになる。シーンとシーンの間に挟まれるのはせいぜいフェードアウト程度だ。
 話を戻して、この「間」を作り出しているのは、完全な固定カメラの映像。舞台に登場人物が入ってくることからシーンが始まることが多い演出。この固定カメラというのは、もちろん宮川一夫の得意の範疇だ。低目から固定カメラで丹念にひとつのカットを作り上げる。舞台の奥で展開される主な物語に対して前景で演じられる遊び。美代春が生活に困窮しているあたりの場面で、薄暗い屋敷の中で、しかし前景の右端に大きく過敏に生けられた花が写っていた場面が非常に印象的でった。いくら困窮していても芸者であるからには華やかさを失ってはいけないという気持ち。その奥で起こっている出来事はその華やかさとは無縁のつらい物語なのだけれど、その花があるだけでそのシーンの印象は大きく変わった。
 溝口としては、戦後の様変わりした日本で、彼が愛した(と思う)祇園の町がどう変わっていくのかを描きたかったのだろう。完全に古い風習の上に立っている町と新しい日本とのかかわり方は確かに面白い話だ。復興に頭を取られる人たちは祇園のことなど忘れ、それが廃れようとどうしようとかまいはしないだろうけれど、依然そこには生きている人たちがいて、生きている風習がある。そのことを溝口は忘れずに考えていた。祇園のお茶の先生の「外国人はフジヤマ、ゲイシャとばかり言う」という台詞は今も生きている。そして、祇園は多くの外国人が訪れる観光地になる。祇園が祇園であり続ける姿をとろうと考えた溝口は懐古趣味のようでいて、実は先見の明があったのかもしれない。

輪舞

La Ronde
1950年,フランス,97分
監督:マックス・オフェルス
原作:アルトゥール・シュニッツラー
脚本:マックス・オフェルス、ジャック・ナタンソン
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:オスカー・ストラウス
出演:ダニエラ・ジェラン、シモーヌ・シニョレ、ダニエル・ダリュー、アントン・ウォルブルック、ジェラール・フィリップ

 舞台に登場する一人の男。この男を狂言まわしとして、いくつものラヴ・ストーリーを描く。ひとつのエピソードの男女のどちらかが、べつの相手と繰り広げるラヴ・ストーリーを描くことで、物語を連鎖的に展開してゆく。狂言まわしの男の存在がなかなか面白い。
 フランス映画がフランス映画であったころの典型的な作品であり、名作である。凝ったつくりに、しゃれたセリフ、オフェルスの演出力もさすが。

 狂言まわしの男が一人語りをする最初のシーン、この長い長い1カットのシーンはなかなかの見所。一つ目のエピソードの冒頭まで完全に1カットで撮り切っている。おそらく5分くらいのカットで感じるのは、書割の風景のリアルさとタイミングの難しさ。このような作り手の側に属する部分を見せてしまうのが、この映画の一つの狙いなのだろう。だから、照明機材なんかをわざわざ映したりする。
 内容のほうはといえば、一つ一つのエピソードがそれぞおれそれなりに面白いのだけれども、エピソード間のつながり方が完全に定型化してしまっているので、後ろに行くほどマンネリ化してしまう気がする。
 狂言回しの男の存在の仕方はなかなか面白い。映画の中の物語に対して、映画に外にいるという立場がはっきりしていて、映画の中で彼自身が言っていたよう、神出鬼没である。しかし、映画の登場人物たちに対して全能なわけではないので、なんとなくコミカルな存在でいることができる。
 最初のシーンに限らず、カメラの動きもなんだかすごい。すごいなーとは思うんですが、個人的にあまり好きなタイプの映画ではなかったのでした(私見)。

1957年,日本,103分
監督:市川崑
脚本:久里子亭
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:京マチ子、船越英二、山村聡、菅原謙二、石原慎太郎

 文芸誌に自分の汚職記事が載ったと憤慨した猿丸刑事はその出版社に殴りこむ。編集長に詰め寄ると、当のライター北長子はすでにクビになったとだった。クビになった北長子は自殺しようと遺書をしたためるがそこにやってきた隣人の赤羽にしばらくの間行方不明になって、そのルポを書くという提案をされ、そのアイデアを売り込みに出版社に行くことにした。
 市川崑らしいスピード感あふれるサスペンス・コメディ。

 なんとなく見て安心という感じ。1950年代後半から60年代と口をすっぱくして言っていますが、その昭和30年代的なもののひとつの典型。スピード感とモダンさと途中ではいる脈略にあまり関係のない唄といろいろな要素がそう思わせます。
 この映画は京マチ子がいいですね。船越英二はいつもどおりおんなったらしな感じの役でいいですが、京マチ子はこういうアクティヴな役のほうがいいのかもしれません。変装と言えるのかわからないような変な変装もかなりいい。水商売ふうの女はまだしも田舎娘の格好は似合いすぎていて怖いです。眉毛がやけに太くなっているのもいい。眉毛といえば、菅原謙二もある意味相当な変装です。
 当時の2500万というのはどれくらいだったのか… それで銀行が買収できてしまうくらいの金額ということは、相当な金額のような気はしますが、本当にそんな額なのかという気もします。そもそも、支店長風情が急に銀行の大株主になったら怪しまれんじゃないの? という疑問もつきません。まあ、そんな細かいことはどうでもよろしい。
 京マチ子の話でした。京マチ子は美人なんだか美人じゃないんだかよくわからない女優さんですね。『女の一生』(増村)などでは、どうもその不美人振りが目立つのですが、基本的には『雨月物語』(溝口)や『千羽鶴』(増村)などの魔性の女っぽさというのが基本的なキャラクターなのかもしれません。そもそも若いころには『痴人の愛』(木村恵吾)ではナオミをやっていた。そして『黒蜥蜴』(井上梅次)も忘れられません。若尾文子や山本富士子のように看板美人女優ではないけれど、非常に個性的なところがいいのでしょう。しかも映画の中では美人といわれることが多いのも不思議。
 ついでに京マチ子の話を続けましょう。『寅さん』にも出ているらしい。見たことないんですが、マドンナなの? 後は、おととしかな、大河ドラマにでたらしい(これも見ていませんが…)。80年代以降ほとんど映画にも出ていなかったのですが、どうなっているのかしら…
 ということで、今日は京マチ子に注目してみました。